朱房銀
の
匕首 源内先生は旅姿である。
旅支度と言っても、しゃらくな先生のことだから道中合羽に三度笠などという物々しいことにはならない。
薄茶紬の
道行に短い道中差、絹の股引に
結付草履という、まるで摘草にでも行くような手軽ないでたち。
茶筅の先を妙にへし折って、
儒者ともつかず
俳諧師ともつかぬ奇妙な髪。知らぬ人が見たら医者が
失敗って
夜逃をする途中だと思うかも知れない。
源内先生は
高端折り。紺の絹パッチをニュッと二本突ン出し、笠は着ず、手拭を
米屋かぶりにして、余り利口には見えないトホンとした顔で
四辺の景色を眺めながらノソノソと歩いて行かれる。雨でも降ったらどうするつもりだろう、それが心配である。
尤も、先生一人ではない。
僕を伴に連れている。
先生は世話好きとでもいうのか、親に棄てられた
寄辺のない子供や、身寄のない気の毒な老人を、眼につき次第誰彼かまわず世話をする。
福介もその一人で、今から五年前、出羽の秋田から江戸へ出て来て、
倚るつもりの忰や娘に先立たれ、知らぬ他国で
如何しようもなくなって、
下谷の
御門前で行倒れになりかけているのを気の毒に思って連れ帰って
下僕にした。この世の実直を一人占めしたような老僕の福介。こちらは
足拵もまめまめしく、大きな荷を振分にして、如何にも晴れがましそうに、また愉しげにイソイソと先生の
後に引添って来る。
竹藪続きの
山科街道。
竹藪の向うの農家からときどき
長閑な

の声が聞える。
江戸を七月二十日に発ち、先年江戸へ上るとき世話になった
駿河本町二丁目、
旅籠屋菱屋与右衛門方へ
先度の礼かたがた三日程泊り、八月二十四日に京都へ着いて
山科の
三井八郎右衛門の
四季庵でまた三日ばかり、引止められるのを振切ってこれから大阪へ下ろうという
都合。
大阪には、先年長逗留の間、先生の創見にかかわる
太白砂糖の製法を伝授して大いに徳とされ、
富裕・
物持の商人に数々の昵懇がある。
先生が江戸へ
発とうとする時、生涯衣食のご心配はかけませんからどうぞ大阪にお止まりを、と言って皆々袖を引止めた程だったから、今度また先生が大阪へ下ったと知ったら、誰も彼もと押寄せて下にも置かぬ
款待をするにちがいない。先生にしたってそれは嬉しくない筈はないので、本来ならばもう少し
浮々してもよかるべきところを、見受けるところ先生の
面には一抹の憂色があって、トホンとした中にも
何処か屈託あり気な様子が見える。
源内先生の
憂悶の種はこんなことだった。
宝暦二年、二十一歳で長崎に勉強をしに行った時、長々
寄泊して親よりましな親身な世話を受けた
本籠町海産問屋、
長崎屋藤十郎の妹娘の
鳥というのが、江戸日本橋
小網町の廻船問屋
港屋太蔵方へ嫁に来ていて、夫婦仲もたいへんに
睦ましかったのだが、このお盆の十五日、ひわという下女を連れて永代へ
川施餓鬼に行った
帰途、長崎で世話になった
唐人さんが、今、江戸へ上って来ているから、一寸、挨拶をして来ると言って、
新堀町で女中を返し、自分ひとりで神田
和泉町の
陳東海の
仮宅へ訪ねて行ったところ、どういういきさつがあったのか、陳に殺されてしまった。
六ツ半といっても、夏のことだからまだ明るい。
陳東海の仮宅の垣根の隣が
伊草乙平という
謡の先生の家で、向うにも二十坪ばかりの庭があり、向うの梅の枝が垣根を越してこちらへ張り出し、隣の渋柿がこちらの庭に落ちるといったぐあい。垣根とは名ばかりで一つ庭のようなもの。
乙平は気骨の折れる
士勤をして肩を凝らすより、いっそ謡でも唱って気楽に、と自分から進んで浪人したくらいの芯からの江戸人。箱根を越えたことがないのが自慢なくらいなのだから、仮宅にもせよ垣根の隣へ唐人が越して来たのを気味悪がって、生来の潔癖から垣根の方へも寄らないようにしていた。
丁度六ツ半頃、庭に
盥を出させて
萩の
間で
行水を使っていると、とつぜん隣の家で、きゃッという
魂消えるような女の叫び声が聞え、続いて、
「あ痛っッ、
······陳さん、あなた、何で、あたしを、こんな目に
······。あれえッ、どなたか、どうぞ
······」
巴になって争っているような激しい足音がして、
「
······どなたかッ、
······どなたかッ
······」
と、言っているうちに、女の声は段々かすかになる。
乙平は捨てて置けなくなったので、手早く身体を拭いて
帷子を引掛け、刀を掴み取る暇もなく
素跣足のまま庭へ飛び下り、黒部の
柴折戸を
蹴放すようにして隣の庭へ飛び込んで行った。
沓脱石から一足飛びに座敷の中へ入って見ると、眼も当てられぬ光景になっていた。
落してまだ間があるまい。眉の跡が若葉の匂うよう。
薩摩上布に秋草の
刺縫のある
紫紺の
絽の帯を
町家風にきちんと結んだ、二十二、三の下町の
若御寮。
余り見馴れない、朱房のついた銀

の匕首で左の
肩胛骨の下のあたりを
の深く突刺されたまま、左脇を下にして鬢を畳に擦りつけ、
「あッ
······、たれか、助けて、ちょうだい
······たれか、はやく。
······死にたくないから。
······あなた、あなた
······」
それでも膝を乱すまいとして両膝を縮め無心に裾をかばっている。哀れなので。
乙平は一目見て、これは、もういけないと思った。気儘から謡の先生などをして暮しているが
一廉の心得のある武士だから、
生じい生命を
庇おうと
狼狽えまわるより、今のうちに聞くだけのことを聞いて置く方がいいと思ったので、左腕を背へ廻して女の上身を引立て、膝でそっと支えてやって、
「お
内儀、お内儀、何をこれしきの傷。死にはしないから、気を確かに持ちなさい」
「は、はい
······」
薄ッすらと眼を開けたが、すぐまた、がッくりとなるのを引起すようにして、乙平、
「弱ッちまッちゃいけない。それじゃ亭主に逢えんぞ。
確ッかりしなさい」
亭主という声が届いたのか、起上ろうと両手を泳がせながら、
「だい、じょうぶ
······」
「おう、元気が出たな、物が言えるか」
うなずいて、
「い、言えます」
「殺したのは誰だ」
「
······陳東海
······」
「この家の主人だな」
また、こッくりと頷いて、
「
······襖の向うから、あたしが挨拶しますとね、襖を明けてお入りッて言いますから、何の気もなく、襖を明けますと、どうしたというのでしょう。陳さんが朱房のついた匕首を振上げて、喰いつくような顔付で襖のすぐ傍に仁王立ちになッているンです。
······あたし、あッと驚いて、逃げ出そうとすると、追かけて来て、いきなり
後からこんな
酷いことを
······」
「何か恨みを受ける覚えでもあるのか」
もう精が尽き果てたのか、見る見るうちに顔が真ッ白になって、小網町、廻船問屋、港屋太蔵の妻、鳥と答えるのがようよう。後は何を訊いても頷くばかりだった。そのうちに手足に
痙攣が来て、
吃逆をするような真似をひとつすると、それで
縡れてしまった。
乙平が番屋へ訴え出、番屋から
北番所へ。
時を移さず、与力
小泉忠蔵以下、控同心
神田権太夫。それからお馴染のお手付御用聞、土州屋伝兵衛、引連れて出役。
手を尽して調べて見たが、格別乙平の訴えより変ったところもない。陳東海はお鳥を突刺して置いて自分は勝手口から飛出して行ったものらしい。その形跡ははッきりと残っている。もう一つは手口が少しちがう。日本人なら突ッ通すか
刳るか、この二つのうちだが、傷口を見ると、遠くからでも匕首を打込んだような、しゃくッたようなようすになっている。
殺された当人がはッきりと陳東海だと言ったのだから、これ程確かなことはないわけで、その日の夜遅く、同じく
唐通詞で
八官町に住んでいる
林明斎の宅へ立廻ったところを難なく捕縛された。
陳東海は、宝暦の初めごろから唐船の
財副になって交易のため幾度となく長崎に来、宝暦十一年から明和二年迄の四年の間、長崎の唐人屋敷に住んでいた。その年の春、急に故郷の
浙江県へ帰り、二年置いた明和五年の春、また長崎へやって来たが、たいへんに日本語が
巧なので長崎奉行から唐通詞を依頼され、
古川町の
闕所屋敷を貰ってそこに住んでいた。
陳東海は浙江県
寧波の大金満家の次男で、学士の試験に落第してから志を変えて交易に身を入れるようになった。尤も、それとても半分道楽のようなもので、日本の景物に親しむのが主な目的だった。たいへん日本の風儀を好んで、
寧波にある自分の家は日本風の二階造りにして畳を敷き、日本の
膳椀食具を使い、
烹調料理の品味もすべて日本の儘にやっていた。
家柄のある家に生れたので
眉目秀麗で、
如何にも貴公子然としており、立居振舞も鷹揚で、また品がよく
奥床しかったから、
己惚面をした美男の評判のある長崎の
小小姓などは足元にも寄れぬくらいだった。
何と言っても、通詞という官位を持っているのだから番屋調べをするというわけには行かない。伝馬町の
揚屋に入れて
手酷しく調べ詰めたが、どうしても自分が殺したとは言わない。
丁度その時刻には、自分は
市村座で芝居を観ていたという。芝居茶屋へ訊い
糺して見ると、来た時刻も帰った時刻もちゃんとウマが合っている。
茶屋へ入って
桟敷へ通ったのが
正午過ぎの八ツで、茶屋を出たのが
終演る少し前の五ツ半。如何にも眼立つ
服装をしているのだし、多分に祝儀をはずんだので、茶屋でははッきりと覚えていた。
しかし、桟敷で
身装を変えて小屋抜けをするぐらいは造作もなく出来ることなのだから、これだけでは嫌疑が晴れようわけはなく、
揚屋にそのまま留められたが、陳東海は、誰か自分によく似た男が自分に
成澄ましてこんなことをしたのに違いないと言張って、どうしても承服しないのだった。
源内先生の気を沈ませるのはこのことなのである。
お鳥の
姉婿、つまりお鳥の義兄が商用で長崎から大阪へ上り、いま川口の宿にいる。お鳥が陳東海に殺されたことはもう
早文で届いている筈だが、又もや出尻伝兵衛に引張り出されてこの事件に立合った関係上、
義兄の唐木屋利七にお鳥の無残な最期の
様子を物語らなければならないことが情けない。利七は義妹のお鳥を自分の血を分けた妹のように可愛がっていたのだから、どんなにか悲しむかと思うと、気が滅入って思わず足の歩みものろくなる。日頃軽快洒脱な源内先生が山科街道の砂埃を浴びながらトホンとした顔で歩いていられるのは、こういう次第に依ることだった。
唐館蘇州庵の
竹倚 大阪、川口の賑い。
菱垣番船、
伏見の
過所船、七村の
上荷船、茶船、柏原船、千石、
剣先、
麩粕船。
艫を擦り、
舷を並べる、その数は幾百艘。
檣は押並び押重なって遠くから見ると林のよう。出る船、入る船、積荷、荷揚げ。沖仲仕が
渡板を渡って
筬のように船と陸とを
往来する。
岸には大八車に
べか車、
荷駄の馬、
負子などが身動きもならぬ程に押合いへし合い、川の岸には山と積上げられた灘の酒、堺の酢、岸和田の新綿、米、
糖、
藍玉、
灘目素麺、阿波蝋燭、干鰯。問屋の帳場が揚荷の
帳付。小買人が駆廻る、仲買が声を
嗄らす。一方では
競売が始まっていると思うと、こちらでは荷主と問屋が手を
〆める。雑然、紛然、見る眼を驚かす
殷賑。
源内先生と福介はこの大混雑にあッちから押されこッちから突かれ、揉みくちゃになりながらようやく通り抜け、利七の常宿になっている
津国屋喜藤次の
門へ辿りつく。
源内先生、さすがに
魂消たような顔で、
「福介や、どうもえらい騒ぎだな。ここまで辿りつくのが命がけだった。まご/\すると踏み
潰されてしまう」
「初めて見る大阪の繁昌。上方の人は悠長だと聞きましたが、それは真赤な嘘。わたくしは頭を三つばかりも叩かれました」
「いやはや、どうも」
道行の皺を引伸ばしながら土間へ入り、長崎の唐木屋利七が泊っている筈というと、女中は怪訝な顔して内所へ入って行ったが、間もなく主人の
喜藤次が出て来た。
上框に膝をついて、
「ようお越しやす。
······へえ、唐木屋さんは如何にもわたくしどもへ泊っておいででござりますが、先月の十五日に
庭窪の蘇州庵たらいうところへ行くといやはりましてお出掛けになッた切り、かれこれもう四十日近くにもなるのだすが、
今以てお帰りなさりまへんので、わたくしどもでもご案じ申上げておるのでござります。お荷物は一切そのままになっておりますによって、どうでもそのうちにお帰りになるものと存じます。尤もな、お
発ちになる時、ひょっとしたら大津の方へ廻るやも知れんと、そう仰言ってでござりましたゆえ、多分、そッちゃの方へでもお廻りになったのかと存じますが
······」
と言って、帳場の状差を
指し、
「ごらんの通り、長崎やお江戸から赤紙付やら
早文やらあの通り
仰山に届いておりますんだすが、当の唐木屋さんの行先がわからんことだすさかえ、どうしようもござりませんで、ああしてわたくしどもでお預りしてあるのでござります。
······あなたさまも、あの、やッぱり長崎の方から、
······」
「いや、わしは江戸から来たのだが、
一寸利七さんに所用があってお寄りしたようなわけだッたんだが、居ないというんじゃどうしようもない。先月の十五日に出たッ切り帰らない人をここで
何時までも待っているわけにもいくまいから、ちょっと一と筆書残して行くことにしよう」
源内先生は、矢立と懐紙を取出して筆を走らせているうちに何を思ったか筆を止め、自分の額を睨め上げるようにしながら何事か熟思する体だッたが、急に唸るような声で、
「うむ、こりゃいかん。よもやとは思うが、ことによればことによる。ひょっとすると
······」
わけの判らぬことを
独でグズグズ言っていたが、主人の方に膝を向け変え、
「唐木屋が出て行くとき何か変ったことでもありませんでしたかな」
主人は、
嚥みこめぬ顔で、
「へえ、格別、変ったこともござりませなんだが。
······朝の四ツごろ
使屋が封じ文を持って来まして、唐木屋はんはそれを読むと、急にこう
厳つウい顔付にならはりまして、間もなくそそくさとお出かけになられましたが
······」
源内先生は、セカセカと立ち上って、
「ご亭主、わしはな、急な用事でちょっと出かけて来るから、わしの荷物とこの供を預って貰います。では、ちょっと」
挨拶をするのももどかしそうに前のめりになって津国屋の門を飛出して行った。
それから
二刻ばかり後、源内先生は淀川堤に沿った京街道を
枚方の方へセッセと歩いて行く。何か余程気にかかることがあると見えて、時々思い出したようにブツブツと
独言をいうかと思うと、急に立止って腕組をする。見るさえ気の重くなるようなようすである。
一面の
萱葦原で長雨の後のことだからところどころ水浸しになり、葦の間でむぐっちょが鳴いている。
川の向うには
緩い丘の起伏がつづき、
吹田や
味生の村々を
指呼することが出来る。
源内先生は、堤の高みへ上り
手庇をして、広い
萱原をあちらこちらと眺めながら、
「
先刻、聞いたところでは、もうそろそろ蘇州庵というのが見えねばならぬ筈だが、ただ一面、茫々の萱葦原。一筋道だから道に迷う筈もないのだが」
と、呟いていたが、それからまた一丁ばかり堤の上を歩いて行くと、赤松林の向うに
緑青色の
唐瓦を置いた棟の
反った支那風の建物が見えて来た。
檐に
風鐸をつるし、
丹塗の唐格子の
嵌った丸窓があり、舗石の道が丸く
刳ッた石門の中へずッと続いている。源内先生は、
「おッ、あれだな」
と呟きながら、
呆気に取られてその方を眺めていたが、
「
杭州から
福県のあたりを荒し廻った海賊の
五島我馬造が隠居所に建てた唐館だそうだが、それにしても酔狂にも程がある。どちらを見ても葦ばかり、一向眺めとてもないこんな湿地に何のつもりであんなものを押ッ建てたのだろう。海賊なんてえものは変ったことをするものだ」
と、独言をいっていたが、急に首を振り、
「いやいや、そうじゃない。堤を越えるとすぐ淀川。まわりに人家とてもないのだから、どんな芸当でも出来そうだ。夜に
紛れて
上荷船で密貿易の品を運び上げ、よくないことでもしていたのに違いない。
······それはそれとしても、唐木屋利七は、一体、何のためにこんなところに用があッたンだろう。そんな男とは見えなかったが、何と言ってもあいつの商売は支那物なのだから、あんな顔をしてこッそり抜買をしていたのかも知れん。して見ると、おれの見込はまるッきり大外れになるわけだが。まア、しかし、こんなことを言ッてたってしようがない。
······間違いなら間違いでもよろしい。折角ここまでやって来たんだから、兎も角、
内部へ入って見ることにしよう」
口措かずにぶツくさ言いながら堤を下りて赤松の林を通抜け、舗石道について丸い石門の中へ入って行く。
人が住まなくなってからもう余程になると見え、舗石の間からは雑草が萌え出し、屋根から墜ちて砕けた緑色の唐瓦が、草の間に
堆高く積んでいる。石の
階段は雨風に打たれて
弓状に沈み、石の
高麗狗は二つながらごろりと横倒しになっている。
蔓草は壁に沿って
檐まで這上り、唐館は
蜻蛉や
羽蟻の巣になっていると見えて、支那窓からばったや蜻蛉がいくつも出たり入ったりしている。どこもかしこもおどろおどろしいばかりに荒れ果てゝいるうちに、
唐櫺子の朱の色だけが妙に
鮮で、如何にも不気味である。
源内先生は格別気にもならない風で、今迄の
急込み方と反対に、今度はいかにものんびりと石の階段を
踏上って行く。
喜字格子の戸を押して中へ入ると、館が厚い石造のところへもって来て窓が小さいから部屋の隅々が澱んだように暗い。
入ったところは玄関の間といった体裁で、床一面に
蓆籘が敷詰めてある。次の
押扉を押すと部屋かと思いのほか長い廊下になっていて、その両側に
交互に部屋の扉がついている。
たぶん隠し天窓でもあるのだろう、何処から来る光か知らぬが、暗い筈の廊下が遠くまでぼんやりと薄明るくなっている。
源内先生は、克明に一つずつ扉を
引開いては部屋を覗いて歩く。寝室のような部屋があるかと思うと、化粧の間とでもいったような、
玻璃の大鏡が無残に
毀れた床に墜ち散っている部屋もある。朱と金で
彩った
一抱えほどもある大
木魚が転がッているかと思うと、支那美人を描いた六角の彩燈が投げ出してある。
段々進んで行くと、これで最後かと思われる手広い部屋があって、壁に「
蘊藉詩情水雪椀、
高間画本水雲郷」と書いた聯が二つ懸かっている。
源内先生は、うッそりと聯の文字を読んでいたが、何気なくヒョイと
闇溜になった部屋の隅の方へ眼をやると、何か余程怖いものを見たとみえ、日頃そう
狼狽えたところを見せない源内先生が、
「おッ、これは!」
と叫んで、三、四歩入口の方へ逃出した。
葬儀でもした後と見え、祭壇をこしらえた一段高いところに
作付けの燭台に蝋燭が燃え残り、床の上には棺に供えた
団子や供養の
金箔紙、
白蓮花の仏花などが落ち散って無残に
踏躪られている。
祭壇から三間程離れた部屋の隅に一脚の
竹倚が置いてあって、その上に一人の男が朱房のついた
匕首を
の深く背中に突立てられたまま胸の上にがッくりと頭を落している。
唐館の中は夏でも膚寒いほどの涼しさだが、殺されてから余程時日が経つと見え、肉はすッかり腐り切って、触ったらズルズルと崩れ落ちそう。左側の
鬢の毛が
顳
から離れて皮膚をつけたまま
髷もろとも右の横顔へベッタリと蔽いかぶさっている。
源内先生は、入口に近いところで中腰になったまま、
怯々とこの物凄い光景を眺めていたが、間もなく何時ものような落付いた顔付になり、ノソノソと死骸の方へ戻って来て、
「案の定だッた。江戸でお鳥の殺されたのが七月の十五日。
······津国屋の
主人から利七が同じ七月の十五日に手紙で誘い出されたまま帰って来ないということを聞いた時、利七はもうこの世のものでなかろうと予察したが、矢張りおれが見込んだ通りだった。
······どうも、気の毒なことをした。こんな
破寺のようなところで、こんな
姿態で殺されたんでは利七だって浮ばれない。
······おれがやって来なかったら、この先、幾年こんな惨めな恰好で放ッて置かれるか知れたもんじゃない。これも矢ッ張り縁のある証拠。
······南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。町人にしては濶達ないい気性の男だッたが、惜しい男を死なせてしまった。お前がこんな
態で死んだと聞いたら、お種さんは涙の壺を涸らすこッたろう。江戸ではお鳥さんが陳東海に殺されるし、その同じ日に、お前がこんなところで殺されている。
唐商売なんぞに手を出すからこんな目に逢うのだ。
······なア、利七さん、一体、お前を殺したのは誰なんだね、などと訊ねたって、お前に返事の出来るわけはないが、お前だッて生きている間は性のある男だッたから、幽霊にでもなって出て来てどうかおれに教えてくれ。むかし世話になった恩返し、きッとおれが
敵を取ッてやるから、なア、利七さん」
さすがの源内先生も、余り無残な有様に哀れを催したと見え、死骸の肩に手を掛けんばかりにして
諄々と説いていたが、そうしようという気もなく、利七の死骸を眺め廻しているうちに、ちょっと不思議なことに気が附いた。
左手は、だらりと床の方へ垂れ下っているのに、
竹倚の腕木にのせた右手の人差指が何事かを指示すように三尺ばかり向うの床の一点を
指している。
指された
辺を源内先生が眼で辿って行くと、床に敷いた
油団の端が少しめくれ、その下から紙片のような白いものが
覗出している。源内先生は、頷いて、
「さすがは、利七さん、つまり、あれをおれに読めと言うんだね。よしよし、待っていなさい。いま読んでやるから」
生きている人間に言いかけるようにそう言って置いて、油団の上に膝をつき、その下から四つに折った小さな紙片を引出した。
懐帳面の紙を引裂いたのらしく、丈夫な
三椏紙で、たぶん血であろう、端の方にべッとりと
赤黝い
汚点がついている。
わたしを殺した者は、長崎、古川町に住む、
唐通詞陳東海と申す者にて候、七月十五日手前家内お種との古き因縁事に就き、是非共談合、
埒を明け度き事
有之につき
庭窪の蘇州庵迄出向くようとの書状を受け、捨置き難き事に候間申越せし儘其処へ出向き候、蘇州庵に着き候頃は早や五ツ半にて、月の光を頼りに唐館の奥へ進み行き候処、此部屋より燈火が漏るるに依り、戸を引開け候に如何なる次第なるや、戸口のところに陳東海が朱房の附きたる匕首を
振翳して立ちはだかり居るなれば、余りの理不尽に手前も
嚇怒致し、何をすると叫びながら組付行くに、その
煽りにて蝋燭の火は吹消え、真の闇となり、皆目見当も附かぬ事なれば壁際に難を避けんとする処、陳は手前の背後より
抱付きて匕首を突刺し其
儘何処へか
逃去申候、たいへんなる痛手にて最早余命
幾許も
無之と
存候、この様なる所にて犬畜生同様名も知れぬ
屍を
曝すこと如何にも口惜しく候
儘、息のあるうちに月の光を頼りに一筆書残し申候、右に
認めし條々実証也
長崎本籠町 唐木屋利七
源内先生は、窓の傍で繰返し巻返しそれを読んでいたが、また利七の
傍へ戻って来て、
「確かに拝見しました。
······でもね、利七さん、あなたの見違いではなかッたのかね。陳東海は確かに江戸にいるのみならず、同じ日の同じ頃、江戸でお鳥さんを殺している。江戸から大阪迄は百五十里の
道程。江戸で人を殺している人間が同じ日の同じ頃に大阪で人を殺せるわけのものではない。どうもあなたの見違いだッたと思うほかはない。さもなければ、陳東海に
双生児の兄弟でもあって、二人で
諜合せて
殺ッたことかも知れない。しかし、何であるにせよ、必ずわたしが追詰めてあなたとお鳥さんの敵を取ッてあげますから、それが供養だと思ってどうか成仏してください。ねえ、利七さん、あなたの
骨はあたしが長崎迄抱いて行ってあげますから」
盂蘭盆の夜の出来事
検屍やら
骨上げやら葬式やらと、福介と二人で何から何迄仕切ってやってのけ、大阪で初七日を済まし、奉行所の手続きもすっかり
了えてから、詳しく事情を認めて江戸の伝兵衛のところへ
早飛脚を立てた。
江戸と大阪で同じ日の同じ刻に同じ唐人がそれぞれ二人の人間を殺したというので、これがたいへんな評判になり、何処へ行ってもこの噂ばかりだッた。
どう考えても有りようもないことだが、江戸ではお鳥がはッきりと陳東海だったと言い、利七の方も、紛れもなく陳東海だときッぱりと書残している。死ぬ間際に益もない作りごとをする筈もないのだから、二人の申立は事実だと信ずるほかはない。
理窟から言うと、そんな馬鹿なことが、と頭からけなしつけることも出来るが、そうとばかり簡単に片附けられぬ節もある。えらそうには言って見るが宇宙の輪廻の中では人間の智慧などはどの道
多寡の知れたもので、世の中には理外の理というものがあって、一見、どうしても不可能としか見えぬことも、方法を以てすれば実に造作なくやって
退けられるのかも知れぬ。
あの日以来、七日の間、先生は暇さえあれば津国屋の
離座敷で腕組をして考えていたが、今度ばかりはどうしても事件の核心を
衝くことが出来ない。こんなところで何時までも首を捻っていたッてどうにもならないことなので、長崎迄の船の中でとッくり考えようと肚を決め、未解決のまま利七の骨箱を抱いて九月四日に
津港から長崎行の便船に乗込んだ。
冬とちがって
風待や
凪待もなく、二百里の海上を十一日で乗切り、九月十七日の朝、長崎に到着した。
船は神崎の端をかわして長崎の港へ入る。
長崎の山々は深緑を畳み、その間に
唐風の
堂寺台閣がチラホラと
隠見する。右手の
丘山の
斜面には
聖福寺や
崇徳寺の唐瓦。中でも
崇福寺の丹朱の一峰門が山々の濃緑から
抽ん出て、さながら
福建、
浙江の港でも見るよう。
出島に近い
船繋場には、和船に混って黒塗三本
檣の
阿蘭陀船や、
艫の上った
寧波船が幾艘となく碇泊し、赤白青の
阿蘭陀の国旗や
黄龍旗が
飜々と微風に
靡いている。
山々のたたずまいも港の繁昌も、十七年前と少しも変らない。何もかもみな思い出の種で、源内先生は、深い感慨を催しながら舷側に
倚って街や海岸を眺めていたが、そのうちに
頸に下げた骨箱に向って、
「さあ、利七さん、長崎へ帰りました。ここはあなたの生れ故郷。さぞ懐かしいこったろう。いや、口惜しく思いなさるだろう。生きて帰れる身が唐人づれの手にかかってこんな姿になってしまったんじゃ、あんたも口惜しかろう。間もなくお種さんに逢わせてあげますが、こういうあなたの姿をお種さんが見たらどのように歎くかと思い、それが
辛くてなりません」
福介も、悲しそうな顔をして、
「また愚痴になりますが、わたくしめらも
忰や娘に先立たれ、その辛さは骨の髄まで知っております。いきなりこんな姿をごらんになったら、まあ、どのような思いをなさることやら」
「役にも立たぬ繰言を繰返していたってしようがない。どうやら
船繋も済んだようだから、そろそろ上陸の支度をしなさい」
迎いの
小艀に乗移って陸へ上り、そこから真直に
本籠町へ行く。
長崎屋藤十郎の門まで行くと、十二間間口の
半まで大戸をおろし、出入りする人の顔付もひどく沈み切って、家の様子も何となく陰気である。
源内先生は、福介を
後に従えて土間へ入り、名を告げて案内を乞うと、間もなく奥から
蹌踉出して来た、長崎屋藤十郎。
昔は藤十郎の
恵比須顔と言われたくらいの肉附のいい福々しい顔が、こうまで変るかと思われるような
窶れ方。額には悲しみの皺を畳み、頬は痛苦の
鉋で
削取られ、薄くなッた白髪の鬢をほうけ立たせ、眼は真ッ赤に泣き腫れている。腰を曲げ、
瘧にかかったようにブルブルと両手を震わせながら、よろぼけよろぼけ、見る影もないようすで
上框まで出て来て、そこへべッたりとへたり込むと、
「
貴君、平賀さまですと。ああ、夢のごたる。ほんとのこツと思われんと」
と言って、両手を顔にあてて泣き出した。
源内先生は、平素の無造作に似ず、
叮嚀に頭を下げて、
「早いようでも、数えればもう十七年。わたくしもまるで夢のような気持がいたします。四季のお便りに、いつもお元気の体を拝察して
欣ばしく存じておりましたが、いつもご健勝で何より。その節はいろいろとお世話に相成りまして有難うございました。この度はご縁あってまた当地へ
罷り下りましたが、なにとぞよろしく」
藤十郎は、はいはい、と頷くきりで泣くのを止めない。
思うに、江戸からお鳥の変死の報知が届き、それで一家中が悲嘆の涙に沈んでいるのであろう。そういう折にまた娘婿のこの哀れなさまを見せ、その無残な死にざまを話さねばならぬと思うと、先生も
些か辛すぎて身を切られるような心持がする。我ともなく首に掛けている骨箱を道行の袖で蔽い隠すようにしながら、
「お見受けするところ、何か非常なご不幸でもあッたようす。お
支障なければ、どうかこの源内に
······」
藤十郎は、片手で涙を抑えながら、
「はいはい、申上ぎょうですが、こぎゃんとこではお話も出来ませんけん、さあ、どうかあッちへ
······」
福介を土間の
床几に残して、
見世庭から
中戸を通って奥座敷へ導かれてゆく。
檐には
尾垂と竹の雨樋が取付けてあり、広い庭に
巴旦杏やジャボン、
仏手柑などの異木が植えられ、
袖垣の傍には
茉莉花や
薔薇花などが見事な花を咲かせている。
座に着くと、藤十郎は膝の上へ顔を俯向けながら、
「わたしのような、こぎゃん不幸者は
唐天竺まで捜したッてまたとあろうたア思われまッせん。同じ日の同じ刻に江戸と長崎で姉娘と妹娘が
唐人めらの手にかかって
殺められるなンて、そぎゃんことが、この世にあり得ることでッしょうか」
源内先生は、ひえッと息を引いて、
「まあ、ちょッとお待ちください。いま伺っていますと江戸と長崎で同じ日の同じころに姉娘と妹娘が、と仰言いましたが、すると、何んですか、お種さんの方にも何か間違いが
······」
藤十郎は、頷いて、
「そン通りでございます。姉娘のお種も同じ七月十五日の
盂蘭盆の夜、古川町
闕所屋敷で唐通詞の陳東海に匕首で脊骨の下を突ッぽがされて死んでしまいました」
先生は思わず膝を乗出して、
「それは、ほ、ほんとうのことですか」
「わたしが何ンの
虚言を言いまッしょうか。
本当のことでござります」
「陳東海が殺したと誰が言いました」
「お種がじぶんの口から申しました」
「
煩いようですが、確かに、陳東海だと言いましたか」
「そン通りでございます」
「それを聞いたのは誰でしたか」
「このわたしでござります」
同じ七月の十五日、江戸と大阪と長崎で三人の男女が同じ人間に同じ方法で殺害された。
庭窪の蘇州庵で無残な利七の死に
態を見たとき、何等かの方法でやれぬこともないと思い、また、ひょッとしたら陳東海の
双生児の兄弟が
諜合せてやったことかとも考えていたが、ここに到っては源内先生も唖然となるほかはない。
源内先生は究理学者だから魔法の妖術のということは絶対に信じない。この世の万事はすべて物理に依って支配されているのであって、それを無視した超自然の事などはあり得よう筈がないが、しかし、何と言っても、不思議は不思議。歴史始まって以来、このような奇異な殺人が行われたことはまだ聞かない。
源内先生は、吐息をついて、
「いや、どうも驚き入ったことです。この世にそんなことが現実に行われようとも思われませんが、しかし、何と言っても事実は事実。わたくしにも少々考えがありますから、どうか一切の次第をお包み隠しなく仰言っていただきとうございます」
「とうてい
公然に申されん
耻かしかことですばッてん、今迄は誰にも申したことがござりませんでしたけンが、かくなる上は何事も
明瞭と申上げまッしょう。
······今から八年前のことでございました。お種が十七の時、お諏訪さまの踊子にいたしましたが、その年の九月、ちょうど夏船が二十九艘一時に着き、桜町の
箔屋が例年の通り
桟敷を造って船頭や
財副や
客唐人を招いて神事踊ば見せたのでござりました。
······その中に陳東海がまじッておッたのですけんが、そン節お種を見染め、手紙に添えて
指輪やらビードロの
笄簪やら
金入緞子やら
南京繻子やら、さまざまの物ば
一生懸命て送ってまいります。申すまでもなく
唐人さんと
堅気の娘が
会合うことは法度でござりますばッてん、お種も
最初のうちは恐ろしかと思い、わたしに隠して一々送り返していたとですが、お種はちっと
早熟者のところへ、向うは美しか
唐人ですけん、
何時の間にかほだされて
悪戯ばするようになりました。間もなく
船発になり陳は
寧波へ帰ってしまいました。お種のつもりではほんの遊びごとのつもりで、それなり忘れてしもうておったとでござりますばッてんが、陳は翌年の夏船でまたもややって来まして、お種と以前の
情交になろうとさまざまに辛労する体でござりましたが、そン時はもう利七と
婚約が出来ておりましたけんに、お種の方では見返る気もなく、
素気素法な返事をしましたので、そるけんで陳は
悄々帰って行きました。これで
断念るかと思いのほか、また翌年の夏船でやって来て、ひちくどく纏いつきますけん、お種も腹を立て、
云分つくる気なら勝手にしなされ、あんたごたるひとはもう
愛しかとも何ンとも思っておりまッせん。もうあッちのとこへ来らッしゃんな、ときッぱりと
拒絶いたしました。その秋にお種は利七のところへ
輿入れいたしましたが、陳はそれでも
断念兼ねたと見えまして、それから足掛三年
唐人屋敷に
居住んでおりましたが、さすがに
気落して、何時の間にやら音沙汰なしに帰ってしまいました。
······それからまた二年おいた
一昨年の秋、ひょッくりやって参りまして、そン節の
詫言をさまざまにいたし、お種さんの
婿殿が
唐木の
商売をしておるというのであッたら、
寧波の自分の山に
仰山唐木があるによって、欲しいだけ
元価で積出させまッしょう、と申します。利七も
甚ッと喜んで以来陳と友達同士のようになって暮しておりました。以前のことはわたしと陳とお種の三人の腹におさめ、生涯無かったことにすると約束をいたしました。何もかも済んだこととばっかり思うておりましたところ、思いもかけないこぎゃん
酷たらしい始末になったとでござります。それにしても、お種だけならいざ知らず、
科もゆかりもないお鳥まで
殺めてしまうとは、何たる非道か奴でござりまッしょうか。鬼というてもこうまで
残忍かことはいたしますまい」
「いや、よく解りました。それで、お種さんは一体どんな風にして殺されたのですか」
「最初に見つけましたのは古川町の火の番なのでござりますげな。通詞は江戸へ上ってい、留守居もおらぬ筈の闕所屋敷からチラチラと灯が見えますけん、
悪漢でも入込んでいるのかと思うて調べに入りますと、お種が脊中に朱房のついた
唐匕首を突刺されて俯伏せに倒れております。
吃驚して
乙名の宅へ
馳付け、乙名からわたしどもへ知らせがありましたけん、動顛して駈付けて見ましたれば、お種はまだ虫の息で、あッちを殺したのは陳ですけんで、
是非、
敵ば取っておくんなしゃい、と申しました。細かしく訊ねますと、陳が江戸へ上る日、お種に申すには、あんたから貰うた手紙がわたしの居間の箪笥の中にひと
括にしてあるけん、盂蘭盆の夜の五ツ半頃、みなが
焔口供の
法会に唐寺へ行った頃を見澄ましてそっと取りに来い、ということで、お種もかねがねそればッかり気に病んでおッたのでしたけんに、約束通り、
唐人がみな寺へ上った頃出かけて行って陳の居間へ入り、燭台の蝋燭に火を点して見ると、誰もいないと思った闇の中に、陳が朱房のついた匕首を振上げて物凄い顔で突ッ立っております。そるけんで、お種は仰天してバタバタと廊下まで走出したところ、陳が
背後から追付いて無残に匕首で突刺したのだと申しました」
源内先生は、口を挟まずに聴いていたが、藤十郎が語りおわると、今迄自分の
後に差置いてあった骨箱を藤十郎の膝の前に据え、
「さぞ、お驚きのことと思いますが、
秘し隠して置くわけにはいきません。利七さんは、大阪でこんなことになッてしまいました。月も日も刻も同じ七月の十五日の夜、庭窪の蘇州庵という
破れ唐館で同じように朱房の匕首で背中を後から突かれて死んでおりました」
聞くより、わッと泣き出すかと思いのほか、藤十郎は、眼を
繁叩きながら、頷いて、
「案の定、やッぱり利七も。
······江戸と長崎で二人が
殺められた以上、どッち道、利七も助かる筈はないと、
疾ッくに覚悟を決めておりました。
······これが利七でございますか。可愛いや可愛いや、何ンの
罪科もないお前までこんな姿になってしもうた。何ンでわたしも殺さんのでッしょう。そうしたら、いっそ楽しかるべきを」
ホロホロと、膝へ涙を落した。
銀燭台の蝋燭の灯
翌日の九月の十二日は
諸聖祭の日で、蘭人は
死蘭人の
墓詣りをし、天守堂に集まって礼拝する。
十五日は
阿蘭陀八朔の日で、
甲必丹は奉行所を訪問して
賀詞を述べ、それから代官、町年寄などの家を廻って歩く。蘭館では饗宴の席を設け、奉行並に奉行所役人、
通詞出島乙名、その他友人、蘭館出入りの者を招いて盛な酒宴を催してこの日を祝う。
甲必丹もヘトル役も外科医も、皆、江戸で懇意にしておったので源内先生も招かれてその祝宴に連ることになった。
先年いろいろ世話になった大通詞の
吉雄幸左衛門や通詞の西善三郎なども招かれて来ていて、参府の折の本草会の話なども出たが、先生の胸中には悲哀の情と
佶屈の思いがあるので、どうしても気が浮立たない。
そのうちに食卓開始の合図の鐘が鳴って、一同の後につづいて食堂に入ると、
食卓の上には銀の
肉刺や
匙が美しく置かれ、花を盛った瓶をところどころに配置し、
麺麭を入れた
籠や
牛酪容などが据えられてある。
最初に
鼈の
肉羹が出、つづいて
牛脇腹の
油揚、
野鴨全焼という工合に次から次に珍味
佳肴が運び出される。
阿蘭陀料理は源内先生の最も好むところで、このような珍味を食い葡萄酒を飲みながら植物学者ヤコブスの如き
高足と談笑することは、この世での最上の愉快とするのだが、思うまいとしても蘇州庵の
竹倚で殺されていた利七の無残な姿やお鳥の哀れな死顔、また藤十郎の悲歎に
窶れたようすなどがチラチラと眼に泛び、何を喰べても何を飲んでも一向に味がわからない。気がついて見ると何時の間には
肉刺を置いて我ともなく愁然と腕組をしている。
隣の
吉雄幸左衛門が見兼ねたものか、どうなすった、だいぶお顔の色が悪いようだが、と囁いたが、それにもちょっと頭を動かして頷いたばかり、返事をする気にもなれない。
源内先生は、じぶんが
目睹したところと藤十郎から聴いた事実をあれこれと照し合せ比べ合せ、頭の中でしきりに結んだり解いたりしていたが、そのうちに、冬の夜明けのような極く漠然とした希望の光が頭の中へ
射込んで来た。
源内先生は、思わず膝を叩いて、
「
〆たッ、これでどうやらようすが判って来た」
と、頓狂な声で叫び立てると、急に談笑を止めてびッくりしたような顔で、こちらを眺めている一同に会釈しながら、
「甚だご無礼ですが、
実以て
拠んどころない急用を思い出しましたから、中座をさせていただきます。その代り、このお詫びとして、後日ある場所へご案内いたし、不思議なものをごらんに入れて各位の心魂をお驚かせ申すつもりでございます。
······それにつきまして甚だ申訳がありませんが、提灯がありましたら借用ねがいたい」
と言って、提灯を借受けると、スタコラと出島の蘭館を出て行った。
福介は、先生が余り物事に凝り過ぎて、とうとう気が
狂れてしまったのだと思った。昼は芭蕉扇を腹の上にのっけて夕方まで眠りつづけ、とッぷりと日が暮れると、蝋燭やら物差やら縄梯子やら、何に使うのか得体の知れぬ雑多なものをひと抱えにして長崎屋を飛出して行き、夜がほのぼのと明けるころ、着物に鈎裂を
拵え身体中蜘蛛の巣だらけになってがッかりと
憊れて帰って来る。
こんなことが五日程つづいた後の朝、何時になく大元気大満悦の体で帰って来て、
「福介や、とうとう
鬼唐人のからくりを
看破ってくれた。ひとを馬鹿にしやがッて、実にどうも飛んでもない野郎だ。こういう風にぎゅッと尻尾を押えた以上は、いくらジタバタしたってもう逃しっこはない。伝馬町の獄門台へ
豚尾のついた
梟首を
押載せてやるから待っておれ
······何を
魂消たような顔でおれの面を見ている。今夜はお前にも面白いものを見せてやるから、今のうちに昼寝でもしておいたらよかろう」
そう言って、机に向って忙しそうに短い手紙を幾つも書き出した。
長崎奉行宛に一通、与力同心衆一同として一通、
甲必丹オルフェルト・エリアス殿並に館員御一同として一通、吉雄幸左衛門宛に一通、西善三郎へ一通、手早く
認めて
使者に持たせて出してやり、朝食をおわると下帯一つになって芭蕉扇で胸のあたりを煽ぎながらぐっすりと寝込んでしまった。
とっぷりと日が暮れてから悠々と起出して衣服を替え、藤十郎と福介を連れて長崎屋を出る。
福介は心配して、
「先生、これからどちらへ」
先生は、
煩そうに首を振って、
「煩くいうな、来て見りゃアわかるさ」
と、
膠もない。
行着いたところが古川町の闕所屋敷、唐通詞陳東海の宅だった。
まるで自分の家ででもあるように横柄な顔で玄関からズカズカと奥へ
罷り通る。
そこは陳東海の居間と
覚しく、三十畳程の広々とした部屋で、床には
油団を敷詰め、壁には
扁額や聯を掛け、一方の壁に寄せて物々しいまでに
唐書を積上げてある。書箱の
傍に紫檀の書卓と椅子があって、その下に見事な豹の皮が敷いてある。
机の上には銀の燭台が造付けになっていて三分の一ばかり燃え尽した支那蝋燭が差込まれている。
部屋の中には奉行始め出島乙名、
甲必丹オルフェルト・エリアスと館員一同、与力と同心が五人ずつ、吉雄幸左衛門、西善三郎、案内を出した人は一人も洩れなく先着していて、何事が始まるのかといった顔付で思い思いのところへ控えている。
源内先生は、藤十郎と福介を下座の席へ置き、一同の前に進んで一礼してから、
「
今夕、ここへお集まり願ったのは、他のことでもありません。既にお聴き及びのことでございましょうが、同じ七月の十五日に、江戸、大阪、長崎とこの三つの場所でそれぞれ三人の人が殺され、その三人はじぶんの加害者が陳東海だと申立ております。諸兄のご
思惟にありますように、人間として江戸と大阪と長崎で同日同刻にそれぞれ三人の人間を殺すなどということが出来得べき筈のものではない。これには何か必ず手段がなくてはならぬのであります。思うに、陳東海は何のためにこのようなことを企てたかと申しますと、恐らくこういうことではなかったかと思うのであります。つまり、絶対に不可能と思われる一連の殺人を行い、
相相殺せしめて、証拠が不充分の故を以て己の無罪を飽迄も主張しようとする意図に出たものでありましょう。
砕いて申しますと、仮に江戸の殺人を認めたとすれば、大阪と長崎の殺人は陳東海の所為ではないということになる。また仮に、長崎の殺人は認めたとすると、江戸と大阪の殺人に対しては陳東海は無罪であります。この三つの事件を相殺させると、結局、陳東海はこの事件の下手人としての確実さが失われるわけで、証拠不充分の故を以て陳東海を釈放するほか道はないのであります。実にどうも綿密なことを考え出したもので、然らば陳東海なる者は極めて
警抜な才を持った人間だという他はありません。
······では、どんな方法で陳東海がかような奇ッ怪超自然の殺人を行ッたのかと申しますと、からくりを
露いて見れば、実にもう
子供騙同然の仕掛。わたくしが
冗々と申しますより、実地についてお眼にかけた方が早道と思いますから、それをごらんくだすって、適当なご判断をお下しねがいましょう」
そう言って、
携えて来た支那蝋燭を入念に物差で測り、適当な長さに切縮めると、それを机の上に
造作けた燭台の上に立て、まわりの
灯火を
悉く吹消してから、支那蝋燭にゆっくりと火を点した。
一同、
固唾を呑むうちに、忽然と一方の壁の面に現出してきた人の姿!
朱房のついた匕首を振上げ、今にも襲いかからんとするように凄まじい形相でこちらを睨んでいる陳東海の姿だった。
そのうちに
微々と蝋燭が燃え縮まり、掻消すように壁の姿はなくなって、また暗黒の部屋に返った。
源内先生は、蝋燭を吹消して以前のように灯火を点け、
「ご説明申上げるまでもなく、あれなる壁の面にレンズが一つ
嵌込まれてありますが、蝋燭の火があのレンズの中心を通過する高さにまで燃え縮まってきますと、蝋燭の火はレンズを透してその後にある鏡に焦点を結び、その光はそれと相対の位置に据付けてある
幻燈の
種板とレンズを透して反対側の壁に像を結ぶという他愛のない仕掛なのであります。蝋燭の火がレンズの中心を通りまする時間はほんの六、七秒の間のことで、それより蝋燭が燃え縮みますと絶対に壁の上には像は結びません。この仕掛と蝋燭の火の関係がわからなければ、永久にこの秘密を看破ることは出来なかったのであります。しかし、幻燈の像は人間を殺害することは出来ませんから、利七とお種に直接の
兇刃を加えた者は、
予め暗闇に潜んで待っていた二人の共犯者であって、壁の像が消えるのを待構え、それが
恰も陳東海が飛掛かったように思わせながら背後から突刺したものに相違ありません。申すまでもなく大阪庭窪、蘇州庵の場合も、この長崎の場合と同じ仕掛がしてあったと申上げるのは蛇足に過ぎる
憾みがありましょう」
源内先生は、そう言うと、満面に得意の微笑を泛べながら一座の人々に軽く
一揖した。