*
旧暦の六月二十四日の晩でした。
北上川の水は黒の寒天よりももっとなめらかにすべり
獅子鼻は
微かな星のあかりの底にまっくろに
突き出ていました。
獅子鼻の上の
松林は、もちろんもちろん、まっ黒でしたがそれでも林の中に入って行きますと、その
脚の長い松の木の高い
梢が、一本一本空の
天の
川や、星座にすかし出されて見えていました。
松かさだか鳥だかわからない黒いものがたくさんその梢にとまっているようでした。
そして林の底の
萱の葉は夏の夜の
雫をもうポトポト落して
居りました。
その松林のずうっとずうっと高い
処で
誰かゴホゴホ唱えています。
「
爾の時に
疾翔大力、
爾迦夷に告げて
曰く、
諦に
聴け、諦に聴け、
善くこれを思念せよ、我今
汝に、
梟鵄諸の
悪禽、
離苦解脱の道を述べん、と。
爾迦夷、
則ち、
両翼を開張し、
虔しく
頸を垂れて、座を
離れ、低く
飛揚して、疾翔大力を
讃嘆すること
三匝にして、
徐に座に復し、
拝跪して
唯願うらく、疾翔大力、疾翔大力、ただ我
等が
為に、これを説きたまえ。ただ我等が為に、これを説き
給えと。
疾翔大力、
微笑して、
金色の円光を
以て
頭に
被れるに、その光、
遍く一座を照し、諸鳥
歓喜充満せり。則ち説いて曰く、
汝等審に諸の
悪業を作る。
或は
夜陰を以て、
小禽の家に至る。時に小禽、
既に終日日光に浴し、
歌唄跳躍して
疲労をなし、
唯唯甘美の
睡眠中にあり。汝等飛躍してこれを
握む。
利爪深くその身に入り、
諸の小禽、痛苦
又声を発するなし。則ちこれを
裂きて
擅に
食す。或は
沼田に至り、
螺蛤を
啄む。螺蛤
軟泥中にあり、心
柔
にして、唯温水を
憶う。時に
俄に身、空中にあり、或は直ちに身を破る、
悶乱声を絶す。汝等これを

食するに、又
懺悔の念あることなし。
斯の
如きの
諸の悪業、挙げて数うるなし。悪業を以ての
故に、
更に又諸の悪業を作る。
継起して
遂に
竟ることなし。昼は則ち日光を
懼れ又人
及諸の強鳥を
恐る。心
暫くも安らかなるなし、
一度梟身を
尽して、又
新に梟身を
得、
審に諸の
苦患を
被りて、又尽ることなし。」
俄かに声が絶え、林の中はしぃんとなりました。ただかすかなかすかなすすり泣きの声が、あちこちに聞えるばかり、たしかにそれは
梟のお
経だったのです。
しばらくたって、西の遠くの方を、汽車のごうと走る音がしました。その音は、今度は東の方の
丘に
響いて、ごとんごとんとこだまをかえして来ました。
林はまたしずまりかえりました。よくよく梢をすかして見ましたら、やっぱりそれは梟でした。一
疋の大きなのは、林の中の一番高い松の木の、一番高い
枝にとまり、そのまわりの木のあちこちの枝には、大きなのや小さいのや、もうたくさんのふくろうが、じっととまってだまっていました。ほんのときどき、かすかなかすかなため息の音や、すすり泣きの声がするばかりです。
ゴホゴホ声が又起りました。
「ただ今のご
文は、
梟鵄守護章というて、
誰も存知の有り
難いお経の中の一とこじゃ。ただ今から、
暫時の間、そのご文の講釈を
致す。みなの衆、ようく心を
留めて聞かしゃれ。
折角鳥に生れて来ても、ただ腹が
空いた、取って食う、
睡くなった、巣に入るではなんの
所詮もないことじゃぞよ。それも鳥に生れてただやすやすと生きるというても、まことはただの一日とても、ただごとではないのぞよ、こちらが一日生きるには、
雀やつぐみや、たにしやみみずが、十や二十も殺されねばならぬ、ただ今のご文にあらしゃるとおりじゃ。ここの道理をよく
聴きわけて、必らずうかうか短い一生をあだにすごすではないぞよ。これからご文に入るじゃ。子供らも、こらえて睡るではないぞ。よしか。」
林の中は又しいんとなりました。さっきの汽車が、まだ遠くの遠くの方で鳴っています。
「
爾の時に
疾翔大力、
爾迦夷に告げて
曰くと、まづ疾翔大力とは、いかなるお方じゃか、それを話さなければならんじゃ。
疾翔大力と申しあげるは、
施身大菩薩のことじゃ。もと鳥の中から
菩提心を発して、
発願した大力の菩薩じゃ。疾翔とは早く飛ぶということじゃ。
捨身菩薩がもとの鳥の形に身をなして、空をお飛びになるときは、
一揚というて、一はばたきに、六千
由旬を行きなさる。そのいわれより疾翔と申さるる、大力というは、お徳によって、たとえ火の中水の中、ただこの菩薩を念ずるものは、捨身大菩薩、必らず飛び
込んで、お救いになり、その
浄明の天上にお連れなさる、その時火に入って身の毛一つも
傷かず、水に
潜って、羽、
塵ほどもぬれぬという、そのお徳をば、大力とこう申しあげるのじゃ。されば疾翔大力とは、捨身大菩薩を、鳥より申しあげる別号じゃ、まあそう申しては失礼なれど、鳥より
仰ぎ
奉る一つのあだ名じゃと、
斯う考えてよろしかろう。」
声がしばらくとぎれました。林はしいんとなりました。ただ下の北上川の
淵で、
鱒か何かのはねる音が、バチャンと聞えただけでした。
梟の、きっと
大僧正か僧正でしょう、
坊さんの講義が又はじまりました。
「さらば疾翔大力は、いかなればとて、われわれ同様
賤しい鳥の身分より、その様なる結構のお身となられたか。結構のことじゃ。ご自分も又ほかの一切のものも、本願のごとくにお救いなされることなのじゃ。さほど尊いご身分にいかなことでなられたかとなれば、なかなか容易のことではあらぬぞよ。疾翔大力さまはもとは一疋の雀でござらしゃったのじゃ。
南天竺の、ある
家の
棟に
棲まわれた。ある年非常な
饑饉が来て、米もとれねば木の実もならず、草さえ
枯れたことがござった。鳥もけものも、みな
飢え死にじゃ人もばたばた
倒れたじゃ。もう
炎天と
飢渇の
為に人にも鳥にも、親兄弟の見さかいなく、この世からなる
餓鬼道じゃ。その時疾翔大力は、まだ力ない雀でござらしゃったなれど、つくづくこれをご覧じて、世の
浅間しさはかなさに、
泪をながしていらしゃれた。中にもその家の親子二人、子はまだ六つになるならず、母親とてもその大飢渇に、どこから
食を得るでなし、もうあすあすに二人もろとも見す見す餓死を待ったのじゃ。この時、疾翔大力は、上よりこれをながめられあまりのことにしばしは
途方にくれなされたが、日ごろの恩を報ずるは、ただこの時と勇みたち、つかれた羽をうちのばし、はるか遠くの林まで、親子の
食をたずねたげな。一念天に
届いたか、ある大林のその中に、名さえも知らぬ木なれども、色もにおいもいと高き、十の木の実をお
見附けなされたじゃ。さればもはや疾翔大力は、われを忘れて、十たびその実をおのがあるじの
棟に運び、親子の上より落されたじゃ。その十たび目は、あまりの飢えと身にあまる、その実の重さにまなこもくらみ、五たび土に落ちたれど、ただ報恩の一念に、ついご自分にはその実を
啄みなさらなんだ、おもいとどいてその十番目の実を、無事に親子に届けたとき、あまりの
疲れと張りつめた心のゆるみに、ついそのままにお倒れなされたじゃ。されどもややあって正気に復し下の模様を見てあれば、いかにもその子は
勢も増し、ただいたけなく
悦んでいる
如くなれども、親はかの実も自らは口にせなんじゃ、いよいよ
餓えて倒れるようす、疾翔大力これを見て、はやこの上はこの身を以て親の
餌食とならんものと、いきなり
堅く身をちぢめ、息を殺してはりより
床へと落ちなされたのじゃ。その痛さより、身は
砕くるかと思えども、なおも命はあらしゃった。されども
慈悲もある人の、生きたと見てはとても
食べはせまいとて、息を殺し
眼をつぶっていられたじゃ。そしてとうとう願かなってその親子をば養われたじゃ。その
功徳より、疾翔大力様は、ついに仏にあわれたじゃ。そして次第に
法力を得て、やがてはさきにも申した如く、火の中に入れどもその毛一つも傷つかず、水に入れどもその羽一つぬれぬという、大力の
菩薩となられたじゃ。今このご
文は、この大菩薩が、
悪業のわれらをあわれみて、
救護の道をば説かしゃれた。その始めの方じゃ。しばらく休んで次の講座で述べるといたす。
南無疾翔大力、南無疾翔大力。
みなの衆しばらくゆるりとやすみなされ。」
いちばん高い木の黒い影が、ばたばた鳴って向うの低い木の方へ移ったようでした。やっぱりふくろうだったのです。
それと同時に、林の中は
俄かにばさばさ羽の音がしたり、
嘴のカチカチ鳴る音、低くごろごろつぶやく音などで、
一杯になりました。
天の
川が大分まわり
大熊星がチカチカまたたき、それから東の山脈の上の空はぼおっと古めかしい
黄金いろに明るくなりました。
前の汽車と停車場で
交換したのでしょうか、こんどは南の方へごとごと走る音がしました。何だか車のひびきが大へん
遅く貨物列車らしかったのです。
そのとき、黒い東の山脈の上に何かちらっと黄いろな
尖った変なかたちのものがあらわれました。
梟どもは俄にざわっとしました。二十四日の
黄金の
角、
鎌の形の月だったのです。
忽ちすうっと
昇ってしまいました。
沼の底の光のような
朧な青いあかりがぼおっと林の高い
梢にそそぎ一疋の大きな梟が
翅をひるがえしているのもひらひら銀いろに見えました。さっきの説教の松の木のまわりになった六本にはどれにも四疋から八疋ぐらいまで梟がとまっていました。低く出た三本のならんだ枝に三疋の子供の梟がとまっていました。きっと兄弟だったでしょうがどれも銀いろで大さは
[#「大さは」はママ]みな同じでした。その中でこちらの二疋は大分
厭きているようでした。片っ方の翅をひらいたり、
片脚でぶるぶる立ったり、枝へ
爪を引っかけてくるっと逆さになって
小笠原島のこうもりのまねをしたりしていました。
それから何か
云っていました。
「そら、大の字やって見せようか。大の字なんか何でもないよ。」
「大の字なんか、
僕だってできらあ。」
「できるかい。できるならやってごらん。」
「そら。」その小さな子供の梟はほんの
一寸の間、消防のやるような逆さ大の字をやりました。
「何だい。そればっかしかい。そればっかしかい。」
「だって、やったんならいいんだろう。」
「大の字にならなかったい。ただの十の字だったい、脚が開かないじゃないか。」
「おい、おとなしくしろ。みんなに笑われるぞ。」すぐ上の枝に居たお父さんのふくろうがその大きなぎらぎら青びかりする眼でこっちを見ながら云いました。眼のまわりの赤い
隈もはっきり見えました。
ところがなかなか小さな梟の兄弟は云うことをききませんでした。
「十の字、ほう、たての棒の二つある十の字があるだろうか。」
「二つに開かなかったい。」
「開いたよ。」
「何だ生意気な。」もう一疋は枝からとび立ちました。もう一疋もとび立ちました。二疋はばたばた、けり合ってはねが月の光に銀色にひるがえりながら下へ落ちました。
おっかさんのふくろうらしいさっきのお父さんのとならんでいた茶いろの少し小型のがすうっと下へおりて行きました。それから下の方で泣声が起りました。けれども間もなくおっかさんの梟はもとの
処へとびあがり小さな二疋ものぼって来て二疋とももとのところへとまって片脚で眼をこすりました。お母さんの梟がも一度
叱りました。その眼も青くぎらぎらしました。
「ほんとうにお前たちったら仕方ないねえ。みなさんの見ていらっしゃる処でもうすぐきっと
喧嘩するんだもの。なぜ
穂吉ちゃんのように、じっとおとなしくしていないんだろうねえ。」
穂吉と呼ばれた梟は、三疋の中では一番小さいようでしたが一番
温和しいようでした。じっとまっすぐを向いて、枝にとまったまま、はじめからおしまいまで、しんとしていました。
その木の一番高い枝にとまりからだ中銀いろで大きく
頬をふくらせ今の講義のやすみのひまを水銀のような月光をあびてゆらりゆらりといねむりしているのはたしかに梟のおじいさんでした。
月はもう
余程高くなり、星座もずいぶんめぐりました。
蝎座は西へ
沈むとこでしたし、天の川もすっかり
斜めになりました。
向うの低い松の木から、さっきの
年老りの坊さんの梟が、斜に飛んでさっきの通り、説教の枝にとまりました。
急に林のざわざわがやんで、しずかにしずかになりました。風のためか、今まで聞えなかった遠くの
瀬の音が、ひびいて参りました。坊さんの梟はゴホンゴホンと二つ三つせきばらいをして
又はじめました。
「
爾の時に、
疾翔大力、
爾迦夷に告げて
曰く、
諦に
聴け、諦に聴け。
善くこれを思念せよ。我今
汝に、
梟鵄諸の
悪禽、
離苦解脱の道を述べんと。
爾迦夷、
則ち
両翼を開張し、
虔しく
頸を垂れて座を
離れ、低く
飛揚して疾翔大力を
讃嘆すること
三匝にして、
徐に座に復し、
拝跪して
唯願うらく、疾翔大力、疾翔大力、ただ我
等が
為にこれを説き
給え。ただ我等が為にこれを説き給えと。
疾翔大力
微笑して、
金色の円光を
以て
頭に
被れるに、その光
遍く一座を照し、諸鳥
歓喜充満せり。則ち説いて曰く、
汝等審に諸の
悪業を作る。
或は
夜陰を以て
小禽の家に至る。時に小禽
既に終日日光に浴し、
歌唄跳躍して
疲労をなし、
唯唯甘美の
睡眠中にあり。汝等飛躍してこれを
握む。
利爪深くその身に入り、諸の小禽痛苦又声を発するなし。則ちこれを
裂きて
擅に
食す。
或は
沼田に至り、
螺蛤を
啄む。螺蛤
軟泥中にあり、心
柔
にして、唯温水を
憶う。時に
俄に身空中にあり、或は直ちに身を破る、
悶乱声を絶す。汝等これを
食するに、又
懺悔の念あることなし。
斯の
如きの諸の悪業、挙げて数うるなし。悪業を以ての
故に、
更に又諸の悪業を作る。
継起して
遂に
竟ることなし。昼は則ち日光を
懼れ、又人
及諸の強鳥を
恐る。心
暫らくも安らかなることなし、
一度梟身を
尽して、又
新に梟身を得。
審に諸の
苦患を
被りて又尽くることなし。で前の座では、
捨身菩薩を
疾翔大力と呼びあげるわけあい又、その
願成の
因縁をお話いたしたじゃが、次に
爾迦夷に告げて
曰くとある。爾迦夷というはこのとき我等と同様
梟じゃ。われらのご先祖と、一緒にお
棲いなされたお方じゃ。今でも爾迦夷
上人と申しあげて、毎月十三日が
[#「毎月十三日が」は底本では「毎日十三日が」]ご命日じゃ。いずれの家でも、梟の限りは、十三日には
楢の木の葉を
取て
参て、爾迦夷上人さまにさしあげるということをやるじゃ、これは爾迦夷さまが楢の木にお棲いなされたからじゃ。この爾迦夷さまは、早くから梟の身のあさましいことをご
覚悟遊ばされ、出離の道を求められたじゃげなが、とうとうその一心の
甲斐あって、疾翔大力さまにめぐりあい、ついにその尊い
教を
聴聞あって、天上へ行かしゃれた。その爾迦夷さまへのご説法じゃ。諦に聴け、諦に聴け。善くこれを思念せよと。心をしずめてよく聴けよ、心をしずめてよく聴けよと
斯うじゃ。いずれの説法の座でも、よくよく心をしずめ耳をすまして聴くことは大切なのじゃ。
上の空で聞いていたでは何にもならぬじゃ。」
ところがこのとき、さっきの喧嘩をした二疋の子供のふくろうがもう説教を聴くのは
厭きてお
互にらめくらをはじめていました。そこは
茂りあった
枝のかげで、まっくらでしたが、二疋はどっちもあらんかぎりりんと眼を開いていましたので、ぎろぎろ
燐を燃したように青く光りました。そこでとうとう二疋とも一ぺんに
噴き出して一緒に、
「お前の眼は大きいねえ。」と云いました。
その声は
幸に少しつんぼの梟の
坊さんには聞えませんでしたが、ほかの梟たちはみんなこっちを
振り向きました。兄弟の穂吉という梟は、そこで大へんきまり悪く思ってもじもじしながら頭だけはじっと垂れていました。二疋はみんなのこっちを見るのを枝のかげになってかくれるようにしながら、
「おい、もう
遁げて遊びに行こう。」
「どこへ。」
「実相寺の林さ。」
「行こうか。」
「うん、行こう。穂吉ちゃんも行かないか。」
「ううん。」穂吉は頭をふりました。
「我今
汝に、
梟鵄諸の
悪禽、
離苦解脱の道を述べんということは。」説教が又続きました。二疋はもうそっと遁げ出し、穂吉はいよいよ
堅くなって、兄弟三人分一人で聴こうという風でした。
*
その次の日の六月二十五日の晩でした。
丁度ゆうべと同じ時刻でしたのに、説教はまだ始まらず、あの説教の坊さんは、
眼を
瞑ってだまって説教の木の高い枝にとまり、まわりにゆうべと同じにとまった
沢山の
梟どもはなぜか大へんみな興奮している模様でした。女のふくろうにはおろおろ泣いているのもありましたし、男のふくろうはもうとても
斯うしていられないというようにプリプリしていました。それにあのゆうべの三人兄弟の家族の中では一番高い
処に居るおじいさんの梟はもうすっかり眼を泣きはらして頬が時々びくびく云い、
泪は声なくその赤くふくれた眼から落ちていました。
もちろんふくろうのお母さんはしくしくしくしく泣いていました。乱暴ものの二疋の兄弟も不思議にその晩はきちんと
座って、大きな眼をじっと下に落していました。又ふくろうのお父さんは、しきりに西の方を見ていました。けれども一体どうしたのかあの
温和しい穂吉の形が見えませんでした。風が少し出て来ましたので
松の
梢はみなしずかにゆすれました。
空には所々雲もうかんでいるようでした。それは星があちこちめくらにでもなったように黒くて光っていなかったからです。
俄かに西の方から一疋の大きな
褐色の梟が飛んで来ました。そしてみんなの入口の低い木にとまって声をひそめて云いました。
「やっぱり
駄目だ。穂吉さんももうあきらめているようだよ。さっきまではばたばたばたばた云っていたけれども、もう今はおとなしく
臼の上にとまっているよ。それから
紐が何だか変ったようだよ。前は右足だったが、今度は
左脚に
結いつけられて、それに紐の色が赤いんだ。けれどもただひとついいことは、みんな
大抵寝てしまったんだ。さっきまで穂吉さんの眼を指で
突っつこうとした子供などは、腹かけだけして、大の字になって寝ているよ。」
穂吉のお母さんの梟は、まるで火がついたように声をあげて泣きました。それにつれて林中の女のふくろうがみなしいんしいんと泣きました。
梟の坊さんは、じっと星ぞらを見あげて、それからしずかにたずねました。
「この世界は全くこの通りじゃ。ただもうみんなかなしいことばかりなのじゃ。どうして又あんなおとなしい子が、人につかまるような処に出たもんじゃろうなあ。」
説教の木のとなりに居た
鼠いろの梟は
恭々しく答えました。
「今朝あけ方近くなってから、兄弟三人で
出掛けたそうでございます。いつも人の来るような処ではなかったのでございます。そのうち朝日が出ましたので、
眩しさに三疋とも、しばらく眼を
瞑っていたそうでございます。すると、丁度子供が二人、
草刈りに来て居ましたそうで、穂吉もそれを知らないうちに、一人がそっとのぼって来て、穂吉の足を
捉まえてしまったと申します。」
「あああわれなことじゃ、ふびんなはなしじゃ、あんなおとなしいいい子でも、何の因果じゃやら。できるなればわしなどで代ってやりたいじゃ。」
林はまたしいんとなりました。しばらくたって、またばたばたと一疋の梟が飛んで
戻って参りました。
「穂吉さんはね、臼の上をあるいていたよ。あの赤の紐を引き
裂こうとしていたようだったけれど、なかなか容易じゃないんだ。私はもう、どこか
隙間から飛び
込んで行って、手伝ってあげようと、何べんも何べんも家のまわりを飛んで見たけれど、どこにもあいてる所はないんだろう。ほんとうに
可哀そうだねえ、穂吉さんは、けれども泣いちゃいないよ。」
梟のお母さんが、大きな眼を泣いてまぶしそうにしょぼしょぼしながら
訊ねました。
「あの家に
猫は居ないようでございましたか。」
「ええ、猫は居なかったようですよ。きっと居ないんです。ずいぶん
暫らく、私はのぞいていたんですけれど、とうとう見えなかったのですから。」
「そんならまあ安心でございます。ほんとうにみなさまに飛んだご
迷惑をかけてお申し訳けもございません。みんな穂吉の不注意からでございます。」
「いいえ、いいえ、そんなことはありません。あんな
賢いお子さんでも災難というものは仕方ありません。」
林中の女のふくろうがまるで口口に答えました。その音は二町ばかり西の方の大きな
藁屋根の中に
捕われている穂吉の処まで、ほんのかすかにでしたけれども聞えたのです。
ふくろうのおじいさんが
度々声がかすれながらふくろうのお父さんに云いました。
「もうそうなっては仕方ない。お前は行って穂吉にそっと教えてやったらよかろう、もうこの上は決してばたばたもがいたり、
怒って人に
噛み付いたりしてはいけない。今日中
誰もお前を殺さない処を見ると、きっと
田螺か何かで
飼って置くつもりだろうから、今までのように
温和しくして、決して人に
逆うな、とな。
斯う云って教えて来たらよかろう。」
梟のお父さんは、首を垂れてだまって
聴いていました。梟の
和尚さんも遠くからこれにできるだけ耳を傾けていましたが大体そのわけがわかったらしく言い
添えました。
「そうじゃ、そうじゃ。いい分別じゃ。
序に斯う教えて来なされ。このようなひどい目におうて、何悪いことしたむくいじゃと、
恨むようなことがあってはならぬ。この世の罪も数知らず、さきの世の罪も数かぎりない事じゃほどに、この災難もあるのじゃと、よくあきらめて、あんまりひとり
嘆くでない、あんまり泣けば心も
沈み、からだもとかく
損ねるじゃ、たとえ足には紐があるとも、今ここへ来て、はじめてとまった処じゃと、いつも気軽でいねばならぬ、とな、斯う云うて下され。ああ、されども、されども、とられた者は又別じゃ。何のさわりも無いものが、とや斯う言うても、何にもならぬ。ああ可哀そうなことじゃ
不愍なことじゃ。」
お父さんの梟は何べんも頭を下げました。
「ありがとうございます。ありがとうございます。もうきっとそう申し伝えて参ります。
斯んなお
語を伝え聞いたら、もう死んでもよいと申しますでございましょう。」
「いや、いや、そうじゃ。斯うも云うて下され。いくら飼われるときまっても、子供心はもとより一向たよりないもの、又近くには猫犬なども居ることじゃ、もし万一の場合は、ただあの
疾翔大力のおん名を唱えなされとな。そう云うて下され。おお不愍じゃ。」
「ありがとうございます。では行って参ります。」
梟のお母さんが、泣きむせびながら申しました。
「ああ、もしどうぞ、いのちのある間は朝夕二度、私に聞えるよう高く
啼いて
呉れとおっしゃって下さいませ。」
「いいよ。ではみなさん、行って参ります。」
梟のお父さんは、二三度羽ばたきをして見てから、音もなく
滑るように向うへ飛んで行きました。梟の坊さんがそれをじっと見送っていましたが、
俄かにからだをりんとして言いました。
「みなの衆。いつまで泣いてもはてないじゃ。ここの世界は
苦界という、
又忍土とも名づけるじゃ。みんなせつないことばかり、
涙の
乾くひまはないのじゃ。ただこの上は、われらと
衆生と、早くこの苦を
離れる道を知るのが
肝要じゃ。この
因縁でみなの衆も、よくよく心をひそめて聞きなされ。ただ一人でも穂吉のことから、まことに
菩提の心を発すなれば、穂吉の
功徳又この座のみなの衆の功徳、かぎりもあらぬことなれば、必らずとくと
聴聞なされや。昨夜の続きを講じます。
爾の時に
疾翔大力、
爾迦夷に告げて
曰く、
諦に
聴け、諦に聴け
[#「聴け」は底本では「徳け」]。
善くこれを思念せよ。我今
汝に、
梟鵄諸の
悪禽、
離苦解脱の道を述べんと。
爾迦夷、
則ち
両翼を開張し、
虔しく
頸を垂れて座を
離れ、低く
飛揚して疾翔大力を
讃嘆すること
三匝にして、
徐に座に復し、
拝跪して
唯願うらく、疾翔大力、疾翔大力、ただ我
等が
為にこれを説き
給え。ただ我等が為にこれを説き給えと。
疾翔大力
微笑して、
金色の円光を
以て
頭に
被れるに、その光
遍く一座を照し、諸鳥
歓喜充満せり。則ち説いて曰く、
汝等審に諸の悪業を作る。
或は
夜陰を以て
小禽の家に至る。時に小禽
既に終日日光に浴し、
歌唄跳躍して疲労をなし、
唯唯甘美の
睡眠中にあり、汝等飛躍してこれを
握む。
利爪深くその身に入り、諸の小禽痛苦又声を発するなし。則ちこれを
裂きて
擅に
食す。或は
沼田に至り
螺蛤を
啄む。螺蛤
軟泥中にあり、心
柔
にして唯温水を
憶う。時に
俄に身空中にあり、或は直ちに身を破る、
悶乱声を絶す。汝等これを
食するに、又
懺悔の念あることなし。
斯の
如きの諸の悪業、挙げて数うるなし。
悪業を以ての
故に、
更に又諸の悪業を作る。
継起して
遂に
竟ることなし。昼は則ち日光を
懼れ、又人
及諸の強鳥を
恐る。心
暫らくも安らかなることなし。
一度梟身を
尽して、又
新に梟身を得、
審に諸の
患難を
被りて、又尽くることなし。
で前の晩は、諸鳥歓喜充満せりまで、文の如くに講じたが、
此の席はその次じゃ。則ち説いて曰くと、これは疾翔大力さまが、
爾迦夷上人のご
懇請によって、直ちに説法をなされたと
斯うじゃ。汝等
審に諸の悪業を作ると。汝等というは、元来はわれわれ
梟や
鵄などに対して申さるるのじゃが、ご本意は梟にあるのじゃ、あとのご文の罪相を拝するに、みなわれわれのことじゃ。悪業というは、悪は悪いじゃ、
業とは
梵語でカルマというて、すべて過去になしたることのまだ
報となってあらわれぬを業という、善業悪業あるじゃ。ここでは悪業という。その
事柄を次にあげなされたじゃ。或は夜陰を以て、小禽の家に至ると。みなの衆、
他人事ではないぞよ。よくよく
自らの胸にたずねて見なされ。夜陰とは夜のくらやみじゃ。以てとは、これに乗じてというがようの意味じゃ。夜のくらやみに乗じてと、斯うじゃ。小禽の家に至る。小禽とは、
雀、
山雀、
四十雀、ひわ、
百舌、みそさざい、かけす、つぐみ、すべて形小にして、力ないものは、みな小禽じゃ。その形小さく力無い鳥の家に参るというのじゃが、参るというてもただ訪ねて参るでもなければ、遊びに参るでもないじゃ、内に深く残忍の想を
潜め、外又恐るべく悲しむべき
夜叉相を浮べ、
密やかに
忍んで参ると斯う云うことじゃ。このご説法のころは、われらの心も
未だ仲々善心もあったじゃ、小禽の家に至るとお説きなされば、はや
聴法の者、みな
慄然として座に
耐えなかったじゃ。今は仲々そうでない。今ならば疾翔大力さま、まだまだ強く
烈しくご説法であろうぞよ。みなの衆、よくよく心にしみて聞いて下され。
次のご文は、時に小禽
既に終日日光に浴し、歌唄跳躍して、疲労をなし、唯々甘美の睡眠中にあり。他人事ではないぞよ。どうじゃ、今朝も今朝とて穂吉どの
処を
替えてこの身の上じゃ、」
説教の坊さんの声が、
俄におろおろして変りました。穂吉のお母さんの梟はまるで
帛を
裂くように泣き出し、一座の女の梟は、たちまちそれに
従いて泣きました。
それから男の梟も泣きました。林の中はただむせび泣く声ばかり、風も出て来て、木はみなぐらぐらゆれましたが、仲々
誰も泣きやみませんでした。星はだんだんめぐり、赤い火星ももう西ぞらに入りました。
梟の坊さんはしばらくゴホゴホ
咳嗽をしていましたが、やっと心を取り直して、又講義をつづけました。
「みなの衆、まず
試しに、自分がみそさざいにでもなったと考えてご
覧じ。な。
天道さまが、東の空へ
金色の矢を射なさるじゃ、林樹は青く
枝は
揺るる、楽しく歌をばうたうのじゃ、仲よくおうた友だちと、枝から枝へ木から木へ、天道さまの光の中を、歌って歌って参るのじゃ、ひるごろならば、
涼しい
葉陰にしばしやすんで
黙るのじゃ、又ちちと鳴いて飛び立つじゃ、空の青板をめざすのじゃ、又小流れに参るのじゃ、心の合うた友だちと、ただ
暫らくも離れずに、歌って歌って参るのじゃ、さてお天道さまが、おかくれなされる、からだはつかれてとろりとなる、油のごとく、
溶けるごとくじゃ。いつかまぶたは閉じるのじゃ、昼の景色を
夢見るじゃ、からだは枝に
留まれど、心はなおも飛びめぐる、たのしく
甘いつかれの夢の光の中じゃ。そのとき俄かにひやりとする。夢かうつつか、
愕き見れば、わが身は裂けて、血は流れるじゃ。燃えるようなる、二つの
眼が光ってわれを
見詰むるじゃ。どうじゃ、声さえ
発とうにも、
咽喉が
狂うて音が出ぬじゃ。これが
則ち
利爪深くその身に入り、
諸の小禽痛苦又声を発するなしの意なのじゃぞ。されどもこれは、取らるる鳥より見たるものじゃ。
捕る
此方より
眺むれば、飛躍してこれを
握むと
斯うじゃ。何の罪なく眠れるものを、ただ
一打ととびかかり、
鋭い
爪でその
柔な
身体をちぎる、鳥は声さえよう発てぬ、こちらはそれを
嘲笑いつつ、引き裂くじゃ。何たるあわれのことじゃ。この身とて、今は法師にて、鳥も魚も
襲わねど、
昔おもえば身も世もあらぬ。ああ
罪業のこのからだ、
夜毎夜毎の夢とては、同じく夜叉の業をなす。
宿業の恐ろしさ、ただただ
呆るるばかりなのじゃ。」
風がザアッとやって来ました。木はみな波のようにゆすれ、坊さんの梟も、その中に
漂う
舟のようにうごきました。
そして東の山のはから、
昨日の金角、二十五日のお月さまが、昨日よりは又ずうっと
瘠せて上りました。林の中はうすいうすい
霧のようなものでいっぱいになり、西の方からあの梟のお父さんがしょんぼり飛んで帰って来ました。
*
旧暦六月二十六日の晩でした。
そらがあんまりよく
霽れてもう
天の
川の水は、すっかりすきとおって冷たく、底のすなごも数えられるよう、またじっと眼をつぶっていると、その流れの音さえも聞えるような気がしました。けれどもそれは
或は空の高い処を吹いていた風の音だったかも知れません。なぜなら、星がかげろうの向う側にでもあるように、少しゆれたり明るくなったり暗くなったりしていましたから。
獅子鼻の上の
松林には今夜も梟の群が集まりました。今夜は穂吉が来ていました。来てはいましたが
一昨日の晩の処にでなしに、おじいさんのとまる処よりももっと高いところで小さな枝の二本行きちがい、それからもっと小さな枝が四五本出て、
一寸盃のような形になった処へ、どこから持って来たか
藁屑や
髪の毛などを
敷いて臨時に
巣がつくられていました。その中に穂吉が半分横になって、じっと目をつぶっていました。梟のお母さんと二人の兄弟とが穂吉のまわりに
座って、穂吉のからだを支えるようにしていました。林中のふくろうは、今夜は一人も泣いてはいませんでしたが
怒っていることはみんな、
昨夜どころではありませんでした。
「
傷みはどうじゃ。いくらか
薄らいだかの。」
あの坊さんの梟がいつもの高い処からやさしく
訊ねました。穂吉は何か
云おうとしたようでしたが、ただ眼がパチパチしたばかり、お母さんが代って答えました。
「
折角こらえているようでございます。よく物が申せないのでございます。それでもどうしても、今夜のお説教を
聴聞いたしたいというようでございましたので。もうどうかかまわずご講義をねがいとう存じます。」
梟の坊さんは空を見上げました。
「
殊勝なお
心掛けじゃ。それなればこそ、たとえ
脚をば折られても、二度と父母の処へも
戻ったのじゃ。なれども
健かな二本の脚を、何
面白いこともないに、
捩って折って放すとは、何という
浅間しい人間の心じゃ。」
「放されましても二本の脚を折られてどうしてまあすぐ飛べましょう。あの
萱原の中に落ちてひいひい泣いていたのでございます。それでも昼の間は、
誰も気付かずやっと夕刻、私が顔を見ようと出て行きましたらこのていたらくでございまする。」
「うん。
尤じゃ。なれども他人は
恨むものではないぞよ。みな
自らがもとなのじゃ。恨みの心は
修羅となる。かけても他人は恨むでない。」
穂吉はこれをぼんやり夢のように聞いていました。子供がもう
厭きて「
遁がしてやるよ」といって外へ連れて出たのでした。そのとき、ポキッと脚を折ったのです。その両脚は今でもまだしんしんと痛みます。眼を開いてもあたりがみんなぐらぐらして空さえ高くなったり低くなったりわくわくゆれているよう、みんなの声も、ただぼんやりと水の中からでも聞くようです。ああ
僕はきっともう死ぬんだ。こんなにつらい位ならほんとうに死んだ方がいい。それでもお父さんやお母さんは泣くだろう。泣くたって一体お父さんたちは、まだ僕の近くに居るだろうか、ああ痛い痛い。穂吉は声もなく泣きました。
「あんまりひどいやつらだ。こっちは何一つ向うの
為に悪いようなことをしないんだ。それをこんなことをして、よこす。もうだまってはいられない。何かし返ししてやろう。」一
疋の若い
梟が高く云いました。すぐ
隣りのが答えました。
「火をつけようじゃないか。今度
屑焼きのある晩に燃えてる長い
藁を、一本あの屋根までくわえて来よう。なあに十本も二十本も運んでいるうちにはどれかすぐ燃えつくよ。けれども火事で焼けるのはあんまり楽だ。何かも少しひどいことがないだろうか。」
又その隣りが答えました。
「戸のあいてる時をねらって赤子の頭を
突いてやれ。
畜生め。」
梟の
坊さんは、じっとみんなの云うのを
聴いていましたがこの時しずかに云いました。
「いやいや、みなの衆、それはいかぬじゃ。これほど手ひどい事なれば、必らず
仇を返したいはもちろんの事ながら、それでは血で血を洗うのじゃ。こなたの胸が
霽れるときは、かなたの心は燃えるのじゃ。いつかはまたもっと手ひどく仇を受けるじゃ、この身終って次の
生まで、その
妄執は絶えぬのじゃ。
遂には共に
修羅に入り
闘諍しばらくもひまはないじゃ。必らずともにさようのたくみはならぬぞや。」
けたたましくふくろうのお母さんが
叫びました。
「穂吉穂吉しっかりおし。」
みんなびくっとしました。穂吉のお父さんもあわてて穂吉の居た枝に飛んで行きましたがとまる所がありませんでしたからすぐその上の枝にとまりました。穂吉のおじいさんも行きました。みんなもまわりに集りました。穂吉はどうしたのか折られた脚をぷるぷる云わせその眼は白く閉じたのです。お父さんの梟は高く叫びました。
「穂吉、しっかりするんだよ。今お説教がはじまるから。」
穂吉はパチッと眼をひらきました。それから少し起きあがりました。見えない眼でむりに向うを見ようとしているようでした。
「まあよかったね。やっぱりつかれているんだろう。」女の梟たちは云い合いました。
坊さんの梟はそこで云いました。
「さあ、講釈をはじめよう。みなの衆座にお戻りなされ。今夜は二十六日じゃ、来月二十六日はみなの衆も存知の通り、二十六夜待ちじゃ。
月天子山のはを
出でんとして、光を放ちたまうとき、
疾翔大力、
爾迦夷波羅夷の
三尊が、東のそらに出現まします。
今宵は月は異なれど、まことの心には又あらはれ
給わぬことでない。穂吉どのも、ただ
一途に聴聞の志じゃげなで、これからさっそく講ずるといたそう。穂吉どの、さぞ痛かろう苦しかろう、お経の文とて仲々耳には入るまいなれど、そのいたみ
悩みの心の中に、いよいよ深く疾翔大力さまのお
慈悲を刻みつけるじゃぞ、いいかや、まことにそれこそ
菩提のたねじゃ。」
梟の坊さんの声が又少し変りました。一座はしいんとなりました。林の中にもう鳴き出した秋の虫があります。坊さんはしばらく息をこらして気を取り直しそれから
厳めしい声で願をたててから昨夜の続きをはじめました。
「
梟鵄救護章 梟鵄救護章
諸の
仁者掌を合せて至心に
聴き給え。我今
疾翔大力が
威神力を
享けて梟鵄救護章の一節を講ぜんとす。
唯願うらくはかの
如来大慈大悲我が小願の中に
於て大神力を現じ給い
妄言綺語の
淤泥を
化して光明
顕色の
浄瑠璃となし、
浮華の中より
清浄の
青蓮華を開かしめ給わんことを。至心欲願、
南無仏南無仏南無仏。
爾の時に疾翔大力、
爾迦夷に告げて
曰く、
諦に聴け諦に聴け。
善くこれを思念せよ。我今
汝に梟鵄諸の
悪禽離苦解脱の道を述べんと。
爾迦夷
則ち
両翼を開張し、
虔しく
頸を垂れて座を
離れ、低く
飛揚して疾翔大力を
讃嘆すること
三匝にして、
徐に座に復し、
拝跪して願うらく疾翔大力、疾翔大力、ただ我
等が
為にこれを説き給え。ただ我等が為にこれを説き給えと。
疾翔大力、
微笑して
金色の円光を
以て
頭に
被れるに、諸鳥
歓喜充満せり。則ち説いて曰く、
汝等
審に諸の
悪業を作る。
或は
夜陰を以て
小禽の家に至る。時に小禽
既に終日日光に浴し、
歌唄跳躍して疲労をなし、
唯唯甘美の
睡眠中にあり、汝等飛躍してこれを
握む。
利爪深くその身に入り、諸の小禽痛苦又声を発するなし、
則ちこれを
裂きて
擅に
食す。或は
沼田に至り、
螺蛤を
啄む。螺蛤
軟泥中にあり、心
柔
にして唯温水を
憶う。時に
俄に身空中にあり、或は直ちに身を破る、
悶乱声を絶す。汝等これを

食するに、又
懺悔の念あることなし。
悪業を以ての
故に、
更に又諸の悪業を作る。
継起して
遂に
竟ることなし。昼は則ち日光を
懼れ又人
及諸の強鳥を
恐る。心
暫らくも安らかなることなし。
一度梟身を
尽して、又
新に梟身を
得。
審に諸の
患難を
被りて、又尽くることなし。
で前の晩は、
斯の
如きの諸の悪業、挙げて数うることなし、まで講じたが、今夜はその次じゃ。
悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作ると、これは
誠に短いながら、強いお
語じゃ。先刻人間に恨みを返すとの議があった節、申した如くじゃ、一の悪業によって一の悪果を見る。その悪果故に、又新なる悪業を作る。斯の如く展転して、
遂にやむときないじゃ。車輪のめぐれどもめぐれども終らざるが如くじゃ。これを
輪廻といい、
流転という。悪より悪へとめぐることじゃ。継起して
遂に
竟ることなしと云うがそれじゃ。いつまでたっても終りにならぬ、どこどこまでも悪因悪果、悪果によって新に悪因をつくる。な。
斯うじゃ、
浮む
瀬とてもあるまいじゃ。昼は則ち日光を
懼れ、又人
及諸の強鳥を恐る。心
暫らくも安らかなることなし。これは流転の中の、つらい模様をわれらにわかるよう、
直かに申されたのじゃ。
勿体なくも、我等は光明の
日天子をば
憚かり
奉る。いつも
闇とみちづれじゃ。東の空が明るくなりて、日天子さまの
黄金の矢が高く射出さるれば、われらは恐れて
遁げるのじゃ。もし白昼にまなこを正しく開くならば、その日天子の黄金の
征矢に
伐たれるじゃ。それほどまでに我等は
悪業の身じゃ。又人及諸の強鳥を恐る。な。人を恐るることは、今夜今ごろ講ずることの限りでない。思い合せてよろしかろう。諸の強鳥を恐る。
鷹やはやぶさ、又さほど強くはなけれども日中なれば
烏などまで恐れねばならぬ情ない身じゃ。はやぶさなれば空よりすぐに落ちて来て、こなたが小鳥をつかむときと同じようなるありさまじゃ、たちまち空で引き裂かれるじゃ、少しのさからいをしたとて、何にもならぬ、げにもげにも
浅間しくなさけないわれらの身じゃ。」
梟の坊さんは
一寸声を切りました。今夜ももう一時の
上りの汽車の音が聞えて来ました。その音を聞くと梟どもは泣きながらも、汽車の赤い明るいならんだ窓のことを考えるのでした。講釈がまた始まりました。
「心
暫らくも安らかなることなしと、どうじゃ、みなの衆、ただの
一時でも、ゆっくりと何の心配もなく落ち着いたことがあるかの。もういつでもいつでもびくびくものじゃ。
一度梟身を尽して又
新に梟身を
得と
斯うじゃ。泣いて
悔やんで悲しんで、ついには
年老る、病気になる、あらんかぎりの
難儀をして、それで死んだら、もうこの様な悪鳥の身を離れるかとならば、仲々そうは参らぬぞや。身に
染み
込んだ
罪業から、又梟に生れるじゃ。
斯の
如くにして百
生、二百生、
乃至劫をも
亘るまで、この梟身を
免れぬのじゃ。
審に諸の患難を
蒙りて又尽くることなし。もう何もかも
辛いことばかりじゃ。さて今東の空は
黄金色になられた。もう
月天子がお出ましなのじゃ。来月二十六夜ならば、このお光に
疾翔大力さまを拝み申すじゃなれど、
今宵とて又拝み申さぬことでない、みなの衆、ようくまごころを以て
仰ぎ奉るじゃ。」
二十六夜の金いろの
鎌の形のお月さまが、しずかにお登りになりました。そこらはぼおっと明るくなり、下では虫が
俄かにしいんしいんと鳴き出しました。
遠くの瀬の音もはっきり聞えて参りました。
お月さまは今はすうっと
桔梗いろの空におのぼりになりました。それは不思議な
黄金の船のように見えました。
俄かにみんなは息がつまるように思いました。それはそのお月さまの船の
尖った右のへさきから、まるで花火のように美しい
紫いろのけむりのようなものが、ばりばりばりと
噴き出たからです。けむりは見る間にたなびいて、お月さまの下すっかり山の上に目もさめるような紫の雲をつくりました。その雲の上に、金いろの立派な人が三人まっすぐに立っています。まん中の人はせいも高く、大きな眼でじっとこっちを見ています。
衣のひだまで一一はっきりわかります。お星さまをちりばめたような立派な
瓔珞をかけていました。お月さまが丁度その方の頭のまわりに輪になりました。
右と左に少し
丈の低い立派な人が
合掌して立っていました。その円光はぼんやり
黄金いろにかすみうしろにある青い星も見えました。雲がだんだんこっちへ近づくようです。
「
南無疾翔大力、南無疾翔大力。」
みんなは高く叫びました。その声は林をとどろかしました。雲がいよいよ近くなり、
捨身菩薩のおからだは、十丈ばかりに見えそのかがやく左手がこっちへ招くように
伸びたと思うと、俄に何とも云えないいいかおりがそこらいちめんにして、もうその紫の雲も疾翔大力の姿も見えませんでした。ただその
澄み切った桔梗いろの空にさっきの
黄金いろの二十六夜のお月さまが、しずかにかかっているばかりでした。
「おや、穂吉さん、息つかなくなったよ。」俄に穂吉の兄弟が高く叫びました。
ほんとうに穂吉はもう冷たくなって少し口をあき、かすかにわらったまま、息がなくなっていました。そして汽車の音がまた聞えて来ました。