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筑波ねのほとり

横瀬夜雨





「雲雀の卵をらえにんべや」

「うん」

葦剖よしきりう懸けたつぺな」

「うん」

 眞ん中に皿をのこしたかつぱ頭を、柔かな春風になぶられながら、私達は土手どてを東へ、小貝川の野地を駈け下りた。くぬぎは古い葉をすつかり振り落して新芽から延びた緑の葉がほゝにうつつてほてるやうである。

 毛蟲がぶらんこしてゐる。帽子ばうしも冠らないのだからそれにつかると、かほへでも手へでもぢきたかられる。たかるだけでしもせず喰ひつきもしないやつはいゝけれど、尺とりだけには用心せねばならない、足のかゝとからぼんくぼまで計られると三日の中になねばならないからなと、眼を配つて林をくゞりけると、廣いシラチブチへ出る。

 シラチブチはもとの小貝川がSの字形じけいに流れたまがの名で、渦を卷いて澱んでゐる頃は一の繩が下までとゞかぬと言はれた。お祖父ぢいさんの咄で、お祖父ぢいさんのお祖父さんが此淵ここへ沈んだ時は三日たつても死骸が上らず、とりはひつた番頭まで出られなくなつて、しまひには如何どうとかして擔ぎげたと聞いた。其前もそれからのちも人は隨分死んだらしい。

 我が此川を見た最初さいしよの記憶は、きみが背中にぶさつて野桑のぐはを摘みに來た時、ほらこれ大川だよと指さして教へられた。小さなうづいろぽいあぶくを載せた儘すい/\と流れてゐた。シラチブチは其頃そのころから埋まりかけてゐた。東へ掘割を掘つて水を眞下にながすやうになつてから、夏になるたび沿岸えんがんの土が流れ込んで、五寸づつ一尺づつ、だん/\とうづまつて行つた。

 およぎの出來るにはもつて來いの遊び場だつた。舟をつないでおくにもよかつた。川蝉かわせみが居る、さぎが居る、岸には水あふひが浮いてゐる。

 けれど泥がふかいから、足がはまつたら最後二度と拔けなかつた。水の外につかまるものが無いのだから、もがけばもがくほどどろに吸はれて行く。

 私達が友達同士でざるを持つて「野のひろ」つみ芹摘せりつみに來られるやうになつた頃は、シラチブチは眞ん中だけ殘してかわいてゐた。どんな土用の最中さなかにも淺いけれど水は有つた。近づくと足を吸はれるので、いましめ合つてかなかつた。すい/\と小さな草は茂つても土刈馬方つちかりうまかたが寄りつかない位だから、草刈くさかりも入らなかつた。

 雲雀のは其のまはりの草もろくに生えぬ露出むきだし野地やらに有るのだ。私達の握りこぶし二つがけ位の穴を地べたで見つけて、一ばんしたへは枯草だの草の穗だけで圓い穴形あながたをこしらへ、上へは馬の毛をたくさんれて柔かい床を拵へる。卵は三つから五つまで、七つとは決してない。

 私達がわい/\と大きな歡聲くわんせいを擧げて林の中から飛出すと、シラチブチの明るい野良やらには人ツ子一人居ず、はた/\と白鷺しらさぎが飛び出す、ピユチクピユチク空で鳴く鳥がゐる。

 鳥の巣の中で、河原雲雀かはらひばりの巣ぐらゐ見つけやすい物はいから、私達はボツ/\生えた短い草の中を縱横たてよこ十文字に早足で探しはじめる。

 へびはあまり居ない處だ。蛇の居る處へは雲雀はおりない。かへるもおがまの外一向ゐない。

 私達は廣い野地やらを別れ/\になつてうろつきまはつた。まつすぐに飛上とびあがりまた飛下りる雲雀のあとを追つて。



 私の住んでゐる村では、何處どこで井戸を掘つても、一丈程下へ行くと屹度澤山な眞菰まこもの根に掘當てる。多い處ではそうを成してあらはれる。三間ほどつて漸く水を含んだ砂に突き當てる。それは青い砂だ。

 秋風あきかぜに白波さわぎと萬葉集にうたはれたのはおもへば久遠の時代であるやうだけれど、たひら將門まさかどが西の大串おほくしから、ひがし小渡こわたりへ船を漕いだ時は、一面の水海みづうみだつたとはいふまでもない。大串おほくしから續いた館大寶たてだいはうは、西は平沼ひらぬま(後の大寶沼だいはうぬま)東は鳥波とばうみに挾まれて、唯「しま」と呼ばれた頃らしい、黒鳥くろとりなにがしの築いた城は島の城と呼ばれたといふ口碑つたへはあるけれど、何時の世とも分らぬ。村の古文書こぶんしよに小貝川の土手の出來たのは寶文七年だとあるから、低地ていちの水の乾きはじめたのも其頃からであらう。明治めいぢのはじめには七八町しか隔たらぬ坂井の村が、野篠のじので見えなかつた。「わし等とつさまの若い時分にや下川したかの向うに鹿がねてゐたもんだつて言ひやんす」と年よりは言ふ。十三代將軍が小金原の卷狩まきがりには、私達の祖父も筑波でとらへた二頭の猪を献上してゐる。村ざかひに鹿のねてゐたといふのも森林が筑波山に續いてゐた事實じじつを語るものである。[#「である。」は底本では「である」]私達の七つ八つの頃は立ち覆ふ大木にさへぎられて小貝川の堤が見えなかつた。榛櫟はりくぬぎ、天を指す木は先づ伐られて連雀れんじやく尾長鳥をながどり)の鈴生すゞなりに止まる榎の木も伐り盡された。今は芝のやうな小篠こじのの茂れる土手どてがうね/\と南北に走つてゐるのが見える。

 私の村の北に貝越かひごしとて、小貝川に沿うた小さな部落がある。一つ年下の、だけ知り合うて言葉を交したことのない友達ともだちがゐた。いひなづけの細君とはなれて行つた※[#こと、164-下-12]を悲しんで、


菜種なたねの花にかこまれて

しづけき村の北南きたみなみ

むらと村とは長橋ながはし

水をへだてて望めども


みなみの村に我うまれ

北のむらより君出でて

ひたひに垂れし下髮おはなり

髮のはしにも觸れずして


我まだ君のまゆを見ず

見しはつつみ花芒はなすゝき

きみまた我の顏知らず

知るは堤の木瓜ぼけはな


嗚呼ああ幾年青きくされて

堤を花のかざるらむ

雨はしづかに注げども

人は歸らぬ古里ふるさと


 すゝきは今もえてゐる。探せば木瓜ぼけの花もあらう。我は足痿あしなへて二十二年、夢でなくては堤に遊ぶおもひ出も見ぬ。



 私は三度まで足がたなくなつて、三度目に立たなくなつた足が今は恢復くわいふくの望みもなくなつてゐる。起たなくなつてはち、起たなくなつては起ちしたひま/\に、尋常小學じんじやうせうがく四年の課程も踏んだ。大寶沼のみづにも親しんだ。


水のうへぶかげろふの

羽をうぐひのかしみて

屋上をのへの花や散り來ると

ひれふり尾ふりをどるらむ


雲のはたてつきりて

ぬまは光の消えにけり

しめれるさをを手にすれど

さすは※(「木+世」、第3水準1-85-56)かじなき藻刈船もがりぶね


筑波にゆるくれなゐ

八雲は山のかげごとに

殘れるよるくもめて

二つのみねは清らなり


つゝみとほし木は荒し

戌亥いぬゐに亙る山脈やまなみ

黒髮山はたがつま

薄絹うすぎぬかつぐ眉にせむ


 ひとゆえつまを逐はれて、心悲しくあそびに來た友達と、あかつきふかく湖上にうかんだ時である。

 ぬまには、ぬなは、ひつじ草、たぬき藻、杉藻など、一面にえて、うつかり蓴菜の中へ漕ぎ入るとあとへも先へもうごかなくなる。そんな時は手を延ばして蓴菜のつるぐつて進んで行く。

 こべりから足を垂らすと、しばらくしてちくりと刺す物があるから、平藻ひらもとげだらうと見ると、小さな尾細をぼそである。足のまはりへ一寸か七八分位のがつて來て、ちよつと突つついてはちよつと放れる。土左衞門をせつつく小魚こうをの一つであらう。

 關館せきたての南から花田はなたの東には藻刈船もがりぶねが多い。一艘に一人づつともに腰かけて、花やかな帶の端を水の上へ垂らし、兩手りやうてには二本のさをを持つて、水中へさしんではくる/\廻して引き上げると、藻くからまつてあがつて來る。二三艘、六七艘、漕ぐともなし、うごくともなしに動いてゐる。

 關館と大木おほきと兩方から土手をきづき出して、まん中に橋をけた處まで來ると、馬のはだよりも黒い若い衆が一人裸でうまを洗つてゐた。

 日が暮れようとしてゐた。私達わたしたち[#ルビの「わたしたち」は底本では「わたちたち」]はかへらねばならない。水神松生ふるつゝみの下へ、あかりのうつる八幡樣の下へ。


はちす浮葉うきはき分けて

さをさしめぐるみづうみ

落つるそらくもめて

ゆふべの浪はしづかなり


筑波つくばれぬ野も暮れぬ

唄も暮れぬる藻刈船もがりぶね

しなへる棹をあやつりて

行くべき方もれにけり


 私が歩けなくなつたころ、この沼も亡びた。私の詩も亡びるであらう。






底本:「太陽 三二巻八号」博文館

   1926(大正15)年6月発行

※「野地やら」と「野良やら」の混在は、底本通りです。

入力:林 幸雄

校正:富田倫生

2012年3月28日作成

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●表記について


こと

  

164-下-12



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