このほど、最上川の支流小国川の岸辺から湧く瀬見温泉へ旅したとき、宿で
折りから訪ねてきた一釣友に、この小国川は鮎ばかりでなく鰍にも名のある渓であるときいた。小国川は昔、判官義経主従が都を追われ、越路をめぐって羽前の国の土を踏み、柿色の
晩秋の美味のうち、鰍の
殊に、鰍の味と川の水温とに深い関係があった。上越国境の山々が初冬の薄雪を装い、北風に落葉が渦巻いて流れの白泡を彩り、
また早春、奥山の雪が解けて、里川の河原を薄にごりの雪代水で洗うとき、

奥上州の、空に聳える雪の武尊山の谷間から流れでる発知川と、川場川を合わせる薄根川。谷川岳の南襞に源を発し猿ヶ京を過ぎ茂左衛門地蔵の月夜野で利根の本流に注ぐ赤谷川で漁れる鰍は、わが故郷での逸品である。東京近県では上州のほかに常陸の国の久慈川上流に産するもの、また甲州白根三山の東の渓谷を流れる早川で漁れる鰍も、まことにみごとである。いずれの川も水温が低いためであると思う。
鰍は、二月から四、五月にかけて、水底の大きな石の裏側に卵を産みつける。姿は
鰍は素焼きにして、山葵醤油をつけて食べても、焼き枯らして味噌田楽にこしらえても、また丸煮にしても、いずれも結構であるが、頭と脊骨と腸を去って天ぷらに揚げるか、
姫柚子といえば、この初秋鎌倉の釣友を訪ねたとき、夕餐の膳を飾るちり鍋に添えて、緑の色深い姫柚子が数粒、小皿の上にあった。私は、それをなつかしく眺めた。
寒国である私の故郷は、柑橘類に恵まれていなかった。姫柚子など、あろうはずがないけれど、私は姫柚子の味に永い間親しんできたのである。それは、私に四国の阿波の国に友人があって、そこから毎年初秋になると送ってきた。私は、湯豆腐にちり鍋に、この姫柚子の調味を配して、遠い国にある友の心を偲んだのである。
姫柚子は、西国の特産である。四国、九州、紀州などのほかに絶えて見ぬのであるけれど、これはどこから到来したのであるかと鎌倉の釣友に問うたところ、やはり讃岐の友から送って貰ったのであると答えた。そこで私は、阿波の国の友人の身の上を思って、なつかしさが
ちり鍋の材料は、大きなほうぼう一尾、
さらに膳を賑わせたのが、
さて私は、ほんとうは鮎を求めて、小国川へ釣りの旅を志したのであった。しかし、この山国の渓流はもう水が冷えきって、鮎は落ち鮎となり下流に下って、瀬見温泉あたりに姿をとどめなかったのである。とはいえ、それを私は残念とは思わなかった。それは、落ち鮎は味の季節ではないからである。
人により子持ち鮎を至味というが、私はそれに賛成しない。鮎は土用があけて秋立つころになると、片子を持ちはじめる。つまり、生殖腺発達の
鮎は、川筋やその国の気候風土によって少しの差はあるが、一体に六月中旬から八月中旬までの夏のさかりに
鈎に掛かる鮎はいなかったが、
羽前と羽後の国境の岩山から滴りでて、新庄の町の西北を流れる鮭川へも行ってみた。この川には、まだ数多い鮎がいた。そして、よく
鮎が立派でないのは、この川の姿が物語っているのである。小国川と異なって鮭川に沿う地方には水田が多い。水田の落ち水を集めて
それに、川底に転積する玉石も小さい。また岸の崖に、泥炭の層が露出していた。鮎は、炭粉をことのほか嫌うのである。磐城の国には、幾本もの渓流が太平洋へ注いでいる。そして、どの川にも鮎が多い。ところが磐城の国の川の上流には、石炭の層が幾重にも断続していて、そこから流れ出る炭粉のために、鮎は香味の気品を備えぬのである。鮭川の鮎もそれと同じであった。
私は、小国川と鮭川を辞してから、さらに酒田港へ海釣りの見物に行った。土地の人々の話によると、酒田の町にはいま二、三千人の釣り客がいるそうだ。しかし、酒田に釣りが盛んになったのは、今はじまってのことではない。遠く幕末の頃から、鶴岡の酒井藩の風を学んで町民が競って竿を担ぐようになったのであるという。まことに、興深い話である。
酒田港は、出羽の名川最上川の河口にある。遠く海に突きだした突堤が、二、三千メートルもあろうか。その突堤の上に、夜となく昼となくいつも二、三百人の釣り客が竿と糸とを操っている。これから次第に秋深み、黒鯛の当歳子と
ちょうど、私が堤防の突端まで行った日は、釣りものの少ない季節であった。僅かに小型の縞鯛、小けいづ、さより、
河口の風景は素晴らしい。沖の飛島は、低い空を行く雲に遮られて見えなかったが、北の空に高い鳥海山が長い裾を東西に伸ばしていた。山の肌はまだ
ここの釣り人は、竿の調子に微妙な関心を持っていた。穂先はやわらかで、胴に調子を保ってしかもねばりのある竿を好むのである。それは、庄内地方特産の唐竹の根掘りで作るのであるが、少し重過ぎるきらいはあるとはいえ、魚が鈎をくわえてからの味は、満点であった。
ここの人が使う手網は、美術品である。枠は竹を削ってはぎ合わせ、それを漆で塗りかためたものだ。網は、絹糸の一分目である。私は、その小型のものを酒田の釣友本間祐介氏から、記念品として贈られた。
羽州の旅数日、いつの日も地米の飯に恵まれた。豊かな幸福を感じたのである。これは庄内平野が広々としてあるおかげであろう。その平野を横ぎって、私は湯野浜温泉に一宿した。電車の窓から、既に刈り取られた稲田の畦に、女学生の群れが
湯野浜温泉の町は鶴岡から西北へ三里、日本海の波が砕ける巖の上にある。私は数年前、吹雪の夕べこの温泉を訪ねて、素朴の印象に冬の旅情を慰めたのであったが、このたびはその思い出を求めて再びここに旅衣を脱いだのである。ところが、僅かに五、六年の間に、湯野浜温泉の情趣は
けれど、海は変わらぬ趣であった。白泡がしぶき立つ
一体酒井家は、元和八年鶴岡の城主最上源五郎義俊が御家騒動のために取り潰されたあとへ、信州松代十万石から転封されたのである。最上家は承平の頃から名家で、斯波兼頼の子孫に当たっているため、徳川には外様であった。なにかの
これほど、豊かな鶴岡藩であったから藩士は遊惰に流れ、釣りなど道楽半分に
釣りを練武の技としたというのは、妙に聞こえるのであるが、これはこの頃いうところの体位向上と、規律の訓練に資したものらしい。鶴岡から、賀茂の港や湯野浜の釣り場までは三里あまりある。藩士は、夜半の
そして、武士一同は巖上に立って日本海の暁の気を吸い、さらに朝陽を浴びて、朝めし前には鶴岡へ帰りついていた。これが、健康でなくてなんであろう。夜半の勢揃いに遅れたものは厳罰に処せられた。かくして体位と規律の向上をはかったのである。
当主、忠良伯も名うての
酒井家には、いまなお子弟を市井の学校へはやらぬ掟がある。忠良伯も、家庭教師によって学を励んだ。日常は、酒井藩に伝わる武勇譚などに読み耽っているそうであるが、読書に飽きれば竿をかつぎだして家来を引きつれ、近くの湯野浜海岸はもちろんのこと、遠く鳥海山の裾が日本海へ没する吹浦や有耶無耶関址のあたりまで繰りだして祖先の練武にあやかるのであるという。
こんな次第で、いまも引き続き鶴岡市民の
明治になってからも釣り人が磯から帰ってくるのに出会うと、きょうの勝負はいかがであったなどと問うたものである。やはり午前二時頃には海岸へ向かって出発した。ところで、その時刻に遅れて出発した者があると、それを指してあいつは物の役にたたぬと
武士は、磯の巖上に立って竿を操ると戦場にある気分となった。ある朝、鈴木栄之助という若い藩士が、同僚に一足おくれて賀茂の港の海岸へ駆けつけると、栄之助がいつも釣り場としている岩の上に、他の士が熱心に釣っていた。栄之助は、これを見て少しむっとした。そこでわが輩の釣り場に先陣をつけるとは、ちか頃不都合ではないかと、うしろから呼ばわった。誰かと思えば鈴木か、おくれて参ってなに申すと、先着の釣り士がやり返したのであった。
『たとえ、おくれて参ったからとて、ひとの釣り場へ無断で足を踏み入れるとは、釣りの仁義をわきまえぬ不束者||そこ退け!』
『なにを小癪な||勢揃いにおくれたとあっては主侯に相済むまい。切腹ものじゃ』
先着の士は栄之助を罵倒して譲らない。
『たわけっ!』
栄之助の割れるような大声が、暁の海に響いた。と、同時に栄之助は伸べ竿を巖上に放りだすと脇差を抜いて振りかぶった。冴えた刀身に、折りから日本海の波近く傾いた下弦の秋月がきらめいた。頭の真っ向から、先着の武士は割りつけられた。血しぶきが散って、斬られた武士は波打ちぎわに倒れた。
鈴木栄之助は、釣り場からそのまま脱藩したのである。江戸へのぼって、浪々していた。その頃、江戸では清川八郎が浪士隊の募集をやっていた。栄之助は、清川八郎の名をきいて知っている。八郎は、わが故郷羽州最上川の岸に沿った清川村の出身で大した豪傑であるそうだ。八郎は、清川村の豪農の伜で、毎日のらくらと遊んでいるのを見て村人が、お前さんは行先どんな人間になるつもりだと問うたところ、八郎はそれに答えて、八郎と名がついているからには、鎮西八郎ぐらいにはなるだろう。と言って大笑いしたという話も栄之助は伝えきいている。
栄之助は、浪士隊に応募した。そして、一方の幹部となって文久三年に上洛した。その後浪士隊が江戸へ帰ってくると、頭領清川八郎は麻布一の橋で、小太刀の名人佐々木只三郎のために斬り殺された。しかし浪士隊は解散しなかった。酒井藩では、それに新徴組と名をつけた。
ところが、この新徴組は腕っぷしの強いのをたよりに、江戸中を暴れまわって手がつけられない。酒井藩では処分に困り、とうとう新徴組に解散を命じ、それぞれ帰国しろと厳達したのであるが、多くは脱走して再び京都へ
(一五・一一・七)