楢ノ木大学士は宝石学の専門だ。
ある晩大学士の小さな
「貝の火
赤鼻の支配人がやって来た。
「先生、ごく上等の
大学士は葉巻を横にくわえ、
「たびたびご
そこで楢ノ木大学士は、
にやっと笑って葉巻をとった。
「うん、探してやろう。蛋白石のいいのなら、
「ははあ、そいつはどうもとんだご災難でございました。しかしいかがでございましょう。こんども多分はそんな
「それはもうきっとそう行くね。ただその時に、僕が何かの
「それでは何分お願いいたします。これはまことに軽少ですが、当座の旅費のつもりです。」
貝の火兄弟商会の、
鼻の赤いその支配人は、
ねずみ色の
上着の
「そうかね。」
大学士は別段気にもとめず、
手を延ばして状袋をさらい、
自分の
「では何分とも、よろしくお願いいたします。」
そして「貝の火兄弟商会」の、
赤鼻の支配人は帰って行った。
次の日諸君のうちの
きっと上野の
途方もない長い
変な灰色の袋のような
七キログラムもありそうな、
持った
それは楢の木大学士だ。
宝石を探しに
出掛けた
野宿ということも起ったのだ。
三晩というもの起ったのだ。
野宿第一夜
四月二十日の
例の
「ふん、この川筋があやしいぞ。たしかにこの川筋があやしいぞ」
とひとりぶつぶつ言いながら、
からだを深く折り曲げて
足もとの
大きな河原をのぼって行った。
両側はずいぶん
大学士はどこまでも
けれどもとうとう日も落ちた。
その両側の山どもは、
ずんずん黒く
その上にちょっと顔を出した
遠くの雪の山脈は、
さびしい銀いろに光り、
てのひらの形の黒い雲が、
その上を行ったり来たりする。
それから川岸の細い野原に、
ちょろちょろ赤い野火が
楢ノ木大学士はそんなことには構わない。
まだどこまでも川を溯って行こうとする。
ところがとうとう夜になった。
今はもう河原の石ころも、
赤やら黒やらわからない。
「これはいけない。もう夜だ。
その石は実際柔らかで、
そのかわり又大学士が、
ごろりと横になったときは、
外套のせなかに白い粉が、
まるで一杯についたのだ。
もちろん学士はそれを知らない。
又そんなこと知ったとこで、
あわてて起きあがる性質でもない。
水がその広い河原の、
向う岸近くをごうと流れ、
空の
山どもがのっきのっきと黒く立つ。
大学士は寝たままそれを
又ひとりごとを言い出した。
「ははあ、あいつらは
そこで大学士はいい気になって、
岩頸の講義をはじめ出した。
「諸君、手っ取り早く
それは実際その通り、
向うの黒い四つの
四人兄弟の岩頸で、
だんだん地面からせり上って来た。
「ははあ、こいつらはラクシャンの四人兄弟だな。よくわかった。ラクシャンの四人兄弟だ。よしよし。」
注文通り岩頸は
丁度胸までせり出して
ならんで空に高くそびえた。
一番右は
たしかラクシャン第一子
まっ黒な
大きな眼をぎろぎろ空に向け
しきりに口をぱくぱくして
何かどなっている様だが
その声は少しも聞えなかった。
右から二番目は
たしかにラクシャンの第二子だ。
長いあごを両手に
次はラクシャン第三子
やさしい眼をせわしくまたたき
いちばん左は
ラクシャンの第
夢のような黒い
じっと東の高原を見た。
楢ノ木大学士がもっとよく
四人を見ようと起き上ったら
「何をぐずぐずしてるんだ。
楢ノ木大学士はびっくりして
大急ぎで又横になり
いびきまでして寝たふりをし
そっと横目で見つづけた。
ところが今のどなり声は
大学士に云ったのでもなかったようだ。
なぜならラクシャン第一子は
やっぱり空へ向いたまま
素敵などなりを続けたのだ。
「全体何をぐずぐずしてるんだ。砕いちまえ、砕いちまえ、はね飛ばすんだ。はね飛ばすんだよ。火をどしゃどしゃ
しずかなラクシャン第三子が
兄をなだめて
「兄さん。少しおやすみなさい。こんなしずかな夕方じゃありませんか。」
兄は構わず又どなる。
「地球を半分ふきとばしちまえ。石と石とを空でぶっつけ合せてぐらぐらする
ラクシャンの若い第
「大兄さん、あんまり
それからこんどは低くつぶやく。
「あんな銀の
ラクシャンの狂暴な第一子も
少ししずまって弟を見る。
「まあいいさ、お前もしっかり支度をして次の噴火にはあのイーハトブの位になれ。十二ヶ月の中の九ヶ月をあの冠で
若いラクシャン第四子は
兄のことばは聞きながし
遠い東の
雲を
星のあかりに
なつかしそうに
「今夜はヒームカさんは見えないなあ。あのまっ黒な雲のやつは、ほんとうにいやなやつだなあ、今日で四日もヒームカさんや、ヒームカさんのおっかさんをマントの下にかくしてるんだ。僕一つ
ラクシャンの第三子が
少し笑って弟に云う。
「大へん
「兄さん。ヒームカさんはほんとうに美しいね。兄さん。この前ね、僕、ここからかたくりの花を投げてあげたんだよ。ヒームカさんのおっかさんへは白いこぶしの花をあげたんだよ。そしたら西風がね、だまって持って行って
「そうかい。ハッハ。まあいいよ。あの雲はあしたの朝はもう
「だけど兄さん。僕、今度は、何の花をあげたらいいだろうね。もう僕のとこには何の花もないんだよ。」
「うん、そいつはね、おれの所にね、
「ありがとう、兄さん。」
「やかましい、何をふざけたことを云ってるんだ。」
金粉の怒鳴り声を
夜の空高く吹きあげた。
「ヒームカってなんだ。ヒームカって。
ヒームカって云うのは、あの向うの女の子の山だろう。よわむしめ。あんなものとつきあうのはよせと何べんもおれが云ったじゃないか。ぜんたいおれたちは火から生れたんだぞ青ざめた水の中で生れたやつらとちがうんだぞ。」
ラクシャンの第
しょげて首を垂れたが
しずかな
弟のために長兄をなだめた。
「兄さん。ヒームカさんは血統はいいのですよ。火から生れたのですよ。立派なカンランガンですよ。」
ラクシャンの第一子は
立派な金粉のどなりを
まるで火のようにあげた。
「知ってるよ。ヒームカはカンランガンさ。火から生れたさ。それはいいよ。けれどもそんなら、一体いつ、おれたちのようにめざましい噴火をやったんだ。あいつは地面まで
山も海もみんな
ラクシャンの第三子は
しばらく考えて云う。
「兄さん、私はどうも、そんなことはきらいです。私はそんな、まわりを熱い灰でうずめて、自分だけ一人高くなるようなそんなことはしたくありません。水や空気がいつでも地面を平らにしようとしているでしょう。そして自分でもいつでも低い方低い方と流れて行くでしょう、私はあなたのやり方よりは、
このときまるできらきら笑った。
きらきら光って笑ったのだ。
(こんな不思議な笑いようを
いままでおれは見たことがない、
楢ノ木学士が考えた。
暴っぽいラクシャンの第一子が
ずいぶんしばらく光ってから
やっとしずまって
「水と空気かい。あいつらは朝から晩まで、
ラクシャンの第三子も
つい大声で笑ってしまう。
「兄さん。なんだか、そんな、こじつけみたいな、あてこすりみたいな、
ところがラクシャン第一子は
案外に怒り出しもしなかった。
きらきら光って大声で
笑って笑って笑ってしまった。
その笑い声の
空を流れて
ねぼけた
「うん、そうだ、もうあまり、おれたちのがらにもない
「火が燃えている。火が燃えている。大兄さん。大兄さん。ごらんなさい。だんだん
ラクシャン第一子がびっくりして
「
その声にラクシャンの第二子が
びっくりして
その長い
眼を
しばらく野火をみつめている。
「
するとラクシャンの第一子が
ちょっと意地悪そうにわらい
手をばたばたと
「石だ、火だ。熔岩だ。用意っ。ふん。」
と叫ぶ。
ばかなラクシャンの第二子が
すぐ
顔いろをぽっとほてらせながら
「おい兄貴、
と
兄貴はわらう、
「一吠えってもう何十万年を、きさまはぐうぐう
「ない」
と答えた。
そして
ぽっかりぽっかり寝てしまう。
しずかなラクシャン第三子が
ラクシャンの第
「空が大へん軽くなったね、あしたの朝はきっと晴れるよ。」
「ええ今夜は
兄は笑って弟を
「さっきの野火で鷹の子供が焼けたのかな。」
弟は
「鷹の子供は、もう
兄は心持よく笑う。
「そんなら結構だ、さあもう兄さんたちはよくおやすみだ。
するとラクシャン第四子が
ずるそうに
「そんなら僕一つおどかしてやろう。」
兄のラクシャン第三子が
「よせよせいたずらするなよ」
と止めたが
いたずらの弟はそれを聞かずに
光る大きな長い舌を出して
大学士の額をべろりと
大学士はひどくびっくりして
それでも笑いながら眼をさまし
寒さにがたっと
いつか空がすっかり晴れて
まるで一面星が
まっ黒な四つの
ただしくもとの形になり
じっとならんで立っていた。
野宿第二夜
わが親愛な
例の長い
すっかりくたびれたらしく
大きな
平らな
すたすた歩いて行ったのだ。
がらんとした大きな石切場が
口をあいてひらけて来た。
学士は
中に入って行きながら
三角の石かけを一つ拾い
「ふん、ここも
つぶやきながらつくづくと
あたりを見れば石切場、
石切りたちも帰ったらしく
小さな
「こいつはうまい。丁度いい。どうもひとのうちの
大学士は大きな近眼鏡を
ちょっと直してにやにや笑い
小屋へ入って行ったのだ。
土間には四つの石かけが
大学士はマッチをすって
火をたき、それからビスケットを出し
もそもそ
しばらくの間していたが
おしまいに火をどんどん燃して
ごろりと
夜中になって大学士は
「うう寒い」
と云いながら
ばたりとはね起きて見たら
もうたきぎが燃え
ただのおきだけになっていた。
学士はいそいでたきぎを入れる。
火は赤く
大学士は胸をひろげて
つくづくとよく暖る。
それから
二十日の月は東にかかり
空気は水より冷たかった、
学士はしばらく
それからたばこを一本くわえマッチをすって
「ふん、実にしずかだ、夜あけまでまだ三時間半あるな。」
つぶやきながら小屋に入った。
ぼんやりたき火をながめながら
わらの上に横になり
手を頭の上で組み
うとうとうとうとした。
小さな声で物を云い合ってるのが聞えた。
「そんなに
「おや、変なことを云うね、一体いつ
「そんなに張っているじゃないか、ほんとうにお前この
「おやそれは私のことだろうか。お前のことじゃなかろうかね、お前もこの頃は頭でみりみり私を
大学士は
起き上ってその辺を見まわしたが
声はだんだん高くなる。
「何がひどいんだよ。お前こそこの頃はすこしばかり風を
「はてね、少しぐらい僕が手足をのばしたってそれをとやこうお前が云うのかい。十万二千年
「十万何千年前とかがどうしたの。もっと前のことさ、十万百万千万年、千五百の万年の前のあの時をお前は忘れてしまっているのかい。まさか忘れはしないだろうがね。忘れなかったら今になって、僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。」
大学士はこの
すっかり
「どうも実に
大学士は又そろそろと起きあがり
あたりをさがすが何もない。
声はいよいよ高くなる。
「それはたしかに、あなたは僕の
「どうしたのじゃないじゃないか。僕がやっと
楢ノ木学士は手を
「ははあ、わかった。ホンブレンさまと、一人はホ

大学士は
一本出してマッチをする
声はいよいよ高くなる。
もっともいくら高くても
せいぜい
「それはたしかにその通りさ、けれどもそれに対してお前は何と答えたね。いいえ、そいつは困ります、どうかほかのお方とご相談下さいと
「おや、とにかくさ。それでもお前はかまわず僕の足さきにとりついたんだよ。まあ、そんなこと出来たもんだろうかね。もっとも誰かさんはできたようさ。」
「あてこするない。とりついたんじゃないよ。お前の足が僕の体骼の頭のとこにあったんだよ。僕はお前よりももっと前に生れたジッコさんを
大学士はよろこんで笑い出す。
「はっはっは、ジッコさんというのは磁鉄鉱だね、もうわかったさ、
なるほど大学士の頭の下に
みかげのかけらが落ちていた。
学士はいよいよにこにこする。
「そうかい。そんならいいよ。お前のような恩知らずは早く
「おや、
「
新らしい二人の声が
「オーソクレさん。かまわないで下さい。あんまりこいつがわからないもんですからね。」
「
「ははあ、
大学士はたきびに手をあぶり
顔中口にしてよろこんで云う。
二つの声が
「まあ、静かになさい。
「そうです、それは全くその通りです。けれども苦しい間は人をたのんで楽になると人をそねむのはぜんたいいい事なんでしょうか。」
「何だって。」
「ちょっと、ちょっと、ちょっとお待ちなさい。ね。そして今やっとお日さまを見たでしょう。そのお日さまも僕たちが前に土の底でコングロメレートから聞いたとは大へんなちがいではありませんか。」
「ええ、それはもうちがってます。コングロメレートのはなしではお日さまはまっかで空は茶いろなもんだと云っていましたが今見るとお日さまはまっ白で空はまっ青です。あの人はうそつきでしたね。」
双子の声が又聞えた。
「さあ、しかしあのコングロメレートという方は前にただの
「そうでしょうか。とにかくうそをつくこととひとの恩を
「何だと、僕のことを云ってるのかい。よしさあ、僕も
「まあ、お待ちなさい。ね、あのお日さまを見たときのうれしかったこと。どんなに僕らは
「それは僕も見たよ。」
「僕も見たんだよ、何だったろうね、あれは。」
大学士は又笑う。
「それはね、明らかにたがねのさきから出た火花だよ。パチッて云ったろう。そして熱かったろう。」
ところが学士の声などは
鉱物どもに聞えない。
「そんなら僕たちはこれからさきどうなるでしょう。」
双子の声が又聞えた。
「さあ、あんまりこれから
大学士はすっかりおどろいてしまう。
「実にどうも達観してるね。この小屋の中に居たって外に居たってたかが二千年も
その時
それからバイオタが泣き出した。
「ああ、いた、いた、いた、いた、痛ぁい、いたい。」
「バイオタさん。どうしたの、どうしたの。」
「早くプラジョさんをよばないとだめだ。」
「ははあ、プラジョさんというのはプラジオクレースで青白いから医者なんだな。」
大学士はつぶやいて耳をすます。
「プラジョさん、プラジョさん。プラジョさん。」
「はあい。」
「バイオタさんがひどくおなかが痛がってます。どうか早く
「はあい、なあにべつだん心配はありません。かぜを引いたのでしょう。」
「ははあ、こいつらは風を引くと腹が痛くなる。それがつまり風化だな。」
大学士は
「プラジョさん。お早くどうか願います。
「はぁい。いまだんだんそっちを向きますから。ようっと。はい、はい。これは、なるほど。ふふん。
病人はキシキシと泣く。
「お医者さん。私の病気は何でしょう。いつごろ私は死にましょう。」
「さよう、病人が病名を知らなくてもいいのですがまあ
「あああ、さっきのホンブレンのやつの
「いや、いや。そんなことはない。けだし、風病にかかって土になることはけだしすべて
「ああ、プラジョさん。どんな手あてをいたしたらよろしゅうございましょうか。」
「さあ、そう云う
「プラジョさん、プラジョさん、しっかりなさい。一体どうなすったのです。」
「うむ、私も、うむ、風病のうち、うむ、うむ。」
「苦しいでしょう、これはほんとうにお気の毒なことになりました。」
「うむ、うむ、いいえ、苦しくありません。うむ。」
「何かお手あていたしましょう。」
「うむ、うむ、実はわたくしも地面の底から、うむ、うむ、大分カオリン病にかかっていた、うむ、オーソクレさん、オーソクレさん。うむ、今こそあなたにも明します。あなたも丁度わたし同様の病気です。うむ。」
「ああ、やっぱりさようでございましたか。全く、全く、全く、実に、実に、あいた、いた、いた、いた。」
そこでホンブレンドの声がした。
「ずいぶん神経
「うむ、うむ、そのホンブレンもバイオタと同病。」
「あ、いた、いた、いた。」
「おや、おや、どなたもずいぶん弱い。健康なのは僕一人。」
「うむ、うむ、そのクォーツさんもお気の毒ですがクウショウ中の
「あいた、いた、いた、いた。た。」
「ずいぶんひどい医者だ。漢方の
大学士は又新らしく
たばこをくわえてにやにやする。
耳の下では鉱物どもが
声をそろえて叫んでいた。
「あ、いた、いた、いた、いた、た、たた。」
みんなの声はだんだん低く
とうとうしんとしてしまう。
「はてな、みんな死んだのか。あるいは僕だけ聞えなくなったのか。」
大学士はみかげのかけらを
手にとりあげてつくづく見て
パチッと向うの
それから
その時はもうあけ方で
大学士は
榾のお礼に
背嚢をしょい小屋を出た。
石切場の
その西側の面だけに
月のあかりがうつっていた。
野宿第三夜
(どうも少し引き受けようが
どうも
例の
少しせ中を高くして
つくづく考え込みながら
もう夕方の
頁岩の波に洗われる
海岸を
全く海は暗くなり
そのほのじろい波がしらだけ
一列、何かけもののように見えたのだ。
いよいよ今日は歩いても
だめだと学士はあきらめて
ぴたっと岩に立ちどまり
しばらく黒い海面と
向うに
それからくるっと
陸の方をじっと見定めて
急いでそっちへ歩いて行った。
そこには低い
崖の
大学士はにこにこして
中へはいって
それからまっくらなとこで
もしゃもしゃビスケットを
ずうっと向うで一列涛が鳴るばかり。
「ははあ、どうだ、いよいよ宿がきまって腹もできると野宿もそんなに悪くない。さあ、もう一服やって
大学士の吸う巻煙草が
ポツンと赤く見えるだけ、
「
涛がぼとぼと鳴るばかり
鳥も
洞をのぞきに人も来ず、と。ふん、
いつかすっかり夜が明けて
昨夜の続きの
青白くぼんやり光っていた。
大学士はまるでびっくりして
急いで洞を飛び出した。
あわてて
それを
「すっかり寝過ごしちゃった。ところでおれは一体何のために歩いているんだったかな。ええと、よく思い出せないぞ。たしかに
学士の
黒く頁岩の上に落ち
海はもの
空はそれより又青く
まばゆくそこに浮いていた。
「おや出たぞ。」
その灰いろの頁岩の
平らな
直径が一
五本指の足あとが
深く
所々上の岩のために
かくれているが足裏の
「さあ、
大学士はまるで
その足あとをつけて行く。
足跡はずいぶん続き
どこまで行くかわからない。
それに太陽の光線は
たいへん足が疲れたのだ。
どうもおかしいと思いながら
ふと気がついて立ちどまったら
なんだか足が
楢ノ木大学士はうしろを向いた。
そしたら全く
さっきから一心に
巨きな、
なるほどずうっと大学士の
足もとまでつづいていて
それから先ももっと続くらしかったが
も一つ、どうだ、大学士の
銀座でこさえた
あともぞろっとついていた。
「こいつはひどい。
学士はいよいよ
その足跡をつけて行った。
どかどか鳴るものは心臓
ふいごのようなものは呼吸、
そんなに一生けん命だったが
又そんなにあたりもしずかだった。
大学士はふと波打ぎわを見た。
たしかにさっきまで
寄せて
いつかすっかりしずまっていた。
「こいつは変だ。おまけにずいぶん暑いじゃないか。」
大学士はあおむいて空を見る。
太陽はまるで熟した
そこらも
「ずいぶんいやな天気になった。それにしてもこの太陽はあんまり赤い。きっとどこかの火山が
大学士はいよいよ
その足跡をつけて行く。
ところが間もなく泥浜は
「さあ、ここを一つ曲って見ろ。すぐ向う側にその骨がある。けれども事によったらすぐないかも知れない。すぐなかったらも少し追って行けばいい。それだけのことだ。」
大学士はにこにこ笑い
立ちどまって
マッチを
それからわざと顔をしかめ
ごくおうように
岬をまわって行ったのだ。
ところがどうだ名高い
その
その
煙草もいつか泥に落ちた。
青ぞらの下、向うの泥の浜の上に
その足跡の持ち主の
途方もない途方もない
いやに細長い
長さ十間、ざらざらの
短い太い足をちぢめ
小さな赤い眼を光らせ
チュウチュウ水を呑んでいる。
あまりのことに楢ノ木大学士は
頭がしいんとなってしまった。
「一体これはどうしたのだ。中生代に来てしまったのか。中生代がこっちの方へやって来たのか。ああ、どっちでもおんなじことだ。とにかくあすこに
いまや
そろりそろりと
来た方へ
その眼はじっと雷竜を見
その手はそっと空気を
そして雷竜の太い尾が
まず見えなくなりその次に
山のような
おしまい黒い舌を出して
びちょびちょ水を呑んでいる
大学士はまず助かったと
いきなり来た方へ向いた。
その足跡さへずんずんたどって
遁げてさえ行くならもう直きに
汀に
空も赤くはなくなるし
足あとももう泥に食い込まない
堅い
そこまで行けばもう
こんなあぶない探険などは
今度かぎりでやめてしまい
博物館へも断わらせて
東京のまちのまん中で
赤い鼻の連中などを
相手に
大体こんな計算だった。
それもまるきり
ところが楢ノ木大学士は
も一度ぎくっと立ちどまった。
その
見たまえ、学士の来た方の
泥の岸はまるでいちめん
うじゃうじゃの雷竜どもなのだ。
まっ黒なほど
長い頸を天に延ばすやつ
頸をゆっくり上下に
急いで水にかけ込むやつ
実にまるでうじゃうじゃだった。
「もういけない。すっかりうまくやられちゃった。いよいよおれも食われるだけだ。大学士の号も一所になくなる。雷竜はあんまりひどい。前にも居るしうしろにも居る。まあただ一つたよりになるのはこの岬の上だけだ。そこに登っておれは助かるか助からないか、事によったら新生代の
学士はそっと岬にのぼる。
まるで
合の子みたいな変な木が
崖にもじゃもじゃ生えていた。
そして本当に幸なことは
そこには雷竜がいなかった。
けれども
そこらの景色は
あんまりいいというでもない、
岬の右も左の方も
泥の
実にもじゃもじゃしていたのだ。
水の中でも黒い白鳥のように
頭をもたげて泳いだり
その
大学士はもう眼をつぶった。
ところがいつか大学士は
自分の鼻さきがふっふっ鳴って
暖いのに気がついた。
「とうとう来たぞ、
大学士は観念をして眼をあいた。
大さ二尺の四っ角な
まっ黒な雷竜の顔が
すぐ眼の前までにゅうと突き出され
その眼は赤く熟したよう。
その頸は
鼠いろのがさがさした胴まで
まるで管のように続いていた。
大学士はカーンと鳴った。
もう喰われたのだ、いやさめたのだ。
眼がさめたのだ、
まだまっ暗で
十二時にもならないらしかった。
そこで楢ノ木大学士は
一つ小さなせきばらいをし
まだ雷竜がいるようなので
つくづく
外ではたしかに
「なあんだ。馬鹿にしてやがる。もう
又たばこを出す。火をつける。
楢ノ木大学士は宝石学の専門だ。
その大学士の小さな家
「貝の火
赤鼻の支配人がやって来た。
「先生お手紙でしたから早速とんで来ました。大へんお早くお帰りでした。ごく上等のやつをお見あたりでございましたか、何せ相手がグリーンランドの途方もない成金ですからありふれたものじゃなかなか承知しないんです。」
大学士は葉巻を横にくわえ
「うん探して来たよ、
「ははあ、そいつはどうも、大へん結構でございました。しかし、そのお持ち帰りになりました分はいずれでございますか。
「ああ、見せるよ。ただ僕はあんな立派なやつだから、事によったらもうすっかり
「なるほど。」
貝の火
鼻の赤いその支配人は
こくっと息を
大学士の手もとを見つめている。
大学士はごく無雑作に
背嚢をあけて逆さにした。
下等な
三十ばかりころげだす。
「先生、困るじゃありませんか。先生、これでは、何でも、あんまりじゃありませんか。」
「何があんまりだ。僕の知ったこっちゃない。ひどい
大学士は上着の
出していきなり投げつけた。
「先生困ります。あんまりです。」
貝の火兄弟商会の
赤鼻の支配人は云いながら
すばやく旅費の袋をさらい
上着の
「帰れ、帰れ、もう来るな。」
「先生、困ります。あんまりです。」
とうとう貝の火兄弟商会の
赤鼻の支配人は帰って行き
大学士は葉巻を横にくわえ
雲母紙を張った天井を
斜めに見ながらにやっと笑う。