宮城前なる
馬場先門の
楠公銅像についてお話しましょう。
この銅像のことについては世間でまちまちの
噂があります。
この楠公像は高村光雲が作ったのだといい、また岡崎
雪声氏が作ったのだとも
専らいわれている。時が過ぎ去りますと、いろいろこういうことには間違いが出て分らなくなりますから、今日は詳しくこの事についていい置こうと思います。
大阪の
住友家の依頼で、明治二十三年四月に楠公像の製作は美術学校が引き受けてやり出したのであります。そうして右製作の主任は私でありました。
これは住友家の所有である
別子銅山の二百年祭の祝賀のために、別子銅山より採掘したところの銅を用いて何か記念品を製作し、それを宮内省へ献納したいというところから初まったのでありました。そして右製作のことを美術学校に持ち込んで来たのであった。
それで、どういうものを製作するかということについては、私は
与り知りませんでしたが、いろいろ撰定の結果楠公の像を作るということに決定しました。楠氏は申すまでもなく
我邦有史以来の忠臣、宮内省へ献納する製作の主題としてはまことに当を得たものでありましょう。ところで忠臣楠氏の銅像ということに決まったが、どういう形にして
好いか、ただ、立っているとか、
坐っているとかでは見たてがないので、楠公馬上の図ということに決まりました。それで、この馬上の図をば、一個人の考案でなく、学校内の教員生徒を通じて広く人々の図案を募集することになりましたので、その募りに応じた図案が余り沢山ではなかったがかなり集まりました。その中で当選したのが岡倉秋水氏の図案であった(秋水氏は第一期優等の卒業生)。まずこの当選の図案を基として楠公像を作るということになったのでありますが、右図案は、楠公馬上の側面図でありますから、これが全身
丸で彫刻製作されるとなると、原図案とはまた
異ったものとなることであるが、
概ねこの原図によったものでありました。
それで、その図案を
参酌して製作に掛かった楠公像の形は一体どういう形であるかといいますと、
元弘三年四月、
足利尊氏が
赤松の兵を合せて大いに
六波羅を破ったので、
後醍醐天皇は
隠岐国から山陽道に出でたまい、かくて兵庫へ
還御ならせられました。そのみぎり、楠公は金剛山の重囲を破って出で、天皇を兵庫の
御道筋まで御迎え申し上げたその時の有様を形にしたもので、
畏れ多くも
鳳輦の方に向い、
右手の
手綱を
叩いて、勢い切った
駒の
足掻きを留めつつ、やや頭を下げて拝せんとするところで御座います。この時こそ、楠公一代において重き使命を負い、かつまた、最も快心の時であり、奉公至誠の志天を貫くばかりの意気でありましたから、この図を採ったわけでありますが、これらの事は岡倉校長初め、諸先生のひたすら頭を悩まされた結果でありました。
さて、いよいよ彫刻に取り掛かるというまでには、なかなか時日を要し、また多人数の考案を経て来たものであって、決して一人や二人の考えから決まったものではないのであります。すなわち大勢の先生方がそれぞれ受持を分けて研究調査されたのであった。
まず歴史家として有名な
黒川真頼先生が
楠正成という歴史上の人物について考証された(
今泉雄作先生も加わっていました)。それから服装のことは歴史画家で故実に詳しい
川崎千虎先生が調べました。先生はこの調査のためにわざわざ
河内国へ出張し、
観心寺および
信貴山、金剛寺その他楠公に関係ある所へ行って
甲冑を調べたのです。また加納夏雄先生と今村
長賀先生とは
太刀のことを調べました。
川崎千虎先生は河内へ行っていろいろと楠公の遺物について調べましたが、結果はどうもハッキリ分らないということであった。
何故、楠公の遺品などが世に存在していないかと申すと、楠氏滅亡の後は子孫に至るまで世を
憚る場合が多かったので、楠氏伝来の品などは
隠蔽したというような訳で、それではっきり分らないということでありました。しかし
兜は信貴山の宝物になっている兜がどうしても楠公の兜と定めて置かなければ、それ以上その他に
頼るものがないというので、それを基として採ったのであります。けれどもこの兜には
前立がないのです。
柄が残っているので、前立は何んであるかと
詮索をして見ると、これは
独鈷であるということです。が、よく調べると、独鈷ではなくて、
剣の柄であろうという川崎先生の鑑定でありました。それから、また一方に同氏の調べた中に
大塔宮護良親王の兜の前立が楠公の兜の前立と同様なものであろうという考証が付いたのです。ちょうど時代も同時、親王と楠公との縁故も深し、前立のない処に柄が残っている所を見ると、剣の柄と相当するから、楠公の前立は剣であろう、ということに
極まりました。
それから、
鎧ですが、これは
漠としてほとんど
拠所がありません。
大和河内地方へ行けば、
何処にも楠公の遺物と称するものはいくらもあるけれども、一つも確証のあるものはない。皆後世人の附会したものばかりです。それで常明山という所に楠公の腹巻きというものが一つあったそうで、これは
正しく当時のものであるし、
何様、楠公の遺物ではないかと川崎氏はさらに調査を進めまして、皮を
剥がして見ると、中から
正平六年六月という年号が出て来ました。そうして見ると、楠公が没した後の製作だということが分ったので、川崎氏も失望したと同氏が当時私に話されたことを記憶していますが、万事、こういうような訳で、これは正しく楠公着用の鎧だと決定するに足る鎧はついに見つかりませんのでした。しかしまずこの腹巻きは近いものに相違なかろうとそこらを参酌したのでありますが、しかしまた馬上であって腹巻きはおかしいという説を出す人もあって、それもまた
道理ということで、結局、鎧は大袖ということに決定しましたのですから、実際は、これに
拠るというよりどころはなかったのであります。これは参考とすべきものがなかったから
致し
方ありません。ただし、楠公没後のものはしようがないが、それ以前、鎌倉時代より元弘年間にわたったものなら参考にして
差し
支えなかろうというので、楠公の服装はその辺のものを材料にして決めたようなことでありました。馬具なども同様で、
厚総を掛けた方が好かろうという説を出した人がありましたけれども、どうも戦乱の世の中に厚総も感心しないだろうというので、この説は取りませんでした。川崎千虎先生が中心になって、この辺のことは実に熱心に研究されたのでありました。
太刀は、加納、今村両先生の調べで割合正確なものになりましたけれども、それも楠公
佩用の太刀が分ったのではありませんでした。太刀物の具がはっきりしないばかりでなく、第一、楠正成という人は
大兵であったか、
小兵だったか、それすら分りません。少なくも記録に
拠所がなく、顔などは
面長であったか、
丸顔か、また肥えていたか、
痩せていたか、そういうことが一切分らんのでした。しかし、楠公は古今の武将の中でも智略に
勝れていた人であったことは争われぬ歴史上の事実でありますから、智の方面に傑出した
相貌の顔に作りました。総じて智謀勝れたる軍略家は神経の働きの強く鋭い人でなくては出来ないことで、多くそういう側の人は肥え太っているというよりも、
瘠せぎすの人が多いものですから、どっちかといえば瘠せ
方の顔で、まず、中肉
······したがって身長なども
中背······身体全体
能く緊張した体格に致したことで、大体において楠公は智者の心持を現わすよう心掛けたのでありました。
それから、またもう一つ問題となるのは楠公乗用の馬であります。楠公はどういう馬に乗っていたか、その馬が分らぬ。
木曾駒か、
奥州駒か、あるいは九州の産のものか、どうも見当が附かない。そこで
主馬寮の
藤波先生、馬術家の
山嶋氏などのお説を聞くと、その頃の乗馬として各産地の長所を取って造ったらどうかという説、これも調べるだけ調べたあげく、この説を採ることにしました。とにかく楠公の姿勢、服装、乗馬等がかくの如く忠実な研究によって決まったのであった。