前言
この作は旧作である。仏教は文芸に遠い全々道徳的一遍のものであるかという人に答えるつもりで書いたものである。だが繰り返して云う、この作はやや旧作に属するものである。で、文章の表現が、いくらか前時代のものであると感ぜらるるならば
愚人食レ塩喩
塩で味をつけたうまい料理をよそで御馳走になった愚人がうちへ帰って塩ばかりなめて見たらまずかった。
なんにも味の無い男だった。逢うとすぐ帽子を「すこし塩をつけて喰べてみたらどう」
「そうねえ。すこし塩をつけて喰べてみましょう」
歯朶子が返事した。
小屋の真中の勇ましい
「ひどい。なんの理由もなしに·········」
性急にどもり
「あんたがあんまりおとなしいものだからよ。
「青熊というのはここのうちの主人ですね。よろしい」
男の略図のような単純な五臓六腑が生れてはじめて食物を送る為以外に
「僕はここにある石膏をみんな壊してやる。それからあなたの職業を外の家にきっと探して来る」
その次におかみさんに逢ったとき歯朶子はいった。
「ありがとう。塩はほんとうに利いてよ。あの人に情が出てよ」
おかみさんは前に自分の云ったことを忘れて居た。そして歯朶子からはなしの全部を聞いて驚いて仕舞った。
「あたしゃ、でたらめに塩をつけたらと云ったのに、あんたはほんとうに塩をつけて喰べたのね。なるほど男に塩をつけるってそうするものなのね」
その晩おかみさんは亭主に云った。
「へんなことがあるんだよ。おまえさん。歯朶子の情人があたしのようなものを口説くんだよ。本気でだよ」
安ウイスキーを
「そいつあ、面白えな。色魔だな。うまく
その翌朝いやいや亭主に連れられて売付ける石膏を
愚人集二牛乳一喩
愚人は客が来るまで日々の牛乳を搾 らないで女牛の体内にためて置くつもりだった。いよいよ客が来た時愚人は女牛の乳をしぼったがやはり一日分しか出なかった。
夫の愛は日に日に新鮮だった。血の気を増すそれで保志子は夫の愛を牛乳に感じて
新婚後十月目。
めずらしく三つ押し並んだ休日があった。東京の実家の妹達が泊りがけで遊びに来ると知らせてよこした。そのしらせ通りの日になるまでにはあと六つ黄ろい秋の日が間に並んで挟まって居た。
夫の自分への愛を保志子は妹達にも見知らせて置き度かった。飲んで内壁から吸収する幸福を気付かせて置くことは嫁入前の妹達に結婚衛生学の助講にもなる。
だが若い妹達に、まだ男の愛を
保志子は夫に頼んだ。
「これから向う五日間よ。なるたけ愛を節約してね。けれど妹たちが来たらその溜めといた分を思う存分あたしの上に使ってね。使って見せてね」
髪の薄い夫はよしよしといった。
「あたしが一番よ」
「あたしが一番よ」
二番目の妹と三番目の妹とは息をはあはあ云わせ乍らこんなことを争って居る。停車場から馳けっこをして来たのだ。
相変らずこんな娘達だ。その用意しといて宜かった、と保志子は思った。
「早くお上んなさいな。ざっとお湯を使って直ぐ御飯よ」
その間にも保志子は夫が五日溜めた愛情の今こそ肩に胸に一度に降り注がれるのを待って身構えた。
「この柿、たいへん、おいしい。半分やろうか」
夫の愛の分量は、やっぱり一日分だけのものしか出なかった。保志子が望むほど濃くも多くもなって居なかった。それよりも妹たちは、初めて来た姉の家の茶の間や庭先を見廻すのに気をとられて居た。それに飽きると今度は姉の夫をすぐバット細工の友達にして仕舞った。
「牛乳は牝牛の腹には||と保志子は考えた||溜めて置かれないものね」
三重楼喩
愚な富豪が木匠を呼んで三重楼を建て度いが、自分は三重楼の下の二層は要らない、上一層だけが欲しいと云った。
「あの土台も作らず、あの胴も作らず、あのほっそりした塔の頂上だけをあの高さにセーヌ河の中の島でむく犬のリックとラックに向うから遊で飽かれて仕舞った老人で
「そうすると、その不可能を可能にしようとする苦しみの間から人間の情緒が汗のように出るね。勇気、失望、
そうかい、おまえさん、橋を渡って
乗レ船失レ盂喩
陸は近かった。松並木は一重青く浮き出して居た。その幹の間から並んで動いて行く小さい
「そうだ
よじれて来る
「薄情者
「こういうところで女の簪を落したのだな。よし、よく覚えといてやれ」
船は港の泊りを重ねて尾州
しかし、彼が木屋町の女に対する恋情は募るばかりだった。それより淡路の海へ落した銀の簪が惜しくてならなくなった。彼が着て居る着物とかえりの旅費ばかりになり、そのほかのあらゆるものを賭けての
浜に網曳く声が聞えた。犬の声も交って居る。青松白砂。蒔蔵は
「ここは淡路じゃ無いぞ。蒲郡だぞ」
と何遍自分に云って聞かせてもどうしてもここが淡路に見えた。記憶のなかの洲本が消えて仕舞って眼の前に洲本の海がぎらぎらする光と生々しさをもって彼の感覚に迫った。
「簪を返して貰おう」
畳の目のような
五人買レ婢共使喩
五人の男が公平に金を出し合って一婢を雇った。一人の男が怒って婢に十鞭を与えると他の四人も権利を主張して婢に十鞭ずつを与えた。
五人で一人の女を雇った。五人は生活費を分担して居た。従って女の給金も頭分けにして払った。それと関係なしに山査子の花は梅の形に咲く。
平凡な雇女は呼びようもなくて雇主の五人を一々旦那様と呼んだ。でもその呼びかたに多少の
一人には、あの旦那様。
一人には、ちょっと旦那様。
一人には、恐れ入りますが旦那様。
一人には、いらっしゃいますか旦那様。
一人には、ただ旦那様。
と呼んだ。
主人の一人は洗濯物を女に出す。すると他の四人の主人も洗濯物を出す。機会均等。利権等分。彼等には独身もののサラリーマンらしい可憐な経済観念があった。
洗濯ものは五つ一様にきれいには洗えなかった。かけて干したシャツの袖に山査子の赤黄ろい実の色がこすりついたまま畳まれるようなこともあった。これを見つけた持主の主人は口を尖らして女を叱った。
すると他の四人も損をしまいと口を尖らして女を叱った。
叱られた女は、ここに於て主人を恨むべく||
「だが五人を恨むことは||」
と女は思った。
「わたしらのような女には五人も一度に人を恨むことは出来ない。そういうように心が出来て居ない。やっぱり
思い迷った女は八つ口から赤い手を出したまま裏口に立った。
そこに指で押しながら考えをまとめるに都合よくさいわい山査子には小さい
田夫思二王女一喩
田夫が貴姫を恋するこころを人に打ち明けた。人は「王女に汝 の思いを通じたが汝を王女は嫌いと云った」と告げたにも拘らず田夫は強 いても王女に自分を認めさせようとした。
「世に美しいものとはこの姫のことか」陀堀多は畑の中から
金銀の
陀堀多は知らず知らず黍の蔭に身を隠しながら姫の姿を追った。
本あぜ道は
「あの姫にこのおれを認めさせずに行かせるのは残念だ。姫は二度とこういう
黒黍の蔭を
風がその匂いを送って危うく榕樹の林へ入りかけようとする姫の嗅覚に届いた、姫は袖で顔を覆った。
姫に一つの強い感銘を与えたということで陀堀多はほっと満足した。しかし、あの美しいものを不快がらしたと思うといじらしくてならなくなった。
陀堀多は黍の中で泣いた。
殺二商主一祀レ天喩
一隊商が曠野 で颶風 に遇った時、野神に供 うる人身御供 として案内人を殺した。案内人を失った隊商等の運命は如何。
×××で雇い入れた案内者は不思議な男だった。「ほんとうの案内者は殺されてから案内する」
こんなことをいった。みんなは大して気にも留めなかった。一つはこの案内者の見かけが平凡でそこらにざらにある雑種のアラビア人とちっとも違わないし、その上相当に
自分の言葉に取り合われぬとき案内者はその平凡な顔の上にかすかな怒りを見せた。
隊商は出発した。沙漠は無限だった。
この広漠たる沙漠のなかを案内者は杖を振り先頭に立って道を進めた。自信のある足取で行路を指揮する権威ある態度の彼は立派な案内者だった。
砂丘の蔭に石で
いつか一度は
さかなになって
水のお城に水の酒
あの子と二人で水の蚊帳
ささやれ
涼しい
涼しい
するとみんなも声を揃えて、涼しい、涼しいと合せるのだった。そして唄う面白さを引出して呉れた彼に感謝の拍手をみんなが送る。と、彼は一応うれしそうな顔はするがその後でぽかんとひとり言のようにまたいうのだった。さかなになって
水のお城に水の酒
あの子と二人で水の
ささやれ
涼しい
涼しい
「ほんとうの案内者は殺されてから案内する」
みんなは
×××を出発してから十何日目かの午後だった。行手の
さあ、誰か一人殺さねばならない。隊商の中のみんなが一度にそう思った。そして無気味な顔を見合せた。沙漠のなかで大風に遇うのは天神の怒に触れたものとして隊商のうちの一人を犠牲にして災難を免れるよう
隊商はみな同族だった。お互いがお互いの妻や子を見知って居るような間柄だった。人情として誰一人にも手を加えられなかった。犠牲にするのは異邦人の案内者より他になかった。みんなは案内者を殺した。
大風は去った。案内者の死骸は鼻の穴も口も砂で一ぱい詰って朽木のように半分地に埋って居た。
いのちを助かって隊商のみんなは今更砂漠の中で案内者を殺して仕舞った失敗に気がついた。
「どうしよう」
みんなが口に出して言った。
当惑。迷いに迷ってみんなが
困るという感情が強く胸から身体の八方を冷酷に焼け爛らして行くとそのあとへ絶望という空虚が時間も空間も浸み込めない緻密の限りの質を持ち込んでそこを埋める。だが人々は、そのあまりに超人的な冷度に長く堪えては居られない。
思わずそこから弾ね起きる。みんなは云った。
「これからは、われわれみんなが案内者だ。行けるところまで行こう」
途端にみんなの胸に浮んだ言葉はあの案内者の口から出たものだった。
||ほんとうの案内者は殺されてから案内する||
しかし、本当に死んでその

妻の家の米を盗んで口へ入れた男の話。
こういう気持ちを人にいって判るだろうかどうだろうか。またはこういう気持ちは自分だけ変質的に持っていて到底、他人には理解されずに終る結婚後七日目に作太郎は新妻を連れて妻の実家を訪問したのだった。媒酌結婚ではあったが彼はその妻もその実家をも愛して居た。
程よい富、程よい名望、三棟の土蔵へ通う屋根廊下には旧家らしい薄闇が漂っていた。桟窓からさし込む陽に
「気味がお悪くは無くて。あたし陰気でこの家好きになれませんでしたわ」
花嫁の巻子は
自分が貰った新鮮で健康でカルシュームの匂いのする
「いい家だよ。がっちりしたおっかさんのような家だよ」
立止まると
廊下が尽きて土蔵の戸前へ移るところは菜がこぼれて石畳が露出して居た。そこから裏庭へ出て逞しい駝鳥のような鶏を作太郎に見せようという巻子の趣向なのだが下駄が一つしか置いて無かった。巻子はそれを穿くと、もう一つを取りに出た。
正午前の田舎の日光は廊下の左右の戸口からさし込んで
動物が穀物に対する本能。それで作太郎は思わず手を出したのだが意識的には一つ巻子の実家のものを無断で貰ってやれ、こういう気持ちに動かされて五本の指先をザクリと米に突込んでその一握りを口に頬張ったのだ。この無断は、
「あなた。どうかなすったの、頬が||」
彼女はいままで云いそびれて居たあなたという言葉を思わず使った。
作太郎は
夫の異常を見て巻子が叫声を立てたので一家中の騒ぎとなり作太郎はいよいよバツを悪くし作太郎に苦悶の表情が現われるほど一家の心配を増しとうとう外科医まで招んで来て仕舞った。
作太郎の頬は麻痺剤の利目が現れてだんだん無感覚になって来た。もうじきそこに刀が突立てられるだろう。そしてその皮膚の切口から喜劇的な粒米がぼろぼろ現れたら世界一恥かしいことだ。
「そのときおれはどうしたら宜いんだろう」
作太郎は眼を瞑って人はどうしてこういうとき死なないのだろうと悔いながら何の
食二半餅一喩
或人が食に飢え七枚の煎餅 を喰べた。だが七枚目を半分喰べた時満腹したので彼は言った、「今の半分の為に私の腹はくちくなったのだ、だから先の六枚は喰べなくてもよかったのに」
明るい早春のサンルームで愛の忍堪力の試験。イエツ教授の娘のマーガレットはこういう実験のプランを可愛ゆいとき色の小脳の
恋人の三木本は約束の時間にやって来た。オースチンリードで出来合いをすこし直さしたモーニングの突立った肩が黄いろい金鎖草の花房に
苦学の泥の跳ねあとを棘の舌ですっかり嘗めてしまった猫のような青年紳士は
眩しいような白と
「そのトーストを一枚、
男の忠実に働く手とカフスが六つばかりの銀器に映る。
庭の桜と梨の花が息を詰めて覗く。蒼空を下から持上げようと薔薇色の雲が地平から頭を押し出して見たが重くて駄目。
「こんどは、マルマレードを塗って一枚ね」
承知した男の忠実さとエリザベス朝式の銀器に手とカフスを映すことは前とちっとも変らない。どこかでフォルクダンスのレコードがこどもの靴先に挑みかける間拍子の弾み切ったのが聞える。男は
もう一枚、同じくマルマレードをつけて、もう一枚、もう一枚、もう一枚||マーガレットは男に取って貰って六枚まで喰べた。だが七枚目は
「半分」
と云った。
このとき思わず令嬢の顔を見た三木本の眉の根に面倒と怒りとで挟み上げられた肉の隆起を認めた。だがそれは極めてかすかなものですぐ消えた。
三木本の帰ったあと遅く出た風の送る水仙草の匂いを嗅ぎながら広いサンルームでマーガレットは安楽椅子にくたりとした。彼女は満腹したのが何となくおかしくなり、独りでくくと笑った。それから考えた。
「三木本が
彼女はまたおかしくなった。
「それにしても満腹して少しおなかが切ない。あのパンの前の六枚を喰べずに一番あとの七枚目の半分だけで三木本の愛の分量の実験の効果を挙げる方法はなかったものか」
蒼空に乱れ始めた白雲を眺めながら彼女の頭脳の若さはこんな無理をしきりに考えた。
小児得二大亀一喩
この辺で亀は珍らしかった。こどもはそれを捉えた。用心して棒切で押えて縄で縛った。
こどもははじめて見るこの爬虫類を憎んだ、石の箱のなかに首も手足もしまって思い通りにならない。ひっくり返せばそのままひっくり返って居る。こどものリズムとテムポが合わないもどかしい退屈な動物だ。
それにこどもはこの動物を危険な動物とも見た。なにしろ手足に爪が生えている。口には歯もある。危害を隠しているこの醜いものを殺して英雄になり度い気持ちがこどもに強く湧いた。こどもは勇気を
通りがかりの人があった。
「それは、水のなかへ入れるが宜い。一番早く死ぬ」
こどもにこう教えた。
(おとなというものは真赤な嘘をこどもに信じさせるときにいくらか自分もその気になるものだ。とうとう本当にその気になって仕舞うこともある。)
こどもは亀を池の中へ入れた。背中に模様のある石は一たん水の中に沈んでそれから浮いて水草の間に手足を働かした。
「やあ、苦しんでやがる」
惨虐な少年の性慾は異様な満足を感じた。
おとなの嘘から少年の中に