自分は、かね/″\従来の文章の解釈法、殊に和歌に就いて、先達諸家のやりくちに甚だ慊らぬふしが多い様に思うて居る。もと/\、解釈と訓詁とは主従の関係に立つもので、前者が全般的なるに対して、後者は部分的である。徹頭徹尾後者は部分的といふ絶対性をもつて居る。部分的なるものゝ全般的に拡充するには、数多の部分性の集合を要する。畢竟部分性は物の一面である。立体的事実を築き上げるには、必ず異平面の集合を要するので、望む所は、異種の部分性である。訓詁は、解釈の基礎をなす有力な材料の一つであるが、同時に解釈に到るには、尚他の部分性の綜合を要する訳である。更にいふと、解釈は、内容を説明するのであるが、訓詁は、内容を作る路の言語の説明、または言綴によつて約束せられた事実の説明以上に出るものではない。殊に韻なり律なりをもつて居る文章においては、通常の散文の上に尚附加せられた若干の部分性があるので、益々以て訓詁ばかりでは足らぬといふことがわかつて来るのである。こんなことは、誰しも考へてることで、事新しくいふのが、却てをかしなくらゐのものであるが、さて実際には、一向忘れられて居る姿である。訓詁は訓詁で何処までも止まず研究して、部分性を拡充してほしい。一部の人の様に、訓詁を
最も完全な素質を備へた読者が、文章に対して
貫之の
糸によるものならなくにわかれ路の心ぼそくもおもほゆるかな
を解いては、別れ路のこゝろといふものは、糸による片糸のやうなものぢやないけれど、心細いものであるわい、といふやうなやりくちである。徒然草を見ても、この歌が、昔古今集の歌屑といはれて居つたことが見えて居るが、これは、一つは鑑賞法が進まなんだにもよるけれど、解釈法の不完全であつたのにも一つの原因がある。逐字訳といふもの、これも和歌には効果がない。遠鏡は、出来るだけ逐字訳をして、簡単な形につゞめようとしたものであるが、和歌の性質上、逐字訳は許されぬのであるから(このことは「和歌批判の範疇」を参考せられたい)、寧ろ強ひて内容をつゞめるよりも、読者がその歌について知るべき内容の中心を摘出するに止めておくがよろしからう。さうであるから、時には、勢ひ原形式の数十倍以上の語をも費さなければならないこともあらう。自分は、これから、難解と思はるゝ歌の解釈をやつて見るが、その解釈法は、これまでのやり口と、多少変つた方法を以てしたいと思ふ。勿論自分は、今評釈をするつもりは毛頭ない。
ながめつゝまたはと思ふ雲の色をたが夕ぐれと君たのむらむ(定家||玉葉)
□ながむといふ語は、日本語の中でも、最も洗煉せられた詩味の豊かな言語である。今日の口語では、「□たが夕ぐれ この語は、新古今時代の流行語であつたらしい。多分家隆卿の
知られじなおなじ袖にはかよふともたが夕ぐれとたのむ秋風
がもとで、他の人々が、皆これに模倣したものと思はれる。後鳥羽院にも定家卿にも、土御門院にもある。用法は、人々によつて多少違つて居るやうであるが、この場合の「たが夕ぐれ」は、家隆卿のものと似て居る。□または これを「またば」とはを濁音に見ても、一応の解釈はつくが、大分無理があるやうである。これは、必ず
○これには、幾通りも解釈がつくが、今は正しいと思ふものから述べて、その間に一々評論を試みようと思ふ。
玉葉には、はし書はない。もとからあつたのでもなからうが、
君はすでにとだえて久しくなつた、何のおとづれもない。雲のたゝずまひもたゞならぬ夕空に向うて思に耽つて茫として居る。しかも、心の中には、始終君のとだえを嘆いて居る。もう二度とは吾家へ来ますことはあるまいと、
「または」を、「またば」と読むと、誰が夕ぐれが利いて来ない。「またば」と読むのは、またば来まさむといふ文の
また「頼むらむ」の釈き方によつては、聊か変つた方面がある。それは、下二段に働く「頼む」で、頼ませるといふ意に解するのであるが、さすれば、君といふ語の格が変つて主格となる。
この釈き方は、上の句の意を三様にかへてもつゞく。
一、君はもはやおいでになるまいと思へる夕ぐれに、何とて彼の君は「今宵は誰が夕ぐれならむ 我方に来ますべきか」と頼ましむるのであらう。
二、君が再び(はを反語とは見ず)おいでにならうと心待ちの夕ぐれに、誰が夕ぐれであらうと頼ませるのだらう。
三、かうして居れば、或はおいでになるかも知れぬと待つ夕ぐれに、君は誰が夕ぐれと頼ませるのであらう。
即、二と三とは、殆ど同一である。寧ろ三の形を採るのが適当であらう。しかしながら、三の考と雖も形式文としては成立つけれども、実際にはわざ/\そんな馬鹿な想像を廻らす必要はない。定家卿も、恐らくそんな非常識なことを歌つたのではあるまい。一の如きも、成程一応の理窟は通つて居るが、君と明かに主格を指定した理由を知るに苦しむ。自分の心が君を待つことは、即、いひかへれば君が自分をして待たしめるのである。同様のあらはし方は、随処にこれを見ることが出来る。けれども、このいひ方が、大体非常に余裕のあるいひ方なので、純然たる自己の心の批評である。果してかういふやり方が、この歌の全体の色調に調和して居るか、かういふ場合に、何故に率直に自分の心を疑ふといふ立場を取らないのであらうか。強ひて不調和を犯してまでも、かゝる表現法を取る必要はあるまい。非常識ないひ方であるといはなければならぬ。これ亦作者の意ではなからう。
この歌は、雲の色を誰が夕ぐれと君頼むらむといふ、形体的内容を有して居る。けれども、綜合したる内容の上には、さしたる影響もないが、韻文としては、非常の用意が窺はれる。試に、「雲の色に」として見ると、下の句との区劃が非常に明瞭になる。それで、思想を伝へるには、或は便利であるかも知れんが、このところは、明瞭に、思想上の区別はつけておいて、形式の上では、「頼むらむ」に続くやうにする必要があるのである(勿論こゝのをは、意味は極めて軽いが、古く行はれたよに代はる用法のをがあるから、多少その軽いところを含めたものと見てもよいが、形体的内容に於て、賓格の扱を、雲の色に与へて居るといふことは否むべからざる事実である)。
雲の色をといふ語は、実際不即不離の状態にあるもので、形式はともかく、上二句にも下二句にも、思想上明かに連続はして居ない。しかも、この語なくしては、この歌の価値を減ずること大なるものである。なにも、必ずしも、明瞭に接続する文章が理想的のものとはいはれない。たゆたふ心の有様をあらはすためには、かういふ思想上に聯絡なき語が形式によつて纔かに繋れて居る緩慢な句を据ゑることも、一方である。定家卿の幽玄体と称する歌には、まゝ象徴詩的のものがあることは、業に述べたが、この雲の色をの語の如きは、部分的に夕雲を借つて来て、心的状態をあらはし、又形式の上にも、聴覚情調を重んじて居るところは、すでに象徴風を帯びた歌というてよからう。
此歌は要するに、家隆卿の「たが夕ぐれとたのむ秋風」の歌と互に裏書をしあうて居るものと見てよい。
読者のある部分の人に断つておく。自分の目的とするところは、出来るだけ内容を完全にあらはしたいと思ふので、一字一句も忽諸にせないつもりであるから、時としては音脚を分解し、音質を検する如きこともあつて、自然一首の歌の数十倍の言語を費すこともあるであらうが、真に歌を知らうとする人を目的とするのであるから、そのつもりで居てほしい。実用的に訓詁のみにて足れりとする人は何も読んで貰ふ必要はないのである。要するに真の読者を待つに外ならぬ。