一
この正月の、西北の風が吹くある寒い朝、ちょっとした用事があって、両国橋を西から東へわたったことがあった。
橋のたもとから十五、六歩足を運んだ時、ふと水の上へ眼をやった。すると、大川と神田川が合流する柳橋の
十数羽のかもめの群れは、思い思いの方へ向いて、眠ってでもいるように緩やかにうねる水にゆらゆらと揺られている。ところが、大きなかもめの群れのなかに形の小さいゆりかもめが、薄くれないの嘴をときどき私の方へ向けるのを、眼にとめた。
||みやこ鳥||
私は、ほんとうに偶然、途上で昔の友に行きあったような思いがした。
||遠い日の、みやこ鳥||
三十年近くも前の、私の若き頃の身の
眼がさめると、私は淀川堤の暁の若草の上に、横になっているのに気がついた。
||何だ、自殺も忘れていたのか!||
私は、昨日の夕べのことを
||何たることだ||
起こした半身を、[#「、」は底本では「,」]再び堤に倒して草の葉に顔を埋めた。土の匂いがする。一瞬、くにの耕土に親しんでいる老いた父と母の顔が、頭を
||キキ||
頭の上で、鳥の声がした。いそしぎだろうか、川千鳥だろうか。
幼い頃、父に伴われて故郷の川へ鮎釣りに行くたびに、河原で聞いたいそしぎの声に似ているのである。私は
私の寝ている堤の下に、しがらみ(柵)があって、その下手は瀬かげをつくり、水が緩やかに流れている。そこに、二羽のゆりかもめが浮いていた。淀川の水は澄んで、薄くれないの脚が透けて見えた。
||悩ましき、みやこ鳥||
淀の川瀬にまで、ゆりかもめがいようとは思わなかった。
||とにかく、おれは生きのびた。もう何も考えまい、考えまい、また眠ろう||
堤にすりつけた顔に、土の香がひとしお強かった。
これは、私が二十三歳の四月の半ば過ぎの、できごとであったのである。
二
淀の流れに近い八幡の町までたどり着いたのは、[#「、」は底本では「,」]前の日のひる頃であった。
『夜逃げ』を決心した時、日本地図を広げて志す国を、ここかしこと捜した。そして、地図の上でみると、どこよりも交通不便な土佐の国を品定めした。夜の急行列車で一気に大阪まで落ちのびた。安治川口から汽船で美しい高知港の牛江へ入ったのは春の
高知で職を求めた。けれど保証人のない私は宿屋の帳付けにも、
友人が大坂城の四師団に法務官をやっているのを思い出した。これを訪ねて、おずおずしながらほんの少しばかり金を借りた。その金で天満橋のそばの飯屋へ入って心ゆくばかり飯とお菜を食った。余った金で行けるところまで行こう、と思った。京阪電車の駅の賃金表を見ると、男山八幡まで切符が買えた。
何とかして、生きていこうと考えた。八幡の駅の改札口を出て、小さい旅行鞄を左の手に、毛布を右の手に抱えて
『夜逃げ』の首途に、夜の新橋駅の石畳の上に立った時には、自己革命を心に誓ったのではなかったか。真面目になろう。人間らしくなろう。これからは、決して酒も飲むまい。女も買うまい。きょうを最後に、おれは生まれ代わるのだ。
だのに、高知へ着くとけろりとして酒を飲んだ。新橋駅の心の誓いなどてんで思い出してもみなかった。神戸へ上陸してからは、なけなしの財布の底を叩いて福原遊廓へも走り込んだ。おれという人間はもう箸にも棒にもかからないのだ。
野の道に腰をおろして、西の方を見ると、八幡の町から田圃を隔てた新緑の林を貫いたお寺らしい大きい
私は、田圃の
『ご免なさい、ご免なさい』
と幾度も繰り返した。漸く聞きつけたと見え、奥の方から五十二、三歳の
『なんぞ、ご用どすか』
と、けげんな顔をしたのである。
私は、しばらくためらっていたのであるが、放蕩に身を持ち崩し、東京を夜逃げの姿で旅立ちし、土佐から神戸、大阪と職を捜してさまよってきた。けれど、どこでも職がみつからない。もう、身に一銭の蓄えもなく、この先どうして生きていこうかと、寺の前の田圃で思案に
しばらく待っていると、こんどは先ほどの老女と共に、黒い衣に白い足袋をはいた六十の坂を越したらしい、眼の細い物静かな老僧が出てきた。
三
お志のほどは、いま聞いた。だが立ち話ではどうにもならぬから、上がって頂いて
私は恭しく幾度も頭を下げた。
夕方までの時間を、淀川堤の草の上で消すことにした。空に一片の雲もない日であった。西の方、愛宕山に続いた丹波の山々は低い空に、薄い遠霞を着ている。木津川の上流と思える伊賀の国の連山も遠い。淀の水は、白い底砂の上を、音もなく小波を寄せて私の眼の下を流れている。堤の若草にまじって黄色く咲いた
うつらうつらと眠くなった。私は、老僧の親切な言葉に安心して、ほんとうにのんびりした気持ちになったのであった。
眼がさめた。驚いて
||五時と言われたのに||しまった||
私は、転ぶように寺の土間へ駆け込んだ。声を聞いて出てきたさきほどの梵妻は、私の顔を見るなり、
『おっさんは、いつも来るようなひやかしだとは思ったけれど、それでもと思って約束の正五時に京から戻ってきた。ところが、案の定、お前さんが見えない。仏をだます者は、
と、いったような意味のことを突っけんどんに言い払って、ぶっきら棒に奥へ引き込んでしまった。私は
私は、私の身はもう生甲斐がないと思った。生きて行けないと思った。寺の門を、しょんぼりと出ながら、淀川の鉄橋の上を物凄い
今夜が、この世との別れだ。それにつけて、一期の思い出に酒を飲もう、と考えた。八幡の町へ出て、古着屋の前へ立った。鞄の中には、母が故郷から送ってきた手織の
酒を一升買った。ひる間ひる寝をした堤の上へ一升壜を下げて行った。これも飲み終わったなら、静かにこの世に暇を告げよう。私は酒屋で貰った味噌をなめながら、茶碗酒をあおった。
眼が覚めたら、私は暁の堤の草の上にまだ生きていた。みやこ鳥が、ゆるゆると淀の川瀬に泳いでいる。
四
友人に誘われて、一度吉原の情緒を覚えてから、私の心は飴のように
しまいには、小塚っ原で
船は今戸の寮の前を通った。間もなく、船が花川戸へ着くと、私はそこから、仲見世の東裏の大黒屋の
その頃、堀が隅田川へ注ぐ今戸の前にも、数多いみやこ鳥が群れていた。今戸にはいくつもの寮が邸をならべていて、みやこ鳥の浮かぶ雪景色に酒を酌んだのであった。今戸の寮は幕末から明治初期までが一番全盛を極めたのであって、この頃の物持ちや政治家が熱海や箱根へ別荘を設けるように、当時銀座の役人や
数多い寮のうち陸軍の御用商人三谷三九郎の邸が、明治初年に人から羨望の的となった。山県陸軍卿が御用商人の三谷のこの寮へ行って、堀の小さんと泊まりがけで
その頃の寮の人々は、舟に乗って浜町
寮の人々は食いものの
この白魚を鰻の筏焼きの串にさして、かげ干しをこしらえ酒の肴に珍重した。流れの面に、落ちては輪を描く
わたしは今戸の寮の、昔の豪華譚に憧れて、吉原や小塚っ原へ遊んでは、翌朝千住から船で下って、今戸のみやこ鳥のいる風景を眺めた。
こうして、私は救うことのできない遊蕩に身を持ち崩した。故郷の父から送ってくる金など、もちろん足りようはずがない。友達から先輩にいたるまで、手の及ぶかぎり迷惑をかけた。果ては誰も顧みるものがなくなった。
悲しい『夜逃げ』となったのである。
五
明治四十五年夏、夜逃げの旅から東京へ帰ってきて以来、このみやこ鳥のことは忘れていた。
ところが、はからずもこの正月に、両国橋の上から、みやこ鳥に再会した。いまのみやこ鳥は荒川、隅田川、大川尻かけて柳橋の龜清の石垣にいるだけであるそうだ。私は、ここでみやこ鳥と再会してからというもの、二、三日おきには両国橋の上へ
みやこ鳥の群れは、大川と神田川の合流点のまわりを離れない。東岸の向こう両国の方へ群れを離れて行く鳥は、随分まれであった。
浜町河岸の方へ、時々一、二羽ずつ遊びに行く姿を見たが、それも直ぐ龜清の石垣の下へ戻ってくるのである。
私は、四月の中旬まで、続けてみやこ鳥を見に行った。そして、遠い若き日の思い出に耽ったのである。桜が散って、東風が両国の橋へほこりを巻く頃になると、みやこ鳥の群れは、どこへ行ったのか、両国橋のあたりに白い
けれど、みやこ鳥は龜清の石垣の下の波の上にばかりいるのではないそうだ。それを知らなかったのは、私が寡聞であったからだ。このほど、農林省鳥獣調査の葛精一氏から話を聞くと、東京では大川のほかに、半蔵門のお堀の上に、毎年数羽のみやこ鳥が、のんびりと泳ぐ姿を見せるという。
『みやこ鳥』のゆりかもめは、前にも書いた通り標準和名のかもめから見ると、形も小さく色も少し違う。普通のかもめは翼羽の長さが三百四十ミリから三百九十ミリあるというのに、ゆりかもめは二百八十三ミリから三百二十五ミリくらいしかない。
蕃殖の地は
しかし、学術上の『みやこ鳥』は他にある。ほんとうは、ゆりかもめのみやこ鳥は俗名なのだ。そして学術上のみやこ鳥の方が一段と美しい。これは千鳥科に属していて、西伯利亜の東部からカムチャツカの方にわたって分布し、日本ではかつて千島、北海道、本州、四国、九州、台湾の方まで飛んできたが、近年では朝鮮の一部に見るだけとなったそうである。翼の長さは二百二十五ミリで[#「二百二十五ミリで」は底本では「二百二十五センチで」]
在原の
言問団子は、いま西洋料理屋になってしまった。団子は、申し訳ばかりに店の片隅にならべられて昔を偲ぶよすがもない。
明治二十年頃、言問の水上に、みやこ鳥の灯篭流しをして満都の人気を集めた団子屋の主人もいま地下に感慨無量であろう。
六
ケースの中から、長唄『都鳥』の音譜を取り出して、蓄音機にかけた。松永和風が、美音を張りあげて『たよりくる船の中こそ
伊勢物語の『名にしおば、いざ言問はん都鳥、わが思ふ人ありやなしや』の話が偲ばれる。
二、三日前の夕、みやこ鳥がくる龜清の石垣の上の風雅な室で友人と二人で酒を酌んだ。そして、この老女将を座敷へ招じた。老妓、おきよもきた。
二人が、口を揃えて言う。
そうですか、あれがみやこ鳥だったんですか。存ぜぬこととは言いながら||そうでしたか。私ら子供の時から、この辺ではただ、かもめとばかり呼んでいました。それが、みやこ鳥とは、ほんとうに嬉しい話を聞くものでした。私らが知らないくらいですから、神田川の岸の船宿の船頭や、柳橋の芸妓など誰も、わが土地にみやこ鳥がいようとは、思っていないでしょう。
と、嘘ではないかとばかり、驚いた風であった。老女将は、さらに、
この鳥は、幾十年となく秋の終わりの寒い頃になると、私方の石垣の下へきて遊んでいる。江戸前の海が荒れてでもいるかと思えるような風の強い日には、殊に群れの数が多い。そして終日どこへも行かないで、水上署の交番とこの石垣がはさんだ水の上に遊んでいる。夜は沖へ帰って行くこともあるけれど、大抵は私のところの母屋の屋根の
私らは吾妻橋から上手の隅田川にばかりみやこ鳥がいて、大川にはいないものと思ってきた。それに、近年言問あたりにも、みやこ鳥の姿が見えなくなったという話を聞いて、淋しく思っていたのであるが、我が家の前にもみやこ鳥がいるとは、懐かしい。
このほど、この屋根に一羽のかもめが死んでいた。では、改めて前の石垣の傍らに『みやこ鳥の塚』でも建ててやりましょうか||。
あら、昔とった
老女将と老妓とは、朗らかに笑うのであった。
もう、ゆりかもめの季節が去った晩春の夜の大川は、上げ潮どきの小波をひたひたと石垣に寄せ、なごやかに更けてゆくのであった。
(十三・五・六)