第一回
男「アハハハハ。このツー、レデースは。パアトナアばかりお好きで僕なんぞとおどっては。夜会に来たようなお心持が遊ばさぬというのだから。
甲女「うそ。うそばかり。そうじゃござりませんけれども。あなたとおどるとやたらにお引っ張り回し遊ばすものですから
······あの目がまわるようでござりますんで。そのおことわりを申し上げたのですワ。
男「まだワルツがきまりませんなら願いましょうか。
ときれいにかざりたるプログレムを出して名を書きつける。
男「では今に」とこの男は踏舞の方へゆく。つづいてあまたの貴嬢たちは皆其方に行きたりしあとに残れる前のふたりのむすめ。
甲女「あなた今のお方御ぞんじ。
乙女「エーあの方は斎藤さんとおっしゃって。宅へもいらっしゃりました。
甲女「オヤさようでござりましたか。わたくしはこの間おけいこの時お名をはじめてしりましたよ。もとからよくおみかけ申す方でしたが。なんですか少し軽卒なお方ねえ。そうしてお笑い声などが馬鹿に大きゅうござりまして変な方ですねえ。
乙「デモあの方は学問もおあり遊ばして。なかなか
磊落なよい方でござりますヨ。
と互いにかたらうこの
二嬢は。
数多群集したる貴嬢中にて水ぎわのたちたる人物。まず細かに評せんには。一人は二八ばかりにして色白く目大きく。丹花の
唇は
厳恪にふさぎたれどもたけからず。ほおのあたりにおのずから愛敬ありて。人の愛をひく
風情。
頭にかざしたるそうびの花もはじぬべし。腹部はさのみほそからねども。洋服は
着馴れたるとおぼし。されど少しこごみがちにてひかえめに見ゆるが。またひとしおの趣あり。桃色のこはくの洋服を着して。折々赤きふさの下りたる扇子にて。むねのあたりをあおいでいる。
側に坐したるは。前の
嬢にくらべては。二ツばかり年かさにやあらん。鼻たかくして眉
秀で。目は少しほそきかたなり。常におさんには健康を害すなどいいてとどめたまう。かの鉛の
粉にても内々用いたまいしにやあらん。きわだちて色白く。
頭はえりあしよりいぼじり巻きに巻き上げて。テッペンにいちょうがえしのごとく
束ねて。ヤケに切ったる前がみは。とぐろをまきて赤味をおびたり。白茶の西洋仕立ての洋服に。ビイツの多くさがりたるを着して。少しくるしそうにはみゆれど。腹部はちぎれそうにほそく。つとめて
反身になる気味あり。下唇の
出でたるだけに。はたしておしゃべりなりとは。供待ちの
馬丁の悪口。総じていわば。十人並みには過ぎたるかたなり。前の貴嬢は少しかんじたというようすにて。
乙「しの原さん。あなたのおあにい様も。モウお帰りが近づきましたねえ。
篠原「エエ夏ごろに帰るといってまいりましたけれど。わたくしゃアいやですワ。めんどくさくって。
乙「オヤなぜでしょう。あなたおたのしみでしょうにねえ。そうして学校のお下読みや何かしておいただき遊ばすにようござりましょう。
篠「ナニわたくしはもう学校へまいりません。アノ父が胃弱で当節は大そうよわりましたし。母は御存じのわからずやですから。家事も半ば私くしが指揮いたしますので忙がしくって。
乙「オヤ。では英学はどう遊ばしました。おやめではござりますまい。でもあなたぐらいコンバルゼイションがお出来になればよろしゅうござりますネ。
篠「どうして。私くしは充分英学を勉強したい気ですから。このごろではあの御存じでしょう。山中というあの人は。学力もありますからたのんできてもらいます。随分忙がしゅうござりますよ。毎日毎日英語のけいこもいたしますし。うちのことや何かなかなか大変でござりますが。どんなに忙がしゅうござりましても。キット踏舞には参りますわ。
乙「デモおとと様がおわるくてはいらっしゃられますまい。わたくしもうちで交際の一ツだと申して勧められますけれど。どうもまだ気味のわるいような心持がいたしまして。外国人とはよう
踏られません。それに学校の方が忙がしゅうござりますから。めったに参りましたことがござりませんので。お近づきがまことにござりません。
篠「ナゼあなたそんなにお気がすすまないでしょう。私くしは宅にいてくさくさしても。ここへまいりますと。急に気がアクチブになりますよ。あの西洋じゃア踏舞をしない人を。ウォールフラワア(かべの花)と申していやしめますとサ。あなたもそのおなかまですか。オヤオヤ宮崎さんが久しぶりできていらっしゃりますヨ。あの方は御器量もよし。なんでもお出来になりますッてね。御きりょうのよいも人柄を
直うちするもので御りっぱにみえますネ。あの方のパアトナアはどなたでしょう。大そうせいの低い。オヤいやなかっこうの洋服ですこと。日本人はせいがひくくってみすぼらしい上に。さぎが
鰌をふむようなふうをして。あれですからきつけないと困ります。私くしはふだん洋服でおりますが。母がいつでも下にあるものを
裾でもって行くと申しますから。西洋では下へものはおきません。おくほうがわるいといつもけんかをいたしますワ。
乙「あなたは御格好がよろしゅうござりますから。よろしゅうござりますよ。あの宮崎さんのお
妹さんは。まことに西洋人のようでござりますヨ。私くしの学校中でも御きりょうが一番よいという評判でござります。
篠「オヤ。でもあの方のシスタアは。目が大きいからこわいというではござりませんか。ものもよく出来ますか。
乙「エエ今年お十四におなりあそばしたのですが。お年ににあわずなんでもよくお出来になります。
篠「あのあなたは
御平生もお洋服ですか。
乙「いいえ。ぜんたいふだんにきませんでは。軽便なこともわかりませんに。よそへ行く時にばかりだれもきますようになっておりますから。ただ
華奢にばかりながれて。田中屋の白木屋のと服の競争をするようなもので。わたくしもどうかきるならば。平生にきたいと存じますけれど。
塾も日本造りでござりますから。思うように参りません」と
咄しをしているうち。一曲の踏舞は終り。斎藤は宮崎とともにいできたり。
斎「じゃア浜子さん願いましょう」とかのいぼじり巻きの貴嬢を連れて行く。
宮「オヤ。ミス
服部しばらくでした。
服「宮崎さんどう遊ばしました。
宮「少し不快で。毎度妹がお世話になります。あなたが朝夕おせわくださるので。このごろでは日曜も帰りたくないと申しています。
服「なに少しも行き届きません」と
咄の内はやまた曲のはじまりたれば。
宮「では久しぶりに願いましょうか。
服「どうか」とこれより立食などさまざまありて。午前一時ごろ馬車の先追う声いさましく。おのおの家路におもむきぬ。これはこれ
鹿鳴館の新年宴会の夜なりけり。
第二回
今川小路二丁目の横町を曲って三軒目の格子造り。表の大地は
箒木目立ちて
塵もなく。格子戸はきれいにふききよめて。おのずから光沢をおびたり。残ったる
番手桶の水を
撒きたるとおぼしき。
沓ぬぎのみかげ石の上に。二足ばかりしだらなくぬぎすてたるこま
下駄も。小町という好み。二階には出窓ありて。竹格子にぬれ手ぬぐいのかかりあるは。下宿屋にもあらず。さりとて学校の外塾には無論なし。察するにこの二階は。
主の死去したるかまたは旅行中にてあきたるがゆえ。日ごろ懇意なる人に。どろぼうの用心かたがた貸したるとおぼしけれど。これも少し無理こじつけの鑑定なるべし。この二階の
食客は。年ごろ二十七八にして。目鼻クッキリと少しけんはあれども。かかる顔だちをイキとやらたたえて。よろこべるむきの人もありとぞ。チョイと二ツにたたんだる
嘉平の
袴。紫のふろしきにつつんだる弁当箱など。まず出来星の官員ならんか。湯がえりとおぼしく。目のふちをほんのりあかくして。窓の上へ鏡をのせ。しきりに頭をかきつけていると。あだなる声にて。
女「アーあたしがそう申すよ」と二階をどんどんあがってきて。チョイと顔を出し。
女「オヤきれいにおつくりが出来ましたネ。たばこの火を持ってきました」と十のうを片手にもって。
火鉢の傍へチョイと立てひざをしてすわる。年ごろは三十ばかり色浅黒くして鼻高く。黒ちりの羽織も少し右の
袖口のきれかかりたるに。
鹿がすりの着物えり善好みの京がのこも。幾度かいけあらいをしたという
半襟をかけて。小前がみのあとのすこしはげたるを。
松民の
蒔絵をした朱入りの
櫛で。毛をよせてぐっと丸わげの下へさし込んでいる。ハテあやしやナアというけだもの。火を火鉢へとりながら。一心に巻きたばこの死がいを片づけている。年に似合わず口のきき方はあどけなきかたなり。
女「ネー山中さん。モーいいかげんにしてこっちをおむきなさいヨ。あのネさっき
······あの今におたのしみ。
山中「ナゼ。
女「なぜッて大へんにいいことがあるのです。きかしましょうか。
山中「拝聴拝聴。
女「アノさっき私しが湯に行きましたろう。すると留守に
黒鴨のこしらえでリッパな車夫がきて。あなたおうちかッて聞きましたッて。
清がるすだッていいましたら。では後ほどまた伺います。ぜひお目にかかりとうございますからッて。帰りましたッて。清がそういいましたよ。大へん品のいい西洋服のお嬢さんが。格子の外に車にのってまッていたッて。なんでもキットあの方にちがいないと思いますわ。
山「だれ。
女「おとぼけなさるなヨ。しれたこと。しの原さんのヨー」と少し鼻ごえで力を入れていう。
山「アアあのおてんばか。僕がしばらく行かなかったから。英書の質問に出かけてきたんだろう。あの西洋好きにも困るよ。傍へよるとなんだか毛唐人くさくって。
女「オヤいつ傍へよって。
山「そりゃアなにサ。毎日毎日けいこに行くから。あのちぢれっ毛の前がみをつきつけられつけていらア。
女「だけれどこうしていてもそんな別品がきちゃア気が気じゃアないワ」とすこしわらいながら。
ほんとに姉女房は心配だワ。だけれどキットうしろぐらいことはないのエ。後暗いことは。エエ。
山「ナニあるもんか。
女「どうだか。
山「かつてなしだ。
女「フーン」と笑っている。下女のお清がバタバタ中だんまであがって来て。
清「
御新さん御新さん。玉子屋がきましたヨ。
女「今日はいらないヨ。
清「でももうありませんヨ。
女「いらないヨ。
清「あれだもの。いつでも二階へあがると。ちょッくらちょいとおりてきやアしないよ」とぶつぶついいながら台所へきて。
清「おばアさん今日はいらないとヨ。
婆「ハイハイありがとうござります。またおねがい申します。
清「マアかけて一ぷくおのみヨ。
婆「じゃア少し休ましておもらい申そうかね。ドッコイショ。おめえさまはいつも身ぎれいにしていなさるネ。しの原様の女中
衆とおめえさまばかりだ。身ぎれいにしているは。だが篠原さんのは洋服だからおかしい。
清「おやおまえ篠原さんへはいるの。
婆「アア行くどこじゃアない。いいお得意様サ。三日にあげず五六十ズツもかっておくんなさらア。
清「じゃアあの嬢さんもみたろう。美しい女だろう。
婆「いい女にゃアちげえねえけれど。わたしらが目には高島田のほうがいいのさネ。
清「あの嬢さんはうちの山中さんネ。
婆「ムムあのいい男か。
清「アアあの人に大あつあつヨ。
婆「だっておめえさんはこなえだ御新さんとへんだっていわしったじゃアないか。
清「アアどうも御新さんとも変にちがいないよ。
一昨夜の晩もよせへ行くと二人で出ていって。一時近くまでかえってこないから。ウトウトいねぶりをしていると。車の音がしたから。飛んで出て格子をあけて見ると。二人相のりでぐでんぐでんによって帰ってきなさったが。山中さんは男がよくって。口先がいいからだれでもまようヨ。だけれどあの人もネエかあいそうヨ。あの西郷の時におとっさんが陸軍の少尉とかを勤めていて。あっちで討死をしてしまって。その翌年にはおっかさんが病気で死んで。身より
便りもないものだから。うちの
旦那がまだ生きている内に。かあいそうがって
商買の手伝いをさしたり。何かして家へおいてやって。しぬ前に篠原さんへたのんで官員さんにしてやったのだが。少し横文字が出来て。口先がよくって。如才ないものだから。だんだんあがって。今は二十五円もお取りなさる。あの人はそういう如才ない人だし。内の御新さんももとが
泥水社会の人間だから。なかなか後家をたっちゃアいられないよ
······。おや取次ぎがあるようだヨ。
婆「じゃアまたこんだお願がい申します」と玉子屋は帰り行く。お清はチョイとおもてをのぞいてみて。あたふた二階へ上りかかれば。ちょうど下りくる
主人のお貞。
貞「だれー。
清「あのさっきの。
貞「じゃア二階へお通し申して。あのおよびなすっても聞えないといけないから。次の間についておいでよ」お清はたすきをはずしながら。
清「フーンとんだお張番だ。
貞「エ針箱がどうしたの。
清「ナニあたしの針箱が通りみちに。オヤまたよぶヨ聞えていらア。ドーレ。
○よくいえばわるくいわるる後家のかみ。とたれやらが
口吟みけん。
後家の世に処することぞ難かりける。むかしの慣習にて主の死去したる時は
一途にはやまりて松の操色かえじと。プッツリ思い切りかみも。ようやくのぶるにしたがいて。アアあのかみをかもじにして。今さら丸わげにも結われまいか。時たまは束髪か櫛巻きにしてみたいと。かえらぬ悔いのなきにもあらざるべし。むしろ女やもめに花をさかせて。あからさまによめ入らん
方ぞしかるべき。
泰西諸国にては。
公然に再縁してはじざるときくものを。何をくるしみてか。松ならぬ木を松めかして。時ならぬ
寄生木の
生い出でけん折。色かえぬ操の名にも似ず。顔に
紅葉するははずかしからずや。
第三回
巍々たる高閣雲に
聳え。打ち
繞らしたる
石垣のその正面には。
銕門の柱ふとやかに
厳めしきは。いわでもしるき貴顕の
住居。
主人の
公といえるは。西南
某藩の
士にして。維新の
際人に
勝れたる勲功のありし由は。門に打ちたる標札に。
従三位子爵
某と昨日今日
墨黒に書きたるにても知りぬべし。さればその昔し尊王を唱え
攘夷を説き。四方に奔走せし折は。西洋文明の国々をも。醜夷と卑しめ
黠虜と
罵りし癖の。いま開明の世運に際するも。まだぬけかねたるを。同じ藩士にて。今内閣に時めきたる親しき人々が。かくてはついに世の風潮に
後るべし。官職を帯びて洋行し。西洋各国を巡視せば。必ず悟るところあるべしとの勧めにより。
一歳欧州に遊歴せしに。帰朝の後は打って変りたる洋癖家となり。わが国の食物は衛生に害ありとて。もっぱら西洋の
割烹を用い。
家屋も石造
玻窓にかぎり。衣服は筒袖
布ならでは着するを
厭い。家の
婢僕に至るまでも。わが国振りの衣服を着せしめず。皆洋服の
仕為着を用いしむるまでにして。一も西洋二も西洋と。かの
風俗をのみまなぶこととなりぬ。これなん第一回にいでし。篠原浜子の父
通方なり。年は五十をこしたれども。
男子なくただ一人の
女子浜子のみなりければ。愛に
溺るるとにはあらざれど。おのずからしつけもおろそかなるに。西洋の風とさえいえば何事もよしとして。西洋の
娘子は交際をもっぱらとし。芝居見物。夜会。踏舞と昼も夜も遊びくらすものなりなどといえる咄しさえききかじりて。学校の修業などは二の次として。ピヤノ。バイオリンなどの
稽古にのみ身をよせさせつ。またかの家庭の
訓えは母親にありというなるに。そが母は元よりの
田舎そだちにて。一と通りの読み書きさえもおぼつかなきゆえに。浜子はいとど見落しつつ。教育なき女子は仕方なしなどと。口に
出していうほどなれば。もとよりそのいうことをきくべきようはなし。されば一家の内にありては。浜子はわれ一人のごとくふるまいおるも。誰一人とがむるものなければ。こころあるものはひそかに
爪はじきしてそしりあいしとかや。
中働き下女「オヤお前はどうしたのだ。まだお嬢様のお帰りのないのに。そんなに寝そべってサ。
下女「ナニもう十二時ではございませんか。男でさえそう夜ふかしはしませんのに。なんぼだってもネ。
中働き「またそんなことをおいいだ。殿様がお聞きならじきニ大眼玉だヨ。西洋というところでは。夜会では夜明かしになるのはあたりまえのようなものだから。娘の子なんぞは朝はいつでも十一時か十二時まではおきないと。ふだんおっしゃッて。日本もはやくそういう風俗にしたいなんどと。おっしゃッてではないか。
下女「それでもどこのうちもそうならいいけれども。こなたなどでは夜おそいばかり。朝はやっぱりお隣やお向うでおきる時分にはおきなければならないから。ツイねむくなるの。
中働き「そうサ。それはわたしたちばかりではない。奥様でも随分西洋風にはお困りサ。いつかもどうもたべつけたものだから
沢庵がたべたいとッて。上ったことがあったが。その時いた書生さんが悪口に。令夫人は殿様にかくして。沢庵とまおとこをなさったといったことがあったよ。アハアハ。それはいいがお嬢さんがお帰りでも。なかなかすぐにはおよらないで。今日はだれさんと一しょにおどったとか。まただれさんがこういったとか。いつでもしまいには。あの山中さんののろけをうけさせられるのがつらいの。
下女「ソレデモあの洋行していらっしゃる若様が。殿様の遠いお続きとやらで。お嬢様のお婿様だというではないか。それにあんなことをおっしゃってもいいのかネ。
中働き「そこが開化とやらで。おまえのような旧弊をいってはいけない。なにもあやしいわけがなければ。男と女の附合いはアア開けた風でなければいけないと。いつも殿様がおっしゃるよ。
という折から馬車のおとガラガラガラ。
馬丁の声「お嬢様おかえり
······。
第四回
九段坂より堀伝えに。ほおの
木歯の足駄をガラガラ。と学校の帰りにやあらん。年ごろはおのおの十五ばかりなる二三人の少年。一人は白き
帆木綿のかばんをこわきにかい込み。毛糸織りの
大黒頭巾を
戴きたる。身柄いやしとはみえねど。他の二人にくらぶれば。幾分か
麁末なるところあるがごとし。少ししまがらのはでに過ぎたるめんめいせんの綿入れも。あかづきたとにはあらねど。つぎめ肩のあたりにしるくて。随分きからしものとみえたり。
△「君きょうのレッソンはデフィガルトだったねえ。
□「アーだけれど僕は昨日ブラザアに下読みをしてもらったから。すこぶるイージーだったゼ。
○「僕もおやじにしてもらったヨ。松島君はだれも下読みをしてくれてがないから。どうしても講堂じゃア出来ないけれど。そのわりにゃア試験に好結果を得るから
希代だヨ。
□「松島君のうちゃア姉さんばかりでよく月謝に困らないネー。どこから金が出るのだ。
○「それやアあし
男くんの姉さんが。なかなかえらいもんだっサ。この間僕の
父が一番町の宮崎さんへいったら。あっちの長屋にお秀という娘があるが。毛糸編みの内職をして弟の学費に
充てるといったとサ。公債証書ももっているけれど。姉さんが少しも手をつけんとサ。
□「そうかあし男君ほんとか。
葦「ウウン。僕はそんなことはしりゃアしない。失敬。
○「ヤアここから別れるのか。じゃア君あすさそうゼ。
葦「ナニさそってくれんでもいい。
○□「グードバイ。
○□「君きゃつはかくしているゼおかしいやア」という声をあとに残して。チョッいまいましいという顔色。口をムグムグやりながら坂をあがって。三丁目谷のとあるうちまで一さんにかけてきて。格子をガラリバタリ。どたどたとあがる。
秀「オヤ葦男さん。今日は大そうおそかったネ。おっかさまの御命日で。お茶の御ぜんを
焚いたから。お
肚がへったら。おむすびにでもしてあげようか。
葦「ナニ何もいらない」と帽子と弁当をほうり出す。
秀「オヤオヤいけませんネー。あたしはこのショールを一つあむと。
糀町の毛糸屋へいってこないではなりませんから。いつものように机を出して一遍さらっておいで。そして今におしえて下さい。
葦「アア。姉さんもう来月はおとっさまの三年になるねえ。りっぱにしたいねえ配り物でもして。
秀「だって
御生前の御知己でお配り物でもするようなおうちがあるといいけれど。お国から出ると
一昨年去年と引き続いて。おとっ様もおっか様もおなくなりになるし。国には遠い親類もあるけれど。国へかえればおまえもあたしも。ほんとの無学文盲になるから。なんでもあたしが一生けん命になって。東京でお前をえらいものにしたいと思っていますから。そのつもりで勉強して下さいヨ。あの宮崎さんはいろいろおせわにもなるし。親切にお
店ちんまでやすくして下さるから。御命日にはおはぎでもこしらえて。もっていってもらおうと思っています。
葦「アア。そうして
宅の公債証書はどのくらいあるノ。
秀「そうネー。千五百円ばかりあります。もっともおっかさまがお
死去なすった時。おとむらいだのなんかによっぽどつかいましたが。もうもうあればかりはそっととっておいて。お前もあたしも身のかたまる時の大事な資本です。
葦「だけれどネねえさん。僕はもうじきに大学の官費生にはいるから。もう三年ばかりのところ。あのお金を出してつかって。姉さんも塾にはいッて。二人とも勉強した方がいいじゃアないか。
姉「イイエそういうけれど。今つかってしまっては。せっかくおとっ様のおほね折りも水の
泡になりますヨ。あたしがこうして内職をして。月々のこったのを。三銭五銭ぐらいずつ郵便局へあずけたのが。二円五十銭ばかりになりますから。ほしいものでもあるならそれでお買いなさい。
葦「ほしい物なんざアちっともないけれど。学問好きのねえさんが。毎日毎日毛糸あみばかりしていて。僕はなんだか気の毒だもの。
秀「イイエ学問はお前が学校でならってきたところを。よく覚えておしえて下さるから。学校へいって勉強するも同じこってす。あたしを気の毒とお思いなら。早くりっぱな人になって下さいヨ。なかなかお前の今の学力では。大学へ入校もどうだかしれません。こんど宮崎さんへあがったら。あの方は文学士で大学の助教もなさるそうだから。よッくお前の
志操を咄してお願い申しておいでなさい。
葦「アア。だけれど僕アくやしくってたまらんもの」とうるみごえになる。
秀「ナニガ。ぜんたい
神経質でくだらないことを気になさるヨ。どうしたの。
葦「だって僕のことを。ねえさんの毛糸編みの内職の金で勉強するいくじなしだ。姉さんのすねかじりはめずらしいというもの。みんなは両親があるからいいけれど。
秀「ですから両親ほど大切なものはありません。お
死去なすってから。いくら孝行をしたいとおもってもおッつかない。そんな愚痴はおやめにして。御仏壇へお線香でもあげておいでナ。オヤおかしな人涙ぐんで。そんなきのせまいことではいけませんネ。つれづれ草にもありましょう。心をもちいること少しきにしてきびしき時はものにさかう。というじゃアありませんか。なんでも気をおおきくもって。そんなことをいった人に
後来をみせて。赤い顔をさせておやんなさい。
まだ十七の
乙女には。めずらしきまでさとりたる顔はすれども。しかすがに弟の心。
亡き親のことを思えば。思わずもそらにしられぬ袖の雨。顔をそむくる折も折。
「ヘイ今日は。豆腐屋でござい。
葦「姉さん豆腐屋が来たヨ。
「豆腐屋でござい。
葦「姉さん聞えないの豆腐
······。
秀「きこえましたヨ。
ようように顔をなおし。
秀「きょうはいりませんヨ。
第五回
葦「御免なさいまし。
母「オオ葦男さん。なんだえすぐお通りナ。今日は一郎も家にいますし。斎藤さんも来ておいでだ」というは。
本卦がえりにモウ二ツ三ツという年ごろ。頭は切下げにして。少し小肉のある気さくそうな婆さんは。葦男
姉弟の借住居せし長屋のあるじ。宮崎一郎の母なりけり。
葦男はズット通り。宮崎斎藤に
挨拶し。またその母にむかい。
葦「あの今日は亡父の三回忌に当りますので。わざと志の
牡丹餅を
拵らえましたが。姉の手でござりますから。うまくはござりますまいが。どうか召し上ってくださいまし」と手に携さえし重箱に。
袱をかけて差し出せば。
母「なるほどそうでござりました。お早いものでござります。斎藤さんはたしかお宗旨違いだったが。一郎ご覧おいしそうなこと。
宮「葦男さん学校は御出精かね。斎藤さんが今も。大そう進歩が早い。才童の評判がある。といってほめなすってであッた」この斎藤というは葦男の通学する。学校の教員なるべし。
母「ほんとうにこの仏様も。草葉の影でお
悦びでござりましょう。それに斎藤さんお聞きなさい。この子の姉さんが実に感心でござります。少しはおとっさんのお
蓄えもあって。今でも公債の利子が。月々八九円はいるそうですが。それをへらしてはならないとって。なんでも毛糸編みをして。それで姉さんがお
飯まで炊いて。その上この子の学資を
······。
葦「お伯母さんうそでござります。そんなことはござりません。
宮「葦男さん。お前は姉さんが内職をするなんということを。恥とでも思ってお隠しかしらんが。それは恥じることではない。自慢していい咄だ。人は
己れの力で食わなければならない。姉さんなんぞはほんとにえらいもんだ。と僕のうちでは陰でほめているのサ。ネー斎藤さん。
斎「それは実に感心なわけだ。
母「そしてそればかりではない。自分では学校へ通うことが出来ないからといって。この子が帰って来ると。すぐとその稽古しただけはうつしてもらうところが。器用なたちで覚えがよいから。今ではこの子が下読みをしてもらうくらいになったとネ。葦男さん。
葦「それはほんとでござります。わたくしの忘れたところはみんなねえさんに
······。
宮「そうか。国語学では葦男さんは年に似合わずよく出来るとのことだが。そうして見れば姉さんの力かネ。
葦「ハイ亡父のおりました時に。姉は始終下田歌子さんのところへ通学致しまして。歌などの稽古をしたり。
書を読んだりしましたので。一通りは私も姉からおそわりました。
宮「なるほど。英語はどうだネ。
葦「第四リーダーと万国史を読んでおります。
斎「それりゃアえらいこった。才童といわれるもそのはずだ。僕は化学の方ばかりだから。まだあし男さんにはお近づきにならなかった。
葦「さようでござりますか。私くしの方ではよく先生を存じております。
母「そうだろうネ。そんなによく出来たら。今にいい官員さんにおなりだろう。
宮「おっかさん。そんなことを子供にいい聞かせると。とんだ間違いの種になります。葦男さん。学問は官員になって月給を取るためではない。この社会に利益を与える人になるためにするのだ。斎藤君。今の大学でも政事や法律で卒業する者は。いずれ官員になるのだが。文学や工学で卒業するものに比しては。
皆学問は出来ないのがおおいというと。御同前の田へ水を引くようだ。アハハハ。それだから葦男さんも。官員なんぞという文字は脳中にないようにして。世のためになることをしようとお心がけなさい。
斎「官員といえば山中はどうしたろう。この節は役所のはぶりがいいとかで。等も進んだそうだ。仕方のない男だが。あんなのが
人気にあうのサ。まア僕らの学術上で分析すれば。ゴマカシュム百分の七十に。オペッカリュム百分の三十という人物だ。アハハハハ。
宮「あれでかれこれ御同前の三分の二ぐらい月給をとるのだから。官員は名誉にも何にもならない。
斎「そうだがこのごろはどんなソサヤジーにも
面を出して。高等官の
中間にでもはいったように威張っているそうだ。
宮「ナニサあれは篠原
子と。ことに例のがひいきして引っ張り廻すからサ。
斎「例のとなんだかおかしな咄を聞いたが。
宮「それは決してあるまい。あっちが顔のいい上にあんなにはねッかえりで、
瓜田李下の
嫌疑なんぞにかまわないところへ。こっちがおかしくべたべたするたちだから。おかやきがやかましいのサ。そういえば君はあの女学校も兼勤だったね。篠原のは退校したとか。
斎「退校したが全体ピヤノなにかはよく出来たが。跡のことは容子ほどにはいかないから。来年の卒業もどうかと思っていたくらいだ。退校もよかろう。しかし英語だけは山中が始終おしえにいって。近ごろ少し出来てきたということだが。篠原のは親父のおかげもあるし。むやみに交際に出かけるから。女学校で一時評判にはなったけれど。末頼もしい生徒はマア学校にはなしサ。しかしあの服部のは私塾にいるが。温順で
怜悧で生いき気がないから感心サ。
宮「ソウサ僕の妹も同塾でよく毎度せわになりますが。年に似合わず親切には感心します。
葦「さようなら。
母「オヤだしぬけにおかえりか。ねえさんによろしく。
第六回
夜具
戸棚に隣りたる一間の床の間には。本箱と
箪笥と同居して。インキのこぼれたる跡ところどころにあり。箪笥の前にはブリッキの小さなかなだらいの中に。くせ直しのきれ丁寧にたたんではいっている。その
側に二三本のけすじたてに。びんぐしが横たわりてあれども。あたりはさすがに秩序整いて。取りちらしたるものもなし。今使いがもち来たりしとみゆる包みを前におきて。窓によりかかりたる一人の生徒。ふじびたいのはえぎわへ。邪見に手をつっこんで。前髪の下りたるを幾たびかなで上げながら。
西施のひそみにならえるか。
靄々たる
眉のあたりに。すこししわをよせて。口の中で手紙をよんでいるところへ。来かかりたる女生徒。目は大きやかなれどどこにか愛敬あるが。そっと障子を明けて。
女生徒「服部さん。あなた今日はお帰りにならないの。
服「エエ今この手紙が来まして。今日は帰るなといってきました。
女「そう。にぎやかでいいこと。あの英和
字彙があるならお貸し遊ばしてちょうだい。
服「サアサアお持ち遊ばせ。今何かもたせてよこしましたから。マアはいってめし上がっていらっしゃいナ。
女「ありがとう。ではあの斎藤さんもおよび申しましょう。斎藤さん斎藤さん」と隣の部屋の口から呼ぶ。
斎藤「なにー。私は今日ねむくってしょうがないのヨ。そのくせ夕べは八時ごろに講堂でいねむりをして。相沢さんにおこされて。びっくりしてお部屋へかえって。寝巻もきかえないでねてしまった。アー」と大あくびをしながら。バタリと障子をしめて入り来たる。
女「アラ斎藤さん
下手の一寸ヨ。
斎「よくってよ。あんまりこもっているから。炭素を追い出してやるんだワ。
女「あんな口のへらないこと。
斎「口はへらなくってもおなかがへってヨ。なにかおしょうばんにあずかりたいこと。
女「ですからおよび申したの。
斎「および遊ばすからおいで遊ばしたのヨ
······。ドレですコレ。お内からきたの。お包みを明けますヨ。オヤオヤ風月堂のカステイラに。
落花生が一袋。この袋は五銭ばかりのふくろネー。この重箱の下は。オヤオヤお菜ネー。白魚とくわいのお手料理は。きっと奏任官の令夫人が。お
浪にたべさせたいとおこしらえ遊ばしたの。アア親の恩は海より深し。
女「斎藤さんしゃべってばかりいらっしゃると。みんなわたくしがいただいてしまいますヨ。
斎「ですがネー。わたくしは夕べおかしな夢を見てヨ。福ちゃんがネ女になって。私の兄のところへよめに来たいといいますから。そんなことをいわないでほんとの男になって。あたしのおむこさんにおなんなさい
······。兄さんはネ。夜会でお目にかかるミス服部という人が大へんに好きですから。お気の毒様といったら福ちゃんがおこって。
女「ヨー斎藤さんもうおよしなさいヨ。サア」トかすていらをペンナイフで切って出す。「メネーメネー。サンキュー。ホワ。ユウワ。カインド」と片言の英語を
囀りながらチョイとつまんで「それからネー宮崎さん。
宮「モウおよしなさいヨ。あなたは
磊落だからおかまいにならないけれど。ヨーもうよして頂戴。
斎「ヘイヘイ恐れ入りました。じゃア相沢さんをつれてきて。あたしは一しょにお咄しをするワ」とバタバタたべながらかけて行く。
宮「ほんとに。クイッキ、モーション(Quick motion)ナ人ネー。
服「ですけれどもあの方は兄さんによく似て。才はなかなかありますよ。いくらもアーいう人があるもんですヨ。
宮「だけれどほんとにいやなのはあのおなま(
朋輩生徒か)さんネー。いやに体裁ばかりつくって。何か自分の作文の点でもわるいと。ヤレいそがしかったからいけなかったなどといいわけばかりして。そのくせに西洋好きでいらっしゃって。内地雑居になるとどうだのこうだのとおっしゃるのヨ。私はあんまりくやしくなりましたけれども。いつかあなたの作文ネー。私は
暗誦しておりますヨ
······。聖賢の教えも得手勝手に取りなして聞く時は。身を乱だすこともあるべし。いやしき
賤が小歌も心をとめて聞く時は。おしえにならざるはなし。げにその地にあらざれば。これをううれども生ぜず。その人にあらざれば。これを語れども聞えず
······。私は大へんこの作文が好きですから。お手本にしてだまっていましたワ。
服「お記憶のよいこと。私くしすらわすれてしまいました。そういえば篠原さんでもお
兄様がきのう御帰京になりましたとネ。
宮「オヤあの方は
Hじゃアないの。
服「Hですけれどエンゲイジばかりですから。はま子さんも
兄様とおっしゃっていらっしゃいますヨ。
宮「そうしてどうするでしょう。あの不品行では到底お嫁になれますまいネー。
服「そんなことをおっしゃりますナ。あの方々はなかなか教育もありますから。そんなことはありません。それは世の浮説でしょう。このごろはみんなよい方は文明の国にまけないで。夜会の何のと御尽力ですが。またわれわれ
下の人たちは。みたこともないことばかりですから。
疎いことは疎んじたり
賤しんだりするもので。チョイとめずらしいことがあると。尾に尾を付けてそれをわろくいって。何も知らぬ人にまで。いろいろな
風説を皆いいますから。人の口ほどこわいものはござりません。私しのように引込み思案にしていてもいけませんが。マアまだ社会へ出ないで生徒でいるうちは。なるたけ引き込み過ぎるとも出過ぎない方がいいと存じます。
宮「ほんとにネー。あなたのおっしゃることは。よく私しの気にかないますヨ」折から以前の斎藤。相沢を追いかけてバタバタ走り来たり。
相沢「アアくるしいくるしい。
宮「どう遊ばして。
相「あの斎藤さんにスナッチされようとしたわ。あのお芋をネ。西村さんにもらってたべていたら。斎藤さんが来てとろうとするのだもの。いやな人ヨ。
斎「ダカラ私しがカステイラを
御馳走をして上げようから。とっかえこにしようといったのだワ。
相「オヤ斎藤さんがほんとのことをいったの。ここにカステイラがあるワ。じゃアこれを上げよう。
宮「ああら現金もんだこと。
相「だってサブスタンスを見ないでは。斎藤さんはライヤアだから。
斎「うそ。人を
罵詈してひどいこと。
宮「マアそんなことは閑話休題として。こちらへいらしってめしあがれヨー。
女生徒らはたがいにむしゃくしゃたべながら。
相「オヤオヤもうなくなりそうだ。
斎「ナニよくってヨ。あしたは服部さんはお帰りなさるのだもの。なくなったってイイワ。
服「エエいくらでも召し上れ。私はあしたのレッソンのところを少しみておきとうござりますから。失礼ヨ。
相「およし遊ばせヨ。お休みになるのだから。みておかないでもいいじゃアありませんか。
宮「ホントニ服部さんのように勉強しては。体がつづかないでしょうネー。
斎「あたしなんざア。お休みするところは見たこともないワ。
相「だから試験前は大変に心配して。この間も二時ぐらいまでおきていて。そうしてあんな低い点ですもの。いやになっちまったワ。
宮「オヤオヤえらいことネー。
服「ですけれども。大変にお体にはお毒ですネー。女生徒は男生徒より
大気でないせえか。あんまりなまけませんてネ。ですからそんなに勉強を勧めてさせないでも。自分自身に相応に勉強して行きますとサ。でもこのごろは大変に女に学問をさせるのが一問題でござりますと。あんまり相沢さんのように。過度に勉強遊ばすと精神がよわって。よわい子が出来るそうです。
相「アラいやなこったワ。だれがお嫁なんかに行くもんか。
宮「あんなことをおっしゃるヨ。先生になってもお嫁に行く方がいいって。
相「ナニ先生になれば男なんかにひざを屈して。
仕うまつッてはいないわネー。
服「ですからこのごろは学者たちが。女には学問をさせないで。皆な無学文盲にしてしまった方がよかろうという説がありますとサ。少し女は学問があると先生になり。殿様は持たぬといいますから。人民が繁殖しませんから。愛国心がないのですとサ。明治五六年ごろには。女の風俗が大そうわるくなって。肩をいからしてあるいたり。まち
高袴をはいたり。何か口で生いきな
慷慨なことをいって。誠にわるい風だそうでしたが。このごろ大分直ってきたと思うと。また西洋では女をたっとぶとか何とかいうことをきいて。少し跡もどりになりそうだということですから。今の女生徒は大責任があるのでござりますと。あの
セクスピアが顔の皮の厚い女は。男の女らしいのと同じことで。好ましくないものだと申しましたし。また第一
ナポレオンは。仏国を改良するには善良の母だと申しました。だから女にもしも学問をさせなければ。なかなか善良の母も出来ますまいし。学問をさせれば。
厚顔なおしのつよい女が出来ますから。何でも一つの専門をさだめて。それをよく勉強して。人にたかぶり生いきの出ないようにして。温順な女徳をそんじないようにしなければいけません。そうすれば子孫も才子才女が出来て。文明各国に恥じない新世界が出来ましょうと。ある方がおっしゃいました。
斎「アアいやだワいやだワ。あたしはそんなことを聞くと。ほんとにいやになってしまアー。一生懸命で学問しても。奥様になりゃア仕事をしたり。めんどくさくっていやだワ。わたしゃア独立して美術家になるわ。画かきになるワ。美術の内で。歌舞音曲その他一二を除いて。源は皆な画ですとサ。だから画は美術の King。オヤ。フェミニンの方かしらん。じゃア Queen だワ
······。あたしはきっときっと画かきになるワ。
相「オヤ斎藤さんが
画工になるって。こんなめんどくさがりのくせにネ。
服「斎藤さんだとて一心一到ですもの。画かきになれますワ。
相「オヤオヤ。じゃアあたしも一心一到だから。この間理科で高点をとったから。それを規模にして理学者になろうか。あなたハ。
宮「私しはこの学校を卒業すれば奥様になるワ。お浪さんあなたもそうでしょう。
服「ソウネー。私しは文学が好きですから。文学士か何かのところへいって。御夫婦ともかせぎにするワ。
斎「オヤお仲のよいこと。あたしは亭主なんぞは。ほんとにほんとにもちたくないワ。
宮「じゃアお浪さんは。うちの兄さんのところへお嫁にいらっしゃるといいこと。そうだと
嬉しいけれど。
相斎「ほんとだワ」とまだあどけなき娘気の。人の心を計りかね。思わずいえばもろともに。いいはやされて今さらに。よしなきことをいいけりと。咄の絶ゆる折しもあれ。
カチカチカチ。オヤお
昼飯の
柝でしょう。サア行きましょう。(かけだす音)バタバタバタ
第七回
二人
曳きの車は朝夕に出入りて。風月堂の菓子折。
肴籠などもて来たる書生体のもの車夫など。門前にひきもきらず。これは篠原子爵の邸なれど。このほどより主はよほどの重体にて。
某とよばるるドクトルも小首をかたむくるほどなれば。
家中の混雑一方ならず。このごろ養子
勤が帰朝以来。「こう忙がしくってはたまらん」など。取次ぎの書生の苦情もかしまし。今日しも少しよきようなれば。と
上下ともに心安うおぼえて。いつしかにおさんの笑い声も耳だつほどとなりぬ。
山中はいつものごとく御看病と
称えて。なにか浜子のへやにてしきりに咄しさい中なり。勤は帰朝以来何か感ずるところありて。
懊悩として心楽しまず。机に向えばただただ神経の作用のみはげしくなりて。ますます思い乱るる
妄想をやるにところなし。散歩は至極適当の療治法なりと思えど。養父の病気中には
傍の思わくもあれば。ほしいままに
外に
出づべくもあらず。さるほどに浜子の部屋または勝手などに折々聞ゆる笑い声も。なかなかにかんしゃく玉の
発裂するもととなり。ともすれば天井と
睨めくらをして。にがりに苦りて言葉なし。アアこの神経というものはおそろしきものなり。折にふれては鬼神
妖怪の
眼の当りにおそいきたるかとみれば。いつしか
嬋娟たるたおやめの
側に立つかと思うなど。千変万化さまざまにうつり行く。げに物思う折の
現はまた一場の夢なりかし。ややありてすこし夢のさめしようなる風情にて。あくび二ツ三ツして。やおら立ちあがりて障子を明け。庭へ出でて花壇のまわりを三べんばかりあてどもなくあるきながら。わざと浜子の部屋のあたりをさけて。おもての方へおもむろにあゆみきたれば。
馬丁部屋の方にあたりて。ささやきかたらう声笑う声聞えけり。下ざまのことになれざる耳には。いとめずらしくおぼえられてや。やおら立ちよりて聞かんとすれば。主の足音をしりてかけ来たる大いなる猟犬の。
媚をささげて足元にまつわるを眼もて制し。小腰をかがめてそが
頭をかいなでつつ聞けば。
車夫「エエオイ。こねえだはの。おいらアほんとにむねくそがわるくっての。
馬丁「どうしたのだ。
車夫「どうしたってこうしたって。お
前のめえだがの。おめえのとこのおはねさんがの。例の後家の内へきやアがって。今きている山中というやツをさそい出して。
向島までおしのびという寸法で。一しょに出かけたと思いねえ。
初手はおいらア正直だからきていに思うた。後家とおつだという
噂があるのに。
敵手がちがっているのはへんだなと思っているとの。花時分たアちがって人通りもすくねえだろう。スルト野郎め。おはねさんの車へ相乗りと出かけて。テケレッパだろうじゃアねえか。しかたがねえ泣く子と地頭だ。馬鹿なつらアしておいらアからッ車を曳いて跡から行くと。奥の
植半へいってお
昼飯ヨ。あんまりいめえましいから。せめて円助もせしめてやろうとおもったら。
如才なく先へ廻って半助よ。フーン人をつけ。半助ぐらいでおたまりこぼしがあるものかだ。おめえの
前だがおらアむねきでならなかった。
馬丁「どうりでこねえだは珍らしく日本服で出かけるとおもったぜ。
車夫「親指はしらねえのか。
馬丁「ナアニしれッこなしよ。どいつもこいつも。金ぐつわをはめられて。ねえしょねえしょサ」とひそめきながら乗りが来て。思わず声高にはなすを。勤は立ち聞きて。さい前よりまゆのあたりに幾たびもいなびかりをさせて聞きいたりしが。たちまちせわしく立たんとして。またおもいかえす由ありてか。なおも伺いいたりけり。
馬丁「だがの考えて見りゃア珍らしくもねえやつよ。おれっちが行くとこはみんな
位のいいうちだが。大げえはなんかしらなんくせつきだ。
車夫「一体それが西洋がっているやつにおおいじゃアねえか。
馬丁「ナアニそれりゃアまだ世がひらけねえからだとよ。何てッだって。今晩はとシチンの帯かなんかぶらさげた腰ッぺたを。いつの間にかチャボのけつのようにおっ立てやがって。すましている時節だろうじゃアねえか。この間
舌長さんがうめいことをいッたぜ。今の時代は道楽時代という時代だとヨ。女といちゃつきたい時は西洋風を持ち出すし。
権妻を置きたい時には昔風を持ちだすし。かたでらちくちゃアありゃアしねえとよ。だがお互いのようにレコがなくッちゃア。道楽時代もあてになりゃアしねえアハハ」何たわいなき咄しの内勝手の方に。
「山中さんのお立ちですよ」勤はいそぎ立ち上り。それかあらぬかさまざまに。くるう心のこま下駄も。音たてさせじと忍び足。庭の
方へぞかえりける。
第八回
暑さは
金をとかすともいうべきほどの
水無月に、遊船宿と
行燈にしるせる店へ。ツト入り来たりし男年ごろ二十四五なるべく。鼻筋とおり色白く。目もとは尋常に見ゆれども。どこともなくするどきところありて。いわゆる岩下の
電ともいわまほし。口はむしろ小さすぎたるほどなるに。いささか八の字の
鬚をたくわえたり。
身長は人並みすぐれたるが。
縞フラネルの薄きもて仕立てし。ジャケットに同じき色のズボンをはき。細きステッキを手にもちて。パナマハットの大形なるを頂き。わざと
蝙蝠傘はもたざりけり。
女房「オヤマア
駿河台の若殿様。お久しぶりでございます。この間御洋行からお帰りになりましたと。宮崎さんから伺いましたが。ようまア。
篠原「十日ばかりあとにもどったが。きょうはあんまりあついから。その宮崎と涼みに出かける約束だから今にくるだろう。屋根を一
艘仕度してくんな」
女房「
御酒はいりますか。お
肴は。
篠原「ストックを三本ばかりと。肴は三通りばかり見つくろって。いずれどこへか上るのだから。たんとはいらない」という折りから。宮崎は斎藤とともに入り来たり。
斎藤「や。先に来るつもりだったが」という間に。船も出来たれば一同それにのりうつりたり。
宮崎「五年というと久しいようだったが。こうなって見ればはやいものだ。洋行中にはいろいろの咄しもあろうし。君のことだから学術上には発明の説もあろうから。お尋ね申しゆっくりお聞き申したいと思っていたが。
尊大人のとかくおすぐれなさらないので。御混雑の様子ゆえはばかりまして
御無沙汰サ。
斎藤「僕も同様。しかし昨今はいかがでござります。
篠原「僕もご同感さ。
君輩のごとき同窓の友を会して。ゆるゆるお咄しがしたいけれど。
親父があの様子ゆえ。外へも出られない始末だから。おもうようにはいかないのサ。二三日跡からめっきり様子がいいから。今日お誘い申したのサ。
宮崎「御洋行中は毎度御書を下さいましたが。例の
筆無性で三度に一度の御返事もあげませんでしたが。僕が東京の現況を新聞体にて御報道致した御返事に。日本人はメスメリズムにばかされた人のように。西洋人の指先次第。いろいろなまねをするとの御論でしたが。伺っていた御持論とは大層ちがいました。世の人は洋行すると西洋好きになるが。君には
嫌いになったのかと。お知己の人たちは怪しみました。
篠原「なるほどお怪しみもござりましょう。僕が五年の洋行で得るところ。とはちと大げさのようだが。マアそこのところばかりサ。オオなんだ氷が解けてもう残りずくなになった。マア一杯やりたまえ。オイ船頭どこへか附けて氷を二斤ばかり買ってくれんか。
宮崎「ときに篠原君。君が帰朝の後は早速何のお咄しだろう。ネー斎藤君。御同前に
祝筵にあずかろうとたのしみにしているのだが。尊大人の御所労でまだそこどこではないのかネ。
斎藤「実に君はあやかりものだ。尊大人は従前の勲功とはいいながら。華族に列せらるるし。レディは才色兼備の上に。近ごろは英語もお出来なさるし。ピヤノなどはことにお得意。ダンシングから何から。貴女連中との交際でも恥かしくない。実に君とは
連璧だ。と朋友中の評判ですぜ。
篠原「そういえばそうかもしれないが。僕は何分にも面白くないから。婚姻のところはどうしようかと思っているのサ。これも両君のことだから。僕のシクレットを
打ちまけていうのだが。ごぞんじの通り僕は五ツ六ツの歳からそだてられて。両親もあれにめあわせて家をゆずろうという志願なればこそ。大金をも出して欧州留学もさせてくれたわけだから。今さら
台女を嫌っては。内に顧みてはなはだ道徳に恥ずるわけサ。そうしてあの家を出れば。今までの恩を無にするわけと。いろいろ考えて見ると。実は
岐路に
彷徨しておるようなわけで。婚儀のことは親父の病気を幸いにずるずるとのばしているようなわけで。
斎藤「これは意外なことです。洋行して君の議論はよっぽどかわったが。シテ見ると議論ばかりじゃアありませんネ。人もうらやましがる縁辺を。なんのかんのとはがてんがいかない。アーよめた。西洋はきらいになったぞといって。実は何ですネ。この節の流行のゴオールデンヘヤの令嬢と契約したというようなわけで。今にそれがやって来るという
······。
篠原「とんでもない
御嫌疑だ。実に何にもありはしないが。ツマリいやになったというわけは。一生苦楽をともにしようという目的がたたないからサ。しかし君たちのいうのもうそでない。なるほど僕の心事は一変した。欧州に遊歴して見ると。なかなかここで想像して書籍中にもとめたとは。大いにちがったところがある。実に
豁然通悟したところがあって。なんでも人間は道徳が大事だということにきがついた。
斎「ハテネそうして。
篠「ところが帰朝してみると。親父が例の洋癖家だろう。またそれに仕こまれたものだから。やれ今では
巴里ではどんなかみの風が
流行の。どんな服製がはやるのと。そんなことばかり聞きたがるのサ。僕は西洋の学問と芸術には感心するが。風俗には決して心酔はしない。男女だかれあって
蹈舞するなんどは。あまりみともいいことでもない。それに少男少女のいまだ婚姻しないものなら。婚姻の手段の一端にて。
支那にいわゆる
仲春会二男女一という工合もあろう。それでもマア
淫風ならずとはいいにくい。野蛮風俗の居残りサネ。その上夫ある婦人は。その夫と蹈舞することを許さないというのはなぜだろう。
千代をちぎって一身も同じとまでいう夫婦だから。夫婦
同士だきついておどってこそ。面白くも楽しくもありそうなものなのに。ぜひ他人とおどらなければならないというのは。その極点をいって見たらどうだろう。まおとこをしなければつまらない。という論理になるではないか。コセットで胸をつかね衛生にかかわらず。ひとえに俗眼の好むところにしたがうなども。支那で足をしばって小さくすると五十歩百歩の論サ。こんなことをいいたてればいくらもあるサ。そこで僕は西洋の風俗には感心しない。この間も親父の看病をしながら。とかくに西洋風俗のはなしがでるから。われしらず道徳論をかつぎだして。蹈舞のことなどをこなしたところが。親父はそこらが交際のごく親密なところでよいではないかというから。病人に逆らうのも。とだまっていたが。兄さんは洋行した甲斐もなく。やっぱり支那風の七歳
男女不レ同レ席という腐れ論をおっしゃるヨ。フーンと鼻で笑われたが。そのフーンが骨身に
透ってぞっとした心持がして。それから急にいやになったのだが。親父には義理も恩もあるから。いやだっていやともいえないし。実に胸を痛めているのサ。
斎「それだっても世間での評判に。あの娘ならどんな官員のマダームといっておしだしても。交際ができるというくらい。そんな短気は
······。
篠「斎藤君のいうことだが。僕はその官員が嫌いになった。官員になったとって。社会にどれほどの利益を与えることができると思いたまう。僕は
話聖東よりも
フランクリンを景慕するヨ。
フランクリンも官員でないとはいえないが。話聖東がボストンに義旗を翻がえし。三十余州を一致し。
亜米利加に連邦を創立し。今は欧州各国と比肩して恥じざる国とまでにしたのは。えらいことはえらいけれども。ただ一ツの国がごうぎに強くなったというまでで。すこしも世界に利益を与えない。
フランクリンは電気を発明して。それから電信機も出来。電気燈も出来。世界幾百の邦土。幾億の民生がみんなその利によることとは。またえらいことではないか。現今の世の中でも。
ビスマークよりは
レセップに指を屈します。
ビスマークは
仏蘭西の鼻を
折いて。わが国の
索漏生王をして
日耳曼一統の帝とし。今では欧州で牛耳を執るというまでにて。よそほかの国にはなんの利益もない。
レセップはそうではない。シュエスのカナールを掘り割りて。世界万国交通の便を開いたはどうでしょう。このうえはパナマの掘割まで出来ようとするは。実にえらいじゃアないか。北亜米利加合衆国が出来なかったとて。わが日本などは何の不自由も何もなかろう。電信機がなかったらソラどんなに不便だろう。日耳曼が帝国にならないとて。日本では屁でもないが。シュエスの掘割がなかったら。交通貿易にもどのくらいの不利を感じるかしれん。日本ばかりではない。どこでもそうにちがいない。だから僕は官員になっての功名は。たかがしれたことと悟って。なんでも
フランクリンや
レセップにならおうとおもう。
宮「ヒヤヒヤもっとも賛成だ。
篠「それだから交際上手の女房などは。すこしも望まんのサ。僕が好みの女房は。まんざら文盲でも困るが。婦人の美徳と称する従順の徳があって。少しく文字も読め
斉家の道に勉力してもらいたい。
弾ねた性質に世界の酸素を交ぜて。おてんばという化合物になったのなんざア好まない。いわば蹈舞の上手より毛糸あみの手内職をして。僕が活計を助けるというようなのがほしい。
斎宮「ナニ僕の活計だと。華族様などはとかくけちなことをいいたがるものだ。アハハハハ。
一同笑いになりたるとき。
船頭「
八百松屋アー。
桟橋に茶やの女の下駄の音カラコロカラコロ。
女「おはようござりました。
第九回
篠原勤は英国ケンブリジの学校に
螢雪の功を積み。ついに技芸士の称号を得。なお
帰途欧州各国に歴遊し。五カ年の星霜を経てようやく帰朝せしに。養父は思いがけなく華族に列せられ。家の面目この上もなき重ね重ねのめでたさに。何不足なき身ながらも。かねてより結婚の約束ある。浜子のそぶりに何となく心がかりのこと多く。かなたにもとかくにうしろめだき風情ありておのれをはばかるさまあるは。何ようのことわけのありてかと。心をつけし折も折。ゆくりなく耳に入りし
馬丁車夫の
噂咄し。胸とどろくまで驚かれ。さてはと心づきたるに。なおさまざまのこと耳目に触れて疑いの種を
生長しむるのみか。浜子は父の病の見とりもせで。とかくに
外出がちなるなどますます心にかなわざれば、いよいよ離縁して身を退くべしとその志を決しつつ。二三の親しき朋友には。その思うふしをそれとなく
洩らしたるほどなれど。さすがに幼少の時よりして、ともにそだちし
筒井筒。かたすぐるまでくらべこし。緑の黒髪花の顔。姿かたちもうるわしく。学問才知も人並みには立ちまさりたる浜子なれば。今さら
棄つるに忍びかねて。色好むとにはあらねども。拾わぬ先の珠としも思いきられず。また二つには幼少よりそだてられたる養父母の恩愛と義理にそむきがたく。独り心を苦しめしが。今は養父の大病にて。見とりにその身いとまなければ。それなりにして打ち過ぎしに。
通方は世に国手とよばれたるくすしのみか。
独逸国より来朝せる
ベルツ博士にまで診察を請い。療治に愚かなかりしかど。いささか見直すところありとみしは。いわゆる
返照というものなりしが。勤が納涼よりかえりし
宵よりにわかに容子変りきて。その翌日かえらぬ旅に
赴きぬ。勤らのなげきはさらなり。よき人をうしないたりとて。惜しまぬ人はなかりしとぞ。されど勤はその跡を相続せしが。忌みもはてなば浜子と婚姻の式をあげさせんと。母をはじめ
親戚朋友のかれこれといいすすむるに。勤は余義なくてありし次第を打ちあけて述べたるに。もとよりあらぬ
濡衣にもあらざれば。誰もしからんにはとの答えのみなれば。勤は養父が
鞠育の恩義を忘れず。すでに華族の爵を継ぐ上は。世襲財産だけ譲り受くべきも。余の遺産は残らず浜子に渡し。心にかないたる中なればとて。さりぬべき
媒をたのみて山中
正に
嫁がせしめ。家に仕えし老僕
某を始め下女など
数多付き添わせ。近き渡りにしかるべき家屋ありしを求めて。これに住居させ。残るところなく世話をせしかば。人みなその処置のよろしきを得しをたたえしとなん。正は浜子をめとりてにわかに分限となりし心地はしたれど。
入婿子同じことにて。浜子は主人のごとくなれば。その才とその色とに不足あるにはあらねど。いままで食客にてありしを。かえりて気楽なりとおもうところもありぬべし。
女「ゆうべのおはなしで。すっぱりおまえさんの気もしれたから。今じゃアヤットおちついたがネ。婆アさんにあきがきて。かしをかえてしまったのかと。どんなにきをもんだかしりゃアしないヨ。
男「そうだろう。一体あすこの親指の口入れで官途にもありついたし。万端ひいきになるもんだから。お鬚の塵をはらっていて損のないとおもうとこから。せいいっぱい勤めていた内。あいつに英語を教えてやれということで
······。マアなんだったのだが。これも御機嫌を損じてはと
······。
女「イイヨたくさんだヨ。
男「そう咄しの腰をおるからいけない。それでとうとうこんだのやくそくも出来て。にわかに大尽になるようになるはなしだけれど。
向はどうだかしらないが。
女「イイヨうるさい。
男「こっちには気にそまないだが。それ夕べも咄した通りのわけで。この一幕がかんじんの狂言で。マアチョトおまえに遠ざかって。
女「サアそこはわかっているヨ。いよいよおまえがその気なら。わたいも悪婆の本性をあらわして。音羽屋のお伝という一幕を出しもしようが。おまえの気がきまらなくって。からを蹈んだ日には馬鹿を見るからネー。
男「うたぐりも人にこそよれだ。ヒーヒーたもれに人ヲつけ。
女「あぶないもんだ。そうはいうものの。むこうは面がいいのにおまえさんが面喰いだから。
男「馬鹿な。
女「ソンナラ大丈夫かえ。
男「当りまえよ。耳をかしな」と声をひそめて。両人がしばしささやきいたりけり。これ新橋ステイションの
側なる。
新橋楼という待合の奥二階に。さしむかいの男女は。山中正にお貞なり。正は時計を出して見て。もう刻限だぜドレ。と立ち出でながら。
正「今度の湯治は大丈夫か。男の連れがあるのじゃアないか。
貞「お前じゃアあるまいし。何の因果で浮気なんぞをするものかネ。疑ぐるなら汽車に乗るところまでついてくるがいい。お清のほかにゃア
牡猫だッていやアしない。
と
戯れながらステイションに近づけば。発車のしらせチリリンチリリン。
第十回
かかえの車夫にやあらん。玄関の馬車まわしの小砂利の上へ。しきりに水を
撒いている。この体裁からみると。やすくふんでも奏任二三等ぐらいの住居とみゆるは。山中正が家にして。その実は篠原浜子の財産もて買い入れたる家なりけり。されば家事その他世の交際にいたるまでも。全権は浜子一人に帰して。女尊主義を主張し。自身はお手車で飛び
走けども。旦那様は腰弁当にて毎朝毎朝出かけて行き。
還りには観音坂下まで。五銭の飛びのりがまず
大快楽なり。車夫は水をまきはてて夕方のけしきをうっかりと見ている目の前へ。ガラガラガラと
走せくる一
輛の人力車。
女「若い
衆さんここでいいよ」とおりて。この車夫にチョットあいさつをし。
女「あの篠原さんのお嬢さんのお宅はこちらで
······。あのやどがあがっておりますそうでござりますが。今日はおりますか。
車夫「どっからおいでなすったか。わっちはしりません。勝手へいってお聞きなさい。
女「デハこの
塀につきまして曲りますので。わかりましたありがとうござります。
勝手にはおさんが香の物をきっていたりしが。御免なさいのこえを聞き。錠口をあけて。
下女「どちらから。
女「あの山中から出ましてござりますが。やどが長々お世話になりましてありがとうござります。今朝私しも帰りまして。宅も明けましてござりますから。すぐに帰りますようおっしゃって。
下女「オヤ山中は手前でござりますが。今日はどなたもおいでにはなりません。
女「デハ篠原の嬢様のおうちではござりませんか。
下女「イエこちらでございます。
女「お嬢様におめにかかればわかりますでござりましょう。あの山中のさだでござりますが。ちょっとお目通りを願いとうござりますと。おとり次ぎを願います。
おさんはふしぎそうな顔をして。じろじろみながら奥へきたり。
下女「あの奥様。三十ばかりの待合茶屋のお神さんみたような人がまいりまして。ちょっとお目通りを願いたいと申します。
浜子は窓にうでをかけて。女学ざっしを読みいたりしが。
浜子「どんな人。
下女「あの通し小紋の羽おりを着て。大そういきな人で。何かいろいろ申しましたがわかりませんでした。
浜「せんに殿様のおせわになったおさださんじゃアないか。
下「なんでも貞とかなんとか申しました。
浜「アーあの人にちがいないよ。ここへ通しておくれ。
下「お逢い遊ばすの」とふしぎそうに出て行きしが。やがて案内をして連れきたれば。
浜「オヤどうも久しぶりで。
貞「まことにご無さたを申し上げました。しばらく用事かたがた見物に。大坂の方へまいっておりましたので。
浜「さようでござりましたとネ。いいご保養を遊ばしましたネー。
貞「あのまたやどが久しゅうおせわになっておりましておそれ入りました。
浜「オヤどなたが。
貞「あのやどがしばらくおせわになっておりまして。私しがるすでさびしいと申して。宅をしめきりてあがっておるそうでござります。まことにありがとうござります。
浜「私しは今の旦那様は存じませんが。どなたでござりますか。
貞「オホホホごじょう談ばかりおっしゃります。あのご存じの山中正で。
浜「何ですとえ。オホホホホホおかしい。
貞「なぜでござります。
浜「なぜだッてオホホホホホ。
お貞はわざとまじめになりて。
貞「なぜお笑いなさいます。
浜「なぜッて山中正は私しの何で。宅の主人ですものを。
お貞はわざとびっくりせし風にて。
貞「何でございます。アノお邸の
······。それはほんとうでございますか。
浜「アラいやなネー。ほんとうにおききなさるの。ツイこないだ婚礼をしまして
······。
貞「何ですとえ。婚礼
······。オヤオヤマアどうもあきれッちまいますネー。あたくしゃアちっともそんなことは夢にも
······。
浜「オヤそうでしたか。その婚礼もネ。少し取込みがありまして。まだ
公にはいたしませんがネ。一夫一婦の大礼もあげ。私しの財産でこの家も買いましたし。召仕いの者も皆里から連れて参りましたのです。
お貞はこの話をきかぬふりにて
独語のように。
貞「マアどうも実にあきれちまうよ。だからいわないこッちゃアない。篠原の嬢さんのそぶりがおかしいから。だまかされちアいけないといッたんだものを。
浜「なんですって。私しがいつ人を
詐譌するようなことをいたしました。
貞「さぎだか
烏だかしりませんが。人の男をたらしこんで。イケシャアシャアとしたお嬢さんだ。
はま子は
呆れてお貞の顔を打ちまもれど。かなたはますます声高に。
貞「こんだ大坂から帰ってきたら。おもてむきせんの旦那のしってる人に。
仲人をしてもらうつもりの咄しになっているのですよ。今さらお嬢さんにねとられましたからって。あっけらかんとしていられやアしません。ともかくも山中を出して下さい。当人にききゃアわかるこってす。サア早く旦那を出して下さい。
浜「そんなことをいったて今はここにいやアしません。お前さんがそう
罵詈なさると。さも私しのわるいようで。人の手前もありますし。みっともないから
······。
貞「ナニいばるッて。ヘンいばるというのは。金があると思ッてしたい放題のことをする
奴のことです。留守のうちに亭主を盗んで。イケシャアシャアとしていられちゃア。
面目なくってくやしくってたまりゃアしない。早く旦那をだしてください。
浜「ぬすんだとはなんです。そう人をざんぼうなさッては。法律に触れましょう。仮にも華族の名義もありますから。
貞「オヤオヤはじめて伺いました。ひしゃくとかしゃくしとかのお姫さんは。人の男をどろぼうしても。御法にはふれないのですか。
浜「私しはどろぼうなんどということは存じません。とにかく山中は私しの殿様でござります
······。早くだれか来てこの
狂人をおもてへ出しておしまい。
貞「きちげえとはなんだ。はばかりながらしらきちょうめんの人間だ。こんなわからずやに咄しをしているとらちくちがあかない。巡査でもだれでもよんできておくんなさい。
とだんだんいい募れども。浜子はもと深窓に生いたちて。かかるかけ合いなどは夢にも聞きたることすらなければ。ただただ同じことのみいい。ついにはなき出でぬべきけしきなれば。執事の三太夫はとんで出できたり。
三太「どこのお神さんだか失礼な方だ。もうもうお姫様おなき遊ばしますな。なおつけあがりますから。エおかみさん。今は殿様も御不在だし。わけがわからんから。また御在宅の時においでなさるがよい。わが輩が委細の趣は申し上げるから。
これにてようようお貞もしずまり。ここまでこぎつけておけば。あとはゆるゆるが上策なりと思いてか。三太夫になだめらるるを幸いに。じゃじゃばりながら帰り行く。
はま子はあとになき声をふるわせながら。
浜「だれでもはやくおむかいにいッておくれ。ヨウ早く。
かくてお貞はその夜きたれるのみか。朝に夕にきたりて悪口雑言をいいののしれど。浜子もおろかならねば。家来にもいいふくめて。ただるすとのみことわりていたりしが。その後より山中の様子もうってかわり。三日にあげずいずかたへか泊りきたり。ついにははま子のしらぬまに。うでわ。ゆびわその他はま子の身につきたるものも。いつのまにや持ち出でたれば。ようやくはま子も心づきて様子をさぐるに、全くお貞とはもとより夫婦同様になしいたれど。はま子の恋慕を幸いに婚礼なし。その財産を
押領なすべきたくみなれば。ついにはあの方にのみ多くありて。物見遊山なども相のりをなして。これみよかしとわが家の前を通行なすなど。浜子はくやしさやるかたなきものから。もとはおのれがなせしわざと。さとればさすが里方篠原家への聞えもはばかり。執事はじめ付きそえきたりしはしたまでに。口留めをなしおきたれど。隠れたるより
顕わるるはなく、とく勤にも聞えければ、なお
委しく調べたるに。家屋敷までもいつのまにや。抵当とやらんに質入れし。大金を借り
出したるなどのことまでしれたれども。正ははやくも官を辞し。とくにお貞を伴ないて。いずかたへかちくてんしたり。浜子はなまじいに交際ひろがりしより。かかる評判も
随いてたかければ。今さらほぞをかむのみにて。日々に涙にくれいたり。
第十一回
ちとおかけなさい。一ぷくあがっていらっしゃい。とよぶ女の声。こなたの角にはかけ合いに。万年働くかーめのっこ。きくはいのかめのこよりどったよりどった。とよぶ声いともかしましき。滝の川の秋の暮。人もようよう散れかかる
紅葉のかげのかけ茶屋に。しばしやすらう二人の男。人品いやしからざるが。立ち上りながら。
男「篠原君すこし向うの方へブラブラしちゃアどうだ。君は尊大人のおなくなりなすってからは。めっきりどうも体がよわったようで。気が引き立たぬからいけない。そりゃア気のすまぬところもあろうが。どうもなったことならしかたがないサ。はま子さんも断然さとって。実に今は後悔のようだ。僕も昨日横浜に用があったからおたずね申したら。実に面目ないといって涙ぐんでの咄しも。実に真成のクリスチャンになりきってしまって。もとのような様子はすっかりなくなったヨ。
篠「あれは全く妹がわるい。当人も実に心得違いをしたと。しんに後悔をして。ああしておとなしくしていても。母に公然と逢いに来るわけにもゆかず。かんがえると実にふびんサ。
男「ソリャアもっともだけれど。君は養父母の義理を思っているからだが。君がそうふさいでいて。肺病にでもなってはなお不孝です。こんなことをいうとおかしいが。僕もずいぶん気の小さい方で。少しくだらんことが気になると。いてもたってもいられないようだったが。斎藤が無理やりに母に進めて。あの服部の浪子を
妻にしてから。うちへかえってもかんがえるようなことはないのさ。何か読書でもしていて気の尽きる時には。琴を
弾かせたり茶を入れさせたり。少しは文学の相談もしたり。よほど気の晴れることがある。君なんぞは
御養母もああいう風だし。気のむすぼれるももっともです。干渉するようだが僕がせわをしようから。レディ篠原をこしらえ給えナ。
篠「実にあの浜子の一件の時分は激して。あれに
優る妻をとも思ったが。今ではただ気のどくだ
不便だということばかり脳にあって。ちっともそんなことはかんがえん。アーなんだか咄しが理に落ちたじゃアないか。
男「ムーン。サア行こう。ヤアヤアなんだか書きちらかしてある。発句かネ。
紅葉みにくる人もみな赤い顔。
アハハハハ。くだらないことを。こういうところには和歌はまれだネ。
篠「まち給えヨ。あすこにおちているが和歌かしらん。おや鉛筆でもきれいにかいてあるヨ。
いたずらに散りやはつらん
紅葉も。まことの色をみる人のなみ。
へんに
慷慨な歌だネエ。どんな人がかいたのかしらんが。歌はイイネ。実に
高尚ないいものだ。
男「おばアさん。こりゃアどんな人がかいたのかしるまいネエ。多い中だから。
婆「どれでござります。アアそれは大方今十五ばかりのお坊さんと。一しょに休んでおいでなすった。お嬢さんのでございましょう。
篠「エ女
······。なるほど女の手のようだ。これやア
貫之風だ。しかし歌というものは実に美術の一つで。なくっちゃアならないものサ。このごろの西洋家は
玩弄物のようにいう人もあるそうだが。実にそういうものじゃアない。そうして歌をよみつけると。簡短に意味の深い文章がかけてくるし。幾分か気が高尚になる。一体女学校なんザア。和歌の一科をいれてもいいのサ」ト咄しながら向うのきしにさしかかれば。こなたにやすめる松島葦男。目早くみとめて。
葦「ねえさんねえさん宮崎さんが。
秀「オヤオヤ。どうも誠にその後はお目にかかりませんで。
宮「ヤアこりゃアいいところでお目にかかって。お二人ぎりかネ。
葦「あの姉があまり内にばかりいますから。すすめて同道いたしました。
宮「ソリャアいいご保養だ。篠原君僕のよくお咄し申した。松島の秀子さんです。お秀さんこの方は久しく洋行をなすって。こんだ技芸士の栄号を得て帰朝なすった。僕の親友で篠原さんとおっしゃるお方です。ちょっとお近づきに」秀子は近くへ進みより。おみしりおかれても口の内。ようようその人をみあぐれば。まゆ秀で鼻高く。口もと尋常にして愛きょうあり。留学をさえしたりとなれば。その学問のほどおしはかられて。いよいよ気高くみゆ。
仇心なき身ながらも。その様子の高尚なると。学術のほどのしたわれて。われしらず鼻じろむなるべし。勤もかねて聞き伝え。こうもやなど思いつる
予想のほかのおとなしさ。雪のように白き顔少しはじらいて。ほおのあたり
淡紅をおびたる。髪は束髪にたばねて。つまはずれの尋常なる
衣服は。すこしじみ過ぎし七ツ下りの
縞縮緬。紫
繻子とゆうぜんいりのかんこ縮緬の腹合せの帯をしめ。けんちゅうのくろき羽織をきたるみなりゆかし。勤は日ごろ
欝々としてたのしまざりしも。この活ける花をみては。紅葉の色もけたるるばかり。おなじようにはなじろみて言葉なし。さるぞとはしらぬ葦男はまめまめしく。サアこちらへ。とすすむれば。宮崎は腰をかけ。
宮「篠原君おかけなさいな
······。お秀さん。あのあっちの紅葉の下に落ちていましたが。この歌はもしあなたのお
詠ではござりませんか。
秀「オヤマアどうして」と少しはじらう風情あり。
宮「実に今までこのくらいに和歌のお出来なさることはしらなかったが。あなたなどは実に教育も充分あるし。家庭のおしえは自分みずからおさめておいでなさるから。こうしておいでなさるは実に何ですけれど。人にも知られんで散らしてしまうようなことはない。千里の馬も
伯楽がどうとやらといいます。ネエ篠原君。
篠「実にそうサ。なんでもひそんでいる方がおくゆかしい。
宮「ソリャそうだが。あまり自分で自分を。いやしいもんだ何も出来ないもんだ。と卑下し過ぎてもいけないが。いく分か自分の気を高尚にもっていて。そうして自負せず。生意気にならないようにするのが学問の力サ。ネエーお秀さん。
秀「誠にさようでござりましょうネエ。私も学問を致して道理とやらがしりとうござりますけれど。
宮「イヤどうも欲の深いお秀さんだワ
······。
秀「オヤお咄しを伺がっておりましたうちに。いつか日がくれかかりました。私どもはお先へご免をいただきます。葦男さん参りましょう。
宮「そうですか。なるほどあまり遅くなるは。若い人にはよくありますまい。さようならちとお遊びにおいでなさい。そしてこの篠原様へもちっとあがって。西洋風俗や学問のお
高論をお伺いなさい。こんどおつれ申しましょう。
秀「どうか願いとうござります。誠に失礼を致しました。さようなら。
篠「さようなら」ともろともにおしき
袂を分ちけり。アアこの佳人才子の出会こそ。
月老氷人のなかだちで。
好えんを結ばせ給うならめと。ただもろともにいとおしと。思う心を色にも出さず。心にしめて別れ行く。なかなかに
傍の見る目もゆかしかるべし。
宮「どうですお気に入ったようですネ。君のお説にかなっている婦人でしょう。僕は他にあのくらいな感心なのはあるまいと信ずるヨ。
篠「エ。そうさネエ。
宮「そう冷淡なのがお気に入った証拠だ。どうです伯楽になっては。
篠「どうして向うの気位が高いから。
「ナアニ願ったりかなったりです」と出しぬけにいわれてふりかえれば。滝の川帰りの商人二人。
「それじゃア扇屋としましょう。
宮崎は打ち笑い。
「ナンダ
夕飯の相談か。しかし末広の扇屋とはうれしかろう。エ篠原君は
······。
第十二回
所は芝の公園地。小高き岡に結構せし紅葉館と聞えしは。貴顕富豪
宴游の
筵を開くそのためには。この東京に二とは下らぬ。普請の好み料理の手ぎわは一きわなるに。今日は祝いの
席とて。四時過ぎころより入り来る馬車人力車は。さすがに広き玄関前もところせきまでつらなりたり。こは篠原子爵が宮崎一郎の
媒にて。松島秀子と新婚の祝宴を開くなり。故子爵が世にあらば鹿鳴館などにて西洋風の
饗応をひらかるべきなれど。勤には養母が好まぬと。秀子がいまだ洋風の交際になれざるのみか。親戚朋友の内には。いまだテイブルのまわりにたかりて。立ちながらの飲食いよりも。
吸物膳に坐りたるをうれしとする人多かれば。わざと世におくれてここに筵を開きしなり。
宮崎一郎「お前様誠におめでとうござります。
篠原母「ほんにお蔭様でよい嫁をとりまして。誠に安心致しました」と口にはいえど目元には。どこやらうるみの見ゆるもことわりなりと。一郎はことほぎ
詞も深くはいわず。すべり出でたるその跡より一座の人々誰彼とおのがまにまに祝いを述べつ。例の斎藤はほろ
酔い気げんの高調子。
斎藤「オイなみ子さんじゃなかった。ミスセス宮崎。あなたとあの浜子さんとは。随分仲をよくしていたようだったが。あんなことになってしまい。今日なんぞはなんでも第一の上客というはずだのに。つまらないじゃアないか。浪子「さようでござります」と挨拶のみ。跡を何ともいわざるは。上座におわす篠原の女隠居に遠慮あるゆえとは斎藤心づかなく、またそろ勤に向い。
「コレ勤君あの山中というやつは。あんなわるいことをする度胸なんぞのある奴ではないが。ただ一生懸命に
故大人の御気げんをとろうというところから。ソレ浜子さんは御愛嬢だから。
竈に
媚びるという主義から。おべっかりがあんまり過ぎて。とうとうソレ
······。だがそれもしかたがない。君があれまでにしてやったのに。あいつも例のシャーつくで。結構この上もない華族様の婿がねと。大きなつらをしたっても。実はこうだ。と僕初めいうものがあるものか。そうすれア人の噂も七十五日。いつかは消えてしまうのに。あの悪婆にそそのかされて。馬鹿ナ
······。とんだことをやらかしたのだ。全体あの仕事はあいつの体にない役だ。一体
色悪というよりは。むしろつッころばしという役の方が適当で。根っからいくじのないのサ。初めから目的もなんにもなしで。初手は故大人の御気嫌をとろうということばッかりで。浜子さんを一番だまかそうという気があったでは決してない。あの
婆々アの方だっても。向うの
閨淋しいところから何とか言われたので。前方から世話になっていて。まさかに恥もかかせられないとかいう。ひょんな人情ずくもその内の一分子サ。だがちょっと手を出したからには。モウあの悪婆に制せられて。トントン拍子にあれまでの仕事をしたのサ。一体人間というものは。己れに守るところがなくって。ただ外物に従って周旋すると。心にもない大悪事をしでかすもので。山中もマアそんなものサ。大きくいえば漢の
荀
が
曹操におけるがごとしともいおうかネ。あの西郷も僕にいわすれば。やっぱりそうだ。
薩摩の壮士に擁せられ。義理でもない義理にからまれて。心にもなく
叛賊の汚名を流したは。守るところを失なったといわざるを得ずだ」少し小声にて
m も大分持ち出したそうだ。このごろは婆々にめしあげられて。いよいよつきだされたかもしれない。そうしてみると浜子さんはいよいよかあいそうだ。と場しらずの物語に。人々は目と目を見合わするのみ。いらえさえするものなければ。ようやくに心づきごまかしかたがた酒興に乗じ。かねて覚えの
謡曲一節うたい出でたるおりから。
宮崎「実に
姻縁は不思議なもので。愚妻などもかねてより近くは致しおりましたが、こうなろうともおもいませず。また君には
······。ウーンあんなこんなかねて期せざる御縁辺はお互いにネ。
勤「さよう今までのことをかんがえると随分小説めくで。今夜の祝宴なんぞは。かのめでたしめでたしとやるところだ」と語る声斎藤の耳に入りたれば。大きな声にてめでたしめでたし。
附けて言う。松島葦男はその後大学に入り。工学を修め。卒業の後。ある一大土木の工を督し。人に名を知らるるに至り。後に宮崎一郎の妹と婚姻を結びしとぞ。斎藤の妹松子と相沢品子とは。その後師範学校に入りて。いずれも才学をもって名を知られたりしが。かねてかたれる志のごとく。女学士にて夫をも持たず。一生を送りしや否や。その将来は知るによしなし。
山中正とお貞の行末はたしかならねど。斎藤が推察に
違わぬ結果なるべしと。人々はいえりとぞ。