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茶話

昭和二(一九二七)年

薄田泣菫




暗示

5・1

中央公論



 かういふ話がある。

 ある時、山ぞひの二また道を、若い男と若い女とが、どちらも同じ方向をさして歩いてゐたことがあつた。

 二また道の間隔は、段々せばめられて、やがて一筋道となつた。見ず知らずの二人は、一緒に連立つて歩かなければならなくなつた。

 若い男は、背には空になつた水桶をかつぎ、左の手には鶏をぶら提げ、右の手には杖を持ちながら、一頭の山羊をひつぱつてゐた。

 道が薄暗い渓谷に入つて来ると、女は気づかはしさうに言葉をかけた。

「わたし何だか心配でたまらなくなつたわ。こんな寂しい渓谷を、あなたとたつた二人で連立つて歩いてゐて、もしかあなたが力づくで接吻でもなすつたら、どうしようかしら。ほんたうに困つちまふのよ。」

「え。僕が力づくであなたを接吻するんですつて。」男は思ひがけない言ひがかりに、腹立ちと可笑しさとのごつちやになつた表情をした。「馬鹿をいふものぢやありません。僕は御覧の通り、こんなに大きな水桶を脊負つて、片手には鶏をぶら提げ、片手には杖をついて、おまけに山羊をひつぱつてるぢやありませんか。まるで手足を縛られたも同然の僕に、そんな真似が出来よう筈がありませんよ。」

「それあさうでせうけれど······」女はまだ気が容せなささうに言つた。「でも、もしかあなたが、その杖を地べたに突きさして、それに山羊を繋いで、それから背の水桶をおろして、鶏をそのなかに伏せてさへおけば、いくら私が嫌がつたつて、力づくで接吻すること位出来るぢやありませんか。」

「そんなことなんか、僕考へてみたこともありません。」

 男は険しい眼つきで、きつと女の顔を睨んだが、ふとその紅い唇が眼につくと、なんだか気の利いたことの言へる唇だなと思つた。

 二人は連立つて、薄暗い樹蔭の小路に入つて往つた。人通りの全く絶えたあたりに来ると、男は女が言つたやうに、杖を地べたに突きさして、それに山羊を繋ぎ、背の水桶をおろして、鶏をそのなかに伏せた。そして女の肩を捉へて、無理強ひに接吻したといふことだ。



 この場合、若い男は初めのうちは何も知らなかつたのだが、女の敏感な警戒性が、思はず洩らした一言に暗示せられて、それを実行に移したのである。善行にせよ、悪業にせよ、すべて男の勇敢な実行の背後には、得てしてかうした婦人の暗示が隠れてゐるものだ。






底本:「完本 茶話 下」冨山房百科文庫、冨山房

   1984(昭和59)年2月28日第1刷発行

   1988(昭和63)年7月25日第7刷発行

底本の親本:「中央公論」

   1927(昭和2)年5月1日

初出:「中央公論」

   1927(昭和2)年5月1日

※〔〕内の編集者による注記は省略しました。

入力:kompass

校正:仙酔ゑびす

2014年10月13日作成

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