一
まづ万葉集の歌が如何にしてあらはれて来たか、更に日本の歌がどういふ処から生れて来たか、といふこと即、万葉集に到る日本の歌の文学史を述べ、万葉集の書物の歴史を述べたいと思ふ。
すべて文学は、文明の世になると、芸術的衝動から作られるものであるが、昔はさうした欲望がなかつた。だから、其時代に、如何にして歌が出来たかをまづ考へねばならぬ。
日本に歌の出来た始めは、文学の目的の為に生れたものではない。すぐに人が考へる事は、歌は男女牽引の具として生れて来たと考へ易いことであるが、其は大きな間違ひで、鳥が高声をはりあげたりするのとは違ふ。なる程、此要求はあるには違ひないが、此説の全部を其原因に採ることは、あまりに幼稚な見方である。文学がある点まで発育して後にこそ、此手段に利用せられることはある。此立ち場から異つた方面を話して見たいと思ふ。
外国に於ても、やはり同じ発生の径路を取つて居るが、日本では更に著しく其跡が見え、古い書物に其痕跡がはつきり遺つて居る。万葉集の様な可なり文明の進んだ時代の歌集に於ても、其跡がはつきり見える。
私は文学の発生より説き、其証拠を総て万葉集に求めつゝ、日本の歌を考へて見よう。さうすれば同時に、日本の歌の発生的順序がわかると思ふ。
万葉集は、巻の順序は年代になつてゐないが、十七・十八・十九・二十の四巻は、年代がずつと新らしい。中でも二十巻の歌は最新しいと考へる。先づ其処までに到る迄の日本の歌の発生する歴史を、万葉集によつて述べて見よう。さうすると、正当な万葉集の年代順が附く
文章が散文であるのは、新しい。始めは、韻文或は律文である。日本では律文と言ふ方が正しい。日本文学の古い時代には、律文が唯一の文学で、散文は後に生れたものである。奈良朝も頂上に到つた頃に散文が現れて居るが、十分の発育はせず、純粋の散文は平安朝になつてやつと発達した。平安朝の文学史は散文の文学史で、奈良朝から以前の文学史は律文の文学史である。だから、律文の文学史||万葉集の歌の出来た順序に就ての解説は当然、奈良朝までの日本古代の完全な文学史になるのである。
文学であると言ふ以上、永久性がなければならぬ。文学は即座に消えるものではない。処が不都合な事は、昔は文字がなかつた。尠くとも、日本文学の発生当初に於ては、文字は無かつた。文字の無かつた時代の文学は、普通の話と同じ様に口頭の文章によつて伝へられてゐた。つまり今言ふ童謡・民謡の如き文章、而もたゞ、口頭の文章と言うても、人の記憶に止まらぬ文章は永久性がない。永久性のある文は、韻文・律文でなければならぬ。散文の文学が、文字のない時代に永久性をもつて居たと考へるのは間違ひである。
其次に、律文であつても、遺らねばならぬものと、遺る価値の無いものとがある。つまり、其村々・国々の生活の中心になつて居る年中行事として繰り返されるものでなければ、永久性はない。今日に於ても、昔からの宗教の力の遺つて居る言ひ習しや、しきたりや、信仰がある。今日の生活に関係の無い迷信・俗信がある。吾々は迷信と思つて居りながらも退け得られぬ信仰がある。
昔の村||大きな国を知らない時代||の生活を考へると、村の最重大な中心になるものは、神祭りである。祭り以外の事は多くは場合々々になくなつてもよかつた。神祭り以外の事としては、神の信仰に関する事、是等は総て律文で伝へられて居る。失はれない信仰が村々を安全に保たせるものだと信じて居た。此神の信仰に関するものが、後々まで遺つて、文学もこゝに出発点があつた。
即、神々を祀る場合、神に関する信仰を伝へた言葉、一種の文章なり、ことばなりが、永く久しく残つたのである。其中には社会状態・信仰状態の変化に因つて、無意味になつて来たものもあるが、ともかくも、神に関する口頭の文章のみが、永く久しく遺る力を有つて居た。此以前に、文学の興る出発点は考へられない。
二
神の信仰、神祭りに関することばは、如何にして我国に現れたか。最初に吾々の祖先が、是は伝へなければならぬと思つたことばは、神自身の言うたことば、即、託宣であつた。神が現れて、自分の言ひたい事を言うた、其ことばである。神のことばが、何の為に告げられたかと言ふ事を、考へねばならぬ。
神が村々へ時を定めて現れ、あることばを語つて行く。ことばは、恐らく村人の要求通りのことばであつて、而も其が毎年繰り返される。村人の平穏無事で暮せる様に、農作物が豊かである様にと言ふ、お定り言葉を神は言うて行つたのである。託宣の形は遺つて居ないが、思ふに単に神が、実利的のことばを言うて行くのではなく、神現れて、神自身の来歴を告げて去る。そして、村人を脅す家なり村なりの附近に住んで居る低い神、即、土地の精霊と約束して行く。其は、自分はかう言ふ神だぞ。だからお前は自分の言ふ事を聴かねばならぬ、と言ふ意味のことばであつた。約束をした後、神は村を去る。
此が毎年繰り返される。此ことばが村人にとつて非常に大切であつた。村人は是を大切なものとして伝承した。其痕跡は今も遺つて居る。節分の夜、厄祓ひが来たり、東北地方では正月十五日の夜、怠け者を懲す為に変なものが来たり、年の暮や年の始めに、鬼の歩くのは、皆昔神の訪れたなごりであるが、今日では、此意味は忘れられて居る。此等は恐らく、只今の国家が始まらぬ前からの信仰が、形式化しつゝ遺物化して遺存して居る、生活上の化石であらう。
かうして来る者は、皆神なのであつた。其が次第に訣らなくなつて、鬼になつたり、乞食になつたりして、其習慣が
八重山では、初春の植ゑつけなどに、色々の神が来る。或村には鬼、或村には蓑笠を著けた者、或村には盆の時に、祖先が伴を連れて幸福を授けに来る。此訪れる神の唱へる文句が、神に扮した人によつて伝へられる。
村々の若者は、村の中心であつた。村の中心とは、神事に奉仕すると言ふことである。此神に仕へる為には、成年式を済して、資格を得なければならぬ。成年式をあげた若者が、村々の中心になる。神の祭りの前後には潔斎をして神になるのだ。神の唱へる文句は、村の若者のみに、非常な大切なものとして伝つた。此らは皆、神の自叙伝である。
ところが、是に随伴して言ふことは、相手の者をきめつけてかゝることば、村人に何の同情をも有たずして、其生活を脅す、低い精霊を圧へつける神々のことばである。此ことばは「自分は強い神である」と言ふだけでは、効力を示さない。即、相手は、どう言ふ弱点を有つて居るか、其弱点を自分はよく知つて居る、と言へば、
一人称の律文が、二人称の律文を含む様になつて来た。而も此自叙伝の歴史が律文で伝へられた。かうして、日本に出来て来た口頭の文章が、古い
此崩れた形が、万葉集にある。そこには延喜式の祝詞のものよりも、古い形が遺つて居る。つまり寿詞の中に、神の自叙伝、相手の来歴を述べるものがあるので、其が其まゝ展びて叙事詩となつた。||此は、平安朝頃の物語よりも更に古い物語であつて、今の語で言へば、叙事詩である。かうして歴史を語る、尠くとも事実あつたといふ、歴史を語り伝へるものが、寿詞より分れて来る。処が、祝詞の様に、正式な堂々たるものにならず、短いものになつて了うた。即、肝腎の処のみ遺つて、他の部分は捨てたと言ふ如きものがある。此を呪言と言ふ。
即、長い文章の中から、短い部分が脱落して来る。此俤は多少とも、万葉集の中に留めてゐる。
三
ところが日本の国家組織が、次第に進んで来ると、村々は大抵、日本の国家に合せられる。国家の支配下となつた村は存続するが、国家に反抗した村は潰れる。即、社会的の階段が破壊する。其故、かう言ふ文章を伝誦してゐた一種の職業者が、此職業を失つた。同時に一の国家のもとに支配される様になり、村々の交通が自由になつた為に放浪する人々が出来た。即、
村々の語部・国々の語部は、其村なり国なりの頭になつて居る家の、歴史を語り伝へて居る者である。其は、日本の国家の最上である宮廷の語部である者もあり、村々の頭であつた人々の家に置かれて居る語部もあつた。此中のある者は、村や家の破壊するとゝもに、ほかひ人となつて、呪言や物語を語つて歩いた。宮廷に於ては、国家の歴史として考へられたものを、曲節を附して語り伝へ、其を国なり宮廷なりの大事な儀式の場合に語つた。こゝでは、宮廷での事のみを述べておく。
長い叙事詩の中で世に遺り易いものは、人々の興味を惹く部分である。長い叙事詩の中、興味の
大歌として独立すると、是が
ところが世が複雑になり、人の感情が細かになると、現在以上の歌を要求して大歌を創作する様になつて、宮廷詩の行はれる機運が起つた。是は日本の古い書物を見ると、大体古い飛鳥の都、即、舒明天皇・皇極天皇の頃からはつきりと現れて来るやうである。其機運が熟して来た為に、柿本人麻呂の如き人が、出て来たものと思はれる。つまり作者自身が、其感情になつて、宮廷或は貴族の感情を想像して代作をするのである。
日本では、自分の欲求から歌を作ると言ふより前に、先づ代作の歌が行はれてゐる。即、古くは、自分の感情を歌として現はす必要はなかつたのである。団体とか、或る貴い人の感情を、下の臣が代つて謡うたのである。感情表現の歌と言ふよりも、昔から伝へられた形式一偏の物でよかつたのである。かうして居る間に、一方に於て有力なものが働きかけて、自分自身で歌を作る動機が、発生した。即、抒情詩を生み出す機運に向いて来たのである。だから万葉集に見えて居るものゝ中で、奈良朝以前の歌は、代作の歌が多いと思つてよい。万葉集を見ると、此傾向が、ひどく力強くあらはれて居る。其が、代作の時代から真の抒情詩を産み出した天才歌人人麻呂を、一時に飛躍させる原動力になつた。人麻呂の抒情詩は、今日見ると、代作と称して居ないものでも、代作的のものが多い。
純粋の抒情詩は、其本人の感情が鍛錬された奈良朝時代に入つてからである。即、鍛錬されたものは、一方から流れて貴族によつてとり入れられ、支那の詩・賦・散文によつて、日本人の文学上の感情が醇化せられて、新抒情詩が発生した。奈良朝の頂上になると、大伴旅人・山上憶良が、殊に有力に見える。此時代になると、旅人や、憶良や、それから其以外の有識階級の人々によつて作られた抒情詩が、沢山あつた。日本にほんとうの文学らしいものが出来たのは、聖武・孝謙天皇の頃である。
けれども代作したり、よそごとに言うて居る様な応用的の動きから出来た古い時代の歌でも、立派なものゝあるのは、決して否まれぬものである。文学は、動機や態度によらずして、其人の力によつてよい物が出来る事を、よく呑みこんでおく必要がある。
四
処が、宴歌も亦寿詞より出て来る。宴歌は、宴会、即神々を迎へて、饗応する時の歌が、最初である。神が歌つた寿詞を語るか、寿詞を語ると同時に其場の即興、即、寿詞の崩れを歌うたことが、万葉の中に、見えて居る。神に歌をうたふ。神が又、此に対してうたげの歌をうたふ。此は多くの場合、新しい建物を造つて宴歌をうたふ事に始まる。即、新室を建てた時に、
叙景詩は、そんなに早くは発達して居ない。うつかりすると、神武天皇の后いすけより媛が、天皇の崩御の後作られた、と云ふ二首を叙景詩と思ふが、此は真の叙景詩ではない。||歌其もので研究するので、歌の序や、はしがきで、研究してはならぬ||だから叙景詩も、はつきりした意識から生れて来るものではない。新室ほかひの歌は、其建物の材料とか、建物の周囲の物などを歌ひ込めて行く。而も最初から此を歌はうとして居るのではない。即、茫莫たるものを、まとめるのである。昔の人は、大体の気分があるのみで、何を歌はうといふはつきりした予定が、初めからあるのではない。枕詞・序歌は大抵、目前の物を見つめて居る。
みつ/\し 久米の子等が 垣下 に、植ゑし薑 。脣 ひゞく。
吾は忘れじ。撃ちてし止まむ(神武天皇||古事記)
即、序歌によつて、自分の感情をまとめて来るのである。予定があつて、序歌が出来たと思ふのは誤りである。でたらめの序歌によつて、自分の思想をまとめて行つた。即、神の告げと同様であつた。万葉集巻一の歌を見ると、叙景詩だか何だかはつきりわからないものが多い。うたげの歌が、旅行の時に行はれたのが叙景詩である。内部のものから、外部のものを歌ひ出さうとして来た。此を大成したと思はれるのは、山部ノ赤人である。此が赤人の功績である。赤人の先輩に、高市連黒人がある。此らの天才詩人が出で、飛躍せしめ、早く叙景詩をもち来した。彼等の以前にも功績ある人がないでもないが、此二人が、最著れてゐる。だから日本の歌には、真の叙景詩はなかつた。抒情気分が、附加されて居る。平安朝以後、此叙景によつて思ひを述べようとする傾向が続いた。今言ふ叙景詩は、比較的早く出て、新抒情詩より、一歩先んじて居るものである。吾は忘れじ。撃ちてし止まむ(神武天皇||古事記)
叙事詩の流れの中に、一つ変つた流れがある。其は、人の死んだ時に、読み上げる詞である。此を「
つまり、かう言ふ傾向から、日本人の歌に、譬喩が生れて来る。全くでたらめに、そこにある物を捉へて詠む、と言ふ処から「
同じ神が物を言ふ託宣の形にも、神が独りで喋つて居ると、たよりない所から、神と精霊との問答になる。神が簡単に相手に物を言ひかけると、此に対して返答の語があらはれて来た。私は、只今のところ、此は、寿詞より発生が後れて居ると思うて居る。普通の考へ方では、簡単な形が先に発生して、複雑なものが後に発生するとして居る。併し此は、物の変化を考察するに、誤つた考へ方である。先づ、複雑なものが先に発生するものである。自然は、複雑より単純へ、単純より又複雑へ進む事が順序である。
託宣の一分流として「
五
神と精霊との問答が、神に扮する者と、人との問答になる。そして、神になつてゐる人と、其を接待する村々の処女たちとの間の問答になる。其問ひなり答へなりを古い語で片歌と言はれて居る。片歌が二つ並んで一首をなしてゐるのは、皆問答の形である。
記・紀の日本武尊が、
五 七 七
五 七 七
片歌は、離す事は出来ないが、後には、片歌だけのがある。両方を、一人で詠むと言ふ事が出来て来る。此は、もう旋頭歌である。旋頭歌は、厳重に五七七で切れてゐる。旋頭歌はつまり、二人のかけ合ひの形をば、一人で言ふ形になつたものである。
又、歌垣と言ふ事がある。片歌の問答が発達したのは、神に仮装した男と、神に仕へる処女、即其時だけ処女として神に接する女とが、神の
神々の問答が、神と処女と、そして村の男と女とのかけ合ひになつた。即両方に男と女とが分れて、片歌で問答する。何れ、男女の問答であるから、自然と性欲的な問答になつて来る。其が、相手の歌を凌駕すると賞讃せられ、又、女が男をやりこめると、其女がもてはやされた。で、此歌垣の
短歌が固定したのは、藤原の都の時代、即、人麻呂の頃である。短歌をして明らかに人々に意識させる様になつたのは、人麻呂の功績である。
短歌の現れた原因は、もう一つ大歌にある。其は、歌を作る宮廷詩人と、田舎の即興詩人とが、別々である、と言ふ時代ではない。皆一つの所から、生れて来るものである。長歌の結末が離れて来る。即、五七五七七が独立して、此方面で発達した歌は、謡ふ形として、非常に、もて囃された時代であつた。此時代になると、ほんとうに、長歌・旋頭歌を作る人はなくなつた。短歌が、此種々の形を、整理して行つた。一方、短歌から、
奈良朝には、短歌の形が主となつたので、新作の大歌には、是非附かねばならぬものとなつた。此が「
最初の日本の恋愛詩は、純然たるものではなかつた。古い歌は、事実、性欲詩である。歌垣の
純抒情詩には、も一つの流れがある。即、ほかひ人の語る大切な詩である。宮廷で長いものを取り抜いてゐると同様に、民間でも、長い詩の中より、一部分を取り抜いて、おもしろい部分のみが、ほかひ人によつて歌はれた。そして、田舎の粗野な人間の間に、なつかしい尊い恋愛の情緒を歌はせる様になつて行く。此は、藤原の都より以前から、あり来つた事である。ほかひ人が、田舎の粗野な人々の石の様な心に、油の様な
身に沁む様な恋物語が、ほかひ人によつて伝へられ、其影響が粗野な村人の心に非常な美しさとして遺されて行つた。此情緒に惹かされて、歌垣の歌が、次第に美しい潤ひを帯びて来た。一例をあげて見ると、南より北へと植民した、安曇氏の一族がある。其が、海人部の民を率ゐてゐる。其安曇氏の移動して行く途に、のこされたに違ひないと思はれる、安曇氏の歌があつて、記・紀の中にも、採られてゐる。「天語り歌」とあるが、即、海人部の物語りの歌、安曇氏の歌である。
六
ほかひ人は、宗教を持つて歩くと同時に、歌をも持つて歩いた。而して、其が地方人の心を柔げ、歴史観を統一した。流浪して歩く
日本人が作つた恋愛詩は、此民謡から出発するけれども、其は真の恋愛詩ではない。即、多くの人を相手にしたもので、一人の恋人を相手として歌つたものはない。多くの人を相手にした歌、誇張した歌、技巧的な歌である。万葉集に伝る理由の不明と思はれる様な、特殊な部分がある。此は、多数の群集を相手にして、歌つたものである。
かく、戯曲的であり、誇張を持つた歌が、恋愛詩であつた。其らは万葉集の「東歌」によく現れて居る。此がだん/\に変つてほんとうの恋愛詩を生む。日本の恋愛詩は、奈良朝の初めになつて、純抒情詩となつた。人麻呂の恋愛詩にも、誇張がある。其が、劇的になつて、万葉集に現れて居る。万葉集の終りの頃に出て居る歌でも、此事実を見出し得る。
又、ほかひ人は、長歌を謡つたばかりではなく、短歌を謡つたと思はれるものがある。
一方に於て、此かけ合ひの問答が、日本文学に於ける変つた形を生み出した。多くの人がよつて、両方から歌をかけ合せる。此が貴族の間に行はれると「歌合せ」になる。其系統は、歌垣が宮中へ入つて、踏歌となる。即、男女が歌をかけ合ふ。此が歌合せの原形である。恐らく、「歌合せ」は、巻一の天智天皇の時代、中臣鎌足が審判になつて、春秋の
歌合せは、文学発生の歴史より見ると、重大な影響を有つてゐる。此形から変態化したものが、「連歌」である。歌合せの影響よりも、問答の形、即、二人で歌の両方をよみ合せる形、つまり、歌垣のかけ合ひの文学化したものが「連歌」である。文学史より見ると、平安の末百六七十年の頃、盛んになつたものであるが、もつと、早い時代にあつたものと思ふ。
此連歌が、上の句と下の句とのみならず、其に五十句・百句を次ぐ様になる。此が古典的に興味を失つて、誹諧が発生する。室町の時代から、発句が独立して来たが、独立した芸術様式と見られるのは、徳川時代になつてから、即、芭蕉になつてからである。
かう考へると、ずつと長い歴史が、源をほゞ一にして、出発して居る。こゝまで述べた歴史の中、誹諧を除けば、皆万葉集によつて、解く事が出来る。其つもりで万葉集を文学的に講義したらと思つてゐるのである。