野原にはもう春がきていました。
桜がさき、小鳥はないておりました。
けれども、山にはまだ春はきていませんでした。
山のいただきには、雪も白くのこっていました。
山のおくには、おやこの
鹿がすんでいました。
坊やの
鹿は、生まれてまだ一年にならないので、春とはどんなものか知りませんでした。
「お父ちゃん、春ってどんなもの。」
「春には花がさくのさ。」
「お母ちゃん、花ってどんなもの。」
「花ってね、きれいなものよ。」
「ふウん。」
けれど、
坊やの
鹿は、花をみたこともないので、花とはどんなものだか、春とはどんなものだか、よくわかりませんでした。
ある日、
坊やの
鹿はひとりで山のなかを遊んで歩きまわりました。
すると、とおくのほうから、
「ぼオん。」
とやわらかな音が聞こえてきました。
「なんの音だろう。」
するとまた、
「ぼオん。」
坊やの
鹿は、ぴんと耳をたててきいていました。やがて、その音にさそわれて、どんどん山をおりてゆきました。
山の下には野原がひろがっていました。野原には
桜の花がさいていて、よいかおりがしていました。
いっぽんの
桜の木の
根かたに、やさしいおじいさんがいました。
仔鹿をみるとおじいさんは、
桜をひとえだ
折って、その小さい
角にむすびつけてやりました。
「さア、かんざしをあげたから、日のくれないうちに山へおかえり。」
仔鹿はよろこんで山にかえりました。
坊やの
鹿からはなしをきくと、お父さん
鹿とお母さん
鹿は口をそろえて、
「ぼオんという音はお
寺のかねだよ。」
「おまえの
角についているのが花だよ。」
「その花がいっぱいさいていて、きもちのよいにおいのしていたところが、春だったのさ。」
とおしえてやりました。
それからしばらくすると、山のおくへも春がやってきて、いろんな花はさきはじめました。