これは、大工、
大勝のおかみさんから聞いた話である。
牛込築土前の、此の大勝棟梁のうちへ出入りをする、
一寸使へる、
岩次と云つて、女房持、
小児の二人あるのが居た。飲む、買ふ、
摶つ、道楽は
少もないが、たゞ性来の釣好きであつた。
またそれだけに釣がうまい。
素人にはむづかしいといふ、鰻釣の
糸捌きは中でも得意で、一晩出掛けると、湿地で
蚯蚓を
穿るほど一かゞりにあげて来る。
「棟梁、二百目が三ぼんだ。」
大勝の台所口へのらりと投込むなぞは珍しくなかつた。
が、女房は、まだ若いのに、後生願ひで、おそろしく岩さんの殺生を気にして居た。
霜月の末頃である。一晩、陽気違ひの生暖い風が吹いて、むつと雲が蒸して、火鉢の
傍だと
半纏は脱ぎたいまでに、
悪汗が
浸むやうな、其暮方だつた。岩さんが仕事場から
||行願寺内にあつた、
||路次うらの長屋へ帰つて来ると、何か、ものにそゝられたやうに、
頻に気の
急く様子で、いつもの銭湯にも行かず、ざく/″\と茶漬で済まして、一寸友だちの
許へ、と云つて家を出た。
留守には風が吹募る。戸障子ががた/\鳴る。引窓がばた/\と暗い口を
開く。空模様は、その
癖、星が
晃々して、澄切つて居ながら、風は尋常ならず乱れて、時々むく/\と古綿を積んだ灰色の雲が湧上がる。とぽつりと降る。降るかと思ふと、
颯と又
暴びた風で吹払ふ。
次第に夜が更けるに従つて、何時か真暗に凄くなつた。
女房は、幾度も戸口へ立つた。路地を、行願寺の門の外までも出て、
通の前後を
瞰した。人通りも、もうなくなる。
······釣には行つても、めつたにあけた事のない男だから、余計に気に懸けて帰りを待つのに。
||小児たちが、また悪く
暖いので寝苦しいか、変に二人とも寝そびれて、
踏脱ぐ、泣き出す、着せかける、
賺す。で、女房は一夜まんじりともせず、
烏の声を聞いたさうである。
然まで案ずる事はあるまい。
交際のありがちな稼業の事、途中で友だちに誘はれて、新宿あたりへぐれたのだ、と
然う思へば済むのであるから。
言ふまでもなく、宵のうちは、いつもの釣りだと察して居た。内から棹なんぞ
······鈎も糸も忍ばしては出なかつたが
||それは女房が
頻に殺生を留める処から、つい面倒さに、近所の車屋、床屋などに預けて置いて、そこから内證で支度して、道具を持つて出掛ける事も、女房が薄々知つて居たのである。
処が、一夜あけて、昼に成つても帰らない。不断そんなしだらでない岩さんだけに、女房は人一倍心配し出した。
さあ、気に成ると心配は胸へ滝の落ちるやうで、
||帯引占めて夫の
······といふ
急き心で、昨夜待ち明した寝みだれ髪を、
黄楊の
鬢櫛で掻き上げながら、その
大勝のうちはもとより、慌だしく、方々心当りを探し廻つた。が、
何処にも居ないし、誰も知らぬ。
やがて日の
暮るまで尋ねあぐんで、
||夜あかしの
茶飯あんかけの出る時刻
||神楽坂下、あの牛込見附で、顔馴染だつた茶飯屋に聞くと、
其処で
······覚束ないながら一寸心当りが着いたのである。
「岩さんは、
······然うですね、
||昨夜十二時頃でもございましたらうか、一人で来なすつて
||とう/\降り出しやがつた。こいつは
大降りに成らなけりやいゝがッて、空を見ながら、おかはりをなすつたけ。ポツリ/\降つたばかり。すぐに降りやんだものですから、
可塩梅だ、と然う云つてね、また、お前さん、すた/\駆出して行きなすつたよ。
······へい、えゝ、お一人。
||他にや其の時お友達は誰も居ずさ。
||変に陰気で不気味な晩でございました。ちやうど来なすつた時、目白の九つを聞きましたが、いつもの八つごろほど
寂莫して、びゆう/\風ばかりさ、おかみさん。」
せめても、
此だけを心遣りに、女房は、
小児たちに、まだ晩の御飯にもしなかつたので、
阪を駆け上がるやうにして、急いで行願寺内へ帰ると、路次口に、四つになる女の児と、五つの男の児と、
廂合の星の影に立つて居た。
顔を見るなり、女房が、
「
父さんは帰つたかい。」
と笑顔して、いそ/\して、優しく云つた。
||何が
什うしても、「帰つた。」と言はせるやうにして聞いたのである。
不可い。
······「うゝん、帰りやしない。」
「帰らないわ。」
と女の児が拗ねでもしたやうに言つた。
男の児が袖を引いて
「
父さんは帰らないけれどね、いつものね、
鰻が居るんだよ。」
「えゝ、え。」
「大きな長い、お鰻よ。」
「こんなだぜ、おつかあ。」
「あれ、およし、
魚尺は取るもんぢやない
||何処にさ
······そして?」
と云ふ、胸の滝は切れ、唾が乾いた。
「台所の手桶に居る。」
「誰が持つて来たの、
||魚屋さん?
······え、坊や。」
「うゝん、誰だか知らない。手桶の中に
充満になつて、のたくつてるから、それだから、
遁げると
不可いから
蓋をしたんだ。」
「あの、二人で石をのつけたの、
······お
石塔のやうな。」
「何だねえ、まあ、お前たちは
······」
と叱る女房の声は震へた。
「行つてお見よ。」
「お見なちやいよ。」
「あゝ、見るから、見るからね、さあ
一所においで。」
「
私たちは、
父さんを待つてるよ。」
「出て見まちよう。」
と手を引合つて、もつれるやうに、ばら/″\寺の門へ駈けながら、
卵塔場を、
灯の夜の影に揃つて、かあいゝ顔で振返つて、
「おつかあ、鰻を見ても触つちや
不可いよ。」
「触るとなくなりますよ。」
と云ひすてに走つて出た。
女房は暗がりの路次に足を
引れ、穴へ掴込まれるやうに、頸から、肩から、ちり毛もと、ぞッと氷るばかり寒くなつた。
あかりのついた、お附合の隣の窓から、岩さんの安否を聞かうとしでもしたのであらう。格子をあけた
婦があつたが、何にも女房には聞こえない。
······ 肩を固く、足がふるへて、その左側の
家の水口へ。
······ ······行くと、
腰障子の、すぐ中で、ばちや/\、ばちやり、ばちや/\と音がする。
······ 手もしびれたか、きゆつと軌む
······水口を開けると、茶の間も、
框も、だゝつ広く、大きな穴を四角に並べて
陰気である。引窓に射す、何の影か、薄あかりに一目見ると、唇がひッつゝた。
······何うして
小児の手で、と疑ふばかり、大きな沢庵石が手桶の上に、づしんと乗つて、あだ黒く、一つくびれて、ぼうと浮いて、
可厭なものゝ形に見えた。
くわッと
逆上せて、
小腕に
引ずり
退けると、水を
刎ねて、ばちや/\と鳴つた。
もの音もきこえない。
蓋を向うへはづすと、水も溢れるまで、手桶の中に輪をぬめらせた、鰻が
一條、唯一條であつた。のろ/\と
畝つて、尖つた頭を
恁うあげて、女房の蒼白い顔を
熟と視た。
||と言ふのである。
◇
山東京伝が小説を書く時には、寝る事も食事をする事も忘れて熱心に書き続けたものだが、新しい小説の構造が頭に浮んでくると、真夜中にでも飛び起きて机に向つた。
そして興が深くなつて行くと、便所へ行く間も惜しいので、便器を机の
傍に置いてゐたといふ事である。