一
今日の我々は、背景を知らずに見るから、ばらっどとしての誇張と、純粋な劇的の構想にうつかりひつかゝつて了ふのである。時代が創作時代・抒情詩時代に入つてゐるのだから、都近くから出たばらっどが、如何にも修練と昂奮とで、技巧を突破した作物らしい色を見せる様になつてゐる。殊に中臣宅守に係つた巻第十五の主要部になつた連作の唱和などは、かう言ふ自身すら、疑はしく思ふ程の傑作揃ひである。併し、どうして其等の相聞歌が散逸せなかつたか、即興以外には

併し又一方、若売は藤原宇合の妻で、百川の生母である。夫が時疫で亡くなつた時は、当時六歳の百川が居た。此事件が持ちあがつたのは、翌々年に秘事が顕れたのであつた。一年も居ない中に、大赦で許されて後、又元の無位から従四位下までになつて、子を四十八で亡くし、自分は一年後にあとを追うた。だから内輪に見積つても、六十五以上になるまで、恐らく
平安朝の初め大同元年に、采女の資格を三十から四十までの、当時夫のないものと言ふことに定めてゐる(類聚三代格)。かう言ふ改正規定の出たのは此時はじめて英断をしたのではないに相違ない。信仰上の事は、無意識の変更があつても、知つて改める事は畏れられてゐたから。既に奈良朝にも、寡婦と処女とを同格に見る風が出来てゐたことゝ思はれる。此事は沖縄の女神職なる
日本小説の源流は、黒川真頼にも注意せられて、浦島子伝・
近世の意味ではない小説が、日本人の手で散文に書き取られ、神仙秘伝其儘の、神女の誘ひに従うて、恋の楽土に遊んだ話は、数多あつた。丹後の地にあつた浦島子の叙事詩、吉野川を中心に固定した
今は一つの証拠すら残つてゐない方面で、存在の疑はれぬのは、宮廷隠事の書き物である。飛鳥の末にすら、浦島子伝が書かれたのである。奈良に入つて、漢文を作る能力も進み、熱意も加つて来た時代に、目にし耳にした宮廷生活に関する浮説、殊にまだ女帝に於て神との交渉が密接であり、自然外部の空想を逞しうさせるゆとりが十分あつた。則天武后に係つた小説を見た眼からは、武后の生活が、最高の女性の上にも、見出され易い。其が、進んだ奈良末期・平安初期の不純な創作気分を交へて来た心には、誇張せられ、強調せられて出て来る。文にも一々手本があつて其をなぞつたのであるから、どうしても、事実に遠くなる。かなり外的興味の豊かだつた持統天皇は、時代が古かつた為か、行文の不如意から来る舞文の為に呪はれなされずにすんだ。元明・元正二帝も、大事件の生じなかつた為か、何の痕跡も残つてゐない。孝謙天皇の時は、実際事件も多かつた。経済状態は一時に高まつて来た。宮廷生活も文明的施設が整うて来た。武后の姿を日本に見る時が来たのである。ある点まで、二人の侍臣についた伝説は、事実かも知れない。併し、すべてを信じる訣にはいかぬ。宗教的行動に出られる時の心持ちは、さうした側に冷淡な六国史流の記述では知られない。道鏡を重用せられたのも、
平安朝から、鎌倉へかけて、女帝と寵臣との靡爛した生活を書いた物は、恐らく奈良末・平安初期の和製武后伝に煩ひせられて居る事が多いのに違ひない。語原の意義が、第二義を含みかけた時代の小説で、国文で書かなかつたものを言ふところに、注意をする必要がある。続日本紀編纂の際に、此類の書物の影響のあつたことは否まれない。半月程前、高野斑山氏に会うた人の話に、高野氏は「如意君伝」を持つて居られる。此書は女帝の史実と伝へて居るものゝ原本らしいと言はれたさうである。私の古くから抱いてゐた仮定に賛成者を得た気がした。高野氏に借覧を乞うて見たいと思うてゐる。
二
石上乙麻呂の事件なども、逆に或は叙事詩から出て「
大君の命畏み、さしなみの国にいでます、はしきやし我が
父君に我は
大崎の神の
其にしても、此歌は青年の述懐で、恐らく
長・短・旋頭歌・片哥などを一団とした「組み歌」らしいものは、記紀に見えてゐる。後世ほど「組み歌」の一つ/\に思想の連絡を失ふ様になつて行く。古い処には、ともかくも、一つの態度なり、一つの思想なりが見える。此なども其一つである。此等も身ぶり或は人形が伴うてゐたのではないだらうか。此問答や道行きぶりに近い文章が、劇的動作を思はせる。
形は贈答に見えても、実はさうでない。此短歌は
ちはやぶる鐘个岬 を過ぎぬとも 我は忘れじ。志珂 の皇神 (万葉巻七)
と全く一つで、神に媚び仕へるものである。「神様、あなたのいらつしやる浜は小さいけれど、どの船でも皆お参りせずに通り過ぎはしませぬ」と言ふ意味で、神の機嫌をなだめる歌である。一種の呪文として用ゐられる素質を持つて居る事になる。此なども一回きりの歌でなく、大崎を過ぎる時に、神に対して唱へた、きまり文句だつたと言へよう。次は三
乙麻呂の恩恵に浴されなかつた天平十二年の大赦に、中臣宅守も、同じ数の一人として列ねられてゐる(続紀)。赦に入らぬ罪名に挙げられた中の※[#「姦+干」、481-13]他妻といふのが、宅守の罪に当つてゐたのではなからうか。万葉集目録によると、重婚の罪のやうに見える。天平十一年以前に配流せられたものと思はれるが、さして長く居たのでもあるまい。宝字七年には従六位上から、従五位下になつてゐるから、乙麻呂とほゞ同じ頃に赦されたのであらう。乙麻呂ほど身分高い人でもなかつた為、注意を惹かなかつた点もあらうが、罪は越前への近流だけに
万葉の左註は、歌の趣きから割り出したものが多い。処が、歌々の小序も多くはやはり其で、作者が明らかに書き添へたものと見える外は、後からの「追ひ書き」である。さうして
譬へば三山の歌(万葉集巻一)の如きは、長歌の不完全な為に、三山に寄せて思を陳べられた自己弁護の御製らしく見える。それで勢ひ、反歌の中の「わたつみの
同じ事の違うた姿で出て居るのは、伝説に主観的誤解を加へて現したもの。一例は万葉集巻一の初めの方の、「
宅守相聞に左註があまり詳しく、製作の場合を示して居るのは、宅守なり茅上ノ郎女なりの手記を其儘に写したものと見られない訣である。一体巻十五は、二部の歌の寄りあひである。百四十五首一纏りの天平八年遣新羅使人等の歌と此相聞集とより外はない。前の方は、多事であつた旅行記念に、当時勃興しかけて居た古歌採集熱から、丹念に古歌・新作を書きつけて置いたとすれば、成立の理由もわかる。
殊に今日我々が考へる様に、自由に創作詩が生れて来たものと考へられぬ時代なのだから、古歌になぞつて出来た一首の新歌でも尊ばれたものと思はれる。書記せられる理由は勿論あるのである。
宅守相聞になると、どういふ形式で贈答せられてゐたとしても、かうして纏る理由は考へられぬ。否一つある。其は先に言うた伝奇情史として、文学に目醒めた人が、代作気分の残つてゐる時代の一つの影響として、二人の唱和を、頼まれない代作としての芸術に仮託したものと見る事である。宅守に張文成を気どるだけの教養があつたら、自ら愛人との贈答を筆録したとも言へようが、宅守を張文成たらしめた代作者があつたと見る方が正しい。私は尚乙麻呂の場合の考へ方で見て行かう。
六十三首が、かなりの価値のあるものだと言ふ事が、巡游伶人の手を経なかつた理由にはならぬ。個性が明らかであるないの問題は、軽々しく主観では決められない。個性が著しいものには、寧、用心の要るのがある。其は劇的の構想を持つものほど、さうした思ひ違へを起させる要素が十分にあるからだ。
君が行く道の長道 を 繰り畳 ね、焼 き亡ぼさむ 天 の火もがも(宅守相聞||万葉集巻十五)
情熱の極度とも見える。が一方、劇的の興奮・叙事脈の誇張が十分に出てゐる。要は態度一つである。此までの本の読み方以外に、かうした態度から見ると、背景が易ると、価値も自ら変らずには居ない。悲痛な恋愛、不如意な相思、靡爛した性欲、||かう言ふ処に焦点を置くのは、民謡の常である。東歌を見れば、それはよく知れる。民謡を孕む叙事詩中の情史に、その要素が十分に湛へられて居るからである。今日もかも 都なりせば、見まく欲り、西の
行路の不安を思ふことはあつても、配処の苦しさや径路を述べもしない。極めて近い処に居る様な安気な気持ちを見せてゐる。
宮人の安寐 も寝ずて、今日けふと 待つらむものを。見えぬ君かも(同)
などは恐らく旅行中に死んだ人を悼んで作つた歌らしく見える。此場合「見えぬ」は「見られに行かない」の意である。茅上娘子が隠し妻だから、宅守の家人の心持ちを思ひやつたのだとするのは、こぢつけであらう。短歌の集団である事は、読ませる事を目的としたものらしく見える。併し、事実に於て、すべての詩形は、短歌にのり越されて来た時代である。長歌に対する反歌と言ふ様な形は、長歌に対して、片哥・旋頭歌・短歌その他が「組み」になる在来の声楽の様式の上に、外国音楽上にある反(或は乱)と言ふ様式との類似を重ねて来て出来たものである。必しも「長・反の組み」が、本式のものではなかつた。長短錯雑して居たのを、次第に整理して「長・反」様式が出来もした。一方、短歌ばかりの「組み歌」も出来た訣である。人麻呂の作と推定すべき
四
こゝにお恥しい想像をつけ添へて、そつと心切な後人のもりたてを待つことにする。わが国のほかひゞとにも、創作詩人の偉大な者が現れた事はないであらうか。伝統の職業として「ほかひ」し「物語」る詩に整へられた内界を持つて、日本の歌の歴史に、創作詩の時代をわりあひに早く招きよせた天才があつたのではなからうか。死霊に聞かせるよごととも言ふべきしぬびごと=誄||
一方神遊びの詞曲・狂乱の舞踊の文句は、古伝ある物以外は、民謡・童謡をとつて、此側の出身者の手を煩さなかつたのであらう。
古墳の多い奈良南郊に本貫のある柿本氏は、遊部・ほかひに何の関係もないか。私は、人麻呂をほおまあにして、更に詩形に改革を促したものと考へてゐる。ほかひの家元とも言ふべきよごと部・ほかひ部の
ほかひゞとの間に、文芸の才の優れた者が続出するうちには、叙事詩としておもしろいものゝ新作が出来て来るであらう。宅守相聞の如きは、単に文人意識ある有識者の手で作られたものと言ふより、ほかひゞとの補綴によつてなつた「組み歌」なること、ずつと後世の世阿弥の如き専門家の手で出来た、意識的に旧叙事詩を改作・補綴したものではないかと思ふのである。
右の仮説は、今は真の仮説に止るであらう。併し、宅守・茅上相聞の歌が、創作詩でないことだけは考へねばならぬ。
我々の国に於て、異神の信仰を携へ歩いた事は、幾度であるか知れない。古く常世神・八幡神の如きが見えるのは、神道の上にも、段々の変遷増加のあつたことを示してゐるのだ。倭媛の如きも、実は日の神の教への布教者として旅を続けた人であつたのである。倭を出た神は、伊勢に鎮座の処を見出したのであつた。此高級巫女から伺はれる事実は、飛鳥・藤原の時代に既に、異教の村々を巡遊した多くの巫女のあつたことである。豊受ノ神は丹波から移り、安菩 ノ神は出雲から来て居る。同時に古代幾多の貴種流離譚は、一部分は、神並びに神を携へて歩いた人々の歴史を語つてゐるのである。天ノ日矛の物語・比売許曾 の縁起は、史実と言ふより、蕃神渡来の記憶を語るものであらう。