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支那の狸汁

佐藤垢石




 晋の時代である。燕の恵王の陵の近所に千年をへた古狸が棲んでいた。千年も寿命を保ったのであるから、神通力の奥義に達し、変化の術はなんでも心得ている。

 大入道や一つ目小僧などに化けて、村の百姓をおびやかすのは、狸界における末輩の芸当だ。そんなのは、とうの昔に卒業している。つまり、自分は狸界の上層部にあって、指導者の最高峰であり、実力の保持者だ。

 だから自分は、学者と経書詩文を論じ、その優劣を争って、人間に一泡吹かしてみなければ興味が薄い。

 と途方もない野望を抱いたのである。そして、美青年に化けて、立派な馬に乗り、恵王の陵の門前から、あたりを払って出て行った。

 これを、門前のご神木が見た。そこでご神木は、彼の姿を呼び止めて、

 おい君、大分おめかしして、一体どこへ出かけて行くんだい。

 と、声をかけた。

 なんだ神木君か、ほかでもないがね、今日は、これから張華のところへ、論談の用件があって行くのだよ。馬上から狸は、反り身になって答えた。

 おい貴公、それはほんとかい。止めろよ、うぬ惚れは||張華といえば、晋の国現代における大学者の最右翼であるのは、知らぬものはあるまい。と、ご神木がいうと、狸はご神木の言葉を抑えて、

 張華が、なんだい。大家などといって、ひどく大面おおづらしているというから、これからわが輩が行って、一番へこましてやろうというんだよ。

 それがいけないというのだ。一体、貴公は日ごろ、自分を買い被っている。

 よせやい、乃公だいこうを甘くみるなよ、細工は流々仕上げをご覧だ。

 困ったもんだね||おのれを知らんちうのは。

 乃公は、貴公とは違うんだよ。貴公のように、地べたへ生えたなり、上へばかり伸び上がって、風を喰うのがしょうばいで、なにも知らない世間見ずと一緒にされてたまるかい。

 おいおい、無理するなよ。無理をすると、貴公の生命が危ないばかりじゃない、そのあおりを食って、わが輩の命に影響するかも知れないからね。折角思い立ったのだろうが、まあ今日のところは思いとどまって、これから二人で一盃やろうじゃないか。どうだい、そのほうが賢明だぜ。

 いらぬおせっかいだよ。貴公などと喋っていれば遅くなる。狸は、ご神木が誠心こめて止めるのを振りもぎって、馬に一鞭をくれて、ぽくぽくと出て行った。

 張華の邸へ来ってを通じたところ、張はこれを鄭重に一間へ案内した。そして古今の経書詩文を論ずること、三日に及んだけれど、いつかな青年は屈しない。

 そこで、張華は考えた。

 自分は、いままで随分交友は広い。また学界のことについては、寡聞の方ではないと思う。だが、今の天下にこんな博識にして蘊蓄うんちくの深い人物がいるとは、聞き及ばなかった。しかも、白面の青年じゃないか。あるいはこれは、人間じゃあるまい。魔性の物が、自分をからかいに来たのかも知れぬ。

 と疑いを起こしたのである。

 そこで張華は、用事の振りして室の外を出て、家僕に命じて邸内の入口という入口をすべて塞いでしまった。そして、座敷を改めて青年を厚くもてなし酒肴を勧めて、その鬼才なるを賞めあげた。

 座が興に入ってきたところを見計らって、家僕がその家の猛犬を追い込んだ。ところが、犬はきょとんとして、猛犬たる使命を発揮しない。

 なに食わぬ顔をしているどころじゃない。主人の傍らへ走って行って、膳の上の肴に口をつけるという案外の状況である。

 客の青年はと見ると、泰然自若として、やはり人間だ。

 そして哄笑しながら、張華先生足下は、国家の棟梁とうりょうじゃないか。食を吐きて土を入れ、賢者を進用し、不肖者を黜退ちゅったいすべき、地位にあるのであろう。

 なな、なんと。

 しかるに犬などをけしかけるとはなにごと。足下が、どんな手を用いてじたばたするとも、やわか小生を苦しめることはできまい。ゆったりと構えて、青年は壮語するのである。

 しかし、張華は少しも騒がない。最初は、しくじったかな、と思ったけれど、どうも態度が腑に落ちぬ。昔から、百年の精は猛犬をもってその正体をるべし、千年の精は千年の神木を焼いて、その火をもって照すべし、と言い伝えられてある。

 よろし、燕の恵王の陵の門の前の神木は、千年あまりの齢をへている。これを伐って、その火で照らしみようと思い当たった。そこで密かに使いを陵へ走らせたのである。

 使者が門前へ着くと、そこに青い衣を着た一人の少年が立っていて、その用向きを問うたのである。使者は、事の次第を少年に語って聞かせた。すると、少年は潜然せんぜんと涙を流し、

 老狸無知にして、わが言葉を信せず、ついに禍いわれに及ぶ。のがるべき途なし。

 と、泣いて独語したが見る間に、少年は忽焉こつえんとして消え失せたという。

 使いの者は、そんなことにかまわない。鋸でずこずこと、大樹をり倒したところ、戴り口から血が流れ出た。斧で一片を割り、急いで邸へ帰ってきた。

 張華はそれに火を点じ、青年を照らしたところ、眉目秀麗のお客さまは、果然古狸の大ものと化してしまい、座敷中を右往左往、睾丸が重いので、身軽に跳躍ができない。

 それっ! 逃がすな。

 忽ち、縄でくくり上げられてしまった。張は、牛蒡ごぼうと大根とねぎを鍋に入れ、たぬき汁に煮て、家族と共に腹鼓をうった。

 目下のところ、日本国民は恵王陵の神木のような憂き目を見ているが、東條のような痩せ肉では、あつものに作っても大しておいしくはあるまい。などと、私はのんきな想像をめぐらしながら、この原稿を書いていると、東京の学校へ行っている愚息が、空き腹を抱えあおくなって帰ってきた。母は、おいもの麦まぶしでも、おあがんなさいという。

 腹が満てると、愚息は私の机の傍らへやってきて、原稿を読んでいたが、

 支那の狸は、軍国主義じゃありませんね。このごろの、自由主義者みたいなものじゃありませんか。

 と、奇問を発した。






底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社


   1993(平成5)年8月20日第1刷発行

※<>で示された編集部注は除きました。

入力:門田裕志

校正:松永正敏

2006年12月2日作成

青空文庫作成ファイル:

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