前がき
『ジャン・クリストフ』の
作者ロマン・ローランは、
西暦千八百六十六
年フランスに
生まれて、
現在ではスウィスの
山間に
住んでいます。
純粋のフランス
人の
血すじをうけた
人で、するどい
知力をもっています。
世界中の
人々がみなお
互に
愛しあい、そして
力強く
生きてゆくこと、それが
彼の
理想であり、そして
彼はいつも
平和と
自由と
民衆との
味方であります。
これまでの
彼の
仕事は、いろいろな
方面にわたっています。
第一に、五つの
小説があり、そのなかで『ジャン・クリストフ』は、いちばん
長いもので、そしていちばん
有名です。ここに
掲げたのはその
中の一
節です。
第二に、十あまりの
戯曲があり、そのなかで、フランス
革命についてのものと
信仰についてのものとが、
重なものです。
第三に、十ばかりの
偉人の
伝記があり、そのなかで、ベートーヴェンとミケランゼロとトルストイとの三つの
伝記は、もっとも
有名です。
第四に、
音楽や
文学や
社会問題やそのほかにいろいろなものについて
多くの
評論があります。
彼はいま、スウィスの
田舎に
静かな
生活をしながら、
仕事をしつづけています。そして
人間はどういう
風に
生きてゆくべきかということについて、
考えつづけています。(訳者)
クリストフがいる小さな
町を、ある晩、
流星のように通りすぎていったえらい
音楽家は、クリストフの
精神にきっぱりした
影響を与えた。
幼年時代を通じて、その音楽家の
面影は生きた
手本となり、
彼はその
上に
眼をすえていた。わずか六歳の
少年たる彼が、自分もまた楽曲を作ってみようと
決心したのは、この手本に
基いてであった。だがほんとうのことをいえば、
彼はもうずいぶん前から、
知らず
知らずに
作曲していた。彼が作曲し
始めたのは、作曲していると
自分で知るよりも
前のことだったのである。
音楽家の心にとっては、すべてが
音楽である。ふるえ、ゆらぎ、はためくすべてのもの、
照りわたった
夏の日、風の夜、
流れる光、星のきらめき、
雨風、
小鳥の歌、虫の
羽音、
樹々のそよぎ、
好ましい
声やいとわしい声、ふだん
聞きなれている、
炉の
音、戸の音、夜の
静けさのうちに
動脈をふくらます
血液の音、ありとあらゆるものが、みな
音楽である。ただそれを聞きさえすればいいのだ。ありとあらゆるものが
奏でるそういう
音楽は、すべてクリストフのうちに
鳴りひびいていた。
彼が
見たり
感じたりするあらゆるものは、みな
音楽に
変わっていた。
彼はちょうど、そうぞうしい
蜂の
巣のようだった。しかし
誰もそれに気づかなかった。
彼自身も
気づかなかった。
どの
子供でもするように、彼もたえず
小声で
歌っていた。どんな
時でも、どういうことをしてる時でも、たとえば
片足でとびながら
往来を歩きまわっている時でも
||祖父の家の
床にねころがり、
両手で頭を
抱えて
書物の
挿絵に見入っている時でも
||台所のいちばんうす暗い
片隅で、自分の小さな
椅子に
坐って、夜になりかかっているのに、
何を考えるともなくぼんやり
夢想している時でも
||彼はいつも、
口を
閉じ、
頬をふくらし、
唇をふるわして、つぶやくような
単調な
音をもらしていた。
幾時間たっても彼はあきなかった。
母はそれを気にもとめなかったが、やがて、たまらなくなって、ふいに
叱りつけるのだった。
その
半ば
夢心地の
状態にあきてくると、彼は
動きまわって
音をたてたくてたまらなくなった。そういう時には、
楽曲を
作り出して、それをあらん
限りの
声で歌った。自分の
生活のいろんな
場合にあてはまる音楽をそれぞれこしらえていた。朝、
家鴨の子のように
盥の中をかきまわす時の
音楽もあったし、ピアノの前の
腰掛に上って、いやな
稽古をする時の音楽も
||またその
腰掛から下る時の
特別な
音楽もあった。(この時の
音楽はひときわ
輝かしいものだった。)それから、
母が
食卓に食物を運ぶ時の
音楽もあった
||その時、彼は
喇叭の音で彼女をせきたてるのだった。
||食堂から
寝室に
厳かにやっていく時には、
元気のいい
行進曲を
奏した。時によっては、
二人の
弟といっしょに
行列をつくった。三人は
順々にならんで、
威ばってねり
歩き、めいめい自分の
行進曲をもっていた。もちろん、いちばん
立派なのがクリストフのものだった。そういう多くの
音楽は、みなぴったりとそれぞれの
場合にあてはまっていた。クリストフは
決してそれを
混同したりしなかった。ほかの人なら
誰だって、まちがえるかも
知れなかった。しかし彼は、はっきりと
音色を
区別していた。
ある日、彼は
祖父の
家で、そりくりかえって
腹をつき
出し、
踵で
調子をとりながら、
部屋の中をぐるぐるまわっていた。自分で
作った
歌をやってみながら、
気持が
悪くなるほどいつまでもまわっていた。
祖父はひげをそっていたが、その
手をやすめて、しゃぼんだらけな顔をつき
出し、彼の方を
眺めていった。
「
何を歌ってるんだい。」
クリストフは
知らないと答えた。
「もう一
度やってごらん。」と
祖父はいった。
クリストフはやってみた。だが、どうしてもさっきの
節が思い出せなかった。でも、
祖父から
注意されてるのに
得意になり、自分のいい声をほめてもらおうと思って、オペラのむずかしい
節を
自己流にうたった。しかし
祖父が
聞きたいと思ってるのは、そんなものではなかった。
祖父は口をつぐんで、もうクリストフに取りあわない
風をした。それでもやはり、
子供が
隣の
部屋で遊んでいる間、
部屋の戸を
半分開放しにしておいた。
それから
数日後のこと、クリストフは自分のまわりに
椅子をまるくならべて
芝居へいった時のきれぎれな
思い
出をつなぎあわせて作った
音楽劇を
演じていた。まじめくさった様子で、
芝居で見た通り、
三拍子曲の
節にあわせて、テーブルの
上にかかっているベートーヴェンの
肖像に向かい、ダンスの足どりや
敬礼をやっていた。そして
爪先でぐるっとまわって、ふりむくと、
半開きの
扉の
間から、こちらを見ている
祖父の顔が見えた。祖父に笑われてるような
気がした。たいへんきまりが
悪くなって、ぴたりと
遊びを
止めてしまった。そして窓のところへ走っていき、ガラスに顔を
押しあてて、何かを
夢中で
眺めてるような
風をした。しかし、
祖父は何ともいわないで、彼の方へやって来て
抱いてくれた。クリストフには
祖父が
満足しているのがよくわかった。彼は小さな
自尊心から、そういう
好意がうれしかった。そしてかなり
機敏だったので、
自分がほめられたのをさとった。けれども、
祖父が自分のうちの何を一番ほめたのか、それがよくわからなかった。
戯曲家としての
才能か、音楽家としての
才能か、歌い手としての才能か、または
舞踊家としての才能か。彼はそのいちばんおしまいのものだと思いたかった。なぜなら、それを
立派な
才能だと思っていたから。
それから一
週間たって、クリストフがそのことをすっかり
忘れてしまった頃、
祖父はもったいぶった
様子で、彼に見せるものがあるといった。そして
机をあけて、中から一
冊の
楽譜帖をとり出し、ピアノの
楽譜台にのせて、
弾いてごらんといった。クリストフは大変困ったが、どうかこうか読み
解いていった。その
楽譜は、
老人の太い
書体で特別に
念をいれて書いてあった。
最初のところには輪や
花形の
飾がついていた。
||祖父はクリストフのそばに
坐ってページをめくってやっていたが、やがて、それは何の
音楽かと
尋ねた。クリストフは
弾くのに
夢中になっていて、何を
弾いてるのやらさっぱりわからなかったので、知らないと
答えた。
「
気をつけてごらん。それがわからないかね。」
そうだ、たしかに知っていると彼は思った。しかし、どこで聞いたのかわからなかった。
······祖父は笑っていた。
「
考えてごらん。」
クリストフは
頭をふった。
「わからないよ。」
ほんとうをいえば、
思いあたることがあるのだった。どうもこの節は
······という
気がした。だがそうだとは、いいきれなかった
······いいたくなかった。
「お
祖父さん、わからないよ。」
彼は顔を
赤らめた。
「ばかな子だね。
自分のだということがわからないのかい。」
たしかにそうだとは思っていた。けれどはっきりそうだと
聞くと、はっとした。
「ああ、お
祖父さん。」
老人は顔を
輝かしながら、クリストフにその
楽譜を
説明してやった。
「これは
詠唱曲だ。
火曜日にお前が床にねころんでうたっていたあれだ。それから、
行進曲。
先週だったね、もう一度やってごらんといっても、
思いだせなかったろう、あれだ。それから
三拍子曲。
肱掛椅子の前で踊っていた時の歌だ。
······みてごらん。」
表紙には、見事な
花文字で、こう書いてあった。
少年時代の
快楽||詠唱曲、
三拍子曲、
円舞曲、
行進曲。ジャン・クリストフ・クラフト
作品
。
クリストフは
目がくらむような気がした。
自分の名前、
立派な
表題、大きな
帖面、自分の
作品! これがそうなんだ。
······彼はまだよく口がきけなかった。
「ああ、お
祖父さん! お
祖父さん!
······」
老人は彼を
引寄せた。クリストフはその
膝に
身体を
投げかけ、その
胸に顔をかくした。彼は
嬉しくて
真赤になっていた。
老人は子供よりもっと
嬉しかったが、わざと
平気な声で
||感動しかかってることに
自分でも気づいていたから
||いった。
「もちろん、お
祖父さんが
伴奏をつけたし、また歌の
調子に
和声を入れておいた。それから
······(彼は
咳をした)
······それから、
三拍子曲に
中間奏部をそえた。なぜって
······なぜって、そういう
習慣だからね。それに
······とにかく、悪くなったとは
思わないよ。」
老人はその
曲を
弾いた。
||クリストフは
祖父と一しょに
作曲したことが、ひどく
得意だった。
「でも、お
祖父さん、お祖父さんの
名前も入れなきゃいけないよ。」
「それには及ばないさ。お
前よりほかの人に知らせる
必要はない。ただ
······(ここで彼の声はふるえた)
······ただ、あとで、お
祖父さんがもういなくなった時、お前はこれを見て、年とったお
祖父さんのことを思い出してくれるだろう、ねえ! お
祖父さんを
忘れやしないね。」
憐れな
老人は思ってることをすっかりいえなかった。
彼は、自分よりも長い
生命があるに
違いないと感じた
孫の
作品の中に、自分のまずい
一節をはさみ込むという、きわめて
罪のない
楽しみを、おさえることができなかったのである。けれども、今から
想像される
孫の
光栄に一しょに加わりたいというその
願いは、ごくつつましい
哀れなものだった。彼は自分が
全く死にうせてしまわないようにと、自分の
思想の
一片を自分の名もつけずに残しておくだけで、
満足していたのである。
||クリストフは、ひどく
感動して、
老人の顔にやたらに
接吻した。老人はさらに心を動かされて、彼の
頭を抱きしめた。
「ねえ、
思い
出してくれるね。これから、お前が
立派な
音楽家になり、えらい
芸術家になって、一家の
光栄、芸術の光栄、
祖国の
光栄となった時、お前が有名になった時、その時になって、思い出してくれるだろうね、お
前を
最初に見出し、お前の
将来を
予言したのは、この
年とったお
祖父さんだったということをね
······」
その
日以来、クリストフはもう
作曲家になったのだったから、
作曲にとりかかった。まだ
字を
書くことさえよく
出来ないうちから、
家計簿の
紙をちぎりとっては、いろいろな
音符を一
生懸命書きちらした。けれども、
自分がどんなことを考えているかそれを
知るために、そしてそれをはっきり
書きあらわすために、あまり
骨折っていたので、ついには、何か
考えてみようとするだけで、もう何も考えなくなってしまった。それでも彼は、やはり
楽句(
楽曲の一節)を組みたてようとりきんでいた。そして音楽の
天分がゆたかだったので、まだ何の
意味も持たないものではあったけれど、ともかくも
楽句をこしらえ上げることができた。すると彼は喜び
勇んで、それを
祖父のところへ持っていった。
祖父は
嬉し涙をながし
||彼はもう年をとっていたので
涙もろかった
||そして、
素晴らしいものだといってくれた。
そんなふうに、彼はすっかり
甘やかされてだめになるところだった。しかし
幸なことに、彼は
生まれつき
賢い
性質だったので、ある一人の男のよい
影響をうけて
救われた。その男というのは、ほかの人に
影響を
与えるなどとは自分でも思っていなかったし、
誰が
見ても
平凡な
人間だった。
||それはクリストフの
母親ルイザの兄だった。
彼はルイザと
同じように
小柄で、
痩せていて、
貧弱で、少し
猫背だった。
年のほどはよくわからなかった。四十をこしている
筈はなかったが、見たところでは五十
以上に思われた。
皺のよった小さな顔は赤みがかって、人のよさそうな
青い
眼が
色のさめかけた
瑠璃草のような
色合だった。
隙間風がきらいで、どこででも
寒そうに
帽子をかぶっていたが、その帽子をぬぐと、
円錐形の赤い小さな
禿頭があらわれた。クリストフと
弟たちはそれを
面白がった。
髪の毛はどうしたのと聞いてみたり、
父親メルキオルの
露骨な
常談におだてられて、
禿をたたくぞとおどしたりして、いつもそのことで
彼をからかってあきなかった。すると
小父はまっさきに
笑いだし、されるままになって少しも
怒らなかった。彼はちっぽけな
行商人だった。
香料、紙類、
砂糖菓子、ハンケチ、
襟巻、
履物、
缶詰、
暦、小唄集、薬類など、いろんなもののはいってる大きな
梱を
背負って、村から村へと
渡り
歩いていた。家の人たちは
何度も、
雑貨屋や
小間物屋などの小さな店を
買ってやって、そこにおちつくようにすすめたことがあった。しかし
彼は
腰をすえることが出来なかった。
夜中に
起上って、戸の下に
鍵をおき、
梱をかついで出ていってしまうのだった。そして
幾月も
姿を見せなかった。それからまた
戻ってきた。
夕方、誰かが戸にさわる
音がする。そして戸が少しあいて、
行儀よく
帽子をとった小さな
禿頭が、人のいい目つきとおずおずした
微笑と共にあらわれるのだった。「皆さん、今晩は。」と
彼はいった。はいる前によく
靴をふき、みんなに
一人一人年の順に
挨拶をし、それから
部屋のいちばん
末座にいって坐った。そこで彼はパイプに火をつけ、
背をかがめて、いつものひどい
悪洒落がすむのを、静かに
待つのであった。クリストフの
祖父と父は、彼を
嘲りぎみに
軽蔑していた。そのちっぽけな男がおかしく
思われたし、
行商人という
賤しい身分に
自尊心を
傷つけられるのだった。
彼等はそのことをあからさまに見せつけたが、彼は気づかない
様子で、彼等に深い
敬意をしめしていた。そのため、二人の
気持はいくらか
和いだ。ひとから
尊敬されるとそれに感じ易い
老人の方は、
殊にそうだった。二人はルイザがそばで顔を
真赤にするほどひどい
常談を
浴せかけて、それで
満足した。ルイザはクラフト家の人たちの
優れていることを
文句なしにいつも
認めていたから、
夫と
舅が
間違っているなどとは
夢にも思っていなかった。しかし、
彼女は兄をやさしく愛していたし、兄も口には出さないが彼女を
大切にしていた。彼等は
二人きりでほかに
身寄の
者もなかった。
二人とも生活のためにひどく
苦労して、やつれはてていた。
人知れず
忍んできた同じような
苦しみとお
互の
憐れみの
気持とが、悲しいやさしみをもって二人を
結びつけていた。
生きるように、楽しく生きるように
頑固に出来上ってる、
丈夫な
騒々しい
荒っぽいクラフト
家の人たちの間にあって、いわば人生の
外側か
端っこにうち捨てられてるこの弱い
善良な
二人は、今までお互に一
言も口には
出さなかったが、
互に
理解しあい
憐れみあっていた。
クリストフは
子供によく見られる思いやりのない
軽率さで、父や
祖父の
真似をして、この小さい
行商人をばかにしていた。おかしな
玩具かなんかのように彼を面白がったり、
悪ふざけをしてからかったりした。それを
小父(
小さい行商人)はおちつき払って
我慢していた。でもクリストフは、知らず知らずに彼を
好いてるのだった。第一に、思うままになるおとなしい
玩具として、彼が
好きだった。それからまた、いつも
待ちがいのあるいいもの、
菓子とか
絵とか
珍らしい玩具などを持って
来てくれるから、
好きだった。この小さい男が
戻って
来ると、思いがけなく
何か
貰えるので、子供たちはうれしがった。彼は
貧乏だったけれど、どうにか
工面して
一人一人に
土産物を持って
来てくれた。また彼は家の人たちの
祝い日を一
度も
忘れることがなかった。
誰かの
祝い日になると、きっとやってきて、心をこめて
選んだかわいい
贈物をポケットからとりだした。
誰もお礼をいうのを
忘れるほどそれに
馴れきっていた。彼の
方では、
贈物をすることがうれしくて、それだけでもう
満足してるらしかった。けれど、クリストフはいつも
夜よく眠れないで、夜の間に
昼間の
出来事を思いかえしてみる
癖があって、そんな時に、
小父はたいへん
親切な人だと考え、その
憐れな人に対する
感謝の
気持がこみ上げて
来るのだった。しかし
昼になると、また彼をばかにすることばかり考えて、
感謝の様子などは
少しも見せなかった。その上、クリストフはまだ
小さかったので、
善良であるということの
価値が十分にわからなかった。
子供の
頭には、善良と馬鹿とは、だいたい同じ
意味の言葉と
思われるものである。
小父のゴットフリートは、その
生きた
証拠のようだった。
ある
晩、クリストフの父が夕食をたべに町に
出かけた時、ゴットフリートは下の
広間に一人残っていたが、ルイザが
二人の
子供をねかしている
間に、外に
出てゆき、少し先の
河岸にいって
坐った。クリストフはほかにすることもなかったので、あとからついていった。そしていつもの通り、
子犬のようにじゃれついていじめた
揚句、とうとう
息を
切らして、
小父の足もとの
草の上にねころんだ。
腹ばいになって
芝生に顔をうずめた。息切れがとまると、また
何か
悪口をいってやろうと考えた。そして悪口が見つかったので、やはり顔を
地面に
埋めたまま、
笑いこけながら
大声でそれをいってやった。けれど
何の返事もなかった。それでびっくりして
顔を
上げ、もう一
度そのおかしな
常談をいってやろうとした。すると、ゴットフリートの
顔が目の前にあった。その顔は、
金色の
靄のなかに
沈んでゆく
夕日の残りの
光に照らされていた。クリストフの言葉は
喉もとにつかえた。ゴットフリートは目を
半ばとじ、口を少しあけて、ぼんやり
微笑んでいた。そのなやましげな顔には、
何ともいえぬ
誠実さが見えていた。クリストフは
頬杖をついて、彼を
見守りはじめた。もう
夜になりかかっていた。ゴットフリートの
顔は少しずつ
消えていった。あたりはひっそりとしていた。ゴットフリートの顔にうかんでる
神秘的な感じに、クリストフも引きこまれていった。
地面は
影におおわれており、
空はあかるかった。
星がきらめきだしていた。河の
小波が
岸にひたひた音をたてていた。クリストフは
気がぼうとして
来た。目にも見ないで、草の小さな
茎をかみきっていた。
蟋蟀が一
匹そばで鳴いていた。
彼は
眠りかけてるような
気持だった。
と
突然、
暗いなかで、ゴットフリートが
歌いだした。
胸の中で
響くようなおぼろな
弱い
声だった。少しはなれてたら、
聞きとれなかったかも知れない。しかしその声には、人の心を
打つ
誠がこもっていた。声に
出して
考えているのかと思えるほどだった。ちょうど
透きとおった水を
通して見るように、その
音楽を
通して彼の心の
奥底までも
読みとられそうだった。クリストフはこれまで、そんな
風な歌い
方をきいたことがなかった。またそんな
歌を
聞いたこともなかった。ゆるやかな
単純な
幼稚な歌で、重々しい
寂しげな、そして少し
単調な足どりで、決して
急がずに進んでゆく
||時々長い間やすんで
||それからまた
行方もかまわず進み
出し、夜のうちに
消えていった。ごく遠いところからやって
来るようでもあるし、どこへ
行くのかわからなくもあった。
朗かではあるが、なやましいものがこもっていた。
表面は平和だったが、下には長い
年月のなやみがひそんでいた。クリストフはもう
息もつかず、
身体を動かすことも
出来ないで、感動のあまり
冷たくなっていた。歌が終わると、彼はゴットフリートの
方へはい
寄った。そして
喉をつまらした声でいいかけた。
「
小父さん!
······」
ゴットフリートは
返事をしなかった。
「
小父さん!」とクリストフはくりかえして、両手と
顎を彼の
膝にのせた。
ゴットフリートはやさしい声でいった。
「
何だい
······」
「それ
何なの、
小父さん。
教えてよ。小父さんが歌ったのなあに?」
「知らないね。」
「
何だか教えとくれよ。」
「知らないよ。歌だよ。」
「
小父さんの歌かい。」
「おれのなもんか、ばかな
······古い歌だよ。」
「
誰がつくったの?」
「わからないね。」
「いつ出来たの?」
「わからないね。」
「
小父さんの小さい
時分にかい?」
「おれが
生まれる
前だ。おれのお
父さんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのそのまたお父さんが生まれる前だ
······。この
歌はいつでもあったんだよ。」
「
変だね!
誰にもそんなこと聞いたことがないよ。」
彼はちょっと考えた。
「
小父さん、まだほかのを知ってる?」
「ああ。」
「もう一つ歌って。」
「なぜもう一つ歌うんだい? 一つで
沢山だよ。歌いたい時に、歌わなくちゃならない時に、歌うものなんだ。
面白半分に歌っちゃいけない。」
「でも、
音楽をつくる時はどうなの?」
「これは音楽じゃないよ。」
子供は考えこんだ。よくわからなかった。けれど
説明してもらわなくてもよかった。なるほど、それは
音楽ではなかった。
普通の歌みたいに音楽ではなかった。彼はいった。
「
小父さん、小父さんはつくったことある?」
「何をさ。」
「歌を。」
「歌? どうして歌をつくるのさ。歌はつくるものじゃないよ。」
子供はいつもの
論法でいいはった。
「でも、
小父さん、一
度は
誰かがつくったにちがいないよ。」
ゴットフリートは
頑として頭を
振った。
「いつでもあったんだ。」
子供はいい
進んだ。
「だって、
小父さん、ほかの歌を、新しい歌を、つくることは
出来るんじゃないか。」
「なぜつくるんだ。もうどんなのでもあるんだ。
悲しい時のもあれば、
嬉しい時のもある。
疲れた時のもあれば、遠い
家のことを思う時のもある。自分がいやしい
罪人だったからといって、まるで
虫けらみたいなものだったからといって、
自分の身がつくづくいやになった時のもある。ほかの人が
親切にしてくれなかったからといって、
泣きたくなった時のもある。天気がよくて、いつも親切に
笑いかけて下さる
神様のような
大空が見えるからといって、楽しくなった時のもある。
······どんなのでも、どんなのでもあるんだよ。
何でほかのをつくる
必要があるものか。」
「
偉い人になるためにさ
······」と
子供はいった。彼の頭は、
祖父の
教と子供らしい
夢とで一ぱいになっていた。
ゴットフリートは
穏かに
笑った。クリストフは少し
むっとして
尋ねた。
「なぜ
笑うんだい!」
ゴットフリートはいった。
「ああ、おれは、おれはつまらない人間さ。」
そして
子供の頭をやさしく
撫でながらきいた。
「お前は、
偉い人になりたいんだね?」
「そうだよ。」とクリストフは
得意げに答えた。
彼はゴットフリートがほめてくれるだろうと思っていた。しかしゴットフリートはきき返した。
「
何のためにだい?」
クリストフはまごついた。そして、ちょっと
考えてからいった。
「
立派な歌をつくるためだよ。」
ゴットフリートはまた
笑った。そしていった。
「
偉い人になるために
歌をつくりたいんだね。そして、歌をつくるために偉い人になりたいんだね。それじゃあ、
尻尾を
追っかけてぐるぐるまわってる
犬みたいだ。」
クリストフはひどく
気にさわった。ほかの時だったら、いつもばかにしている
小父からあべこべにばかにされるなんて、
我慢が出来なかったかもしれない。それにまた
理窟で自分をやりこめるほどゴットフリートが
利口だなどとは、思いもよらないことだった。
彼はやり返してやる
議論か
悪口を考えたが、思いあたらなかった。ゴットフリートは
続けていった。
「もしお前が、ここからコブレンツまであるほど大きな
人物になったところで、たった一つの歌もつくれやすまい。」
クリストフは
むっとした。
「つくろうと
思っても
······」
「
思えば思うほど
出来なくなるんだ。歌をつくるには、あの通りでなくちゃいけない。おききよ
······」
月は野の向こうに
昇って、まるく
輝いていた。
銀色の
靄が、
地面とすれすれに、また
鏡のような
水面に
漂っていた。
蛙が語りあっていた。
牧場の中には、美しい
調子の
笛のような
蟇のなく声が聞えていた。
蟋蟀の
鋭い
顫え声は、星のきらめきに
答えてるかのようだった。
風は
静かに
榛の
枝をそよがしていた。河の向こうの丘からは、
鶯のか弱い歌がひびいてきた。
「いったいどんなものを歌う
必要があるのか?」ゴットフリートは長い間
黙っていてから、ほっと
息をしていった。
||(
自分に向かっていっているのか、クリストフに向かっていっているのか、よくわからなかった。)
||「お
前がどんな
歌をつくろうと、ああいうものの
方が一そう
立派に歌っているじゃないか。」
クリストフはこれまで
何度も、それらの
夜の声を聞いていた。しかしまだこんな
風に聞いたことはなかった。
本当だ、どんなものを歌う
必要があるか?
······彼はやさしさと
悲しみで
胸が一ぱいになるのを
感じた。
牧場を、河を、空を、なつかしい
星を、
胸に
抱きしめたかった。そして
小父のゴットフリートに
対して、しみじみと
愛情を
覚えた。もう今は、すべての人のうちで、ゴットフリートがいちばんよく、いちばん
賢く、いちばん
立派に思われた。彼は
小父をどんなに
見違えていたことかと考えた。
自分から見違えられていたために、小父は
悲しんでいるのだと考えた。彼は
後悔の
念にうたれた。こう
叫びたい気がした。「小父さん、もう悲しまないでね。もう
意地悪はしないよ。
許しておくれよ。僕は
小父さんが大好きだ!」しかし
彼はいえなかった。
||そしていきなり
小父の
腕の中にとびこんだ。言葉は
出なかった。彼はただくり
返した。「
僕は
小父さんが
好きだ!」そして心をこめて
抱きついた。ゴットフリートはびっくりし、
感動して、「
何だ、何だ?」とくり
返しながら、
同じように彼を
抱きしめた。
||それから
彼は
立上り、
子供の手をとっていった。「もう
家へかえろう。」クリストフは
自分の
気持が
小父にはわからなかったのではないかしらと、また
悲しい気持になった。しかし
家のところまで
来ると、小父はいった。「また
晩に、お前さえよかったら、一しょに
神様の
音楽をききに行こう。もっとほかの
歌も歌ってあげよう。」そしてクリストフは、
感謝の
気持で一ぱいになって、おやすみの
挨拶をしながら、
抱きついた時、小父がよくわかってくれたのを見てとった。
それ
以来、
二人は
夕方、しばしば一しょに
散歩に
出かけた。
黙って歩いて、河に
沿っていったり、野を
横切ったりした。ゴットフリートはゆっくり
煙草をすい、クリストフは
夕闇が
怖くて、
小父に手をひかれていた。
彼等はよく草の上に
坐った。ゴットフリートはしばらく
黙ってたあとで、
星や
雲の
話をしてくれた。
土や
空気や水のいぶき、または
闇の中にうごめいてる、
飛んだりはったり
泳いだりしている
小さな
生物の、歌や
叫びや音、または
晴天や雨の
前兆、または
夜の
交響曲の
数えきれないほどの
楽器など、それらのものを一々聞きわけることを教えてくれた。時とすると、
歌もうたってくれた。
悲しい
節の時も楽しい節の時もあったが、しかしいつも
同じような
種類のものだった。そしてクリストフはいつも同じ
切なさを
感じた。ゴットフリートは一
晩に一つきり歌わなかった。
頼んでも
気持よく歌ってはくれないことを、クリストフは知っていた。歌いたい時に
自然に
出てくるのでなくてはだめだった。長い間
待っていなければならないことが多かった。

もう
今夜は歌わないんだな
······
とクリストフが思ってる
頃、やっと小父は歌い
出すのだった。
ある
晩、ゴットフリートがどうしても歌ってくれそうもなかった
時、クリストフは
自分が
作った
小曲を一つ
彼に聞かしてやろうと思いついた。それは
作るのに大へん
骨が折れたし、
得意なものであった。自分がどんなに
芸術家であるか見せてやりたかった。ゴットフリートは
静かに
耳を
傾けた。それからいった。
「
実にまずいね、
気の
毒だが。」
クリストフは
面目を
失って、答える
言葉もなかった。ゴットフリートは
憐れむようにいった。
「どうしてそんなものを
作ったんだい。どうにもまずい。
誰もそんなものを作れとはいわなかったろうにね。」
クリストフは
怒って赤くなり、いいさからった。
「お
祖父さんは僕の
音楽をたいへんいいといってるよ。」と彼は
叫んだ。
「そう!」とゴットフリートは
平気でいった。「お
祖父さんのいうことが
本当なんだろう。あの人はたいへん
学者だ。音楽のことは
何でも知っている。ところがおれは、音楽のことはあまり知らないんだ。」
そして少し
間をおいていった。
「だが、おれは、たいへんまずいと思うよ。」
彼はおだやかにクリストフを
眺め、その
不機嫌な顔を見て、
微笑んでいった。
「
何かほかに
作ったのがあるかい? 今のより
外のものの方が、おれの
気にいるかも知れない。」
クリストフはほかの
歌が
小父の感じをかえてくれるかも知れないと思って、あるだけ歌った。ゴットフリートは
何ともいわなかった。彼はおしまいになるのを
待っていた。それから頭を
振って、ふかい
自信のある
調子でいった。
「なおまずい。」
クリストフは
唇をかみしめた。
顎がふるえていた。
彼は
泣きたかった。ゴットフリートは自分でもまごついてるようにいいはった。
「
実にまずい。」
クリストフは
涙声で
叫んだ。
「では、どうしてまずいというんだい?」
ゴットフリートはあからさまの
眼つきで彼を
眺めた。
「どうしてって
······おれにはわからない
······お
待ちよ
······じっさいまずい
······第一、ばかげているから
······そうだ、その
通りだ
······ばかげている、
何の
意味もない
······そこだ。それを書いた時、お前は
何も
書きたいことがなかったんだ。なぜそんなものを書いたんだい?」
「
知らないよ。」とクリストフは
悲しい声でいった。「ただ
美しい
曲を作りたかったんだよ。」
「それだ。お前は
書くために書いたんだ。
偉い
音楽家になりたくて、人にほめられたくて、書いたんだ。お前は
高慢だった、お前は
嘘つきだった、それで
罰をうけた
······そこだ。音楽では、
高慢になって
嘘をつけば、きっと
罰があたる。音楽は
謙遜で
誠実でなくてはならない。そうでなかったら、
音楽というのは
何だ? 神様に対する
不信だ、神様をけがすことだ、
正直な
真実なことを
語るために、われわれに美しい歌を下さった神様をね。」
彼はクリストフが
悲しがってるのに気がついて、
抱いてやろうとした。しかしクリストフは
怒って横を向いた。そして彼は
幾日も
不機嫌だった。
小父を
憎んでいた。
||けれども、「あいつはばかだ、なんにも知るもんか! ずっと
賢いお
祖父さんが、僕の音楽をすてきだといってくれてるんだ。」といくら自分でくり
返してみてもだめだった。心の
底では、小父の
方が
正しいとわかっていた。ゴットフリートの言葉が
胸の
奥に
刻みこまれていた。彼は
嘘をついたのがはずかしかった。
それで、彼はしつっこく
怨んではいたものの、
作曲をする時には、今ではいつもゴットフリートのことを
考えていた。そしてしばしば、ゴットフリートがどう
思うだろうかと考えると、はずかしくなって、
書いたものを
破いてしまうこともあった。そういう
気持をおしきって、全く
誠実でないとわかっている
曲を書くような時には、
気をつけてかくしておいた。どう思われるだろうかとびくびくしていた。そしてゴットフリートが、「そんなにまずくはない
······気にいった
······」とただそれだけでもいってくれると、
嬉しくてたまらなかった。
また、時には
意趣がえしに、
偉い音楽家の
曲を自分のだと
嘘をいって、たちのわるい
悪戯をすることもあった。そして
小父がたまたまそれをけなしたりすると、彼はこおどりして
喜んだ。しかし
小父はまごつかなかった。クリストフが
手をたたいて、
喜んでまわりをはねまわるのを
見ながら、人がよさそうに笑っていた。そしていつもの
意見をもち
出した。「うまくは書いてあるかも知れないが、
何の
意味もない。」
||彼はいつも、クリストフの家で
催おされる
小演奏会に
出席したがらなかった。その時の
音楽がどんなに
立派なものであっても、彼は
欠伸をしだし、
退屈でぼんやりしてる
様子だった。やがて
辛抱出来なくなり、こっそり
逃げ
出してしまうのだった。彼はいつもいっていた。
「ねえ、
坊や、お前が
家の中で書くものは、どれもこれも
音楽じゃないよ。家の中の音楽は、
部屋の中の
太陽と同じだ。音楽は
家の
外にあるものなんだ、外で神様のさわやかな
空気を
吸う
時なんかに
······。」
あとがき
クリストフはその
後、
偉い
音楽家になりました。
彼の
音楽はいつも、
彼の
思想や
感情をありのままに
表現したもので、
彼の
心とじかにつながってるものでありました。そして
彼がえらい
音楽家になったのは、ゆたかな
天分と
苦しい
努力とによるのですが、また
幼い
時にゴットフリートから
受けた
教訓は、ふかく
心にきざみこまれていて、たいへん
彼のためになりました。