おくみが厄介になつてゐるカッフェーは、おかみさんが
おくみは自分がいつまでもぶら/\とこゝにかゝりものになつてゐるのが済まないやうな気がして、いつも自分で先へ/\と用事を求めて働くやうにしてゐるのだけれど、料理場の男と店の方を受持つてゐるてきぱきしたお安さんともう一人の女中との外に、下を働く下女が一人、出前持の小僧が一人ゐて、それへおかみさんも出来るだけは立ち働いてゐられるので、おくみはたゞ十になられるあき子さんと小さい男のお子さんの面倒を見るのと、
「おくみさん、もうお
女中のお安さんは、多い髪のハイカラな巻きかたに、黄色い厚い留櫛を見せて、向うのテイブルに
「雨でも降つてるのか知ら。変にしつとりしてるやうだわね。」
「さうでございませうか。」
入口の
おくみは戸をしめておかみさんの方へ来る。外を見た目で店を見れば、水の中かなぞのやうに青いガスの
二階には女づれの西洋画家と、つれの一人とがまだカルタを引いてゐた。
かういふつゞきから、おくみはおかみさんがぽつねんとかけてゐられる椅子のところに
「だつてなまじつかなところへ奉公なんかすると、身をしくじる元だから、それこそよく何した上でないと。||私も何とか考へて上げるつもりでゐるんだけれど、でもくみちやんにしては、いつまでもこゝにかうしてゐるのも
「
おくみはこんなときにでも、自分の心持はこれだけしか得言はなかつた。
「そんなことをお考へのは、まだ
おかみさんは気よくかう言つて下さる。
「それよか一寸こちらへ向いて御覧なさい。面白いところにほくろがあるわね。」
「これでございませう?」
話はこんな風にして飛んでしまつた。
おかみさんは
亡くなられた主人は洋画家だつたのださうである。おかみさんは、二人の小さいお子さんを
おくみはこゝへかゝりものになつて来てから、浮か/\してゐるうちにかれこれ二た月以上になつた。
考へると自分ながらたよりのない身の上である。お父さんには二つの年に亡くなられて、十一になるまで継母の手で大きくなつたのが、継母はそれまで一人でやつて来たのに、四十になつてからおくみを人にくれといて、よそへ再婚した。継母は赤十字病院の看護婦長のやうなことをしてゐた。おくみが貰はれたのは、その病院で書記をしてゐた人のところであつた。
おくみはそこから、続いて学校へもやつて貰つてゐたが、さうしてゐるうちに、その養父はおくみが十四になつて女学校へ上げて貰つたばかりのときに急に亡くなつて了つて、おくみはまた養母とたつた二人になつた。そんな事で学校も間もなく
養母はどこからも金が這入るところがないので、ずつと小さいところへ移つて、人の針仕事なぞをして貧しい目をしなければならなかつたので、おくみも僅かの日給を取りに、下町の商品陳列館の小売部へ
養母はもとから少し
継母はおくみを今の
二人はそのやうにして一年ばかり貧しい日を送つてゐたが、養母は仕事だつても一向ないし、おくみが得る金も、電車賃やその外のつましい
そんなことで、おくみが商会で新聞の職業案内を見て、或日曜の日にたづねて行つたのが今のおかみさんのところであつた。おかみさんは、そのときは主人に亡くなられて間もない頃で、水道町の小さいところに装飾美術の手工を教へる看板をかけてゐられた。おくみはそこへ女中代りに
こゝのおかみさんは、おくみの
その頃青木さんもとき/″\話しに来られた。
おくみはそこを自分の生れた家のやうに思つてたよつてゐたが、おかみさんはそれから一年もたゝない内に、どうもその仕事では立てて行けないので、いつそ身を下げて千駄木の方へミルクホールを出されることになつた。さうして片手間で受合仕事のレイス細工なぞをされたが、その方は大した足しにもならなかつた。おくみは店で牛乳を沸かしたりして手助けをした。
おかみさんは、このやうなことにおくみを使つてゐたのでは、元来の約束にも
おくみはそのときはまだ十六になつたばかりであつた。
ところがミルクホールも一寸もはやらなくて、これも一年ばかりで店を閉ぢて、おかみさんはお子さま二人をおつれになつて、仙台のお
お
おくみはおかみさんのお近づきの方の世話で、おかみさんの立たれるのと共に、さし
平河さんのおかみさんには、お別れしてもしげ/\手紙をいたゞいてゐた。おかみさんは間もなく、小さいお二人を置いて出てこられて、或私立の女学校へ手工を教へに行つてゐられたが、後には二人をつれてお出でになつて、女生徒を預る素人下宿を開いたり、いろ/\に迷はれた後に、たうと今のカッフェーをお出しになつたのであつた。
おくみはこれまででも、おかみさんのところを
おくみはお邸にゐる間に
性質の
おかみさんは
今度は、主人が、政府が変つたのについて出世されて、西洋の大使館へ代られることになつて、こちらをすつかり畳んで行かれたので、おくみたちに閑が出たのである。おくみは帰るところがないので、平河さんへおたのみして、どこへか身の振り方のつくまでかうして当分来てゐるのであつた。
この間内まではおかみさんが少しお体が悪かつた上に、小さい方のがはしかにかゝつたりされて、おくみがゐるのが切つてはめたやうに役に立つてゐたけれど、今ではゐてもゐなくてもいゝやうな自分である。どうせずつとこゝにゐられるわけでもないので、何とかしなければならないのだけれど、養母がいふやうに、またどこかのお邸へ上るといふのももう気が
出来ることなら、このまゝこゝの家のものにして戴いて、いつまでもおかみさんを頼りにして暮して行つたらと思つたりするけれど、自分には何とて
小さいあき子さんと一つ寝床に寝てゐるおくみは、板戸の隙間が
おくみは丁度さう言つたやうな矢先へ、たま/\青木さんのところに代りの婆やが要るので、だれか来るまでの間、一寸手伝ひに行つてお上げすることになつた。
或雨のふる午後、青木さんはいつものやうに
青木さんはおかみさんとの話が途切れたとき、
「おくみさんは私を覚えてゐますか。」と、こちらで
「だつてこの間も一寸お目にかゝりましたぢやございませんか。」と笑つたら、
「だけれど、私といふことを忘れてゐやしないかと思つて。||私はこの間はだれだらうと思つた。すつかり見ちがへましたよ。」と
「あなた様はあの時分と一寸も変つて
「水道町の頃と? でも四つになる子供のお父さんだのに。」と、あちらを向いたまゝさうお言ひになつて、おかみさんと話をつゞけられた。
「おくみさん、あき子さんをつれて出て来ませんか。
「お家に山羊がゐますのでございますか。」
「二匹ゐるよ。二匹。」と青木さんは赤い顔をして帰つて行かれた。黒い長いネクタイを大きく結び切りにして垂れてゐられた。さういふ風にしてゐられても少しもけば/\しくお見えにならないところが却つて人を引くやうに思へた。つましく寂しく暮してゐられるやうに見えた。おくみはおかみさんから、青木さんが去年まで二年ばかりフランスに行つてゐられたといふ事を話された。
そのときには別にお家のことなぞも聞かなかつたけれど、その次に青木さんが坊ちやんをつれて来られて、婆やが近々に息子のところへ帰つて行くといふのだけれど、後が困つて了ふがどうしたらいゝだらうとおかみさんに相談されるのをおくみは聞いて、話の容子で青木さんは奥さんが亡くなられたかどうかして、婆やに出て了はれると坊ちやんとたつた二人になられるらしく思はれた。
「あなたも少しのんきだわ。なぜかうなるまで黙つていらつしたんでせう?」
「だつて、さう急いだわけでもないと思つたから、その内代りを探さうよと言つたきり、私も急がしいんでつい忘れてゐたんです。」
おかみさんと二人でこのやうなことを言つてぼそ/\話して行かれた。それから日を置いて二度ばかり来られた。
昨日は青木さんから、どうも困つたといふはがきが来た。その晩に、おかみさんが当惑したやうにおくみにそれを仰つて、どうでもおくみさんにでも当分行つてて上げて貰はなければなるまい、気の毒だけれど、と、困つたやうに言ひ出された。
おかみさんはそれから青木さんのお家のことを話された。青木さんの奥さんは去年の暮あたりから、坊ちやんを青木さんの方へお置きになつて、牛込のお
「青木さんがあゝしたおとなしい、いゝ方だから余計に気の毒でね。||どうせその内にどこからかいゝ奥さんをお貰ひなさるだらうけれど。」
「でも
「それがね、言はゞ奥さんの方の考へで以て、今一寸離婚されなすつたやうな風になつてるんだから。」
かう言つておかみさんは話をお換へになつた。何かごた/\したわけがあるらしく見えた。
今ゐる婆やは、青木さんに学校時代から使はれてゐる女で、青木さんの洋行中は、奥さんと二人で小さい坊ちやんを護つて留守をしてゐたのださうだけれど、今度どうしても息子の方へ帰らなければならなくなつたのださうである。
青木さんは亡くなられたこゝの主人によくしてお貰ひになつた方で、主人が亡くなられてからは、すべてにおかみさんの力になつて上げてゐられるのであつた。おかみさんもさういふわけで青木さんのためにはどのやうなお世話でもなさらなければならなかつた。
一時おかみさんが女学生を預つてゐられた頃に、二人の間に何かありでもするやうに、下宿してゐる女生徒たちに評判されてゐられたらしいやうな事を聞いたけれど、おかみさんの気質を知つてゐるおくみには、もとよりそんなことは信ぜられる筈もなかつた。たゞ青木さんが
「
おかみさんは言ひ
「何でも構はない
「さうですね。」とおくみは考へてゐた。
「厭?」
「いゝえ。たゞ私のやうなもので間に合ひますか知らと思ひまして。||お勝手
「大丈夫よ。」
青木さんがたつた一人でいらつしやるのだつたら、若い女がついてゐるといふ事が、何だか世間の手前なぞに対しても変なやうな気もするけれど、それにはちやんと弟さんも
おかみさんがその事をはがきでお知らせになると、青木さんは御安心なすつた。それでもなるべく来て貰はないで済めばといふ御返事であつたが、二三日して、やはりおくみが借りられる事になつた。
おかみさんと二人は、朝、
おくみはおかみさんと二人で山の手線の小さい駅へ下りた。
おくみはいつかこの電車で品川へ行つたときに、そこに今見えてゐた、何かの工場らしい大きな赤い煉瓦の建物や、さつきの牛乳屋の、牛がいくつもゐた柵なぞを、この駅の目印のやうに見て通つた気がするけれど、このあたりへ下りたのは今初めてであつた。
「もうこゝまで来れば大方来たやうなものよ。」
おかみさんはブリッヂを下りて了ふとかう言つて、帯の間から切符をお出しになる。駅を出て互に
いろんな店なぞの出てゐる、場末らしい町筋を少しばかり行つて、或、貧しい草花の鉢物を乏しく並べた、黒ずんだやうな家と、活動のびらの下つた小さい床屋との間の狭い横町へ這入つてから、そこを左の方へ折れるまでの間は、汚ならしい長屋のやうな家ばかり並んだ、ごた/\したところであつた。
やがて再び幅の広い通りへ出た。
二人は、粗末な貸家なぞがぽつ/\立ちかけてゐたりするやうな、
「まあ珍らしうございますこと、麦の穂が出てをりますよ。」
「きれいに作つてあるのね。あの家の裏手になつてるんだわ。||あそこを御覧、水引よあれは。」
「あんなにして拵へるんでございますかね。こちらにも並べてありますよ。赤いのが綺麗ですこと。」
二人はこのやうなことを話しながら、立木なぞの沢山ある、青々した通りを歩いた。
おくみはかうして久しぶりに、たゞぶら/\歩くために出て来でもしたやうに、すべての物に気がまぎれるやうな、のんびりした気分になつてゐた。柔かい五月の
おくみは、電車を下りてどこをどう来たのだつたか、もう解らなくなつた。そこから間もなく、西洋人の名札の出た、白いペンキ塗りの、小さい
「ね、小ぢんまりしたいゝお家でせう。あたりはこんなだしね。||あの二階が青木さんのお仕事をなさる画室よ。」
おかみさんはかう言つて、先に立つて木戸口をお開けになる。上に見えてゐる二階のこちらの側は、硝子戸の内に白い布が引かれてゐた。
おくみは一足後れて
おくみは何となく青木さんのところを、だゝ
おかみさんが入口の格子戸のベルをお押しになると、障子のぢき内に附いてゐるらしい梯子段からどなたか下りて来られる足音がした。
と、取次に出て来たのは十八九くらゐの、ハイカラな
「お家で入らつしやいますか? 平河でございますが。」とおかみさんが仰る。
「どうぞ。」と言つて格子戸の栓を開けてくれる。つゞいて青木さんが
「さ、お上り下さい。今日は仕事をよして待つてたんですよ。||林さん、こちらにしよう。そこをちやんと片附けて下さい。」
青木さんは下の間へ通すやうに女の人にさうお言ひになる。
「婆やさんはどこかへ行つたんですか。」
「え、子供をつれて一寸そこまで使ひに。||今のはモデルの女。」と青木さんは小さい声で仰る。
「
おくみはハンケチ包みをそこらへそつと置いといて、お二人の後から
そこは六畳ばかりの奇麗な一と間で、大きな鏡のついた西洋風の
「おくみさんこゝへおかけなさい。私の椅子はこちらにあるから。」と向うのを持つて入らつして、
「どうもお急しいところをわざ/\。」とおかみさんにお礼を仰る。
「いゝえ。いつも
「私は何にも出来ませんのでございますから。」と、おくみはまぶしさうにこれだけ言つた。
「どうぞ一寸の間面倒を見て下さい。のんきな家だから何でもないですよ。||婆やはもう昨夜から行李を出してごそ/\やつてますよ。」とおかみさんと二人へかう順々に仰る。
「いつ立つんです?」
「
「だれでも年取つた人は、かうと言つたらたまりがないんですわ。||坊ちやんはあれからいかゞです。」
「えゝ相変らず。昨夜から少し虫歯が痛いと言つてくす/\してゐます。どうも私のやうなものは子供なんか全く荷厄介だ。」
「そりや無理もありませんわ。今日までだつてよくやつてお出でになつたやうなものですからね。」
おくみは一人外の方を見てゐた。
「どうして子供なんてものが生れるのかな。余計な事だと思ふんだけど。」と、青木さんは
「全くね。」と、おかみさんは口もとでお笑ひになつて、
「あなた、どうぞお構ひなさらないで下さいましな。お客さまぢやないんですから。」と、さつきの女の人にさう仰る。その人が銀色の盆に紅茶を入れて来たのであつた。
「これは家の山羊の乳ですよ。」と、おくみに仰りながら、青木さんは、手のついた、黒ずんだ色の、変つた面白い小さい壺から、三人の紅茶へ乳をお
「冷たくならない内にお戴きなさいな。」
おかみさんとお二人は匙を取つてそれを飲みながら話しをされる。おくみは気を利かして、お土産をそこへ出す積りで席を立つた。
さつきの三畳へ出てハンケチ包みを取つて、次の間を覗くと、そこにはモデルの女の人が、することもないやうに障子のところにぽつんと坐つて、新聞を拾ひ読みしてゐた。外の土の上には小さい花壇が作られてゐて、赤いゼラニュームや、その外の花の色が目立つてゐた。
「どうぞこちらへ入らつしやいまし。」と女の人は愛想よく迎へて新聞を片づける。そこは青木さんの弟さんの部屋にしてあると見えて、青い
おくみはこの女の人にさう言つて菓子鉢にするものを出して貰つた。向うに、茶の間の四畳半と、台所と湯殿と、もう一と間附いてゐるらしかつた。どこもきちんと片附けられて小ざつぱりしてゐた。四畳半には、坊ちやんの、紐のついた小さい着物が柱の釘にかけてあつた。
女の人は不馴れな
「えゝ、これで結構でございます。」と礼を言つて、おくみはそれへ、ハンケチから出した、パセリをそへたサンドヰッチをよそつた。包のナプキン紙には妻楊枝まで附いてゐた。
「林さんとかいふ方をこゝへ呼んでお上げなさいよ。」と、おかみさんが青木さんに仰る。女の人は用事かと思つて出て来たが、
「いえ、私は沢山でございます。一寸帰りに用足しをして行くところがございますから、これでおいとまいたします。」といふ。
「さうですか。もうしばらくゐたつていゝでせう?||ではすまないが二階のテイブルの上に置いてある手紙をポストへ入れてくれませんか。
青木さんは灰皿に煙草を消しながら仰る。
女の人は二階へ上つて行つた。おくみは送りに出て三畳に立つてゐた。女の人は手紙を懐にはさんで、帯上げを結び直しながら下りて来た。
「何かお忘れになりまして?」
「いゝえ、一寸。」と、林さんは次の間へ這入つて、そちらの方を向いて
「さやうなら。||どうぞお心安くお願ひ申します。」
「私こそどうぞ。」とおくみは言ひ後れたやうにかう言つて、下り口に膝をついた。
「これから外は追々暑くなりますね。」
「段々に厭になつてまゐりますわ。どうぞあなた、あちらへ行らしつて下さいまし。すみませんでございました。」と、林さんはきさくに挨拶をして格子戸を締める。縫直しの着物の、色の変つたところが出てゐるのを着てゐたりするのが何となく気の毒で、おくみはそれを見まいとつとめるやうな心持がした。
こちらでは青木さんが、おかみさんにこの女の人の話をしてゐられた。
「くみちやん、
おくみは馴れない手附をして、
モデルの女の人は赤坂の方から来るのださうであつた。
「お目にかけるやうなものぢやありません。
「さういへば私のところの主人なぞは、随分みじめでしたわね。あの人のは画としては
二人はそれから、亡くなられたおかみさんの御主人の事について思ひ出し話をされた。
「まあ、青木さんはこれからですわ。かうしてみつちりやつてらつしやる内には段々にあなたの画が光つて来るんですから。」
「どうですか。近頃は一向気が向かない。色んなことでくしや/\するせゐか、とき/″\画なんか画くよりも、
「それがいゝんですわ。人間はそんなにせか/\
「だれかまゐりましたやうですね。」とおくみは立つて行かうとした。
「いゝんです。豆腐屋でせう。山羊の
「山羊はお豆腐の
「それへふすまと言つて小麦の皮の粉になつたのを交ぜて食はすんです。」と青木さんが仰る。
おかみさんはそれから毎日の買ひ物やなにかについて聞かれた。
目の前の外の日向を、青く光つた虫が、青い糸を引くやうに筋を附けて飛んでゐる。
やがて、婆やが坊ちやんを伴れて帰つて来た。
おかみさんは画室からお下りになつて、裏の方へ出て御覧になつたりした後、お午近くに帰つて行かれた。
「では婆やさんが立つたらこの人をつれて入らつしやいな。一と通りのことだけして置けばあとはどうでもいゝんだから。家の内といふものはさう何から何までしようとしたつて
おかみさんは洋傘をおさしになつた片手に、
「たゞ、水道がないのが一寸困るわね。風呂だけは青木さんの弟さんが汲み込んでくれるとは言つたけど。」
おかみさんは別れるまであれこれ言ひ足して行かれた。
お母さまのいらつしやらない小さい坊ちやんは、もうおくみにお馴れになつて、人なつつこさうに手に
後から水色に塗つた洗濯屋の車が来た。
おくみはおかみさんの行つてお了ひになつたあとを、しまひにまた振り返つた。ずつと前に千駄木のお家から西洋人のところへ行つたときに、寒い雨のしよぼ/\降る中を、おかみさんが、小さいのを
おくみはそのときまだ年の行かなかつた自分が、おかみさんに拵へて貰つた不断着を
「おや、
坊ちやんには白地に赤い筋が雨の糸のやうに這入つた、厚い
青木さんは台所の水口の前にこゞんで、バケツに入れた山羊の食料の豆腐がらへ、塩を振つて混ぜてゐられた。坊ちやんはおくみの手を引張つて、格子戸の方から上らうとなさる。
間もなくお
青木さんは、サンドヰッチを食べたから、午は乳だけでいゝと言はれたさうで、おくみは婆やが生温くして壺に入れたのを、コップと共に盆に載せて二階へ持つて行つた。
青木さんは小さい方の室に、蔓の寝椅子に長まつて、少し開けてある硝子戸を通して外を見てゐられた。欄干には、下の
おくみは寝椅子の側の
「さつきからそこへ小さい鳥が来て啼いてるんだが。||もう行つて了つたかな?」と、青木さんはぢつとしたまゝさう言つて耳を澄ましてゐられる。
「いゝお天気でございますね。」と言ひつゝ、おくみはそこに
それは女の神さまらしい一人の西洋の女が、青い鳥籠の戸を開けて、木の上に
「こゝへ出て御覧なさい。向うの森がすつかり見えますよ。」
青木さんは、おくみがさうして外を見て彳んでゐた続きのやうに言はれる。おくみは赤い鳥から目をはなした。
青木さんは起き直つて乳を
「すみませんでございました。」と、おくみは壺を取らうとした。
「いゝんです。私が勝手にやるから。」
「さうでございますか? ではまたあとでゆつくり見させて戴きますから。」と、おくみは画室をもこちらからたゞ一寸見たばかりでそこ/\に下へ下りた。このお家へ来て、青木さんに馴々しく対してゐるやうに見えては、婆やの前に何となく変なやうに気が置けるからであつた。
「どうぞお二人でこゝで召上つて下さいな。何にもないのですみません。」と、婆やは、おくみを目上の人のやうに、坊ちやんと二人で先に食べさせようとした。
「いゝから。どうぞ私のいふ通りにして下さいよ。私は坊ちやんのお給仕をしといて、あとで一人戴く方が片づいていゝんですから。」
気のいゝ婆やは心安くかう言つて、坊ちやんの襟元へナプキンを

「何だか
おくみは困つてもぢ/\してゐた。
坊ちやんは食べかけて、また歯が痛くなつた。婆やが塩水を含ませたのが
食事が済んでから、おくみはその痛む虫歯へ、婆やに買つて来て貰つたケリヲソートを附けたりして、やうやく坊ちやんを泣寝入りに寝せつけて、一人枕もとに坐つてゐた。
その晩青木さんは、フランスにゐられた仲間の会へ行かれて留守であつた。弟さんは下ではうるさいからか、二階の画室へ上つて
おくみは夕方に行李が着いたので、手軽な着物に着換へてゐた。婆やは
「坊ちやんはもう眠いんでせうよ。||今夜はこゝへお床を取つて上げますからもうお
婆やはあちらの四畳の押入を開けて蒲団などを出して来た。坊ちやんは寝床へお這入りになるとまた目がさえたやうに、しばらくはしやいでいらつしたが、その内にくたぶれて寝入つてお了ひになつた。歯の痛い方の片頬が熱を持つたやうに
「やつとお
「どうもお母さまがお弱いせゐかして、この小さいのがいつもどこかこゝかお悪いのでね。
どこかの
「それはお母さまがゐなくなられた当分しばらくは、夜昼となく母さまへ行かう、母さまへ行かうつてお泣きなすつてね。それが丁度旦那が久しく不眠症で困つていらつしたころで、折角やう/\のこと夜中時分にどうやらお
婆やはしんみに坊ちやんの事を気にしてゐるやうであつた。
この人は青木さんに七年の間ついてゐたのださうである。坊ちやんは青木さんの洋行に立たれてから
おくみは後にはそれらの訳がよく解つたが、とにかく今婆やが言つただけでは、奥さんはこれなりでもう帰つて入らつしやらないやうな容子であつた。
「婆やさんもこれまで大抵ぢやございませんでしたわね。」と、おくみは自分がその身になつて見るやうにかう言つた。
「いゝえ、私はかういふ人間でてんから役に立たないもんですから、まあせめて毎日の
「でも気はいゝ人ですから、私を可哀さうだ/\と言つて、たうとこの年まで置いて下すつたんです。私も随分不幸な人間でしてね。」
婆やは息子が一人ありながら、いろんな訳があつて、その子にかゝることが出来なくて、五十六の年に、一人で、こちらにゐた
「おくみさんはこちらでお生れなすつたんでせうからようござんすね。田舎は万事がうるさくてそれは厭ですよ。」
「でも私は家といふものがないんですし、言はゞたつた一人ぼつち見たいなものですから詰りませんわ。」と、おくみは爪先に目もとを集めて、さつきから半分外の事を考へてゐた後にかう言つた。
「それでもまだあなたはこれから自分の家が出来るんですもの。お若いに似合はずよく出来てお出でだから自分にもお仕合せですよ。何でもきちんとしてお出でですことね。」と、婆やはおくみの髪の形からをなつかしさうに見入つた。
二人は十時前までそこに坐つてゐた。婆やは小遣帳をつけた後に、眼鏡をかけて、貸本屋から借りた
おくみは行李からレイス糸を出して、いたづらに、小さい肩掛袋を編みかけた。青木さんの弟さんは退屈さうに下へ下りて、そこらをごそ/\させて入らつしたが、再び二階へ上つてお出でになつた。
「洗吉さんは恥しがりやですからね。あなたが入らつしたので
婆やはまだ色んな話をしたけれど、奥さんの事については、あれきりで何にも言はなかつた。
「おくみさん、旦那は今晩は
「いゝえ、私はこの間から馴れて了ひまして、夜分は幾時まででも起きてるんですよ。平河さんのお店では、二時ごろまでお客さまがおありになることがあるんですからね。」
おくみは婆やを手伝つて、座敷の椅子やテイブルを片よせて、青木さんのお床を取つて置いた。
翌る朝おくみが一人四畳で目を
おくみは
そこらの、まだ蔭ばんでゐるやうな土の上には、ちやんと、すが/\しく
坊ちやんは
「まああなたもつと悠つくり
「私はそれまでに、ぜひ一軒いとま
「では随分気ぜはしなうございますね。私が出来ることだけ何なりといたしますから、あなたはいゝ加減にしていろんなお
「私は仕度も何も、たゞもう着物さへ着換へれば、いつでも立てるやうにしてあるんですから。||おや、うつかりしてゐました。一寸待つて入らつしやいな。くせ直しのお湯を少し取つて上げますから。」
「いゝえ、よござんすよ婆やさん、いつでもたゞかうやつて置くんですから。」
「さうですか? 何ならついざうさはありませんよ。」
おくみは
おくみは
おくみはこれとてする事がないので、婆やがいゝといふのを無理に箒を出して貰つて、中庭の方を掃きに行つた。
物置きの横手から廻つて行くときに、裏の山羊がもう起きて小屋から出てゐるのが見えた。
裏には一寸した地面があつて、山羊のゐるところと小さい畠とが作つてある。畳二三枚ばかりに青く生えてゐる芝生にはベンチやぶらんこも拵へてあつた。
山羊は、左の方の隅を五坪ばかり低い柵で囲つて、それへ二匹飼つてある。
柵の中には
柵の横手の畠は、半分が草花の床になつてゐて、黒い柔かい土に、色んなものが植ゑてある。こちらには
それらのすべてが、まだ日の出ない前のしづかな朝の中に、青い眠りからさめたやうにしつとりしてゐる。生垣の外の草地には
そここゝに白い
おくみはくゞり戸を開けてこちらの庭へ這入つた。雨戸の
やがて半分ばかり掃除が出来たとき、座敷の雨戸の中で目ざましの音がじり/\と鳴つた。しばらくして戸袋の戸が開いた。
青木さんが寝間着のまゝで雨戸をお開けになる。
「お早うございます。もうお目ざめでございますか。」と、おくみは側へ行つて他の人が目がさめないやうに小さく言つた。
「寝られましたか。」
「えゝ、よく
「昨夜は会で少し酒を飲んだので目が赤いでせう?」
おくみは上へ上つて
土の上を掃いて
「まあ、そんなにして取りますのでございますか。」
おくみははじめて見るので珍らしかつた。山羊は二匹共柵の柱へつながれてゐる。青木さんは小さい台へ腰をかけて、両手で腹の下の乳房を揉み
「あちらではこんな事は小さい女の子なぞがしてゐますよ。よく出るでせう? これには少し上手下手があるんですよ。」
毎朝両方で二升位取れるのださうで、みんなで飲めるだけ飲んだ余りを溜めといて
「おくみさんもこれからお飲みなさいよ。牛乳よりも余つ程営養分が多いんですよ。」
棚の隅には小屋から出した敷藁が広げられてゐた。雀が二三匹小屋の屋根へ下りて啼いた。
七時を打つと婆やは洗吉さんを起した。洗吉さんは眠さうな目をして楊枝を
おくみは坊ちやんを起して着物を着換へさせたり、顔を洗ひにつれて行つたりした後、そこらを掃除した。
洗吉さんが鳥打帽子に袴をはいて、眠い/\と仰りながら出て行かれてから、おくみは婆やを手伝つて、みんなの御飯の仕度をした。おくみは婆やが切つて来た
婆やは山羊の乳を温めて黒い壺へ入れた。
「さ、もうそれでよござんすから、あなたも行つて一緒に坐つて下さいよ。その積りで麺麭も余計にあれしたんですから。」
坊ちやんもあちらから呼びに入らつして袂におつかまりになる。
「
「ぢや私はお給仕にだけ参りますわ。」
おくみはかう言つて坊ちやんに附いて行つた。
青木さんはテイブルにかゝつて新聞を読んでゐられた。テイブルの上には小さいベイズに、新しい黄色い花が

「坊ちやんは
おくみは黒い壺の乳を二人に注いだ。
「あなたもお上んなさい。坊やはほつとけば一人で食べるんだから。」と、青木さんは小皿へ麺麭を

おくみは仕方なく一緒によばれなければならなかつた。
「坊やはこのお姐ちやんと婆やとどつちが好きだい?||婆やの方が好きかい?」と、青木さんがお聞きになる。
「それを食べてからお言ひなさい。そんなに頬ばつてちや口は聞けないよ。」
「姐ちやんも好き。」と坊ちやんが言はれる。
「も好きか。」
「どつちも好きでございますつて。」と、おくみは
「おくみさんは画は好きですか。||尤も近頃は極端なふざけたやうな画も出ますけれどね。||あとで二階へ上つて私の画いたのを見て下さい。一二枚ぐらゐは出来のいゝのもあるから。」と、青木さんはおくみに話しかけられる。
おくみはどう言つていゝのか、自分がちやんとした一人前の女かなぞのやうに言はれるのが極りが悪いやうであつた。
「私は何にも判りませんのでございますから。」とおくみは顔を赤らめた。
婆やは小さい皿にお漬物を入れて持つて来た。
「おくみさん御遠慮なさらないで沢山召し上れよ。お乳はまだお代りが温めてあるんですよ。」
おくみは何だかしまひまでもぢ/\するやうな気がしてゐた。
御飯が済んでから、婆やはそこらを掃きはじめた。おくみも
さうしてゐる内にモデルの林さんが今日は大分めかして出て来た。こちらへ這入つて来ると、六畳で叩き人形のお相撲を並べて足を投げ出してゐられる坊ちやんを、
林さんは間もなく画室へ上つた。婆やも、やがてそこ/\に着換へをして出かけた。
「あのね、おくみさん。私は旦那に黙つて出て行くんですからね、もし後でお聞きになつたら、一寸自分の買物に四谷あたりまで出かけたんですつて、たゞさう言つといて下さいな。大抵お午に間に合ふやうに帰つて来ますから。」と、坊ちやんの
「坊ちやん、婆やがいゝお
婆やはどこか、青木さんに言ふと面倒になるやうなところへ
二階では林さんが坐つて、画が画かれて行くやうであつた。坊ちやんは格子戸の外まで婆やに附いて出て、硝子燈の柱の下で一人で遊んでお出でになる。
おくみは坊ちやんの寝間着の
おくみは紙面の写真や、その日の九星なぞを見てゐたが、思ひ出して新聞を畳んで、座敷の押入へ行つて、青木さんの枕の
「坊ちやん、待つてらつしやいましよ。今
小さい人は、台所にあつた古けた下駄の大きいのを履いて、相手がなささうに、おくみが
「あそこへ行つて山羊を見て入らつしやいまし。二つとも棚の上へ上つてあんな事をしてゐますでせう。をかしな山羊ですこと。」
ぶらんこの側の物干綱へ、洗つた物をかけて置いて、坊ちやんを
おくみは坊ちやんの手を引いて、何かの
やがて家へ這入つて、坊ちやんのお相手をしながら、昨夜の編物を出して編んだ。坊ちやんは壁に足を投げかけて、仰向きにお転びになつたまゝ、
さうかうしてゐる内に、いつしか十一時過ぎになつた。モデルの女の人は日課を済まして帰つて行つた。肉屋が挽肉を持つて来た。
坊ちやんは二階の梯子段を上つたり下りたりして動き廻つてゐられたが、一人で
おくみはさつきから度々時計を見た。もう五分ばかりで十二時になる。棚の
青木さんが退屈なすつたやうにとこ/\二階を下りて入らつした。
婆やはやつと、おくみがお午の後じまひをしてゐるところへ、気を
「お午にはおまごつきになつたでせうね。どうもすみませんでございました。つい話が長くなつたものですから。||どうぞそれはさうしといて下さい。私がしますから。」と言ひつゝ、汗ばんだ顔をして帯を解く。
「実はね、旦那に内証で一寸奥さんのところへお
「いつそもうこの儘にしてゐませうよ。ぢき汽車の時間が来ますから。」と言ひながら、手拭で顔を拭いた。
青木さんは坊ちやんを伴れて後の原へ出てゐられるのであつた。
「旦那が何とか仰いましたですか。」
「いゝえ、青木さんはたゞどこかへ行つたのかつて仰つただけで、他に何にも仰りやしません。たゞ、今日立つと言つたけどどうする積りでゐるのかしらと仰つて入らつしやいました。||ではどうしても五時のでお立ちになるんですか?」
おくみは濡れた手を拭いてこちらへ来た。婆やは留守の間の坊ちやんの事をも尋ねた。
「私は今も奥さんといろ/\坊ちやんの話をして来たんですよ。奥さんが始めから
「それから、私が今日奥さんのところへお
「えゝ、私は何にも言やしませんから安心して入らつして下さい。」と、おくみはすべての訳は解らないけれど、さう言つて受合つた。
婆やは新聞紙の包みを開けて、坊ちやんのお召しになる、
「あなたは、この
「さうでございますか。でも行李の方が手軽で便利でございますね。」
「いゝえね、奥さんが持つて入らつしやつたのを何もかも返してお了ひになつたもんですからね。||旦那に、悪いのでもいゝから是非一つお買ひなさいと言つたんですけど。||行李では物を一つ出し入れするのにも
婆やは四畳の押入の前に立つてこんな事を言つた。
「あそこいらに坊ちやんの声がしてゐますわ。」
「さうですか。私行つて呼んで来よう。私が帰るなんて事を何にも知らないで入らつしやるんだけど、どうせ何だからさう言つて聞かせて上げようか知ら。」
婆やはかう言つて坊ちやんの着物なぞの這入つてゐる行李を出した。
四時を少し廻つた時間に車が来た。
婆やが涙ぐみながら行李を積んで乗るのを、坊ちやんはどこへ行くんだどこへ行くんだと言つて聞かれた。さつき青木さんが婆やはもう遠くへ帰つて了ふんだつて言はれたのを、坊ちやんは嘘だと言つて信じられなかつた。
ステイションへは青木さんと洗吉さんとが送つて行かれた。おくみは坊ちやんをつれて門口で見送つた。
「さ、こちらへ入らつして左様ならをなさいまし。危うございますよ、そんなところへお行きになつては。」と、おくみは坊ちやまが車の背中の漆塗へ顔を写してゐられるのをこちらへ引き放した。
婆やは目をしよぼ/\させて、いくども
おくみは物を出しに四畳の間へ行つたときに、そこの柱に、忘られたやうにかゝつてゐるめくり暦が、いつまでも一つ日を示した儘になつてゐるのを見て、固めてそれを剥がして来た。婆やが行つて了つて、おくみが一人になつてから、丁度一週間といふものがそは/\と立つた。
おくみは一人でこそ/\と、出来るだけの事をして行つた。手の
たゞ困る事は、これまで、余りしつけてゐないので、煮物の加減なぞが不安であつた。その日/\のおかずの取り合せにも気を使つた。
「どうも遅くなりました。もう電気が来てをりますでせうね。何だかまごついてばかりゐまして。」
おくみは額際に汗をにじませて、袂を
「お加減がいかゞでございませう。召し上られますかどうですか。」と物馴れない恰好をして坐つた。
一昨日は平河さんのおかみさんが容子を見に来て下さつた。おくみは落附いたら一度坊ちやんをつれて出かける積りでゐたのだけれど、何かとどさくさして出られなかつた。青山の養母へ、こゝへ来てゐる事を知らす手紙を書くのもまだその儘にしてゐるやうな訳であつた。
おかみさんは物の煮方の事なぞあれこれ言つといて行つて下さつた。
おくみは夜茶の間の電気を低く下げて、小使帳をつけた後に、おかみさんの言はれたのを考へ出して、あくる日のおかずの拵へをノートへ書いて見た。
お小使はふろを立てない日に坊ちやんをつれて外湯へ行つたりなぞする外には、おくみの手で使ふ
「それは何かと気をくばるばかりにでもくたぶれるでせう? もう少しの間だから辛抱してゐて下さいな。||その内には段々に馴れても来ようしね。」と、おかみさんは気にして下さつた。
「でも皆さんがこゝろよくして下さいますから、一寸も気が置けませんで、
「青木さんは今もおくみさんをいつまで借してくれるんですかつてお聞きになるのよ。まあせい/″\早く代りを目附けなければ、あの子もこれから行くところがあるでせうからつて言つといたけど、あの人はかういふ事には少しのんきな人だし、それに割に知合の少い
おくみはそれから坊ちやんの事を話したりした。
坊ちやんはすべてに聞分けのよいお子さんで、少しも無理をお言ひにならないから、おくみも余程し易かつた。最初二三日の間は、ときどき飽きて来ると、淋しさうな顔をして、婆やはまだ帰らないのかとお聞きになりながら、着物の裾を噛んで
おくみがお午などに呼びに出ると、坊ちやんは向ひのお家の門の中で、紙で拵へた帽子なぞを着せられて、そこの家の同じくらゐの小さな女のお子さんと二人で並ばされてお出でになつた。その女の子のお兄さまらしい、六つばかりのお子さんが、大将のやうに二人を
家の中にゐられるときには、坊ちやんはおくみが動く方へ附いて廻つて、おくみのする事を立つて見たりなさりながら、大人しく遊んでゐられた。
「さ、それぢやまゐりませう。坊ちやんには何を買つてお上げ申しませうね。||おや、金魚をですか? お湯屋の前に? ですけれど、お父さまがお叱りになりはしませんか知ら。」
二階でひつそりと画が
おくみは自分のお
夜になると、坊ちやんが寝てゐられる枕もとに、三匹の小さい金魚が這入つた硝子の
「もう寝たの? これがゐるのでおくみさんの厄介も大抵ぢやないね。」
青木さんは、話相手をお求めになるやうに、二階からのそ/\下りて入らつして、しばらくそこへこゞんで煙草を吹かしたりされた。
「何だか婆さんなんぞがゐなくなつてから家の中がからりとしたやうな気がしますよ。あの婆さんには随分役に立つて貰つてたけれど、どうもとき/″\頑固を張られるのでね。||何でも自分のしようと思ふ通りに出来ないとぶつ/\言つて
こんな事を、悪口といふ程でもなくお話しになりながら、膝頭を抱へて柱に倚りかゝつてゐられる。
「一寸あちらの灰皿を取つてまゐりませう。」
「何、もう直き行くから沢山。」
「ついそこにございますから。」
おくみはそれを取つて来て再び坐つて、これとて話もない目を伏せて、着物のはしを爪先で
「本当にひつそりして居りますですね。」
「一人でぢつとしてると淋しいでせう?」
「いゝえ、そんなにも思ひませんでございます。私は一体陰気なんでございませうね。かういふしんとしたのが好きなんでございますよ。」
顔を動かすと、畳と壁とに拡がつて写つてゐる影法師も軽く
「夜分は電車の音が随分近く聞えますこと。」
洗吉さんが外から帰つて入らつした。
「おくみさんへ絵葉書が来たよ。」と仰る。
店のお安さんがよこしたのであつた。二つ


「これはお客さまから貰つたのです。ちか/″\にお遊びに入らつしやいまし。おかみさんもお待ちになつて入らつしやいます。青木さんによろしく。」と、表に鉛筆でがさ/\と書いてある。
「お安さんからあなたさまによろしくと書いてございます。」と言ひつゝ、おくみは青木さんに裏の写真
「だれかやつて来たよ。」と、青木さんはそれを下へ置いて戸口の方に耳を向けられた。
ベルが鳴る。
「はい。」と、おくみは立つて出て、上り口の電燈を
「青木さんはゐますか。」と格子戸の外から聞かれる。
「どなた様で入らつしやいます?」と言ひつゝ、おくみは格子戸を開けに下りた。
「や、どうぞ。」と、青木さんが出て迎へられた。ネルの単衣にステッキをお持ちになつた、
「二階に
「いや。家のものばかりだ。さつきから下へ下りて
かう仰りながらお二人とも二階へお上りになる。
おくみがあとからお客様の座蒲団を持つて上ると、青木さんが上り口へ来てお取りになつた。
「すまないが戸棚の葡萄酒でも持つて来て下さいな。小さい
おくみはやがてそれを銀色の盆へ載せて
こちらにごろんと横におなりになつて、そこらの書物を見てゐられたお客さまは、おくみが次の間に坐つてお辞儀をするのを見て坐り直された。襖の根に置いてある本棚の側に、白い大きな壺に

おくみはその儘下りて来た。さつきからどんな方かよく顔を見ない儘であつた。おくみは上り口に投げ出されてゐた、その方の、
洗吉さんは六畳の机の前に坐つて、インキ壺の口にこびり附いたインキを紙で拭き取つてゐられる。
「これから御勉強でございますか。」と、おくみは後で、
「今晩は少し歩き過ぎたから
「どちらまでお出でになりましたんでございます?」
「ずつとこつちの方を廻つて、あそこの活動館の前まで行つて来たんです。今晩はあの辺の縁日で色んな店が出てました。」
「さうでございますか。私はどこがどうなつてゐるんですか、このあたりを一寸も存じませんのでございますよ。」
「あ、さつきの絵はがきを見せて下さいな。」
「あそこにございます。」とおくみは立つて持つて来た。
洗吉さんは半ばおくみの方を向いて、膝を崩してお坐りになつて、
「これはいゝ役者ですか。」と、お聞きになる。
「どうでございますか。私はお芝居の事は一寸も解らないのでございますけど、それはずゐぶん可愛らしい子でございますね。」
おくみは遠くに坐つて、片手を畳に突きながらかう言つた。
「お国にはあなたさまのお
「弟がまだ一人ゐます。いたづら坊で母が弱つてるんですよ。」
「でも男の御兄弟ばかりがお三人もお揃ひになつて入らつして御結構でございますね。」
「だつて二人はまだどんなものになるか解らないんですもの。」
洗吉さんは絵はがきを丸めて眼鏡のやうに覗いて、向うの壁なぞを見てゐられる。
おくみはしばらくそのまゝそこに坐つて、糸屑の落ちてゐたのを爪先で
おくみはお安さんからはがきが来た翌々日、青木さんにさう言つて、少し
別にこれといふ用事があるのでもないけれど、一度行かないと何だか変なやうな気がするからであつた。行けばもう一つの行李から出して来たいものもあつた。
「まあ、すつかりハイカラにおなりなすつたわね。家では毎日お噂をしてたんですよ。||おかみさんは今一寸お湯。もう直き帰つて入らつしやるでせうよ。」
お安さんはもう一人の女中さんと二人でぐるりの腰板を拭いてゐるところであつた。
「こなひだから一寸上りたいと思つても、一人ですから容易に出られないんでせう。||どうぞ
「もう済んだんです。綺麗になつたでせう。さつからそこいらの
坊ちやんは喉が乾いてか、水が飲みたいと仰る。
「ぢや待つてらつしやいましよ。||帽子の紐が取れたんでございますか。||お姐ちやんが附けて上げますつて。どうもすみません。」
おくみはかう言ひながら、コップを持つて奥へ白い砂糖を取りに上つた。
「何ですか、家でもよく水を召上るんですよ。習慣になつて入らつしやるから別にどうもないやうですけれど。」
おくみはお安さんと話しながら、テイブルの上の水

「もう途中に氷店が
「えゝ/\もう
おくみは椅子の肩をハンケチで軽く押へながら、お安さんとあちらの容子なぞを話したりしてゐた。
その内におかみさんが石鹸入れを手拭に包んで、下のお子さんをつれてお湯から帰つて入らつした。
「おや、久男さんは靴を履いて入らつしたの? そしていゝ提げ袋をかけて。||さうですか? お姐ちやんに編んで戴いたんですか?」
坊ちやんはおかみさんには馴れてゐられるので、坊ちやん相応の色んな事を機嫌よくお話しになる。
「さ、お姐ちやんはこちらへお上んなさいよ。今日は夕方まで
お安さんはそこらの事をしながら坊ちやんとお家の三郎さんとの相手になつてくれてゐる。おかみさんは、その後の事を聞いて下さつた。
「もう、あのモデルの方をお使ひになつた画は二枚ともお仕上げになつたやうでございます。女の人は
青木さんのお仕事の話に移つたとき、おくみはかう言つた。
「こなひだ一人、この裏の方にゐる四十くらゐの行きもどりの女で、さういふところへなら早速行きたいと言ふのがあつたのよ。」と、おかみさんは
「裏の
「おかみさん、私にならどうぞ何にもお構ひなさらないで下さいまし。只今御飯を戴いてまゐつたばかりでございますから。」
「
おかみさんはどうかして早く代りの人が出来ればと言つて気にして下すつた。
「私は人さまの事だから、くみちやんにはまだ何にも言はなかつたけれど、婆やから何か青木さんの奥さんの事を聞いて?」
おかみさんはやがて、話の続きからかう言はれた。
「いゝえ、別に何にも······たゞ、いつも坊ちやんの事を大変気にして入らつしやるといふ事だけ婆やさんから一寸聞きました。」
おくみはかう言つて、婆やがこなひだ奥さんに会ひに行つた事や、着物を二枚
「婆やさんは、奥さんの事は何でも青木さんには隠してゐるやうでございますね。」と、半ばはその言訳のやうにおくみは言つた。
「あの婆やもよくないのよ。
おかみさんはかう言つて、長火鉢に炭をお継ぎになる。
「それはだれよりも青木さんが一番お気の毒なのよ。」
やがて三郎さんが、店で遊ぶにも飽きたやうに、浮かない顔をしてこちらへ上つて来られた。坊ちやんも来たさうにして
「もう三時を少し過ぎましてございますね。私はそろ/\おいとまをいたしませう。あき子さんは今日はまだ学校からお帰りにならないのでございますか。||坊ちやん、待つて入らつしやいましよ。もう
おくみはそれから
電車は両方で四十分と見れば沢山だから、もう少し遊んで行つたらと言つて止めて下さつたけれど、電車を下りてから、坊ちやんがよちよちお歩きになるのにも手間取るし、ほつといて来たお家の事も気になつた。来がけには少し坊ちやんを
「それぢや左様なら。何だか
おかみさんは出口まで送つて来てかう言はれた。お安さんには、不断の浴衣の縫ひ直しを一枚仕立てて小包で送つて上げる約束をして、戸棚の中の自分の行李から出した悪い帯の表と一緒に風呂敷に包んで抱へた。
「今度は
おくみはそれから少し歩いて賑やかな通りへ出て、勝手で使ふ
坊ちやんには白い糸のついた風船玉が持たせてあつた。おかみさんのところで戴いたお菓子の包はおくみが預つてゐた。
そこから終点まではかなりある。おくみは、まだ何をか買ひ落したやうな気がするのを考へ出さうとするやうな心持をして、向う側の窓の外などを見てゐた。
山の手線の駅で電車を待つてゐるとき、おくみには、さつきはじめておかみさんから聞いた青木さんのお家の事情が、自分の事のやうにうら寂しく心に繰り返されてゐた。
おかみさんは、さまで
奥さんはかうなるまでにも、一度
青木さんはあゝいふおとなしい方だから、大抵のことは奥さんの言はれる通りになつてゐられたけれど、たゞ、奥さんが何かにつけてなさり方が派手なのをいつも不平を言つてゐられた。それはまだ奥さんがすべてにお馴れにならないといふ点もあつたらうけれど、とにかく、これまでが贅沢にやつて来られたので、その習慣で余計なところに気を張つて、いろ/\無駄な事もしてゐられたやうであつた。
はじめの内は、よく
さういふ点は、奥さんをよくお言ひにならないおかみさんも、自分のして来た事に引き較べて充分同情してゐられた。
お二人は、はじめの間はもとよりこれといふ事もなく暮してゐられたのであつた。併しどういふ訳でか、奥さんは、どうかすると、一人で人のゐないところに彳んで、
奥さんは或女学校を出られた方で、もとちがつた名前で少しばかりの物をお書きになつてゐた事もあつたさうで、青木さんの洋行のお留守の間には||さびしかつたからであらうけれど||一寸/\そちこちへ短いものなぞ出してゐられた。しかし、世間から作家として許されるまでにはもとよりまだ大きに
青木さんは女としてはそのやうな事をなさるのはお好きにならないので、あちらから厭みを言つてよこされた。奥さんは分らないつもりでやつてゐられたのだけれど、青木さんからさう言はれて、自分でお書きになるのはお止めになつた。
青木さんは、平河さんのおかみさんには、自分が西洋へ出てからといふものは、どうも妻が自分に対して冷やかになつたやうで変だといふことを言つて来られたさうであつた。奥さんの手紙についてさう言はれたものらしい。それはこちらにゐられた前から、少しはそんな事を言つてをられた事もあつた。あの女はまだよく自分を解してくれてゐない。自分は妻に対しては、とき/″\他人と一つ家にゐるやうな、さびしい気分になることがあるけれど、どうも女のたちが、少し私には
青木さんは、先からおかみさんにはどんな事をでも話されるのであつた。ときには奥さんに相談なさるべきことを、その方へは黙つておかみさんの方へ持ち込んで来られる事さへあつた。
あちらからさう言つて手紙をよこされたのに対して、おかみさんはおかみさんだけの温かい手紙を上げて、間接に慰めて上げるより外に仕方がなかつた。
青木さんが二年振であちらから帰つて入らつしたときは、奥さんは丁度体がお悪くて医者にかゝつてゐられて、痩せ青ざめて寝てゐられた。そこへ坊ちやんもとかくそちこちがお弱かつたので、家の内は青木さんを陰欝な色をして受取つた。
奥さんは間もなくたうと入院される事になつた。たしか乳かどこかを切開されなすつたので、その方はやがて直つて退院されたけれど、それから後がいつまでもヒステリーのやうな風に、変になつてお了ひなすつた。
そのとき、或日青木さんがおかみさんのところへ入らつして、あの女は私の洋行の留守の間に、だれかほかの男と関係でもしてゐたのではないだらうかといふやうな事を言ひ出された。さう考へると、いろんな点で疑はしいところがある、少くとも、私に対して下手な隠しだてをするのが変だと言つて、あれこれ少しづゝの事実をお並べになつた。併し、変だといへば変だけれど、たゞそれだけではまさかさういふ推断は出来なかつた。たゞ青木さんは奥さんが陰気に
それに奥さんも悪いのは、青木さんに対してさつぱりと物事を言つてお了ひにならなかつた。例へば、病院から出られて間もないころ、夜中にそつと寝床を出ていくつかの手紙を火鉢でもやしてゐられたことがあつた。それを青木さんは次の間で目を開いて見られた。それをも奥さんはどうした手紙かといふ事を、その後に聞かれてもどうしても訳を言はれない。私だつてどこからでも手紙は来ようではないかと言ふやうな事を言ひ返して、しまひには一人いつまでも泣いてゐたりされたさうであつた。
それに青木さんがあちらにゐられた間、奥さんは、いつも小さい坊ちやんをつれて
もとより青木さんは、しかとした事を捉へるまでは、奥さんに向つては、そんな事だけで奥さんのすべてを
青木さんはそんなわけで勢ひ洋行前のやうに奥さんをたよりにはなさらなくなつた。
さういふやうな事からでもあるまいけれど、奥さんは病気が段々にひどくおなりになるばかりで、後にはふら/\と
それで青木さんも、とにかく実家の方へやつて静養させる事にされた。さうして二た月ばかりぢつとしてゐられる内に、どうかかうか直つて、つねのやうになられるのはなられた。
「奥さんはそれで
おかみさんは、さう言つてるところへお安さんが顔を出したし、それきりあとは濁しておくみにお言ひにならなかつたけれど、前後の口振りでは、やつぱり青木さんの洋行のお留守の間に、何か間違つた事がおありになつて、たうと離縁になられたのぢやないかと思はれた。
おくみは下目になつて聞いてゐた顔を上げて、おかみさんの目の色を読むやうに見ただけで、自分からはそれ以上にほじつては
もし果してそんな事だつたとしたら、奥さんも何といふ人か
婆やも言つてゐた事だけれど、おかみさんが、なぜかこの坊ちやんを青木さんがあまりおかはいがりにならないから、坊ちやんもお可哀さうだと、別の事でさう言はれたのも、どうやらそんな意味があるやうな気もされた。
坊ちやんは何にも知らないで、風船玉の糸を待合室のベンチのはしに巻きつけたりして待つてゐられる。
やがて速い電車が
「ではお落しにならないでちやんと持つて入らつしやいましよ。」と、坊ちやんが、おくみの手に持つてゐる切符を貸せといはれるのに対してかう言ひつゝ、おくみはベンチに置いといた買物の風呂敷包みを手頸にかけて、両手で坊ちやんを抱へてそは/\と電車に乗つた。
おくみは何もお知りにならない坊ちやんが、一寸もお母さまともお言ひにならないで、婆やが行つて了へば今度はおくみをしんみのやうにたよつて附き纏うてゐられるのが、今日は余計にいたはしいやうな気がした。
「坊ちやん、ぢつとして入らつしやいましよ。もうぢきでございますからね。ずゐぶん長く遊びましたからお飽きになつたんでせう?」
おくみは、腰をかけるところに立つて、
やがて坊ちやんの手を引いてやう/\家の
洗吉さんもどこかへ出てゐられて、青木さんが一人、二階で留守をしてゐられるやうであつた。おくみは気のせゐか、同じさうしたしんとした家へ上つても、これまでになく、何だか陰気な色の中に這入つたやうな気がするのは、暗にあゝした奥さんの事で厭な目を見られた青木さんの心持を考へるからであらうか。
「坊ちやん、お父さまに只今をして入らつしやいましな。をばさまからいゝお
おくみは自分の下駄を下駄箱にしまつて、坊ちやんのあとから二階へ上つた。
青木さんは留守にそこの押入なぞを掃除なすつたと見えて、梯子段を上つたところに、
画をお画きになるところは、すつかり容子がちがつたやうに、ごたごたしたものが片づけられてゐた。青木さんは所在なさに
「坊やはまたそれをお姐ちやんにねだつたのかい?」と仰る。
「どうも遅くなりました。おかみさんからよろしく仰いましてございます。」と、おくみはこちらから手を突いた。
おくみはさういふ、このお家のことを聞いてからは、当分はこちらの気のせゐか、何だか淋しい人たちの間に来てお世話をしてゐる自分だといふやうな心持がそれとなく考へられた。
さつきも青木さんが坊ちやんを外の湯へつれて行かれて、もうとつぷりと日もくれかけた、雨もよひらしい夕方を、浮かない顔をしてとぼ/\手を引いて帰つて来られたときにでも、青木さんがどんなことを考へてゐられた続きかといふ事が、おくみにはちやんと解るやうな気がして、自分までがさびしいやうな心持がした。
おくみは門口の戸が開いたので、上り口へ出て、電気を
「おかへりなさいまし。」と言ひつゝ手拭や石鹸なぞを受け取ると、青木さんは、
「この櫛はやつぱりお湯屋へ置いて来たんだつた。」と仰りながら、あちらへ行らつして、髪をお
おくみは夜分なぞも、みなさんがお
坊ちやんはおくみの中へ這入つて寝られるので、そこの蒲団の、小さい寝息の枕もとには、おくみの枕と寝間着とが置かれてゐた。
電気をうす明りにして蒲団へ這入つたおくみは、足を出してゐられる坊ちやんの着物をかき合せて、やがて自分も目を
おくみはさうした心持から、自分がさき/″\どんなことになつて行くだらうかと云ふことを考へて、心細い思ひに目を開いてゐた。あつてないやうな自分の養母のことも考へられた。ここへ来てゐる訳を、一寸手紙で言つて置いたのだけれど、養母からは、いつか平河さんの方へ向けて、いつまでもそこでぶら/\してゐるのはどう云ふ気なのかと言つて聞いて来た、あの手紙以来、一寸もたよりがないのであつた。
おくみは自分の家と云ふものがないことや、だれ一人しんみりした血つゞきの人もゐてくれない事なぞが、あぢきなく考へつめられた。山の手にゐたときには、よくそんな事を思つて一人寝床の中で泣いてゐたりした事がいくどもあつた。
おくみはいつか自分の小さかつたときから今日までの事をそれからそれへと考へ返して、言ひ知らない涙つぽい自分を見守つた。しまひには、たゞ女に生れて来たと云ふ事それ自身さへはかないやうな心持がした。
おくみはかういふ夜を寝て目さめた朝なぞは、坊ちやんが暗い内からもう目を
青木さんも、おくみが来てゐてくれるのをよろこんでゐて下さるので、おくみも何となく張合があつた。
おくみはあれこれ気をつけて、行き届くだけのことをして行かうとすると、これだけの人数のお家でも、一軒の家となればいろ/\する事があつて、手の安まらないやうな事もあつた。夜のひまなぞには青木さんの不断着なぞで縫ひかへたいものを一枚づゝ
おくみはそちこち
「おくみさん、坊はどこかへ行きましたか。」と、青木さんはおくみが裏でその張り物を剥がしてゐるところへぶら/\出てお出でになつた。
「私これが済みましたら紅茶でも入れて持つて上らうと思つてをりましたところでございました。坊ちやんは洗吉さんと御一緒に駅の方へお出でになりましたやうでございますよ。」
「何をしに?」
「坊ちやんが電車に乗りたいと仰つて、お午ごろからねだつて入らつしやいましたものですから。」
「洗吉はもうぢき試験だのに、あんなにぶら/\してゐてもいゝのかな。」
「でもずゐぶん御勉強もなさつて入らつしやいますわ。」
青木さんはそのまゝそこの花床へ
おくみはやがて、土の上の
おくみは自分だけの気でか知らぬけれど、こゝのお家へ来てから、かうしてどちらを見ても、柔かい青葉に充ちた外の色に対して
今小さい畠の彼方の栗の木には、段々と傾いて行く日足が、黄色い灯を
山羊の柵の中にもばら/\と落ちてゐる。山羊は二匹とも
「おくみさん。」と青木さんがお呼びになる。おくみは、
「はい?」と言ひつゝ、こちらへ来てあたりを見廻した。
「こゝです。一寸こゝまで来て御覧なさい。」
青木さんは井戸の方のこんもりした
「まあ、どこにいらつしやるのかと思ひました。」と、おくみは側へ行つた。
「一寸手を受けて下さい。こゝから。」と、青木さんは変なところから、手の平に何かを
「何でございます?」
「食べられるもの。
「まあ、桑の実でございますか。」と、おくみは言つた。
「汁が手に附いたでせう? まだありますよ。」
「一寸待つて下さいまし。それではお皿か何か取つてまゐりますから。」
おくみは黒く熟したつぶ/\の実を両手に受けたまゝ、急いで台所へ行つた。
それを有り合せの笊へ入れてこちらへ来る。
「おや/\、大きなものを持つて来たんですね。もうそんなにはない。小さい木だから。」と、片手へ一ぱいだけお入れになる。
「こちらからは何にも見えませんでございますよ。そこはどこになつてゐるんでございませう?」
「こゝから覗いて御覧なさい。||ね、まだ赤いのがぽつ/\
「赤いのが未だ大分
「野薔薇が咲いてる。||あれは秋になると南天の実のやうな赤い実が
平生はだれも人が這入らないものと見えて、草が随分高く延びてゐる。
「こゝは一体となりの地面になつてゐるのかな。」と青木さんは言はれる。
すぐそちらには、三尺ばかりの幅を置いて、となりの家の物置の黒い板塀の背中が見えてゐて、その下に、白く雨ざらしになつた大きな貝殻が二つ三つ、土の中に覗いてゐる。そこへはあちらの草原からつづいて這入れるやうになつてゐるのださうである。草の中に
「あなた、お召しものへ沢山泥坊草が喰つ附いて居りますよ。」
「頭も
青木さんはしまひに一人言のやうにかう仰つて、桑の枝をたわめて、少しばかり赤いのをお取りになる。ひとりでに生えて大きくなつたらしい一本の桑の木が、こちらの生垣の中から覗いてゐるのであつた。
おくみはいつしか垣の根へこゞんで、土の上に置いた笊の実の中に、青木さんが草の上へお置きになつたか、朽ちた細い芝草のごみが
狭いところをざわ/\と草を踏んで出て行かれた青木さんは、やがておくみが笊なりにその実を洗つて、押入から白い西洋皿を出して入れてゐるところへ、表から廻つて帰つてお出でになつた。
「おくみさん、それを二階へ持つてつて二人で食べようか。」と青木さんは水口へ覗いて、真顔で、子供のときに言ふやうな事を仰る。
「只今すぐにでございますか?」とおくみは微笑みながら、皿のふちの濡れてゐるのを
「一寸
おくみは牛肉屋が挽肉を持つて来たのを戸棚へしまつて置いて、やがてその桑の実の西洋皿へ匙をつけてお盆へ載せて、二階へ持つて上つた。
青木さんは机をちがつた方へお据ゑになつて、黒と赤とで縫取りをした布をかけた上へ、その半分ばかりの白い大理石の板を置いて、その上にいろんな焼物を並べたのをこちらから見入つてゐられた。
「こんな風をしてまゐりまして。」と、おくみは気がついて、
「すみませんが紅茶を入れて来てくれませんか。おくみさんのも。||もう夕方まで用事がないんでせう?」とお聞きになる。
「では少しこゝでお話しなさいよ。」と一人ではせいがないやうに仰る。
おくみは下へ行つて
湯が湧くのを待つて紅茶を入れようとしたが、何だか、ゐずまひも取り乱してゐるし、この間から着てゐる着物がもう塩たれかけてゐるので、二階へ行つて坐るためにも、序に他のと着換へたくなつた。
行李から、こなひだ平河さんへ着て行つたときのネルの着物を出して着る。もう前からこれを
「すつかり着物を着換へて改まつて来たんですね。」と桑の実を食べて待つて入らつした青木さんは、おくみの姿を見てからお言ひになる。
「あんまり気持が悪うございましたから。」と、おくみは顔を赤めながら坐つた。
「おや、一つだけしか
「私はこれを戴きますから沢山でございます。」
青木さんが紅茶を
「さう
「久しぶりのやうで珍らしうございますわ。」
おくみはハンケチを出して指先を拭いた。ちやんと着物を着換へた昼の心持にさそはれて、うつすらと目立たぬ程白粉をつけて来たのが、気はづかしいやうでもあつた。
「甘いですか。」
「えゝ、
「何、とき/″\ゐないでくれてもいゝよ。子供といふものは絶えずがさ/\動き廻つてぢつとしてゐないから、こちらの気が落附かなくて。」と仰る。
「よく子供のときには、これを食べると後で舌の見せつこなんかしたものだがな。||舌が黒くなるでせう?」と、青木さんは話をもとへかへして、のんびりした心持のやうに足をお延ばしになつて、紅茶を
「もう一ついかゞでございます。」
「今度は砂糖を入れないで
「まだ今日はあの壺へ半分ぐらゐ残つて居ります。」
おくみは下りて乳の入れものを持つて来た。
青木さんは、長まつてゐられて、おくみがそれを
「でもこちらへ上りましてからはすつかりのんきにしてゐさせて戴きますから肥るはずでございますけど。||私はもとからこんなに肉附きがないのでございます。」と、おくみは下目になつて襟のあたりを掻き合はせながら、極り悪さうに坐つてゐた。
「だつて一人ぢやずゐぶん忙しいでせう?」
「そんな事は私は何でもございませんけど、すべてがお気に召さない事ばかりでございませうと思ひまして。」
「そんなどころぢやない。あなたが一人で何でもしなけれやならないんだから、とき/″\すまないやうな気がするんだ。」
「いゝえ||私が何でも勝手な事ばかりして居りますのですから一寸も気苦労がないのでございますもの。却つて一人の方がしようございますわ。」
「さういふものですかね。」
「どうしても女はほかに色んな方が入らつしやいますと、
「もう食べないんですか。」と、何をか考へたやうにしてゐられた青木さんは、しばらくしてかう仰りながら乳を飲んでおしまひになる。
「私はもう沢山戴きました。あとは坊ちやんに取つといてお上げ申しませう。」
「うんう、赤いのを食べたら
「何かへお出しなさいますか?」とおくみは袂の中を探らうとした。
「沢山です。あとから甘いのを食べれば同じだもの。」と笑ひながら仰る。
「子供見たいだね。」
「えゝ。」とおくみも微笑んだ。
青木さんは何をか言はうとしてお
「おくみさんはずつとこの儘私の家にゐてくれないかなあ。」と、やがて思ひ出したやうにかうお言ひになる。さつきからそれが言ひたかつたやうな御容子に見えた。
「ね、お嫁に行くまでこゝにゐて下さいよ。」と、灰皿へ灰を落して、遠慮らしく軽くさう仰る。
「そんな事はいつでございますか。」と、おくみは、さう言はれて何だか暗に寂しいやうな気分を見つゝ、ハンケチを口もとへ当てて、はづかしさうに下目になつた。
「平河さんのおかみさんに、私がさう言つてるがどうしたらいゝだらうつて相談して見るといゝ。||でもおくみさんに外に考へがあれば仕方がないけど。」
「私も別にどこへと言つてまゐる処もございませんし······」と、おくみは指先に目もとを集めてこれだけ言ひかけたが、あとは得言はないで顔を赤らめてゐた。いつそさうして戴けば自分も出来るだけ働いて行くけれど、平河さんでどうお言ひになるか、何だか自分からはおかみさんに言ふのが変だしと思つて見る。
「私はおくみさんが来てくれてから、すべてに不平といふものが一寸もなくて、のんびりした気分になつて来ましたよ。何だか暗いところから


青木さんはかう言つて、横になつてゐられる肩を起して、あちらの机の上のものの位置を考へてお出でになる。
「坐つてゐて透かして見ると、あの大理石へ花

「えゝ、うつすら写つて居りますね。」と、おくみは片手をついてしばらくそれを見入つた。
「帰つて来たな。久男が大きな声ででたらめの歌を
「ほゝゝあれは坊ちやんでございませうか。」と言ひつゝ、おくみはもう大分日も低くなつたのに気づきながら、向ひの家の屋根に半分さした、赤ばんだ日影の色に目をとめた。
その翌日、青木さんは
三時頃におくみは、青木さんがお
おくみが遠慮して梯子段の上に立つた儘、何か召し上らないでもおすみになるのでございますかと聞くと、
「いゝや、何にも、ぢきあとで下りるから。」とお言ひになつたばかりで、目をお放しにならないで考へ入つてお出でになる。おくみは邪魔になつては悪いと思つたのでそれきりで下りて来た。どんな画が出来かけてゐるのか、こちらからは見えなかつた。
おくみは坊ちやんが、そちこちお歩きになつたりするのにも気を使つて、
洗吉さんは、家にばかりお出でになつては気がつまると見えて、何か書きぬいたノートを持つて裏手の草原の方へお出ましになつて、木の下なぞを歩きながら、諳記物か何かをしてゐられた。
坊ちやんが生垣へ覗いて、
「叔父さあん/\。」と、用もないのにお呼びになるのを、おくみは、
「もう黙つて入らつしやいましよ。叔父さんは勉強して入らつしやるのでございますからね。こゝへ来て御覧なさいまし。あの栗の木にあんな大きな黒い虫がゐるでせう? あとであれを取つて糸で車を引かせませうか知ら。板でも何でも上手に引くんですよ。」と、こんな事を言ひながら、そこらの土の上を掃いた。
やがて青木さんは、
「おくみさん、さつきは失礼。画を見せようか。」と、おくみが茶の間でマッチ函へ糸をつけて、虫に引かせる荷車を拵へてゐるところへ下りてお出でになつた。
「もうお出来になりましたのでございますか?」と、おくみは自分のものが出来でもしたやうにかう言つた。
坊ちやんも、白糸でつないだ固い角のある黒い虫の荷馬を持つて、
もう画がちやんと出来てゐた。壺を一つだけにして、小さい画にしたと仰つて、昨日の大理石へ一寸した壺を載せて、庭の赤と白とのハイヤシンスを盛つて

画には、大理石の表にその色絹やハイヤシンスや青磁色の壺が
「まあ綺麗にお出来になりましたこと。」
おくみは、自分たちの目で見たばかりでは、さまで意味があるやうに思へぬ原物が、画になると、同じものでありながら、何だかもとのものに比べてこんなに引きつけられるやうなしつとりした色になつてゐるのを見くらべながら、それが画の力といふものなのかといふやうな事を、何にも解らぬ心に考へながら、両手をついてぢつと画面を見つめてゐた。
「どうです。気に入りましたか。」と、青木さんも自分の画の前へ入らつして、おくみの左手へ立つてお出でになる。
「私なぞには解りませんけど好きでございますわ。」
「その布の色なぞが?」
「えゝ。||布もでございますが、画のすつかりが。||下の大理石へ写つてゐるのが何とも言へませんでございますね。」
「うん。」と言つて、見てお出でになる。おくみは本当にさう思つた儘を言つたのであつた。青木さんがお画きになつたのだと思ふから余計にいゝと思ふのかも知れないけれど、大層よくお出来になつたやうに思はれた。
「何でございますか、この写つて居りますところを覗くと、こちらの顔まで写りさうでございますのね。」と、おくみは黒い目を上げて青木さんのお顔を見上げながら言つた。
「さうですね、」と、青木さんはおくみの側にお
「ぢつとこの画を見てゐるとどんな気がします?」と、煙草を取つて火をおつけになつて、おくみの方へ迷うて行かうとする煙りを口でわきへお吹きになる。
「||解りませんわ。」とおくみは、自分の感じる心持をどうにも纏めて
「これを見てゐると気分が浮き/\するやうに愉快になりますか?」
青木さんは微笑みながら
「私の気のせゐでございますか、よく見て居ります中に、何だか寂しいやうな気になつてまゐりますけど······」
おくみはためらひながら正直に言つた。
「さうでせう? あんなに華やかな色ばかりで画いてあつても、全体の気分には、丁度大理石そのものの
「お目出たうございます。」と、おくみは自分までが何ものかを得たやうにかう言つた。
と、
「好きならおくみさんに上げようか。」と真面目になつて仰る。
「これをでございますか。」と、おくみはそれでも御冗談だといふやうにかう言ふと、
「それぢや、これから銀座へ行つていゝ額縁を買つて来て、おくみさんの部屋へかけて上げようね。||おくみさんの部屋と言つたつて別にないんだけど、ぢやあの四畳か。あそこにあなたの荷物が置いてあるんでせう?」と仰る。
おくみは何と言へばいゝのか困惑しつゝ、
「だつて私なぞにかういふものを······それよりか大事にしまつてお置きなさいましよ。」と、もぢ/\してゐた。
「お礼に上げるんだからいゝよ。」
「ほゝゝ、何のお礼でございませう。」
「この画の寂しいところを解つてくれたのと、私の画が一つ出来たのを悦んでくれたから。」と仰る。
「画がどことなく寂しいのは、私がいつも寂しいからなんだ。おくみさんにはそれがいつも解つてゐてくれるやうな気がして感謝したくなつたんさ。」と、青木さんはつとめて笑ひながら仰る。
おくみは黙つて下目になつてゐた。
「何、冗談ですよ。||たゞ上げたいから上げるんだから貰つておきなさい。私は自分の画いたものはやたらに人にくれたいのだから。」
おくみは、
「
「ふゝゝそんなに真面目にならなくてもいゝや。」
さう言はれておくみは何か言はうとして微笑みながら、訳もなく涙ぐまれるやうな目を上げた。なぜだか、ひとりでにさうしたしみ/″\した心持になつて来た。
坊ちやんは、虫の糸を持つて這はせながら、二人の顔を見くらべてお出でになる。
「坊や、下へ行つて二人で山羊に餌をくれようか、ね。」と青木さんはおくみの目もとを見ないやうにして下さるやうに、坊ちやんにさう仰る。
「坊ちやん、はい、つてお返事をなさいましな。」とおくみは涙になりさうな心持を隠しながらかう言つた。
やがていつものやうにお夕飯が済むと、青木さんはしばらくそこいらで妻楊枝をお使ひになりながら、朝の新聞を
と、どうでも一寸銀座へ行つて、さつきの画の額縁を買つて来よう、他にも序に廻つて来たいところもあるからと、さうしないでは気が済まないらしく仰つて、あちらでこそ/\と洋服を召す仕度をなさるやうであつた。
皆さんのお給仕をしたあとに、一人坐つて御飯を戴きかけてゐたおくみは、箸を置いて立つて青木さんが座敷の押入の前でワイシャツなぞをお召しになる側に附いてゐた。
「でもこれから大変でございますね。」
おくみはそこの電気を
「何、二時間も経てば直きに帰つて来るんだから。」と、青木さんはダブルカラーをお附けになつて、いつもの黒い長いネクタイを大きく結び放しにして、押入の上の段の、小さい鏡にお覗きになる。
「何かそこへ糸が下つて居りますでせう? おや、そこのところが
ネクタイの先の
青木さんはワイシャツの箱へ色んなネクタイを一ぱい持つてお出でになるのだけれど、この幅の広い黒いのをそんな風にお結びになるのが一等お好きだと見えて、いつもそればかりをお附けになる。
「こんなに洋服なんかに着換へるのは厄介だけど、私はあの銀座の通りなぞの
おくみはあちらの長火鉢の抽斗から、洗濯して置いたハンケチを出して来た。
「お靴はこの方でようございませうか。」
おくみはやがて土間へ下りて、こなひだ履いて出られた黒い編上げの方を下駄箱から出した。
「どうぞ、もういゝから。||久男は何をむしや/\食べてるんです?」と、青木さんは、そこへ出てお出でになつた坊ちやんを振り返りながら靴の紐をお結びになる。
「坊ちやん、そんな叔父さんのお
おくみは久男さんを
「坊ちやんがお父さまに左様ならでございますつて。」と、こちらから言ふと、青木さんはおとなりの門口で振り返つて、
「坊やはいゝ子だからおとなしくしてお姐ちやんと待つてお出でよ。今日は直き帰るんだから。」と、しまひはおくみに言ふやうに仰つて、二三間ばかりお出かけになつたが、ふと思ひ出したやうに引き返してお出でになる。
「何かお忘れになりましたんでございますか。」
おくみもこちらから近づいた。
「あの、ひよつとしたら帰りに一寸平河さんの方へ寄つて来るかも解らないけれど、何か用事があれば||併しどうするか解らないけれどね。」
「いゝえ別に何にも······もしお寄りなさいましたらどうぞ皆さんによろしく仰つて下さいまし。」
おくみは坊ちやんを
気が附くと、お向ひの家の奥さんらしい方が、いつも坊ちやんとお遊びになる小さい女のお子さんをおん
顔なぞはよく目に這入らなかつたけれど、西洋髪にお結ひになつた、どこやらいきな造りをしてゐられるその若い奥さんは、さつきから、それとなくおくみの方をまじ/\と見てゐられたらしかつた。
「お父さんはもうあんなに遠くまでお出でになりましたよ。あそこに。」と、おくみは家の門口で
暮れて行く往来の向うは、もう両側の生垣の色も、墨で塗つたやうに
ついそこらの近い木立の間にも黒い蔭が濃くなつて、そちこちの
青木さんのお姿は間もなく見えなくなつた。
おくみは何だかいつもになく、青木さんの行かれる先がどことはなく物恋しいやうな心持がする。
おくみは大分久しく行つたことのない、銀座あたりの賑やかな通りの、青白く
おくみはそれから御飯をしまつて、やう/\そこらを片附けた。
坊ちやんはさつきから、洗吉さんに相手になつてお貰ひになつて、六畳でふざけてお出でになつたが、見ると、どうしてか
「坊ちやん、もうお止しなさいましな。御覧なさいまし、叔父さんがあんなに泣いて入らつしやいますのに。あなたの方がお強いんですから、もう
洗吉さんは泣く真似をしてお出でになる。もう御勉強なさらなければならないからと思つて、おくみは坊ちやんをなだめてこちらへ伴れて来た。
「二人でお二階を閉めてまゐりませう。坊ちやんは私の好きな/\いいお子さまですから、叔父さまに今のやうな事を仰るものぢやございませんよ。おや/\、梯子段が真つ暗ですこと。」
おくみは二階の十六燭の
「もう大抵一と通りはお調べがついたんでございますか?」と、おくみは坊ちやんと二人でしばらくそこに
「何だかあんまり勉強したつて
「ほんとにお
おくみはこちらの襖を閉め切つて置いて、やがて茶の間の電気の下で、坊ちやんを傍へ坐らせてお針をする。
坊ちやんは、鳥や猿や象なぞが色んな真似をしてゐる色摺の絵本を一枚/\開けて、その絵の訳をお聞きになる。おくみはぽつり/\いい加減な事を言つて聞かせて上げながら、不断に締める夏帯の悪いのをくけた。
「それだけ? うゝん、もつと||もつと長いのを。」と、坊ちやんは、話の一と区切り毎にさう仰るので、段々引つぱつて行く内に、しまひにつゞまりが附かなくなつた。
「もうこれだけでおしまひでございます。今度は坊ちやんがして聞かして下さいましな。こなひだの雀と鳩のお話がいゝでせう? あの本もみんなこちらへ持つて入らつしやいましな。」
おくみは坊ちやんが訳の解らない事を仰るのを、笑ひ/\、解つたやうに聞いて行つた。
その内に時計が八時半を打つた。青木さんがお出かけになつてから、かれこれ二時間ばかりになる。あゝは仰つても、平河さんへでもお寄りになればどうしても長くなるから、やはりこなひだのやうに遅くなつてお帰りになるかも解らない。おくみは青木さんが額縁を包んだのを抱へて、物に考へ入つたやうにして、電車へ乗つたり下りたりなさるところなぞを目に画いた。
考へて見ると、何だかいつも何一つこれといふ御愉快な事もなくて、たゞ一人のやうにかうして暮してお出でになるお心持がお気の毒なやうな気がする。あまり人に物事を仰らぬ
そのうちにいつしか自分の事にも移つて、自分がお屋敷にゐて、この帯をまだ新しく結んでゐた頃の事なぞがあれこれと思ひ返された。
おくみはそれから坊ちやんに赤い糸の束を手頸にかけてゐて貰つて、糸巻へ二つばかり巻き取つた。
灯取虫が電気のかさに来てまひ/\する。坊ちやんは、もう絵の本にも疾くにお飽きになつて、足を投げ出して、紙箱の蓋を
「それではもうお床を取りますから待つて入らつしやいましよ。まあ/\、ずゐぶん散らかりましたわね。」と、おくみはそこらの坊ちやんのものを急いで片づけて、畳の上を掃いて、四畳へ蒲団を出しに行つた。
押入の蒲団を抱へてこちらへ来ると、坊ちやんは、急に何をか思ひ出しでもなすつたらしく、一人で悲しさうにしく/\泣いてお出でになる。どうなすつたのかと聞くと、お父さんがゐないからと、やう/\の事それだけお言ひになる。
「叔父さんがあちらで御勉強なすつていらつしやるんですから、もうお泣きなさらないでお寝間着をお着換へなさいまし。一番に帯を解いて、ね。お
坊ちやんはあやす程悲しくおなりになつて、涙を頬に光らせて、いつまでもしやくり上げてお泣きになる。
「では
おくみは洗吉さんに気兼をして、負つて門口へ出た。
「あそこを御覧なさいまし。あの硝子燈に小さい虫があんなにたかつて飛んでるでせう? 大変な虫。||お父さまは今どこをお帰りになるでせうね。こなひだ坊ちやんとお姐と二人で坊ちやんの小ちやな下駄を買ひに行つたでせう? あそこの家のをばちやんがお湯で何だつて言ひました? 坊ちやんは一寸もお泣きになりませんかつて聞いたでせう? 今にお父さまが帰つて入らつして、坊やはちやんと泣かないで待つてましたかつて仰つたら坊ちやんはどうお言ひなさいますの?」
おくみはお向ひの家の門の電気が、往来を区切つてさしてゐる中に立つて、坊ちやんを
「一寸この影法師を御覧なさいまし。あれが坊ちやんでございますよ。長い/\影法師。」
おくみは背中の涙の人をなだめながら、そこらを往き返りした。ひつそりした往来には暗い蔭りが深く広がつてゐる外には何にもない。ずつと向うの、お湯屋がある通りの角に、自働電話の赤い電気がたつた一つ、眠つた港の灯か何かのやうにぽつちりと寂しく見えてゐる。暗い方へ一寸這入つて、もとの灯のさした中を見ると、瀬戸物の小さいかけらの土に埋れたのが、金色の灯を写して
「もうぢつとその儘寝んねなさいましよ。お父さまがお帰りになりましたら、お姐がちやんと起してお上げ申しますからね。」
おくみは自分が小さいときに寝せられた子守唄を、うろ覚えに小さい声で
何だか自分のためにも青木さんの靴の音が近づくのが待ち入られるやうな気がする。
口にこそ言ひ得ぬけれど、昨日今日は、どうしても青木さんが自分の血つゞきの方ででもあるやうに物恋しい。あの戴いた画にどのやうな額縁がつけられるかといふ事も子供のやうに楽しみでもあるし、そのやうな事が、この頃のたつた一つの物嬉しさである自分が、考へればいつまでも頼りない身の上のやうに小寂しくもある。
「坊ちやん。||もう眠つておしまひになつたんですか。」
ふと黒い空を見ると、
おくみは背中で寝入つておしまひになつた坊ちやんを、仮りに昼の着物の儘で蒲団にお寝かせして、座敷へ行つて青木さんのお床を伸べて置いた。
洗吉さんは椅子にかゝつてこつ/\と勉強してお出でになつた。
おくみは、それから再びさつきの帯を縫ひ上げにかゝつて、坊ちやんの寝床の傍へ坐ると、間もなく門口の戸が開いた。遅くおなりになるだらうと思つた青木さんが帰つてお出でになつたのであつた。
おくみは上り口の電気を附けて、障子に手をかけて膝を浮かしてゐた。青木さんは、郵便受に這入つてゐた手紙の表をすかしてお読みになりながら、格子戸を開けてお這入りになる。
「お帰りなさいまし。」とおくみは板の上へ下りて手を突いた。
「途中でビールを一二杯飲んだものだから、まだ少し酔つてゐるんですよ。」と仰つて、心持顔を赤くしてお出でになる。
「でも早くお帰りになりまして······たつた今まで坊ちやんをお
「それは済まなかつたね。洗吉は勉強してゐますか。」と、靴を解いてお上りになる。
「これが額縁でございますか。」とおくみは英語の新聞で包んだ、かさばつた包みを受け取つてこちらへ這入る。
「額縁は駄目だつた。出来たのでいゝのがないから琴平町の額縁屋へ
青木さんはおくみが出して来た着物とお着換へになつて、湯殿に行つて顔や手を洗つて、二階へお上りになる。
「洗吉、つまらないものを買つて来たからお出でよ。」と、座敷を覗いて仰つた。
おくみが開いた包みの中には、画をお画きになる板が十枚ばかりと、黒や赤なぞの、五色ばかりの粗いスコッチの糸の束と一緒に、珍らしいぼん/\の、
おくみは気を利かせて、お酒のおさかなのお積りらしい蚕豆を、小さいお皿に少し分けて
青木さんはお読みになつた御手紙を袋にお収めになつて、
「これは
「この豆は甘いね。||洗吉は来ないつて?」と、自分でウヰスキーをお注ぎになる。
「洗吉さんは御勉強ですから、御土産があつたら下へ貰つて来てくれつて仰つていらつしやいます。」
おくみは珍らしいぼん/\の袋を指で吊るしながら言つた。青木さんは、何か厭な事でもおありになつた続きのやうに、浮かない顔をしてお出でになる。
「平河さんへはお寄りにならなかつたんでございますか。」とおくみは、さうした青木さんのお顔元を
「何だか面倒臭くなつたから止して来た。そしたら丁度留守へおかみさんから手紙が来てゐた。」と、今読んでお出でになつた手紙を見やりながら仰る。
「おかみさんの手でございますね。」と、おくみは上書をこちらから見ながら言つた。
「別に変つた事ぢやございませんか。」
「うゝん。」と首をお振りになつたきりで、ウヰスキーの
「この豆を食べて御覧なさい。胡椒が少し振つてあつて甘いよ。名古屋の名産だつて。」
「でもこちらでも売つてゐるのでございますか。」
「銀座に売つてゐる。」
「ちやんと壜へ這入つてゐるんでございますね。」
「大分こはれたのが
おくみは、おかみさんの手紙は、こゝの代りの婆やでも見当つたといふのではあるまいかと思つたので、聞いて見たが、
「何、何でもない外の事が一寸書いてあるだけだ。」と仰つて、気をお換へになつたやうに、京橋に近い
「私にはよく解らないけれど、三味線も上手な人が弾くといゝもんだね。」と仰る。
「私がこの前に居りましたお屋敷の奥さまが義太夫が大変にお上手で入らつしやいましてね、||でも滅多にお語りにはなりませんでしたけれど、とき/″\旦那さまのお帰りの遅い晩などに、私たちの前で語つて聞かせて下さいました事がございました。」
おくみはおかみさんの手紙の事はそれきり気にもしないで、さういふ話をしかけたけれど、何だかそんな事でなくて、何か言ひたい事があるやうな気がする。それが堀川とか野崎とかいふものを聞かせて貰つたときの物悲しい心持に似てゐるやうにも思はれる。さういふ義太夫なぞの事を思ひ出したからであらうか。
おくみは少しく下目になつて袂の先をいぢつてゐる自分に気がついた。
「ではこれを一つ洗吉さまにお上げ申してまゐりませうね。」と心持顔を赤らめて言つた。
その内にぢきに月も六月に這入つて、いつしか
「ほんとに何といふしつつこいお天気でせうね。」
裾をからげて湯殿へ這入つたおくみは、後に立つてゐられる洗吉さんに言ひながら、さつき折角洗つた洗濯物を取り入れたのが、じつとり濡れたまゝで竿にかゝつてゐるのを片寄せて、そこの板の間の真ん中へ雨が漏るのへ、バケツを受けておいて、まはりがとばしりでびたびたになつてゐるのを雑巾で拭いた。
「まあこゝはかうして置けばすみますけど、他のところが漏りでもしたら大変でございますね。」
おくみは念のために方々の押入の中なぞも序に見て廻つた。
肴屋がお午近くになつてやう/\廻つて来た。
そこを閉めると余計に小暗くなつてしまふ板の間に、おくみはどんよりした戸棚から煮物の砂糖の入れものを出したりして、うつたうしくこゞんで、アルミニュームの手鍋の下の瓦斯を
さうしてゐると青木さんが山羊へ餌をやりに下りてお出でになる。
それもこんな日には大変である。着物をまくつて、穴のあいた毛布を背中におかけになつた青木さんは、古い冬帽子を頭に被つて、飼料のバケツを提げて裏へお出でになる。山羊は少しでも泥のついたものなぞは食べないので、八百屋が外へ置いといて行つた青物も、一々雨の叩いた泥を洗つて持つてつておやりにならなければならなかつた。
おくみはその間井戸ばたへ出て、
午後おくみが茶の間でつれ/″\の新聞を読んでゐると、青木さんがつくねんとした顔をして下りていらつして、こんな日にはいつそ寝るのもいゝかなと仰りながら、やがて押入から蒲団をお出しになる。
「二階でお
「そこのカーテンをすつかり引いといてくれませんか。あゝあ厭な日だ。」と青木さんは、おくみが小さい方の間に敷いた蒲団の、自分で縫模様をお入れになつたシートの上に、毛布を着て長まつていらつして、下りて行きかけるおくみに
そちらの画室の方には今日も縫取の
硝子障子の外には、方々の木立が、しと/\と降る雨の中に青白い
「もう他に御用はございませんですか。」と、おくみは蒲団の裾に手を突いた。
坊ちやんはじめ/\した家の中をそちこちして、一人でつくねんと遊んでゐられたりするけれど、家にばかりゐて窮屈になると、降るのも構はないで、入口の格子戸の外へ出て、雨垂の水溜りを
「おくみさん、久男が着物を泥だらけにして、
或午後青木さんが二階からさういふのを御覧になつて、早く伴れて這入つてくれとお言ひになる。
「まあ、ついさつきまでお座敷でおとなしく遊んでお出でになつたのでございますよ。」
おくみは用事を
「坊ちやん、もうぢつとお家で遊んでいらつしやいましよ。さつき叔父さんが
おくみは脱がせた着物を湯殿の
坊ちやんは、赤い西洋紙を杉箸へ貼つた小さい旗を、畳の合せ目へいくつも立て並べて、叔父さんと二人でお遊びになる。
「おや/\、あそこの花壇の花がすつかり倒れて了ひましたのね。」
二人のさうしてゐられる前の、縁側のしぶきを拭いたおくみは、雨戸のところに彳んで、庭先の雨の中を見入りながら言つた。煙草の木のやうな葉をした、白や赤の花がかあいらしく咲いてゐた何とかいふ草花なぞは、すつかり土の上に伏してしまつて、あさましく雨の脚の
「あなた、あそこの縁の下へあんなに水がずん/\這入りますのでございますがどうしたらようございませうね。」
やがてけうとい雨の暗くたそがれて行く夕方を、おくみはすつかりの雨戸を閉めかけたとき、お湯から帰つて入らつした青木さんにかう言つた。
「それから昼に言はうと思つて忘れてゐたけど、
「こちらにも昨夜は一二匹居りましたけど、私は無神経でございますから構はず寝てしまひましたのでございますよ。」と、おくみは食卓を抱へて運んだ。
「私は仕方がないから、夜中に押入から風呂敷を出して、それを
おくみは御飯が済んでから、四畳の押入の下から、
洗吉さんは釣手を茶の間へも附けるために、四隅へ釘を打つて下さる。青木さんは、釘が一本足りないと言つて、そこらの柱に遊んでゐる釘を、手拭のはしをかぶせて、爪立をしてがく/\と抜き取つて下さる。おくみは両方へ
「今外がぴかと光りましたわ。」
「大分大きな降りになつて来たやうですね。」
寝がけにおくみは長火鉢の火を火消壺へ入れながら、お湯を呑んでゐられる洗吉さんと話した。
洗吉さんはまだこれから一人起きてゐて試験の調べをなさるのであつた。
間もなく洗吉さんにはその試験が来た。
体格検査の日ともにすべてで四日の間、市内の割引が上らない内から蔵前の学校までお出かけにならなければならないので、おくみはそれに
はじめの二日はいゝあんばいにお天気が持てたけれど、それからあとはまた雨になつた。
「序でに今日明日だけ降らないといゝんですのにね。何だか変に暗うございますこと。||今日はインキはお持ちにならないのでございますか?」
坊ちやんも青木さんもまだお目ざめにならない、眠さうな雨の色の格子戸に、おくみは
「今日ですつかり
「もう何にもお忘れものはございませんか。||どうぞよくやつて入らつしやいましよ。」
おくみは、洗吉さんが気が立つてゐるやうな御容子で、元気よく出てお出でになる後を見送つた。あんなに心配していらつしやるのだから、お通りになつたらどんなにお嬉しいだらうと、祈るやうな気がする。
「今日はどうでございませうね。もう一時間目は半分ばかりたつた時間でございますよ。」
おくみは青木さんと坊ちやんとの朝御飯のテイブルに附いてゐて、洗吉さんの事を話した。
「どうも
青木さんは何でもない事のやうに晴やかに仰りながらお乳をお上りになる。
「でも一心になつていらつしやるんでございますからね。」と、おくみはさう言はれて何だか不安なやうな心持をも見つゝかう言つた。
「洗吉さんはお試験がお済みになるとすぐあちらへお立ちになるんでございますつて。早く帰りたくて仕方がないつて仰つていらつしやるんでございますよ。」
「試験なんか受けるときは全く厭なもんだ。併しあちらへ帰るとまたぢき出て来たくなるんですよ。」
後程、青木さんが外の函から出して来て下すつた郵便物の中に、青山にゐる養母からおくみへ久々で来た手紙も濡れて交つてゐた。
「どうもすみませんでございました。」と茶の間でうつたうしく髪を結ひかけてゐたおくみは、青木さんにお礼を言つて、間もなく根だけを
あれから二度目の手紙を出して、一寸こちらにも代りがないので私もいつそ当分しばらくこゝに置いて戴かうかとも思ふがと、相談のやうに言つてやつたのに、何とも返事をくれないから、どうしたのだらうと思つてゐた矢先であつた。
手紙には、
「こなひだ内少し気分が
「もう今ではすつかり元気も出て、いつものやうに暮してゐるから、気づかはないでくれ。」と書き添へてある。このまゝこゝにゐるゐないについては何にも言つてはなかつた。
とにかくおくみには、何だか養母が近頃ひどく気が弱くなつてゐるやうな容子が、手紙の上に見えるやうな気がした。おくみはお邸を下つた当座一度会ひに行つたのを、たつたこなひだのやうに思つてゐたけれど、もう
おくみは養母の事を考へると、しまひにはいつも、自分の体が自分のものでないやうな厭な気がする。
とにかく後で早速見舞の手紙を書いて出して置いて、その内お天気にでもなつたらまた一度行つて来る事にしようと考へた。
やがておくみは髪を結つてしまつて、
道具を片附けて油手を拭いてゐると、
おくみはそのやうな聯想から、平河さんへ置いてゐる行李の中の、三枚の浴衣の柄を目の前に並べたりしながら、あの中のものでこの雨に
平河さんへもあれからしばらく御ぶさたをしてゐる。おかみさんはまだ代りの人が目附からないと見えて、その後何とも言つておよこしにならない。青木さんはもう自分がこれなりでこゝに置いて戴くものと極めてお出でになるやうで、あれなり人をお探しにならうともなさらないやうである。おくみはずつと置いて貰ふなら貰ふやうに、おかみさんにその事を言つて置かないでは落着かないやうな気もする。それも、青木さんが、洗吉さんがこゝにお出でになる内におかみさんにさう言つて下さらないと、二人になつてからでは何となく変なやうで極りが悪い。
それともいつそ代りの人が早く出来れば何にも片附いていゝのだがとも思つて見る。おくみは青木さんにはつきりと相談して見たいと思ふけれど、そんな事を自分からは言ひ出し
おくみはそのやうな纏まらない心持をして洗吉さんのお机に坐つて、思ひ立つた序に、養母への見舞の手紙を書くと、丁度青木さんが坊ちやんをつれてお湯へお出かけになるので序に出して戴いた。
やがてお午近くになると洗吉さんが帰つて入らつした。
「今日はどうでございました?」と、おくみは顔色を窺ひながら気にして聞いた。
「もうどうでもいゝから今日は遊ぶんだ。」と、投げるやうに仰りながら、じと/\に濡れた袴を脱いで衣桁へおかけになる。
「でも随分早くお済みになりましたんでございますね。」
おくみは洗吉さんが口ではあゝ仰つても、そんなに
「まだ御勉強でございますか。朝がお早いのでございますからもうお
おくみはその晩一時を聞いてから、寝間着姿の上にまた帯だけ一寸巻いて六畳へ行つた。
「今
「明日試験を済まして帰つたら直ぐに立たうか知ら。」と仰りながらせいのなさ相な
「まあ、そんなにお帰りになりたいんでございますか。」
おくみは微笑みながら、そこらの
「おや、写真をお
「うゝん、これは人の写真だから。」と言つてお隠しになる。
「ほゝゝちやんとこちらから見えたんでございますのに。」
洗吉さんは試験がお済みになつて、いつでもお立ちになれる段になると、何だかもつとこちらに居つて見たいやうな気もすると仰つて、どうしようかと迷つてお出でになつたが、その内に、外国語学校にゐられるお友達のところへお遊びに入らつして、その
「ではこの次の土曜日といへばもう直ぢやございませんか。」
おくみはそれにしてもあわたゞしいといふやうにかう言つた。
「もう、
洗吉さんはいつも寝がけには、その間がもぢ/\されるやうに仰りながら長火鉢の抽斗の
お立ちになる前の日には、朝、高等学校をお受けになる、おつれの方が入らつして、二人で一緒に市中へお出かけになつた。
家を出てずつと有楽町まで電車で行つて、日比谷から銀座通りへ出て、たうと真直に須田町まで歩いたと仰つて、お国の弟御さんへのお土産に、よく子供が飛ばしてゐる飛行機の玩具や、市内の名所の絵はがきなぞを買つて、
飛行機は坊ちやんが御覧になるとお欲しがりになるからと、
洗吉さんはお疲れになつた足を縁側にお伸ばしになつて、買つてお帰りになつた絵はがきを御覧になる。
おくみも側へ行つた。
「あなた、昨日のお写真を私に一枚、記念に下さいましな。」と、その絵はがきを見てしまつてからおくみは言つた。
「あんな変な写真なんか極りが悪いから。」と頭を押へてお出でになつたが、
「では、おくみさんのを下されば。」と洗吉さんは脇を見ながら言ひ
「私はもう
「ではつまらないな。」
「えゝ。」とおくみは微笑みながら、下目になつて他の事を考へた。
夕方、洗つて干して置いた皆さんの下駄を取り入れに行くと、洗吉さんは、一人でこつそり裏の草場へ出て、お土産にお買ひになつた飛行機を飛ばしてお出でになつた。
「お前どうしても明日立つ積りかい。」と、夕御飯のときに青木さんがお聞きになる。
「だつてさつきはもう少し帰りたくないやうな事を言つてたからさ。||それならそれで己の都合があるから。」
洗吉さんは先に御飯をお
「あの子のお金を借りて使つたから拵へて来て返さなくちや。」
洗吉さんがやがてはがきを出しにお
「沢山でございますか。」と、おくみは少々なら自分でも持つてゐるからと思ひながらかう言つたが、
「何、取りに行けば貰へるのがあるんだから。」とお言ひになつて、やがて下町の方へ出てお出でになつた。
洗吉さんは新橋迄お兄さまに見送つてお貰ひになつて、翌る晩の九時の急行でお立ちになつた。
「いつも入らつしやつた方が入らつしやらなくなりましたせゐですか、何だか御飯のときが変でございますね。」
翌る朝坊ちやんと三人で
「もう七時半は過ぎたらうな。」と、青木さんは鏡の前の置時計の方を御覧になる。
「あれは昨夜から止つてをりますのでございますよ。もう彼是八時ぐらゐでございませうね。」
おくみは
「丁度今八時十分でございます。今朝は麺麭を取りに行つたりいたしましたから、大分遅くなりました。」
「ではあの子はもうちやんと家へ着いてるな。」
「十時間以上でございますから随分お疲れなさいましたでせうね。」とおくみは青木さんに二度目の乳を注いだ。
青木さんは、汽車と言へば西洋ではそちこちと長い汽車を乗り通してうんざりしたといふお話をなさる。
「その上に、ちがつた国へ這入ると乗合の人とも一寸も話が通じないんだから、
かう言つて麺麭をお
「もうそろ/\暑くなつて来るな。今はまだいゝけれど。||それにこのあたりは木が多いから蝉が沢山ゐるんでね。」
食事が済んでから、青木さんはしばらくその儘椅子におかけになつて、垣の向うの高い木立の方に目をおやりになりながら、煙草をお
おくみはテイブルの上を片附けて、濡らして持つて来た手拭で、バタの光つてゐる坊ちやんの手先を拭いてお上げしてゐた。
「蝉はお嫌ひでございますか。」と微笑みながら聞くと、
「だつてあれが浴びるやうに啼き立てると、たゞでも暑い日光が油でじり/\
青木さんは、もう今からさういふ真夏の昼をお厭ひになるやうな顔をしてお言ひになる。
「さう言つてる内にもう直ぐでございますね。」
おくみは坊ちやんを膝の上に抱へ上げながらかう言つたが、青木さんは、他に何か不愉快な事を思い出しでも[#「思い出しでも」はママ]なすつたのか、それには返事をなさらないで、指の爪先を見て考へ入つたやうにしてお出でになる。
おくみもそれぎりで話を途切つたまゝ、すぐ前の西洋樫の木の間に、蜘蛛がぢつととまつてゐるのを、見るともない目に見入つてゐた。
外には赤味を帯びたやうな日影が、段々と朝の気を消して
「おくみさん、新聞はまだ来ませんか。」と、青木さんは灰皿へ煙草をお消しになりながら仰る。
「いゝえ、もうさつきまゐつて居ります。うつかりして居りました。」
おくみは気が附いたやうにテイブルの傍を離れてあちらへ行つた。
坊ちやんはそこの障子に
「今日はもうこの月も二十二日。」
おくみは持つて行く新聞のはしを
やがておくみはそこいらへ雑巾がけをした序に、洗吉さんが使つてお出でになつた六畳の押入の半分が、上下空いたのをきれいに拭いて、その儘あつてもいゝと思ふ机だけを置いて、あとの要らない本棚や、その外の洗吉さんのものを差向下の段へそつくりしまつて置いた。
「おくみさん、この画はこゝへ懸けようか。||かうするとちやんと画らしくなつたでせう?」
青木さんは昨夜帰りに取つてお出でになつた、
「こゝへかう持つてくより外仕方がないな。」と、押入の左手の、半間幅の中塗の壁へあてがつて、
「まあ。||このお部屋がすつかり変つてまゐりましたわ。」
おくみはいそ/\と
「あそこの梯子段の上の戸棚に
青木さんは袂から真鍮の
「かうして見ますと画がまた引き立つて来たやうな気がいたしますね。」と、おくみは嬉しさうに画面を離れて坐り直した。
「さう言へばいくらかちがふかも知れない。」
青木さんも側へ来てお坐りになつて、
「まあ、あの下へ写つて居ります色が好うございますこと。」
「そんなに好きですか。」
「えゝ。」と、おくみは目もとを輝かして言つた。
「この前に思つた程よくもないけれど、これでもどうにか画にだけはなつてゐる。||紐をもつと短くしようかね。||一寸マッチを。」
画に気を取られてゐたおくみは、青木さんが指の間に巻煙草を持つていらつしやるのに気が附かなかつた。
「
「ほゝゝ大変でございますね。」
おくみは軽くさう言つて微笑みながら、あちらの押入から出して来た洗吉さんのお蒲団を縁先の日向へ

その机かけは、たま/\この間、十枚ばかりの中でおくみが一番好きだと言つた分で、糸で赤い小さい鳥を上下へ二寸ばかりの幅の中へ縫ひ並べた、女のものに似合はしいいゝ柄の飾りものである。鳥はいろいろの形をして一つゞきに
「何だかすつかりいゝお部屋になつたこと。」
おくみは一人かう思ひながら、やつと一と通り朝の用事のすんだ襟をかき合せて、ほつとしたやうにまた画の前に坐つて、大理石に写つた五色のだんだらの絹の色をなつかしんだ。
外の方で、さつきからお向ひのお子さんと遊んでいらつしやる坊ちやんの声がする。障子の方を見ると青葉を越えてみなぎつた黄色い日影は、かうしたきれいに取り片づいた部屋の畳のはしまで射し込んでゐる。
おくみはすつとした気分をして、留櫛の髪を掻き直したりしながら、しばらくその儘坐つて息休めをしてゐた。
縁先の蒲団の上の日向を、蜂が一匹まひ/\してゐる。
と、二階へ上つてお出でになるのだとばかり思つてゐた青木さんが、庭先からぶら/\上つて入らつした。
「こゝがちやんとなつたでせう?」と仰りながら、机の側へこゞんで、赤い小鳥の図案のはしに下つてゐる糸屑をお取りになる。
「ほんとに見ちがへるやうなお部屋になりました。」
おくみは微笑みながら側へ行つて、膝を突いた。
「では序でに四畳にあるおくみさんのものをみんなこつちへ持つて入らつしやいな。行李なぞは私が抱へて上げるから。」
「いゝえ、私のものはあそこで沢山でございます。」
「でもすつかりこゝへ持つて来て置かなけれや自分の部屋らしくないぢやありませんか?」
青木さんは立ちがゝつてゐて仰る。おくみはさつきは御冗談のやうに聞いてゐたけれど、やつぱり自分のためにこゝをこんなにして下さつたのであつた。
「まあ、私がこのお部屋を戴きますのでございますか。」
おくみは何だか極りが悪いやうにもぢ/\して言つた。
「これからこゝでお針でも何でもするといゝ。女があたりを綺麗にして物なんか縫つてゐるのはいゝものだ。」
おくみは顔を赤らめて目を伏せてゐた。
青木さんはおくみに鋏を持つて来させて、縁先で爪をおきりになる。
「そちらは私が取つてお上げ申しませう。」と、おくみは日向の堺へ出た。
「何大丈夫。鋏がよく切れるから。」と左手でお使ひになる。
「もう日向は暑いね。」
「また蜂がまゐりました。」と、おくみはまぶしい日向を見た。
「どなたかお出でになりましたやうでございますね。」
おくみはやがてかう言つて上り口へ出て行つた。
おくみは折角だからと思つて、あとで四畳に置いてある自分のものをすつかりこちらの押入へ運んで、序に青木さんや坊ちやんのものの這入つた行李も、ゆつたり分けかへた。そして、左側の上の方を空けて、新聞を敷いて、そこへ型ばかりの化粧具や、ちよい/\した自分の手廻りのものを収めた。
坊ちやんがそこへ
「もうぢきですから一寸待つて下さいましよ。こゝをちやんとして置きませんとね。||お向ひのお嬢さまと何をしてお遊びになりまして?」
おくみはかう言つて紛らしながら、干してある蒲団を側へやつて裏返して、もう一度畳の上へ箒を当てた。
何だか汗ばんだやうに暑くろしく[#「暑くろしく」はママ]なつたおくみは、茶の間の戸棚を開けて、買つときのお菓子の鑵を出すのに、
「それからあとでお客さまへ御飯を出すのに何を
おくみは坊ちやんを相手に一人言を言ひながら、台所着の胸かけをかけて、襷を取つた。
二階には、洋服を召して入らつした、秋本さんといふ画家の方が、青木さんと話してお出でになる。久しぶりでお出でになつた方らしかつた。
「ね、おくみさん。何なら簡単にそばでも取つて済ましてもいゝんだけどね。」
やがて青木さんは、おくみがごた/\しなければならないのを気にして下すつたやうに、中途で下りて入らつして台所をお覗きになつた。
「もうこれだけいたしましたらいゝんでございますけど、あんまり何にもございませんから、一寸あそこのおすしでもさう言つてまゐりませうか。||でも
勝手もとを取り散らしてゐるおくみは、前垂れのはしで胡麻を
「何、それだけあれば沢山だ。あの男はさういふさつぱりしたものを喜ぶんだから丁度いゝ。」と、青木さんはざうさなく仰る。
しまひに御飯をお
たゞあり合せのものでいゝと仰つたので、御馳走はほんの
「青木さま。」と、おくみは梯子段を上つて、こちらの
「一寸下を御覧なすつて下さいませんか。」と、おくみは自分の拵へが気がゝりなやうに小さい声で頼んだ。
「いゝですよ。いつもの通りでいゝんだから。」と、青木さんはたゞさう仰つて、やがて二人で何をかお笑ひになりながら下りて入らつした。
「何にもお構ひをいたしませんのでございますから······」と、おくみは極り悪く挨拶をして、
「方々にいゝ部屋があるんだね。」と、六畳の方の縁側から帰つて入らつした、画なぞで見る西洋の方のやうに、長い髪をお分けになつたお客さまは、葡萄色のふつくりしたネクタイをお直しになりながら椅子にお附きになる。
「君だからわざと御馳走をしなかつたんだよ。」と、青木さんは御主人役にお肴をおよそひになりながら仰る。
「その代り夕方にはどこかで珍らしいものを食べさせるよ。」
「これで結構だ。あちらでは馬鈴薯の中から釘が出るやうな、青木さんのお料理でもおとなしく戴いたんだものね。」
お客さまは快活にお笑ひになりながら、おくみの注いだ葡萄酒の
「さう言へばあの釘はまだ鳩小屋の中に這入つてるだらうかね。||おくみさん、フランスではね、この人と二人で、一と夏フロモンビールといふ田舎で一緒に自炊をした事があるんだよ。」と、青木さんはおくみがこちらへ廻つて
「丁度二た月ばかりあそこにゐたんだね。」
「燕が降るやうに沢山ゐた。」
お客さまはかう言つて、ハンケチで眼鏡の曇りをお拭きになる。ついこなひだ西洋からお帰りになつたばかりなのだと青木さんが仰る。
「まあ、さやうでございますか。」とおくみはたゞつゝましやかにさう言つて、
「自炊といへばずゐぶん色んな事があつたね。」
「第一妙なものばかり食べさせられてこり/\した。併しもうあんな事はしたくも出来ないね。」と、お客さまは快活にお笑ひになりながら割箸をお割りになる。
「だつて君はたゞはたでまぜつ返すだけの役だからのんきだつたけれど、日に二度づゝさういふ料理をする身になつて見たまへな。」
「でも買物や下働きはみんな僕一人がやつてたんだもの。」
「あんな下働きならだれでもするよ。」
青木さんは洋盞を干してお受になる。
「ふゝゝ、あれは人参だつたかね。君がスープを拵へて待つてる間に、僕が急いで買ひに行つたまではいゝが、帰りにジプシーの唄うたひがゐたのへ附いて廻つてゐる内に、買つた物をどこかへ忘れて
「そんな事は
「そのとき君は一人で待ちくたぶれて、ベッドに這入つて
「それでたま/\手柄をしたつもりで得意になつて来るとあんなかたつむり何かだろ?||この人がねおくみさん、或日珍らしく午寝もしないで、下の運河のふちで一生懸命にかたつむりを取つて廻つてるんでせう? 暑い日がかん/\してる中でね。こちらはあれを取つて何にするんだらうと思つて窓からぢつと見てゐると、しまひに、おい見ろ、夕方の御馳走だよつて、汗だらけになつて下からハンケチ包みを振り廻すんだ。||そんなところにころがつてるやうな
「ふゝゝ、それを黙つて見てるんだから君の方が余つ程ひどいよ。」
おくみも一緒に笑ひながら、お客さまにおしたしをよそつてお上げした。
「これはもうこれだけですか?」と青木さんがお聞きになる。
「いゝえ、もう少しは残つて居ります。||ぽつちりしか持つてまゐりませんでしたから······」
おくみはお客さまがそれを珍らしさうに沢山召し上つて下さるのを悦びながら台所へ取りに行つた。
坊ちやんが、お腹がおすきになつたらうと思つて、胡麻塩を振つたおむすびを二つばかり拵へてお上げして置いたのを、鼻の先に御飯粒をお附けになつて、縁先で足を投げ出して一人で食べてお出でになる。
「ほんとに何にも召し上るものがございませんで······」
おくみはこちらへ来てお二人の御飯をよそつた。
「そんな事でたうとあの黄色い馬車も売つてしまつたんだよ。」
お客さまは何かお話しのつゞきをなすつてお出でになる。
「どうしてまた、さういふひどい
「あの子のもう一つ下の妹さ。」
「それでは何とか言つた痩せた子かい?||可哀相に。」
「こなひだあちらを立つ前に、例の別居してるお母さんのところへも行つといたんだがね。青木さんからはずゐぶんしばらくおたよりがありませんが、どうして入らつしやいますでせうなんて、入歯の頬を押へながら聞いてゐた。やはり例の大きな銀の十字架をこんなところへかけてね。」
「僕はあの人には一番多く厄介になつたんだけどね。」
お二人はさつきとは異つたところの事を話してお出でになるやうであつた。
食事がおすみになると、おくみはテイブルの上をきれいに片づけて、番茶の匂ひのいゝのを
「ね、かういふのを一つ女の帯に応用したらどうだらう。」
「面白いかも知れないね。」
「第一にこの
お客さまはおくみを意味してかう仰りながら、青木さんが色々持つて来てお見せになつてゐる、こなひだ内の縫取の、最後の一枚を御自身の腕にかざして御覧になる。
「おくみさん、こんなので帯を拵へたら結んで見る気になりますか?」と青木さんは御冗談にお聞きになる。
「さうでございますね。||でも地はどんなものをお使ひになるのでございます?」
おくみは人さまの前でそんな批評がましい口を聞くのを極り悪がるやうに、半ばためらひながら言つた。
「さうだね、||地は今一寸考へが附かないけれど、とにかくかう言つたやうな柄を、こんな風に縫ひ取つて帯にしたらどうだといふのさ。」
「それはお召しなさるかたがお召しになりましたら、ずゐぶん変つてゐて面白うございますでせうね。ですけれどよつ程はでな方でございませんとうつりませんでございませう?」
おくみはお茶を注いでお二人の前に配つた。
「併しそれにはまづ着物から選んで来なければ、これまでの着物では釣り合はないだらう。」と、お客さまは再び順に見返しながら仰る。
おくみは呉服屋の店先にでも立つたやうに、傍でそれを覗いてゐた。
青木さんは先にお茶をお上りになる。
「これはやはり先からのお茶?」
「いゝえ、今朝程取つてまゐりましたのでございます。」
おくみは自分の袂の一寸触つた、テイブルの上の花の形を直しながらかう言つた。
「これなぞは大分変つてて面白いね。」
お客さまは、金色の黒く煤けた、昔のあついたのきれや、柿色のごろ
「その
「この麻糸をこんなに並べたところなぞはオースタリヤあたりのペザント・アートにでもありさうだね。」
おくみはそこらに一匹
これから自分たちの御飯にするのだけれど、坊ちやんのおかずが何にもないので、また例のお好きな玉子焼を拵へてお上げする。坊ちやんはこちらで食べると仰るので、おくみはちやぶ台を六畳の方へ抱へて行つて二人で坐つた。
唐紙のそちら側では、お客さまが西洋の女の着物の意匠の事なぞを話してお出でになる。
「だからこちらの着物でも、帯だの襟だのといふものを単独に買はないで、自分の体に附けるだけのすべてのものを統一して、自分の特有の意匠をさせて見たら面白いだらうがね。」
「それでは一そろひづゝが、纏つた一つの創作なんだね。」
「さうしなければ自分の着物といふ気がしない筈だがね。色や柄が自分自身の
「併し君の指図で君の好きな色ばかりを着せられたりすると、大分変つた画が歩くわけになるね。」と、青木さんが
「さうなれば色んな意味でこちらも愉快だよ。」
お二人はお笑ひになる。
「でも一々画家へ足を運ぶばかりでも大変だね。」
「だつて世間の女は一々流行を追うて
その内にいつしかまたあちらの画のお話になつたやうである。お客さまは、どこかで天幕の下で駝鳥を写生したといふやうな事をお話しになる。こちらで御飯を戴いてゐるおくみには、そのやうな事が聞くともなしに聞えた。
「おくみさん、あそこにあるワイシャツが二枚とも汚れてるんだが、いつかの分はまだ出来て来ないの?」
後程裏口で
「これから御一緒にお出かけでございますか?」
おくみはこちらへ帰つて、洗濯したばかりのワイシャツへ、袖口のぼたんなぞを附け換へた。
「では夕御飯は一緒に外ですまして来るからね。早く帰りますよ。」
青木さんはお出かけのときに小蔭でお言ひになる。
「お客さまは今晩お泊りになりますのでございますか。」
「いゝや。なぜ?」
「それならようございますけれど、お泊りになるのですと、お蒲団が······」
「うゝん、あれは兄貴のところに泊つてるんだから。」
おくみはたゝきへ下りてお二人のお靴を拭いた。
「もうその外には御用はございませんですね。」
青木さんにお留守をして戴いて、これからお湯にやらせて戴くおくみは、もう台所の方を閉めたので、お出しになるはがきを持つてこちらの方から下りた。
坊ちやんは、さつきはまた少し歯が痛くてむつかつて入らつしたのが、やつとおまぎれになつて、六畳で青木さんをお相手に待つてゐて下さるのであつた。
「今晩はお向ひの方で蓄音器の声がいたしますよ。」
おくみは忘れたものを取りに上つて、押入を開けながら言つた。
「外は真つ暗でせうね?」
青木さんは電気を低くして、厚い画の御本を膝に開いてお出でになる。
「でもたゞあそこの間だけでございますから。」
おくみは自働電話のある角まで暗い通りを行つて、八百屋の前ではがきを入れた。
その貧しい店先へ買ひものに来てゐる女の人は、もう村の人かなぞのやうな型の
そこからお湯屋の前へ行くまでには、一寸した小さい店が二三軒飛び飛びにある。その一つのいろんな
あたりには女の子なぞが二三人で、
おくみは帰りには荒物屋へ寄つて、言ひ附かつたペン先を買つた。がた/\の抽斗から出して来た、小さい名刺入の函に残つてゐる乏しいペン先は、半分は錆び附いたやうになつてゐた。
おくみは
かうしたものさびれた町の夜の
今日は髪を結ひ直したかつたのに、
暗い通りを、よその女の人が、背中の子供に母人らしい何事をか言ひながらすれちがつて行く。右手の杉垣の門口に、女髪結の看板のかかつてゐる家の竹窓には、すだれを通して男の浴衣が見えて、小さい男の子の声で本をさらつてゐるのが聞えた。
おくみは帰ると門口をかけて、内へ這入つた。さつきは帰つたら何をか青木さんに言はうとした事があつたのに、それが何であつたか分らなくなつた。
青木さんが机に倚つて、さつきの本を見てお出でになる側に、坊ちやんは座蒲団を枕にさせてお貰ひになつて、すや/\とうたゝ寝をしてお出でになる。
「たうと寝てしまつたよ。」
「お世話さまでございました。只今ぢき
おくみは湯上りの顔にうつすら
「足へ蚊がとまつてる。」と仰つて、青木さんは手を伸してお叩きになる。
「こんなに血を吸つてるよ。」
「まあ。」
おくみは側へ行つて坊ちやんの足の方を包んで置いてお上げする。
「今日は
おくみは急いで押入を開けて蒲団を出した。
「さ、寝間着を着換へるんだよ。」と青木さんが仰る。
「ほゝゝゝお
おくみは、寝ぼけてむづかしい顔をしていらつしやる坊ちやんを
「まあ、重たい坊ちやま。||おや、お枕がございませんでしたね。」
青木さんも手伝つて下すつて、一と間へ一ぱいに吊る蚊帳の、向うのはしを吊つて下さる。
「どうも
「まだ今晩はずゐぶん早いのでございますね。」
やがておくみは蚊帳のはしに障つた髪の形を押へながら、こちらの蔭から言つた。
青木さんは敷物を縁先へ出して、
「こゝは木なぞが多い割合に蚊が少いので余つ程
「さうのやうでございますね。ところによりますと、このごろでも、もうこんなにして坐つてなぞゐられないやうなところがございますよ。」
「でもずつと暑くなつたらこんなことでは済まないけれど、まあ、割にゐない方だらうね。||その代り小さい虫が沢山灯に
おくみは蚊帳の側をくゞつてそちらの方へ坊ちやんの着物を取りに行つた。
机の上の方へ引いて置いた灯は、暗い庭先の一部分に光りを広げてゐる。右手の、闇の中に隠れてゐる樫の木が、夜の色より黒く
「もうみゝずが鳴くやうになりましてございますね。」と、おくみは畳の際に膝を突いた。ぢつとしてゐると、そこらの暗い土の上に水のやうな色でも広がるやうに、じいゝといふ煙りのやうな声が立ち浸みてゐる。
「何だか少し蒸し暑いやうな晩だね。||もう蓄音器も止んだのか知ら。」
青木さんはかう仰りながら、何をか他の事を考へてお出でになるやうに、土の上の一つところを見入つてお出でになる。
「今日入らつしやいましたお客さまは、いつか、晩に入らつしやいました方でございませう?||私はすつかりお見忘れ申して居りまして、どなた様でございますかつてお聞き申しましたのでございますよ。」
おくみはお湯できれいになつた指先を見つめながらかう言つた。
坊ちやんのお召物が、裾の方に泥が少しついてゐるので、縁先へ出て落して、こちらの衣桁にかけて置く。通りすがひに蚊帳が邪魔になるので、机の方の一と角をはづして置いた。
おくみはそれから夕方に竿から下した青木さんの
裏の方は真つ暗である。そこらの軒下に立てかけてある盥や炭俵なぞが、蝋燭のもうつとした黄色い灯の中にしんかんとして見える。ぼたんは洗濯石鹸の小さく減つたのと一緒に、置いたところにあつた。
蝋燭の蝋がぽた/\と土の上に
檻の山羊が灯を恋ひてみい/\鳴く。たゞ一と色に黒い闇とばかり見えた向うの方も、よく見れば栗の木も山羊の檻も
おくみは茶の間の灯の下でぼたんを附けて、白い糸のはしを糸切歯で切つた。一人縁先の方にお出でになるのだと思つてゐた青木さんが、入口の格子戸の方から上つてお出でになる。表の郵便函を見に入らつしたのらしい。
と、
「洗吉からはがきが来た。」と仰つて、灯のところへおこゞみになる。
お着きになつたお知らせであつた。青木さんはお読みになつておくみの前へお出しになる。
「おくみさんによろしく。」としまひに書いてあつた。
「まあ、あなたのお手とそつくりのやうでございますね。」
「さうか知ら。変な字だ。」と仰りながら、一緒に郵便函の中に這入つてゐた何かの雑誌の帯封を切つて、ところ/″\を御覧になる。
おくみは糸巻のはしを巻いて小箱へ入れた。
「一昨日の日附になつて居りますのに大変遅く着きましたものでございますね。||消印がかすれてゐて分りませんけど。」
「何だか今日は私もがつかりしたやうな気がする。||でもまだ寝るにも早いし。」
青木さんは所在なささうに仰つて、長火鉢のお湯を土瓶へおさしになる。
「もう、出がらしでございますから。」とおくみはそれを
「今日の人が来るといつでも坐が長いんでね。
「なぜでございませう。」
「なぜといふこともないだらうけど、人が来てゐるといふことで、変に気がつまるやうな心持がするのだらうね。」
「でもこちらの方とは別でございますのにね。」
「何かが少し変つた婆さんだつたから······」
「お湯が少しぬるうございましたでせう?」と、おくみは鉄瓶の下の火をかき探した。
「そろ/\あちらへお床を延べて置きましても宜しうございますか?」
青木さんは後程お
「暑くなりますとほんとに厭でございますね。床に這入りましてからいつまでも寝附かれませんくらゐ苦しい事はございませんわ。」
おくみは蚊帳の裾に膝を突いてかう言ひながら、
「もう電気を消しても宜しうございますか。||ではお寝みなさいまし。」
おくみは堺の襖を閉めてこちらへ来た。
それからしばらく今日のお小使をつけたりした後に、そこ/\に茶の間の灯を消した。もういつしか十二時を廻つてゐた。
さし向、九月ごろまでしまつて置くのに洗濯した、自分のこの間からのネルの着物を、さつきから膝の下に敷いて押しを切つてゐたのを、序に寝床の下へ入れて寝ようと思つて、こちらへ持つてくる。
自分の這入る蚊帳を覗くと、坊ちやんはお暑いのだと見えて、枕をはづして横の方へおあばれになつて、お
「さ、ちやんとお
おくみは
何だかいつになく少しむし/\するやうな気がするけれど、また雨にでもなるのではあるまいか。
おくみはさつきの着物を敷蒲団の下に入れると、再び蚊帳を出て、押入から半紙を出して来て、床の上で枕紙を取り換へた。くゝり糸を結ぶ新しい白い紙の上に、電気が蚊帳の影を写してうす青く射した。
おくみは、やがて中からその電気のかさを引きよせて灯を捩ぢた。
暗がりで坊ちやんを少し上の方へ引き上げて、お
さき程はついそこまで考へなかつたけれど、青木さんのお召しになるのを一枚だけでいゝから、薄い夏蒲団を拵へてお上げ申せばざうさはないのだがと思ふ。去年もあの儘でお済ましになつたのだらうけれど、何だかこのやうな事にも、誰とて気をつけてお上げ申す人がなくて入らつしたのが、お気の毒なやうな気がする。
おくみは暗い蚊帳の中でしばらく目を開いて考へた。
さう言へば青木さんにはこれからのお召し物も御不断のが一枚しかおありにならない。外へ召してお出ましになるのには、紺の東京縮のいゝのが一枚と、それから
もう一つのかすりは、もうずゐぶんいたんでゐて、ちよい/\つぎも当つてゐるので、門口へも着てお出ましになられない。せめてもう一枚だけでもおありにならないと御不自由である。これも去年はあのまゝでお通しになつたのであらうか。
つい一寸した
夏のだから綿も少なくていゝし、布も三幅と四幅とでいゝであらう。よく裏には水色の麻なぞがつけてある。あれだと一円も出したら買へるであらう。綿は一枚どほりにして八百目もあれば沢山である。百目十二銭としてざつと一円に、それから表は涼しさうなメレンスの柄のいゝのをでもさがして来れば何かある。表も麻にするとしたら、先のお
それでもいくら安く見積つても、すつかりで三円五六十銭はかゝるから、そんなに訳なくも出来ないけれど。
その内、平河さんのおかみさんでもお出でになつたら、御相談をして見ようか知らと思ふ。平河さんへもしばらくごぶさたをしてゐる。どうしてゐると思つてお出でになるであらう。
おくみは何だか目がさえて、急には寝つかれさうにもないので、
鼠がさつきからがり/\と、どこかそこらの天井の中で何をか
と、
「おくみさん。」と、唐紙のそちらから青木さんが小さくお呼びかけになる。
「はい?」とおくみは、鼠でおめざめになつたのかと思ひながら御返事をした。
「もう寝たんですか?」と仰る。
「どこをがり/\やつてるのだらうね。昨夜もよつぴて耳について寝られなかつた。||どこかそちらの押入の中ぢやないの?」
「さうでございますね。私は寝ましたら何にも
おくみは蚊帳を出て電気をつけた。
「こちらの天井でございますよ。」
しばらく止んでひつそりした。
青木さんは、
「何だか今夜は変にむし暑くてさつきから一寸も寝入られないんだよ。」と仰つてごそ/\させてお出でになる。
「何でございますか厭な晩でございますね。||お手拭でも濡らしてまゐりませうか。冷たいのを目の上へ当ててお
おくみは唐紙を開けて膝を突いた。
「今もう何時です?」
ついどさくさしてゐて、青山の養母のところへもあれなり
坊ちやんはまだ蚊帳の中でよくお
おくみはその間に通りの髪結さんのところへ行つて、朝の内に来て貰ふやうに頼んで来る積りで、そこの押入を開けて懐中鏡を立てて、
「あちらの髪結さんなら一寸上手でもございますし、おとなしい人でいろんな事をべちや/\言ひませんからうるさくなくてようございますよ。」と、いつかお湯屋の女の人から聞いた分へ、少し遠いけれど行つて頼んだ。
「おくみさん、何ならいつそ
青木さんは朝御飯の後で小楊枝をお使ひになりながら、いら/\と畳のはしへ射し入つてゐる日影を見つめてかう仰つて下さる。
「でも、これから髪を結つて貰つたりしてゐますとどうしてもあれでございますから······」と、おくみは柱の時計を見た。
「さつき仰いましたのは、本当でございますか、坊ちやま。大人しくお父さまとお二人で待つてて下さいますか? さうして下さいますといゝ坊ちやんでございますけどね。」
やがておくみは着て行くものを揃へながらかう言ひつゝ、さつきから髪結さんが来るのを待つてゐた。
「姐ちやん
「ほゝゝ何でございませう?」
「どこ?」
「小屋根。」
「屋根?」
「えゝ。」
とたん張りの上をばた/\言はせてゐる。
「雀が下りて走つてゐるのですよ。」
「雀?」
「えゝ。||雀のお宿。」
「お宿?」
「ほゝゝ、坊ちやんは真似ばつかりお上手ですね。」
おくみは
やがて髪結の家のすき手が来た。髪結さんは手順が違つたので、午後でなくては来られないからとことわりに来たのであつた。
「まあさうですか?」
おくみは困つたやうに立つて行つた。
とにかく来られるだけ早く来て見て貰ふ事にして、使の女を返したけれど、そんなにしてゐては今日の間には合はないやうな気がして、いつそ髪だけ結つて、行くのは明日にしようか、それとも平河さんの方はこの次にして、養母のところへだけなりと、折角だから一寸行つて来る事にしようかと思ひながら考へ迷つてゐると、表口の格子の
出て見ると、思ひがけなく平河さんのおかみさんが入らして下さつたのであつた。
「おや、入らつしやいまし。まあ、丁度今さう思つて居りましたところでございますよ。」
おくみはさつきからのつもりを話した。
「さう? でも別に変つた事ぢやないでせう? 私は今間違へて、もう一つあちらの通から這入つて来てずゐぶんまごついたのよ。そちらに入らつしやるの?」
おかみさんはおくみに附いて六畳へお通りになる。
「只今一寸そこらまでお出かけになりましたのでございますけど、今に
「私失礼して上だけ取つてよ。今日はあちらの電車で来て、あそこからずつと歩いたものだからすつかり汗になつて······」
「まあ、あちらからですと大変でございましたでせう?」
おくみはいそ/\して、手拭のきれいなのを絞つてお盆に載せて来たりした。
「いゝ柄の座蒲団ね。青木さんのお見立て?」
おかみさんは手拭をお使ひになつてさつぱりなすつたやうに、そちらのはしへ出てお坐りになる。
「大分しばらくでございました。どなたさまにもお変りもございませんで······」
おくみは改めて御挨拶をした。
「もうこなひだから、一寸お伺ひいたしませんではと思つて居りましたのでございますけど、ついどさくさいたしまして······」
「私こそいつもおはがきを貰つても、返事も上げないし、ずゐぶんでせう?||たゞあれからしばらくたよりがないから、ひよつとしたらくみちやんはどこか加減でも悪いのぢやないかと思つたりして心配してゐたのよ。水が変るとよくある事だしね。家ではつい
「さうでございますか。私は一寸も存じませんものでございますから。」
「もうすつかりよくなつたんだけどね。||くみちやん一寸
おかみさんは鬢のあたりを撫でながら仰る。
おくみはお脱ぎになつたお羽織をそつと衣紋竿にかけて置いた。お店の方では女中さんが代つて、ほかのが一人来たけれど、何だか思ふやうにないといふお話をなさる。
「お安は相変らずのんきよ。あれでなく、もう一人のおさわと言つた女||何だか自分で飽きが来たんでせうよ。」
おくみはこちらでも、洗吉さんが試験がおすみになつて、一昨々日急にあちらへお立ちになつて、あと三人きりになつた事や、坊ちやんや青木さんの御容子なぞを話した。
「坊ちやんも今一緒に出て入らつしたの?」
「いゝえ、つい今までこゝで遊んで入らつしやいましたのでございますよ。」
おくみは一寸失礼して立つて、お茶を入れるためのお湯を瓦斯にかけた。
「おくみさん、もう何にも構はないで下さいな。お茶も沢山。||それよりかね······」
「お呼びになりまして?」
「いゝえね、あの私今日来たのは外ぢやないけど、いゝ都合にこゝへ来てくれる代りの人が見附かつたのよ。」
「おや、さうでございますか。」
おくみはこちらの敷居際に膝を突いた。
「まあこちらへ入らつしやいよ。私になら
おくみは袋戸棚の前に坐つて、序にお茶を入れた。
「これは昨日大阪の方からまゐりました奈良漬でございますけど、いかゞでございますか。
瓜とお茄子とを少しばかり切つて小さい
「まあ珍らしいものがあるのね。先に私が女の生徒さんたちを預つてゐたときに、一人あちらの方の人がゐて、そこの家からよく貰つたけど、あちらのはそれは
おかみさんはかう仰りながら、上り口の方へお立ちになつて、何かお土産に持つて入らつした風呂敷包みを、こちらへ持つてお出でになつた。
「ほんのつまらないもの。あとで坊ちやんに上げて頂戴な。||それでさつき言つた婆やの事ね、まあやつとの事でこれならと思ふのが有つたのよ。くみちやんは先に私たちが千駄木にゐたときに、あそこの大観音へ曲るところの角に瀬戸物屋があつたのを覚えてゐて? それこそずゐぶん前の話だけど。」
「さういふ家がございましたかね。」
おくみは心持顔を赤くして、うつすら覚えてゐる、あのあたりの通を目に描かうとした。
とにかくその瀬戸物屋が今下谷の方で小さくやつてゐる店の前を、この間おかみさんはよその帰りにふとお通りになつて、店先に出てゐたかみさんと久しぶりでお話をなすつたのださうであつた、そのときお話の序に、このお家に要る婆やさんの事をお頼みになつたら、二三日して心当りがあるからと言つて、わざ/\はがきをよこしてくれて、昨日その当人が、おかみさんの方へ出て来たのださうであつた。
「何でも四十六だとか言つてたけど、見かけはもつとふけて見えるの。いろ/\これまでの事を聞いて見ると、とにかく正直一方らしい気のよさ相な婦人なのよ。早く夫と別れてさんざ苦労をして来たんだつて。」
その人はついこなひだまで、七年ばかりの間、小石川の方の或学生の塾で勝手元の面倒を見てゐたのださうであつた。それが近い頃そこの塾の監督をしてゐられる方が奥さんをお貰ひになつたので、言はゞその婆やが要らなくなつたのだけれど、それでもさし向行くところがないために、半年ばかりその儘置いて貰つてゐた。併し下を働くには下女もゐるのだし、そんなにしてゐるのが気の毒なので、こなひだ閑を貰つて、今当分自分の姪とかのところにかゝつてゐるのださうである。
「その姪の家といふのが大変困つてゐるらしいやうな話ぶりなのよ。とにかくまああれなら人柄だけは
青木さんが帰つて入らつしたやうである。
おかみさんは、実は今日その婆やさんを伴れてお出でになるお積りだつたのだけれど、今朝になつて、今日は日が悪いから明日にして戴きたいと言つて、本人がことわりに来たのださうであつた。
「私は折角ちやんと着換へまでして待つてたんでせう。ではともかく私だけ行つてお話をして置くからと言つて、その儘出て来たの。丁度よかつたかも知れないわね。いきなり伴れて来ても却つて何だつたらうし。」
かう仰つてゐるところへ青木さんが這入つて入らつした。
「どうもしばらく。······女の下駄が脱いであるからだれだらうと思つた。」
「まあ、いゝ花ですね。」
青木さんはあちらの通の植木屋さんへ行つて入らつしたと見える。
「色が少し変だけど······」
薄紫の西洋花の鉢植に、きれいな籠が
おかみさんは早速婆やの事をさう仰つた。
「おや、さうですか。そしてもう極めてしまつたんですか? まあ座敷の椅子へ入らつしやい。こゝは何だか狭つくるしいから。」
おくみは
「ね、こちらの方が
「くみちやんもうぢきお午だわね。私は丁度中途半端なときに来て······」
おかみさんは茶の間の方へ入らつしてかう仰る。
おくみはやがてこちらで、そろ/\お午の仕度をした。
「くみちやんは、お
おかみさんはお話が済んだと見えて、こちらへ入らつしてかう言つて下さる。
「いゝえ、あの方はいつだつていゝのでございますから、どうぞ
おくみは袋戸棚の
青木さんもそこへ入らつしてお引止めになる。
「そんなに今日に限つて急いで帰らなくてもいゝぢやありませんか。まあこの画でも見て下さい。近頃は何にも画かないものだから······」
「さつき一寸拝見したんですけど、何でこんなところへかけてお置きになるの?」
お二人はおくみが戴いた画の前に立つてお出でになる。おくみは板の間でおかずの煮肴をよそひながら、あゝした画を自分が戴いたりしてゐるのが、それとなくおかみさんの前に気が咎めるやうな心持がした。青木さんが自分を一人前の女のやうに扱つて下さるのに馴れて、いゝ気になつてゐでもするやうに見えさうできまりが悪い。
おかみさんはどこもかしこもちやんと綺麗になつてゐると仰つて、青木さんに賞めてお出でになる。
その内に丁度坊ちやんも外から帰つて入らつした。
「おや、そんなところからお上りになりましたの? あちらへ入らつしたらちやんとお
おくみは襷をはづしながら言つた。
「一寸お待ちなさいまし。帯が後へ下つてゐます。まあきれいなお
おくみは洗濯したのを出して序に着換へさせてお上げする。
やがて、皆さんは座敷でテイブルにお附きになつた。
「久男さんはお
「さ、坊やはこゝへ坐るんだよ。何でもお姐ちやん/\と言つて世話ばかり焼かせるんだね、お前は。||今にお姐ちやんがゐなくなつたらどうするんだい?」と、青木さんが仰る。
「をばさまにお上りなさいましですつて。お父さまには? ほゝゝ、いゝお行儀で入らつしやいますこと。」
おくみは微笑みながら側に腰をかけてお給仕に附いてゐた。
「折角くみちやんになづいて入らつしやるのに、また違つた人が来るのだから何だか当分お可哀相だわね。」と、おかみさんもお箸をお取りになる。
「僕だつて困りますよ。もうこの儘いつまでもゐて貰へる積りでゐたんだのに、余計な婆さんなんぞを見附けて来るんだからいけないや。」と、青木さんは、御冗談でもないやうに仰る。
「では私が飛んだ憎まれ役ですね。だつて仕方がないわね、くみちやん。」
おかみさんは笑ひながら袂のハンケチをお出しになる。
「坊ちやんは不思議さうにお二人のお顔ばかり御覧になつて入らつしやいますよ。」
おくみはつましく坊ちやんを見守りながらかう言つた。
「このお加減が大変いゝこと。ほんとに上手に出来ててよ。」と、おかみさんは
「いかゞでございますか。そちらのお肴の方は少しおしたじが足りませんでしたかと思ひますけど······」
「うゝん、丁度いゝ。この玉子はどうして肴の身の中で固まらせるんです?」
「こちらも
「ほゝゝ大変でございますね。」
おくみは極り悪さうに、下目になつて、坊ちやんがお膝にお
「いゝえ、髪結さんでございませうよ。まあ、変なとき来てくれるんですこと。」
おくみは返事をしつゝ立つて行つて、いつそ明日の朝来て貰ふやうにさう言つて、すき手の女を帰した。
「あら、なぜ? 構はないぢやありませんか。一寸そこからお呼びなさいよ。私がゐるからなの?」と、おかみさんが仰る。
「いゝえ、さうぢやございません。もう行つてしまつたんでございますから。」
おくみはかう言ひながら
「厭な人、ついあちらで、一寸結つて貰へば
おかみさんは気にして仰つた。さうさせて戴かうかとも思つたのだけれど、あんまり気儘なやうだつたから。||そしてどうせ
「こゝいらの髪結さんなの? 上手ですか。」
「どうでございますか。まだ今度はじめてなんですけど。||何ですか結ひつけない人に結つて貰ふのは変に気になるものでございますね。」
「くみちやんには束髪だつてよくうつるんですのにね。」と、おかみさんは青木さんに仰る。
「しばらくこんなにしてゐましたから、今度あたり前に結ふのには鬢が寝ないで変でございませうね。」
「さうでもないわ。癖直しをよくすればちやんとなつてよ。たゞこんなにしてると髪が切れてね。」
やがて皆さんのお食事がすむと、おくみはあちらへ下つて一人で戴いた。
「くみちやん、あとでお
おかみさんは通りすがひにかう仰る。
「青木さんがあれを私に下さると仰るのでございますよ。」と、おくみは箸を置いて、
「さうだつてね。いつまでもいゝ記念になるわ。」
おかみさんは事もなげに仰るのであつた。もう青木さんからお聞きになつたらしかつた。
それからみんなでテイブルに集つて、おかみさんのお土産のさくらんぼを戴いてゐると、外を金魚売が長い声を引いて通る。おくみには
「この部屋は、これからでも
「どうしてもこゝいらは市中とは暑さが違ひますでせうね。」
おくみは坊ちやんのお出しになる種をお盆のはしへ置いた。
「その代り蝉が沢山ゐてうるさいや。」
青木さんは巻煙草に火をお附けになる。おくみはこの間もさう仰つたのを思ひ出して、余つ程蝉がお嫌ひなのだらうと思ひながら微笑んだ。
おかみさんはそれから二階へお上りになつたり、裏口へ出て御覧になつたりして、しばらくお遊びになつた後、
青木さんはおくみのゐないところで、いつそこのまゝおくみにもうしばらく面倒を見て貰ふ訳には行かないかとおかみさんにお聞きになつたのださうであつた。
「それやくみちやんの気持一つで、私がどうつて事は勿論ないんだけど、それにしても、またお母さんの方の考へもあることだしとさう言つて、私はその場を濁して置いたんだけどね。だつてそれはくみちやんにしてもよく考へて見ないと一寸引受け
青木さんはおかみさんを送りがてら、湯へ行つて来ると仰つて、坊ちやんとお二人で一緒にお出かけになつた。
おくみはその間に一寸縁側で髪を解いて結びかへた。
何だかおかみさんに相談したいことを言ひ遺したやうに思つてゐるけれど、考へると青木さんのお蒲団のこともその一つであつた。あすは婆やさんを一人でおよこしになるやうに言つてお帰りになつたけれど、馴れない人には家が一寸分りにくいだらうが大丈夫か知ら。おくみはそのやうな事もそれとなく気になつた。
髪を結つて了つて油手を拭く
おくみはそこに膝を突いた儘、お向ひのお家の二階屋根の片面に、黄ろい色に
それから気がついて櫛函を片づける。障子の縁に立てた懐鏡の蓋の赤い布がかうした沈んだ心持を色づけるたつた一つの赤い色のやうに小淋しい。
おくみはそこの一間を掃き出しながら、かうして青木さんたちによくして戴いて、自分の家かなぞのやうに心安く置いて戴いたこの二月ばかりの間のことが、この先いつまでも自分の一番恋しい頃のやうに思ひ返されるのであらうといふ気がする。
おくみはそれから押入を開けて、お
ふと、もう一つの悪い方の丸帯を
おくみはかう思つて行李を開けて、中程に這入つてゐるその帯を、そつと引き出して
片づけてこちらへ来て、序に帯を
見ると丁度背中に出るあたりのところに一寸したしみが出来てゐる。泥か何かの
おくみは鋏を入れては縫ひ糸を
「もうお湯へも召して入らつしやいましたのでございますか?」
「おかみさんがよろしくつて。||久男がどこまでも附いて行くもんだから、たうとう青物市の近所まで行つたんだよ。」
青木さんは、おくみが裏の山羊の棚のこちらで青い
「今これを少しばかり取つて見ましたのでございますけど、まだやつとこれだけしかございませんですの。」
おくみは小さい
「ほんの十ばかりだね。」
「さうでもございませんわ。こんなに小さいのばかりですけど。||でも自分の家へ出来たのですからこんなものへ入れましても心持が違ふやうな気がいたしますよ。」
おくみは笊を下に置いてこゞんで、さつきから馬鈴薯と
「今日はたうとお母さんの方へも行けなかつたね。」
青木さんもこゞんで一つ二つ
「でもいつつて日を
膝の上に莢をためながらおくみは言つた。
「だつて婆やが来たつてぢき帰らないでもいゝでせう? これまで一人で忙しい目ばかりしたんだから、五六日は悠つくり遊んで行つて下さいよ。今度は留守番があるから、一ん
「いゝえ、そんな御心配をなすつて下さいましては、」と、おくみは極り悪さうに言つた。
「もうこんなにしてるのも飽きたかも知れないけど、」と、青木さんは御冗談のやうに仰る。
「それに婆やさんがまゐりますと、蚊帳の都合があれでございますから。」
「蚊帳なんかどうだつてなるよ。一張り買つたつて借りたつてどうでもなるもの。」と、お笑ひになる。
「あなたが坊ちやんとお
おくみは笊を持つて彳んで、棚の中の山羊が、自分のくれた餌を食べてゐるのに目を遣りながら言つた。
「くみちやんにはおかみさんが何とか言つた?」
「いゝえ、別に何にも仰いませんですけど······なぜでございます?」
「何たゞね。······もつとおくみさんを借してくれと言つたんだけど御裁可にならなかつたんさ。どんな婆やが来るか知らないが、私はもう厭になつた。久男さへゐなければいつそ一人でどこかへ下宿でもするんだけどね。あの子をだれか貰つてくれないものか知ら。」
青木さんは、棚の横木に釘が出てゐるのを内側へ手をやつて揺すぶり抜かうとなさりながら仰る。
おくみはさうお言ひになる青木さんのお心持になつて見て、自分のことのやうに物悲しい気になつた。
「手では抜けないよ。かうしとくと山羊が傷をするからね。」
「坊ちやんはどこに入らつしやいますのでございます?」
自分の心持のつゞきをかう言つたおくみには、坊ちやんが今度の婆やさんにおなづきになるまでの、しよんぼりした小さいお心の内もお可哀相に目に見えた。
「どうしても早く奥さまをお貰ひになりませんではいつまでもあれでございますわ······」
おくみは笊の中の青い莢の中を掻き分けながら、伏し目になつて、青木さんのためにかう言つた。どうかしてお探しにさへなれば、どなたか、いゝ方が入らつして下さりさうな気がするのに。
「何にしても、これでは困るけど······」と仰つた儘青木さんは、お吹きになつたお煙草の
「でも細君なんていゝ加減なものだからね。また変なものに来られたら大変だ。||御覧よ、今時分蝶々が二匹あそこを飛んでら。」
青木さんは考へたくない事を考へさせられでもなすつたやうに、他の事をお言ひになる。
「もう今日もこれで暮れてしまひますね。」と、おくみも話を換へて、そちらのぶらんこの柱のそばの土の上を、二つもつれて低く舞ひ/\する黄色い蝶々の方を見た。
「
「あそこの花床にはずゐぶん色んなものが蒔いてあるのでございますね。」
おくみはお先へ失礼してあちらへ帰りかけた。
と、
「おくみさん、背中に糸が附いてるよ。」と仰つて下さる。
「さうでございますか。さつき糸屑をあれいたしましたから。」
「もつと上。||取つて上げよう。待つて御覧。」
「どうもすみませんでございます。」とおくみは顔を赤らめた。
「たうと自分で髪を結つたの?」
「変でございますか。」
「いゝや。綺麗に出来てるよ。||お帰りなさい。僕ももうあちらへ行かう。」
「まあ、大きな犬ですこと。こなひだから、
「今のはどこの犬だらう。||そこのところへ大変草が延びたね。」
「いつかあそこの桑の実をお取りになりましたときには、やつと手が這入るだけの穴だつたのでございましたのに、犬があんなに大きくいたしたのでございますよ。」
おくみは思ひ出して言つた。
「その翌る日にあの画を戴きましたのでございますね。何だかもう遠い事のやうな気がいたしますわ。」
「僕もあれから遊んでばかりゐて何にもしない。またこれから一人で寂しくなつたら画でも画くかな。」
二人はこのやうな事を話しながらこちらへ帰つた。
もう台所には早い電気が来てゐた。
「僕はおくみさんが行つてしまふのは何だか厭だね。」と仰りながら、青木さんは座敷の方へお出でになる。
坊ちやんが外の方で、お向ひの女のお子さまたちと歌を
おくみは瓦斯をつけて、鶉豆を茹でるための鍋をかけた。それをさつと茹でて入れて、味さへつければシチューが出来るやうに拵へが出来てゐるのであつた。
青木さんが茶の間へ入らつして、袋戸棚を開けてウヰスキーをお出しになる。
「いゝよ。あちらへ持つてつて一口飲めばいゝんだから。」と、自分で持つて入らつしたが、しばらくして、あちらからお呼びになる。
「何か御用でございますか。」と、おくみは青木さんのおかけになつてゐるテイブルのところへ行つた。
「もつとこちらへお出でよ。今晩は何にも拵へなくてもいゝから、ここへかけてこれを注いでおくれよ。」と、いつになく御自分から御言ひになる。
「では一寸お待ちになつて下さいませば、只今ぢき、召し上るものを拵へてまゐりますから。」
おくみはそこの電気を、まだ少し早いけれど
その夜おくみは、青木さんにお留守を頼んで、坊ちやんを伴れて四谷まで買物にやらせて戴いた。
「坊ちやんのお好きなものを何でも買つてお上げ申しますから電車のところまでさつさとお歩きなさいましよ。」
おくみは門口でかう言つた。
もう、かうしてお伴れ申して出るのも今夜きりだといふ事もお知りにならない坊ちやんは、はじめて浴衣の人におなりになつた宵をうれしさうに、先に立つてお歩きになる。
「姐ちやん、あそこに赤い灯が附いてるよ。」と、立ち止つてお待ちになる。
「あれは自働電話。さ、早くまゐりませう。」と、手を引いてお上げする。
おくみはそれとは言はないで、今日の帯を表にするお蒲団の、裏と綿とを買ひに行くのであつた。
(大正二年七月|十月)