虫 一
「おッとッとッと。そう
乗出しちゃいけない。
垣根が
やわだ。
落着いたり、
落着いたり」
「ふふふ。あわててるな
若旦那、あっしよりお
前さんでげしょう」
「
叱ッ、
静かに。
||」
「こいつァまるであべこべだ。どっちが
宰領だかわかりゃァしねえ」
が、それでも
互の
声は、ひそやかに
触れ
合う
草の
草ずれよりも
低かった。
「まだかの」
「まだでげすよ」
「じれッてえのう、
向う
臑を
蚊が
食いやす」
「
御辛抱、
御辛抱。
||」
谷中の
感応寺を
北へ
離れて二
丁あまり、
茅葺の
軒に
苔持つささやかな
住居ながら
垣根に
絡んだ
夕顔も
白く、四五
坪ばかりの
庭一
杯に
伸びるがままの
秋草が
乱れて、
尾花に
隠れた
女郎花の、うつつともなく
夢見る
風情は、
近頃評判の
浮世絵師鈴木晴信が
錦絵をそのままの
美しさ。
次第に
冴える
三日月の
光りに、あたりは
漸く
朽葉色の
闇を
誘って、
草に
鳴く
虫の
音のみが
繁かった。
「
松つぁん」
「へえ」
「たしかにここに、
間違いはあるまいの」
「
冗談じゃござんせんぜ、
若旦那。こいつを
間違えたんじゃ、
松五
郎めくら
犬にも
劣りやさァ」
「だってお
前、
肝腎の
弁天様は、かたちどころか、
影も
見せやしないじゃないか」
「
御辛抱、
御辛抱、
急いちゃァ
事を
仕損じやす」
「ここへ
来てから、もう
半時近くも
経ってるんだよ。それだのにお
前。
||」
「でげすから、あっしは
浅草を
出る
時に、そう
申したじゃござんせんか。
松の
位の
太夫でも、
花魁ならば
売り
物買い
物。
耳のほくろはいうに
及ばず、
足の
裏の
筋数まで、
読みたい
時に
読めやすが、きょうのはそうはめえりやせん。
半時はおろか、
事によったら
一時でも
二時でも、
垣根のうしろにしゃがんだまま、お
待ちンならなきゃいけませんと、
念をお
押し
申した
時に、
若旦那、あなたは
何んと
仰しゃいました。
当時、
江戸の三
人女の
随一と
名を
取った、おせんの
肌が
見られるなら、
蚊に
食われようが、
虫に
刺されようが、
少しも
厭うことじゃァない、
好きな
煙草も
慎むし、
声も
滅多に
出すまいから、
何んでもかんでもこれから
直ぐに
連れて
行け。その
換りお
礼は二
分まではずもうし、
羽織もお
前に
進呈すると、これこの
通りお
羽織まで
下すったんじゃござんせんか。それだのに、まだほんの、
半時経つか
経たないうちから、そんな
我儘をおいいなさるんじゃ、お
約束が
違いやす。
頂戴物は、みんなお
返しいたしやすから、どうか
松五
郎に、お
暇をおくんなさいやして。
······」
「おっとお
待ち。あたしゃ
何も、
辛抱しないたいやァしないよ。ええ、
辛抱しますとも、
夜中ンなろうが、
夜が
明けようが、ここは
滅多に
動くンじゃないけれど、お
前がもしか
門違いで、おせんの
家でもない
人の
······」
「そ、それがいけねえというんで。
······いくらあっしが
酔狂でも、
若旦那を
知らねえ
家の
垣根まで、
引っ
張って
来る
筈ァありませんや。
松五
郎自慢の
案内役、こいつばかりゃ、たとえ
江戸がどんなに
広くッても
||」
「
叱ッ」
「うッ」
帯ははやりの
呉絽であろう。
引ッかけに、きりりと
結んだ
立姿、
滝縞の
浴衣が、いっそ
背丈をすっきり
見せて、
颯と
簾の
片陰から
縁先へ
浮き
出た十八
娘。ぽつんと一
本咲き
初めた、
桔梗の
花のそれにも
増して、
露は
紅より
濃やかであった。
明和戌年秋八
月、そよ
吹きわたるゆうべの
風に、
静かに
揺れる
尾花の
波路。
娘の
手から、
団扇が
庭にひらりと
落ちた。
二
顔を
掠めて、ひらりと
落ちた
桔梗の
花のひとひらにさえ、
音も
気遣う
心から、
身動きひとつ
出来ずにいた、
日本橋通油町の
紙問屋橘屋徳兵衛の
若旦那徳太郎と、
浮世絵師春信の
彫工松五
郎の
眼は、
釘着けにされたように、
夕顔の
下から
離れなかった。
が、よもやおのが
垣根の
外に、
二人の
男が
示し
合せて、
眼をすえていようとは、
夢想もしなかったのであろう。
娘は
落ちた
団扇を
流し
目に、
呉絽の
帯に
手をかけると、
廻り
燈籠の
絵よりも
速く、きりりと
廻ったただずまい、
器用に
帯から
脱け
出して、さてもう一
廻り、ゆるりと
廻った
爪先を
縁に
停めたその
刹那、
俄に
音を
張る
鈴虫に、
浴衣を
肩から
滑らせたまま、
半身を
縁先へ
乗りだした。
「
南無大願成就。
||」
「
叱ッ」
あとには
再び
虫の
声。
京師の、
花を
翳して
過す
上臈達はいざ
知らず、
天下の
大将軍が
鎮座する
江戸八百八
町なら、
上は
大名の
姫君から、
下は
歌舞の
菩薩にたとえられる、よろず
吉原千の
遊女をすぐっても、
二人とないとの
評判娘。
下谷谷中の
片ほとり、
笠森稲荷の
境内に、
行燈懸けた十一
軒の
水茶屋娘が、三十
余人束になろうが、
縹緻はおろか、
眉一つ
及ぶ
者がないという、
当時鈴木春信が一
枚刷の
錦絵から、
子供達の
毬唄にまで
持て
囃されて、
知るも
知らぬも、
噂の
花は
咲き
放題、かぎ
屋のおせんならでは、
夜も
日も
明けぬ
煩悩は、
血気盛りの
若衆ばかりではないらしく、
何ひとつ
心願なんぞのありそうもない、五十を
越した
武家までが、
雪駄をちゃらちゃらちゃらつかせてお
稲荷詣でに、
御手洗の
手拭は、
常に
乾くひまとてないくらいであった。
橘屋の
若旦那徳太郎も、この
例に
漏れず、
日に一
度は、
判で
捺したように
帳場格子の
中から
消えて、
目指すは
谷中の
笠森様、
赤い
鳥居のそれならで、
赤い
襟からすっきりのぞいたおせんが
雪の
肌を、
拝みたさの
心願に
外ならならなかったのであるが、きょうもきょうとて
浅草の、この
春死んだ
志道軒の
小屋前で、
出会頭に、ばったり
遭ったのが
彫工の
松五
郎、それと
察した
松五
郎から、おもて
飾りを
見るなんざ
大野暮の
骨頂でげす。おせんの
桜湯飲むよりも、
帯紐解いた
玉の
肌が
見たかァござんせんかとの、
思いがけない
話を
聞いて、あとはまったく
有頂天、どこだどこだと
訪ねるまでもなく、二
分の
礼と着ていた
羽織を
渡して、
無我夢中は、やがてこの
垣根の
外となった
次第。
||百
匹の
蚊が一
度に
臑にとまっても、
痛さもかゆさも
感じない
程、
徳太郎の
眼は、
野犬のようにすわっていた。
「
若旦那」
「
黙って。
||」
「
黙ってじゃァござんせん。もっと
低くおなんなすって。
||」
「
判ってるよ」
「そんならお
速く」
「ええもういらぬお
接介。
||」
おおかた、
縁から
上手へ一
段降りて
戸袋の
蔭には
既に
盥が
用意されて、
釜で
沸した
行水の
湯が、かるい
渦を
巻いているのであろうが、
上半身を
現わにしたまま、じっと
虫の
音に
聴きいっているおせんは、
容易に
立とうとしないばかりか、
背から
腰へと
浴衣の
滑り
落ちるのさえ、まったく
気づかぬのであろう。
三日月の
淡い
光が
青い
波紋を
大きく
投げて、
白珊瑚を
想わせる
肌に、
吸い
着くように
冴えてゆく
滑らかさが、
秋草の
上にまで
映え
盛ったその
刹那、ふと
立上ったおせんは、
颯と
浴衣をかなぐり
棄てると
手拭片手に、
上手の
段を二
段ばかり、そのまま
戸袋の
蔭に
身を
隠した。
「あッ」
「たッ」
辱も
外聞も
忘れ
果てたか、
徳太郎と
松五
郎の
口からは、
同時に
奇声が
吐きだされた。
三
「おせんや」
「あい」
「
何んだえ、いまのあの
音は。
||」
「さァ、
何んでござんしょう。おおかた
金魚を
狙う、
泥棒猫かも
知れませんよ」
「そんならいいが、あたしゃまたおまえが
転びでもしたんじゃないかと
思って、びっくりしたのさ。おまえあって、あたし、というより、
勿体ないが、おまえあってのお
稲荷様、
滅多に
怪我でもしてごらん、それこそ
御参詣が、
半分に
減ってしまうだろうじゃないか。
||縹緻がよくって
孝行で、その
上愛想ならとりなしなら、どなたの
眼にも
笠森一、お
腹を
痛めた
娘を
賞める
訳じゃないが、あたしゃどんなに
鼻が
高いか。
······」
「まァお
母さん。
||」
「いいやね。
恥かしいこたァありゃァしない。
子を
賞める
親は、
世間には
腐る
程あるけれど、どれもこれも、これ
見よがしの
自慢たらたら。それと
違ってあたしのは、おまえに
聞かせるお
礼じゃないか。さ、ひとつついでに、
背中を
流してあげようから、その
手拭をこっちへお
出し」
「いいえ、
汗さえ
流せばようござんすから
······」
「
何をいうのさ。いいからこっちへお
向きというのに」
二十二で
伜の千
吉を
生み、二十六でおせんを
生んだその
翌年、
蔵前の
質見世伊勢新の
番頭を
勤めていた
亭主の
仲吉が、
急病で
亡くなった、
幸から
不幸への
逆落しに、
細々ながら
人の
縫物などをさせてもらって、その
日その
日を
過ごして
早くも十八
年。十八に
家出をしたまま、いまだに
行方も
知れない
伜千
吉の
不甲斐なさは、
思いだす
度毎にお
岸が
涙の
種ではあったが、
踏まれた
草にも
花咲くたとえの
文字通り、
去年の
梅見時分から
伊勢新の
隠居の
骨折りで、
出させてもらった
笠森稲荷の
水茶屋が
忽ち
江戸中の
評判となっては、
凶が
大吉に
返った
有難さを、
涙と
共に
喜ぶより
外になく、それにつけても
持つべきは
娘だと、
近頃、お
岸が
掌を
合せるのは、
笠森様ではなくておせんであった。
「おせん」
「あい」
「つかぬことを
訊くようだが、おまえ
毎日見世へ
出ていて、まだこれぞと
思う、
好いたお
方は
出来ないのかえ」
「まあ
何かと
思えばお
母さんが。
||あたしゃそんな
人なんか、ひとりもありァしませんよ」
「ほほほほ。お
怒りかえ」
「
怒りゃしませんけれど、あたしゃ
男は
嫌いでござんす」
「なに、
男は
嫌いとえ」
「あい」
「ほんにまァ。
||」
この
春まで、まだまだ
子供と
思っていたおせんとは、つい
食違って、一つ
盥で
行水つかう
折もないところから、お
岸はいまだにそのままのなりかたちを
想像していたのであったが、ふとした
物音に
駆け
着けた
きっかけに、
半年振で
見たおせんの
体は、まったく
打って
変わった
大人びよう。七八つの
時分から、
鴉の
生んだ
鶴だといわれたくらい、
色の
白いが
自慢は
知れていたものの、
半年見ないと、こうも
変るものかと
驚くばかりの
色っぽさは、
肩から
乳へと
流れる
ほうずきのふくらみをそのままの
線に、
殊にあらわの
波を
打たせて、
背から
腰への、
白薩摩の
徳利を
寝かしたような
弓なりには、
触ればそのまま
手先が
滑り
落ちるかと、
怪しまれるばかりの
滑らかさが、
親の
目にさえ
迫らずにはいなかった。
嫌いな
客が百
人あっても、
一人は
好きがあろうかと、
訊いて
見たいは、
娘もつ
親の
心であろう。
四
「
若旦那」
「
何んとの」
「
何んとの、じゃァござんせんぜ。あの
期に
及んで、
垣根へ
首を
突込むなんざ、
情なすぎて、
涙が
出るじゃァござんせんか」
「おやおや、これはけしからぬ。お
前が
腰を
押したからこそ、あんな
態になったんじゃないか、それを
松つぁん、あたしにすりつけられたんじゃ、おたまり
小法師がありゃァしないよ」
「あれだ、
若旦那。あっしゃァ
後にいたんじゃねえんで。
若旦那と
並んで、のぞいてたんじゃござんせんか。
腰を
押すにも
押さないにも、まず、
手が
届きゃァしませんや。
||それにでえいち、あの
声がいけやせん。おせんの
浴衣が
肩から
滑るのを、
見ていなすったまでは
無事でげしたが、さっと
脱いで
降りると
同時に、きゃっと
聞こえた
異様な
音声。
差し
詰志道軒なら、一
天俄にかき
曇り、あれよあれよといいもあらせず、
天女の
姿は
忽ちに、
隠れていつか
盥の
中。
······」
「おいおい
松つぁん。いい
加減にしないか。
声を
出したなお
前が
初めだ」
「おやいけねえ。いくら
主と
家来でも、あっしにばかり、
罪をなするなひどうげしょう」
「ひどいことがあるもんか。これからゆっくりかみしめて、
味を
見ようというところで、お
前に
腰を
押されたばっかりに、それごらん、
手までこんなに
傷だらけだ」
「そんならこれでもお
付けなんって。
······おっとしまった。きのうかかあが
洗ったんで、まるっきり
袂くそがありゃァしねえ」
「
冗談いわっし、お
前の
袂くそなんぞ
付けられたら、それこそ
肝腎の
人さし
指が、
本から
腐って
落ちるわな」
「あっしゃァまだ
瘡気の
持合せはござせんぜ」
「なにないことがあるものか。
三日にあげず三
枚橋へ
横丁へ
売女を
買いに
出かけてるじゃないか。
||鼻がまともに
付いてるのが、いっそ
不思議なくらいなものだ」
「こいつァどうも
御挨拶だ。
人の
知らない、おせんの
裸をのぞかせた
挙句、
鼻のあるのが
不思議だといわれたんじゃ、
松五
郎立つ
瀬がありやせん。
冗談は
止しにして、ひとつ
若旦那、
縁起直しに、これから
眼の
覚めるとこへ、お
供をさせておくんなさいまし」
「
眼の
覚めるとことは。
||」
「おとぼけなすっちゃいけません。
闇の
夜のない
女護ヶ
島、ここから
根岸を
抜けさえすりゃァ、
眼をつぶっても
往けやさァね」
「
折角だが、そんな
所は、あたしゃきょうから
嫌いになったよ」
「なんでげすって」
「
橘屋徳太郎、
女房はかぎ屋のおせんにきめました」
「と、とんでもねえ、
若旦那。おせんはそんななまやさしい。
||」
「おっと
皆までのたまうな。
手前、
孫呉の
術を
心得て
居りやす」
「
損五も
得七もありゃァしません。
当時名代の
孝行娘、たとい
若旦那が、百
日お
通いなすっても、こればっかりは
失礼ながら、
及ばぬ
鯉の
滝登りで。
······」
「
松っぁん」
「へえ」
「
帰っとくれ」
「えッ」
「あたしゃ
何んだか
頭痛がして
来た。もうお
前さんと、
話をするのもいやンなったよ」
「そ、そんな
御無態をおいいなすっちゃ。
||」
「どうせあたしゃ
無態さ。
||この
煙草入もお
前に
上げるから、とっとと
帰ってもらいたいよ」
三日月に、
谷中の
夜道は
暗かった。その
暗がりをただ
独り
鳴く、
蟋蟀を
踏みつぶす
程、やけな
歩みを
続けて
行く、
若旦那徳太郎の
頭の
中は、おせんの
姿で一
杯であった。
五
「ふん、
何んて
馬鹿気た
話なんだろう。こっちからお
頼み
申して
来てもらった
訳じゃなし。
若旦那が
手を
合せて、たっての
頼みだというからこそ、
連れて
来てやったんじゃねえか、そいつを、
自分からあわてちまってよ。
垣根の
中へ
突ンのめったばっかりに、ゆっくり
見物出来るはずのおせんの
裸がちらッとしきゃのぞけなかったんだ。
||面白くもねえ。それもこれも、みんなおいらのせえだッてんじゃ、てんで
立つ
瀬がありゃしねえや。どこの
殿様がこさえたたとえか
知らねえが、
長い
物にゃ
巻かれろなんて、あんまり
向うの
都合が
良過ぎるぜ。
橘屋の
若旦那は、八百
蔵に
生き
写しだなんて、つまらねえお
世辞をいわれるもんだから、
当人もすっかりいい
気ンなってるんだろうが、八百
蔵はおろか、八百
屋の
丁稚にだって、あんな
面があるもんか。
飛んだ
料簡違いのこんこんちきだ」
誰にいうともない
独言ながら、
吉原への
供まで
見事にはねられた、
版下彫の
松五
郎は、
止度なく
腹の
底が
沸えくり
返っているのであろう。やがて二三
丁も
先へ
行ってしまった
徳太郎の
背後から、
浴びせるように
罵っていた。
「おいおい
松つぁん」
「えッ」
「はッはッは。
何をぶつぶついってるんだ。
三日月様が
笑ってるぜ」
「お
前さんは。
||」
「おれだよ。
春重だよ」
うしろから
忍ぶようにして
付いて
来た
男は、そういいながら
徐ろに
頬冠りをとったが、それは
春信の
弟子の
内でも、
変り
者で
通っている
春重だった。
「なァんだ、
春重さんかい。
今時分、
一人でどこへ
行きなすった」
「
一人でどこへは、そっちより、こっちで
訊きたいくらいのもんだ。
||お
前、
橘屋の
徳さんにまかれたな」
「まかれやしねえが、どうしておいらが、
若旦那と一
緒だったのを
知ってるんだ」
「ふふふ。
平賀源内の
文句じゃねえが、
春重の
眼は、一
里先まで
見透しが
利くんだからの。お
前が
徳さんとこで
会って、どこへ
行ったかぐらいのこたァ、
聞かねえでも、ちゃんと
判ってらァな」
「おやッ、
行った
先が
判ってるッて」
「その
通りだ、
当てやろうか」
「
冗談じゃねえ、いくらお
前さんの
眼が
利いたにしたって、こいつが
判ってたまるもんか。
断っとくが、
当時十六
文の
売女なんざ、
買いに
行きゃァしねえよ」
「だが、あのざまは、あんまり
威張れもしなかろう」
「あのざまたァ
何よ」
「
垣根へもたれて、でんぐる
返しを
打ったざまだ」
「
何んだって」
「おせんの
裸を
窺こうッてえのは、まず
立派な
智恵だがの。おのれを
忘れて
乗出した
挙句、
垣根へ
首を
突っ
込んだんじゃ、
折角の
趣向も
台なしだろうじゃねえか」
「そんなら
重さん、お
前さんはあの
様子を。
||」
「
気の
毒だが、
根こそぎ
見ちまったんだ」
「どこで
見なすった」
「
知れたこった。
庭の
中でよ」
「
庭の
中」
「おいらァ
泥棒猫のように、
垣根の
外でうろうろしちゃァいねえからの。
||それ
見な。
鬼童丸の
故智にならって、
牛の
生皮じゃねえが、この
犬の
皮を
被っての、
秋草城での
籠城だ。おかげで
画嚢はこの
通り。
||」
懐中から
取り
出した
春重の
写生帳には、十
数枚のおせんの
裸像が
様々に
描かれていた。
六
松五
郎は、
狐につままれでもしたように、しばし
三日月の
光に
浮いて
出たおせんの
裸像を、
春重の
写生帳の
中に
凝視していたが、やがて
我に
還って、あらためて
春重の
顔を
見守った。
「
重さん、お
前、
相変らず
素ばしっこいよ」
「なんでよ」
「
犬の
皮をかぶって、おせんの
裸を
思う
存分見た
上に
写し
取って
来るなんざ、
素人にゃ、
鯱鉾立をしても、
考えられる
芸じゃねえッてのよ」
「ふふふ、そんなこたァ
朝飯前だよ。
||おいらぁ
実ァ、もうちっといいことをしてるんだぜ」
「ほう、どんなことを」
「
聞きてえか」
「
聞かしてくんねえ」
「ただじゃいけねえ、一
朱だしたり」
「一
朱は
高えの」
「なにが
高えものか。
時によったら、
安いくらいのもんだ。
||だがきょうは
見たところ、一
朱はおろか、
財布の
底にゃ十
文もなさそうだの」
「けちなことァおいてくんねえ。
憚ンながら、あしたあさまで
持越したら、
腹が
冷え
切っちまうだろうッてくれえ、
今夜は
財布が
唸ってるんだ」
「それァ
豪儀だ。ついでだ、ちょいと
拝ませな」
「ふん、
重さん。
眼をつぶさねえように、
大丈夫か」
「
小判の
船でも
着きゃしめえし、
御念にゃ
及び
申さずだ」
財布はなかった。が、おおかた
晒しの六
尺にくるんだ
銭を、
内ぶところから
探っているのであろう。
松五
郎は
暫しの
間、
唖が
筍を
掘るような
恰好をしていたが、やがて
握り
拳の
中に、五六
枚の
小粒を
器用に
握りしめて、ぱっと
春重の
鼻の
先で
展げてみせた。
「どうだ、
親方」
「ほう、こいつァ
珍しい。どこで
拾った」
「
冗談いわっし。
当節銭を
落す
奴なんざ、
江戸中尋ねたってあるもんじゃねえ。
稼えだんだ」
「
版下か」
「
はんは
はんだが、
字が
違うやつよ。ゆうべお旗本の
蟇本多の
部屋で、
半を
続けて三
度張ったら、いう
目が
出ての
俄分限での、
急に
今朝から
仕事をするのがいやンなって、
天道様がべそをかくまで
寝てえたんだが
蝙蝠と一
緒に、ぶらりぶらりと
出たとこを、
浅草でばったり
出遭ったのが
若旦那。それから
先は、お
前さんに
見られた
通りのあの
始末だ。
||」
「そいつァ
夢に
牡丹餅だの。十
文と
踏んだ
手の
内が、三
両だとなりゃァ一
朱はあんまり
安過ぎた。三
両のうちから一
朱じゃァ、
髪の
毛一
本、
抜くほどの
痛さもあるまいて」
「こいつァ
今夜のもとでだからの」
「そんなら
止しなっ
聞しちゃやらねえ」
「
聞かせねえ」
「だすか」
「
仕方がねえ、
出しやしょう」
すると
春重は、きょろりと
辺を
見廻してから、
俄に
首だけ
前へ
突出した。
「
耳をかしな」
「こうか」
「
||」
「ふふ、ほんとうかい。
重さん。
||」
「
嘘はお
釈迦の
御法度だ」
痩た
松五
郎の
眼が
再び
春重の
顔に
戻った
時、
春重はおもむろに、ふところから
何物かを
取出して
松五
郎の
鼻の
先にひけらかした。
七
足もとに、
尾花の
影は
淡かった。
「なんだい」
「なんだかよく
見さっし」
八の
字を
深くしながら、
寄せた
松五
郎の
眼先を、ちらとかすめたのは、
鶯の
糞をいれて
使うという、
近頃はやりの
紅色の
糠袋だった。
「こいつァ
重さん、
糠袋じゃァねえか」
「まずの」
「一
朱はずんで、
糠袋を
見せてもらう
どじはあるめえぜ。
||お
前いまなんてッた。おせんの
雪のはだから
切り
取った、
天下に二つと
無え
代物を
拝ませてやるからと。
||」
「
叱ッ、
極内だ」
「だってそんな
糠袋。
······」
「
袋じゃねえよ。おいらの
見せるなこの
中味だ。
文句があるンなら、
拝んでからにしてくんな。
||それこいつだ。
触った
味はどんなもんだの」
ぐっと
伸ばした
松五
郎の
手先へ、
春重は
仰々しく
糠袋を
突出したが、さて
暫くすると、
再び
取っておのが
額へ
押し
当てた。
「
開けて
見せねえ」
「
拝みたけりゃ
拝ませる。だが一つだって
分けちゃァやらねえから、そのつもりでいてくんねえよ」
そういいながら、
指先を
器用に
動かした
春重は、
糠袋の
口を
解くと、まるで
金の
粉でもあけるように、
松五
郎の
掌へ、三つばかりを、
勿体らしく
盛り
上げた。
「こいつァ
重さん。
||」
「
爪だ」
「ちぇッ」
「おっとあぶねえ。
棄てられて
堪るものか。これだけ
貯めるにゃ、まる一
年かかってるんだ」
松五
郎の
掌へ、おのが
掌をかぶせた
春重は、あわてて相手の
掌ぐるみ
裏返して、
ほっとしたように
眼の
前へ
引き
着けた。
「
湯屋で
拾い
集めた
爪じゃァねえよ。
蚤や
蚊なんざもとよりのこと、
腹の
底まで
凍るような
雪の
晩だって、おいらァじっと
縁の
下へもぐり
込んだまま
辛抱して
来た
苦心の
宝だ。
||この
明りじゃはっきり
見分けがつくめえが、よく
見ねえ。お
大名のお
姫様の
爪だって、これ
程の
艶はあるめえからの」
三日月なりに
切ってある、
目にいれたいくらいの
小さな
爪を、
母指と
中指の
先で
摘んだまま、ほのかな
月光に
透した
春重の
面には、
得意の
色が
明々浮んで、はては
傍に
松五
郎のいることをさえも
忘れた
如く、
独り
頻りにうなずいていたが、ふと
向う
臑にたかった
藪蚊のかゆさに、
漸くおのれに
還ったのであろう。
突然平手で
臑をたたくと、くすぐったそうにふふふと
笑った。
「
重さん、お
前まったく
変り
者だの」
「なんでよ」
「
考えても
見ねえ。これが
金の
棒を
削った
粉とでもいうンなら、
拾いがいもあろうけれど、
高が
女の
爪だぜ。一
貫目拾ったところで、
疽の
薬になるくれえが、
関の
山だろうじゃねえか。よく
師匠も、
春重は
変り
者だといってなすったが、まさかこれ
程たァ
思わなかった」
「おいおい
松つぁん、はっきりしなよ。おいらが
変り
者じゃァねえ。
世間の
奴らが
変ってるんだ。それが
証拠にゃ。
願にかけておせんの
茶屋へ
通う
客は
山程あっても、
爪を
切るおせんのかたちを、一
度だって
見た
男は、おそらく
一人もなかろうじゃねえか。
||そこから
生れたこの
爪だ」
一つずつ
数えたら、
爪の
数は、百
個近くもあるであろう。
春重は、もう一
度糠袋を
握りしめて、
薄気味悪く
にやりと
笑った。
朝 一
ちち、ちち、ちちち。
行燈はともしたままになっていたが、
外は
既に
明けそめたのであろう。
今まで
流し
元で
頻りに
鳴いていた
虫の
音が、
絶えがちに
細ったのは、
雨戸から
差す
陽の
光りに、おのずと
怯えてしまったに
相違ない。
が、
虫の
音の
細ったことも、
外が
白々と
明けそめて、
路地の
溝板を
踏む
人の
足音が
聞えはじめたことも、
何もかも
知らずに、ただ
独り、
破れ
畳の
上に
据えた
寺子屋机の
前に
頑張ったまま、
手許の
火鉢に
載せた
薬罐からたぎる
湯気を、千
切れた
蟋蟀の
片脚のように、
頬を
引ッつらせながら、
夢中で
吸い
続けていたのは
春重であった。
七
軒長屋のまん
中は
縁起がよくないという、
人のいやがるそんまん
中へ、
所帯道具といえば、
土竈と七
輪と、
箸と
茶碗に
鍋が一つ、
膳は
師匠の
春信から、
縁の
欠けた
根ごろの
猫脚をもらったのが、せめて
道具らしい
顔をしているくらいが
関の
山。いわばすッてんてんの
着のみ
着のままで
蛆が
湧くのも
面白かろうと、
男やもめの
垢だらけの
体を
運び
込んだのが、
去年の
暮も
押し
詰って、
引摺り
餅が
向ッ
鉢巻で
練り
歩いていた、廿五
日の
夜の八つ
時だった。
ざっと二
年。きのうもきょうもない
春重のことながら、二十七のきょうの
若さで、
女の
数は千
人近くも
知り
尽くしたのが
自慢なだけに、
並大抵のことでは
興味が
湧かず、
師匠の
通りに
描く
美人画なら、いま
直ぐにも
描ける
器用な
腕が
却って
邪間になって、
着物なんぞ
着た
女を
描いても、
始まらないとの
心からであろう。
自然の
風景を
写すほかは、
画帳は
悉く、
裸婦の
像に
満たされているという
変り
様だった。
二
畳に六
畳の二
間は、
狭いようでも
道具がないので、
独り
住居には
広かった。そのぐるりの
壁に
貼りめぐらした
絵の
数が、一
目で
数えて三十
余り、しかも
男と
名のつく
者は、
半分も
描いてあるのではなく、
女と、いうよりも、
殆ど
全部が、おせんの
様々な
姿態に
尽されているのも
凄まじかった。
その六
畳の
行燈の
下に、
机の
上から
投げ
出されたのであろう、
腰の
付根から
下だけを、
幾つともなく
描いた
紙片が、十
枚近くもちらばったのを、
時おりじろりじろりとにらみながら、
薬罐の
湯気を、
鼻の
穴が
開きッ
放しになる
程吸い
込んでいた
春重は、ふと、
行燈の
芯をかき
立てて、
薄気味悪くニヤリと
笑った。
「ふふふ。わるくねえにおいだ。
||世間の
奴らァ
智恵なしだから、
女のにおいは、
肌からじかでなけりゃ、
嗅げねえように
思ってるが、
情ねえもんだ。この
爪が、
薬罐の
中で
煮えくり
返る
甘い
匂を、一
度でいいから
嗅がしてやりてえくれえのもんだ。
紅やおしろいのにおいなんぞたァ
訳が
違って、
魂が
極楽遊びに
出かけるたァこのことだろう。おまけにただの
駄爪じゃねえ。
笠森おせんの、
磨きのかかった
珠のような
爪様だ。
||大方松五
郎の
奴ァ、
今時分、
やけで
出かけた
吉原で、
折角拾ったような
博打の
金を、
手もなく
捲揚げられてることだろうが、
可哀想にこうしておせんの
脚を
描きながらこの
匂をかいでる
気持ァ、
鯱鉾立をしたってわかるこッちゃァあるめえて。
||ふふふ。もうひと
摘み、
新しいこいつをいれ、
肚一
杯にかぐとしようか」
春重は
傍らに
置いた
紅の
糠袋を、
如何にも
大切そうに
取上げると、おもむろに
口紐を
解いて、十ばかりの
爪を
掌にあけたが、そのまま
湯のたぎる
薬罐の
中へ、一つ一つ
丁寧につまみ
込んだ。
「ふふふ、こいつァいい
匂だなァ。
堪らねえ
匂だ。
||笠森の
茶屋で、おせんを
見てよだれを
垂らしての
野呂間達に、
猪口半分でいいから、この
湯を
飲ましてやりてえ
気がする。
||」
どこぞの
秋刀魚を
狙った
泥棒猫が、あやまって
庇から
路地へ
落ちたのであろう。
突然雨戸を
倒したような
大きな
音が
窓下に
聞えたが、それでも
薬罐の
中に
埋められた
春重の
長い
顔はただその
眉が
阿波人形のように、
大きく
動いただけで、
決して
横には
向けられなかった。
二
「おたき」
「え」
「
隣じゃまた、いつもの
病が
始まったらしいぜ。
何しろあの
匂じゃ、
臭くッてたまらねえな」
「ほんとうに、
何んて
因果な
人なんだろうね。
顔を
見りゃ、十
人なみの
男前だし
絵も
上手だって
話だけど、してることは、まるッきり
並の
人間と
変ってるんだからね」
「おめえ。ちょいと
隣へ
行って
来ねえ」
「
何しにさ」
「
夜のこたァ、こっちが
寝てるうちだから、
何をしても
構わねえが、お
天道様が、
上ったら、その
匂だけに
止めてもらいてえッてよ。
仕事に
行ったって、えたいの
知れぬ
匂が、
半纏にまでしみ
込んでるんで、
外聞が
悪くッて
仕様がありやァしねえ」
「
女じゃ
駄目だよ。お
前さん
行って、かけ
合って
来とくれよ」
「だからね。おいらァ
行くな
知ってるが、
今もそいった
通り、
帳場へ
出かけてからがみっともなくて
仕様がねえんだ。あんな
匂の
中へ
這入っちゃいかれねえッてのよ」
「あたしだっていやだよ。まるで
焼場のような
匂だもの。きのうだって、
髪結のおしげさんがいうじゃァないか。お
上さんとこへ
結いに
行くのもいいけれど、お
隣の
壁越しに
伝わってくる
匂をかぐと、
仏臭いような
気がしてたまらないから、なるたけこっちへ、
出かけて
来てもらいたいって。
||いったいお
前さん、あれァ
何を
焼く
匂だと
思ってるの」
「
分ってらァな」
「
何んだえ」
「
奴ァ
絵かきッて
振れ
込みだが、
嘘ッ八だぜ」
「おや、
絵かきじゃないのかい」
「そうとも。
奴ァ
雪駄直しだ」
「
雪駄直し。
||」
「それに
違えねえやな。でえいち、
外にあんな
匂をさせる
家業が、ある
筈はなかろうじゃねえか。
雪駄の
皮を、
鍋で
煮るんだ。
軟らかにして、
針の
通りがよくなるようによ」
「そうかしら」
「
しらも
黒もありァしねえ。それが
為に、
忙しい
時にゃ、
夜ッぴて
鍋をかけッ
放しにしとくから、こっちこそいい
面の
皮なんだ。
||この
壁ンところ
鼻を
当てて
臭いで
見ねえ。
火事場で
雪駄の
焼け
残りを
踏んだ
時と、まるッきり
変りがねえじゃねえか」
「あたしゃもう、ここにいてさえ、いやな
気持がするんだから、そんなとこへ
寄るなんざ、
真ッ
平よ。
||ねえお
前さん。
後生だから、かけ
合って
来とくれよ」
「おめえ
行って
来ねえ」
「
女じゃ
駄目だというのにさ」
「
男が
行っちゃァ、
穏やかでねえから、おめえ
行きねえッてんだ」
「だって、こんなこたァ、どこの
家だって、みんな
亭主の
役じゃないか」
「おいらァいけねえ」
「なんて
気の
弱い
人なんだろう」
「
臭えからいやなんだ」
「お
前さんより、
女だもの。あたしの
方が、どんなにいやだか
知れやしない。
||昔ッから、
公事かけ
合は、みんな
男のつとめなんだよ」
「ふん。
昔も
今もあるもんじゃねえ。
隣近所のこたァ、
女房がするに
極ッてらァな。
行って、こっぴどくやっ
付けて
来ねえッてことよ」
壁一
重隣の
左官夫婦が、
朝飯の
膳をはさんで、
聞えよがしのいやがらせも、
春重の
耳へは、
秋の
蝿の
羽ばたき
程にも
這入らなかったのであろう。
行燈の
下の、
薬罐の
上に
負いかぶさったその
顔は、
益々上気してゆくばかりであった。
三
「
重さん。もし、
重さんは
留守かい。
||おやッ、
天道様が
臍の
皺まで
御覧なさろうッて
真ッ
昼間、あかりをつけッ
放しにしてるなんざ、ひど
過ぎるぜ。
||寝ているのかい。
起きてるんなら
開けてくんねえ」
どこかで一
杯引っかけて
来た、
酔いの
廻った
舌であろう。
声は
確に
彫師の
松五
郎であった。
「ふふふふ。とうとう
寄りゃがったな」
首をすくめながら、
口の
中でこう
呟いた
春重は、それでも
爪を
煮込んでいる
薬罐の
傍から
顔を
放さずに、
雨戸の
方を
偸み
見た。
陽は
高々と
昇っているらしく、
今さら
気付いた
雨戸の
隙間には、なだらかな
日の
光が、
吹矢で
吹き
込んだように、
こまいの
現れた
壁の
裾へ
流れ
込んでいた。
「
春重さん。
重さん。
||」
が、それでも
春重は
返事をしずに、そのまま
鎌首を
上げて、ひそかに
上りはなの
方へ
這い
寄って
行った。
「おかしいな。いねえはずァねえんだが。
||あかりをつけて
寝てるなんざ、どっちにしても
不用心だぜ。おいらだよ。
松五
郎様の
御登城だよ」
「もし、
親方」
突然、
隣の
女房おたきの
声が
聞こえた。
「ねえお
上さん。ここの
家ァ
留守でげすかい。
寝てるんだか
留守なんだか、ちっともわからねえ」
「いますともさ。だが
親方、
悪いこたァいわないから、
滅多に
戸を
開けるなァお
止しなさいよ。そこを
開けた
日にゃ、それこそ
生皮の
匂で、
隣近所は
大迷惑だわな」
「
生皮の
匂ってななんだの、お
上さん」
「おや、
親方にゃこの
匂がわからないのかい。このたまらない
いやな匂が。
······」
「
判らねえこたァねえが、こいつァおまえ、
膠を
煮てる
匂だわな」
「
冗談じゃない。そんな
生やさしいもんじゃありゃァしない。お
鍋を
火鉢へかけて、
雪駄の
皮を
煮てるんだよ。
今もうちで、
絵師なんて
振れ
込みは、
大嘘だって
話を。
······」
がらッと
雨戸が
開いて、
春重の
辛い
顔がぬッと
現れた。
「お
早よう」
「お
早ようじゃねえや。
何んだって
松つぁんこんな
早くッからやって
来たんだ」
「
早えことがあるもんか。お
天道様は、もうとっくに
朝湯を
済まして、あんなに
高く
昇ってるじゃねえか。
||いってえ
重さん。おめえ、
寝てえたんだか
起きてたんだか、なぜ
返事をしてくれねえんだ」
「
返事なんざ、しちゃァいられねえよ。
||いいからこっちへ
這入ンねえ」
不機嫌な
春重の
顔は、
桐油のように
強張っていた。
「へえってもいいかい」
「
帰るんなら
帰ンねえ」
「いやにおどかすの」
「
振られた
朝帰りなんぞに
寄られちゃ、かなわねえ」
「ふふふ。
振られてなんざ
来ねえよ。それが
証拠にゃ、いい
土産を
持って
来た」
「
土産なんざいらねえから、そこを
締めたら、もとの
通り、ちゃんと
心張棒をかけといてくんねえ」
「
重さん、おめえまだ
寝るつもりかい」
「いいから、おいらのいった
通りにしてくんねえよ」
松五
郎が
不承無承に、
雨戸の
心張棒をかうと、九
尺二
間の
家の
中は
再び
元通りの
夜の
世界に
変って
行った。
「
上ンねえ」
が、
松五
郎は、
次第に
鼻を
衝いてくる
異様な
匂に、そのままそこへ
佇んでしまった。
四
行燈はほのかにともっていたものの、
日向から
這入って
来たばかりの
松五
郎の
眼には、
家の
中は
真ッ
暗闇であった。
「
松つぁん、
何んで
上らねえんだ」
「
暗くって、
足もとが
見えやしねえ」
「
不自由な
眼だの。そんなこっちゃ、
面白い
思いは
出来ねえぜ」
「
重さん、おめえ、ずっと
起きて
何をしてなすった」
「ふふふ。こっちへ
上りゃァ、
直ぐに
判るこッた。
||まァこの
行燈の
傍へ
来て
見ねえ」
漸く
眼に
慣れて
来たのであろう。
行燈の
輪が
次第に
色を
濃くするにつれて、
狭いあたりの
有様は、おのずから
松五
郎の
前にはっきり
浮き
出した。
「
絵をかいてたんじゃねえのかい」
「
絵なんざかいちゃァいねえよ。
||おめえにゃ、この
匂がわからねえかの」
「
膠だな」
「ふふ、
膠は
情ねえぜ」
「じゃァやっぱり、
牛の
皮でも
煮てるのか」
「
馬鹿をいわッし。おいらが
何んで、
牛の
皮に
用があるんだ。もっともこの
薬罐の
傍へ
鼻を
押ッつけて、よく
嗅いで見ねえ」
「おいらァ、こんな
匂は
真ァ
平だ」
「
何んだって。この
匂がかげねえッて。ふふふ。
世の
中にこれ
程のいい
匂は、またとあるもんじゃねえや、
伽羅沈香だろうが、
蘭麝だろうが
及びもつかねえ、
勿体ねえくれえの
名香だぜ。
||そんな
遠くにいたんじゃ、
本当の
香りは
判らねえから、もっと
薬罐の
傍に
寄って、
鼻の
穴をおッぴろげて
嗅いで
見ねえ」
「いってえ、
何を
煮てるのよ」
「
江戸はおろか、
日本中に二つとねえ
代物を
煮てるんだ」
「おどかしちゃいけねえ。そんな
物がある
訳はなかろうぜ」
「なにねえことがあるものか。
||それ
見ねえ。おめえ、この
袋にゃ
覚えがあろう」
鼻の
先へ
付き
付けた
紅の
糠袋は、
春重の
手の
中で、
珠のように
小さく
躍った。
「あッ。そいつを。
······」
「どうだ。おせんの
爪だ。この
匂を
嫌うようじゃ、
男に
生れた
甲斐がねえぜ」
「
重さん。おめえは、よっぽどの
変り
者だのう」
松五
郎は、あらためて
春重の
顔を
見守った。
「
変り
者じゃァねえ。そういうおめえの
方が、
変ってるんだ。
||四
角四
面にかしこまっているお
武家でも、
男と
生れたからにゃ、
女の
嫌いな
者ッ、ただの
一人もありゃァしめえ。その
万人が
万人、
好きで
好きでたまらねえ
女の、これが
本当の
匂だろうじゃねえか。
成る
程、
肌の
匂もある。
髪の
匂もある。
乳の
匂もあるにァ
違えねえ。だが、その
数ある
女の
匂を、一つにまとめた
有難味の
籠ったのが、この
匂なんだ。
||三
浦屋の
高尾がどれほど
綺麗だろうが、
楊枝見世のお
藤がどんなに
評判だろうが、とどのつまりは、みめかたちよりは、
女の
匂に
酔って
客が
通うという
寸法じゃねえか。
||よく
聞きなよ。
匂だぜ。このたまらねえいい
匂だぜ」
「
冗談じゃねえ。おいらァいくら
何んだって、こんな
匂をかぎたくッて、
通うような
馬鹿気たこたァ。
······」
「あれだ。おめえにゃまだ、まるッきり
判らねえと
見えるの。こいつだ。この
匂が、
嘘も
隠しもねえ、
女の
匂だってんだ」
「
馬鹿な、おめえ。
||」
「そうか。そう
思ってるんなら、いまおめえに
見せてやる
物がある。きっとびっくりするなよ」
春重はこういいながら、いきなり
真暗な
戸棚の
中へ
首を
突っ
込んだ。
五
じりじりッと
燈芯の
燃え
落ちる
音が、しばしのしじまを
破ってえあたりを
急に
明るくした。が、それも
束の
間、やがて
油が
尽きたのであろう。
行燈は
忽ち
消えて、あたりは
真の
闇に
変ってしまった。
「いたずらしちゃァいけねえ。まるっきりまっ
暗で、
何んにも
見えやしねえ」
背伸びをして、三
尺の
戸棚の
奥を
探っていた
春重は、
闇の
中から
重い
声でこういいながら、もう一
度、
ごとりと
鼠のように
音を
立てた。
「いたずらじゃねえよ。
油が
切れちゃったんだ」
「
油が
切れたッて。そんなら、
行燈のわきに、
油差と
火口がおいてあるから、
速くつけてくんねえ」
「どこだの」
「
行燈の
右手だ」
口でそういわれても、
勝手を
知らない
暗の
中では、
手探りも
容易でなく、
松五
郎は
破れ
畳の
上を、
小気味悪く
這い
廻った。
「
速くしてもらいてえの」
「いまつける」
探り
当てた
油差を、
雨戸の
隙間から
微かに
差し
込む
陽の
光を
頼りに、
油皿のそばまで
持って
行った
松五
郎は、
中指の
先で
冷たい
真鍮の
口を
加減しながら、とッとッとと、おもく
落ちた
油を
透かして
見たが、さてどうやらそれがうまく
運ぶと、これも
足の
先で
探り
出した
火口を
取って、やっとの
思いで
行燈に
灯をいれた。
ぱっと、
漆盆の
上へ
欝金の
絵の
具を
垂らしたように、あたりが
明るくなった。
同時に、
春重のニヤリと
笑った
薄気味悪い
顔が、こっちを
向いて
立っていた。
「
松つぁん。おめえ
本当に、
女の
匂は、
麝香の
匂だと
思ってるんだの」
「そりゃァそうだ。こんな
生皮のような
匂が
女の
匂でたまるもんか」
「そうか。じゃァよくわかるように、こいつを
見せてやる」
編めば
牛蒡締くらいの
太さはあるであろう。
春重の
手から、
無造作に
投げ
出された
真ッ
黒な一
束は、
松五
郎の
膝の
下で、
蛇のようにひとうねりうねると、ぐさりとそのまま
畳の
上へ、
とぐろを
巻いて
納まってしまった。
「あッ」
「
気味の
悪いもんじゃねえよ。よく
手に
取って、その
匂を
嗅いで
見ねえ」
松五
郎は
行燈の
下に、じっと
眼を
瞠った。
「これァ
重さん、
髪の
毛じゃねえか」
「その
通りだ」
「こんなものを、おめえ。
······」
「ふふふ、
気味が
悪いか。
情ねえ
料簡だの、
爪の
匂がいやだというから、そいつを
嗅がせてやるんだが、これだって、
髢なんぞたわけが
違って、
滅多矢鱈に
集まる
代物じゃァねえんだ。
数にしたら
何万本。しかも一
本ずつがみんな
違った、
若い
女の
髪の
毛だ。
||その
中へ
黙って
顔を
埋めて
見ねえ。
一人一人の
違った
女の
声が、
代り
代りに
聞えて
来る。この
世ながらの
極楽だ。
上はお
大名のお
姫様から、
下は
橋の
下の
乞食まで、十五から三十までの
女と
名のつく
女の
髪は、ひと
筋残らずはいってるんだぜ。
||どうだ
松つぁん。おいらァ、この
道へかけちゃ、
江戸はおろか、
蝦夷長崎の
果へ
行っても、ひけは
取らねえだけの
自慢があるんだ。
見ねえ、
髪の
毛はこの
通り、一
本残らず
生きてるんだから。
······」
松五
郎の
膝もとから、
黒髪の
束を
取りあげた
春重は、
忽ちそれを
顔へ
押し
当てると、
次第に
募る
感激に
身をふるわせながら、
異様な
声で
笑い
始めた。
「
重さん。おれァ
帰る」
「
帰るンなら、せめて
匂だけでも
嗅いできねえ」
が、
松五
郎は、もはや
腰が
坐らなかった。
六
「ああ
気味が
悪かった。ついゆうべの
惚気を
聞かせてやろうと
思って、
寄ったばっかりに、ひでえ
目に
遇っちゃった。
変り
者ッてこたァ
知ってたが、まさか、あれ
程たァ
思わなかった。
||あんな
奴につかまっちゃァ、まったくかなわねえ」
弾かれた
煎豆のように、
雨戸の
外へ
飛び
出した
松五
郎は、
酔いも一
時に
醒め
果てて、一
寸先も
見えなかったが、それでも
溝板の
上を
駆けだして、
角の
煙草屋の
前まで
来ると、どうやらほっと
安心の
胸を
撫でおろした。
「だが、いったいあいつは、
何んだってあんな
馬鹿気たことが
好きなんだろう。
爪を
煮たり、
髪の
毛の
中へ
顔を
埋めたり、
気狂じみた
真似をしちゃァ、いい
気持になってるようだが、
虫のせえだとすると、ちと
念がいり
過ぎるしの。どうも
料簡方がわからねえ」
ぶつぶつひとり
呟きながら、
小首を
傾げて
歩いて
来た
松五
郎は、いきなりぽんと一つ
肩をたたかれて、
はッとした。
「どうした、
兄ィ」
「おおこりゃ
松住町」
「
松住町じゃねえぜ。
朝っぱらから、
素人芝居の
稽古でもなかろう。いい
若え
者がひとり
言をいってるなんざ、みっともねえじゃねえか」
坊主頭へ四つにたたんだ
手拭を
載せて、
朝の
陽差を
避けながら、
高々と
尻を
絡げたいでたちの
相手は、
同じ
春信の
摺師をしている八五
郎だった。
「みっともねえかも
知れねえが、あれ
程たァ
思わなかったからよ」
「
何がよ」
「
春重だ」
「
春重がどうしたッてんだ」
「どうもこうもねえが、あいつァおめえ、
日本一の
変り
者だぜ」
「
春重の
変り
者だってこたァ、いつも
師匠がいってるじゃねえか。
今さら
変り
者ぐれえに、
驚くおめえでもなかろうによ」
「うんにゃ、そうでねえ。ただの
変り
者なら、おいらもこうまじゃ
驚かねえが、一
晩中寝ずに
爪を
煮たり、
束にしてある
女の
髪の
毛を、一
本一
本しゃぶったりするのを
見ちゃァいくらおいらが
度胸を
据えたって。
······」
「
爪を
煮るたァ、そいつァいってえ
何んのこったい」
「
薬罐に
入れて、
女の
爪を
煮るんだ」
「
女の
爪を
煮る。
||」
「そうよ。おまけにこいつァ、ただの
女の
爪じゃァねえぜ。
当時江戸で、一といって二と
下らねえといわれてる、
笠森おせんの
爪なんだ」
「
冗談じゃねえ。おせんの
爪が、
何んで
煮る
程取れるもんか、おめえも
人が
好過ぎるぜ。
春重に
欺されて、
気味が
悪いの
恐ろしいのと、
頭を
抱えて
帰ってくるなんざ、お
笑い
草だ。おおかた
絵を
描く
膠でも
煮ていたんだろう。そいつをおめえが
間違って。
······」
「そ、そんなんじゃねえ。
真正間違いのねえおせんの
爪を
紅の
糠袋から
小出しに
出して、
薬罐の
中で
煮てるんだ。そいつも、ただ
煮てるんならまだしもだが、
薬罐の
上へ
面を
被せて、
立昇る
湯気を、
血相変えて
嗅いでるじゃねえか。あれがおめえ、いい
心持で
見ていられるか、いられねえか、まず
考えてくんねえ」
「そいつを
嗅いで、どうしようッてんだ」
「
奴にいわせると、あのたまらなく
臭え
匂が
本当の
女の
匂だというんだ。
嘘だと
思ったら、
論より
証拠、
春重の
家へ
行って
見ねえ。
戸を
締め
切って、
今が
嬉しがりの
真ッ
最中だぜ」
が、八五
郎は
首を
振った。
「そいつァいけねえ。おれァ
師匠の
使いで、おせんのとこまで
行かにゃならねえんだ」
七
隈取りでもしたように
眼の
皮をたるませた
春重の、
上気した
頬のあたりに、
蝿が一
匹ぽつんととまって、
初秋の
陽が、
路地の
瓦から、くすぐったい
顔をのぞかせていた。
「おっといけねえ。
春重がやってくるぜ」
煙草屋の
角に
立ったまま、
爪を
煮る
噂をしていた
松五
郎は、あわてて八五
郎に
目くばせをすると、
暖簾のかげに
身を
引いた。
「
隠れるこたぁなかろう」
「そうでねえ。おいらは
今逃げて
来たばかりだからの。
見付かっちァことだ」
「そんなら、そっちへ
引っ
込んでるがいい。もののついでに、おれがひとつ、
鎌をかけてやるから。
||」
蛙のように、
眼玉ばかりきょろつかせて
暖簾のかげから
顔をだした
松五
郎は、それでもまだ
怯えていた。
「
大丈夫かの」
「
叱ッ。そこへ
来たぜ」
出合頭のつもりかなんぞの、
至極気軽な
調子で、八五
郎は
春重の
前へ
立ちふさがった。
「
重さん、
大層早えの」
びくっとしたように、
春重が
爪先で
立ち
止った。
「八つぁんか」
「八つぁんじゃねえぜ、一ぺえやったようないい
顔色をして、どこへ
行きなさる」
「
柳湯への」
「
朝湯たァしゃれてるの」
「しゃれてる
訳じゃねえが、
寝ずに
仕事をしてたんで、
湯へでも
這入らねえことにゃ、はっきりしねえからよ」
「ふん、
夜なべたァ
恐れ
入った。そんなに
稼いじゃ、
銭がたまって
仕方があるめえ」
「だからよ。だから
垢と一
緒に、
柳湯へ
捨てに
行くところだ」
「ほう、
済まねえが、そんな
無駄な
銭があるんなら、ちとこっちへ
廻して
貰いてえの。おれだの
松五
郎なんざ、
貧乏神に
見込まれたせいか、いつもぴいぴい
風車だ。そこへ
行くとおめえなんざ、おせんの
爪を
糠袋へ
入れて。
······」
「なんだって八つぁん、おめえ
夢を
見てるんじゃねえか。
爪だの
糠袋だの、とそんなことァ、おれにゃァてんで
通じねえよ」
「えええ
隠しちゃァいけねえ。
何から
何まで、おれァ
根こそぎ
知ってるぜ」
「
知ってるッて。
||」
「
知らねえでどうするもんか。
重さん、おめえの
夜あかしの
仕事は、
銭のたまる
稼ぎじゃなくッて、
色気のたまる
楽しみじゃねえか」
「そ、そんなことが。
······」
「
嘘だといいなさるのかい。
証拠はちゃんと
上ってるんだぜ。おせんの
爪を
煮る
匂は、さぞ
香ばしくッて、いいだろうの」
「そいつを、おめえは
誰から
聞きなすった」
「
誰から
聞かねえでも、おいらの
眼は
見透しだて。
||人間は、四百四
病の
器だというが、
重さん、おめえの
病は、
別あつらえかも
知れねえの」
春重は、きょろりとあたりを
見廻してから、一
段声を
落した。
「ちょいと
家へ
寄らねえか。おもしろい
物を
見せるぜ」
「
折角だが、
寄ってる
暇がねえやつさ。これから
大急ぎで、おせんの
見世まで
行かざァならねえんだ」
「おせんの
見世へ
行くッて、
何んの
用でよ」
「
何んの
用だか
知らねえが、
春信師匠が、
急に
用ありとのことでの」
八五
郎は、
春信から
預った
結文を、ちょいと
懐中から
窺かせた。
紅 一
ゆく
末は
誰が
肌触れん
紅の
花 ばせを
「おッとッと、そう
一人で
急いじゃいけねえ。まず
御手洗で
手を
浄めての。
肝腎のお
稲荷さんへ
参詣しねえことにゃ、
罰が
当って
眼がつぶれやしょう」
「いかさまこれは
早まった。こかァ
笠森様の
境内だったッけの」
「
冗談じゃごわせん。そいつを
忘れちゃ、
申訳がありますめえ。
||それそれ、
何んでまた、
洗った
手を
拭きなさらねえ。おせんは
逃げやしねえから、
落着いたり、
落着いたり」
「
御隠居、そうひやかしちゃいけやせん。
堪忍堪忍」
「はッはッはッ、
徳さん。お
前の
足ッ、まるッきり、
地べたを
踏んじァいねえの」
こおろぎの
音も
細々と
明け
暮れて、
風に
乱れる
芒叢に、三つ四つ五つ、
子雀の
飛び
交うさまも、いとど
憐れの
秋ながら、ここ
谷中の
草道ばかりは、
枯野も
落葉も
影さえなく、
四季を
分たず
咲き
競うた、
芙蓉の
花が
清々しくも
色を
染めて、
西の
空に
澄み
渡った
富岳の
雪に
映えていた。
名にし
負う
花の
笠森感応寺。
渋茶の
味はどうであろうと、おせんが
愛想の
靨を
拝んで、
桜貝をちりばめたような
白魚の
手から、お
茶一
服を
差し
出されれば、ぞっと
色気が
身にしみて、
帰りの
茶代は
倍になろうという。
女ならでは
夜のあけぬ、その
大江戸の
隅々まで、
子供が
唄う
毬唄といえば、
近頃「おせんの
茶屋」にきまっていた。
夜が
白々と
明けそめて、
上野の
森の
恋の
鴉が、まだ
漸く
夢から
覚めたか
覚めない
時分、
早くも
感応寺中門前町は、
参詣の
名に
隠れての、
恋知り
男の
雪駄の
音で
賑わいそめるが、十一
軒の
水茶屋の、いずれの
見世に
休むにしても、
当の
金的はかぎ
屋のおせんただ
一人。ゆうべ
吉原で
振り
抜かれた
捨鉢なのが、
帰りの
駄賃に、
朱羅宇の
煙管を
背筋に
忍ばせて、
可愛いおせんにやろうなんぞと、
飛んだ
親切なお
笑い
草も、
数ある
客の
中にも
珍しくなかった。
「はいお
早う」
「ああ
喉がかわいた」
赤い
鳥居の
手前にある。
伊豆石の
御手洗で
洗った
手を、
拭くのを
忘れた
橘屋の
若旦那徳太郎が、お
稲荷様への
参詣は二の
次ぎに、
連れの
隠居の
台詞通り、
土へつかない
足を
浮かせて、
飛び
込んで
来たおせんの
見世先。どかりと
腰をおろした
縁台に、
小腰をかがめて
近寄ったのは、
肝腎のおせんではなくて、
雇女のおきぬだった。
「いらっしゃいまし。お
早くからようこそ
御参詣で。
||」
「
茶をひとつもらいましょう」
「はい、
唯今」
三四
人の
先客への
遠慮からであろう。おきぬが
茶を
汲みに
行ってしまうと、
徳太郎はじくりと
固唾を
呑んで
声をひそめた。
「おかしいの。
居りやせんぜ」
「そんなこたァごわすまい。
看板のねえ
見世はあるまいからの」
「だが
御隠居。おせんは
影もかたちも
見えやせんよ」
「あわてずに
待ったり。じきに
奥から
出て
来ようッて
寸法だろう」
「
朝飯とお
踏みなすったか」
「そうだ。それともお
前さんのくるのを
知って、
念入りの
化粧ッてところか」
「
嬉しがらせは
殺生でげす。
||おっと
姐さん。おせんちゃんはどうしやした」
「
唯今ちょいとお
詣りに。
||」
「どこへの」
「お
稲荷様でござんすよ」
「うむ、
違いない。ここァお
稲荷様の
境内だっけの」
徳太郎は
漸く
安心したように、ふふふと
軽く
内所で
笑った。
二
橘屋の
若旦那徳太郎が、おせんの
茶屋で
安心の
胸を
撫でおろしていた
時分、
当のおせんは、
神田白壁町の
鈴木春信の
住居へと、ひたすら
駕籠を
急がせた。
「
相棒」
「おお」
「
威勢よくやんねえ」
「
合点だ」
「そんじょそこらの、
大道臼を
乗せてるんじゃねえや。
江戸一
番のおせんちゃんを
乗せてるんだからの」
「そうとも」
「こうなると、
銭金のお
客じゃァねえ。こちとらの
見得になるんだ」
「その
通りだ」
「おれァ、一
度、
半蔵松葉の
粧おいという
花魁を、
小梅の
寮まで
乗せたことがあったっけが、
入山形に一つ
星の、
全盛の
太夫を
乗せた
時だって、こんないい
気持はしなかったぜ」
「もっともだ」
「
垂を
揚げて、
世間の
仲間に
見せてやりてえくれえのものだの」
「おめえばかりじゃねえ。そいつァおいらもおんなじこッた」
「もし
姐さん」と、
後の
方から
声がかかった。
「あい」
「どうでげす。
駕籠の
垂を
揚げさしちァおくんなさるめえか」
「
堪忍しておくんなさい。あたしゃ
内所の
用事でござんすから。
······」
「
折角お
前さんを
乗せながら、
垂をおろして
担いでたんじゃ、
勿体なくって
仕方がねえ。
憚ンながら
駕籠定の
竹と
仙蔵は、
江戸一
番のおせんちゃんを
乗せてるんだと、みんなに
見せてやりてえんで。
······」
「どうかそんなことは、もういわないでおくんなさい」
「
評判娘のおせんちゃんだ。
両方揚げて
悪かったら、
片ッ
方だけでもようがしょう」
「そうだ、
姐さん。こいつァ
何も、あっしらばかりの
見得じゃァごあんせんぜ。
春信さんの
絵で
売り
込むのも、
駕籠から
窺いて
見せてやるのも、いずれは
世間へのおんなじ
功徳でげさァね。ひとつ
思い
切って、ようがしょう」
「どうか
堪忍。
······」
「
欲のねえお
人だなァ。
垂を
揚げてごらんなせえ。あれ
見や、あれが
水茶屋のおせんだ。
笠森のおせんだと、
誰いうとなく
口から
耳へ
伝わって
白壁町まで
往くうちにゃァ、この
駕籠の
棟ッ
鼻にゃ、
人垣が
出来やすぜ。のう
竹」
「そりゃァもう
仙蔵のいう
通り
真正間違えなしの、
生きたおせんちゃんを
江戸の
町中で
見たとなりゃァ、また
評判は
格別だ。
||片ッ
方でもいけなけりゃ、せめて
半分だけでも
揚げてやったら、
通りがかりの
人達が、どんなに
喜ぶか
知れたもんじゃねえんで。
······」
「
駕籠屋さん」
「ほい」
「あたしゃもう
降りますよ」
「
何んでげすッて」
「
無理難題をいうんなら、ここで
降ろしておくんなさいよ」
「と、とんでもねえ。お
前さんを、こんなところでおろした
日にゃ、それこそこちとらァ、二
度と
再び、
江戸じゃ
家業が
出来やせんや。
||そんなにいやなら、
垂を
揚げるたいわねえから、そうじたばたと
動かねえで、おとなしく
乗っておくんなせえ。
||だが、
考げえりゃ
考げえるほど、このまま
担いでるな、
勿体ねえなァ」
駕籠はいま、
秋元但馬守の
練塀に
沿って、
蓮の
花が
妍を
競った
不忍池畔へと
差掛っていた。
三
東叡山寛永寺の
山裾に、
周囲一
里の
池を
見ることは、
開府以来江戸っ
子がもつ
誇りの一つであったが、わけても
雁の
訪れを
待つまでの、
蓮の
花が
池面に
浮き
出た
初秋の
風情は、
江戸歌舞伎の
荒事と
共に、八百八
町の
老若男女が、
得意中の
得意とするところであった。
近頃はやり
物のひとつになった
黄縞格子の
薄物に、
菊菱の
模様のある
緋呉羅の
帯を
締めて、
首から
胸へ、
紅絹の
守袋の
紐をのぞかせたおせんは、
洗い
髪に
結いあげた
島田髷も
清々しく、
正しく
座った
膝の
上に、
両の
手を
置いたまま、
駕籠の
中から
池のおもてに
視線を
移した。
夜が
明けて、まだ五つには
間があるであろう。ひと
抱えもあろうと
想われる
蓮の
葉に、
置かれた
露の
玉は、いずれも
朝風に
揺れて、その
足もとに
忍び
寄るさざ
波を、ながし
目に
見ながら
咲いた
花の
紅が
招く
尾花のそれとは
変った
清い
姿を、
水鏡に
映すたわわの
風情。ゆうべの
夢見が
忘れられぬであろう。
葉隠れにちょいと
覗いた
青蛙は、
今にも
落ちかかった三
角頭に、
陽射しを
眩ゆく
避けていた。
「
駕籠屋さん」
ふと、おせんが
声をかけた。
「へえ」
「こっち
側だけ、
垂を
揚げておくんなさいな」
「なんでげすッて」
「
花が
見とうござんすのさ」
「
合点でげす」
先棒と
後との
声は、
正に一
緒であった。
駕籠が
地上におろされると
同時に、
池に
面した
右手の
垂は、
颯とばかりにはね
揚げられた。
「まァ
綺麗だこと」
「でげすからあっしらが、さっきッからいってたじゃござんせんか。こんないい
景色ァ、
毎朝見られる
図じゃァねえッて。
||ごらんなせえやし。お
前さんの
姿が
見えたら、つぼんでいた
花が、あの
通り一
遍に
咲きやしたぜ」
「ちげえねえ。葉ッぱにとまってた
蛙の
野郎までが、あんな
大きな
眼を
開きゃァがった」
「もういいから、やっておくんなさい」
「そんなら、ゆっくりめえりやしょう。
||おせんちゃんが
垂を
揚げておくんなさりゃ、どんなに
肩身が
広いか
知れやァしねえ。のう
竹」
「そうともそうとも。こうなったら、
急いでくれろと
頼まれても、
足がいうことを
聞きませんや。あっしと
仙蔵との、
役得でげさァね」
「ほほほほ、そんならあたしゃ、
垂をおろしてもらいますよ」
「
飛んでもねえ。
駕籠に
乗る
人かつぐ
人、
行く
先ァお
客のままだが、かついでるうちァ、こっちのままでげすぜ。
||それ
竹、なるたけ
往来の
人達に
目立つように、
腰をひねって
歩きねえ」
「おっと、
御念には
及ばねえ。お
上が
許しておくんなさりゃァ、
棒鼻へ、
笠森おせん
御用駕籠とでも、
札を
建てて
行きてえくらいだ」
いうまでもなく、
祝儀や
酒手の
多寡ではなかった。
当時江戸女の
人気を
一人で
背負ってるような、
笠森おせんを
乗せた
嬉しさは、
駕籠屋仲間の
誉れでもあろう。
竹も
仙蔵も、
金の
延棒を
乗せたよりも
腹は
得意で一ぱいになっていた。
「こう
見や。あすこへ
行くなァおせんだぜ」
「おせんだ」
「そうよ。
人違えのはずはねえ。
靨が
立派な
証拠だて」
「おッと
違えねえ。
向うへ
廻って
見ざァならねえ」
帳場へ
急ぐ
大工であろう。
最初に
見つけた
誇りから、
二人が一
緒に、
駕籠の
向うへかけ
寄った。
四
「
風流絵暦所鈴木春信」
水くきのあとも
細々と、
流したように
書きつらねた
木目の
浮いた
看板に、
片枝折の
竹も
朽ちた
屋根から
柴垣へかけて、
葡萄の
蔓が
伸び
放題の
姿を、三
尺ばかりの
流れに
映した
風雅なひと
構え、お
城の
松も
影を
曳きそうな、
日本橋から
北へ
僅に十
丁の
江戸のまん
中に、かくも
鄙びた
住居があろうかと、
道往く
人のささやき
交す
白壁町。
夏ならば、すいと
飛びだす
迷い
蛍を、あれさ
待ちなと、
団扇で
追い
寄るしなやかな
手も
見られるであろうが、はや
秋の
声聞く
垣根の
外には、
朝日を
受けた
小葡萄の
房が、
漸く
小豆大のかたちをつらねた
影を、
真下の
流れに
漂わせているばかりであった。
池と
名付ける
程ではないが、一
坪余りの
自然の
水溜りに、十
匹ばかりの
緋鯉が
数えられるその
鯉の
背を
覆って、なかば
花の
散りかけた
萩のうねりが、
一叢ぐっと
大手を
広げた
枝の
先から、
今しもぽたりと
落ちたひとしずく。
波紋が
次第に
大きく
伸びたささやかな
波の
輪を、
小枝の
先でかき
寄せながら、じっと
水の
面を
見詰めていたのは、四十五の
年よりは十
年も
若く
見える、五
尺に
満たない
小作りの
春信であった。
おおかた
銜えた
楊枝を
棄てて、
顔を
洗ったばかりなのであろう。まだ
右手に
提げた
手拭は、
重く
濡れたままになっていた。
「
藤吉」
春信は、
鯉の
背から
眼を
放すと、
急に
思いだしたように、
縁先の
万年青の
葉を
掃除している、
少年の
門弟藤吉を
呼んだ。
「へえ」
「八つぁんは、まだ
帰って
来ないようだの」
「へえ」
「おせんもまだ
見えないか」
「へえ」
「
堺屋の
太夫もか」
「へえ」
「おまえちょいと、
枝折戸へ
出て
見て
来な」
「かしこまりました」
藤吉は、
万年青の
葉から
掃除の
筆を
放すと、そのまま
萩の
裾を
廻って、
小走りにおもてへ
出て
行った。
「
今時分、おせんがいないはずはないから、ひょっとすると八五
郎の
奴、
途中で
誰かに
遇って、
道草を
食ってるのかも
知れぬの。
堺屋でもどっちでも、
早く
来ればいいのに。
||」
濡れた
手拭を、もう一
度丁寧に
絞った
春信は、
口のうちでこう
呟きながら、おもむろに
縁先の
方へ
歩み
寄った。すると、その
額の
汗を
拭きながら
駆け
込んで
来たのは、
摺師の八五
郎であった。
「
行ってめえりやした」
「
御苦労、
御苦労。おせんはいたかの」
「へえ。
居りやした。でげすが
師匠、
世の
中にゃ
馬鹿な
野郎が
多いのに
驚きやしたよ。あっしが
向うへ
着いたのは、まだ六つをちっと
回ったばかりでげすのに、もうお
前さん、かぎ
屋の
前にゃ、
人が
束ンなってるじゃござんせんか。それも、
女一人いるんじゃねえ。みんな、おいらこそ
江戸一
番の
色男だと、いわぬばかりの
顔をして、
反りッかえってる
野郎ぞっきでげさァね。
||おせんちゃんにゃ、千
人の
男が
首ッたけンなっても、
及ばぬ
鯉の
滝のぼりだとは、知らねえんだから
浅間しいや」
「八つぁん。おせんの
返事はどうだったんだ。
直ぐに
来るとか、
来ないとか」
「めえりやすとも。もうおッつけ、そこいらで
声が
聞えますぜ」
八五
郎は
得意そうに
小首をかしげて、
枝折戸の
方を
指さした。
五
枝折戸の
外に、
外道の
面のような
顔をして、ずんぐり
立って
待っていた
藤吉は、
駕籠の
中からこぼれ
出たおせんの
裾の
乱れに、
今しもきょろりと、
団栗まなこを
見張ったところだった。
「やッ、おせんちゃん。
師匠がさっきから、
首を
長くしてお
待ちかねだぜ」
朱とお
納戸の、二
こくの
鼻緒の
草履を、
後の
仙蔵にそろえさせて、
扇で
朝日を
避けながら、
静かに
駕籠を
立ち
出たおせんは、どこぞ
大店の
一人娘でもあるかのように、
如何にも
品よく
落着いていた。
「
藤吉さん。ここであたしを、
待ってでござんすかえ」
「そうともさ、
肝腎の
万年青の
掃除を
半端でやめて、
半時も
前から、お
前さんの
来るのを
待ってたんだ。
||だがおせんちゃん。お
前は
相変らず、
師匠の
絵のように
綺麗だのう」
「おや、
朝ッからおなぶりかえ」
「なぶるどころか。おいらァ
惚れ
惚れ
見とれてるんだ。
顔といい、
姿といい、お
前ほどの
佳い
女は
江戸中探してもなかろうッて、
師匠はいつも
口癖のようにいってなさるぜ。うちのお
鍋も
女なら、おせんちゃんも
女だが、おんなじ
女に
生れながら、お
鍋はなんて
不縹緻なんだろう。お
鍋とはよく
名をつけたと、おいらァつくづくあいつの、
親父の
智恵に
感心してるんだが、それと
違っておせんさんは、
弁天様も
跣足の
女ッぷり。いやもう
江戸はおろか
日本中、
鉦と
太鼓で
探したって
······」
「おいおい
藤さん」
肩を
掴んで、ぐいと
引っ
張った。その
手で、
顔を
逆さに
撫でた八五
郎は、もう一
度帯を
把って、
藤吉を
枝折戸の
内へ
引きずり
込んだ。
「
何をするんだ。八つぁん」
「
何もこうありゃァしねえ。つべこべと、
余計なことをいってねえで、
速くおせんちゃんを、
奥へ
案内してやらねえか。
師匠がもう、
茶を三
杯も
換えて
待ちかねだぜ」
「おっと、しまった」
「おせんちゃん。
少しも
速く、
急いだ、
急いだ」
「ほほほほ。八つぁんがまた、おどけた
物のいいようは。
······」
駕籠を
帰したおせんの
姿は、
小溝へ
架けた
土橋を
渡って、
逃れるように
枝折戸の
中へ
消えて
行った。
「ふん、八五
郎の
奴、
余計な
真似をしやァがる。おせんちゃんの
案内役は、いっさいがっさい、おいらときまってるんだ。
||よし、あとで
堺屋の
太夫が
来たら、その
時あいつに
辱をかかせてやる」
手の
内の
宝を
奪われでもしたように、
藤吉は
地駄ン
駄踏んで、あとから、
土橋をひと
飛びに
飛んで
行った。
鉤なりに
曲った
縁先では、
師匠の
春信とおせんとが、
既に
挨拶を
済ませて、
池の
鯉に
眼をやりながら、
何事かを、
声をひそめて
話し
合っていた。
「八つぁん、ちょいと
来てくんな」
「
何んだ
藤さん」
立って
来た八五
郎を、
睨めるようにして、
藤吉は
口を
尖らせた。
「お
前、あとから
誰が
来るか、
知ってるかい」
「
知らねえ」
「それ
見な。
知らねえで、よくそんなお
接介が
出来たもんだの」
「お
接介たァ
何んのこッた」
「おせんちゃんを、
先に
立って
連れてくなんざ、お
接介だよ」
「
冗談じゃねえ。おせんちゃんは、
師匠に
頼まれて、おいらが
呼びに
行ったんだぜ。
||おめえはまだ、
顔を
洗わねえんだの」
顔はとうに
洗っていたが、
藤吉の
眼頭には、
目脂が
小汚なくこすり
付いていた。
六
赤とんぼが
障子へくっきり
影を
映した
画室は、
金の
砂子を
散らしたように
明るかった。
広々と
庭を
取ってはあるが、
僅かに三
間を
数えるばかりの、
茶室がかった
風流の
住居は、ただ
如何にも
春信らしい
好みにまかせて、
手いれが
行き
届いているというだけのこと、
諸大名の
御用絵師などにくらべたら、まことに
粗末なものであった。
その
画室の
中ほどに、
煙草盆をはさんで、
春信とおせんとが
対座していた。おせんの
初な
心は、
春信の
言葉にためらいを
見せているのであろう。うつ
向いた
眼許には、ほのかな
紅を
差して、
鬢の
毛が二
筋三
筋、
夢見るように
頬に
乱れかかっていた。
「どうだの、これは
別に、おいらが
堺屋から
頼まれた
訳ではないが、
何んといっても
中村松江なら、
当時押しも
押されもしない、
立派な
太夫。その
堺屋が
秋の
木挽町で、お
前のことを
重助さんに
書きおろさせて、
舞台に
上せようというのだから、まず
願ってもない
もっけの
幸い。いやの
応のということはなかろうじゃないか」
「はい、そりゃァもう、あたしに
取っては
勿体ないくらいの
御贔屓、いや
応いったら、
眼がつぶれるかも
知れませぬが。
······」
「それなら
何んでの」
「お
師匠さん、
堪忍しておくんなさい。あたしゃ
知らない
役者衆と、
差しで
会うのはいやでござんす」
「はッはッは、
何かと
思ったら、いつもの
馬鹿気たはにかみからか。ここへ
堺屋を
招んだのは、
何もお
前と
差しで
会わせようの、
二人で
話をさせようのと、そんな
訳合じァありゃしない。
松江は
日頃、おいらの
絵が
大好きとかで、
板おろしをしたのはもとより、
版下までを
集めている
程の
好き
者仲間、それがゆうべ、
芝居の
帰りにひょっこり
寄って、この
次の
狂言には、
是非とも
笠森おせんちゃんを、
芝居に
仕組んで
出したいとの、たっての
望みさ。どういう
筋に
仕組むのか、そいつは
作者の
重助さんに
謀ってからの
寸法だから、まだはっきりとはいえないとのことだった、
松江が
写したお
前の
姿を、
舞台で
見られるとなりゃ、
何んといっても
面白い
話。おいらは二つ
返事で、
手を
打ってしまったんだ。
||そこで、
善は
急げのたとえをそのまま、あしたの
朝、ここへおせんに
来てもらおうから、
太夫ももう一
度、ここまで
出て
来てもらいたいと、
約束事が
出来たんだが、
||のうおせん。おいらの
前じゃ、
肌まで
見せて、
絵を
写させるお
前じゃないか、
相手が
誰であろうと、ここで
一時、茶のみ
話をするだけだ。
心持よく
会ってやるがいいわな」
「さァ。
||」
「
今更思案もないであろう。こうしているうちにも、もうそこらへ、やって
来たかも
知れまいて」
「まァ、
師匠さん」
「はッはッは。お
前、めっきり
気が
小さくなったの」
「そんな
訳じゃござんせぬが、あたしゃ
知らない
役者衆とは。
······」
「ほい、まだそんなことをいってるのか。なまじ
知ってる
顔よりも、はじめて
会って
見る
方に、はずむ
話があるものだ。
||それにお
前、
相手は
当時上上吉の
女形、
会ってるだけでも、
気が
晴れ
晴れとするようだぜ」
ふと、とんぼの
影が
障子から
離れた。と
同時に
藤吉の
声が、
遠慮勝ちに
縁先から
聞えた。
「
師匠、
太夫がおいでになりました」
「おおそうか。
直ぐにこっちへお
通ししな」
じっと
畳の
上を
見詰めているおせんは、たじろぐように
周囲を
見廻した。
「お
師匠さん、
後生でござんす。あたしをこのまま、
帰しておくんなさいまし」
「なんだって」
春信は
大きく
眼を
見ひらいた。
七
たとえば
青苔の
上に、二つ三つこぼれた
水引草の
花にも
似て、
畳の
上に
裾を
乱して
立ちかけたおせんの、
浮き
彫のような
爪先は、もはや
固く
畳を
踏んではいなかった。
「ははは、おせん。みっともない、どうしたというんだ」
春信の、いささか
当惑した
視線は、そのまま
障子の
方へおせんを
追って
行ったが、やがて
追い
詰られたおせんの
姿が、
障子の
際にうずくまるのを
見ると、
更に
解せない
思いが
胸の
底に
拡がってあわてて
障子の
外にいる
藤吉に
声をかけた。
「
藤吉、
堺屋の
太夫に、もうちっとの
間、
待っておもらい
申してくれ」
「へえ」
おおかた、もはや
縁先近くまで
来ていたのであろう。
藤吉が
直ぐさま
松江に
春信の
意を
伝えて、
池の
方へ
引き
返してゆく
気配が、
障子に
映った二つの
影にそれと
知れた。
「おせん」
「あい」
「お
前、
何か
訳があってだの」
「いいえ、
何も
訳はござんせぬ」
「
隠すにゃ
当らないから、
有様にいって
見な、
事と
次第に
因ったら、
堺屋は、このままお
前には
会せずに、
帰ってもらうことにする」
「そんなら、あたしの
願いを
聞いておくんなさいますか」
「
聞きもする。かなえもする。だが、その
訳は
聞かしてもらうぜ」
「さァその
訳は。
||」
「まだ
隠しだてをするつもりか。あくまで
聞かせたくないというなら、
聞かずに
済ませもしようけれど、そのかわりおいらはもうこの
先、
金輪際、お
前の
絵は
描かないからそのつもりでいるがいい」
「まァお
師匠さん」
「なァにいいやな。
笠森のおせんは、
江戸一
番の
縹緻佳しだ。おいらが
拙い
絵なんぞに
描かないでも、
客は
御府内の
隅々から、
蟻のように
寄ってくるわな。
||いいたくなけりゃ、
聞かずにいようよ」
いたずらに、もてあそんでいた三
味線の、いとがぽつんと
切れたように、おせんは
身内に
積る
寂しさを
覚えて、
思わず
瞼が
熱くなった。
「お
師匠さん、
堪忍しておくんなさい。あたしゃ、お
母さんにもいうまいと、
固く
心にきめていたのでござんすが、もう
何事も
申しましょう。どっと
笑っておくんなさいまし」
「おお、ではやっぱり
何かの
訳があって。
······」
「あい、あたしゃあの、
浜村屋の
太夫さんが、
死ぬほど
好きなんでござんす」
「えッ。
菊之丞に。
||」
「あい。おはずかしゅうござんすが。
······」
消えも
入りたいおせんの
風情は、
庭に
咲く
秋海棠が、なまめき
落ちる
姿をそのまま
悩ましさに、
面を
袂におおい
隠した。
じッと、
釘づけにされたように、
春信の
眼は、おせんの
襟脚から
動かなかった。が、やがて
静かにうなずいたその
顔には、
晴れやかな
色が
漂っていた。
「おせん」
「あい」
「よくほれた」
「えッ」
「
当代一の
若女形、
瀬川菊之丞なら、
江戸一
番のお
前の
相手にゃ、
少しの
不足もあるまいからの。
||判った。
相手がやっぱり
役者とあれば、
堺屋に
会うのは
気が
差そう。こりゃァ
何んとでもいって
断るから、
安心するがいい」
八
勢い
込んで
駕籠で
乗り
着けた
中村松江は、きのうと
同じように、
藤吉に
案内されたが、
直ぐ
様通してもらえるはずの
画室へは、
何やら
訳があって
入ることが
出来ぬところから、ぽつねんと、
池の
近くにたたずんだまま、
人影に
寄って
来る
鯉の
動きをじっと
見詰めていた。
師の
歌右衛門を
慕って
江戸へ
下ってから、まだ
足かけ三
年を
経たばかりの
松江が、
贔屓筋といっても、
江戸役者ほどの
数がある
訳もなく、まして
当地には、
当代随一の
若女形といわれる、二
代目瀬川菊之丞が
全盛を
極めていることとて、その
影は
決して
濃いものではなかった。が、
年は
若いし、
芸は
達者であるところから、
作者の
中村重助が
頻りに
肩を
入れて、
何か
目先の
変った
狂言を、
出させてやりたいとの
心であろう。
近頃春信の
画で一
層の
評判を
取った
笠森おせんを
仕組んで、一
番当てさせようと、
松江が
春信と
懇意なのを
幸い、
善は
急げと、
早速きのうここへ
訪ねさせての、きょうであった。
「
太夫、お
待遠さまでござんしょうが、どうかこちらへおいでなすって、お
茶でも
召上って、お
待ちなすっておくんなまし」
藤吉にも、
何んで
師匠が
堺屋を
待たせるのか、一
向合点がいかなかったが、
張り
詰めていた
気持が
急に
緩んだように、しょんぼりと
池を
見詰めて
立っている
後姿を
見ると、こういって
声をかけずにはいられなかった。
「へえ、おおきに。
||」
「
太夫は、おせんちゃんには、まだお
会いなすったことがないんでござんすか」
「へえ、
笠森様のお
見世では、お
茶を
戴いたことがおますが、
先様は、
何を
知ってではござりますまい。
||したが
若衆さん。おせんさんは、もはやお
見えではおますまいかな」
「つい
今し
方。
||」
「では
何か、
絵でも
習うていやはるのでは。
||」
「さァ、
大方そんなことでげしょうが、どっちにしても
長いことじゃござんすまい。そこは
日が
当りやす。こっちへおいでなすッて。
······」
ふと
踵を
返して、二
足三
足、
歩きかかった
時だった。
隅の
障子を
静かに
開けて、
庭に
降り
立った
春信は、
蒼白の
顔を、
振袖姿の
松江の
方へ
向けた。
「
太夫」
「おお、これはお
師匠さんは。
早からお
邪間して、えろ
済みません」
「
済まないのは、お
前さんよりこっちのこと、
折角眠いところを、
早起きをさせて、わざわざ
来てもらいながら、
肝腎のおせんが。
||」
「おせんさんが、なんぞしやはりましたか」
「
急病での」
「えッ」
「
血の
道でもあろうが、ここへ
来るなり
頭痛がするといって、ふさぎ
込んでしまったまま、いまだに
顔も
挙げない
始末、この
分じゃ、
半時待ってもらっても、
今朝は、
話は
出来まいと
思っての、お
気の
毒だが、またあらためて、
会ってやっておもらい
申すより、
仕方がないじゃなかろうかと、
実は
心配している
訳だが。
······」
「それはまア」
「のう
太夫。お
前さん、
詫はあたしから
幾重にもしようから、きょうはこのまま、
帰っておくんなさるまいか」
「それァもう、
帰ることは、いつでも
帰りますけれど、おせんさんが
急病とは、
気がかりでおますさかい。
······」
「いや、
気に
病むほどのことでもなかろうが、
何せ
若い
女の
急病での。ちっとばかり、
朝から
世間が
暗くなったような
気がするのさ」
「へえ」
春信の
眼は、
松江を
反れて、
地に
曳く
萩の
葉に
移っていた。
雨 一
「おい
坊主、
火鉢の
火が
消えちゃってるぜ。ぼんやりしてえちゃ
困るじゃねえか」
浜町の
細川邸の
裏門前を、
右へ
折れて一
町あまり、
角に
紺屋の
干し
場を
見て、
伊勢喜と
書いた
質屋の
横について
曲がった三
軒目、おもてに一
本柳が
長い
枝を
垂れたのが
目印の、
人形師亀岡由斎のささやかな
住居。
まだ四十を
越していくつにもならないというのが、一
見五十四五に
見える。
髷も
白髪もおかまいなし、
床屋の
鴨居は、もう二
月も
潜ったことがない
程の、
垢にまみれたうす
汚なさ。
名人とか
上手とか
評判されているだけに、
坊主と
呼ぶ十七八の
弟子の
外は、
猫の
子一
匹もいない、たった
二人の
暮しであった。
「おめえ、いってえ
弟子に
来てから、
何年経つと
思っているんだ」
「へえ」
「へえじゃねえぜ。
人形師に
取って、
胡粉の
仕事がどんなもんだぐれえ、もうてえげえ
判っても、
罰は
当るめえ。この
雨だ。
愚図々々してえりゃ、
湿気を
呼んで、みんな
ねこンなっちまうじゃねえか。
速くおこしねえ」
「へえ」
「それから
何んだぜ。火がおこったら、
直ぐに
行燈を
掃除しときねえよ。こんな
日ァ、いつもより
日の
暮れるのが、ぐっと
早えからの」
「へえ」
「ふん。
何をいっても、
張合いのねえ
野郎だ。
飯は
腹一
杯食わせてあるはずだに。もっとしっかり
返事をしねえ」
「かしこまりました」
「
糠に
釘ッてな、おめえのこった。
||火のおこるまで一
服やるから、その
煙草入を、こっちへよこしねえ」
「へえ」
「なぜ
煙管を
取らねえんだ」
「へえ」
「それ、
蛍火ほどの
火もねえじゃねえか。
何んで
煙草をつけるんだ」
相手は
黙々とした
少年だが、
由斎は、たとえにある
箸の
揚げおろしに、
何か
小言をいわないではいられない
性分なのであろう。
殆んど
立続けに
口小言をいいながら、
胡坐の
上にかけた
古い
浅黄のきれをはずすと、
火口箱を
引き
寄せて、
鉄の
長煙管を
ぐつと
銜えた。
勝手元では、
頻りにばたばたと七
輪の
下を
煽ぐ、
団扇の
音が
聞えていた。
その
団扇の
音を、じりじりと
妙にいら
立つ
耳で
聞きながら、
由斎は
前に
立てかけている、
等身大に
近い
女の
人形を、
睨めるように
眺めていたが、ふと
何か
思い
出したのであろう。あたり
憚らぬ
声で
勝手元へ
向って
叫んだ。
「
坊主。
坊主」
「へえ」
「おめえ、
今朝面を
洗ったか」
「へえ」
「
嘘をつけ。
面を
洗った
奴が、そんな
粗相をするはずァなかろう。ここへ
来て、よく
人形の
足を
見ねえ。
甲に、こんなに
蝋が
垂れているじゃねえか」
恐る
恐る
仕事場へ
戻った。
坊主の
足はふるえていた。
「こいつァおめえの
仕事だな」
「
知りません」
「
知らねえことがあるもんか。ゆうべ
遅く
仕事場へ
蝋燭を
持って
這入って
来たなァ、おめえより
外にねえ
筈だぜ。こいつァただの
人形じゃねえ。
菊之丞さんの
魂までも
彫り
込もうという
人形だ。
粗相があっちゃァならねえと、あれ
程いっておいたじゃねえか」
二
廂の
深さがおいかぶさって、
雨に
煙った
家の
中は、
蔵のように
手許が
暗く、まだ
漸く
石町の八つの
鐘を
聞いたばかりだというのに、あたりは
行燈がほしいくらい、
鼠色にぼけていた。
軒の
樋はここ十
年の
間、一
度も
換えたことがないのであろう。
竹の
節々に
青苔が
盛り
上って、その
破れ
目から
落ちる
雨水が
砂時計の
砂が
目もりを
落ちるのと
同じに、
絶え
間なく
耳を
奪った。
への
字に
結んだ
口に、
煙管を
銜えたまま、
魅せられたように
人形を
凝視し
続けている
由斎は、
何か
大きく
頷くと、
今し
方坊主がおこして
来た
炭火を、十
能から
火鉢にかけて、
独りひそかに
眉を
寄せた。
「
坊主。おめえ、
表の
声が
聞えねえのか」
「
誰か
来ておりますか」
「
来てる。
戸を
開けて
見ねえ」
「へえ」
「だが、こっちへ
通しちゃならねえぜ」
半信半疑で
立って
行った
坊主は、
背をまるくして、
雨戸の
隙間から
覗いた。
「おや、あたしでござんすよ」
「おお、おせんさん」
坊主は、たてつけの
悪い
雨戸を
開けて、ぺこりと一つ
頭をさげた。そこには
頭巾で
顔を
包んだおせんが、
傘を
肩にして
立っていた。
「
親方は」
「
仕事なんで。
||」
「
御免なさいよ」
「ぁッいけません。お
前さんをお
上げ
申しちゃ、
叱られる」
「ほほほほ、そんな
心配は
止めにしてさ」
「でもあたしが
親方に。
||」
「
坊主」と、
鋭い
声が
奥から
聞えた。
「へえ」
「いまもいった
通りだ。たとえどなたでも、
仕事場へは
通しちゃならねえ」
「
親方」と、おせんは
訴えるように
声をかけた。
「どうかきょうだけ、
堪忍しておくんなさいよ」
「いけねえ」
「あたしゃお
前さんに、
断られるのを
知りながら、もう
辛抱が
出来なくなって、この
雨の
中を
来たんじゃござんせんか。
||後生でござんす。ちょいとの
間だけでも。
······」
「
折角だが、お
断りしやすよ。あっしゃァお
前さんから、この
人形を
請合う
時、どんな
約束をしたかはっきり
覚えていなさろう。
||のうおせんちゃん。あの
時お
前は
何んといいなすった。あたしゃ
死んでる
人形は
欲しくない。
生きた、
魂のこもった
人形をこさえておくんなさるなら、どんな
辛抱でもすると、あれ
程堅く
約束をしたじゃァねえか。
||江戸一
番の
女形、
瀬川菊之丞の
生人形を、
舞台のままに
彫ろうッてんだ。なまやさしい
業じゃァねえなァ
知れている。あっしもきょうまで、これぞと
思った
人形を、七つや十はこさえて
来たが、これさえ
仕上げりゃ、
死んでもいいと
思った
程、
精魂を
打込んだ
作はしたこたァなかった。だが、
今度の
仕事ばかりァそうじゃァねえ。この
生人形さえ
仕上げたら、たとえあすが
日、
血へどを
吐いてたおれても、
決して
未練はねえと、
覚悟をきめての
真剣勝負だ。
||お
前さんが、どこまで
出来たか
見たいという。その
心持ァ、
腹の
底から
察してるが、ならねえ、あっしゃァ、いま、
人形を
塗ってるんじゃァねえ。おのが
魂を
血みどろにして、
死ぬか
生きるかの、
仕事をしてるんだからの」
由斎の
声を
聞きながら、ひと
足ずつ
後ずさりしていたおせんは、いつか
磔にされたように、
雨戸の
際へ
立ちすくんでいた。
三
ひと
目でいい、ひと
目でいいから
会いたいとの、
切なる
思いの
耐え
難く、わざと
両国橋の
近くで
駕籠を
捨てて、
頭巾に
人目を
避けながら、この
質屋の
裏の、
由斎の
仕事場を
訪れたおせんの
胸には、しとど
降る
雨よりしげき
思いがあった。
年からいえば五つの
違いはあったものの、おなじ
王子で
生れた
幼なじみの
菊之丞とは、
けし奴の
時分から、
人もうらやむ
仲好しにて、ままごと
遊びの
夫婦にも、
吉ちゃんはあたいの
旦那、おせんちゃんはおいらのお
上さんだよと、
度重なる
文句はいつか
遊び
仲間に
知れ
渡って、
自分の
口からいわずとも、
二人は
真ぐさま
夫婦にならべられるのが
却てきまり
悪く、
時にはわざと
背中合せにすわる
場合もままあったが、さて、
吉次はやがて
舞台に
出て、
子役としての
評判が
次第に
高くなった
時分から、
王子を
去った
互の
親が、
芳町と
蔵前に
別れ
別れに
住むようになったばかりに、いつか
会って
語る
日もなく二
年は三
年三
年は五
年と、
速くも
月日は
流れ
流れて、
辻番付の
組合せに、
振袖姿の
生々しさは
見るにしても、
吉ちゃんおせんちゃんと、
呼び
交わす
機はまったくないままに、
過ぎてしまったのであった。
女形といえば、
中村富十
郎をはじめ、
芳沢あやめにしろ、
中村喜代三
郎にしろ、または
中村粂太郎にしろ、
中村松江にしろ、十
人いれば十
人がいずれもそろって
上方下りの
人達である
中に、たった
一人、
江戸で
生れて
江戸で
育った
吉次が、
他の
女形を
尻目にかけて、めきめきと
売出した
調子もよく、やがて二
代目菊之丞を
継いでからは
上上吉の
評判記は、
弥が
上にも
人気を
煽ったのであろう。「
王子路考」の
名は、
押しも
押されもしない、
当代随一の
若女形と
極まって、
出し
物は
何んであろうと
菊之丞の
芝居とさえいえば、
見ざれば
恥の
如き
有様となってしまった。
したがって、
人気役者に
付きまとう
様々な
噂は、それからそれえと、
日毎におせんの
耳へ
伝えられた。
||どこそこのお
大名のお
妾が、
小袖を
贈ったとか。
何々屋の
後家さんが、
帯を
縫ってやったとか。
酒問屋の
娘が、
舞台で

した
簪が
欲しさに、
親の
金を十
両持ち
出したとか。
数えれば百にも
余る
女出入の
出来事は、おせんの
茶見世へ
休む
人達の
間にさえ、
聞くともなく、
語るともなく
伝えられて、
嘘も
真も
取交ぜた
出来事が、きのうよりはきょう、きょうよりは
明日と、
益々菊之丞の
人気を
高くするばかり。
が、おせんの
胸の
底にひそんでいる、
思慕の
念は、それらの
噂には一
切おかまいなしに
日毎につのってゆくばかりだった。それもそのはずであろう。おせんが
慕う
菊之丞は、
江戸中の
人気を
背負って
立った、
役者の
菊之丞ではなくて、かつての
幼なじみ、
王子の
吉ちゃんその
人だったのだから。
|| 何某の
御子息、
何屋の
若旦那と、
水茶屋の
娘には、
勿体ないくらいの
縁談も、これまでに五つや十ではなく、
中には
用人を
使者に
立てての、
れッきとしたお
旗本からの
申込みも二三は
数えられたが、その
度毎に、おせんの
首は
横に
振られて、あったら
玉の
輿に
乗りそこねるかと
人々を
惜しがらせて
来た
腑甲斐なさ、しかも
胸に
秘めた
菊之丞への
切なる
思いを、
知る
人とては
一人もなかった。
名人由斎に、
心の
内を
打ちあけて、三
年前に
中村座を
見た、八百
屋お七の
舞台姿をそのままの、
生人形に
頼み
込んだ
半年前から、おせんはきょうか
明日かと、
出来上る
日を、どんなに
待ったか
知れなかったが、
心魂を
傾けつくす
仕事だから、たとえなにがあっても、その
日までは
見に
来ちゃァならねえ、
行きますまいと
誓った
言葉の
手前もあり、
辛抱に
辛抱を
重ねて
来たとどのつまりが、そこは
女の
乱れる
思いの
堪え
難く、きのうときょうの二
度も
続けて、この
仕事場を、ひそかに
訪れる
気になったのであろう。
頭巾の
中に
瞠った
眼には、
涙の
露が
宿っていた。
「
親方。
||もし
親方」
もう一
度おせんは
奥へ
向って、
由斎を
呼んで
見た。が、
聞えるものは、わずかに
樋を
伝わって
落ちる、
雨垂れの
音ばかりであった。
軒端の
柳が、
思い
出したように、かるく
雨戸を
撫でて
行った。
四
「
若旦那。
||もし、
若旦那」
「うるさいね。ちと
黙ってお
歩きよ」
「そう
仰しゃいますが、これを
黙って
居りましたら、あとで
若旦那に、どんなお
小言を
頂戴するか
知れませんや」
「
何んだッて」
「あすこを
御覧なさいまし。ありゃァたしかに、
笠森のおせんさんでござんしょう」
「おせんがいるッて。
||ど、どこに」
薬研堀の
不動様へ、
心願があっての
帰りがけ、
黒八
丈の
襟のかかったお
納戸茶の
半合羽に
奴蛇の
目を
宗十
郎好みに
差して、
中小僧の
市松を
供につれた、
紙問屋橘屋の
若旦那徳太郎の
眼は、
上ずッたように
雨の
中を
見詰めた。
「あすこでござんすよ。あの
筆屋の
前から
両替の
看板の
下を
通ってゆく、あの
頭巾をかぶった
後姿。
||」
「うむ。ちょいとお
前、
急いで
行って、
見届けといで」
「かしこまりました」
頭のてっぺんまで、
汚泥の
揚がるのもお
構いなく、
横ッ
飛びに
飛び
出した
市松には、
雨なんぞ、
芝居で
使う
紙の
雪ほどにも
感じられなかったのであろう。七八
間先を
小きざみに
往く
渋蛇の
目の
横を、一
文字に
駆脱けたのも
束の
間、やがて
踵を
返すと、
鬼の
首でも
取ったように、
喜び
勇んで
駆け
戻った。
「どうした」
「この二つの
眼で
睨んだ
通り、おせんさんに
違いござんせん」
「これこれ、
何んでそんな
頓狂な
声を
出すんだ。いくら
雨の
中でも、
人様に
聞かれたら
事じゃァないか」
「へいへい」
「お
前、あとからついといで」
目はしの
利いたところが、まず
何よりの
身上なのであろう。
若旦那のお
供といえば、
常に
市どんと
朋輩から
指される
慣わしは、
時に
かけ蕎麦の一
杯くらいには
有りつけるものの、
市松に
取っては、
寧ろ
見世に
坐って、
紙の
小口をそろえている
方が、どのくらい
楽だか
知れなかった。
が、そんな
小僧の
苦楽なんぞ、
背中にとまった
蝿程にも
思わない
徳太郎の、おせんと
聞いた
夢中の
歩みは、
合羽の
下から
覗いている
生ッ
白い
脛に
出た
青筋にさえうかがわれて、
道の
良し
悪しも、
横ッ
降りにふりかかる
雨のしぶきも、
今は
他所の
出来事でもあるように、まったく
意中にないらしかった。
「ちょいと
姐さん。いえさ、そこへ
行くのは、おせんちゃんじゃないかい」
それと
呼び
止めた
徳太郎の
声は、どうやら
勝手のわるさにふるえていた。
「え」
くるりと
振り
向いたおせんは、
頭巾の
中で、
眼だけに
愛嬌をもたせながら、ちらりと
徳太郎の
顔を
偸み
見たが、
相手がしばしば
見世へ
寄ってくれる
若旦那だと
知ると、あらためて
腰をかがめた。
「おやまァ
若旦那、どちらへおいででござんす」
「つい、そこの
不動様へ、
参詣に
行ったのさ。
||そうしてお
前さんは」
「お
母さんの
薬を
買いに、
浜町までまいりました。」
「
浜町。そりゃァこの
雨に、
大抵じゃあるまい。お
前さんがわざわざ
行かないでも、ちょいと一
言聞いてれば、いつでもうちの
小僧に
買いにやってあげたものを」
「
有難うはござんすが、
親に
服ませるお
薬を
人様にお
願い
申しましては、お
稲荷様の
罰が
当ります」
「
成る
程、
成る
程、
相変らずの
親孝行だの」
徳太郎はそういって、ごくりと一つ
固唾を
飲んだ。
五
当代の
人気役者宗十
郎に
似ていると、
太鼓持の
誰かに一
度いわれたのが、
無上に
機嫌をよくしたものか、のほほんと
納まった
色男振りは、
見る
程の
者をして、ことごとく
虫ずの
走る
思いをさせずにはおかないくらい、
気障気たっぷりの
若旦那徳太郎ではあったが、
親孝行の
話を
切ッかけに、あらたまっておせんを
見詰めたその
眼には、いつもと
違った
真剣な
心持が
不思議に
根強く
現れていた。
「お
前さんは、これから
何か、
急な
御用がお
有かの」
「あい、
肝腎のお
見世の
方を、
脱けて
来たのでござんすから、一
刻も
速く
帰りませぬと、お
母さんにいらぬ
心配をかけますし、それに、
折角のお
客様にも、
申訳がござんせぬ」
「お
客の
心配は、
別にいりゃァすまいがの。しかし、お
母さんといわれて
見ると。
······」
「
何か
御用でござんすかえ」
「なァにの。
思いがけないところで
出遭った、こんな
間のいいことは、
願ってもありゃァしないからひとつどこぞで、
御飯でもつき
合ってもらおうと
思ってさ」
「おや、それは
御親切に、
有難うはござんすが、あたしゃいまも
申します
通り、
風邪を
引いたお
母さんと、お
見世へおいでのお
客様がござんすから。
||」
「この
雨だ。いくら
何んでも、お
客の
方は、
気になるほど
行きもしまい。それとも
誰ぞ、
約束でもした
人がお
有りかの」
「まァ
何んでそのようなお
人が。
||」
「そんなら
別に、一
時やそこいら
遅くなったとて、
案ずることもなかろうじゃないか」
「お
母さんが
首を
長くして、
薬を
待ってでございます」
「これ、おせんちゃん」
「ああもし。
||」
「お
手間を
取らせることじゃない。ちと
折いって、
相談したい
訳もある。ついそこまで、ほんのしばらく、つき
合っておくれでないか」
「さァそれが。
······」
「おまえ、お
袋さんの、
薬を
買いに
行ったとは、そりゃ
本当かの」
「えッ」
「
本当かと
訊いてるのさ」
「
何んで、あたしが
嘘なんぞを。
||」
「そんならその
薬の
袋を、ちょいと
見せておくれでないか」
「
袋とえ。
||」
「
持ってはいないとおいいだろう。ふふふ。やっぱりお
前は、あたしの
手前をつくろって、
根もない
嘘をついたんだの、おおかた
好きな
男に、
会いに
行った
帰りであろう。それと
知ったら、なおさらこのまま
帰すことじゃないから、
観念おし」
「あれ
若旦那。
||」
「いいえ、
放すものか、
江戸中に、
女の
数は
降る
程あっても、
思い
詰めたのはお
前一人。ここで
会えたな、
日頃お
願い
申した、
不動様の
御利益に
違いない。きょうというきょうはたとえ
半時でもつき
合ってもらわないことにゃ。
······」
押えた
袂を
振り
払って、おせんが
体をひねったその
刹那、ひょいと
徳太郎の
手首をつかんで、にやり
笑ったのは、
傘もささずに、
頭から
桐油を
被った
彫師の
松五
郎だった。
「
若旦那、
殺生でげすぜ」
「ええ、うるさい。
余計な
邪間だてをしないで、
引ッ
込んでおくれ」
「はははは。
邪間だてするわけじゃござんせんが、
御覧なせえやし。おせんちゃんは、こんなにいやだといってるじゃござんせんか。
若旦那、
色男の
顔がつぶれやすぜ」
過日の
敵を
討ったつもりなのであろう。
松五
郎はこういって、
髯あとの
青い
顎を、ぐっと
徳太郎の
方へ
突きだした。
六
「はッはッは。
若旦那、そいつァ
御無理でげすよ。おせんは
名代の
親孝行、
薬を
買いに
行ったといやァ、
嘘も
隠しもござんすまい。ここで
逢ったが百
年目と、とっ
捕まえて
口説こうッたって、そうは
問屋でおろしませんや。
||この
近所の
揚弓場の
姐さんなら
知らねえこと、かりにもお
前さん、
江戸一
番と
評判のあるおせんでげすぜ。いくら
若旦那の
御威勢でも、こればッかりは、そう
易々たァいきますまいて」
おせんを
首尾よく
逃してやった
雨の
中で、
桐油から
半分顔を
出した
松五
郎は、
徳太郎をからかうようにこういうと、
我れとわが
鼻の
頭を、二三
度平手で
引ッこすった。
腹立たしさに、なかば
泣きたい
気持をおさえながら、
松五
郎を
睨みつけた
徳太郎の
細い
眉は、
止め
度なくぴくぴく
動いていた。
「
市公」
思いがけない
出来事に、
茫然としていた
小僧の
市松が、ぺこりと
下げた
頭の
上で、
若旦那の
声はきりぎりすのようにふるえた。
「
馬鹿野郎」
「へえ」
「なぜおせんを
捕まえないんだ」
「お
放しなすったのは、
若旦那でございます」
「ええうるさい。たとえあたしが
放しても、
捕まえるのはお
前の
役目だ。
||もうお
前なんぞに
用はない。
今すぐここで
暇をやるから、どこへでも
行っておしまい」
「ははは。
若旦那」と、
松五
郎が
口をはさんだ。「そいつァちと
責めが
強過ぎやしょう。
小僧さんに
罪はねえんで。みんなあなたの
我ままからじゃござんせんか」
「
松つぁん、お
前なんぞの
出る
幕じゃないよ。
黙ってておくれ」
「そうでもござんしょうが、
市どんこそ
災難だ。
何んにも
知らずにお
供に
来て、おせんに
遭ったばっかりに、
大事な
奉公をしくじるなんざ、
辻占の
文句にしても
悪過ぎやさァね。
堪忍してやっとくんなさい。
||こう
市どん。おめえもしっかり、
若旦那にあやまんねえ」
「
若旦那、どうか
御勘弁なすっておくんなさいまし」
「いやだよ。お
前は、もう
家の
奉公人でもなけりゃ、あたしの
供でもないんだから、ちっとも
速くあたしの
眼の
届かないとこへ
消えちまうがいい」
「
消えろとおっしゃいましても。
······」
「
判らずやめ。
泥の
中へでも
何んでも、
勝手にもぐって
失せるんだ」
「へえ」
尻ッ
端折りの
尾
骨のあたりまで、
高々と
汚泥を
揚げた
市松の、
猫背の
背中へ、
雨は
容赦なく
降りかかって、いつの
間にか
人だかりのした
辺の
有様に、
徳太郎は
思わず
亀の
子のように
首をすくめた。
「もし、
若旦那」
円く
取巻いた
中から、ひょっこり
首だけ
差し
伸べて、
如何にも
憚った
物腰の、
手を
膝の
下までさげたのは、五十がらみの
ぼて振り
魚屋だった。
徳太郎は、
偸むように
顔を
挙げた。
「
手前でございます。
市松の
親父でございます」
「えッ」
「
通りがかりの
御挨拶で、
何んとも
恐れいりますが、どうやら、
市松の
野郎が、
飛んだ
粗相をいたしました
様子。
早速連れて
帰りまして、
性根の
坐るまで、
責め
折檻をいたします。どうかこのまま。
手前にお
渡し
下さいまし」
「おッとッとッと。
父つぁん、そいつァいけねえ。おいらが
悪いようにしねえから、おめえはそっちに
引ッ
込んでるがいい」
松五
郎が
親爺を
制している
隙に、
徳太郎の
姿は、いつか
人込みの
中へ
消えていた。
七
「
政吉、
辰蔵、
亀八、
分太、
梅吉、
幸兵衛。
||」
殆んどひといきに、二三
日前に
奉公に
来た八
歳の
政吉から、
番頭の
幸兵衛まで、
やけ半分に
呼びながら、
中の
口からあたふたと
駆け
込んで
来た
徳太郎は、
髷の
刷毛先に
届く、
背中一
杯の
汚泥も
忘れたように、
廊下の
暖簾口で
地駄ン
駄踏んで、おのが
合羽をむしり
取っていた。
「へい、これは
若旦那、お
早いお
帰りでございます」
番頭の
幸兵衛は、
帳付の
筆を
投げ
出して、あわてて
暖簾口へ
顔を
出したが、ひと
目徳太郎の
姿を
見るとてっきり、
途中で
喧嘩でもして
来たものと、
思い
込んでしまったのであろう。
頭のてッ
辺から
足の
爪先まで、
見上げ
見おろしながら、
言葉を
吃らせた。
「ど、どうなすったのでございます」
「
番頭さん、
市松に
直ぐ
暇をだしとくれ」
「
市松が、な、なにか、
粗相をいたしましたか」
「
何んでもいいから、あたしのいった
通りにしておくれ。あたしゃきょうくらい、
恥をかいたこたァありゃしない。もう
口惜しくッて、
口惜しくッて。
······」
「そ、それはまたどんなことでございます。
小僧の
粗相は
番頭の
粗相、
手前から、どのようにもおわびはいたしましょうから、
御勘弁願えるものでございましたら、この
幸兵衛に
御免じ
下さいまして。
······」
「
余計なことは、いわないでおくれ」
「へい。
······左様でございましょうが、お
見世の
支配は、
大旦那様から、一
切お
預かりいたして
居ります
幸兵衛、あとで
大旦那様のお
訊ねがございました
時に、
知らぬ
存ぜぬでは
通りませぬ。どうぞその
訳を、
仰しゃって
下さいまし」
「
訳なんぞ、
聞くことはないじゃないか。
何んでもあたしのいった
通り、
暇さえ
出してくれりゃいいんだよ」
駄々ッ
子がおもちゃ
箱をぶちまけたように、
手のつけられないすね
方をしている
徳太郎の
耳へ、いきなり、
見世先から
聞え
来たのは、
松五
郎の
笑い
声だった。
「はッはッは、
若旦那、まだそんなことを、いっといでなさるんでござんすかい。
耳寄りの
話を
聞いてめえりやした。いい
智恵をお
貸し
申しやすから、
小僧さんのしくじりなんざさっぱり
水に
流しておやんなさいまし」
中番頭から
小僧達まで、一
同の
顔が一
齊に
松五
郎の
方へ
向き
直った。が、
徳太郎は
暖簾口から
見世の
方を
睨みつけたまま、
返事もしなかった。
「もし、
若旦那。
悪いこたァ
申しやせん。お
前さんが、
鯱鉾立をしてお
喜びなさる、うれしい
話を
聞いてめえりやしたんで。
||ここで
話しちゃならねえと
仰しゃるんなら、そちらへ
行ってお
話しいたしやす。
着物もぬれちゃァ
居りやせん。どうでげす。それともこのまま
帰りやしょうか」
被っていた
桐油を、
見世の
隅へかなぐり
棄てて、ふところから
取出した
鉈豆煙管[#「鉈豆煙管」は底本では「鉈煙管」]へ、
叺の
粉煙草を
器用に
詰めた
松五
郎は、にゅッと
煙草盆へ
手を
伸ばしながら、ニヤリと
笑って
暖簾口を
見詰めた。
「
松つぁん」
「へえ」
「
若旦那が、こっちへとおいなさる」
「そいつァどうも。
||」
「おっと
待った。その
足で
揚がられちゃかなわない。
辰どん、
裏の
盥へ
水を
汲みな」
番頭の
幸兵衛は、
壁の
荒塗りのように
汚泥の
揚がっている
松五
郎の
脛を、
渋い
顔をしてじっと
見守った。
「ふふふ、
松五
郎は、
見かけに
寄らねえ
忠義者でげすぜ」
独り
言をいって
顎を
突出した
松五
郎の
顔は、
道化方の
松島茂平次をそのままであった。
八
行水でもつかうように、
股の
付根まで
洗った
松五
郎が、
北向の
裏二
階にそぼ
降る
雨の
音を
聞きながら、
徳太郎と
対座していたのは、それから
間もない
後だった。
瓦のおもてに、あとからあとから
吸い
込まれて
行く
秋雨の、
時おり、
隣の
家から
飛んで
来た
柳の
落葉を、
貼り
付けるように
濡らして
消えるのが、
何か
近頃はやり
始めた
飛絣のように
眼に
映った。
銀煙管を
握った
徳太郎の
手は、
火鉢の
枠に
釘着けにされたように、
固くなって
動かなかった。
「ではおせんにゃ、ちゃんとした
情人があって、この
節じゃ
毎日、そこへ
通い
詰めだというんだね」
「まず、ざっとそんなことなんで。
······」
「いったい、そのおせんの
情人というのは、
何者なんだか、
松つぁん、はっきりあたしに
教えておくれ」
「さァ、そいつァどうも。
||」
「
何をいってんだね。そこまで
明かしておきながら、あとは
幽霊の
足にしちまうなんて、
馬鹿なことがあるもんかね。
||お
前さんさっき、
何んといったい。
若旦那が
鯱鉾立して
喜ぶ
話だと、
見世であんなに、
大きな
せりふでいったじゃないか。あたしゃ
口惜しいけれど
聞いてるんだよ。どうせその
気で
来たんなら、あからさまに、一から十まで
話しておくれ。
相手の
名を
聞かないうちは、気の毒だが
松つぁん、ここは
滅多に
動かしゃァしないよ」
「ちょ、ちょいと
待っとくんなさい、
若旦那。
無理をおいいなすっちゃ
困りやす」
「
何が
無理さ」
「
何がと
仰しゃって、
実ァあっしゃァ、
相手の
名前まじァ
知らねえんで。
······」
「
名前を
知らないッて」
「そうなんで。
······」
「そんなら、
名前はともかく、どんな
男なんだか、それをいっとくれ。お
武家か、
商人か、それとも
職人か。
||」
「そいつがやっぱり
判らねえんで。
||」
「松つぁん」
徳太郎の
声は
甲走った。
「へえ」
「たいがいにしとくれ。あたしゃ
酔狂で、お
前さんをここへ
通したんじゃないんだよ。おせんが
隠れて
逢っているという、
相手の
男を
知りたいばっかりに、
見世の
者の
手前も
構わず、わざわざ二
階へあげたんじゃないか。
名を
知らないのはまだしものこと、お
武家か
商人か、
職人か、それさえ
訳がわからないなんて、
馬鹿にするのも
大概におし。
||もうそんな
人にゃ
用はないから、とっとと
消えて
失せとくれよ」
「
帰れと
仰しゃるんなら、
帰りもしましょうが、このまま
帰っても、ようござんすかね」
「なんだって」
「
若旦那。あっしゃァなる
程、おせんの
相手が、どこの
誰だか
知っちゃいませんが、そんなこたァ
知ろうと
思や、
半日とかからねえでも、ちゃァんと
突きとめてめえりやす。それよりも
若旦那。もっとお
前さんにゃ、
大事なことがありゃァしませんかい」
「そりゃ
何んだい」
「まァようがす。とっとと
消えて
失せろッてんなら、あんまり
畳のあったまらねえうちに、いい
加減で
引揚げやしょう。
||どうもお
邪間いたしやした」
「お
待ち」
「
何か
御用で」
「あたしの
大事なことだという、それを
聞かせてもらいましょう」
が、
松五
郎はわざと
頬をふくらまして、
鼻の
穴を
天井へ
向けた。
帯 一
祇園守の
定紋を、
鶯茶に
染め
抜いた三
尺の
暖簾から、ちらりと
見える四
畳半。
床の
間に

した
秋海棠が、
伊満里の
花瓶に
影を
映した
姿もなまめかしく、
行燈の
焔が
香のように
立昇って、
部屋の
中程に
立てた
鏡台に、
鬘下地の
人影がおぼろであった。
所は
石町の
鐘撞堂新道。
白紙の
上に、ぽつんと一
点、
桃色の
絵の
具を
垂らしたように、
芝居の
衣装をそのまま
付けて、すっきりたたずんだ
中村松江の
頬は、
火桶のほてりに
上気したのであろう。たべ
酔ってでもいるかと
思われるまでに
赤かった。
「おこの。
||これ、おこの」
鏡のおもてにうつしたおのが
姿を
見詰めたまま、
松江は
隣座敷にいるはずの、
女房を
呼んで
見た。が、いずこへ
行ったのやら、
直ぐに
返事は
聞かれなかった。
「ふふ、
居らんと
見えるの。このようによう
映る
格好を、
見せようとおもとるに。
||」
松江はそういいながら、きゃしゃな
身体をひねって、
踊のようなかたちをしながら、
再び
鏡のおもてに
呼びかけた。
「おせんが
茶をくむ
格好じゃ、
早う
見に
来たがいい」
「もし、
太夫」
暖簾の
下にうずくまって、
髷の
刷毛先を、ちょいと
指で
押えたまま、ぺこりと
頭をさげたのは、
女房のおこのではなくて、
男衆の
新七だった。
「
新七かいな」
「へえ」
「おこのは
何をしてじゃ」
「さァ」
「
何としたぞえ」
「お
上さんは、もう一
時も
前にお
出かけなすって、お
留守でござります」
「
留守やと」
「へえ」
「どこへ
行った」
「
白壁町の、
春信さんのお
宅へ
行くとか
仰しゃいまして、
||」
「
何んじゃと。
春信さんのお
宅へ
行った。そりゃ
新七、ほんまかいな」
「ほんまでござります」
「おこのがまた、
白壁町さんへ、どのような
用事で
行ったのじゃ。
早う
聞かせ」
「
御用の
筋は
存じませぬが、
帯をどうとやらすると、いっておいででござりました」
「
帯。
新七。
||そこの
箪笥をあけて
見や」
あわてて
箪笥の
抽斗へ
手をかけた
新七は、
松江のいいつけ
通り、
片ッ
端から
抽斗を
開け
始めた。
「
着物も
羽織も、みなそこへ
出して
見や」
「こうでござりますか」
「もっと」
「これも」
「ええもういちいち
聞くことかいな。一
度にあけてしまいなはれ」
ぎっしり、
抽斗一
杯に
詰った
衣装を、一
枚残らず
畳の
上へぶちまけたその
中を、
松江は
夢中で
引ッかき
廻していたが、やがて
眼を
据えながら
新七に
命じた。
「おまえ、
直ぐに
白壁町へ、おこのの
後を
追うて、
帯を
取って
戻るのじゃ」
「
何んの
帯でござります」
「
阿呆め、おせんの
帯じゃ。あれがのうては、
肝腎の
芝居が
わやになってしまうがな」
剃りたての
松江の
眉は、
青く
動いた。
二
その
時分、
当のおこのは、
駕籠を
急がせて、
月のない
柳原の
土手を、ひた
走りに
走らせていた。
欝金の
風呂敷に
包んで、
膝の
上に
確と
抱えたのは、
亭主の
松江が
今度森田屋のおせんの
狂言を
上演するについて、
春信の
家へ
日参して
借りて
来た、いわくつきのおせんの
帯であるのはいうまでもなかった。
鉄漿も
黒々と、
今朝染めたばかりのおこのの
歯は、
堅く
右の
袂を
噛んでいた。
当時江戸では一
番だという、その
笠森の
水茶屋の
娘が、どれ
程勝れた
縹緻にもせよ、
浪速は
天満天神の、
橋の
袂に
程近い
薬種問屋「
小西」の
娘と
生まれて、
何ひとつ
不自由も
知らず、
我まま
勝手に
育てられて
来たおこのは、たとい
役者の
女房には
不向にしろ、
品なら
縹緻なら、
人には
引けは
取らないとの、
固い
己惚があったのであろう。
仮令江戸に
幾千の
女がいようとも
うちの
太夫にばかりは、
足の
先へも
触らせることではないと、三
年前に
婚礼早々大阪を
発って
来た
時から、
肚の
底には、
梃でも
動かぬ
強い
心がきまっていた。
この
秋の
狂言に、
良人が
選んだ「おせん」の
芝居を、
重助さんが
書きおろすという。もとよりそれには、
連れ
添う
身の
異存のあろうはずもなく、
本読みも
済んで、
愈稽古にかかった四五
日は、
寝る
間をつめても、
次の
間に
控えて、
茶よ
菓子よと、
女房の
勤めに、さらさら
手落はなく
過ぎたのであったが、さて
稽古が
積んで、おのれの
工夫が
真剣になる
時分から、ふと
眼についたのは、
良人の
居間に
大事にたたんで
置いてある、もみじを
散らした一
本の
女帯だった。
買った
衣装というのなら、
誰に
見しょうとて、
別に
邪間になるまいと
思われる、その
帯だけに
殊更に、
夜寝る
時まで
枕許へ
引き
付ての
愛着は、
並大抵のことではないと、
疑うともなく
疑ったのが、
事の
始まりというのであろうか。おこのが
昼といわず夜といわず、ひそかに
睨んだとどのつまりは、
独り四
畳半に
立籠もって、おせんの
型にうき
身をやつす、
良人の
胸に
巻きつけた
帯が、
春信えがくところの、おせんの
大事な
持物だった。
カッとなって、
持ち
出したのではもとよりなく、きのうもきょうもと、
二日二晩考え
抜いた
揚句の
果てが、
隣座敷で
茶を
入れていると
見せての、
雲隠れが
順よく
運んで、
大通りへ
出て、
駕籠を
拾うまでの
段取りは、
誰一人知る
者もなかろうと
思ったのが、
手落といえばいえようが、それにしても、
新七が
後を
追って
来ようなぞとは、まったく
夢にも
想わなかった。
「
駕籠屋さん。
済まんが、
急いどくれやすえ」
「へいへい、
合点でげす。
月はなくとも
星明り、
足許に
狂いはござんせんから
御安心を」
「
酒手はなんぼでもはずみますさかい、そのつもりで
頼ンます」
「
相棒」
「おお」
「
聞いたか」
「
聞いたぞ」
「
流石にいま
売だしの、
堺屋さんのお
上さんだの。
江戸の
女達に
聞かしてやりてえ
嬉しい
台詞だ」
「その
通り。
||お
上さん。
太夫の
人気は
大したもんでげすぜ。これからァ、
何んにも
恐いこたァねえ、
日の
出の
勢いでげさァ」
「そうともそうとも、
酒手と
聞きいていうんじゃねえが、
太夫はでえいち、
品があるッて
評判だて。
江戸役者にゃ、
情ねえことに、
品がねえからのう」
「おや
駕籠屋さん。
左様にいうたら、
江戸のお
方に
憎まれまッせ」
「
飛んでもねえ。
太夫を
誉めて、
憎むような
奴ァ、みんな
けだものでげさァね」
「そうとも」
柳原の
土手を
左に
折れて、
駕籠はやがて三
河町の、
大銀杏の
下へと
差しかかっていた。
夜は
正に四つだった。
三
白壁町の
春信の
住居では、
今しも
春信が
彫師の
松五
郎を
相手に、
今度鶴仙堂から
板おろしをする「
鷺娘」の
下絵を
前にして、
頻りに
色合せの
相談中であったが、そこへひょっこり
顔を
出した
弟子の
藤吉は、
団栗眼を
一層まるくしながら、二三
度続けさまに
顎をしゃくった。
「お
師匠さん、お
客でござんす」
「どなたかおいでなすった」
「
堺屋さんの、お
上さんがお
見えなんで」
「なに、
堺屋のお
上さんだと。そりゃァおかしい。
何かの
間違いじゃねえのかの」
「
間違いどころじゃござんせん。
真正証銘のお
上さんでござんすよ」
「お
上さんが、
何んの
用で、こんなにおそく
来なすったんだ」
ついに一
度も
来たことのない、
中村松江の
女房が、
訪ねて
来たと
聞いただけでは、
春信は、
直ぐさまその
気になれなかったのであろう。
絵の
具から
眼を
離すと、
藤吉の
顔をあらためて
見直した。
「
何の
御用か
存じませんが、一
刻も
早くお
師匠さんにお
目にかかって、お
願いしたいことがあると、それはそれは、
急いでおりますんで。
······」
「はァてな。
||何んにしても、
来たとあれば、ともかくこっちへ
通すがいい」
藤吉が、あたふたと
行ってしまうと、
春信は
仕方なしに
松五
郎の
前に
置いた
下絵を、
机の
上へ
片着けて、かるく
舌うちをした。
「
飛んだところへ
邪間が
這入って、
気の
毒だの」
「どういたしやして、どうせあっしゃァ、
外に
用はありゃァしねえんで。
······なんならあっちへ
行って
待っとりやしょうか」
「いやいや、それにゃァ
及ぶまい。
話は
直ぐに
済もうから、
構わずここにいるがいい」
「そんならこっちの
隅の
方へ、
まいまいつぶろのようンなって、一
服やっておりやしょう」
ニヤリと
笑った
松五
郎が、
障子の
隅へ、まるくなった
時だった。
藤吉に
案内されたおこのの
姿が、
影絵のように
縁先へ
現れた。
「
師匠、お
連れ
申しました」
「御免やすえ」
「さァ、ずっとこっちへ」
欝金の
包を
抱えたおこのは、それでも
何やら
心が
乱れたのであろう。
上気した
顔をふせたまま、
敷居際に
頭を
下げた。
「こないに
遅う、
無躾に
伺いまして。
······」
「どんな
御用か、
遠慮なく、ずっとお
通りなさるがいい」
「いいえもう、ここで
結構でおます」
行燈の
灯が
長く
影をひいた、その
鼠色に
包まれたまま、
石のように
硬くなったおこのの
髪が二
筋三
筋、
夜風に
怪しくふるえて、
心もち
青みを
帯びた
頬のあたりに、ほのかに
汗がにじんでいた。
「そうしてお
上さんは、こんな
遅く、
何んの
用でおいでなすった」
「
拝借の、おせん
様の
帯を、お
返し
申しに。
||」
「なに、おせんの
帯を。
||」
「はい」
「それはまた
何んでの」
春信は、
意外なおこのの
言葉は、
思わず
眼を
瞠った。
「
御大切なお
品ゆえ、
粗相があってはならんよって、
速うお
返し
申すが
上分別と、
思い
立って
参じました」
「では
太夫はこの
帯を、
芝居にゃ
使わないつもりかの」
「はい。
折角ながら。
······」
おこのは、そのまま
固く
唇を
噛んだ。
四
「ふふふふ、お
上さん」
じっとおこのの
顔を
見詰めていた
春信は、
苦笑に
唇を
歪めた。
「はい」
「お
前さんもう一
度、
思い
直して
見なさる
気はないのかい」
「おもい
直せといやはりますか」
「まずのう」
「なぜでおます」
「なぜかそいつは、そっちの
胸に、
訊いて
見たらば
判ンなさろう。
||その
帯は、おせんから
頼まれて、この
春信が
描いたものにゃ
違いないが、まだ
向うの
手へ
渡さないうちに、
太夫が
来て、
貸してくれとのたッての
頼み、これがなくては、
肝腎の
芝居が
出来ないとまでいった
挙句、いや
応なしに
持って
行かれてしまったものだ。おせんにゃもとより、
内所で
貸して
渡した
品物、
今更急に
返す
程なら、あれまでにして、
持って
行きはしなかろう。お
上さん。お
前、つまらない
料簡は、
出さないほうがいいぜ」
「そんならなんぞ、わたしがひとりの
料簡で。
······」
「そうだ。これがおせんの
帯でなかったら、まさかお
前さんは、この
夜道を、わざわざここまで
返しにゃ
来なさるまい。
太夫が
締めて
踊ったとて、おせんの
色香が
移るという
訳じゃァなし、
芸人のつれあいが、そんな
狭い
考えじゃ、
所詮[#「所詮」は底本では「所謂」]うだつは
揚がらないというものだ。
余計なお
接介のようだが、
今頃太夫は、
帯の
行方を
探しているだろう。お
前さんの
来たこたァ、どこまでも
内所にしておこうから、このままもう一
度、
持って
帰ってやるがいい」
「ほほほ、お
師匠さん」
おこのは
冷たく
額で
笑った。
「え」
「
折角の
御親切でおますが、いったんお
返ししょうと、
持って
参じましたこの
帯、また
拝借させて
頂くとしましても、
今夜はお
返し
申します」
「ではどうしても、
置いて
行こうといいなさるんだの」
「はい」
「そうかい。それ
程までにいうんなら、
仕方がない、
預かろう。その
換り、
太夫が
借りに
来たにしても、もう二
度と
再び
貸すことじゃないから、それだけは
確と
念を
押しとくぜ」
「よう
判りました。この
上の
御迷惑はおかけしまへんよって。
······」
「はッはッはッ」と、
今まで
座敷の
隅に
黙りこくっていた
松五
郎が、
急に
煙管をつかんで
大笑いに
笑った。
「どうした
松つぁん」
「どうもこうもありませんが、あんまり
話が
馬鹿気てるんで、とうとう
辛抱が
出来なくなりやしたのさ。
||師匠、ひとつあっしに、ちっとばかりしゃべらしておくんなせえ」
「
何んとの」
「
身に
降りかかる
話じゃねえ。どうせ
人様のことだと
思って、
黙って
聴いて
居りやしたが。
||もし
堺屋さんのお
上さん、つまらねえ
焼きもちは、
焼かねえ
方がようがすぜ」
「なにいいなはる」
「なにも
蟹もあったもんじゃねえ。
蟹なら
横にはうのが
近道だろうに、
人間はそうはいかねえ。
広いようでも
世間は
狭えものだ。どうか
真ッ
直向いて
歩いておくんなせえ」
「あんたはん、どなたや」
「あっしゃァ
松五
郎という、けちな
職人でげすがね。お
前さんの
仕方が、あんまり
情な
過ぎるから、
口をはさましてもらったのさ。
知らなきゃいって
聞かせるが、
笠森のおせん
坊は、
男嫌いで
通っているんだ。
今さらお
前さんとこの
太夫が、
金鋲を
打った
駕籠で
迎えに
来ようが、
毛筋一
本動かすような
女じゃねえから
安心しておいでなせえ。
痴話喧嘩のとばっちりがここまでくるんじゃ、
師匠も
飛んだ
迷惑だぜ」
松五
郎はこういって、ぐっとおこのを
睨みつけた。
五
暗の
中を、
鼠のようになって、まっしぐらに
駆けて
来た
堺屋の
男衆新七は、これもおこのと
同じように、
柳原の
土手を八
辻ヶ
原へと
急いだが、
夢中になって
走り
続けてきたせいであろう。
右へ
行く
白壁町への
道を
左へ
折れたために、
狐につままれでもしたように、
方角さえも
判らなくなった
折も
折、
彼方の
本多豊前邸の
練塀の
影から、ひた
走りに
走ってくる
女の
気配。まさかと
思って
眼をすえた
刹那瞼ににじんだ
髪かたちは、
正しくおこのの
姿だった。
新七は、はッとして
飛び
上った。
「おお、お
上さん」
「あッ。お
前はどこへ」
「どこへどころじゃござりません。お
上さんこそ
今時分、どちらへおいでなさいました」
「わたしは、お
前も
知っての
通り、あの
絵師の
春信さんのお
宅へ、いって
来ました」
「そんならやっぱり、
春信師匠のお
宅へ」
「お
前がまた、そのようなことを
訊いて、
何んにしやはる」
「
手前は
太夫からのおいいつけで、お
上さんをお
迎えに
上ったのでござります」
「わたしを
迎えに。
||」
「へえ。
||そうしてあの
帯をどうなされました」
「
何、
帯とえ」
「はい。おせんさんの
帯は、お
上さんが、お
持ちなされたのでござりましょう」
「そのような
物を、わたしが
知ろかいな」
「いいえ。
知らぬことはございますまい。
先程お
出かけなさる
時、
帯を
何んとやら
仰しゃったのを、
新七は、たしかにこの
耳で
聞きました」
「
知らぬ
知らぬ。わたしが
春信さんをお
訊ねしたのは
帯や
衣装のことではない。
今度鶴仙堂から
板おろしをしやはるという、
鷺娘の
絵のことじゃ。
||ええからそこを
退きなされ」
「いいや、それはなりません。お
上さんは、
確に
持ってお
出なされたはず。もう一
度手前と一
緒に、
白壁町のお
宅へ、お
戻りなすって
下さりませ」
「なにいうてんのや。わたしが
戻ったとて、
知らぬものが、あろうはずがあるかいな。
||こうしてはいられぬのじゃ。そこ
退きやいの」
おこのが
払った
手のはずみが、ふと
肩から
滑ったのであろう。
袂を
放したその
途端に、
新七はいやという
程、おこのに
頬を
打たれていた。
「あッ。お
打ちなさいましたな」
「
打ったのではない。お
前が、わたしの
手を
取りやはって。
······」
「ええ、もう
辛抱がなりませぬ。
手前と一
緒にもう一
度、
春信さんのお
宅まで、とっととおいでなさりませ」
ぐっとおこのの
手首をつかんだ
新七には、もはや
主従の
見さかいもなくなっていたのであろう。たとえ
何んであろうと、
引ずっても
連れて
行かねばならぬという、
強い
意地が
手伝って、
荒々しく
肩に
手をかけた。
「これ、
新七、
何をしやる」
「
何もかもござりませぬ。あの
帯は、
太夫が
今度の
芝居にはなくてはならない
大事な
衣装、
手前がひとりで
行ったとて、
春信さんは
渡しておくんなさいますまい。どうでもお
前様を一
緒に
連れて。
||」
「ええ、
行かぬ。
何んというてもわしゃ
行かぬ」
星のみ
光った
空の
下に、二つのかたちは、
犬の
如くに
絡み
合っていた。
「ふふふふ。みっともねえ。こんなことであろうと
思って、
後をつけて
来たんだが、お
上さん、こいつァ
太夫さんの
辱ンなるぜ」
「えッ」
「おれだよ。
彫職人の
松五
郎」
六
留めるのもきかずに
松五
郎が
火のようになって
出て
行ってしまった
後の
画室には、
春信がただ
一人おこのの
置いて
行った
帯を
前にして、
茫然と
煙管をくわえていたが、やがて
何か
思いだしたのであろう。
突然顔をあげると、
吐きだすように
藤吉を
呼んだ。
「
藤吉。
||これ
藤吉」
「へえ」
いつにない
荒い
言葉に、あわてて
次の
間から
飛んで
出た
藤吉は、
敷居際で、もう一
度ぺこりと
頭を
下げた。
「
何か
御用で」
「
羽織を
出しな」
「へえ。
||どッかへお
出かけなさるんで。
······」
「
余計な
口をきかずに、
速くするんだ」
「へえ」
何が
何やら、一
向見当が
付かなくなった
藤吉は、
次の
間に
取って
返すと、
箪笥をがたぴしいわせながら、
春信が
好みの
鶯茶の
羽織を、
捧げるようにして
戻って
来た。
「これでよろしいんで。
······」
それには
答えずに、
藤吉の
手から
羽織を、ひったくるように
受取った
春信の
足は、
早くも
敷居をまたいで、
縁先へおりていた。
「
師匠、お
供をいたしやす」
「
独りでいい」
「お
一人で。
······そんなら
提灯を。
||」
が、
春信の
心は、やたらに
先を
急いでいたのであろう。いつもなら、
藤吉を
供に
連れてさえ、
夜道を
歩くには、
必ず
提灯を
持たせるのであったが、
今はその
提灯を
待つ
間ももどかしく、
羽織の
片袖を
通したまま、
早くも
姿は
枝折戸の
外に
消えていた。
「
藤吉。
||藤吉」
「へえ」
奥からの
声は、この
春まで十五
年の
永い
間、
番町の
武家屋敷へ
奉公に
上っていた。
春信の
妹梶女だった。
「ここへ
来や」
「へえ」
お
屋敷者の
見識とでもいうのであろうか。
足が
不自由であるにも
拘らず、四十に
近い
顔には、
触れば
剥げるまでに
濃く
白粉を
塗って、
寝る
時より
外には、
滅多に
放したことのない
長煙管を、いつも
膝の
上についていた。
「お
兄様は、どちらにお
出かけなされた」
「さァ、どこへおいでなさいましたか、つい
仰しゃらねえもんでござんすから。
······」
「
何をうかうかしているのじゃ。
知らぬで
済もうとお
思いか。なぜお
供をせぬのじゃ」
「そう
申したのでござんすが、
師匠はひどくお
急ぎで、
行く
先さえ
仰しゃらねえんで。
······」
「
直ぐに
行きゃ」
「へ」
「
提灯を
持って
直ぐに、
後を
追うて
行きゃというのじゃ」
「と
仰しゃいましても、どっちへお
出かけか、
方角も
判りゃァいたしやせん」
「まだ
出たばかりじゃ。そこまで
行けば
直ぐに
判ろう。たじろいでいる
時ではない。
速う。
速う」
この
上躊躇していたら、
持った
煙管で、
頭のひとつも
張られまじき
気配となっては、
藤吉も、
立たない
訳には
行かなかった。
提灯は
提灯、
蝋燭は
蝋燭と、
右と
左に
別々につかんだ
藤吉は、
追われるように、
梶女の
眼からおもてに
遁れた。
七
鏡のおもてに
映した
眉間に、
深い八の
字を
寄せたまま、ただいらいらした
気持を
繰返していた
中村松江は、ふと、
格子戸の
外に
人の
訪れた
気配を
感じて、じッと
耳を
澄した。
「もし、
今晩は。
||今晩は」
(おお、やはりうちかいな)
そう、
思った
松江は、
次の
座敷まで
立って
行って、
弟子のいる
裏二
階へ
声をかけた。
「これ
富江、
松代、
誰もいぬのか。お
客さんがおいでなされたようじゃ」
が、
先刻新七におこのの
後を
追わせた
隙に、
二人とも、どこぞ
近所へまぎれて
行ったのであろう。もう一
度呼んで
見た
松江の
耳には、
容易に
返事が
戻っては
来なかった。
「ええけったいな、
何んとしたのじゃ。お
客さんじゃというのに。
||」
口小言をいいながら、
自ら
格子戸のところまで
立って
行った
松江は、わざと
声音を
変えて、
低く
訊ねた。
「どなた
様でござります」
「わたしだ」
「へえ」
「
白壁町の
春信だよ」
「えッ」
驚きと、
土間を
駆け
降りたのが、
殆ど
同時であった。
「お
師匠さんでおましたか。これはまァ。
······」
がらりと
開けた
雨戸の
外に、
提灯も
持たずに、
独り
蒼白く
佇んだ
春信の
顔は
暗かった。
「
面目次第もござりませぬ。
||でもまァ、ようおいでで。
||」
「ふふふ。あんまりよくもなかろうが、ちと、
来ずには
済まされぬことがあっての」
「そこではお
話も
出来ませんで。
······どうぞ、こちらへお
通り
下さりませ」
「しかし、わたしが
上っても、いいのか」
「
何を
仰しゃいます。
狭苦しゅうはござりますが、
御辛抱しやはりまして。
······」
「では
遠慮なしに、
通してもらいましょうか。
······のう
太夫」
座敷へ
上って、
膝を
折ると
同時に、
春信の
眼は
険しく
松江を
見詰めた。
「
今更あらためて、こんなことを
訊くのも
野暮の
沙汰だが、おこのさんといいなさるのは、
確にお
前さんの
御内儀だろうのう」
「
何んといやはります」
松江のおもてには、
不安の
色が
濃い
影を
描いた。
「
深いことはどうでもいいが、ただそれだけを
訊かしてもらいたいと
思っての。あれが
太夫の
御内儀なら、わたしはこれから
先、お
前さんと、二
度と
顔を
合わせまいと、
心に
固く
極めて
来たのさ」
「えッ。ではやはり。
······」
「
太夫。つまらない
面あてでいう
訳じゃないが、お
前さんは、いいお
上さんを
持ちなすって、
仕合だの。
||帯はたしかにわたしの
手から、おせんのとこへ
返そうから、
少しも
懸念には、
及ばねえわな」
「どうぞ
堪忍しておくれやす」
「お
前さんにあやまらせようと
思って、こんなにおそく、わざわざひとりで
出て
来た
訳じゃァさらさらない。
詫なんぞは
無用にしておくんなさい」
「なんで、これがお
詫せいでおられましょう。
愚なおこのが、いらぬことを
仕出来しました
心なさからお
師匠さんに、このようないやな
思いをおさせ
申しました。
堺屋、
穴があったら
這入りとうおます」
松江は、われとわが
手で
顔を
掩ったまま、
暫し
身じろぎもしなかった。
霜の
来ぬ
間に、
早くも
弱り
果てた
蟋蟀であろう。
床下にあえぐ
音が
細々と
聞かれた。
月 一
「
||そら
来た
来なんせ、
土平の
飴じゃ。
大人も
子供も
銭持っておいで。
当時名代の
土平の
飴じゃ。
味がよくって
でがあって、おまけに
肌理が
細こうて、
笠森おせんの
羽二
重肌を、
紅で
染めたような
綺麗な
飴じゃ。
買って
往かんせ、
食べなんせ。
天竺渡来の
人参飴じゃ。
何んと
皆の
衆合点か」
もはや
陽が落ちて、
空には
月さえ
懸っていた。その
夕月の
光の
下に、おのが
淡い
影を
踏みながら、
言葉のあやも
面白おかしく、
舞いつ
踊りつ
来懸ったのは、この
春頃から
江戸中を、
隈なく
歩き
廻っている
飴売土平。まだ三十にはならないであろう。おどけてはいるが、どこか
犯し
難いところのある
顔かたちは、
敵持つ
武家が、
世を
忍んでの
飴売だとさえ
噂されて、いやが
上にも
人気が
高く、
役者ならば
菊之丞、
茶屋女なら
笠森おせん、
飴屋は
土平、
絵師は
春信と、
当時切っての
評判者だった。
「わッ、
土平だ
土平だ」
「それ、みんな
来い、みんな
来いやァイ」
「お
母ァ、
銭くんな」
「
父、おいらにも
銭くんな」
「あたいもだ」
「あたしもだ」
軒端に
立つ
蚊柱のように、どこからともなく
集まって
来た
子供の
群は、
土平の
前後左右をおッ
取り
巻いて、
買うも
買わぬも一
様にわッわッと
囃したてる
賑やかさ、
長屋の
井戸端で、一
心不乱に
米を
磨いでいたお
上さん
達までが、
手を
前かけで、
拭きながら、ぞろぞろつながって
出てくる
有様は、
流石に
江戸は
物見高いと、
勤番者の
眼の
玉をひっくり
返さずにはおかなかった。
「
||さァさ
来た
来た、こっちへおいで、
高い
安いの
思案は
無用。
思案するなら
谷中へござれ。
谷中よいとこおせんの
茶屋で、お
茶を
飲みましょ。
煙草をふかそ。
煙草ふかして
煙だして、
煙の
中からおせんを
見れば、おせん
可愛や二九からぬ。
色気程よく
靨が
霞む。
霞む
靨をちょいとつっ
突いて、もしもしそこなおせん
様。おはもじながらここもとは、そもじ
思うて
首ッたけ、
烏の
鳴かぬ
日はあれど、そもじ
見ぬ
日は
寝も
寝つかれぬ。
雪駄ちゃらちゃら
横眼で
見れば、
咲いた
桜か
芙蓉の
花か、さても
見事な
富士びたえ。
||さッさ
買いなよ
買わしゃんせ。
土平自慢の
人参飴じゃ。
遠慮は
無用じゃ。
買わしゃんせ。
買っておせんに
惚れしゃんせ」
手振りまでまじえての
土平の
唄は、
月の
光が
冴えるにつれて、
愈益々面白く、
子供ばかりか、ぐるりと
周囲に
垣を
作った
大方は、
通りがかりの、
大人の
見物で一
杯であった。
「はッはッはッ。これが
噂の
高い
土平だの。いやもう
感心感心。この
咽では、
文字太夫も
跣足だて」
「それはもう
御隠居様。
滅法名代の
土平でござんす。これ
程のいい
声は、
鉦と
太鼓で
探しても、
滅多にあるものではござんせぬ」
「
御隠居は、
土平の
声を、
始めてお
聞きなすったのかい」
「
左様」
「これはまた
迂濶千
万。
飴売土平は、
近頃江戸の
名物でげすぜ」
「いや、
噂はかねて
聞いておったが、
眼で
見たのは
今が
初めて。まことにはや。
面目次第もござりませぬて」
「はははは。お
前様は、おなじ
名代なら、やっぱりおせんの
方が、
御贔屓でげしょう」
「
決して
左様な
訳では。
······」
「お
隠しなさいますな。それ、そのお
顔に
書いてある」
見物の
一人が、
近くにいる
隠居の
顔を
指した
時だった、
誰かが
突然頓狂な
声を
張り
上げた。
「おせんが
来た。あすこへおせんが
帰って
来た」
二
「なに、おせんだと」
「どこへどこへ」
飴売土平の
道化た
身振りに、われを
忘れて
見入っていた
人達は、
降って
湧いたような「おせんが
来た」という
声を
聞くと、一
齊に
首を
東へ
振り
向けた。
「どこだの」
「あすこだ。あの
松の
木の
下へ
来る」
斜めにうねった
道角に、
二抱えもある
大松の、その
木の
下をただ
一人、
次第に
冴えた
夕月の
光を
浴びながら、
野中に
咲いた一
本の
白菊のように、
静かに
歩みを
運んで
来るほのかな
姿。それはまごう
方ない
見世から
帰りのおせんであった。
「
違えねえ。たしかにおせんだ」
「そら
行け」
駆け
出す
途端に
鼻緒が
切れて、
草履をさげたまま
駆け
出す
小僧や、
石に
躓いてもんどり
打って
倒れる
職人。さては
近所の
生臭坊主が、
俗人そこのけに
目尻をさげて
追いすがるていたらく。
所詮は
男も
女もなく、おせんに
取っては
迷惑千万に
違いなかろうが、
遠慮会釈はからりと
棄てた
厚かましさからつるんだ
犬を
見に
行くよりも、一
層勢い
立って、どっとばかりに
押し
寄せた。
「いやだよ
直さん、そんなに
押しちゃァ
転ンじまうよ」
「
人の
転ぶことなんぞ、
遠慮してたまるもんかい。
速く
行って
触らねえことにゃ、おせんちゃんは
帰ッちまわァ」
「おッと
退いた
退いた。
番太郎なんぞの
見るもンじゃねえ」
「
馬鹿にしなさんな。
番太郎でも
男一
匹だ。
綺麗な
姐さんは
見てえや」
「さァ
退いた、
退いた」
「
火事だ
火事だ」
人の
心が
心に
乗って、
愈調子づいたのであろう。
茶代いらずのその
上にどさくさまぎれの
有難さは、たとえ
指先へでも
触れば
触り
得と
考えての
悪戯か。ここぞとばかり、
息せき
切って
駆け
着けた
群衆を
苦笑のうちに
見守っていたのは、
飴売の
土平だった。
「ふふふふ。
飴も
買わずに、おせん
坊へ
突ッ
走ったな
豪勢だ。こんな
鉄錆のような
顔をしたおいらより、
油壺から
出たよなおせん
坊の
方が、どれだけいいか
知れねえからの。いやもう、
浮世のことは、
何をおいても
女が
大事。おいらも
今度の
世にゃァ、
犬になっても
女に
生れて
来ることだ。
||はッくしょい。これァいけねえ。みんなが
急に
散ったせいか、
水ッ
洟が
出て
来たぜ。
風邪でも
引いちゃァたまらねから、そろそろ
帰るとしべえかの」
「おッと、
飴屋さん」
「はいはい、お
前さんは、
何んであっちへ
行きなさらない」
「
行きたくねえからよ」
「
行きたくないとの」
「そうだ。おいらはこれでも、
辱を
知ってるからの」
「
面白い。
人間、
辱を
知ってるたァ
何よりだ」
「
何より
小より御存じよりか。なまじ
辱を
知ってるばかりに、おいらァ
出世が
出来ねえんだよ」
「お
前さんは、
何をしなさる
御家業だの」
「
絵かきだよ」
「
名前は」
「
名前なんざあるもんか」
「
誰のお
弟子だの」
「おいらはおいらの
弟子よ。
絵かきに
師匠や
先生なんざ、
足手まといになるばッかりで、
物の
役にゃ
立たねえわな」
そういいながら、
鼻の
頭を
擦ったのは、
変り
者の
春重だった。
三
「おッとッとッと、おせんちゃん。
何んでそんなに
急ぎなさるんだ。みんながこれ
程騒いでるんだぜ。
靨の一つも
見せてッてくんねえな」
「そうだそうだ。どんなに
待ったか
知れやァしねえよ。おめえに
急いで
帰られたんじゃ、
待ってたかいがありゃァしねえ」
それと
知って、おせんを
途中に
押ッ
取りかこんだ
多勢は、
飴屋の
土平があっ
気に
取られていることなんぞ、
疾うの
昔に
忘れたように、
我れ
先にと、
夕ぐれ
時のあたりの
暗さを
幸いにして、
鼻から
先へ
突出していた。
が、いつもなら、
人にいわれるまでもなく、まずこっちから
愛嬌を
見せるにきまっていたおせんが、きょうは
何んとしたのであろう。
靨を
見せないのはまだしも、まるで
別人のようにせかせかと、
先を
急いでの
素気ない
素振に、一
同も
流石におせんの
前へ、
大手をひろげる
勇気もないらしく、ただ
口だけを
達者に
動かして、
少しでも
余計に
引止めようと、あせるばかりであった。
「もし、そこを
退いておくんなさいな」
「どいたらおめえが
帰ッちまうだろう。まァいいから、ここで
遊んで
行きねえ」
「あたしゃ、
先を
急ぎます。きょうは
堪忍しておくんなさいよ」
「
先ッたって、これから
先ァ、
家へ
帰るより
道はあるめえ。それともどこぞへ、
好きな
人でも
出来たのかい」
「なんでそんなことが。
······」
「ねえンなら、よかろうじゃねえか」
「でもお
母さんが。
||」
「お
袋の
顔なんざ、
生れた
時から
見てるんだろう。もう
大概、
見あきてもよさそうなもんだぜ」
「そうだ、おせんちゃん。
帰る
時にゃ、みんなで
送ってッてやろうから、きょう
一ン
日の
見世の
話でも、
聞かしてくんねえよ」
「お
見世のことなんぞ、
何んにも
話はござんせぬ。
||どうか
通しておくんなさい」
「
紙屋の
若旦那の
話でも、
名主さんの
じゃんこ息子の
話でも、いくらもあろうというもんじゃねえか」
「
知りませんよ。お
母さんが
風邪を
引いて、
独りで
寝ててござんすから、ちっとも
速く
帰らないと、あたしゃ
心配でなりませんのさ」
「お
袋さんが
風邪だッて」
「あい」
「そいつァいけねえ。
何んなら
見舞に
行ってやるよ」
「おいらも
行くぜ」
「わたしも
行く」
「いいえ、もうそんなことは。
||」
少しも
長く、おせんを
引き
止めておきたい
人情が、
互の
口を
益々軽くして、まるく
囲んだ
人垣は、
容易に
解けそうにもなかった。
すると
突然、はッはッはと、
腹の
底から
絞り
出したような
笑い
声が、一
同の
耳許に
湧き
立った、
「はッはッは。みんな、みっともねえ
真似をしねえで、
速くおせんちゃんを、
帰してやったらどんなもんだ」
「おめえは、
春重だな」
「つまらねえ
差し
出口はきかねえで、
引ッ
込んだ、
引ッ
込んだ」
「ふふふ。おめえ
達、あんまり
気が
利かな
過ぎるぜ。おせんちゃんにゃ、おせんちゃんの
用があるんだ。
野暮な
止めだてするよりも、一
刻も
速く
帰してやんねえ」
「
馬鹿ァいわッし。そんなお
接介は受けねえよ」
一
同の
視線が、
春重の
上に
集まっている
暇に、おせんは
早くも
月の
下影に
身を
隠した。
四
「お
母さん」
「おや、おせんかえ」
「あい」
猫に
追われた
鼠のように、
慌しく
駆け
込んで
来たおせんの
声に、
折から
夕餉の
支度を
急いでいた
母のお
岸は、
何やら
胸に
凶事を
浮べて、
勝手の
障子をがらりと
明けた。
「どうかおしかえ」
「いいえ」
「でもお
前、そんなに
息せき
切ってさ」
「どうもしやァしませんけれど、いまそこで、
筆屋さんの
黒がじゃれたもんだから。
······」
「ほほほほ。
黒が
尾を
振ってじゃれるのは、お
前を
慕っているからだよ。あたしゃまた、
悪いいたずらでもされたかと
思って、びっくりしたじゃァないか。
何も
食いつくような
黒じゃなし、
逃げてなんぞ
来ないでも、
大丈夫金の
脇差だわな。
||こっちへおいで。
頭を
撫で
付けてあげようから。
······」
「おや、
髪がそんなに。
||」
母の
方へは
行かずに、四
畳半のおのが
居間へ
這入ったおせんは、
直ぐさま
鏡の
蓋を
外して、
薄暮の
中にじっとそのまま
見入ったが、二
筋三
筋襟に
乱れた
鬢の
毛を、
手早く
掻き
揚げてしまうと、
今度はあらためて、あたりをぐるりと
見廻した。
「お
母さん」
「あいよ」
「あたしの
留守に、ここに
誰か
這入りゃしなかったかしら」
「おやまァ
滅相な。そこへは
鼠一
匹も
滅多に
入るこっちゃァないよ。
||何んぞ
変わったことでもおありかえ」
「さァ、ちっとばかり。
······」
「どれ、
何がの。
||」
障子の
隙間から、
顔を
半分窺かせた
母親を、おせんはあわてて
遮った。
「
気にする
程でもござんせぬ。あっちへ
行ってておくんなさい」
「ほんにまァ、ここへは
来るのじゃなかったッけ」
三日前の
夜の四つ
頃、
浜町からの
使いといって、十六七の
男の
子が、
駕籠に
乗った
女を
送って
来たその
晩以来、お
岸はおせんの
口から、
観音様への
願かけゆえ、
向う三十
日の
間何事があっても、四
畳半へは
這入っておくんなさいますな。あたしの
留守にも、ここへ
足を
入れたが
最後、お
母さんの
眼はつぶれましょうと、きつくいわれたそれからこっち、
何が
何やら
分らないままに、おせんの
頼みを
堅く
守って、お
岸は、
鬼門へ
触るように
恐れていた
座敷だったが、
留守に
誰かが
這入ったと
聞いては、
流石にあわてずにいられなかったらしく、
拵らえかけの
蜆汁を、七
厘へ
懸けッ
放しにしたまま、
片眼でいきなり
窺き
込んだのであろう。
部屋の
中は、
窓から
差すほのかな
月の
光で、
漸く
物のけじめがつきはするものの、ともすれば、
入れ
換えたばかりの
青畳の
上にさえ、
暗い
影が
斜めに
曳かれて、じっと
見詰めている
眼先は、
海のように
深かった。
母は
直ぐに
勝手へ
取って
返したと
見えて、
再び七
厘の
下を
煽ぐ
渋団扇の
音が
乱れた。
暗い、
何者もはっきり
見えない
部屋の
中で、おせんはもう一
度、じっと
鏡の
中を
見詰めた。
底光のする
鏡の
中に、
澄めば
澄む
程ほのかになってゆく、おのが
顔が
次第に
淡く
消えて、
三日月形の
自慢の
眉も、いつか
糸のように
細くうずもれて
行った。
「
吉ちゃん。
||」
ふと、
鏡のおもてから
眼を
放したおせんの
唇は、
小さく
綻びた。と
同時に、すり
寄るように、
体は
戸棚の
前へ
近寄った。
「
済みません。ひとりぽっちで、こんなに
待たせて。
||」
そういいながら、おせんのふるえる
手は
襖の
引手を
押えた。
五
部屋の
中は
益々暗かった。
その
暗い
部屋の
片隅へ、
今しもおせんが、
辺に
気を
配りながら、
胸一
杯に
抱え
出したのは、つい
三日前の
夜、
由斎の
許から
駕籠に
乗せて
届けてよこした、八百
屋お七の
舞台姿をそのままの、
瀬川菊之丞の
生人形であった。
おせんは
抱えた
人形を、
東に
向けて
座敷のまん
中に
立てると、
薄月の
光を、まともに
受けさせようがためであろう。
音せぬ
程に、
窓の
障子を
徐に
開け
始めた。
庭には
虫の
声もなく、
遠くの
空を
渡る
雁のおとずれがうつろのように、
耳に
響いた。
「
吉ちゃん。
||いいえ、
太夫、あたしゃ
会いとうござんした」
生きた
相手にいう
如く、
如何にもなつかしそうに、
人形を
仰いだおせんの
眼には、
情の
露さえ
仇に
宿って、
思いなしか、
声は一
途にふるえていた。
「
||朝から
晩まで、いいえ、それよりも、一
生涯、あたしゃ
太夫と一
緒にいとうござんすが、なんといっても、お
前は
今を
時めく、
江戸一
番の
女形。それに
引き
換えあたしゃそこらに
履き
捨てた、
切れた
草鞋もおんなじような、
水茶屋の
茶汲み
娘。
百夜の
路を
通ったとて、お
前に
逢って、
昔話もかなうまい。それゆえせめての
心から、あたしがいつも
夢に
見るお
前のお七を、
由斎さんに
仕上げてもらって、ここまで
内緒で
運んだ
始末。お
前のお
宅にくらべたら、
物置小屋にも
足りない
住居でござんすが、ここばっかりは、
邪間する
者もない
二人の
世界。どうぞ
辛抱して、
話相手になっておくんなさいまし、
||あたしゃ、
王子で
育った十
年前も、お
見世へ
通うきょうこの
頃も、
心に
毛筋程の
変りはござんせぬ。
吉ちゃんと、おせんちゃんとは
夫婦だと、ままごと
遊びにからかわれた、あの
春の
日が
忘れられず、
枕を
濡らして
泣き
明かした
夜も、一
度や二
度ではござんせんし。おせんも
年頃、
好きなお
客の
一人くらいはあろうかと、
折節のお
母さんの
心配も、あたしの
耳には
上の
空。
火あぶりで
死んだお七が
羨ましいと、あたしゃいつも、
思い
続けてまいりました。
||太夫、お
前は、
立派なお
上さんのその
外に、二つも
寮をお
持ちの
様子。
引くてあまたの、
御贔屓筋もござんしょうが、あたしゃこのままこがれ
死んでも、やっぱりお
前の
女房でござんす」
思わず
知らず、
我れとわが
袖を
濡らした
不覚の
涙に、おせんは「はッ」として
首を
上げたが、どうやら
勝手許の
母の
耳へは
這入らなかったものか、まだ
抜け
切らぬ
風邪の
咳が二つ三つ、
続けざまに
聞こえたばかりであった。
しばしおせんは、
俯向いたまま
眼を
閉じていた。その
眼の
底を、
稲妻のように、
幼い
日の
思い
出が
突ッ
走った。
「おせんや」
母の
声が
聞かれた。
「あい」
「この
暗いのに、
行燈もつけずに」
「あい。さして
暗くはござんせぬ」
「
何をしておいでだか
知らないが、
支度が
出来たから
御飯にしようわな」
「あい、いまじきに」
「
暗い
所に
一人でいると、
鼠に
引かれるよ」
隣座敷では、
母が
燈芯をかき
立てたのであろう。
障子が
急に
明るくなって、
膳立をする
音が
耳に
近かった。
よろめくように
立上ったおせんは、
窓の
障子に
手をかけた。と、その
刹那、
低いしかも
聞き
慣れない
声が、
窓の
下から
浮き
上った。
「おせん」
「えッ」
「
驚くにゃ
当らねえ。おいらだよ」
おせんは、
火箸のように
立ちすくんでしまった。
六
「ど、どなたでござんす」
「
叱っ、
静かにしねえ。
怪しいものじゃねえよ。おいらだよ」
「あッ、お
前は
兄さん。
||」
「ええもう、
静かにしろというのに。お
袋の
耳へへえッたら、
事が
面倒ンなる」
そういいながら、
出窓の
縁へ
肘を
懸けて、するりと
体を
持ちあげると、
如何にも
器用に
履いた
草履を
右手で
脱ぎながら、
腰の三
尺帯へはさんで、
猫のように
青畳の
上へ
降り
立ったのは、三
年前に
家を
出たまま、
噂にさえ
居所を
知らせなかった
兄の千
吉だった。
||藍微塵の
素袷に
算盤玉の三
尺は、
見るから
堅気の
着付ではなく、
殊に
取った
頬冠りの
手拭を、
鷲掴みにしたかたちには、
憎いまでの
落着があった。
まったく
夢想もしなかった
出来事に、おせんは、その
場に
腰を
据えたまま、
直ぐには二の
句が
次げなかった。
「おせん。おめえ、いくつンなった」
「十八でござんす」
「十八か。
||」
千
吉はそういって
苦笑するように
頷いたが、
隣座敷を気にしながら、
更に
声を
低めた。
「
怖がるこたァねえから、
後ずさりをしねえで、
落着いていてくんねえ。おいらァ
何も、
久し
振りに
会った
妹を、
取って
食おうたァいやァしねえ」
「あかりを、つけさせておくんなさい」
「おっと、そんな事をされちゃァたまらねえ。
暗でもてえげえ
見えるだろうが、おいらァ
堅気の
商人で、四
角い
帯を、うしろで
結んで
来た
訳じゃねえんだ。
面目ねえが
五一三分六のやくざ
者だ。おめえやお
袋に、
会わせる
顔はねえンだが、ちっとばかり、
人に
頼まれたことがあって、
義理に
挟まれてやって
来たのよ。おせん、
済まねえが、おいらの
頼みを
聞いてくんねえ」
「そりゃまた
兄さん、どのようなことでござんす」
「どうのこうのと、
話せば
長え
訳合だが、
手ッ
取早くいやァ、おいらァ
金が
入用なんだ」
「お
金とえ」
「そうだ」
「あたしゃ、お
金なんぞ。
······」
「まァ
待った。
藪から
棒に
飛び
込んで
来た、おいらの
口からこういったんじゃ、おめえがかぶりを
振るのももっともだが、こっちもまんざら
目算なしで、
出かけて
来たという
訳じゃねえ。そこにゃちっとばかり、
見かけた
蔓があってのことよ。
||のうおせん。おめえは
通油町の、
橘屋の
若旦那を
知ってるだろう」
「なんとえ」
「
徳太郎という、
始末の
良くねえ
若旦那だ」
「さァ、
知ってるような、
知らないような。
······」
「ここァ
別に
白洲じゃねえから、
隠しだてにゃ
及ばねえぜ。
知らねえといったところが、どうでそれじゃァ
通らねえんだ。
先ァおめえに、
家蔵売ってもいとわぬ
程の、
首ッたけだというじゃねえか」
「まァ
兄さん」
「
恥かしがるにゃァ
当らねえ。
何もこっちから、
血道を
上げてるという
訳じゃなし、おめえに
惚れてるな、
向う
様の
勝手次第だ。
||おせん。そこでおめえに
相談だが、ひとつこっちでも、
気のある
風をしちゃあくれめえか」
「えッ」
「おめえも十八だというじゃァねえか。もうてえげえ、そのくれえの
芸当は、
出来ても
辱にゃァなるめえぜ」
千
吉は、たじろぐおせんを
見詰めながら、四
角く
坐って
詰め
寄った。
七
「もし、
兄さん」
月は
雲に
覆われたのであろう。
障子を
漏れる
光さえない
部屋の
中は、
僅かに
隣から
差す
行燈の
方影に、
二人の
半身を
淡く
見せているばかり、三
年振りで
向き
合った
兄の
顔も、おせんははっきり
見極めることが
出来なかった。
その
方暗の
中に、おせんの
声は低くふるえた。
「
兄さん」
「え」
「
帰っておくんなさい」
「
何んだって。おいらに
帰れッて」
「あい」
「
冗談じゃねえ。
用がありゃこそ、わざわざやって
来たんだ。なんでこのまま
帰れるものか。そんなことよりおいらの
頼みを、
素直にきいてもらおうじゃねえか。おめえさえ
首を
縦に
振ってくれりゃァ、からきし
訳はねえことなんだ。のうおせん。
赤の
他人でさえ、
事を
分けて、かくかくの
次第と
頼まれりゃ、いやとばかりゃァいえなかろう。おいらァおめえの
兄貴だよ。
||血を
分けた、たった
一人の
兄貴だよ。それも、百とまとまった
金が
入用だという
訳じゃねえ。四
半分の二十五
両で
事が
済むんだ」
「二十五
両。
||」
「みっともねえ。
驚く
程の
高でもあるめえ」
「でも、そんなお
金は。
······」
「だからよ。
初手からいってる
通り、おめえやお
袋の
臍くりから、
引っ
張り
出そうたァいやァしねえや。
狙いをつけたなあの
若旦那、
橘屋の
徳太郎というでくの
棒よ。ふふふふ。
何んの
雑作もありァしねえ。おめえがここでたった
一言。おなつかしゅうござんす、とかなんとかいってくれさえすりァ、おいらの
頼みァ
聴いてもらえようッてんだ。お
釈迦が
甘茶で
眼病を
直すより、もっとわけねえ
仕事じゃねえか」
「それでもあたしゃ。
心にもないことをいって。
······」
「そ、その
料簡がいけねえんだ。
腹にあろうがなかろうが、
武士は
戦略、
坊主は
方便、
時と
場合じゃ、
人の
寝首をかくことさえあろうじゃねえか。
||さ、ここに
筆と
紙がある。いろはのいの
字とろの
字を
書いて、いろよい
返事をしてやんねえ」
千
吉がふところから
取出したのは、
巻紙と
矢立であった。
おせんは、あわてて
手を
引ッ
込めた。
「
堪忍しておくんなさい」
「
何もあやまるこたァありゃァしねえ。
暗くッて
書けねえというンなら、
仕方がねえ。
行燈をつけてやる」
「もし。
||」
今度はおせんが、千
吉の
手をおさえた。
「
何をするんだ」
「あたしゃ、どうでもいやでござんす」
「そんならこれ
程までに、
頭をさげて
頼んでもか」
「
外のこととは
訳が
違い、あたしゃ
数あるお
客のうちでも、いの一
番に
嫌いなお
人、たとえ
嘘でも
冗談でも、
気の
済まないことはいやでござんす」
「おせん。おめえ、
兄貴を
見殺しにするつもりか」
「
何んとえ」
「おめえがいやだとかぶりを
振りゃァ、おいらは
人から
預かった、
大事な
金を
落としたかどで、いやでも
明日は
棒縛りだ。
||そいつもよかろう。おめえはかげで
笑っていねえ」
「
兄さん」
「もう
何んにも
頼まねえ。これから
帰って
縛られようよ」
千
吉は、わざとやけに
立上って
窓辺へつかつかと
歩み
寄った。
突然隣座敷から、お
岸のすすり
泣く
声が、
障子越しに
聞えて
来た。
文 一
「
若旦那、もし、
油町の
若旦那」
「おお、お
前は千
吉つぁん」
「そんなに
急いで、どこへおいでなせえやす」
「お
前のとこさ」
「何、あっしンとこでげすッて。
||あっしンとこなんざ、
若旦那においでを
願うような、そんな
気の
利いた
住居じゃござんせん。
火口箱みてえな、ちっぽけな
棟割長屋なんで。
······」
「
小さかろうが、
大きかろうが、そんなことは
考えちゃいられないよ」
「
何んと
仰しゃいます」
「あたしゃお
前に
頼んだ
返事を、
聞かせてもらいに、
往くところじゃないか」
「はッはッは。それでわざわざお
運び
下さろうッてんでげすか。これぁどうも
恐れいりやした。そのことなら、どうかもう
御心配は、
御無用になすっておくんなさいまし」
「おお、そんなら千
吉さん、おせんの
返事を。
||」
「
憚りながら、いったんお
引受け
申しやした
正直千
吉、お
約束を
違えるようなこたァいたしやせん」
「
済まない。あたしはそうとは
思っていたものの、これがやっぱり
恋心か。ちっとも
速く
返事が
聞き
度くて、
帳場格子と二
階の
間を、九十九
度も
通った
挙句、とうとう
辛抱が
出来なくなったばっかりに、ここまで
出向いて
来た
始末さ。そうと
極ったら、どうか
直ぐに
色よい
返事を
聞かせておくれ」
「ま、ま、
待っておくんなせえやし。そんなにお
急ンならねえでも、おせんの
返事は、
直ぐさまお
聞かせ
申しやすが、ここは
道端、
誰に
見られねえとも
限りやせん。
筋の
通ったいい
所で、ゆっくりお
目にかけようじゃござんせんか」
「そりゃもう、いずれ
おまんまでも
食べながら、ゆっくり
見せてもらおうが、まず
文の
上書だけでも、ここでちょいと、のぞかせておくれでないか」
「
御安心くださいまし。
上書なんざ二の
次三の
次、
中味から
封じ
目まで、おせんの
手に
相違はございません。あいつァ七八つの
時分から、
手習ッ
子の
仲間でも、一といって二と
下ったことのねえ
手筋自慢。あっしゃァ
質屋の
質の
字と、
万金丹の
丹の
字だけしきゃ
書けやせんが、おせんは
若旦那のお
名前まで、ちゃァんと四
角い
字で
書けようという、
水茶屋女にゃ
惜しいくらいの
立派な
手書き。
||この
通り、あっしがふところに
預かっておりやすから、どうか
親船に
乗った
気で、おいでなすっておくんなせえやし」
「
安心はしているけれど、ちっとも
速く
見たいのが
人情じゃないか。
野暮をいわずに、ちょいとでいいから、ここでお
見せよ」
「
堪忍しておくんなさい。
道ッ
端ではお
目にかけねえようにと、こいつァ
妹からの、
堅い
頼みでござんすので。
······」
「はてまァ、
何んという
野暮だろうのう」
「どうか
察しておやンなすって。おせんにして
見りゃ、
自分から
文を
書いたな
始めての、いわば
初恋とでも
申しやしょうか。はずかしい
上にもはずかしいのが
人情でげしょう。
道ッ
端で
展げたとこを、ひょっと
誰かに
見られた
日にゃァ、それこそ
若旦那、
気の
弱いおせんは、どんなことになるか、
知れたもんじゃござんせん。
野暮は
承知の
上でござんす。どうか、ここンところをお
察しなすって
······」
谷中から
上野へ
抜ける、
寛永寺の
土塀に
沿った一
筋道、
光琳の
絵のような
桜の
若葉が、
道に
敷かれたまん
中に
佇んだ、
若旦那徳太郎とおせんの
兄の千
吉とは、
折からの
夕陽を
浴びて、
色よい
返事を
認めたおせんの
文を、
見せろ
見せないのいさかいに、しばし
心を
乱していたが、この
上の
争いは
無駄と
察したのであろう。やがて
徳太郎は
細い
首をすくめた。
「あたしゃ
気が
短いから、どこへ
行くにしても、とても
歩いちゃ
行かれない。千
吉つぁん、
直ぐに
駕籠を
呼んでもらおうじゃないか」
「
合点でげす」
千
吉は
二つ
返事で
頷いた。
二
徳太郎と千
吉とが、
不忍池畔の
春草亭に
駕籠を
停めたのは、それから
間もない
後だった。
徳太郎は
女中の
案内も
待たず、
駆け
込むように千
吉の
手をとって、
奥の
座敷へ
連れ
込んだ。
「さ、千
吉さん」
「へえ」
「
早くお
見せ」
「
何をでござんす」
「おや、
何をはあるまい。おせんのふみじゃないか」
「おそうだ。これはすっかり
忘れて
居りやした」
「お
前は
道端じゃ
見せられないというから、わざわざ
駕籠を
急がせて、ここまで
来たんだよ。さ
大事な
文を、
少しでも
速く
見せてもらいましょう」
「お
見せいたしやす」
「
口ばっかりでなく、
速くお
出しッたら」
「
出しやす。
||が、ちょいとお
待ちなすっておくんなさい。その
前に、あっしゃァ
若旦那に、ひとつお
願い
申してえことがござんすので。
······」
「
何んだえ、あらたまって。
||」
「
実ァその、おせんの
奴から。
······」
「なに、おせんから、あたしに
頼みとの」
「へえ」
「そんならなぜ、もっと
早くいわないのさ」
「
申上げたいのは
山々でござんすが、ちと
厚かましい
筋だもんでげすから、ついその、あっしの
口からも、
申上げにくかったような
訳でげして」
「
馬鹿な。つまらない
遠慮なんか、
水臭いじゃないか。そんな
遠慮はいらないから、いっとくれ。あたしでかなうことなら、どんな
願いでも、きっと
聞いてあげようから。
······」
「そりゃどうも。おせんに
聞かしてやりましたら、どれ
程喜ぶか
知れやァしません。
||ところで
若旦那」
「なにさ」
「そのお
願いと
申しますのは」
「その
頼みとは」
「お
金を。
||」
「
何んのことかと
思ったら、お
金かい。
憚りながら、あたしァ
江戸でも
人様に
知られた、
橘屋の
徳太郎、おせんの
頼みとあれば、
決していやとはいわないから、かまわずにいって
御覧。たとえどれ
程の
大金でも、あれのためなら、
首は
横にゃ
振らないつもりだよ」
「へえへえ、どうも
恐れいりやした。いやもう、おせん、おめえよく
捕ったぞ。これ
程の
鼠たァ、まさか
思っちゃ。
······」
「これ千
吉つぁん、
何をおいいだ。あたしのことを
鼠とは。
······」
「ど、どういたしやして、
鼠なんぞた
申しゃしません。
若旦那にはこれからも、
鼠のように、チウ
義をおつくし
申せと、こう
申したのでございます」
「お
前は
口が
上手だから。
······」
「
口はからきし
下手の
皮、
人様の
前へ
出たら、ろくにおしゃべりも
出来る
男じゃござんせんが、
若旦那だけは、どうやら
赤の
他人とは
思われず、ついへらへらとお
喋りもいたしやす。
||ねえ
若旦那。どうかおせんに、二十五
両だけ、
貸してやっておくんなせえやし」
「
何、二十五
両。
||」
「
江戸で
名代の
橘屋の
若旦那。二十五
両は、ほんのお
小遣じゃござんせんか」
千
吉はそういいながら、ふところ
深くひそませた、おせんのふみを
取りだした。
ありがたく
存じ
候 かしこ
せん より
若旦那さま
ふみのおもては、ただこれだけだった。
三
朝っぱらの
柳湯は、
町内の
若い
者と、
楊枝削りの
御家人と
道楽者の
朝帰りとが、
威勢のよしあしを
取まぜて、
柘榴口の
内と
外とにとぐろを
巻いたひと
時の、
辱も
外聞もない、
手拭一
本の
裸絵巻を
展げていたが、こんな
場合、
誰の
口からも
同じように
吐かれるのは、
何吉がどこの
賭場で
勝ったとか、どこそこのお
何が、
近頃誰にのぼせているとか、さもなければ
芝居の
噂、
吉原の
出来事、
観音様の
茶屋女の
身の
上など、おそらく
口を
開けば、一
様におのれの
物知りを、
少しも
速く
人に
聞かせたいとの
自慢からであろう。
玉のような
汗を
額にためながら、いずれもいい
気持でしゃべり
続ける
面白さ。
中には、
顔さえ
洗やもう
用はねえと、
流しのまん
中に
頑張って、四
斗樽のような
体を、あっちへ
曲げ、こっちへ
伸して、
隣近所へ
泡を
飛ばす
暇な
隠居や、
膏薬だらけの
背中を
見せて、
弘法灸の
効能を、
相手構わず
吹き
散す
半病人もある
有様。
湯屋は
朝から
寄合所のように
賑わいを
見せていた。
「
長兄イ。
聞いたか」
「
何を」
「
何をじゃねえ、千
吉がしこたま
儲けたッて
話をよ」
「うんにゃ。
聞かねえよ」
「
迂濶だな」
「だっておめえ、
知らねえもなァ
仕方がねえや。
||いってえ、あの
怠け
者が、どこでそんなに
儲けやがったたんだ」
「どこッたっておめえ、そいつが、てえそうな
いかさまなんだぜ」
「ふうん、
奴にそんな
器用なことが
出来るのかい」
「
相手がいいんだ」
「
椋鳥か」
「ちゃきちゃきの
江戸っ
子よ」
「はァてな、
江戸っ
子が、
奴の
いかさまに
引ッかかるたァおかしいじゃねえか」
「
いかさまッたって、おめえ、
丁半じゃねえぜ」
「ほう、
さいころじゃねえのかい」
「
女が
餌だ」
「
女。
||」
「
相手を
釣って
儲けたのよ」
「そいつァ
尚更初耳だ。
||その
相手ッてな、どこの
誰よ」
「
油町の
紙問屋、
橘屋の
若旦那だ」
「ほう、そいつァおもしれえ」
「あれだ。おもしれえは
気の
毒だぜ。千
吉は
妹のおせんを
餌にして、
若旦那から、二十五
両という
大金をせしめやがったんだ」
「なに二十五
両だって」
「どうだ。てえしたもんだろう」
「
冗談じゃねえ。二十五
両といやァ、
小判が二十五
枚だぜ。こいつが二
両とか、二
両二
分とかいうンなら、まだしも
話の
筋が
通るが、二十五
両は
飛んでもねえ。あいつの
首を
引換にしたって、
借りられる
金じゃァねえぜ。
冗談も
休み
休みいってくんねえ」
「ふん、
知らねえッてもなァおッかねえや。おいらァ
現にたった
今、この二つの
眼で、
睨んで
来たばかりなんだ。
山吹色で二十五
枚、
滅多に
見られる
かさじゃァねえて」
「ふふふふ、
金の
字。その
話をもうちっと
委しく
聞かせねえか」
そういいながら、
柘榴口から、にゅッと
首を
出したのは、
絵師の
春重だった。
「
春重さん、お
前さんいたのかい」
「いたから
顔を
出したんだがの。
大分話が
面白そうじゃねえか」
春重は、もう一
度ニヤリと
笑った。
四
「ふふふふ、
金の
字、なんで
急に
唖のように
黙り
込んじゃったんだ。
話して
聞かせねえな。どうせおめえの
腹が
痛む
訳でもあるめえしよ」
柘榴口から
流しへ
出て
来た
春重の
様子には、いつも
通りの、
妙な
粘りッ
気が
絡みついていて、
傘屋の
金蔵の
心持を、ぞッとする
程暗くさせずにはおかなかった。
「てえした
面白え
話でもねえからよ」
「なに
面白くねえことがあるもんか。二十五
両といやァ、おいらのような
貧乏人は、まごまごすると、
生涯お
目にゃぶら
下がれない
大金だぜ。そいつを
いかさまだか
さかさまだかにつるさげて、
物にしたと
聞いちゃァ、
志道軒の
講釈じゃねえが、
嘘にも
先を
聞かねえじゃいられねえからの。
||相手が
橘屋の
若旦那だったてえな、ほんまかい」
「おめえさん、それを
聞いてどうしようッてんだ」
顔をしかめて、
春重を
見守ったのは、
金蔵に
兄イと
呼ばれた
左官の
長吉であった。
「どうもしやァしねえがの。そいつがほんまなら、おいらもちっとばかり、
若旦那に
借りてえと
思ってよ」
「
若旦那に
借りるッて」
「まずのう。だが
安心しなよ。おいらの借りようッてな、二十五
両の三十
両のという、
大それた
訳のもんじゃねえ。ほんの二
分か一
両が
関の
山だ。それも
種や
仕かけで
取るようなけちなこたァしやァしねえ。
真証間違いなしの、
立派な
品物を
持ってって、
若旦那の
喜ぶ
顔を
見ながら、
拝借に
及ぼうッてんだ」
「そいつァ
駄目だ」
「なんだって」
「
駄目ッてことよ。
橘屋の
若旦那は、たとえお
大名から
拝領の
鎧兜を
持ってッたって、
金ァ貸しちゃァくれめえよ。
||あの
人の
欲しい
物ァ、
日本中にたったひとつ、
笠森おせんの
情より
外にゃ、ありゃァしねッてこった」
「だから、そのおせんの、
身から
分けた
物を、おいらァ
買ってもらいに
行こうッてえのよ」
「
身から
分けた
物。
||」
「そうだ。
他の
者が
望んだら、百
両でも
譲れる
品じゃねえんだが、
相手がおせんに
首ッたけの
若旦那だから、まず一
両がとこで
辛抱してやろうと
思ってるんだ」
「
春重さん。またお
前、つまらねえ
細工物でもこしらえたんだな」
「
冗談じゃねえ、こしらえたもンなんぞた、
天から
訳が違うンだぜ」
「
訳が
違うッたって、そんな
物がざらにあろうはずもなかろうじゃねえか」
「ところが、あるんだから
面白えや」
「そいつァいってえ、なんだってんだい」
「
爪よ」
「え」
「
爪だってことよ」
「
爪」
「その
通りだ。おせんの
身についてた、
嘘偽りのねえ
生爪なんだ」
「
馬、
馬鹿にしちゃァいけねえ。いくらおせんの
物だからッて、
爪なんざ、
何んの
役にもたちゃァしねえや。かつぐのもいい
加減にしてくんねえ」
「ふん、
物の
値打のわからねえ
奴にゃかなわねえの。
女の
身体についてるもんで、
年が
年中、
休みなしに
伸びてるもなァ、
髪の
毛と
爪だけだぜ。そのうちでも
爪の
方は、
三日見なけりゃ
目立って
伸びる
代物だ。
||指の
数で三百
本、
糠袋に
入れてざっと
半分よ。この
混じりッけのねえおせんの
爪が、たった
小判一
枚だとなりゃ、
若旦那が
猫のように
飛びつくなァ、
磨ぎたての
鏡でおのが
面を
見るより、はっきりしてるぜ」
春重のまわりには、いつか、ぐるりと
裸の
人垣が
出来ていた。
五
「千の
字。おめえ、いい
腕ンなったの」
「ふふふ」
「
笑いごっちゃねえぜ。二十五
両たァ、
大束に
儲けたじゃねえか」
「どこで、そいつを
聞いた」
「
壁に
耳ありよ。さっき、
通りがかりに
飛び
込んだ
神田の
湯屋で、
傘屋の
金蔵とかいう
奴が、てめえのことのように、
自慢らしく、みんなに
話して
聞かせてたんだ」
「あいつ、もうそんな
余計なことを
喋りゃがったかい」
「
喋ったの、
喋らねえの
段じゃねえや。
紙屋の
若旦那をまるめ
込んで。
||」
下総武蔵の
国境だという、
両国橋のまん
中で、ぼんやり
橋桁にもたれたまま、
薄汚い
婆さんが一
匹五
文で
売っている、
放し
亀の
首の
動きを
見詰めていた千
吉は、
通りがかりの
細川の
厩中間竹五
郎に、ぽんと
背中をたたかれて、
立て
続けに
聞かされたのが、
柳湯で、
金蔵がしゃべったという、
橘屋の一
件であった。
が、もう一
度竹五
郎が、
鼻の
頭を
引ッこすって、ニヤリと
笑ったその
刹那、
向うから
来かかった、八
丁堀の
与力井上藤吉の
用を
聞いている
鬼七を
認めた千
吉は、
素速く
相手を
眼で
制した。
「
叱ッ。いけねえ。
行っちめえねえ」
「
合点だ」
するりと
抜けるようにして、
竹五
郎が
行ってしまうと、はやくも
鬼七は、千
吉の
眼の
前に
迫っていた。
「千
吉。おめえ、こんなとこで、
何をうろうろしてるんだ」
「へえ。きょうは
親父の、
墓詣りにめえりやした。その
帰りがけでござんして。
······」
「
墓詣り」
「へえ」
「いつッから、そんな
心がけになったんだ」
「どうか
御勘弁を」
「
勘弁はいいが、
||丁度いい
所でおめえに
遭った。ちっとばかり
訊きてえことがあるから、つきあってくんねえ」
「へえ」
「びくびくするこたァありゃしねえ。こいつあこっちから
頼むんだから、
安心してついて
来ねえ」
鬼七と呼ばれてはいるが、
名前とはまったく
違った、すっきりとした
男前の、
結いたての
髷を
川風に
吹かせた
格好は、
如何にも
颯爽としていた。
折柄の
上潮に、
漫々たる
秋の
水をたたえた
隅田川は、
眼のゆく
限り、
遠く
筑波山の
麓まで
続くかと
思われるまでに
澄渡って、
綾瀬から千
住を
指して
遡る
真帆方帆が、
黙々と
千鳥のように
川幅を
縫っていた。
その
絵巻を
展げた
川筋の
景色を、
見るともなく
横目で
見ながら、千
吉と
鬼七は
肩をならべて、
静かに
橋の
上を
浅草御門の
方へと
歩みを
運んだ。
「千
吉、おめえ、おせんのところへは
出かけたろうの」
「どういたしやして。
妹にゃ、三
年この
方、てんで
会やァいたしません」
「ふふふ。つまらねえ
隠し
立ては
止めねえか。いまもいった
通り、おいらァおめえを、
洗い
立てるッてんじゃねえ。こっちの
用で
訊きてえことがあるんだ。
悪いようにゃしねえから、はっきり
聞かしてくんねえ」
「どんな
御用で。
······」
「おせんのとこへ、
菊之丞が
毎晩通うッて
噂を
聞き
込んだんだが、そいつをおめえは
知ってるだろうの」
こう
訊きながら、
鬼七の
眼は
異様に
光った。
六
鬼七の
問は、まったく千
吉には
思いがけないことであった。
||子供の
時分から
好きでこそあれ、
嫌いではない
菊之丞を、おせんがどれ
程思い
詰めているかは、いわずと
知れているものの、
今では
江戸一
番の
女形といわれている
菊之丞が、
自分からおせんの
許へ、それも
毎晩通って
来ようなぞとは、どこから
出た
噂であろう。
岡焼半分の
悪刷にしても、あんまり
話が
食い
違い
過ぎると、千
吉は
思わず
鬼七の
顔を
見返した。
「
何んで、そんな
不審そうな
顔をするんだ」
「
何んでと
仰しゃいますが、あんまり
親方のお
聞きなさることが、
解せねえもんでござんすから。
······」
「おいらの
訊くことが
解せねえッて。
||何が
解せねえんだ」
「
浜村屋は、おせんのところへなんざ、
命を
懸けて
頼んだって、
通っちゃくれませんや」
「おめえ、まだ
隠してるな」
「どういたしやして、
嘘も
隠しもありゃァしません。みんなほんまのことを
申上げて
居りやすんで。
······」
「千
吉」
「へ」
「おめえ、二三
日前に
行った
時、おせんが
誰と
話をしてえたか、そいつをいって
見ねえ」
「
話でげすって」
「そうだ。おせん
一人じゃなかったろう。たしか
相手がいたはずだ」
「お
袋が、
隣座敷にいた
外にゃ、これぞといって、
人らしい
者ァいやァいたしません」
「ふふふ、お七はいなかったか」
「お七ッ」
「どうだ、お七の
衣装を
着た
浜村屋が、ちゃァんと
一人いたはずだ。おめえはその
眼で
見たじゃねえか」
「ありゃァ
親方。
||」
「あれもこれもありゃァしねえ。おいらはそいつを
訊いてるんだ」
「
人形じゃござんせんか」
「とぼけちゃいけねえ。
人間を
人形と
見違える
程、
鬼七ァまだ
耄碌しちゃァいねえよ。ありゃァ
菊之丞に
違えあるめえ」
「
確にそうたァ
申上られねえんで。
······」
「おめえ、
眼が
上ったな。
判った。
||もういいから
帰ンな」
「
有難うござんすが、
||親方、あれがもしか
浜村屋だったら、どうなせえやすんで。
······」
「どうもしやァしねえ」
「どうもしねンなら、
何も。
||」
「
聞きてえか」
「どうか、お
聞かせなすっておくんなせえやし」
「
浜村屋は、
役者を
止めざァならねえんだ」
「
何んでげすッて」
「
口が
裂けてもいうじゃァねえぞ。
||南御町奉行の、
信濃守様の
妹御のお
蓮様は、
浜村屋の
日本一の
御贔屓なんだ」
「ではあの、
壱岐様からのお
出戻りの。
||」
「
叱っ。
余計なこたァいっちゃならねえ」
「へえ」
「さ、
帰ンねえ」
「
有難うござんす」
千
吉は、ふところの
小判を
気にしながら、ほっとして
頭を
下げた。
襟に
当る
秋の
陽は
狐色に
輝いていた。
七
無理やりに、
手習いッ
子に
筆を
握らせるようにして、たった二
行の
文ではあったが、いや
応なしに
書かされた、ありがたく
存じ
候かしこの十一
文字が
気になるままに、一
夜をまんじりともしなかったおせんは、
茶の
味もいつものようにさわやかでなく、まだ
小半時も
早い、
明けたばかりの
日差の
中を
駕籠に
揺られながら、
白壁町の
春信の
許を
訪れたのであった。
弟子の
藤吉から、おせんが
来たとの
知らせを
聞いた
春信は、
起き
出たばかりで
顔も
洗っていなかったが、とりあえず
画室へ
通して、
磁器の
肌のように
澄んだおせんの
顔を、じっと
見詰めた。
「
大そう
早いの」
「はい。
少しばかり
思い
余ったことがござんして、お
智恵を
拝借に
伺いました」
「
智恵を
貸せとな。はッはッは。これは
面白い。
智恵はわたしよりお
前の
方が
多分に
持合せているはずだがの」
「まァお
師匠さん」
「いや、それァ
冗談だが、いったいどんなことが
持上ったといいなさるんだ」
「あのう、いつもお
話しいたします
兄が、ゆうべひょっこり、
帰って
来たのでござんす」
「なに、
兄さんが
帰って
来たと」
「はい」
「よく
聞くお
前の
話では、千
吉とやらいう
兄さんは、まる三
年も
行方知れずになっていたとか。
||それがまた、どうして
急に。
||」
「
面目次第もござんせぬが、
兄さんは、お
宝が
欲しいばっかりに、
帰って
来たのだと、
自分の
口からいってでござんす」
「
金が
欲しいとの。したがまさか、お
前を
分限者だとは
思うまいがの」
「
兄さんは、あたしを
囮にして、よその
若旦那から、お
金をお
借り
申したのでござんす」
「ほう、
何んとして
借りた」
「いやがるあたしに
文を
書かせ、その
文を、二十五
両に、
買っておもらい
申すのだと、
引ッたくるようにして、どこぞへ
消え
失せましたが、そのお
人は
誰あろう、
通油町の、
橘屋の
徳太郎さんという、
虫ずが
走るくらい、
好かないお
方でござんす」
「そんなら千
吉さんは、
橘屋の
徳さんから、その
金を
借りて。
||」
「はい。
今頃はおおかた、どこぞお
大名屋敷のお
厩で、
好きな
勝負をしてでござんしょうが、
文を
御覧なすった
若旦那が、まッことあたしからのお
願いとお
思いなされて、
大枚のお
宝をお
貸し
下さいましたら、これから
先あたしゃ
若旦那から、どのような
難題をいわれても、
返す
言葉がござんせぬ。
||お
師匠さん。
何としたらよいものでござんしょう」
まったく
途方に
暮れたのであろう。
春信の
顔を
見あげたおせんの
瞼は、
露を
含んだ
花弁のように
潤んで
見えた。
「さァてのう」
腕をこまねいて、あごを
引いた
春信は、
暫し
己が
膝の
上を
見詰めていたが、やがて
徐に
首を
振った。
「
徳さんも、
人の
心の
読めない
程馬鹿でもなかろう。どのような
文句を
書いた
文か
知らないが、その
文一
本で、まさか二十五
両の
大金は
出すまいよ」
「それでも
兄さんは、ただの二
字でも三
字でも、あたしの
書いた
文さえ
持って
行けば、お
金は
右から
左とのことでござんした」
「そりゃ、いつのことだの」
「ゆうべでござんす」
おせんがもう一
度、
顔を
上げた
時であった。
突然障子の
外から、
藤吉の
声が
低く
聞えた。
「おせんさん、
大変なことができましたぜ。
浜村屋の
太夫が、
急病だってこった」
おせんは「はッ」と
胸が
詰まって、
直ぐには
口が
听けなかった。
夢 一
子、
丑、
寅、
卯、
辰、
巳、
||と、
客のない
上り
かまちに
腰をかけて、
独り十二
支を
順に
指折り
数えていた、
仮名床の
亭主伝吉は、いきなり、
息がつまるくらい
荒ッぽく、
拳固で
背中をどやしつけられた。
「
痛ッ。
||だ、だれだ」
「だれだじゃねえや、てえへんなことがおっ
始まったんだ。
子丑寅もなんにもあったもんじゃねえ。あしたッから、うちの
小屋は
開かねえかも
知れねえぜ」
火事場の
纏持のように、
息せき
切って
駆け
込んで
来たのは、
同じ
町内に
住む
市村座の
木戸番長兵衛であった。
伝吉はぎょっとして、もう一
度長兵衛の
顔を
見直した。
「な、なにがあったんだ」
「なにがも、かにがもあるもんじゃねえ、まかり
間違や、てえした
騒ぎになろうッてんだ。おめえンとこだって、
芝居のこぼれを
拾ってる
家業なら、
万更かかり
合のねえこともなかろう。
こけが
秋刀魚の
勘定でもしてやしめえし、
指なんぞ
折ってる
時じゃありゃァしねえぜ」
「いってえ、どうしたッてんだ、
長さん」
「おめえ、まだ
判らねえのか」
「
聞かねえことにゃ
判らねえや」
「なんて
血のめぐりが
悪く
出来てるんだ。
||浜村屋の
太夫が、
舞台で
踊ってたまま
倒れちゃったんだ」
「
何んだッてそいつァおめえ、
本当かい」
「おれにゃ、
嘘と
坊主の
頭ァいえねえよ。
||仮にもおんなじ
芝居の
者が、こんなことを、ありもしねえのにいって
見ねえ。それこそ
簀巻にして、
隅田川のまん
中へおッ
放り
込まれらァな」
「
長さん」
「ええびっくりするじゃねえか。
急にそんな
大きな
声なんざ、
出さねえでくんねえ」
「
何をいってるんだ。これがおめえ、こそこそ
話にしてられるかい。おいらァ
誰が好きだといって、
浜村屋の
太夫くれえ、
好きな
役者衆はねえんだよ。
芸がよくって
愛嬌があって、おまけに
自慢気なんざ
薬にしたくもねえッてお
人だ。
||どこが
悪くッて、どう
倒れたんだか、さ、そこをおいらに、
委しく
話して
聞かしてくんねえ」
どやしつけられた、
背中の
痛さもけろりと
忘れて、
伝吉は、
元結が
輪から
抜けて
足元へ
散らばったのさえ
気付かずに
夢中で
長兵衛の
方へ
膝をすり
寄せた。
「
丁度二
番目の、
所作事の
幕に
近え
時分だと
思いねえ。
知っての
通りこの
狂言は、三五
郎さんの
頼朝に、
羽左衛門さんの
梶原、それに
太夫は
鷺娘で
出るという、
豊前さんの
浄瑠璃としっくり
合った、
今度の
芝居の
呼び
物だろうじゃねえか。
はねに
近くなったって、お
客は
唯の
一人だって、
立とうなんて
料簡の
者ァねえやな。
舞台ははずむ、お
客はそろって一
寸でも
先へ
首を
出そうとする。いわば
紙一
重の
隙もねえッてとこだった。どうしたはずみか、
太夫の
踊ってた
足が、
躓いたようによろよろっとしたかと
思うと、あッという
間もなく、
舞台へまともに
突ッ
俯しちまったんだ。
||客席からは
浜村屋ッという
声が、
石を
投げるように
聞こえて
来るかと
思うと、
御贔屓の
泣く
声、
喚く
声、そいつが
忽ち
渦巻になって、わッわッといってるうちに、
道具方が
気を
利かして
幕を
引いたんだが、そりゃおめえ、ここでおれが
話をしてるようなもんじゃァねえ、
芝居中がひっくり
返るような
大騒ぎだ。
||そのうちに
頭取が
駆け
着ける、
弟子達が
集まるで、
倒れた
太夫を、
鷺娘の
衣装のまま
楽屋へかつぎ
込んじまったが、まだおめえ、
宗庵先生のお
許しが
出ねえから、
太夫は
楽屋に
寝かしたまま、
家へも
帰れねえんだ」
「よし、お
花、おいらに
羽織を
出してくんねえ」
伝吉は
突然こういって
立上った。
二
「お
前さん、どこへ
行くんだよ。
真ッ
昼間ッからお
見世を
空けて
出て
行ったんじゃ、お
客様に
申訳がないじゃないか。
太夫さんとこへお
見舞に
行くなら、
日が
暮れてからにしとくれよ。
||ようッてば」
下剃一人をおいて
出られたのでは、
家業に
障ると
思ったのであろう。一
張羅の
羽織を、
渋々箪笥から
出して
来たお
花は、
亭主の
伝吉の
袖をおさえて、
無理にも
引止めようと
顔を
窺き
込んだ。
が、
伝吉は、いきなり
吐きだすように
けんのみを
食わせた。
「
馬鹿野郎。
何をいってやがるんだ。
亭主のすることに、
女なんぞが
口を
出すこたァねえから
黙って
引ッ
込んでろ。
外のことならともかく、
太夫が
急病だッてのを、そのままにしといたんじゃ、
世間の
奴等になんていわれると
思うんだ。
仮名床の
伝吉の
奴ァ、ふだん
浜村屋が
好きだの
蜂の
頭だのと、
口幅ッてえことをいってやがるくせに、なんてざまなんだ。
手間が
惜しさに
見舞にも
行かねえしみッたれ
野郎だ、とそれこそ
口をそろえて
悪くいわれるなァ、
加賀様の
門よりもよく
判ってるぜ。
||つまらねえ
理屈ァいわねえで、
速く
羽織を
着せねえかい。こうなったり一
刻だって、
待てしばしはねえんだ」
お
花の
手から
羽織を
引ッたくった
伝吉は、
背筋が二
寸も
曲がったなりに
引ッかけると、もう一
度お
花の
手を
振りもぎって、
喧嘩犬のように、
夢中で
見世を
飛び
出した。
「
待ちねえ、
伝さん」
長兵衛は
背後から
声をかけた。
「
何んの
用だ」
「
用じゃァねえが、おかみさんもああいうンだから、
晩にしたらどうだ。どうせいま
行ったって、
会えるもんでもねえンだから。
||」
「ふん、おめえまで、
余計なことはおいてくんねえ。おいらの
足でおいらが
歩いてくんだ。どこへ
行こうが
勝手じゃねえか」
「ほう、
大まかに
出やァがったな。
話をしたなァおれなんだぜ。
行くんなら、せめておれの
髯だけでもあたッてッてくんねえ」
「
髯は
帰って
来てからだ」
「
帰って
来てからじゃ、
間に
合わねえよ」
「
間に
合わなかったら、どこいでも
行って、やってもらって
来るがいいやな。
||ええもう
面倒臭え、四の五のいってるうちに、
日が
暮れちまわァ」
前つぼの
固い
草履の
先で
砂を
蹴って、一
目散に
駆け
出した
伝吉は、
提灯屋の
角まで
来ると、ふと
立停って
小首を
傾げた。
「
待てよ。こいつァ
市村座へ
行くより
先に、もっと
大事なところがあるぜ。
||そうだ。まだおせんちゃんが
知らねえかもしれねえ。こんな
時に
人情を
見せてやるのが、
江戸ッ
子の
腹の
見せどこだ。よし、ひとつ
駕籠をはずんで、
谷中まで
突ッ
走ってやろう」
大きく
頷いた
伝吉は、
折から
通り
合せた
辻駕籠を
呼び
止めて、
笠森稲荷の
境内までだと、
酒手をはずんで
乗り
込んだ。
「
急いでくんねえよ」
「ようがす」
「
急病人の
知らせに
行くんだからの」
「
合点だ」
返事は
如何にも
調子がよかったが、
肝腎の
駕籠は、一
向突ッ
走ってはくれなかった。
「ちぇッ。
吉原だといやァ、
豪勢飛びゃァがるくせに、
谷中の
病人の
知らせだと
聞いて、
馬鹿にしてやがるんだろう。
伝吉ァただの
床屋じゃねえんだぜ。
当時江戸で
名高え
笠森おせんの、
襟を
剃るなァおいらより
外にゃ、
広い
江戸中に
二人たねえんだ」
伝吉が
駕籠の
中で
鼻の
頭を
引ッこすってのひとり
啖呵も、
駕籠屋には
少しの
効き
目もないらしく、
駕籠の
歩みは、
依然として
緩やかだった。
三
床屋の
伝吉が、
笠森の
境内へ
着いたその
時分、
春信の
住居で、
菊之丞の
急病を
聞いたおせんは
無我夢中でおのが
家の
敷居を
跨いでいた。
「お
母さん」
「おやおまえ、どうしたというの、
何かお
見世にあったのかい」
今ごろ
帰って
来ようとは、
夢にも
考えていなかったお
岸は、
慌しく
駆け
込んで
来たおせんの
姿を
見ると、まず、
怪我でもしたのではないかと、
穴のあく
程じッと
見詰めながら、
静かに
肩へ
手をかけたが、いつもと
様子の
違ったおせんは、
母の
手を
振り
払うようにして、そのまま
畳ざわりも
荒く、おのが
居間へ
駆け
込んで
行った。
「どうおしだよ、おせん」
「お
母さん、あたしゃ、どうしよう」
「まァおまえ。
······」
「
吉ちゃんが、
||あの
菊之丞さんが、
急病との
事でござんす」
「なんとえ。
太夫さんが
急病とえ。
||」
「あい。
||あたしゃもう、
生きてる
空がござんせぬ」
「
何をおいいだえ。そんな
気の
弱いことでどうするものか。
人の
口は、どうにでもいえるもの。
急病といったところが、どこまで
本当のことかわかったものではあるまいし。
······」
「いえいえ、
嘘でも
夢でもござんせぬ。あたしゃたしかに、この
耳で
聞いて
来ました。これから
直ぐに
市村座の
楽屋へお
見舞に
行って
来とうござんす。お
母さん、そのお七の
衣装を
脱がせておくんなさいまし」
「えッ、これをおまえ」
「
吉ちゃんが、
去年の
芝居が
済んだ
時、
黙って
届けておくんなすったお七の
衣装、あたしに
着ろとの
謎でござんしょう」
「それでもこれは。
||」
「お
母さん」
おせんは、
部屋の
隅に
立てかけてある
人形の
傍へ、
自分から
歩み
寄ると、いきなり
帯に
手をかけて、まるで
芝居の
衣装着けがするように、
如何にも
無造作に
衣装を
脱がせ
始めた。
「お
止し」
「いいえ、もう
何んにもいわないでおくんなさい。あたしゃお七とおんなじ
心で、
太夫に
会いに
行きとうござんす」
ばらりと
解いたお七の
帯には、
夜毎に
焚きこめた
伽羅の
香りが
悲しく
籠って、
静かに
部屋の
中を
流れそめた。
「ああ。
||」
おせんはその
帯を、ずッと
胸に
抱きしめた。
「おせんや」
お
岸は
優し
眼をふせた。
「あい」
「おまえ、
一人で
行く
気かえ」
「あい」
衣装を
脱がせて、
襦袢を
脱がせて、
屏風のかげへ
這入ったおせんは、
素速くおのが
着物と
着換えた。と、この
時格子戸の
外から
降って
湧いたように、
男の
声が
大きく
聞えた。
「おせんさん、
仮名床の
伝吉でござんす。
浜村屋の
太夫さんが、
急病と
聞いて、
何より
先にお
知らせしてえと、
駕籠を
飛ばしてやってめえりやした。
笠森様においでがねえんでこっちへ
廻って
来やした
始末。ちっとも
速く、
葺屋町へ
行っとくンなせえやし」
「
親方、その
駕籠を、
待たせといておくんなさい」
「
合点でげす」
おせんの
声は、いつになく
甲高かった。
四
人目を
避けるために、わざと
蓙巻を
深く
垂れた
医者駕籠に
乗せて、
男衆と
弟子の
二人だけが
付添ったまま、
菊之丞の
不随の
体は、その
日の
午近くに、
石町の
住居に
運ばれて
行った。
が、たださえ
人気の
頂点にある
菊之丞が、
舞台で
倒れたとの
噂は、
忽ち
人から
人へ
伝えられて、
今は
江戸の
隅々まで、
知らぬは
こけの
骨頂とさえいわれるまでになっていた。
他目からは、どう
見ても
医者の
見舞としか
想われなかった
駕籠の
周囲は、いつの
間にやら五
人十
人の
男女で、百
万遍のように
取囲んで、
追えば
追う
程、その
数は
増して
来るばかりであった。
「ちょいとお
前さん、
何んだってあんなお
医者の
駕籠に、くッついて
歩いているのさ」
「なんだ
神田の、
明神様の
石の
鳥居じゃないが、お
前さんも
きがなさ
過ぎるよ。ありゃァただのお
医者様の
駕籠じゃないよ」
「だってお
辰つぁん、どう
見たって。
······」
「
叱ッ、
静かにおしなね。あン
中にゃ、
浜村屋の
太夫さんが
乗ってるんだよ」
「
浜村屋の
太夫さん。
||」
「そうさ。きのう
舞台で
倒れたまま、
今が
今まで、
楽屋で
寝てえたんじゃないか。それをお
前さん、どうでも
家へ
帰りたいと
駄々をこねて、とうとうあんな
塩梅式に、お
医者と
見せて
帰る
途中だッてことさ」
「おやまァ、そんならそこを
退いとくれよ」
「なぜ」
「あたしゃ
駕籠の
傍へ
行って、せめて
太夫さんに、一
言でもお
見舞がいいたいンだから。
······」
「
何をいうのさ。
太夫は
大病人なんだよ。ちっとだッて
騒いだりしちゃァ、
体に
障らァね。一
緒について
行くなァいいが、こッから
先へは
出ちゃならねえよ」
「いいから
退いとくれッたら」
「おや
痛い、
抓らなくッてもいいじゃないか」
「
退かないからさ」
「おや、また
抓ったね」
髪結のお
辰と、
豆腐屋の
娘のお
亀とが、いいのいけないのと
争っているうちに、
駕籠は
更に
多くの
人数に
取巻かれながら、
芳町通りを
左へ、おやじ
橋を
渡って、
牛の
歩みよりもゆるやかに
進んでいた。
菊之丞の
駕籠を一
町ばかり
隔てて、あたかも
葬式でも
送るように
悵然と
首を
垂れたまま、一
足毎に
重い
歩みを
続けていたのは、
市村座の
座元羽左衛門をはじめ、
坂東彦三
郎、
尾上菊五
郎、
嵐三五
郎、それに
元服したばかりの
尾上松助などの一
行であった。
いずれも
編笠で
深く
顔を
隠したまま、
眼をしばたたくのみで、
互に一
言も
発しなかったが、
急に
何か
思いだしたのであろう。
羽左衛門は、
寂しく
眉をひそめた。
「
松助さん」
「はい」
「お
前さんは、
折角だが、ここから
帰る
方がいいようだの」
「なぜでございます」
「
不吉なことをいうようだが、
浜村屋さんはひょっとすると、あのままいけなくなるかも
知れないからの」
「ええ
滅相な。
左様なことがおますかいな」
そういって
眼をみはったのは
嵐三五
郎であった。
「いや、わたしとて、
太夫に
元のようになってもらいたいのは
山々だが、
今までの
太夫の
様子では、どうも
難かしかろうと
思われる。
縁起でもないことだが、ゆうべわたしは、
上下の
歯が一
本残らず、
脱けてしまった
夢を
見ました。
情ないが、
所詮太夫は
助かるまい」
羽左衛門はそういって、
寂しそうに
眉をひそめた。
五
夢から
夢を
辿りながら、
更に
夢の
世界をさ
迷い
続けていた
菊之丞は、ふと、
夏の
軒端につり
残されていた
風鈴の
音に、
重い
眼を
開けてあたりを
見廻した。
医者の
玄庵をはじめ、
妻のおむら、
座元の
羽左衛門、三五
郎、
彦三
郎、その
他の
人達が、ぐるりと
枕許に
車座になって、
何かひそひそと
語り
合っている
声が、
遠い
国の
出来事のように
聞えていた。
「おお、あなた。
||」
最初におむらが、
声をかけた。が、
菊之丞の
心には、
声の
主が
誰であるのか、まだはっきり
映らなかったのであろう。きょろりと一
度見廻したきり、
再び
眼を
閉じてしまった。
玄庵は
徐かに
手を
振った。
「どなたもお
静かに。
||」
「はい」
急に
水を
打ったような
静けさに
還った
部屋の
中には、ただ
香のかおりが、
低く
這っているばかりであった。
玄庵は、
夜着の
下へ
手を
入れて、かるく
菊之丞の
手首を
掴んだまま
首をひねった。
「
先生、
如何でございます」
「
脈に
力が
出たようじゃが。
······」
「それはまァ、うれしゅうござんす」
「だが
御安心は
御無用じゃ。いつ
何時変化があるか
判らぬからのう」
「はい」
「お
見舞の
方々も、
次の
間にお
引取りなすってはどうじゃの、
御病人は、
出来るだけ
安静に、
休ませてあげるとよいと
思うでの」
「はいはい」と
羽左衛門が
大きくうなずいた。「
如何にも
御もっともでございます。
||では、ここはおかみさんにお
願い
申して、
次へ
下っていることにいたしましょう」
「それがようござる。
及ばずながら
愚老が
看護して
居る
以上、
手落はいたさぬ
考えじゃ」
「
何分共にお
願い
申上げます」
一
同は
足音を
忍ばせて、
襖の
開けたてにも
気を
配りながら、
次の
間へ
出て
行った。
暫し、
鉄瓶のたぎる
音のみが、
部屋のしじまに
明るく
残された。
「
御内儀」
玄庵の
声は、
低く
重かった。
「はい」
「お
気の
毒でござるが、
太夫はもはや、一
時の
命じゃ」
「えッ」
「いや
静かに。
||ただ
今、
脈に
力が
出たようじゃと
申上げたが、
実は
他の
方々の
手前をかねたまでのこと。
心臓も、
微かに
温みを
保っているだけのことじゃ」
「それではもはや」
おむらの、
今まで
辛抱に
辛抱を
重ねていた
眼からは、
玉のような
涙が、
頬を
伝って
溢れ
落ちた。
やがて、
香煙を
揺がせて、
恐る
恐る
襖の
間から
首を
差出したのは、
弟子の
菊彌だった。
「お
客様でございます」
「どなたが」
「
谷中のおせん
様」
「えッ、あの
笠森の。
······」
「はい」
「
太夫は
御病気ゆえ、お
目にかかれぬと、お
断りしておくれ」
するとその
刹那、ぱっと
眼を
開いて
菊之丞の、
細い
声が
鋭く
聞えた。
「いいよ。いいから、ここへお
通し。
||」
六
初霜を
避けて、
昨夜縁に
上げられた
白菊であろう、
下葉から
次第に
枯れてゆく
花の
周囲を、
静かに
舞っている一
匹の
虻を、
猫が
頻りに
尾を
振ってじゃれる
影が、
障子にくっきり
映っていた。
その
虻の
羽音を、
聞くともなしに
聞きながら、
菊之丞の
枕頭に
座して、じっと
寝顔に
見入っていたのは、お七の
着付もあでやかなおせんだった。
紫の
香煙が、ひともとすなおに
立昇って、
南向きの
座敷は、
硝子張の
中のように
暖かい。
七
年目で
会った、たった
二人の
世界。
殆んど一
夜のうちに
生気を
失ってしまった
菊之丞の、なかば
開かれた
眼からは、
糸のような
涙が一
筋頬を
伝わって、
枕を
濡らしていた。
「おせんちゃん」
菊之丞の
声は、わずかに
聞かれるくらい
低かった。
「あい」
「よく
来てくれた」
「
太夫さん」
「
太夫さんなぞと
呼ばずに、やっぱり
昔の
通り、
吉ちゃんと
呼んでおくれな」
「そんなら、
吉ちゃん。
||」
「はい」
「あたしゃ、
会いとうござんした」
「あたしも
会いたかった。
||こういったら、お
前さんはさだめし、
心にもないことをいうと、お
想いだろうが、決して
嘘でもなけりゃ、お
世辞でもない。
||知っての
通り、あたしゃどうやら
人気も
出て、
世間様からなんのかのと、いわれているけれど、
心はやっぱり十
年前もおなじこと。
義理でもらった
女房より、
浮気でかこった
女より、
心から
思うのはお
前の
身の
上。
暑いにつけ、
寒いにつけ、
切ない
思いは、いつも
谷中の
空に
通ってはいたが、
今ではお
前も
人気娘、うっかりあたしが
訪ねたら、あらぬ
浮名を
立てられて、さぞ
迷惑でもあろうかと、きょうが
日まで、
辛抱して
来ましたのさ」
「
勿体ない、
太夫さん。
||」
「いいえ、
勿体ないより、
済まないのはあたしの
心。
役者家業の
憂さ
辛さは、どれ
程いやだとおもっても、
御贔屓からのお
迎えよ。お
座敷よといわれれば、三
度に一
度は
出向いて
行って、
笑顔のひとつも
見せねばならず、そのたび
毎に、ああいやだ、こんな
家業はきょうは
止そうか、
明日やめようかと
思うものの、さて
未練は
舞台。このまま
引いてしまったら、
折角鍛えたおのが
芸を、
根こそぎ
棄てなければならぬ
悲しさ。それゆえ、
秋の
野に
鳴く
虫にも
劣る、はかない
月日を
過ごして
来たが、
······おせんちゃん。それもこれも、
今はもうきのうの
夢と
消えるばかり。
所詮は
会えないものと、あきらめていた
矢先、ほんとうによく
来てくれた。あたしゃこのまま
死んでも、
思い
残すことはない。
||」
「もし、
吉ちゃん」
「おお」
「しっかりしておくんなさい。
羞かしながら、お
前がなくてはこの
世の
中に、
誰を
思って
生きようやら、おまえ
一人を、
胸にひそめて
来たあたし。あたしに
死ねというのなら、たった
今でも、
身代りにもなりましょう。
||のう
吉ちゃん。たとえ一
夜の
枕は
交さずとも、あたしゃおまえの
女房だぞえ。これ、もうし
吉ちゃん。
返事のないのは、
不承知かえ」
一
膝ずつ
乗出したおせんは、
頬がすれすれになるまでに、
菊之丞の
顔を
覗き
込んだが、やがてその
眼は、
仏像のようにすわって
行った。
「
吉ちゃん。
||太夫さん。
||」
「お、せ、ん
||」
「ああ、もし」
おせんは、
次第に
唇の
褪せて
行く
菊之丞の
顔の
上に、
涙と
共に
打ち
伏してしまった。
隣座敷から、
俄に
人々の
立つ
気配がした。
七
二
代目瀬川菊之丞の
死が
報ぜられたのは、その
日の
暮れ
方近くだった。
江戸の
民衆は、
去年の
吉原の
大火よりも、
更に
大きな
失望の
淵に
沈んだが、
中にも
手中の
珠を
奪われたような、
悲しみのどん
底に
落ち
込んだのは、
菊之丞でなければ
夜も
日もあけない
各大名や
旗本屋敷の
女中達だった。
殊に、この
知らせを
受けて、
天地が
覆えった
程の
驚愕を
覚えたのは、
南町奉行本多信濃守の
妹お
蓮であろう。
折から
夕餉の
膳に
対おうとしていたお
蓮は、
突然手にした
箸を
取落すと、そのまま
狂気したように、ふらふらッと
立上って、
跣足のまま
庭先へと
駆け
降りて
行った。
二三
人の
侍女が、
直ぐさまその
後を
追った。
「もし、お
嬢様。お
危のうござります」
「
何をするのじゃ。
放しや」
「どちらへおいで
遊ばします」
「
知れたことじゃ。これから
直ぐに、
浜村屋の
許へまいる」
「これはまあ、
滅相なことを
仰しゃいます」
「
何が
滅相なことじゃ、わらわがまいって、
浜村屋の
病気を
癒して
取らせるのじゃ。
||邪間だてせずと、そこ
退きゃ」
「なりませぬ」
「ええもう、
退きゃというに、
退かぬか」
手荒く
突き
退けられた
一人の
侍女は、
転びながらも、お
蓮の
裾を
確と
押えた。
「お
嬢様。お
気をお
静め
遊ばしまして。
······」
「いらぬことじゃ。
放せ」
「いいえお
放しいたしませぬ。
今頃お
出まし
遊ばしましては、お
身分に
係わりまする。もしまた、たってお
出まし
遊ばしますなら、一
応わたくし
共から
御家老へ、その
由お
伝えいたしませねば。
······」
「くどいわ。
放せというに、
放さぬか」
夢中で
振り
払ったお
蓮の
片袖は、
稲穂のように
侍女の
手に
残って、
惜し
気もなく
土を
蹴ってゆく
白臘の
足が、
夕闇の
中にほのかに
白かった。
「もし、お
嬢様。
||」
池を
廻って、
築山の
裾を
走るお
蓮の
姿は、
狐のように
速かった。
「それ、
向うから。
||」
「あちらへお
廻り
遊ばしました」
男気のない
奥庭に、
次第に
数を
増した
女中達は、お
蓮の
姿を
見失っては一
大事と
思ったのであろう。
老も
若きもおしなべて、
庭の
木戸へと
歩を
乱した。
が、
必死に
駆け
着けた
庭の
木戸には、もはやお
蓮の
姿は
見られなかった。
「お
嬢様。
||」
「お
待ち
遊ばせ」
しかも、
年に一
度も、
駆けたことなどのないお
蓮は、
庭木戸を
出は
出たものの、
既に
脚が
釣るまでに
疲れ
果てて、
口の
中で
菊之丞の
名を
呼びながら、
今はもはや
堪えられない
歩みを、いずくへとのあてもなしに、
無理から
先へ
先へと
運んでいた。
「
||浜村屋、
待ちや。わらわを
置いて、そなたばかりがどこへ
行く。
||そりゃ
聞こえぬぞ。わらわも一
緒じゃ。そなたの
行きやるところなら、
地獄の
極へなりと、いといはせぬ。
連れて
行きゃ。
速う
連れて
行きゃ」
二十一で
坂部壱岐守へ
嫁いで八
年目に
戻って
来た。
既に三十の
身ではあったが、十四五の
頃から
早くも
本多小町と
謳われたお
蓮は、まだ
漸く二十四五にしか
見えず、いずれかといえば
妖艶なかたちの、
情熱に
燃えた
眼を
据えて、
夕闇の
中を
音もなく
歩いてゆく
様は、ぞッとする
程凄かった。
八
いずこの
大名旗本の
屋敷に、
如何なる
騒ぎが
持上っていようとも、それらのことは、まったく
別の
世界の
出来事のように、
菊之丞の
家は、
静かにしめやかであった。
座元をはじめ、あらゆる
芝居道の
人達はいうまでもなく、
贔屓の
人々、
出入のたれかれと、百を
越える
人数は、
仕切りなしに
押し
寄せて、さしも
豪奢を
誇る
住居も
所狭きまでの
混雑を
見ていたが、しかも
菊之丞の冷たいむくろを
安置した八
畳の
間には、
妻女のおむらさえ
入れないおせんがただ
一人、
首を
垂れたまま、
黙然と
膝の
上を
見詰めていた。
ふと、おせんの
固く
結んだ
唇から、
低い、
微かな
声が
漏れた。
「
吉ちゃん。おかみさんや、ほかの
人達にお
願いして、あたしがたった
一人、お
前の
枕許へ
残してもらったのは、十
年前の、
飯事遊びが、
忘れられないからでござんす。
||みんなして、
近所の
飛鳥山へ、お
花見に
出かけたあの
時、いつもの
通り、あたしとお
前とは
夫婦でござんした。
幔幕を
張りめぐらした、どこぞの
御大家の
中へ、
迷い
込んだあたし
達は、それお
前も
覚えてであろ。
絵にあるような
綺麗な、お
嬢様に
何やかやと
御馳走を
頂戴した
挙句、お
化粧直しの
幕の
隅で、あたしはお
前に、お
前はあたしに、
互にお
化粧をしあって、この
子達、もう
小十
年も
経ったなら、きっと
惚れ
惚れするように
美しくなるであろうと、お
世辞にほめて
頂いた、あの
夢のような
日のことが、いまだにはっきり
眼に
残って
······吉ちゃん。あたしゃ今こそお
前に、
精根をつくしたお
化粧を、してあげとうござんす。
||紅白粉は、
家を
出る
時袱紗に
包んで
持って
来ました。あたしの
遣いふるしでござんすが、この
紅筆は、お
前が
王子を
越す
時に、あたしにおくんなすった。今では
形見。
役者衆の、お
前のお
気に
入るように
出来ますまいけれど、
辛抱しておくんなさい。せめてもの、あたしの
心づくしでござんす」
北を
枕に、
静かに
眼を
閉じている
菊之丞の、
女にもみまほしいまでに
美しく
澄んだ
顔は、
磁器の
肌のように
冷たかった。
白粉刷毛を
持ったおせんの
手は、
名匠が
毛描きでもするように、その
上を
丹念になぞって
行った。
眼、
口、
耳。
||真白に
塗りつぶされたそれらのかたちが、
間もなく
濡手拭で、おもむろにふき
清められると、やがて
唇には
真紅のべにがさされて、
菊之丞の
顔は
今にも
物をいうかと
怪しまれるまでに、
生々と
蘇った。
おせんは、じッとその
顔に
見入った。
「
吉ちゃん。
||もし、
吉ちゃん」
次第におせんの
声は、
高かった。
呼べば
答えるかと
思われる
口許は、
心なしか、
寂しくふるえて
見えた。
「
||あたしゃ、これから
先も、きっとおまえと一
緒に、
生きて
行くでござんしょう。おまえもどうぞ、
魂だけはいつまでも、あたしの
傍にいておくんなさい。あたしゃ千
人万人の
人からいい
寄られても、
死ぬまで
動きはいたしませぬ。
||もし、
吉ちゃん。
······」
ぽたりと
落ちたおせんの
涙は、
菊之丞の
頬をぬらした。
「これはまァ
折角お
化粧したお
顔へ。
······」
おせんはもう一
度、
白粉刷毛を
手に
把った。と、
次の
間から
聞えて
来たのは、
妻女のおむらの
声だった。
「おせんさん」
「は、はい。
||」
「お
焼香のお
客様がお
見えでござんす。よろしかったら、お
通し
申します」
「はい、どうぞ。
||」
あわてて
枕許から
引き
下がったおせんの
眼に、
夜叉の
如くに
映ったのは、
本多信濃守の
妹お
蓮の
剥げるばかりに
厚化粧をした
姿だった。
おせん (おわり)