呪言の展開
一 神の嫁
国家意識の現れた頃は既に、日本の巫女道では大体に於て、神主は高級巫女の近親であつた。
神功皇后は、其である。上古に女帝の多いのも、此理由が力を持つて居るのであらう。男性の主権者と考へられて来た人々の中に、実は巫女の生活をした女性もあつたのではなからうか。此点に就ての、詳論は憚りが多い。神功皇后と一つに考へられ易い魏書の卑弥呼 の如きも、其巫女としての呪術能力が此女性を北九州の一国主としての位置を保たして居たのであつた。
村々の高級巫女たちは、独身を原則とした。其は神の嫁として、進められたものであつたからだ。神祭りの際、群衆の男女が、恍惚の状態になつて、雑婚に陥る根本の考へは、一人々々の男を通じて、神が出現してゐるのである。奈良朝の都人の間に、踏歌化して行はれた歌垣は、実は別物であるが、其遺風の後世まで伝つたと見える歌垣・
歌会 (東国)の外に、住吉 の「小集会 」と言うたのも此だとするのが定論である。
だから、
出雲・宗像の国造||古く禁ぜられた国造の名を、
国々の郡司の娘が、宮廷の采女に徴発せられ、宮仕へ果てゝ国に還ることになつてゐるのは、村々の国造(郡司の前身)の祀る神に事へる娘を、倭人の神に事 へさせ、信仰習合・祭儀統一の実を、其旧領土なる郡々に伝へさせようと言ふ目的があつたものと推定することは出来る。現神が采女を率寝 ることは、神としてゞ、人としてゞはなかつた。日本の人身御供の伝説が、いくらかの種があつたと見れば、此側から神に進められる女(喰はれるものでなく)を考へることが出来る。
その為、采女の嬪・夫人となつた例は、存外文献に伝へが尠い。允恭紀の「うねめはや。みゝはや」と三山を偲ぶ歌を作つて地物の精霊の上に、大空或は海のあなたより来る神が考へられて来ると、高下の区別が、神々の上にもつけられる。遠くより来り臨む神は、多くの場合、村々の信仰の中心になつて来る。「
二 まれびと
新築の
新室の壁草刈りに、いまし給はね。草の如 よりあふ処女は、君がまに/\(万葉巻十一旋頭歌)
は、たゞの酒宴の座興ではない。允恭天皇が、皇后の室 ほぎに臨まれた際、舞人であつた其妹衣通媛を、進め渋つて居た姉君に強要せられた伝へ(日本紀)がある。嫉み深い皇后すら、其を拒めなかつたと言ふ風な伝へは、根強い民間伝承を根としてゐるのである。
来目部 ノ小楯が、縮見 ノ細目 の新室に招かれた時、舞人として舞ふ事を、億計 王の尻ごみしたのも、此側から見るべきであらう。神とも尊ばれた室ほぎの正客が弘計 王の歌詞を聞いて、急に座をすべると言ふ点も、此をかしみを加へて考へねばなるまい。
まれびとなる八重山諸島では、村の祭りや、家々の祭りに臨む神人・神事役は、顔其他を芭蕉や、
沖縄本島の半分には、まだ行はれて居る夏の海神祭りに、海のあなたの浄土にらいかないから神が渡つて来る。其を国の神なる山の神が迎へに出る。村の祭場で、古い叙事詩の断篇を謡ひながら、海漁、山猟の様子を演じるのが、毎年の例である。
万葉人の生活の俤を、ある点まで留めてゐると信ぜられる沖縄の島々の神祭りは、此とほりである。一年の生産の祝福・時節の移り
明治以前になくなつて居た
「斎 の木の下の御方 は(如何今年を思ひ給ふなどの略か)」「されば其事(に候よの略)。めでたく候」(郷土研究)と言ふ屋敷神との問答の変化と見える武家の祝言から、今も行はれる民間の「なるか、ならぬか。ならねば伐るぞ」「なります。なります」と、果物 の樹をおどしてあるく晦日・節分の夜の行事などを見ると、呪言と言ふよりは、人と精霊との直談判である。見方によつては、神が精霊にかけあふものゝ様にも見える。併し、此は見当違ひである。其は万歳と才蔵との例でも知れる事だ。
万歳について来る才蔵は、多分「才の男は最初、神に扮し、神を代表したものであらうが、信仰の対象が向上すると、神の性格を抜かれて置去られて了ふ様になつた。そこで、神の託宣を人語に飜訳し、人の動作にうつして、神の語の通辞役に廻る事になつたのであらう。神の暗示を具体化する処から、猿楽風の滑稽な物まねが演出せられる様になり、神がして、才の男がわきと言ふ風に、対立人物が現れる事になつたのであらう。狂言の元なる能楽の「脇狂言」なども、今日では誠に無意味な、見物を低能者扱ひにした、古風と言ふより外に、せむもない物になつたが、以前は語りを主にするものではなく、今の狂言が岐れ出るだけの、滑稽な、
内容は段々向上して、形式は以前の儘に残つて居る処から、上が上にと新しい姿を重ねて行く。狂言やをかしなどが、わきの下につく様になつたのも此為である。
「俄」「茶番」「大神楽」などにも、かうした道化役が居て、鸚鵡返し風なおどけを繰り返す。前に言うた旋頭歌が形式に於て、此反役をして居るが、更に以前は、内容までが鸚鵡返しであつたものと思はれる。問ひかけの文句を繰り返して、詞尻の?を!にとり替へる位の努力で答へるのが、神託の常の形だつたのである。
三 ほかひ
寿詞を唱へる事をほぐと言ふ。ほむと言ふのも、同じ語原で、用語例を一つにする語である。ほむは今日、唯の讃美の意にとれるが、予め祝福して、出来るだけよい状態を述べる処から転じて、讃美の義を分化する様になつたのである。同じ用語例に這入るたゝふは、大分遅れて出た語であるらしい。満ち溢れようとする円満な様子を、期待する祈願の意である。たゝはしと言ふ形容詞の出来てから、此用語例は固定して来たものと思はれる。讃美したくなるから、讃はしと言ふのではないらしい。
再活用してほかふ、熟語となつて、こと(言)ほぐと言うたりするほぐの方が、ほむよりは、原義を多く留めて居た。単に予祝すると言ふだけではなかつた。「はだ薄ほに出し我や······」(神功紀)など言ふ「ほ」は、後には専ら恋歌に使はれる様になつて「表面に現れる」・「顔色に出る」など言ふ事になつて居る。併し、神慮の暗示の、捉へられぬ影として、譬へば占象(うらかた)の様に、象徴式に現れる事を言ふ様だ。末(うら)と、秀(ほ)とを対照して見れば、大体見当がつく。「赭土(あかに)のほに」など言ふ文句も、赭土の示す「ほ」と言ふ事で、神意の象徴をさす語である。此「ほ」を随伴させる為の詞を唱へる事を、ほぐと言うて居たのであろうが、今一つ前の過程として、神が「ほ」を示すと言ふ義を経て来た事と思ふ。文献に現れた限りのほぐには、うけひ・うらなひの義が含まれてゐる様である。
ある注意を惹く様な事が起つたとする。古人は、此を神の「ほ」として、其暗示を知らうとした。茨田(まむだ)の堤(又は媛島)に、雁が
くしの神 常世にいます いはたゝす 少名御神 の神 ほき、ほきくるほし、豊ほき、ほきもとほし、まつり来しみ酒 ぞ(記)
と言ふ酒ほかひの歌は、やはり生命の占ひと祝言とを兼ねて居る事を見せて居る。敦賀から上る御子酒ほかひと言ふのは、唯の酒もりではない。酒を醸す最初の言ほぎの儀式を言ふのだ。どうかすれば、酒をつくる為の祝ひ、上出来の祈願の様に見えるが、其は当らない。「······ますら雄のほぐ豊御酒に、我ゑひにけり」(応神紀)は、ほぎしの時間省略の形である。此は、待ち酒の恒例化したもので、酒づくりの始めを利用して、長寿の言ほぎして占うたものなのである。此部分が段々閑却せられて来ると、よく醗酵する様に祈ると言ふ方面が、ことほぎの一つの姿となつて来る。酒ほかひなる語が、酒宴の義に近づく理由である。かうした変化は、どの方面のほかひにもあつた事なのである。唯、酒は元もと神事から出たものだから、出発点に於ける占ひの用途を考へない
室ほぎの側になると、此因果関係は交錯して居る。

新築によつて、生活の改まらうとする際に、家長の運命を定めて置かうとするのである。此方は、生命と其対照に置かれる物質とはあるが、占ひの考へは、含まれて居ない様だ。唯あるのは、譬喩から来るまじなひである。
新築の家でなくとも、言ほぎによつて、新室とおなじ様にとりなす事の出来るものと考へた事もあるらしい。毎年の新嘗に、特に新嘗屋其他の新室を建てる事は出来ないから、
四 よごと
寿詞が、完全に
毎年々頭、郡臣拝賀のをり、長臣が代表して
最古い呪言は、神託のまゝ伝襲せられたと言ふ信仰の下に、神の断案であり、約束であり、強要でもあつたのである。神の呪言の威力は永久に亡びぬものとして大切に秘密に伝誦せられて居た。「
殊に其古い姿を思はせて居るのは、鎮火祭の祝詞である。
天降りよさしまつりし時に、言 よさしまつりし天つのりとの太のりと言を以ちて申さく
と前置きし、······と、言教へ給ひき。此によりてたゝへ言 完 へまつらば、皇御孫 の尊の朝廷 に御心暴(いちはや)び給はじとして······天つのりとの太のりと言をもちて、たゝへ言完 へまつらくと申す。
と結んで居る。其中の部分が、天つ祝詞なのである。火の神の来歴から、其暴力を逞くした場合には、其を防ぐ方便を神から授かつて居る。火の神の弱点も知つて居る。其敵として、水・瓢・埴・川菜のある事まで、母神の配慮によつて判つて居ると説く文句である。神言の故を以て、精霊の弱点をおびやかすのである。此祝詞は、今在る祝詞の中、まづ一等古いもので、他の天つのりと云々を称する祝詞は、皆別に天つ祝詞があつて、其部分を示さなかつたのかと思はれる程、其らしい匂ひを留めぬものである。大祓祝詞に見えた天つ祝詞などは、恐らく文中には省いてあるのであらうが、中には、精霊を嚇す為に、其伝来を誇示したものもある様だし、或はもつと不純な動機から、我が家の祝詞の伝襲に、時代をつけようとしたのかと思はれるものさへある。
天つ祝詞の類の呪言が一等古いもので、此は多く、伝承を失うて了うた。所謂三種祝詞と称するとほかみゑみためと言ふ呪言が、天つのりとだとするのは、鈴木重胤である。
五 天つ祝詞
天つ祝詞にも色々あつたらしく思はれる。鎮火祭の祝詞などでも、挿入の部分は、とほかみゑみためなどゝは、かなり様子が変つて居る。天つ祝詞を含んで、唱へる人の考への這入つて居る此祝詞は、第二期のものである。今一つ前の形が天つ祝詞の名で一括せられてゐる古い寿言なのである。第三期以下の形は、神の寿詞の姿をうつす事によつて、呪言としての威力が生ずると言ふ考へに基いて居る。其製作者は、
「亀卜祭文(釈紀引用亀兆伝)」には、
呪言の最初の口授者は、祝詞の内容から考へると、かぶろき、かぶろみの命らしく見える。併し、此は唯の伝説で、こんなに帰一せない以前には、口授をはじめた神が沢山あつたに違ひない。ところが伝来の古さを尊ぶ所から、勢力ある神の方へ傾いて行つたのであらう。天津詔戸太詔戸ノ命は、古い呪言一切に関して、ある職能を持つた神と考へられたものとしても、何時からの事かは知れない。
神語を伝誦する精神から、呪言自身の神が考へられ、呪言の威力を擁護し、忘却を防ぐ神の存在も必要になつて来る。此意味に於て、太詔戸ノ命と言ふ不思議な名の神も祀られ出したのではなからうか。其外に、今二つの考へ方がある。呪言口授の最初の神か、呪言の上に
亀卜の神にして、壱岐の
この玉串をさし立てゝ、夕日より朝日照るに至るまで、天つのりとの太のりと言をもて宣 れ。かくのらば、占象 は、わかひるに、ゆつ篁出でむ。其下より天 の八井 出でむ。······(中臣寿詞)
かうして見ると、呪言には直ちに結果を生じるものと、そして唱へる中に結果の予約なる「ほ」の現れるものとの二つある事が知れる。其次に起る心持ちは、期待する結果の譬喩を以て、神意を内容の上から発生の順序を言へば、天つのりとの類は、結果に対して直接表現をとる。ほぐ事を要件にする様になるのは、寿詞の第二期である。神の「ほ」から占ひに傾く一方、言語の上に人為の「ほ」を連ねて、逆に幸福な結果を齎さうとするのが、第三期である。わが国の呪言なる寿詞には、此類のものが多く、其儘祝詞へ持ちこしたものと見える。外側の時代別けで言へば、現神なる神主が、神の申し口として寿詞を製作する頃には、此範囲に入るものが多くなるのである。第四期の呪言作者の創作物は、著しく功利的になる。現神思想が薄らぐと共に、人間としての考へから割り出した祈願を、単に神に対してする事となる。
六 まじなひ
呪言が譬喩表現をとり、神意を牽引する処からまじなひが出て来る。大殿祭・神賀詞のみほぎの玉は既に、此範囲に入つてゐる。殊に言語の上のまじなひの多いのは、神賀詞である。御ほぎの神宝が、一々意味を持つて居る。白玉・赤玉・青玉・横刀・白馬・
天の八十蔭(天の御蔭・日の御蔭)
おなじく感染力を利用するが、結果は
さて、
私の話は、寿詞を語りながら、まだ何の説明もしない祝詞の範囲まで入り込んで行つた。併し、此二つほど、限界の入り乱れて居るものはない。一つを説く為には、今一つを註釈とせぬ訣には行かない。寿詞の範囲が狭まり、祝詞が段々新しい方面まで拡つて行つた為、大体には、二様の名で区別を立てる様になつた。新作の祝詞と言ふべき分までも、寿詞と言つたのが飛鳥朝の末・藤原の都頃であつた。祝詞の名は、奈良に入つて出来たもので、唯此までもあつた「
巡遊伶人の生活
一 祝言職
人の厭ふ業病をかつたいといふ事は、
奈良の地まはりに多い非人部落の一つなるものよしは、明らかにほかひを為事にした文献を持つて居る。
倭訓栞に引いた「千句付合」では、屋敷をゆるぎなくするものよしの祝言の功徳から、岩も揺がぬと言ひ、付け句には「景」に転じてゐる。
あづまより夜ふけてのぼる駒迎へ、夢に見るだに、ものはよく候
とある狂歌「堀川百首」の歌は、ものよしの原義を見せてゐる。ものは江家次第には、物吉の字の一等古い文献を留めてゐる。ものとよしと言ふ観念の結びつきは確かだが、語尾の訓み方に疑ひがある。
大小名の家で家人たちのした祝言は、千秋万歳類似のこと以外にも色々あつたであらう。暮から春へかけて目につくのでは、其外にも二つの事がある。一つは「夢流し(初夢の原形)」、他は、前に書いた「
家人と言つても、奴隷の一種に過ぎないやつこが、家の子と時代に応じて言ひ換へられても、後世の武家が「
侍の唱へる「
返し祝詞は、宮内省掌典部の星野輝興氏が、多くを採集して居られる。
千秋万歳の、宮中初春の祝言に出るのは、室町頃から見えてゐる。此は北畠・桜町の唱門師の為事であつた。忌部の事務の、卜部の手に移つたものは多い。其が更に、陰陽道の方に転じて、その配下の奴隷部落の専務と言ふ姿になつたものであらう。社寺の奴隷はある点では、一つものと誤解せられる傾きがあつた。それを又利用して、口過ぎのたつきとした。社寺の保護が完全に及ばぬ様になると、世の十把一とからげの考へ方に縋つて、大体同じ方向の職業に進むことになつた。手工類の内職で、伝習に基礎を置くものは別として、本業は事実、混乱し易く、此を併合しても目に立たなかつた。唱門師なども、大抵寺奴であり、社奴であると言ふ資格から、入り乱れて、複雑な内容を持つた職業を作り上げたが、唱門なる語の輪廓がむやみに拡つて、すべてを容れる様になつたと言ふ側からも考へられる。
寺の奴隷から出たものは、三井寺の説経師・叡山の導師の唱導を口まねをした、本縁・利生・応報の実例を、章句としては律要素の少い、口頭の節まはしに重きを置くやうな説経を語つて、口過ぎのたつきとしたらしい。さうして後から出た田楽や、猿楽能の影響を受けながら、室町に入つて、曲目も一変したらしい。一方、神人と言はれる社奴の方には、卜部の部下が、忌部以来の寿詞風の「屋敷ぼめ」や、此徒唯一の財源でもあり、神人の唯一財源とも見えた、民間様々の時期の
土御門家の禁制によつて、配下の唱門師が説経節を捨てなければならなくなつたのは、江戸の初めの事である。其までの間は、新形の説経として、謡曲類似の詞曲と「
ものよしは早く社との関係を失ひ、宮廷の千秋万歳も、唱門師と手をとりあふ様になると、地方の大小名の家の子のする年頭の祝言は、ある家筋の侍には限らなくなつたであらう。祝言にも、
ものよしと万歳とは、民間と宮廷との違うた呼び名から、二つに見える様になつたが、実は元一つである。地方のものよしがすべて宮廷式・都会風の名に改まつて行つて、明治大正の国語の辞典には「癩病の異名。方言」として載せられる位に忘れられた。
二 「乞食者詠」の一つの註釈
万葉巻十六は、叙事詩のくづれと見えるものを多く
平安の中頃には、ほかひが乞食と離れぬ様になつてゐるのだから、仮りにこゝを足場として、推論を進めて行つて見る事も出来よう。ほかひゞとは寿詞を唱へて
さうすれば、ほかひゞとの持つて歩いた詞曲は、創作物であるかと言ふ疑ひが起る。寿詞が次第に壊れて、外の要素をとり込み、段々叙事詩化して行つて、人の目や耳を
此歌は、其内容から見ても、身ぶりが伴うて居てこそ、意義があると思はれる部分が多い。「鹿の歌」は、鹿がお辞儀する様な頸の上げ下げ、跳ね廻る軽々しい動作を演じる様に出来て居る。「蟹の歌」も、其横這ひする姿や、泡を吐き、目を動すと言つた挙動が、目に浮ぶ様に出来て居る。其身ぶりを人がしたか、人形で示したかは訣らない。舞踊の古代の人に喜ばれた点は、身ぶりが主なものである。事実、其痕は十分見えて居る。此が神事の演劇と複雑に結びついて、物まねで人を笑はせようと言ふ方へ、
想像が許されゝば、私は此歌にかう註釈したい。鹿は山地、蟹は水辺の農村にとつて、恐しい敵である。鹿は勿論、蟹に喰はれ、爪きられて、稲の荒される事は、祖先以来経て来た苦い経験である。農作予祝の
ほかひの様式が分化して芸道化しかけた時、其等の動物を苦しめる風の文句が強く表され、動作にも其を演じて見せる様になり、更に其が降服して、人間の為に身を捧げる事を光栄とすると言つた表現を、詞にも、身ぶりにも出して来るとすると、此歌の出来た元の意義は納得出来る。此歌の形式側の話は、後にしたい。
三 当てぶりの舞
呪言の効果を強める為に、呪言を唱へる間に、精霊をかぶれさせ、或はおどす様な動作をする。田楽・猿楽にすら、とつぎの様を実演した俤は残つて居る。此は精霊がかまけて、生産の豊かになる事を思ふのである。精霊をいぢめ懲す様も行はれたに違ひない。此が身ぶりの、神事に深い関係を持つ様になる一つの理由である。而も、神事の傾向として、祭式を舞踊化し、演劇化する所から、身ぶり舞をつくり上げたのである。
隼人のわざをぎは、叙事詩の起原説明には、単に説明に過ぎなからうが、舞踊化の程度の尠いものと察せられる、水に溺れる人の身ぶり・物まねである。
殊舞(たつゝまひ)は起ちつ居つして舞ふからの名だ、と言ふ事になつて居るが、王朝以後
鹿や蟹のをこめいた動作をまねる人か人形かの身ぶりが、寿詞系統のほかひゞとの謡について居なかつたとは言はれないのである。
四 ほかひゞとの遺物
ほかひゞとの後世に残したものは、由緒ある名称と、門づけ芸道との外に、其名を負うた道具であつた。延喜式などに見える
だが、稍遅れた時代の民間のほかひは、其程大きな物ではない。形も大分変つて来てゐる様である。絵巻物によく出て来る此器は、形はずつと小さくて、旅行や遠出に、一人で持ち搬びの出来る物である。
私は、ほかひゞとの常用した此器を便利がつて、大小に拘らず其形を似せて、一般に用ゐ出したのだと思ふ。今一歩推論してもよければ、頭上・頸・肩に載せたり、掛けたり、担いだりして、出来る限りの物を持つて出かけるのが、昔の人の旅行であつたであらう。其が、ともかく担ぎなり、提げなりして、二人分も三人分もの荷物を搬ぶ道具を国産する様になつたのが、旅行生活に慣れたほかひの徒の手からであつたものらしい。さうなら、ほかひゞとの略称なるほかひが、発明者の記念として、器の名となるのも、順当な筋道である。
行器を、清音でほかひと発音するだらうと言ふ事は、外居の宛て字からも考へられる。古泉千樫さんも、其郷里房州安房郡辺では、濁らないで言ふことゝ、山の神祭りの供物を、家々から持つて登る時に使ふ為ばかりに保存せられて居る事とを、教へて下さつた。
宮廷に用ゐられた外居が、行器とおなじ出自を持つて居るものとすれば、何時の頃どう言ふ手順で入り込んだか、すべては未詳である。唯、神事に関係のある器である事だけは、確からしい。
巡遊伶人として、芸道の方面に足を踏み込む様になつても、本業呪言を唱へる為事は、続けて居たと言ふ事は考へられる。彼等の職業はどう分化しても、一種の神の信仰は相承せられて行つた。寿詞を誦し、門芸を演じながら廻る旅の間に、神霊の容れ物・神体を収めた箱を持つて歩かなかつたとは考へられない。漂泊布教者が箱入りの神霊を持ち搬んだことは、屡例がある。ほかひは元、実は其用途に宛てられてゐたのだが、利用の方面を拡げて来たものと言ふことが出来よう。柳田国男先生は、
ほかひと言はれる道具の元は、巡遊伶人が同時に漂泊布教者であつた事を見せて居り、長旅を続ける神事芸人の団体が、藤原の都には既に在つた事を思はせるのは、微妙な因縁と言はねばならぬ。
五 ほかひの淪落
乞食者詠の出来たのは、どう新しく見ても、民衆に創作意識のまだ生じて居なかつた時代である。創作詩の始めて現れたのは、人を以て代表させれば、柿本ノ人麻呂の後半生の時代である。蟹や鹿の抒情詩らしく見える呪言叙事詩の変態の出来たのは、前半期と時を同じくして居るか、少し古いかと思はれる頃である。
形は寿詞じたてゞ、中身は叙事詩の抒情部分風の発想を採つて居る。此は寿詞申しと語部との融合しかけた事を見せて居るのである。さうして其ほかひたちが、どういふ訣で流離生活を始める事になつたか。
叙事詩を伝承する部曲として、語部はあつたのだが、寿詞を申す職業団体が認められて居たかどうかは疑問である。ほかひなるかきべの独立した痕は見えないばかりか、反証さへある。祝詞になつては勿論だが、寿詞さへ、上級神人に口誦せられて居た例は、幾らもあるし、氏々の神主||国造=村の君||と言つた意味から出た事であらうが、氏ノ上なる豪族の主人であつた大官が、奏上する様な例もある。さすれば此が職業としての専門化、家職意識を持つた神事とはなつて居なかつたとも言へる様である。而も一方、平安朝には既に祝師(のりとし)などゝ言ふ、わりあひに下の階級の神人が見え出して来た。其に元々、呪言を唱へることが、村の君の専業ではなく、寧、伝来ある村の大切な行事の外は、寿詞に関係せなくなる。さうなると、此為事に与る神人の資格は、段々下の方に向いて行くであらう。其上、当時まだ、村の君など言ふ頭分を考へなかつた時代の記憶を止めて居た地方では、成年式を経た若者たちが「
村々の家々と其生産とを予祝する寿詞は、若者か、下級の神人の為事になつて行く傾きのある事は考へられる。村々の宗教が、段々神社制度に飜訳せられて行くと、社に関係の薄い者から落伍しはじめて来る。ほかひは元、神社制度以前のもので、以後も、神社との交渉は尠かつた。其に与る神人も、正しい神職でなかつたりする為に、漸く軽く見られる傾きが出て来た。宮廷では、中臣・忌部の神主が共に呪言を奏するのに、中臣は神社制度に伴ふ側に進み、忌部は旧慣どほりほかひを主とした点からも、前者にけおとされねばならぬ事になつたのである。
社々にだつて、ほかひ側の為事はない訣ではない。而も祓へ・占ひ・まじなひなどの外は、よごとの語義に関係の深い「
神社の有無が、神の資格定めの唯一の条件になつて来ると、ほかひの対象なる精霊は、位づけが明らかに下つて来る。さうなると、寿詞の価値も自ら低くなつて、高い意味の寿詞並びに、醇化した神の為の新しい呪言が、のりとの名を以て、其にとつて替る事になつたのである。
既に地位の下りかけて居た祝言が、更に分化して一種の職業となつたほかひの徒のはじまりは、どう言ふ種類の人々であつたであらう。
村と村との睨みあふ心持ちは、まだ抜け切らぬ世の中でも、此旅人はわりに安心であつたであらう。異郷の神は畏れられも、尊ばれもした。霊威やゝ鈍つた在来の神の上に、溌溂たる
村々を巡遊して居る間に、彼等は言語伝承を撒いて歩いた。右に述べた様な威力を背負つて居た事を思へば、其為事が、案外、大きな成績をあげた事が察せられるのである。
其外に、神奴も、此第一歩の運動には、与つて居さうに思はれる。併し、奴隷階級の者がどうして自由に巡遊する事が出来たか、此点の説明が出来さうもない。だから、此は今
六 叙事詩の撒布
ほかひが部曲として、語部の様に独立して居なかつた事は、巡遊伶人としての為事に、雑多な方面を含む様になつた原因と見る事が出来る。
乞食者詠を見ても知れる様に、
単にとり込んだばかりでなく、本義どほりにはほかひとは縁遠い叙事詩を、其儘に語る様なことも、語部がほかひの徒の中にまじつたとすれば、あるべき事である。事実又、其痕跡は段々述べて行くが、確かに残つてゐる。
わりに完全な物語と、物語の断篇とが、或村から離れて他の所へ持廻られる。すると、其処に起るのは、物語の交換と、撒布とである。更に見逃されないのは、文学的な衝動を一度も起さなかつた人々の心の上に、新しい刺戟が生じたことである。記・紀・万葉・風土記の上に、一つの伝説の分岐したものや、数種の説話の上に類型の見つかる事が、沢山にある。此を単純に解決して、同じ民間伝承を飜訳した神話・伝説が、似よりを見せるのは当然だとばかりは、考へられなくなつた。尠くとも、奈良朝以前から既に、巡遊伶人があつた事情から見ても、一層強い原動力を此処に考へないのは、嘘である。
叙事詩の撒布
一 うかれびと
神人が大檀那なる豪族の保護を失ふ理由には、内容がこみ入つて居る。神を守つた村君が亡びた事、そして村君の信仰の内容が
倭本村から一目置かれて居た大村の神と神人とは、次第に倭化はしながらも、幸福な推移をして行つたであらう。が、村君と血統上の関係を結びつけて考へるに到らなかつた神を祀つた村では、村君は郡領として
村々の部曲の中で、保護者を失つても、自活の出来るのは、主として手職をうけ
亡命を、一二人又は一家の上にばかりある事と考へるのは、近世の事情に馴れ過ぎたのだ。戦国以前までは、尠くとも新知を開発する為に、と言ふ名で、沢山の家族団体を引き連れて数百里離れた地へ、本貫を棄てゝ移つた家々は、数へきれない。信仰の代りに、武力を携へて歩いたうかれびとに過ぎないのである。此新うかれびとは庸兵軍として、道々の豪族に手を貸しもした。運よく行つたのは大名となり、あまり伸びなかつた者は、豪族の下に客人格の御家人となり、又非御家人・郷士と窄まつて了うたりした。我国の戸籍の歴史の上で、今一度考へ直さねばならぬのは、団体亡命に関する件である。住みよい処を求める旅から、終には旅其事に生活の方便が開けて来て、巡遊が一つの生活様式となつて了ふ。彼等の持つて居る信仰が力を失うても、更に芸能が時代の興味から逸れない間、彼等の職業が一分化を遂げきる迄の間は、流民として
近世芸術は、殆ど柄傘 の下から発達したと言うてもよい位、音曲・演劇・舞踊に大事の役目をして居る。売女に翳 しかけた物も、僣上して貴人や、支那の風俗をまねたものではあるまい。足柄山で上総前司の一行に芸能を見せたうかれ女は、大傘を立てた下に座を構へた(更級日記)。大鏡に見えた「田舞」も、田の中に竪てた傘を中心にした様である。此二つは、平安朝末のやゝ古い処である。其以後は、田楽を著しいものとして、民衆芸能に傘の出て来ないものは尠かつたと言ふ事も出来よう。傘の下は、神事に預る主な者の居る場所である。大陸風渡来以前から倭宮廷にあつた風で、神聖感を表現もし、保護もしたものなのである。うかれ女系統の楽器らしい簓 と言ふ物も、形は後世可なり変化したであらうが、実は万葉人の時代からあつたものと言ふ推測がついて居る。此等の事は、力強い証拠とは出来ぬかも知れぬが、異風と見られる点も、実は定住人とさしたる違ひのなかつた事を見せて居るのではなからうか。
唯一点、人形については、近世の神道学者の注意が向いて居ないばかりか、古代日本の純粋な生産と考へない癖がついて居る様だから、話頭を触れておかねばならぬ気がする。二 くゞつ以前の偶人劇
浮浪民なるくゞつの民の女が、人形を舞はした事は、平安朝中期に文献がある。其盛んに見えたのは、真に突如として、室町の頃からである。此時代を史家は、戦争と武人跋扈との暗黒時代ときはめをつけて居るが、書き物だけでは、実際、江戸の平民の文明を暗示する豊かな力の充ち満ちた時代である。上層・中層の文明のをどみに倦んで、
大正の初年までも、面を被つて「西の宮からえびす様がお礼に来ました」と唱へて門毎に踊つた乞食も、此流れである。「大黒舞」も又えびすかきの偶人に対する、神に扮した人の身ぶり芝居の一つであつた事が知れる。遅れて出た「大黒舞」が、元禄以前既に、ほかひ以外の領分を拡げて、舞ひぶりの単純なわりには、歌詞がやゝ複雑な叙事に傾いて居たのは、幾度でもほかひが同じ方角に壊れる上に、落ちつく処は、劇的な構想を持つた詞曲である事を示して居る。
西の宮一社について見れば、祭り毎に、海のあなたから来り臨む神の
人形を祭礼の中心にするのは、八幡系統の神社に著しいけれども、離宮八幡以外にも、山城の古社で人形を用ゐる松尾の社の様なのがあり、春日も人形を神の
宇佐八幡の側になると、「青農」の為事が殊に目に立つ。八幡に関係の深い筑前

平安朝の文献に、宮廷では、此人形と、一つの名前と思はれる「
昔は疫病流行すれば、巨大な神の姿を造つて道に据ゑて、其を祀つた(続紀)。今も稲虫払ひには、草人形を担ぎ廻つて、遠方に棄てる。稲虫が皆附いて行つてしまふと考へるのである。此は穢・罪・禍の精霊の偶像である。其将来した害物を悉皆携へて、本の国へ帰る様にとの考へである。
人間の形代なる
ともかくも、昔の人の常に馴れて居たのは、自分の形代か、或は獅子・狗犬から転じて、常々身近く据ゑて、穢禍を吸ひとつて貯めて置く獣形の偶像かであつた。だが、人形の起原を単に、此穢れ移しの形代・
更級日記の著者が若い心で祈つたをみな神、宮廷の

そして、神の正体としての人形は、人間を迷惑させる神には限らない様である。此点が明らかでないと、人形は、
人形を恐れる地方は今もある。畏敬と触穢と両方から来る感情が、まだ辺鄙には残つて居るのである。文楽座などの、人形を舞はす芸人が、人形に対して生き物の様な感触のあるものと感じて居るのは事実である。沖縄本島に
人形が古代になかつたと言ふ様な、漠とした気分を起させる原因は、其最初の製作と演技が、聖徳太子・
仮面は、人間の扮して居る神だと言ふ事を考へさせない為だから、非常な秘密でもあつたらうし、使うた後で、人の目に触れる事を案じて、其相応の処分をした事であらうから、普通の人には、仮面といふ考へが明らかでなかつたであらう。其上、土地によつては、村人某が扮したのだと云ふ事が訣らねばよいと言ふ考へから、植物類の広葉で顔を掩ふと言ふ風な物があつた事は、近世にも見える。だから、仮面もあり、仮面劇も行はれたのに違ひないが、今の処まだ、想像を離れる事が出来ない。
柳亭種彦の読み本「浅間个嶽俤草紙」の挿絵の中に、親のない処女の家へ、村の悪者たちが、年越しの夜、社に掛けた色々の面を著けておし込んで、家財を持ち出す処が描いてある。年越しの夜に、仮面を著けた人が訪問すると言ふ形は、必民間伝承から得たものに違ひない。
面には、かづく或はかぶると言ふ語が、用語例になつて居るのは、古代の面が頭上から顔を掩うて居た事を示して居る。能楽で見ても、面をつけるのは、神・精霊の外は女である。女は大抵の場合、神憑きと一つものと思はれる狂女である。能役者が、
古事記に残つて居る文章のなかで、叙事詩の姿を留めたものを択りわけて見ると、抒情部分のうたばかりでなく、其中に叙事部分のかたりに属するものも見出される。叙事部は地の文である。地の文の発生は、第一歩にはないはずだ。
かくて、偶人劇の存在した事は信じてよい。併し、どの程度まで、身体表出をうつし出したか。どの位の広さに亘つて、村々の祭りに使はれたか。すべては疑問である。遥かな国から来る神と、地物の精霊と二つ乍ら、偶人を以て現したか。其も知れない。後世の材料から見れば、才の男は地物の精霊らしく見える。併し此事に就ては、呪言の展開に書いて置いた。其上、人と人形との混合演技もなかつたとは言へぬ様である。
偶人の神事演劇には単純な舞ばかりのもあつたゞらう。叙事詩に現れた神の来歴を、毎年くり返しもしたであらう。要するに神事演劇は、人・人形に拘らず、演技者はすべてからだの表出ばかりで、抒情部分・叙事部分の悉くが、脇から人の附けたものである。
後世の祭礼の人形の、唯ぢつとして、動かない様なものでは無かつたであらう。「才の男の態」を行ふ者の様子から推すと、人形其物も、可なり身軽くおどけふるまうたと見えるのである。
祭礼のだし人形の類は、決して近世の案出ではない。すべて祭り屋台の類はほこ・やま・だし・だんじりなど、みな平安朝まであつた「標 の山 」と、元一つの考へから出て居る。平安朝初期に、既に「標の山」の上に蓬莱山を作り、仙人の形を据ゑた。「標の山」は神の天降 る所であつて、其を曳いて祭場に神を迎へるといふ考へなのだ。此作り山は、神物のしるしなるたぶうの物を結ぶと共に、神の形代 を据ゑるといふ考へもあつたのである。「標の山」は恐らく木の葉で装うた作り山で、神を迎へる為にした古代からの儀礼の一つである(出雲風土記)。其作り山の意義は固より、上に据ゑた人形の存在理由は早く忘れられて了うた。
道教出と思はれる仙人形が、字面のとほり、人形と見られるなら、奈良朝の盛時には既にあつて、恐らく此も玩具ではなく、方士の祀つたものであらうと思ふ。藤原・奈良、及び平安の初期に亘つて行はれた仙人の内容は、艶美であつて、人間の男との邂逅を待つて居る仙女なども這入つて居たのである。後世のぼろをさげた様な仙人ばかりではなかつた。「標の山」は本義を忘れられて、装飾に仙山を作り、天子の寿を賀する意を含めたものであらう。平安朝にはじまつた意匠でないと思はれる所の、人形を此に据ゑると言ふ事は、原義の明らかだつた時代には、神の形代であつたらうと思はれるのである。三 新しいほかひの詞
石ノ上布留 の大人 は、嫋女 の眩惑 によりて、馬じもの縄とりつけ、畜 じもの弓矢囲 みて、大君の御令畏 み、天離 る鄙辺 に罷 る。ふるころも真土の山ゆ還り来ぬかも(石上乙麻呂卿配土左国之時歌三首並短歌の中、万葉巻六)
土佐に配せられた時の歌とあるばかりで、誰の歌ともない。普通の書き方の例から見ると、此は「時人之歌」とでもあるべき筈である。でなければ、古義などの様に、前二首を「乙麻呂の妻(又、相手方久米ノ若売とも見てよからう)の歌」、後二首を「乙麻呂の歌」と言ふ風に、註があるべきである。まづ巻一の「麻続王流於伊勢国伊良虞島之時人哀傷作歌」と同様に扱ふのが正しからう。さうすると、言ひ出しの文句のよそ/\しさも納得がつく。布留・石上は、土佐へ渡るのに、紀伊へ出るのは、順路ではない。紀の川口から真直に阿波の方へ寄せて、浜伝ひ磯伝ひに土佐へ向ふ事もないとは言はれぬが、当時の路筋はやはり、難波か住吉へ出たものである。どちらにしても、順路にくひ違ひのある事は事実である。
巡遊伶人があり来りの叙事詩をほかひして居るうちに、段々出て来た自然の変形が、人の噂に
古事記の倭建 の臨終の思邦 歌が、日本紀では、景行天皇の筑紫巡幸中の作となつて居り、豊後風土記(尚少し疑ひのある書物だが)にも同様にある。此はほんの一例に過ぎない。
時と処とに連れて、妥当性を自由に拡げてゆくのが、民間伝承の中、殊に言語伝承の上に多く見える事がらである。此なども、木梨ノ軽皇子型の叙事詩の一変形と見てさし支へないものなのである。いつたい、軽皇子物語が、一種の貴種流離譚なので、其前の形がまだあつたのだ。神の鎮座に到るまでの、漂泊を物語る形に、恋の彩どりを豊かに加へ、原因に想到し、人間としての結末をつけて、歴史上の真実のやうな姿をとるに到つた。だから、叙事詩の拗れが、無限に歴史を複雑にする。更に考へを進めると、続日本紀以後の国史に記されて居る史実と考へられて居る事も、史官の日次記や、若干の根本史料ばかりで、伝説の記録や、支那稗史をまねた当時の民間説話の漢文書きなどを用ゐなかつたとは言はれない。最大きな一例を挙げると、楚辞や、晋唐時代の稗史類には、民間説話を其まゝ記録した、神仙と人間との性欲的交渉を一人称や三人称で記したものが数多くある。其が人間界の仙宮と言うてよい宮廷方面にまで拡つて来て、帝王と神女の間を靡爛した筆で叙 べるばかりか、帝王と後宮の人々との上にまで及ぼして、愛欲の無何有郷を細やかに、誘惑的に描写して居る。
元々空想の所産でなく、民間説話の記録なのであるから、小説と言ふ名も出来たのだ。「小」は庶民・市井などの意に冠する語で、官を「大」とする対照である。説は説話・伝説の意である。小説・稗史は、だから一つ物で、民間に伝はる誤謬のある事の予期出来る歴史的伝承と言ふ事になる。史官の編纂した物を重んじ過ぎるからさうなつたのだが、段々史実の叙述以外に空想のまじる事を無意識ながら、筆者自身も意識する事になつた。其処で伝奇と言ふ名が、ようろつぱの羅馬治下の国の所謂ろうまんすを持つて、地方々々の伝説を記したろうまんすなる小説と、成立から内容までが、似よりを持つて来る様になつた次第である。
既に遊仙窟だけは確かに奈良朝に渡つて来て居て、其を模倣した文章さへ万葉(巻五)には見えて居るが、其外にもなかつたとは言へない。高麗・日本の人々が入唐すると、必、張文成の門に行つて、書き物を請ひ受けて帰つた(唐書)と言ふことは、宋玉一派の爛熟した楚辞類は元より、神仙秘伝・宮廷隠事の伝説を記録した稗史類を顧みなかつたと言ふ事にはならぬ。寧、其方面の書籍が、沢山輸入せられた事を裏書きするものと言へると思ふ。其上に帰化人が生きた儘の伝承を将来してゐる。而も、世界の民族は、民間伝承の上にある点までの一致を持たないものがない。日本と支那との間にも、驚くばかりの類似が、其頃段々発見せられて来た。飛鳥の末・藤原の宮時代の人々の心に、先進国の伝承と一致すると言ふ事が、どんなに晴れやかな気持ちをさせた事であらう。