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『二十五絃』を読む

蒲原有明




 詩はこれを譬ふれば山野の明暗、海波の起伏なり。新しき歌の巻を読むは、また更にわが身に近くして、さながら胸の鼓動を聴くここちす。今『二十五絃』を繙いて、泣菫子が和魂の帰依に想ひ到れば、この荒びし世をつつむは黄金の靄、白がねの霧||幻夢※(「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57)ちに湧きのぼれり。

 四季の移りかはりばかりをかしきはあらじ。しかはあれ泣菫子が為めには、こもまたあだなる花の開落にあらずして、人生迷悟の境なりき。花ごよみと品さだめとの軽びたるこころなぐさならで、天啓に親しむ機縁なりき。天啓は熱意の夢に添ひ、大御光は『血しほに染める深手』をも癒すべし。

 されば『魂の住家は大御慈悲の胸』にして

そこには救世の御仏

阿摩の如く

寄り添ふ。『二月一の夜』には病女に似たる夕月をながめ、すさみし旅路を行くにも、なほその御力にひかれて高天の春に行かむとは歌へり。

『五月一の夜』||野薔薇空にくゆりて、まよはし深きところがらを、とみに大御慈悲の光ぞ隠れたる。

わが世は空洞うつろの実なし小貝、

  *  *  *

時劫の浜辺にひとり立ちて、

身にしも逼る海路うみぢ

さびしき広みに心いたむ。

も理なかりし。さはあれ『魂にくゆりし大御光のしたたり』はまた

いつかは炎さかりに

燃えこそあがらめ霊の烽火のろし

おもへば、この日

生身いきみさながらのりの身

にしてといふに、信念の熾なるを味ふべく、ここにはじめて『不壊の新代』あり、『解脱の常宮』あり、そはやがて『歌の御園』なるは泣菫子が究竟の理想なるべし。

『神無月の一夜』には至上の光に見とるる和魂の物蔭ほしげの童女をとめさびに、恭謙の柔※(「車+(而/大)」、第3水準1-92-46)の徳を称ふべく、

深山つぐみの古巣に、

孵りもあへぬすもりの

いのちの閉しに思ひうみて

といふに万斛の悲痛こもり、他のおなじく『一日』の歌のかたには、昔は掛想の人、今は幻に箜篌とる[#「箜篌とる」は底本では「箜※[#「竹かんむり/候」、267-12]とる」]天女が『二の世のあけぼの』をかねごとして

『聖なる世をばたのみに

路さまたげをや超えぬべき』と、

あなや高音の中絶とだえに、

しろがね衣かへして

花笑あえかに寄ると見れば、

夢かのここち||

とあるに、すずろにダンテがベアトリチエのすずしき声ねを聞くの思ひあり。この一歌は神韻縹渺、集中この類の諸歌にたちまさりたり。また以上の諸歌は泣菫子が思想を識るによろしければ、われはまづその内容をたづねつるなり。詩品に於ては未だ必しも傑れたりと言ふ可からざらむか。

 曽て高青邱の詩を読みし時、『中秋翫月』の篇中

※(「虫+礼のつくり」、第3水準1-91-50)蛇亂踏心膽悸、怪影走石皆楓楠、

の句に到りて、はからずも悽愴の気に触れたり。これとは景も情も異れども、『神無月の一日』の第一節に散葉のみだれを叙したる条下は、また同巧のすさび面白からずや。

 白きは神の額の如き野の石に凭れての感想は、げに幾代を人の子の悶えなり。世路の艱嶮と内心のまどひとは、漸くにして天成の姿霊妙の魂を削り滅さむとす。この歌の第四節は天火を盗みしプロメシウスをきかせて、智慧の火の徒らなるを嘆き、第六節にわれらが存在のありさまを説いて、

||弱げに

はた真裸に、常世の

さびしき海にゐよりて、

沈黙もだしなかばのたたずみ

とあるは、眼のあたり人生の真実に対ひたる心ならでは感ぜぬ寂寥孤独の思ひなり。われは此篇とともに、『金剛山の歌』を愛誦す。

『金剛山の歌』には詩人の意気句ごと節ごとに溢れて、新代の光明すでに五千尺の巓を照らす壮麗えも言はれず。自然の大景を籍りて、感想の純なるを陳ぶるは泣菫子独特の技にして、別に叙事の妙をおぼえたるは、第二節のをはりなり。

浪の音ゆるき朝なぎに、

真帆真広げにひき張りて、

鳥羽路へわたる舟人は、

山いただきの空みだれ、

雲のちぎれを見やるにも、

上帆ひらきをあげよ山おろし

吹きこそ来れ』と高らかに、

板子に立ちて騒ぐらむ。

 巻頭『公孫樹下に立ちて』の歌のうちに

われらは願はく狗児いぬころ

のしたたりに媚ぶる如、

心よわくも平和やはらぎ

小さき名をば呼ばざらむ

は集中の豪語なるべし。これをはじめて『小天地』の紙上にて読みし時は少しく感興を殺がれしやうに思ひたれど、こたびは嬉しかりき。

 物忌守りし和魂の化生『翡翠の歌』には秘密の宝さはなり。末節に

さればや包むに和毛まろう

聖なる龕と胸ぬひて、

まもるに霊ある翼そへぬ。

これもいみじき筆のあやとうなづかれぬ。

 短かき歌のうちにては『沢潟の歌』の象徴詩は完璧の作にして、『おもひで』はまことに興ある旅の紀念なるべし。

『虹の歌』の数篇のうちにては、われは檀弓真鹿児矢たばさみて天つ狐を追ひすがらむといふすぐよか者の歌に、泣菫子が豊かなる想像の力こころゆくばかりなるをよろこぶ。

 長篇、『雷神の歌』及『天馳使の歌』には、作者の神話伝説を駆使する技倆と、語彙の渾々として尽きざると、従て譬喩の自在と叙事の活躍とありて、長所はまた短所を具して相交錯するところ、盖し詩壇の壮観たるに値す。

 われは『天馳使の歌』に『なかだえ』の巻を択ぶ。諾冊二神が黄泉の対話かけあひに愛着と怨念の声を聞きて悽惨の情に禁へず。『あまくだり』の巻なる天門の景のミルトンぶりなるはをかしからず、また七徳の化身を白鳥伝説に結びつけしは思ひつきなれど、描写少しく露骨に失せずやと思ふなり。いかにや。

 さあれ||

かくてそのかみ伊弉冊が、

子の迦具土の息の火に

焦しはてたる永遠とこしへ

女性は遂に招かれて、

(さても誉れの囚人めしうどや)、

また人の世にかへり来ぬ

慈悲こそは永遠の女性なれ、かくてこそ人の子の勝利はあれと喝破す。ここに詩人の高想も聖慈悲の懐裏に養はれて、遂には天津国の歌の園に入る可きをおもひて、ここち清々しうなりぬ。

(明星 巳年第八号 明治三十八年八月)






底本:「蒲原有明論考」松村緑、明治書院

   1965(昭和40)年3月5日初版発行

初出:「明星 巳年第八号」

   1905(明治38)年8月

入力:広橋はやみ

校正:小林繁雄

2010年12月8日作成

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●表記について


「竹かんむり/候」

  

267-12



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