高等科二年の多吉は、ある夕方、校門を出るとただ一人きりで家路に向つた。学友たちは幾つかのかたまりになつてそれぞれの方向へ別れ、何か大声で議論し合つてゐるのもあれば、また軍歌を合唱してゐる組もあつた。多吉はちらりと彼等の方に視線を移したが、見てはならぬものを見たかのやうにすぐ顔を外向けると、幾分頭を垂れ気味にして足を早めた。彼は何事か深く考へ込んでゐた。足を早めたとたんに、道路に突き出た石の頭に躓いて二三歩よろめいたが、それにも気づかぬくらゐであつた。
「やあい、多吉!」
と呼ぶ声がその時背後から聴えた。彼からはもうかなり離れた一団の中から叫んだのに違ひなかつた。
「タア吉ちやあん。」
と呼ぶ声がまた背中にぶつかつて来た。
彼はやつぱり返事はしなかつたが、今度はちよつと立停つて振り返つた。
「
多吉の家は、町はづれに流れてゐる小川を渡ると、もう一丁とはない麦畑の中にあつた。麦畑の向うにはすぐ小高い山々の連りがあつて、それはずつと町のうしろまで伸びてゐた。更にその山並の背後には雪に覆はれた高峰が、ゆらゆらと流れて行く雲の間に屹立してゐた。
多吉は町はづれまで夢中で駈けて来ると、小川のほとりでふと足を止めて前方の山々を眺めた。半ば沈みかかつた夕陽の赤い光りを受けて、山は片側だけが明るく浮き出してゐた。紅色に染まつた細長い雲や、巨大な熊のやうな格好をした雲などが、峰を取り巻いて、ゆるやかにその周囲を巡つてゐる。毎日眺める風景には相違なかつたが、この時彼はなんだか今まで見たこともない山や雲を見るやうな寒々とした美しさを感じた。毎日眺める山や空とは、全く別なもののやうに思はれるのだつた。彼の心の中には全く未知の土地へ迷ひ込んだやうな、不安な、孤独な、そして真暗なものが流れてゐた。彼は長い間、じつと突つ立つたままでゐたが、やがて徐々に腰を下げて、小さな胴を丸めてそこへしやがみ込ん············