折口といふ名字は、摂津国西成郡木津村の百姓の家の通り名とも、名字ともつかずのびて来た称へである。
木津村は今、大阪市南区(現在更に浪速区)木津となつた。所謂「木津や難波の橋の下」と謡れた、
願泉寺門徒の、石山合戦に働いたことは、
折口の家は、わたしの生れた鴎町一丁目の家を、ところでは、本家と考へてゐる。静と言ふ兄の立てゝゐる此家は、折口姓を名のる家の中では、一番長い軒・広い屋敷を持つてゐる為、一見腹膨れらしく見える処からの思ひ違ひで、本家は、別にあるのである。
木津勘助町の二丁目と三丁目との間を、南町の方へ走る電車道が通つてゐて、そこに、勘助町の停留場がある。其辺が昔は、田傍(たばた)と言ふ小名であつた。老人は今も、さう呼んでゐる。其処は、
此地蔵堂の後、叉杖の西側の枝にあたる勝間(こつま)街道に向うて、はなやと言ふ通り名の家があつて、やはり、折口を名のつてゐた。此が、折口の本家である。家の親類ではあるが、血筋はすつかり、切れて了うてゐる。当主の
子どもの頃、誰かゝらはなやは、
併し、或はたばたの折口が、何時の頃にか衰へて、唯泉寺・願泉寺・田傍地蔵の花を売つた様な事が、あるのかも知れぬ。唯、花屋といふ商売を、賤業と見なしてゐる徳川頃に、如何におちぶれても、仏の花を商うてゐる家を、旧家七軒の中に数へなかつたであらう。なる程、人馬講の名の様な活動を、此村の草分けの人々がした頃には、或は此木津が、本願寺附属の、童子村・神人村風の処だつたかも知れぬが、所謂賤種階級を数へることの整うて後の江戸末期に、此村の古い家が、情ない商売をしようとも思はれぬ。弁解ではないが、本家とも言ふべき家が、妙な屋号を持つたことについて、疑ひを起さぬ訣にはいかぬ。先年亡くなつた祖母も、百姓一まきの家としての、所謂はなやを知つてゐるばかりで、花を売つてゐたことは知らぬ、と言うてゐた。此屋号は、はなやといふ音の第一綴音に、音勢点があるので、今の大阪語の花屋は、其音勢が
しかし、音勢点の時代的移動や、熟語を作る際の抑揚移転を、考へに入れてかゝらぬ様な語原解釈は、無意味である。今の、あくせんとを標準とした此はなやの説明は、唯説明が出来ると言ふだけで、さうに違ひない、と言ふ証拠には、ちつともなつてはくれぬ。併し何にしても、家の為には花屋でなく、鼻屋であつた方がよいか、と思ふ心が、かう書いてゐる間にも、強く動いてゐる。
折口の降り口であることだけは、根来落ちと関係を切り放しても、確かさうである。金田一京助先生は、あいぬ語の ru-essan が、折口に当つてゐる、とわたしの家の名義の話を聴いた末に、言はれたことがある。又、近頃発表せられたあいぬの詞曲「虎杖丸」の註釈で、
るゑさん ruwessan, ru-esssan 道の出口(浜の大道へ出る口)の事なり。下 り口の義なり。ru は道にて、essan の e は接頭語、san は出る意味なり。又下る意味なり。要するに、後方の高い処より、前方(浜)の低い方への運動なり(雑誌あらゝぎ大正七年六月号)。
と説明して居られる。誠によく似た、語の出来ぐあひである。単に語族が一つだ、と言ふだけで、縁もゆかりもない、北の島人の語ばかりでなく、ほゞおなじ語を話し、兄弟の情を持ちあつてゐる我々の間には、勿論、同じ組織の語で、似た地形を表す事になつてゐる。子どもの頃、よく印刷屋の表に立つて、
折口(をりくち)(薩摩出水) 折口(をりのくち)(武蔵榛沢)
をりのくちの方は、のの割りこみ方が、聊か異風ではあるが、おりをおりみちなど言ふ過程を含んだ語と見れば訣る。折戸(をりと)(尾張愛知 上総武射 下野塩谷 羽前西置賜 能登珠洲 越後西頸城) 折戸(をりど)(駿河有渡 越中上新川 越前阪井)
此等は、折立(をりたち)(大和吉野) 折立(をりたて)(下総印旛 越前大野) 折立(をりだて)(美濃方県)
下り立つた麓の地である。折居(をりゐ)(越後西頸城 同刈羽 同北蒲ノ沢) 折井(石見那賀)
右と同じ意味の地名。折坂(をりさか)(出雲能義) 折方(をりかた)(播磨赤穂) 折原(をりはら)(武蔵男衾) 折平(をりひら)(三河西加茂) 折田(をりた)(上野吾妻) 折津(をりつ)(上総市原) 折橋(をりはし)(常陸久慈) 折野(をりの)(阿波板野) 折尾(をりを)(筑前遠賀) 折崎(をりさき)(肥後玉名) 折地(をりぢ)(筑後下妻) 折元(をりもと)(豊前下毛) 折谷(をりたに)(加賀河北 越中上新川) 折木沢(をりきさは)(上総望陀) 折尾瀬(をりをぜ)(肥前東彼杵) 折生迫(をりふさこ)(日向北那珂) 折宇(をりう)(阿波海部)
折井は、折坐とおなじ地形を言ふので、其よりも、古い時代に出来たものであらうか。折合(をりあひ)(土佐幡多) 折木(をりき)(磐城楢葉) 折茂(をりも)(陸奥上北) 折浜(をりのはま)(陸前牡鹿)
此ほかにも、織笠(をりかさ)(陸中東閉伊) 織島里(おりじまがり)(肥前小城) 織豊(おりとよ)(尾張愛知)
などあるが、織笠の折笠と同じ語らしいものゝ外は、其意をたどる事も出来ぬ。辞典によると、折峠(をりたうげ)(越後岩船) 下津(おりつ)(尾張中島) 下立(おりたち)(越中新川) 小里(をり)(美濃土岐) 折壁(をりかべ)(陸中東磐井) 折紙鼻(をりかみばな)(長門豊浦) 折敷畠(をりしきはた)(安岐佐伯)
右の中、小里は、折口は、木津の地では、一切おりぐちと濁つて言ふ事はない。字の宛て方がうまかつたのか、外に訓み方もない為か、時々、おれくちと不吉な訓みをつけられる事があるばかりで、大抵始めて此妙な名字に出くはした人にも、すらりと通る様である。併し、おりくちと清んで訓んでくれる人は、あまりない。此頃では、とうかするとおりぐちと言うて、自分乍ら、ずぼらになつたのに、驚く事がある。
明治四十二年の天満焼けのをり、朝日・毎日の二つの新聞で募つた義捐金に、喜捨した人の中に、淡路三原(或は津名)郡何村の折口某と言ふ姓名が見えた。目のよる処に玉とやらで、注意してゐた為か、其頃南区二つ井戸に近い上大和橋の辺から、身投げして助けられた女の人の名字も折口で、此は播州生れであつた事を、やはり新聞で知つた。其頃は、折口が地形の名で、幾百里離れてゐても、苟も日本の土地でありさへすれば、何の聯絡なしに、勝手に幾らでも出来るはずの家名だ、とたかを括る様になつてゐた為、書きとめて置かなんだのが残念である。
物心づいたわたしが見知つた、木津中の折口には、七軒あつた。折清(をりせ、代々清兵衛・清吉の立てゝゐる家)・折佐(をりさ、佐兵衛の後家よねといふ年よりが、今も生きて、兄の家に出入りしてゐる。其孫の佐吉と言ふのが、
兄進の知人日疋重亮と言ふ人の話では、東京本郷座の辺に、折口冬と言ふ女名前の宿屋があるさうである。古顔の壮士役者中村秋孝といふ人の妻のよし。母に訊くと、其はやはり家の親類で、三十年程前まで、隣りあひであつた豆腐屋の娘で、堀江で茶屋を出してゐた者だ、と言うてゐた。
兄静の立てゝゐる家は、代々折口彦七で、曾祖父・祖父の二代は岡本屋と言ひ、岡彦と称へた。岡本屋と言ふのは、木津の名主で、ところから住吉まで二里近くの間、他家の地面を踏まずに、行くことが出来たといふ家である。曾祖父は、其処の番頭になつてゐたので、其屋号を専ら用ゐてゐた。曾祖母登代といふのが、非常な賢婦人で、諸芸・読み書き、何でも出来た人である。つぶれかゝつた家を、女手で引き起して、飛鳥造酒之介・上野つたの二人を養子にして、家を護つた。登代の継子(曾祖父彦七のうきよの子)彦次郎といふのは、学問嗜きであつたが、放蕩であつた為、勘当した。祖父彦七の代に、熊野から来た六十六部が、彦次郎が尚、熊野に生きてゐて、寺子屋を開いてゐるよしを伝へたさうだから、熊野の何処かには、家と深い関係のある折口が、一軒残つてゐるかも知れぬ。