「素焼の壺と素焼の壺とただ並んでるようなあっさりして嫌味のない男女の交際というものはないでしょうか」と青年は云った。
本郷帝国大学の裏門を出て根津
かの女は小さく
「それではなにも、男女でなくてもいいのじゃございません? 友人なり師弟なり、感情の素朴な性質の者同志なら」こうは答えたもののかの女は、青年の持ち出したこの問題にこの上深く会話を進み入らせる興味はなかった。ただこんなことを云っているうちに、この青年の性格なり気持ちがだんだん判明して来るだろうことに望をかけていた。「こんなことを女性に向って云い出す青年は、どういうものか」すると青年は、内懐にしていた片手を襟から出し片頬に当てていかにも屈托らしく云った。かの女のあまり好かないこんな自堕落らしい様子をしても、この青年は下品にも
「やっぱり異性同志に、そういった種類の交際を望むのです。少くとも僕は」
それからしばらくして
「でないと僕は寂しいんです」
唐突でまるで独言のような沈鬱な言葉の調子だ。かの女はこの青年がいよいよ不思議に思えた。
かの女は居坐りを直し、寒くもないのに袖を膝に重ねて青年の
かの女の家は元来山の手にあるのだったが、腺病質から軽い眼病に罹り、大学病院へ通うのに一々山の手の家から通うのも億劫なので、知合いのこの根津の崖中の邸へ老女中と一緒に預けられたのであった。
かの女は女学校を出たばかりであった。両親はあまり内気な性質のかの女に、多少世間を見させようとする下心もあって、他人の屋根の下に暮らさせるためだった。去年大学を出た同じく内気な性分のかの女の兄が、この界隈に下宿させられてから、幾分ひらけたということも好もしい前例として両親の考の根にあった。青年は以前兄と同じ下宿にいた上野の美術学校の卒業期の洋画科生である。青年は下町にある自宅が大家族でうるさいので、勉強の都合上家を出て、下宿から学校に通っているのだそうである。兄は青年が酒をかなり飲む以外、生活に浮いたところも見えず、一種のニヒリスチックなところ(だが、それゆえに青年の画は青年の表面に現われた性格より余程深刻なニュアンスを持つと云っていた)よりほか、性癖に変った箇所もないと兄は云っていた。むしろ表面はごく
闇の中から生れ出る青年の姿は、美しかった。
青年のほのかな桜色の顔の色をかの女は羨んだ。かの女は鬱気の性質から、顔の色はやや蒼白かった。しかし、肉附きも骨格も好くて、内部に力が籠っている未完成らしい娘だった。
「年頃のお嬢様のような『
同じく都会に育って、
「お嬢さま、この
ばあやは青年の気さくなところばかりを見ていた。
かの女が喰べて仕舞った夕飯の膳をひいて行くときに、ばあやはこう云って、かの女の箸をつけない皿を一つか二つ残して置くのであった。そして
「ばあやさんお酌の仕方がうまいなあ」
「むかし酒飲みの主人を持っておりましたからね」
淡々として人生をも生活をも戯画化して行く。これを江戸趣味とでもいうのであろうか。青年と老女中は、追羽子の羽根のように会話を弄んで行くが、かの女は他愛ないもののように取れて、そっと傍見をして
「お嬢さまご退屈ですか、おやおや。じゃ一つ重光さんに唄でもうたって聴かして頂きましょう」
「いやな婆や」
かの女は口でこう云って制したけれども、こういう青年がどんな唄をうたうかそれも聴いて見たかった。
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青年の唄っている唄は花柳界の唄にしても、唄っている心緒は真面目な嘆きである。声もよくなく、その上節廻しに音痴のところがある。それを自分で充分承知していながら、自分に対する一種の嘲笑いを示すかのような押した調子の底に、····································
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「ばあや、もう眼の
「そうでございましたね。じゃ重光さん今晩はもう失礼ですが」
青年はたいがい夜になってかの女を訪れて来た。
ばあやは
「重光さん、昼間はご勉強ですか」と訊いた。
すると青年は、ばあやより
「昼間は何の感興もなく寝ていますよ。まあ死んでるようですね」
かの女は陽のある昼は全くの無に帰し、夕方より蘇る青年を、物語の中の不思議な魂魄のように想われ、美しくあやしく眺めた。
かの女の眼病は遅々として癒えながら、桜が咲いて散って行っても、まだ癒えなかった。青年は殆ど連夜かの女を訪れた。かの女の残り物で酒を飲んでは大方ばあやと遊んで帰って行った。かの女は青年が表面は、ばあやと遊んでいても心はかの女に接触している満足で帰って行くのが解っていた。かの女は青年の表面の
青年は親しみを増して来るにつれ、あらわに自分の生命の奥にひそむ寂寥をかの女に訴える言葉が多くなり、かの女はそれにあまり深くひき入れまいとする用心で、いよいよ内気を守った。それがなおなおかの女の態度を真剣に沈み入り気重にさせるようになって来た。
「こんないい陽気に内にばかりいらしってもお毒ですから、明日あたり重光さんはお嬢さまを、散歩にでもお連れなすってはいかがですか」
ばあやは青年一人にかの女を預けるのを何の不安もなげである。かの女もまた·········この青年にかぎって不安を感じることが寧ろ自分の恥のようにさえ思われる。
「そうですね」
と重光は考えていたが
「だいぶ永い間ご馳走になりましたから、それじゃお嬢さんに一度ご馳走のお礼返しをしましょう。||さあ、どこがいいかなあ·········。藤の花の咲いているところへでもご案内しようかな」
久し振りで外出するかの女は嬉しかった。初夏の午前の陽は鮮かに冴えていても、肌に柔かかった。久しぶりに繃帯押えを外して外光に当てる視覚は、いくらか焦点をぼかして現実でもなく非現実でもない中間の世界を見出した。
白い砂と碧い池の上に太鼓橋が夢のように架っている。あちこちの松の立木が軽く緑を吹きつけたように浮いている。拍手の音がする。温い松脂の匂いがする。
「あんまりいい気持ちで眠たくなっちまう······」
ついかの女はそういって、あとからついてくる男の連れに向って、あまりはしたない言葉ではないかと気が
「あなたが始めて僕に本当の気持ちで打ち解けたことを
と痛快げに笑った。
社殿へ参詣して再び池の端へ戻ってから、青年は云った。
「この池に懸け出した藤棚の下の桟敷の赤い毛布の上で、鯉を見ながら葛餅を喰べるのが、ここへ来た記念なのですが、あまり人が混んでますから、別の所へ行きましょう」
荷船の繋がったり漕ぎ通ったりしているいくつかの川や堀割の岸を、俥で過ぎて、細い河岸の大木の柳の蔭の一軒の料理屋へ、青年は俥をつけさせた。
「ここは橋本という昔から名代の料理屋です」
かの女は、峠のように折れ曲り、上ったり下ったりする段梯子を面白いと思った。案内された小座敷の欄干は水とすれすれだった。青み淀んだ水を越して小さい堤があり、その先は田舎になっていた。
「いいところですね。草双紙の場面のよう」
「お気に入って結構です。きょうは
かの女はふと疑問が起った。
「あなた、お料理店の息子さん?」
「違います。だが、まあ、客商売というところは同じですね」
名物鯉の洗い、玉子焼、しじみ汁||。かの女は遠慮なく喰べながら、青年の生家でありそうな客商売の種類をいろいろと考え探って見た。
「判りませんわ。あなたのお家の商売||」
「さあ、云ってもいいが、云わない方が感じがいいでしょう。
かの女は「まあ」と云って、それより先
すると青年は
女ばかりで客商売をする家に育った青年は、子供のうちから女という女の憂いも歎きも見すぎて来た。自分の見て来た女達が同じように辛い運命から
「だが不思議ですね。それほど女性の陰に悩まされた自分でありながら、さて女性に離れて
それは
「菓子造りの家の者が砂糖の中毒患者というなら、僕は女性の中毒患者とでもいうべきでしょう」
青年は苦笑した。
早く死んだ青年の父は、天才の素質を帯びている不遇な文人画家であった。その血筋は息子の青年に伝えられた。
「僕にはこれで
僕の世界は白々と寂しいものになるばかりでした。僕はあなたに訳の判らぬことを嘆きました。随分勝手なお喋りもしました。それが結局僕の精神的血行を促したのでしょうね。おかげで僕の一方の精神が強まり、僕の精神がどうやら盛り上って来ました」
「まあ||だけど、私、それ程あなたに何も云ってはさしあげませんでしたわ」
「沢山おっしゃらない中から、僕はちゃんと拾ってます······。あなたがいつぞや、何の気なしに話して下さった『地によって倒れるものは地によって立つ』という言葉は本当です。女性によって蝕ばまれたものは、女性によってのみ癒やされるんですね。僕は、あなたの病的に内気なところを懐しんで近づいて行ったのですが、不思議ですね。それは表面だけで、あなたの蘂には男を奮い起さすような明るい逞ましいものがあるんです」
「でもあなたは素焼の壺と素焼の壺が並んだような、あっさりした男女の交際が欲しいと仰ったでしょう」
「ああ、そうでしたね。あの時分僕は実はあの反対な||積極的な生命的な女性との接触を求めていながら、つい一方の蝕まれた性格が、ああいうことを云わしたんですね。僕はあんなことを云いながら、ぐんぐんあなたの積極的な処に牽かれて······こんな言葉を許して下さい······」
「でも私は積極的でしょうか」
「熱情があんまり清潔すぎて醗酵しないから、病的な内気の方へ折れ込んで仕舞うのでしょう。あなたの兄さんもそういう方だ」
「では兄におつき合いになっただけであなたはよかったではありませんか」
「兄さんともそれで仲好しでした。兄さんは僕の変に
「そう云いました。私にもだからおつき合いしてごらん、気持ちがさっぱりして薬になるよって、あなたを紹介して呉れました」
「あはは······お互に換気作用を計画しておつき合いし始めたんですか······あははは······近代人の科学的批判的意識が友情にまで、そこまで及べば徹底してますね」
「でも兄はあなたを『素焼の壺』のようなあっさりした方と云いましたけど······私はそれ以上あなたにお目にかかっていると、しんと寂しさが身に迫るようでした。時々堪らなく寒くなるような感じをうけます」
「男性と女性の相違ですよ。兄さんとあなたと僕に対する感じ方の違うというのは」
「何がですか」
「だから僕は女性でなくては······と云ったでしょう」
「············」
かの女はあまり唐突にその言葉を聞いたように感じた。だがよく考えれば、青年がいつも女性でなければと云っていたことを、今また思い出した。
「僕はやっぱり女性の敏感のなかに理解がしっとり緻密に溶け込んでいるのでなければ、淋しい男性にとってほんとうの喜びではないと思うんです。兄さんは僕を多少ニヒリストで素焼の壺程度にさらりとした人間と解釈したに過ぎないが、あなたはそれ以上、僕に鬱屈している孤独的な寂しさまで感じわけて下さったでしょう······女性の本当に濃かいデリケートな感受性へ理解されることが、僕の秘かな希望だったんだな······」
「でもあなたは素焼の壺が二つ並んだような男女の交際が欲しいと仰ったでしょう」
「またそれが出ましたね。どうも素焼の壺が
「割合いに刺戟的な方だと思うわ」
「ばあやのお喋りがはいらないんで、今日はあなたがよくお話しになる、僕の本望だな。あれはね、僕、今でもそう思ってますが||つまり、すぐ恋愛になるような、あり来りの男女の交際は嫌だと思ってましたから、それがああいう言葉で出たんですが······」
この青年は非常にエゴイズムなのではないかと、ふとかの女は思った。
でなければ、それ以上に抜け切った非常に怜悧な男なのではないかとも思った。
でもこう話しているうちに、決して男性の体臭的でない明るいすがすがしい気配が、青年の顔色や態度に現われて来た。かの女は、もしその気配に自分の熱情が揺がされでもしたら、自分が何か非常に卑しい軽率な存在にでも見えだすかも知れない||そう思うとかの女はかすかなうそ寒いような慄えに全身をひきしめられた。
「ね、あそこをご覧なさい」
青年の指差したのは、真向いの堤に
「あの山吹の色が、ほんとうに正直に黄いろの花に今の僕の心象には映るのです。僕の心が真に対象を素直にうけ入れられるようになったのですね。以前僕の描いた山吹の色は錆色でした。それが渋いとか何とかいいかげんなニヒルの仲間達に
翌日の夜も翌々日の夜も青年は来なかった。そして手紙が来た。
「僕はいっしんにあの山吹の花の写生に取りかかりました。まだ朝寝の癖が全然とれないので昼頃迄は寝ていて、午後一ぱい殆ど日没近くまであの堤の下の水際に三脚を立てて汗みどろに写生です。夜は疲れてくたくたになります。家へ帰って画の道具を置くと手も足も
青年の卒業制作は画面に山吹の花のいのちが美事にかがやき溢れた逸品であった。その優秀への讃辞は校内から広く一般画壇にまで拡がった。青年は眼も全快して父母の家に帰っているかの女にその絵を携えて見せに一度来たきり絶えてかの女の
かの女は其処で制作しつつある青年の絵が必ず立派な力の籠った作品であろうことを予期すればする程、何か、自分のなかから摂取して行った人のエゴイズムを憎むような憎みさえ感じるのであった。けれど······しかし、憎みとばかりは云い切れない心内の自覚をかの女自身にも追々感ぜられるのであった。かの女の病的な内気さも追々溶け何か生命の緒を優しく引きほぐされて行くようなあてもない明るさが、かの女の生活にいつか射し添っているのであった。
秋になった或日フランスの兄からかの女に手紙が来た。
「重光君から
簡単ながら決定的な文意であった。
かの女は今更別だんの衝動も心にうけなかった。||まあ、私に云わないで兄さんに云った||かの女はごくあたりまえにこう内心で独り言を云っただけだった||そして普通の友人の絵でも見に行くように重光青年から招待されて、上野の展覧会場へその秋の傑作の一つと評判の高い「高原の太陽」と題する青年の出品画を観に行った。