一
飛鳥の都以後奈良朝以前の、感情生活の記録が、万葉集である。万葉びとと呼ぶのは、此間に、此国土の上に現れて、様々な生活を遂げた人の総べてを
政治史より民族史、思想史よりは生活史を重く見る私共には、民間の生活が、政権の移動と足並みを揃へるものとする考へは、極めて無意味に見える。此方面からも、万葉人を一纏めにして考へねばならなかつたのである。
其理想の生活
彼らにとつては、殆ど偶像であつた一つの生活様式がある。彼らの美しい、醜い様々の生活が、此境涯に入ると、醇化せられた姿となつて表れて居る。
其は、出雲びとおほくにぬしの生活である。出雲風土記には、やまと成す大神と言ふ讃め名で書かれて居る。出雲人の倭成す神は、大和びとの語では、はつくにしらす・すめらみことと言うて居る。神武天皇・崇神天皇は、此称呼を負うて居られる。倭成す境涯に入れば、一挙手も、一投足も、神の意志に動くもの、と見られて居た。愛も欲も、猾智も残虐も、其後に働く大きな力の
我々の最初の母いざなみの行つたよみの国は、死者の為の唯一つの来世であつた。
二
倭成す神は、はつ国
其と一つで、おほくにぬしだけが、倭成す神でなくて、神々があつたのである。神々の中、日の神を祀る神がはつ国しつた時に、母なる
かうして、神々の宗教の神学体系が立てられた。
古事記・日本紀は、新しい神学の基礎に立つて、さうした断篇を組織したまでの物である。三つの古風土記(九州の、二つには、私は著しい近世的の臭ひを、感ぜないではゐられぬから、省いた)の中、記・紀と、一番足並みを揃へてゐるのは、出雲風土記である。常陸のになると、此体系を度外視する、理智の眼が光つてゐる。其で、此書の裏に、一貫した神学があらうとは見えぬ程、恐しく断篇化した記述法を取つてゐるにも拘はらず、神を失はうとしてゐる者の偶像破壊に過ぎないといふ事は見えてゐる。時代は其と、いくらも古くはあるまいに、播磨風土記に現れた断篇風な記述は、確かに神学以前の不統一な面影を残してゐる。ほんとうに、無知な群集の感情其まゝである。
出雲には、おほくにぬし以上の人格を考へる事が出来なかつたから、其風土記にも知られ過ぎた神としての彼の生活は、其輪廓さへも書く必要がなかつたのである。処が播磨風土記に現れたおほくにぬしは、まだ神学の玉の緒に貫かれない玉の様に、断篇風に散らばつてゐる。あまりに、記・紀を通して見たおほくにぬしと距離があり過ぎる。
すくなひこなとの競走に、糞ではかまを汚した童話風な話があり、あめのひほことの国争ひに、蛮人でもし相な、足縄投げの物語りを残してゐる。醜悪であり幼稚であることが、此神の性格に破綻を起さないのである。普通人其儘の生活を持つことが理想に
嫉みを受ける人として
多くの女の愛情を、身一つに納める一面には、必、
おほくにぬしの、よみから伴れ戻つた
男には諸向き心を、女には
教養あるものは、笑うてゐたが、
江戸より前の武家の家庭では、
もし本朝妬婦伝を撰るなら、人の世に入つてからも、列伝に這入る者は、だん/\ある。仁徳のいはのひめ・允恭のなかちひめ、ずつと下つて、村上の安子の如き方々は、其尤なるものであらう。
とりわけ、いはのひめは嫉妬の為に、恋しい夫の家をすら、捨てた。嫉む時、足もあがゝに、悶えたとある。きびのくろひめ・やたのわきいらつめに心を傾けた仁徳天皇は、いはのひめに同棲を慂めるのに、夫としての善良さを、尽く現された。凡ての点に於て、人の世に生れて出たおほくにぬしとも言へる程の似よりを、此天皇はおほくにぬしに持つて居られる。其は殆ど双方の伝記で解釈のつかぬ処は、今一方の事蹟で註釈が出来る位である。今其一つを言はう。おほくにぬしの上に、明らかに見えない事で、仁徳には著しく現れてゐる事がある。
倭成す神の残虐
めとりのおほきみは、帝を袖にした。はやふさわけに近づいた。二人を
おほくにぬしが、白兎を
やまとたけるは、無邪気な残虐性から、兄おほうすを挫き殺した。併し雄略天皇程、此方面を素朴に現されたのは尠い。此等の方々の血のうちに、時々眼をあくすさのをが、さうさせるのである。
すさのをの善悪に固定せぬ面影は、最よく雄略天皇に出て居る。彼の行為は、今日から見れば、善でも悪でもない。強ひて言はうなら否、万葉びとの倫理観からは、当然、倭なす神なるが故に、といふ条件の下に凡てが善事と解せられて居たのである。
仁徳の御名はおほさゞき、雄略はおほはつせわかたけるのすめらみことと
三
此話を進めてゐて

神々のよみがへり
恋を得たおほくにぬしは即、兄たちの嫉みの為に、あまた度の死を経ねばならなかつた。母は憂へてすさのをの国に送つた。併しそこでも、くさ/″\の試みの後に野に焼き込められねばならなかつた。愚かなること猫の子の如く、性懲りもなく死の
併し初めには不死の自信がなかつた為に、生に執著もし、復活をも信じたのである。岩野泡鳴氏が、生の愛執を、やまとたけるに見出したまでは、此方面の考へは闇であつた。命をかたに妻子を育んだ戦国の家つ子の道徳が、万葉びとの時代からあつたもの、と信じたがる人々によつて信じられて来た。
花の如きおふぃりやの代りに、万葉人たちは、水に流れつゝ謡うたおほやまもりを持つてゐた。町人・絵師すら命の相場を「一分五厘」と叫ぶ様になつたのは、近世道徳の固定の初めの事であつた。我々の国の昔には、すぐれた人々が、死を厭ふをたけびを挙げて死んで行つた。
かういふ世であつたればこそ、おほくにぬしは死なゝかつたのである。其復活は信仰の俤を十分に伝へたと同時に、又切なる欲求を示したものでなければならぬ。
此点だけは、当時の人に或は単なる理想として、持たれて居つたに過ぎないかも知れぬ。が、近世に到るまでよみがへる人の噂を、
智慧の美徳
純良なおほくにぬしは、欺かれつゝ次第に智慧の光りを現して来た。此智慧こそは、やまとなす神の唯一のやたがらすであつた。愚かなる道徳家が、賢い不徳者にうち負けて、市が栄えた譚は、東西に通じて古い諷諭・教訓の型であつた。ほをり・神武・やまとたける・泊瀬天皇など皆、此美徳を持つて成功した。道徳一方から見るのでなければ、智慧と悪徳とは決して、隣りどうしでないばかりか、世を直し進める第一の力であつた。此点は既に和辻哲郎氏も触れた事がある。
四
人の世をよくするものは、協和ではなくて優越であり、力ではなくて智慧であることに想ひ到るまでには、団体どうしの間に、苦い幾多の経験が積まれたのである。おほくにぬしを仰ぐ人々の間には、長い道徳にかけかまひのない生活が続いてゐたのであらう。
昔程、村と言ふ考へが明らかである。立ち入つて見ると、個人の生活は、其中に消えこんで了ふ。
すべての生活を規定するとゞのつまりが、村であるとすれば、村々の間に、相容れぬ形の道の現れて来るのも、
さうした立ち場から、部分の類似をつきつめて行けば行く程、事実から遠のく。唯、円満に発達しきらぬ智慧の失策を見せたものとだけは、見ることが出来る。さうして此話が、おほくにぬしの智慧の発達に、ある暗示を持つてゐるものと見てもよさゝうである。
仁の意味
白兎の話が示した人道風な愛は、残虐であり、猾智である所の倭なす神には、不似合ひの様に見える。併し、外に対しての鋭い智者は、同時に、内に向けての仁人であつたはずである。尠くも、さうあるのを望んだ事は、ほんとうであるはずだ。残虐な楽しみを喜ぶ事を知つた昔びとにして見れば、それの存分に出来る権能は、えらばれた唯一人に限つて許される資格と考へた事であらう。智慧・仁慈・残虐は、ぱらどっくすではなく、倭成す神の三徳と見る事も出来るのである。
泊瀬天皇ぐらゐ、純粋な感情のまゝにふるまうた人はなかつた。瞬時も固定せぬ愛と憎み、神獣一如の姿である。此点から見れば、おほくにぬしは、著しく筆録時代の理想にひき直されてゐる様である。あめのさかてを拍つて、征服者を
村々の神主
日本歴史の立ち場から見た古代生活は、村を以てゆきづまりとする外はない。其以上は、先史遺物学者との妥協をめどにした空想に過ぎない。文献によつて知る事の出来る限りの古代には、既にかなりに進んだ村落組織が整うてゐた。村限りの生活が、国家観念に拡つて来はじめたのが、万葉びとの世のはじめで、其確かな意識に入り込む様になつたのが、此論文の主題の結着である。
其以前は、村自身で、一つの国家と考へてゐた時代である。よその村は、敵国である。もつと軽い語で言へば、いつでも敵国となるはずの国々であつた。さういふ時代の話からしてかゝらねば、万葉びとの国民としての心持ちは、考へることが出来ない。
村を又、ふれ・しまとも、くに・あがたとも言うたのは、此時代である。みち・ひな(山本信哉氏などは、あがたをも、同類に考へてゐる)と言ふ
泊瀬の国・吉野の国などは、万葉にも平気に使はれてゐる。しまともくにとも言ふ村が、大和一国にも、古ければ古い程多かつた。大和以外で言うても、国の名を言ふ村の数が、後世の国の幾層倍あつたか知れない。しまは、くにの古語と言うてよい様である。さうして、此しま/″\・くに/″\の中には、大和朝廷を脅かすものも多かつた。大和の国中でも、葛城の国などは、手ごはく感じられた印象を、記紀に止めてゐる。
飛鳥の村辺に、都の固定し出した頃には、国家の意識が、
公認せられた国の外は、おほよそ郡と称せられて、国の数は著しくへつた。国々は凡てふれ(村)を語根にしたこほり(郡)の名に喚び変へられて了うた。恐らく、郡といふ語は、わりあひに新しい語であつたのであらう。其でも、旧慣によつて、私に国名を称へるものもあり、言ひ改めてもなぜか郡を嫌つて、あがた或は、多く其形式化したがたと言ふ呼び名を用ゐるものが多かつた。名こそ変れ、実は同じで、大体に以前の国を郡とした事と思はれる。だから、国が大きくなつたと共に、国が小さくなつたと言ふ事の出来るあり様であつた。
此様に、国と郡とは内容を異にしてゐる。だから、国造・県主は多く郡の長官に任ぜられたが、国司に登用せられる理くつはなかつたのである。新制度では、国造の名さへ廃した。でも、由緒久しい処では、容易に改りはしなかつた。其ゆゑ国造であつて、他のかばねを兼ね持つてゐるのがあつたのである。国造の職分は、事実、郡領になつても変らなかつたはずである。国造の名がなくなり、郡領になつたのを、豪族の勢力の落ちた唯一の現れと解釈する人があつたら、其は、考へがなさ過ぎる。
地方制度の整理・監督官庁の設置・豪族の官吏化が、此改革の肝腎の精神であつたと思はれる。が、まだ一つ大事の目的が、外にあつたのである。国造の中、後世まで国造の称へを伝へた家々は、皆神事に与る筋である。事実亦、国造は地方々々の大社の為に、官幣を受けにも、上つて来た。国造と神主とを同じ意味に使うた例も多い。廃止の後も、郡領に神事を司したのは、国造が、神職の主座にゐた事を見せてゐるのである。
村の主長であつた国造が、同時に神主であると言ふのは、どうした訣か。神に近い者で、神の心を問ひ明らめる事の出来る者が、村人を神慮のまゝに支配してゐた、昔の村々の政治を見せてゐるのである。
さうした過去へ、一挙に我々の想像を誘ふのは、斉明紀に見えた「村々の祝部」と言ふ語である。文献に照して見ても、
宮廷の神職であつた中臣氏が、別に大中臣氏を立てゝ、本家は藤原となつて、政権に近づいて行つたのは、此事実と似てゐる。が実は、国造の宗教を破却して、主長であつて、
地方の大社に関する事は、国造の代りに国守をして執り行はせる事としたのも、名は旧慣に従ふ様に見せかけて、面目を一新しようとの企てが含まれてゐたのである。
国造の神に対しての関係は、子孫であるか、