一
我国の歴史は、やがて三千年に亘らうとして居る。其間に起つた数多くの文学が、今日の我々にも、大体は訣るといふこと、殊に奈良朝以前の文学などが訣るといふことは、どういふことであらうかと、さういふ懐疑の念を、恐らく、多くの人々は持たれた事があるに違ひない。奈良朝以前のものが、之だけ時代を経た今日の我々に、とにかくに大体に於いてでも訣るといふ事は不思議だけれども、事実訣るのである。此事実に対して、若しも根本から疑うてかゝるならば、現存の文献が、実はそんなに古くは無いものだと考へなければ、解決がつかぬことになる。併し、事実に於いて、奈良朝に、乃至それ以前に、文献はあつたのであるから、此事実の上に疑ひを置いて見るといふことは、我々の疑ひの方が怪しくなつて了ふ。それならば、何故、それが今日の我々に訣るか。言語学を少しでも、修めた者であれば、さういふ現象のあり得べきでない事を信ずるであらうが、訣ることも確かに事実なのだ。此事実は如何に解決すべきであらうか。日本は言霊の幸ふ国だから訣るのだ、といふ様な、そんな簡単なことは言つてゐられない。
もつと、之を狭く考へてみて、古代奈良朝以前の書物に限つて言へば、譬へば、記紀などの成立年代に就いては、誰にでも漠然と、奈良朝に出来たものだと考へられ易い。併し同時に、たとへ書かれたのは奈良朝であつても、其内容を成してゐるものは奈良朝の事でないといふことは、学者でなくとも大抵は訣つて居る。其文章ですらも、奈良朝になつて始めて書かれたものでないといふ部分のあることが訣るのである。万葉集でも、奈良朝に成立したものではあつても、作品は必ずしも奈良朝のものばかりではなく、それ以前のものを伝承して来てゐる作品が多い。之は単に伝承にすぎぬとしても、記紀の文章の中にだけは、一部分は確かに、奈良朝に書かれたのでないものがある。文章全体の構造は、勿論、奈良朝のものではあつても、其中へ部分的に、象嵌の様に、其以前の文章の入つてゐるものが、かなり、あるやうだ。紀の一書曰といふものゝ、或部分は、確かに、書いた物から抜き書してゐる事が訣るが、更に、もう少し違つた状態で古い文章の入つてゐる事の訣るのは、紀の古註とある部分である。之がかなり多い。之を中心としてみると、其辺りへ又、古い文章が集つてゐる様に思へる。記は或点は漢文、或点は和文、又或点は国文脈に漢字を宛てたにすぎぬといふ所もあり、さういふ部分を見てゆくと、歌謡以外の散文の中にも、日本人純粋の古い文章が入つてゐる。出来るだけ後の万葉仮名式のもので書いてゐるか、でなければ和臭の豊かな漢文で書いてゐる。
だから、記紀は出来るだけ漢文訓みで通らうとすれば通れるけれども、最後には、さう言つた和文臭の所があつて、譬へば天地初発之時を「あめつちの初めの時」と訓まねばならぬ様な癖が出来てくるのである。天地初発を、必ず「
記紀の中に、象嵌の様に、古詞章が入れられてゐるといふ事は、何を意味するか。結論だけを、簡単に出すと、即ち其は非常に重大なる箇所であつて、其を失つたら、神乃至は宮廷の神聖に対して、申訣がたゝぬといふ気持があつたからの事であらう。この暗黙の制約がもしなかつたら、古事記などは、もつと漢文流にゆけた筈であつた。一体、昔の人の書き残した文章が、どうして後世の人たちにそのまゝ訣るかといふことは、考へて見るべき問題である。記紀にしても、江戸時代の学者に研究せられて後、始めて訣つて来たのではない。特に日本紀などは、恐らく、其編纂の直後から講筵が始つてゐる(紀の講筵は平安朝に入つてからだといふ説もあるが、私は、編纂後、間もなく始まつて居ると思ふ)。以来、度々、其時代々々の博士たちが、訣る様な程度に訓んでゐる。かうして、理会を失はぬ歴史として持ち伝へたのであつて、古事記の方では、それがはつきりと文献の上に現はれてゐないといふだけである。源氏物語などにしても、今日尚、読んで訣るといふのは、其間の長い歳月に亘つて、ずつと愛読を続けて来たからで、源氏の完成せられたかせぬかの中に、もう筆写の仕事は始められて居る。鎌倉から室町へかけて、註釈書は、断片的にでも出来て来て居り、やがては其講釈が始つて来る。さうした結果、今日の我々にでも、殆ど余す所なく、之が訣るのである。かうした幸福な状態といふものは、誠に珍らしいことで、さういふ意味で、古人には大いに感謝しなければならぬ。古事記でも、かうして源氏の読まれて来た経過に似た、歴史は持つて居るに違ひない。
だが、昔の人の書物の訓み方といふものは、古い註釈を見てみると、万葉集でも源氏でも、古い物ほど気分式の訓み方や解釈をしてゐる。中には、今の我々から見て、吹き出したくなる様な種類のものさへある。譬へば万葉集では、
矢釣山木立も見えず降り乱る雪驪あした楽しも(巻三、二六二)
など、「雪のまだらごま、二
古詞章を書物に書いて、遺さうとするのは、古詞章の盛んに行はれてゐる時よりは、やゝ時代が遅れてからである。而も古い文章を書くといふ事は、たゞ単にそのまゝ書くのでは無く、書く其人の若干の理会を土台として書いてゆく。而も其理会の根本に、気分式な情緒本位のものが交らずにゐる筈がないとなれば、
譬へば、瓊瓊杵尊が御成人遊されて、葦原の中つ国にお降しなされても差支へない事になつた時(記では、お降りになる時は緑児であらせられたかの如くに記述してゐるが)、天降りの御様子を叙した一節に、記には、「於二天浮橋一宇岐士摩理、蘇理多多斯弖(自宇以下十一字亦以音)」とある。紀では本書と一書とに二ヶ所出てゐて「立二於浮渚在平処一」と書き、之を古註に「羽企爾磨梨他毘邏而陀々志」としてゐる。紀を書いた折に加へられたものであるとすれば、紀はさう訓むつもりで書いた、といふことになるが、どうもこの古註は、後からのものであることを見せてゐるやうだ。さう訓むのなら、こんな宛て方は甚だ下手である。他の所は、もつと上手に宛てゝゐる。更に一書には「浮島なる」とも訓まして居るが、ともかく時代の相違はあるけれども、記紀でこの二つの訓み方が両立して居り、紀の方に別訓の伝へがある、といふことになる。もとは、記と紀では殆ど一つで、ごく小部分の伝へだけが違つてゐるのかも知れぬ。たゞ我々には、之を本道に訓むことが出来ぬ為に、両立してゐる様に見えるが、必ずしも、古註の訓み方が正しいとも言はれない。ともかく、かういふ風に訣らないながらに、前代からの訓み方を伝へようとして居る。其も昔の人にはこれで訣つてゐたのであらうが、我々に訣らぬといふだけのことだ。此まゝに訓めば、浮いてゐる島の様な、平地の所にお立ちになつて、といふ意味であるらしい事は感ぜられるが、はつきりした訓法は結局訣らない。
ともかくも、こんな風にして、記紀では古語を保存しようとしてゐたのである。恐らくは此時代、既に訣らなくて、二通りにも三通りにも伝はつてゐたのではあらうが、同じく訣らぬとは言つても、歌の伝来に記紀で相異がある、といふのとは、事情が違つて居る。尤、場合によれば、其と同じ理由から違つて居るといふ事もあるにはあつたらう。が、大体に於いては、後世の我々には訣らぬけれども、昔の人には訣つたのだ、と思ふ方が正しいであらう。併しながら又、或は記紀を書いた人に既に訣らなかつたものがあつた、といふことも考へてみなければならぬ。誰も口にせぬ様な語り物、わづかに語部の一人や二人が、辛うじて伝承して居るに過ぎぬ様な、実質的には死んで了つてゐる物語を、訣らないけれどもそのまゝ転載した、といふ様な想像も亦可能である。だから、一概に、昔の人には訣つたらうけれども、我々には無力で訣らぬのだ、とのみ信じこむのも間違ひである。万葉人にも、自分たちに訣らぬ事を、訣らぬまゝ正直に書き込んでゐる、といふ事がかなりあつたに違ひない。古い註釈家は、其点を少しも考慮に入れなかつたが、我々には其を知る事が新しい出発||正しい進み方を促してくれるのである。
以上のことから結着する処を、大体こんな風に考へてよいと思ふ。つまり訣らぬ文章を、そのまゝ訣らぬ文章として嵌め込んだのと、訣る文章を主とし、訣らぬものは、之に応じて変へてゆくといふ仕方とである。此事情は祝詞などを見ると、よく訣ると思ふ。祝詞は、真淵などは、崇神朝に出来たものもあると言つてゐるが、其証拠は不確かである。其が崇神朝に出来てゐても、或は近江朝に出来てゐても、問題は、其が出来た当時のまゝで伝来せられて、果して今の我々に訣るかどうかといふ事だ。千年以上も経過して、尚今日の我々に其が訣るといふならば、その方が、成立年代などよりは、よほど大きい問題である。大祓祝詞などは、近江朝に出来たものだと言はれるが、一部分々々の、ごく特殊なものゝ不明は別として、大体、其がそのまゝで、今の我々に訣るといふのは、をかしい事で、神代巻に現れる種々な超現実的な不思議よりは、この方がよつぽど不思議でなければならぬ。つまりは、其は、後々の人に訣らぬ様では困る故に、ある点までは改作して、訣らせよう/\として来たからの事に他ならぬ。延喜式などでも、延喜以前の貞観・弘仁頃の記録もあつたらうが、その間には改作が行はれてゐるに違ひない。若しさうでなかつたならば、今の我々に到底、訣る筈がない。訣らせようとする為の改作は、必要に応じて始中終行はれて来たが、其がある時代に止つて了つて、改作しなくなつた。其後は純然たるくらしつくになつて、以来、訣らないまゝに伝はつて来てゐるといふ訣であらう。かうした改作は、物に書くことに依つて行はれるばかりではなく、口頭伝承の間にも、だん/\と改めて行つてゐる様だ。だが本来、神に関係ありとせられる箇所だけは、勝手に変改しては神罰が恐ろしいから、之を改めない為に、そこだけが時を経るに従つて、無暗に訣らなくなつて了ふ。当初から之だけは、訣る様にといふ目的を持たなかつたのだ。かりに
とにかく、古詞章は出来るだけ、訣る様にしようと考へ、又、実際にさうして来てもゐるので、昔のものを読んで見ても、我々の予期する程は、古い言葉・古い文章には出会はない。記紀を見ても、我々の知らぬ様な事ばつかり書いてあるのかと思つてゐると、案外なのに愕ろくくらゐで、つまりは、本道の古詞章が、さうした古典にもだん/\亡くなつて来て居る。既に奈良朝の人々に訣る程度に、改められて来てゐるのであつて、其なら我々にも理会し易いといふ事になる。而も、其に加へて漢文の助けがある。漢文脈に縋つて表現してゐるので、大体の事は訣つてゆくのだ。
だから、此話をだん/\進めてゆくと、我々の古く持つてゐた文章が、純然たる口語であつたといふ時代は、決して考へられぬ。即、昔からある言葉を土台として、この文章が出来て居り、其文章の最肝要な所が古語で、其周囲に訣ることをつけ足してゆく。かういふ現象を考へてみると、先づ、我々が人に話す口言葉は、その喋つた当座に消えて了ひ、書いたものは何時までも残つてゆくが、昔はこの両者の中間に、もう一つ、記憶せられる言葉といふものがあつた。単なる口の言葉は記憶せられず、又、書く言葉の方は、よほど文化が進んでから後のことである。とにかく、口言葉ではなくて、記憶せられなければならぬ、といふ言葉乃至は文章があつた。是は勿論、其時に出来たものではなく、昔から伝はつてゐる詞句で、前代の伝承として、後代にも其を伝へるべく、どうしても記憶してゆかねばならぬものだ。人々の間に生きてゐる言葉といふものは、どん/\変化してゆくが、之とは亦別に、変化しない、固定した詞章を覚えてゆく一群の職業者がある。神事に従ふ人・まじっくを施す人、詞章の種類性質によつて、その伝承者は違ふけれども、とにかく古詞章を記憶し、其を伝へてゆく団体が幾つもあつた。是が次第に亡びてゆく様になると、伝承者は高貴の生活をしてゐる人の上に移つてゆく。尊族・貴族の方々は、殆ど神に近い生活をされてゐるから、さうした神聖な詞章が伝承してゆかれる訣で、さうした家柄の子弟の教育は、かゝる古い詞章を覚えることであり、此教育は平安朝まで続いた。かうして、次第に神事に関係ない者に、神聖なる詞章が伝承されてゆくことになる。是が所謂、ことわざといふもので、句又は短い文章である。何の為に之を伝へたかは、はつきりは訣らない。或は昔からのもの、神聖なものだから、として伝へたものであつたらうかとは思ふが、それにたつた一つだけの意味を考へてみよう。
三
古くから伝承してゐる詞句には、国のすぴりっとが宿つてゐる||国の威力が籠つてゐると信じた。だから其国の重要な位置にある人は、必ず之を受け伝へなければ、威力がなくなつて了ふ。その為に、どうしても、この古詞章は覚えなければならなかつたのだ。かうして伝承されたものがことわざで、その一部分がうたである。ことわざは、大抵は、もとは
是が使用し慣れてくると、上に冠せる讃詞だけを出して、本道の神の名は出さずとも訣る様になる。更にさうしてゐるうちには、時が経つに従つて、讃詞とその内容とが訣らなくなつて了ふ。讃詞だけが古くなり、何時までも固定したまゝで、記憶し直すといふことがないが、下につける神の名、国の名は何時でも記憶し直し、常に新しい印象を持たうとしてゆくからである。譬へば「筑波の
枕詞の一番古い起源が之である。何だか知らぬが、くつゝけておかねばならぬ詞章がある。それに、之ならば訣るだらうと思ふ様な語を、その下につけてゆくのだ。さうなると、従つて枕詞の利用範囲が拡がつてくるので、一つ/\を見てゆくと、皆、その枕詞の起源の様に見える。起源と言はれるものは、或は幾つもあるかも知れぬが、とにかく、其最初は、今言つた様な、諺から出て来た形だ。だから地名の枕詞は、割合に純粋であり、同時に古くもあると言へよう。ところが、その様に諺であつた枕詞が、殆ど無意味な形式的なものとなり、もと讃詞であつたことも忘れて了ふ。理由は知らないが、重要性を持つてゐる霊的な不思議な詞章だ、と考へて来る。さうして、どうせ我々の祖先から伝へて来た財産ならば、其を生かして使はなければならぬ、といふ気持から、既に死んで了つた詞句を生かして来ようとする。つまり、意味がないと思つてゐた言葉に、だん/\意味をひつぱり出して来る訣だ。譬へば、祝詞の解釈に当つて、その讃詞が訣らないので、狭い範囲の比較研究をして、宣命ではかう、古事記ではかう、といふ風に見て来る。かういふ態度は、学問的だとは言へるが、併し其原初の意味をつきとめるといふ事は容易な業ではない。
四
一体、言語の学問は、比較言語学の土台に立たねばならぬ事は勿論であるけれども、日本言語学||謂はゞ、さう言ふべきもの||をも確立しなければならぬ。日本の文法は、日本言語学と言つていゝものであらうが、今の文法は純粋に学問ではなく、通弁の学問が少し進歩して来た程度のもので、之を日本言語学と言ふには、少しく淋しい気がする。もつと言語学風になつてもいゝと思ふ。今尚、文章を書く為といふ、昔の目的そのまゝにだけ使つて居る。文法が進まぬのも、実際は、一国の日本言語学が起らぬからだ。比較言語学も、勿論大切ではあるけれども、結着するところは、何時でも同じことになつてゐる。一頃流行した様な単に他国語との単語の比較だけなら、辞書さへ備へて居れば出来るのである。ともかくも、日本一国の言語学といふものを興して、早く日本の文法を学問に高めなければならぬ。比較言語学の方法では、或は一部正しいものが出るかも知れぬが、其を以て、日本語の全体を推す訣にはゆかない。日本の言語は、何もうらるあるたい語系にばかり関係があるのではなく、南の島とも大いに比較研究せねばならぬのは勿論である。とにかくに注意が外へ外へと向いてゆくことは、是は大事なことだと思ふ。民俗学も、日本民俗学といふものが土台になつて、其上で外国との比較をせねばならぬ。土台がしつかりせずに、外国と比較ばかりしても無駄だからである。其と同じ事で、単語ばかり比較研究してみた所で、何時まで経つても、日本言語解決の足しにはならぬ。たゞ似てゐるといふだけの事に過ぎない。言語の根本の類似、根本の系統は、常に、表面の似てゐる、似てゐないといふことを超えて、その底にある。我々の祖先は、南からも来てゐる事は事実だけれども、其は表面を一寸見たゞけで、容易に洞察し得るといふ訣にはゆかない。だから、比較する前に、日本語の形といふものを考へねばならぬ。さうして、その形を、朧げにでも、作つてみる必要があるのである。
譬へば、はしごのことを、昔は、はし立てと言つて居り、天の橋立などの如くに固定して遺つた。此はし立ては、竪のはしごといふことで、普通の日本語ならばたてはしといふのが本道であるから、此語は、後世の日本語の構成とは違つてゐる事が訣る。かうした言語現象に就いては、夙く坪井九馬三博士が注意された事があつたが、靴下のことをしたぐつ(韈→したうづ)、車の前に出てゐる
これがもう少し類例が集つてくると、日本語の系統、或は規則に就いての考へを、だん/\改正してゆかねばならぬ様になると思ふ。もつと我々には訣らぬ事が多い。文法的な例を引くと、寝ることを古くはいぬと言つてゐる。いは接頭語だ、などと考へてゐる人もある位だが、之には「
譬へば又、万葉集の中にでも、いろ/\変つた文法の例は多いが、殆ど其がたつた一つの例だ、といふものが多い。たつた一つの残存の例であるから、学問としては、それからどんな意味をも引き出すといふ訣にはゆかず、一つだからと言つて其を捨てゝ了へば、一切訣らなくなつて了ふ。日本語は、先づ何よりも、日本の国のもので研究せねばならぬけれども、いよ/\となると、かうした例に出会ふことが屡

人麻呂の長歌に「
かには副詞を受ける語尾だ。初めから句をうけてゐるかにがあり、単に動詞を受けてゐる様に見えるものなどもあるが、本道の形は、之がついたら副詞句になるのである。「消なば消ぬ」といふ文章||とは言へぬまでも文章に近い形||をかにで受けて、副詞句にして了ふ。だから、成立から見れば、消ぬかにと続いた語ではなく、消なば消ぬにかにがついたものだ。一部の単語を承けてゐるのではない。消ぬかにの語調を強める為にけなばをつけたと言ふのではないのである。昔の学者も、これに就いては、非常に簡単に説いて了つて居るが、其経過の後に、初めて、けぬかにの形が独立して「けぬかに思ほゆ」などといふ言ひ方が出て来るのだ。若し此経路さへ考へることが出来れば、それと同じ道を取つてゐる語の、相当にあることを思はねばならぬ。が、残念なことには、之も亦、一種類の語しか残留して居ない。之が文献にたつた一つ残されて居るといふことは、前に説明した通り、文献以前の文学の所為で、何かの理由で、此語だけが評判を得たからである。たつた一例だから駄目だと言ふなら、他を説明するのに之を使ひさへしなければ、済むけれども、それでは此一語の説明が何時まで経つてもつかないのである。
五
概して言語には、何より先づ語原研究が盛に行はれるが、中には、見るからに愚かしい説も少くはない。語原説では、どうしてもその態度が一番問題になる。言語は偶然に出来たものが多いから、似た様なものを集めて来て、それらの成立から類推して説明しようとしても、凡そ、これ位、はかないものは無い。結局は、学者その人の人柄・教養・科学性を信頼するより仕方がない。語原だけは、幾ら文献式に、科学式に緻密にやつても出来ぬことが多いのである。
「消なば消ぬかに」の様に、たつた一つだけ、こんな形が残つて居る。之から考へられることは、「消えさうな」といふことをけぬかにと言ふのは、もとは消なばといふ条件の句がついてゐなければ訣らなかつた、其が永年の間に慣れて、条件を省いても訣る様になつたものだ、といふことである。かには又かねとも言つて平安朝まで残つてゐるが、其にも拘はらず、世間の生きた言葉としては薄れて来て、べくといふ語に代つて来た。もうけなばなどはつけなくてもよい様なものだけれども、昔からつけてゐるからといふので、之をつけて、表面だけのくらしっくを保つてゆかうとしたのだ。之に似た形は東歌に、一つある。
おもしろき野をば な焼きそ。古草に新草まじり、生ひば生ふるかに(万葉巻十四、三四五二)
が其である。生ふといふ動詞は普通、四段だが、上二段に使ふことも出来た。初めから四段に決つてゐたか否かは何とも言へぬが、恐らくは、活用の固定するまでの間には、動いたものであらう。だから、四段に決つて了つてからも、場合によると、昔使つた上二段が出て来るのである。此歌、通例は、結句を「焼かずとも草は萌えなむ。春日野は、たゞ春の日にまかせたらなむ(新古今 壬生忠見)
などの様な、此歌の類型歌が出て来、此類型が頭にこびりついてゐて、どんな機会にも、其が起つて来る。即ち昔は我々の文学観とは違つて、知識としての価値を認めてゐたのである。とにかくこの二首は結局同じ歌だ。恐らくは、昔の人も、さう解釈してゐたであらうと思ふが、之を先の「けなばけぬかに」の論からゆけば、生ひばは条件である。で「去年の草に、今年の草がまじつて、生えさうにしてゐる」と言ふだけかも知れぬ。我々は、どうしても後世の聯想に災されて、其もう一つ前の考へ方を見るのは難しいが、さう取るのが本道だらう。つまり「生ふるかにあり」で、生えさうにしてゐる、といふのだ。言語といふものは、同じ時代の同じ語でも、感じ方も使ひ方も違つてゐるといふものがある。だから、昔の言語に対して、今の感じ方で推して行くといふことは安心出来ない。譬へば又、人麻呂の歌に「ゆくへ知らにす」(巻二)といふ句が出て来る。之は理屈からもあるべき語法である。知らは知るの第一変化、には否定の助動詞の第二変化で、中止法によく使ふ形。知らないで、つまり、知らないの中止形、其にすをつけた。知らないでゐる、訣らなくしてゐる、と言ふのだ。此例も決して多くはない。併し我々は、ごく僅かでも、祖先の用例を探し出して来て、だん/\仮説を立てゝゆく様にせねばならぬ。非常に流行して使はれた語でも、すぎ去つて了ふと、ぽつつり一つだけ残つて居る。言語現象は、常に流行である。我々は流行を呪ふ立場にあるけれども、言語の流行は、我々が長くかゝつてやる仕事を、短い間にやつてのけて生活に取込むといふのだから、普通の文化生活とは這入つて来方が違ふ。だから危険だけれども、無暗に動いてくる。その熱情が我々を脅すのだ。併し、ともかくも、さうして流行してゐるうちには、やがては円満な語になり、普遍性を持つて来る。さうなると、もう其を使はずには物が言へぬ様になつて了ふ。で、此「生ひば生ふるかに」の例を見ると、文法意識が変つて来て、既に、「生えるなら生えるにまかせておけ」、といふ意味に理会して居る。此変化の現象は、之からの文章を解釈して行かうといふ人の是非とも心得なければならぬ要点で、常に、昔の意味と、今の意味とを考へてみることを忘れてはならぬ。さうでなかつたら、何時まで経つても、今の意味の解釈ばかりで、昔の人の気持は、少しも訣らぬといふことになつて了ふ。民族精神などといふ問題も、実は、この言語の理会を外してゐては考へられぬ。昔使つてゐた意味が適確に訣らずに、昔の人の気持が理会出来る筈はない。近代の論理で昔の人の気持を忖度してゐる、といつた誤解はかなり多くして居ると思ふ。今は、文法的に何と解してゐようと、昔は、其通りに解してゐたのではなかつたかも知れぬのである。
六
時代を少し下げて、平安朝の例を採つてみよう。言語といふものは、永い間に亘つて生きてゐる事もあり、生れて、直ぐ死んで了ふのもあるし、又、一方では死んでゐながら、他方では生きてゐるといふものもある。方言などをみると、その生滅の端倪すべからざるものを残してゐることが訣る。だから、言語の生命は簡単には論ぜられない。平安朝の言語とは言つても、平安朝の文献に出てゐるといふ消極的な事実だけで、其が奈良朝にはなかつたとまで言ひ得ない。寧、あつたと言つた方がよい、といふものが多いかも知れぬ。併し又、形は古くとも、後世からあてはめて使つた、といふものがあることも注意せねばならぬ。「けなばけぬかに」といふ語の、形そのものは古いとしても、その人気によつて、新語をも、その形にあて嵌めて了ふ、といふ類だ。此いゝ例は狂言記の言葉で、室町時代の語法だと言はれるが、決してさうばかりではない。その中の言葉は、近代まで改作が行はれてゐる事実があるのだから、之を早急に室町時代の言語として見ようといふのは間違ひである。実際には、室町の狂言の型だけが残つてゐて、其型に嵌めて語を作つて行つて居るのだから、つまり室町の擬古文なのだ。だから、狂言記を基として室町の語法を研究するといふこと程、無謀なる危険はない。其と同じく古代の歌や文章は、殆ど擬古と類型であると言つていゝ。譬へば人麻呂でも新語などいふものは、実は、無いのだと言つた方が本道だらうと思ふ。古い語に似せてゐるのにすぎないが、たゞ其中には、何か新しさを感じさせる彼の性格といふものが漲つて居る、といふことは、確かに言はれよう。だから、平安朝でも、其例には洩れず、古い型か、それとも古い型に嵌めたのかは、容易に断言出来ない。
言へばえに 言はねば胸にさわがれて、心ひとつになげくころかな(伊勢物語)
の歌。えには今は口の上の言葉は問題にしてゐない。問題にしようにも、古代・中世のものでは材料が無いのだから、文献に頼るより仕方がない。文献に残つて居るものは、根本は、どうしても文学意識が働きかけて、言葉を選択して、保存して行つて居る。古い書物を見ると、我々の祖先の言葉の選択は、偏頗といふか、単純といふか、とにかく語の数が非常に少ない。一寸変つた語が出ると、此方がびつくりする程に使はれる。祝詞などを見ても訣る様に、同じ語ばかりが出て来る。万葉でも、白い浪ではなくても白浪と言ふのは、文学語として此語を取り上げてゐた訣で、馬といふ為に赤駒といふ表現をして居り、これは次第に趣味が変つて、青馬などとも言つて来る様になつてゐる。髪の毛ならば、必ず、黒髪といふ。之等は昔の人の好み、単にさうした語が好きだつたといふだけで、意味はないのである。枕詞も最初の話の様に、あんな必要が出て、色んな意味がくつついては来たが、結局は歌の一部分になつて了つて居る。文学語||知識としての要素の強い||として枕詞を取り込んで来たのだ。
此文学語として枕詞の、発達の最初にゆきついたのは何か。其は地名である。地名を文学化し、文学風に考へるといふ歓び方が出て来る。つまり枕詞は、最初は土地か、神か、人間かの讃詞であつたのが、次第に意義が変化して来た。さうなつても、何時までも土地・神などに纏綿する考へは失はず、どうかすると、其が復活する。だから枕詞と土地の神とは引き離すことが出来ない。さうして最後には歌の上に、其土地の美しい地名を詠み込んで来る。悠紀・主基に卜定せられた国の郡の中で、特別に音のいゝ、美しい聯想を起しさうな地名を、後には書き遺して居る。之を仮に注進風土記などと名づけて居るが、之等を見ると、悠紀・主基の、美しい豊かな聯想を抱かせるくらしっくな地名が並んで居る。其を歌に詠み込んだのだ。歌に詠み込む為に、さうした風土記を献らしめた訣で、謂はゞ、悠紀・主基の歌を作る種である。かうなると、我々の実生活とは関係が無くなるが、そこまでゆかぬうちに、既に、我々と関係深い言葉の中に、文学語を多く入れてゐる。文学語を好む気持で、文献に遺し、さうした語の中から取り上げて文章を綴つて行つたのである。かやうにして言語を選ぶ能力が進んで行き、結局、注進風土記を作り上げたといふ事になる。とにかく言語の中に霊的な、神聖な、香の高い、昔風の懐しい、心の緊きしまる様な、色好みの豊かな感覚を起させる言葉を織り込んでゆく事が多かつた。之が当代の歌言葉の非常に少なかつた理由である。
七
語原論の中には、どうかすると忘れられてゐる部分がたつた一つある。其は略語である。古い時代には、此略語といふ現象が、相当に多い。今残つて居る語を見ても、昔の音のまゝで、たゞ様式が少しゆがんで来てゐるのだ、と決めてかゝると訣らないものが多い。昔でも、既に、出来てゐる語を略して了ふことが多かつたらしく、譬へば祝詞・宣命に出て来る「かむながら」といふ語である。(宣命は奈良朝まで上れるが、祝詞全文はそこまでは上れぬ。祝詞には所々に象嵌があつて、全部が奈良朝のものとは信ぜられぬ。併し、其象嵌でない部分を見出すことは、研究次第で出来る。)此語は、非常に意味が拡がつて、結局、訣らぬ様になつて了つて居る。天子の、此世の中をお治めになる御行状を惟神と見て居り、「かむながらおもほしめす」などと使つてゐるが、此用語例も、既に末期のものであらうと思はれる。宣命は最古いものだが、之ですら、もう擬古的の使ひ方をしてゐる様だ。惟神とは、天子御自らのお気持を表はすものではない。「自分のすることは、自分がするのではなくて、神がなさるのだ」といふ風の条件を、御自分の行状につけて、
それが、形式になると、もつとよく訣る。祝詞には「みこともち」と使つて居り、此用法はみことの語原と同一である。紀にも例は多く出てくるが、要するに、尊いお方の命令を伝達する人がみこともちである。みことをお出しになるのは、神がもとであるから、最初のみこともちは、天の命令で此土地に出て来られた天孫すめみまであらせられる。之が後まで残つて居り乍ら、低い方面にばかりみこともちの語が残つて行き、高い方面ではもちが夙く消えて了つた。天子の御ことをすめらみことと申上げるのは、すめらみこともちの略である。すめらは絶対的尊敬の語で、之も後には天子に関することにだけ固定する。がとにかく、此みことが単に尊い人に使ふといふだけの意になると、だん/\下つて来て、貴族の家でも母のみこと、兄のみことなどと使つてくる。之等は形式だけの尊敬である。かうした略語は非常に多いと思はねばならぬ。
大体、古代の書物では、言葉の興味といふものが、其書物によつて違つてゐる。記・紀・万葉・風土記など、それ/″\に、其伝承してゐる語彙の関係か、言葉の好みが違つてゐる様だ。我々でも慣れてくれば、之は古事記の言葉、之は万葉の言葉といふ風なことが感ぜられて来る程である。こゝに例に採つて見たいうたてなどは、我々の普通の考へでは、平凡な感じのする言葉であるが、記にも万葉にも出てくる。古事記には二ヶ所出て来る様で、古訓には二ヶ所ともさう訓んでゐるけれども、正しくうたてと訓まねばならぬところは一ヶ所だと思ふ。其は下巻穴穂ノ宮の段に、大長谷ノ王が、市辺之忍歯王を誘つて近江へ狩にゆかれた時、忍歯王が翌朝早く、大長谷ノ王の仮宮においでになつた事に就いて、其侍臣達が大長谷ノ王に御注意申上げる言葉の中に、
侍二其大長谷王之御所一人等白、宇多弖物云王子故、応レ慎亦宜レ堅二御身一(安康記)
「うたて物云ふ王なれば」といふのは、忍歯王の御性格を申上げた言葉である。平安朝の知識で解けば、「あのお方はうとましくも物を言ふお方だから」といふことになる。つまり、「うたてくも物言ふ」と解くのであるが、之でいゝかどうかは問題だ。もう一ヶ所は神代巻、天照大神と素戔嗚尊とのうけひの所で、すさのをが勝さびに暴れなさる条「猶あしきこと止まずてうたてあり」とある。此うたてありの訓は実に巧妙であるが、どうも疑はしい訓み方だ。素戔嗚尊の悪いことが止まずに、といふのだから、うたてありと訓むより仕方がないところかも知れぬが、我々の感じでは、どうも此訓は平安朝風で、奈良朝にこんな訓み方があつたかは疑問であらう。古事記は出来るだけ古い匂ひを出して訓まなければならぬ。此一語が、古くは無かつたとは言はぬが、奈良朝などに出る例ではうたてで、之ならば万葉にも例が多く、うたてありといふ言ひ方は出て来ない。之はたつた一つの例で、他に用例がないが、既に説いた通りで、一つだけ残つて居ることに不思議はない。ともかく此語は、歌の上には出て来ない。万葉集に、譬へば、何時はなも、恋ひずありとはあらねども、得田直 此の頃恋のしげしも(巻十二、二八七七)
どんな時でも、恋ひ焦れないでゐるといふやうな時はないけれども、あゝ情けない、この数日は恋ひ心で一ぱいになつて了つてゐる、といふ意味である。併し、かう解することが、既に平安朝のうたてに慣れて了つてゐるからかも知れぬ。平安朝の解釈では、うたてを其意味に解いて差支へない。此時分は、他にうたてし・うたてく(→うたてき)などが出て来る時代である。うたては近代には色々の形が出てゐるが、昔は整つてゐない。古い所ではうたてありと言ひ、之がうたてしに代つて来たのである。ともかくも万葉集の歌を、かういふ風に解いて了ふのは、問題であらう。我々の解釈は常に、自分に近い時代の意義を以てしてゐる。つまり現在の意義を、昔の語にあてはめてゆくといふ解き方で、之はどうしても間違ひだと思ふ。万葉集で、そんな意味に使つてゐたか否かは問題である。平安朝と同じ意味に使ふ為には、必ず其間に変化がある筈だからである。一方にはうたゝありがある。うたてとうたゝとは同じだといふ気がするが、既に転といふ字をうたゝと訓んで居る。転をうたゝと訓む理由のあつた時代がある。宣長の訓は誤りではないであらうが、もう少し考へた方がよかつた、といふ気がするのは其意味に於いてだ。字鏡では漸の字を、さう訓んで居り、状態が転じて、いよ/\甚だしくなつてゆくことをうたゝと言つた、といふことだけは訣る。だから訓み方は誤りではないが、細かい点に違ふところがある。とにかく、どうにもかうにも訣らぬ様になつたといふ感じをうたゝと言つて居る。平安朝の例で言ふと、
思ふことなけれどぬれぬ。我が袖は うたゝある野べの萩の露かな(後拾遺 能因法師)
之は普通のうたてありの意味では解されない。「物思ひも無いのに袖がぬれた。どう考へても袖のぬれたのが訣らぬ、萩の露よ。」といふので、つまり、ひどい状態は事実だけれども、だん/\進行して行つた点は卒業して了つて居る。たゞひどい、といふ事だ。之で考へると、大抵のうたゝはひどいといふことらしいのである。素戔嗚尊の所でも、嫌なこと、いけない事があつたといふ意味で、さう訓んだのであらうと思ふが、それなら、うたゝありと訓んだ方が真実に近い。どん/\悪いことをして、どうにもかうにも手におへなくなつて了つた、といふ進行の意味を持つてゐると解して、うたゝありと訓む方が適切だと思ふ。大長谷王の方の例では、嫌なことを言ふ人だから、といふのは、災ひになる事を言ふ人だといふ意味だが、さう解していゝかどうかは問題である。我々は解釈する以上は、万葉集は万葉集風に、古事記は其を書いた人の思つたであらう風に解きたいものだ。でこゝも、どうもひどい事をいふ人で、といふ位に簡単に解して置いていゝかと思ふ。八
今一つ考へておかねばならぬことは、日本文の表現法では、昔から副詞の下に言葉を省くのである。万葉集の様な律文になると、之が一層はつきりするが、「うたて······ある」といふところを省いて居る。譬へば、今の例でも、「うたてかたましく物言ふ王なれば」即ち、非常にぐろてすくな恐ろしい事を言はれる王だから、と言ふ様なことを言つたものに違ひないと思ふ。万葉集に、かうした手法の類例があるのだから、古事記にも無い訣はない。三日月の歌にしても、先に解いた様に、あゝ嫌だ、うとましいといふことではないのかも知れぬ。「何時はなも」の歌になると、少くとも、「恋のしげしも」をうたてが形容して居る。此「うたて此の頃恋のしげしも」を略して言ふと「うたて此の頃」になつて了ふ。類型で始中終、繰返してゐるうちには、又あれかと思ふから、全部言ひ切つて了ふ必要がなくなつてくる。「うたて此の頃」と言へば、「うたて此の頃恋のしげしも」を略した形だと誰の目にも訣る。かう考へて来ると、前の解釈はあれは平安朝流の解釈だといふことが考へられるであらう。かうして重ねて使つてゐる間に、自らうたての用語例が定つて来る。つまり何時でも類型表現をするから、副詞価値が自然に定まるのだ。同時に、「恋のしげしも」と言はなくても、其が「うたて此の頃」と言つた言葉の中に含まれてゐるといふ事を感じて来る。はつきりどの言葉を省いたとは訣らなくとも、さういふ傾向の、さういふ内容の言葉を省いてゐるといふことだけは訣る。その省いた形が、三日月の歌の様になつて表はれる訣だ。さう
うたゝの次に来る言葉が、情けないの意味でないうたゝがある。源氏物語の例に、(源氏だとか、枕草子だとかは、成立年代もはつきりしてゐるが、他のもの、例へば宇津保物語にしても、狭衣物語にしても、果して其時代に出来てゐるかどうかは問題になる点が多いので、言語の歴史を正確に見てゆかうといふ資料としては不安である。)
「いとうたてゆゝしき御ことなり。などてか、さまではおはする······」(源氏、柏木)
普通は、「非常に情けなく嫌な事です。何故そんなにまでして······」といふ風に解釈して居る。此文章を見ると、うたてがゆゝしを形容してゐる様に見えるが、或はうたてもゆゝしも同格なのかも知れぬ。つまり「うたてくもあり、ゆゝしくもあり」と見るので、さう取るのが通例になつてゐる。併しうたては大抵の場合、極端なる副詞である。だから、こゝもゆゝしを限定して、「ひどくゆゝしい」といふ事でなければならぬ。どこかでうたゝの古い意味を利かして使つてゐるので、時々、古い意味が反省されては、使はれて来る。うたてはひどいことだけれども、大抵の場合「うたて······あり」と嫌なものにつけて使つてくる。さういふ傾向の言葉にかゝる習慣がついて来ると、こんどはうたてだけで、嫌なことを表す様になる。だから「うたて······あり」と其空間に挿入すべき言葉が、だん/\動いて来て結局、形容詞になつて了ふのである。之と同じく、万葉集には非常によく用ゐられて、亡びて了つた語にもとながある。之も訣らぬ言葉の一つで、心許ないなどと訳すのは、一番素樸な解釈であるが、之も結局はひどいといふ意味の語らしく、「ひどい······」といふ
之が平安朝の言葉の一の特徴である。我々の知つてゐる平安朝の文学は、ごく狭い社会に於いて、話したり読んだりしてゐたので、話してゐる言葉は、幾分くらしっくに書いて居り、訣つて居る範囲が狭いのだから、略しても皆に訣るのである。京都の貴族の中にも、始中終宮廷に出入りしてゐる様な人にだけ、訣る範囲で整理して使つてゐる。だから略語がいくらも行はれてゆくのだ。言葉をいくらも造る代りには、一方にいくらでも忘れてゆく。一種の失語症で、譬へば、ものといふやうな言葉を、無暗に使つて居る。尤、それで訣つたのでもあらう。とにかく、出来るだけ言葉を省かうとする一種の努力||といふよりは、懶惰な力が漲つて居る。其を考へなければ、平安朝の物語類に出て来るうたゝは訣らない。こゝまで考へてくれば、始めて、宣長が平安朝式にうたてありと訓んだのも、幾分は助かつてくる。つまり、ひどいと解釈すれば訣るのである。
平安朝に、幾らでも出て来る語に今一つあさましといふ語。源氏物語の語彙を、嘗て集めてみようとした事があつたが、其を止めさせて了つたのは、このあさましがあんまり多くて、切りがないからであつた。之も大抵は、近代の意味で情けないとか、人の事を非難して諦めの気持を持つたといふ言葉に感じてゐる。それでも、物語日記類をよく読む人は、それでは飽き足りぬので、私どもも之を、たまげるなどと訳して居る。宣長もさう言つてゐる様だ。つまり、あさましは自分の方でも浅いことを自覚する意味である。あさむの形容詞化したものだ。副詞にもあさはか(→あさむ)などがあるが、自分ながら自分の心の狭いのに驚くといふ言葉である。だからたまげると訳さなければ、気持が出ない。
「かゝる人も世に出でおはするものなりけりと、あさましきまで目をおどろかし給ふ」
(源氏、桐壺)
之を近代的に解釈すれば、「情けないと思ふ程、慎しみもなく愕いた」と、なるが、そんな解釈が誤つて居ることは言ふまでもない。たまげる程に目を見開いた、といふことでなければならぬ。又、夕顔の段にも、「人の気配いとあさましくやはらかにおほどきて」
之も亦、情けない程に、ぐにや/\してゐて、といふことではない。その容子がたまげる程に、やは/\として鷹揚であるといふのである。更に、もつといゝ意味にあさましのついてゐる例もある。ともかく、「あさましく······なり」といふ形であつたものが簡略化されて来る訣だから、結局、言葉を省く窮極には、「あさましく美しく」、「あさましく清らに」といふ様な文句でも、皆、あさましで代表して表現して了ふことになる。さうして、どんな内容でも、皆たまげると訳して了つてゐる。あさましに続く動詞・形容詞を省いて了ふので、表面上の形としても、あさましといふ終止形で、どんな意味をも表し、その中で、あゝ嫌だといふ気持を持つた意味の方が勝を占めてくると、後世の様になつて了ふ訣である。源氏でも、その意味の場合もないことはないが、その時分のあさましは今のあさましそのまゝではない。「あさましく······なり」の形で、中間を省き、あさましで、その省いたものを表はして居る点は、先のうたての場合と同じである。それだけで、すべての心の過程を示すのである。結局、あさましは後世は非常に一方に傾いた言葉になる。あさましくに軽蔑の意味を感じて来るのは、あさの一語によるのだと思ふ。九
もつと訣り易い例に、わりなしがある。是はことわりなしと同じで、説明する事が出来ぬ、名状し難い、言ひ表はし得ない、などの意に使つて居るが、之も亦、もとは「わりなく······なり」といふのを、わりなしの一句で代表させて来たのだ。説明の出来ぬのは、無暗やたらなのであるから、わりなしと言へば直ぐに、無暗やたらだ、の意になつて来る。で始めからわりなしが独立してゐた言葉の様に考へるのは誤りである。無理な、自分勝手な使ひ方は出来ぬ訣だけれども、皆が使つてゐる中には自分達の聯想を出来るだけ入れて、お終ひには割る事が出来ぬなどと感じてもくる。或は亦、いたくといふ例がある。「いたく······なり」といふ副詞があつて、その経験を積んで来ると、中間を省いて、いたしやなどとだけ言ふ様になる。「いたく······である」の略であるが、いたしが、ほゞ其基礎になつてゐるので、いたしやに戻つてくる訣だ。形容詞の活用では、終止形の成立は却て遅く、最初は、副詞の形のく・しくが出て、之から次第に発達したものらしい。我々の持つて居る形容詞が、何時の間にか、今の活用形を持つたものだけを、さう言ふやうになつて、形も整頓されて了つた。併し、ありを含んだ「とあり・くあり・たり・なり・かり」などを形容詞と称してゐる人もあつて、之は便宜上さう呼んでゐる訣であるが、意味に於いては変りない。即ち、昔の形容詞では、副詞の形で、其下にありがあり、其中間に言葉を挿んで来るもの、「||く······あり」の形が、完全な形容詞の形であつたのだ。たゞ其中間に挿入する言葉は複雑なものを入れて来る。かやうにして、形容詞句が出来るのだが、之が日本の形容詞の始まり、やがて、く・しくの形に、終止形のしが発達して来るのだ。
「||く······あり」の形は、夙くから用意せられてゐて、其中間に、言葉を幾つも挿んでくるので、そのうちに「||く」の部分だけが独立して副詞となり、ありを捨てゝ、中間に挿入する所に出来て来るのが、即ち形容詞である。だから、なり・たり・かりを形容詞の中へ入れようと言ふのにも、根拠だけはある訣だ。
譬へば、万葉集に用語例の多いなくにである。万葉集ではかなり人気のある語で、万葉集以前には、そんなに流行したとも思はれず、又其以後も、段々すたれて行つて了ふが、平安朝ではまだ少し残つて居る。之は否定の助動詞ぬにくをつけてなくと体言化させ、其に副詞語尾のにをつけたもので(譬へば、思はぬ→思はなく→思はなくに)、正確な使ひ方は、之も其形は残つてゐないが「思はなくにあり」であつたらう。其ありを省いて、皆なくにで済まして居る。切つて了ふと言ひ残しがある訣だから、反動的な詠歎的な気持が出て来る。だから、之をないのにと訳すのは邪道ではなくとも、まづい解釈で、ないことよと言ふのが本道である。既に万葉集でも、それがあつて、「おのがゆく道は行かずて、呼ばなくに、門に到りぬ······」(巻九)などは、「呼ばないのに」と訳すより仕方のない使ひ方だ。門に到りぬに続いてゐるのだから、「呼ばないことよ」と切れる筈のところではない。他にも同じやうな例があつて、とにかく、集中でもう変化を見せて居る。
かういふ変化は、をにも見られる。本来感動の助詞であるが、逆の場合の感動、即ち、のにといふべき所へ、ををつけて「······であるにも拘らず······」とはね返る様な意味の使ひ方をして居り、場合によると「ゆく人をば恋しく思ふ」といふ風な、客語の語尾にも使つて来て居るのがある。とにかく、言葉といふものは、切れてゐると思ふと、次の語に続いてゐて、感じでゆく、といふ習慣のあるものだ。なくにもありを省いてゐる言葉と訣つてゐるのに、「······であるのに、それにも拘らず」といふ意味に用ゐて来る。
ねといふ語も之と同じで、「人こそ知らねかわく間もなし」などは、この法としては、知らねで切れる筈であるのに、下の語に続いて居る。
かういふ現象は、長い間の習慣の結果である。万葉集のなくにの中に、「······なのに」などと訳さねばならない用法があるのは、意義の変化、聯想の変化であつて、少くとも此変化だけは知つておかねばならぬ。平安朝に入つては、もうありの下についてゐた事を忘れて了つて、悉くが、「······なのに」の使ひ方になつて了ふ。
かうした例は、まだ多くあるが、もう一つあげてみると、例へば我々が、ゆゝしなどと言つてゐる言葉は、本道はゆゝしだけで完全な意味があるのではない。少くとも奈良朝からあるが、これは宗教的な言葉で、言ふことも慎しまれるといふ気持である。全体に、副詞は抽象的で概念的なものが多いが、此言葉も非常に抽象的な言葉だから、具体的な意味を持つた語を中に入れなければ完全にはならないのだ。一旦入れたものを、使ひ慣れて来るうちには又、省いて、其語だけで、代表させるやうになるから、自然に独立して来る。「ぞつとする程······である」と言ふ意味の言葉が変化して、ゆゝしとだけ言へば「ぞつとする程に······」といふ意味になつてくる。其が更に、「ぞつとする程にいけない」意味をも分派してゆくのである。
この経路と事情とは、あはれの語に就いても言へると思ふ。あはれなどは、伝説の上では高天原以来の語であると信じて居るが、恐らくさうでもあるまい。一体、日本の言語だけから考へても、日本の民族の歴史は、短くはないと思はれる。この言語の長さが、果してこの国土に移り住んでからのものであるか、或はその以前の国土に居つた時からの続きであるかは訣らぬが、ともかくも、言語だけを見ても、紀元年数などよりは遥に古いといふ感じがする。其はともかくとして、あはれは果して始めから色々な内容を持つてゐたかどうか。恐らく当初は、感動の語として単純なものであつたのを、使はれてゐるうちに内容が多くなり、含蓄が豊富になつて来たものに違ひない。即ち其は「あはれ······にてあり」として、その中間に挿入した言葉が沢山あつたのだ。つまり、あはれに限定された感情の種類が幾つもあつて、其等があはれにだけ、印象的に残つて来て居るのだと思ふ。その為に、我々には、あはれの内容が幾通りにも考へられるのである。
かなしも同類で、「かなしく······あり」の形で使はれた時代があつて、その中間に囲まれた言葉が幾つもあつた。其等の意味が、かなしの一語の中に含められ、いろ/\の表情を潜めて来る訣である。尤、かなしだけには少しく問題はあるが、今まで挙げて来た例は、皆それで説明出来る。
一〇
平安朝では、副詞が非常に発達して居る。平安朝の言葉は、宮廷の言葉、即ち一種の内裏語で、非常に洗練されたものである。それにもう一つは、当代の文献が夙に好みを持たれて研究せられた。同時にその時代の調子の歌が多く行はれた。この二つの理由が、日本の文法を平安朝を基礎として出発せしめて来たのである。平安朝の言語の、美しく見える必然性はあるが、平安朝以外にも、それ/″\言語の美しい時代は勿論あつた訣である。奈良朝にも、美しい型の出て来てゐるものが見られる。ともかくも内裏語といふものが、前代以来だん/\完成に近づいて来た時であるから、その時代に日本語の、古くから特徴を持つてゐた副詞が発達して来るのは、訣ると思ふ。形容詞には、発達せぬ理由があつた。つまり、副詞とありとで形容詞を作つて居り、言はゞ大きな形容詞句を作つて居つたのだ。だから副詞が発達したのは、その句から独立してゆくのであるから、同時に形容詞が発達したのと同じことになる。その証明として、最後にもう一つだけ例を挙げて置く。
いとゞといふ語は非常に特徴のある語であるが||。
いとゞしく過ぎゆく方の恋しきに、うらやましくもかへる波かな(伊勢物語)
いとゞしく(同時にいとゞも)はひどくといふのではない。「一層ひどく」である。ところが、実際の用語例を見ると、いとゞしくもいとゞも、「さうではなくとも、かう/\だのに一層······」といふ意味に使つて居る。つまり、いとゞしくが、文章のたゞ一ヶ所に関係を結んでゐるだけでなく、一ヶ所以上に関係がある。年を経て、住みこし里をいでゝいなば、いとゞ深草野とやなりなん(伊勢物語)
の歌でみても、「さうでなくても草の深いところだのに······」といとゞは深草に関係し、同時に「いとゞ野とやなりなん」にも係つて居る。かういふ風に、副詞の中には、両頭を持つたものがある。源氏物語の中でも「もとより荒れたる宮のうち、いとゞ狐のすみかになりて······」(蓬生)初手から荒れてゐた常陸の宮のお邸が、その後、一層ひどく荒れたことを言ふところだ。即ち、「さうでなくてすらも荒れてゐたお宮のうちが、一層ひどく······」で、この場合のいとゞは、「荒れたる」に関係を持ち、同時に、文法的に言へばなり(すみかになり)に係つてゆく。いくらでも例はあげられるが、とにかく、かういふ風に、頭と尻尾に、二つひつかゝる。さうして、殆どの場合、其語のつかなければならぬ完全な文法的の位置には居ないのである。ずつと、文章の先の方へ出て行つて了ふので、其為に、どの語に係つてゐるか訣らぬ程、それだけ又効果が広く及ぶ訣でもある。文法式の文章の論理からは、外れよう/\として居るのだ。出来るだけ自分達の職分を伸ばしてゆかうとして、幾様にも感じをつけてゆくのである。決して、簡単に、この語はこゝに係るなどとは言へない。係れるだけ、拡がつて係つて居るからだ。つまり、出来るだけ副詞の職分を拡張し延長しようと努めて来たことが察せられる。後期王朝時代が過ぎて武家の時代になり、寺家の生活が入り、農民の生活が入つて来ると、言語の中心は、何時までも内裏語だけではぢつとしてゐない。それは文学語として固定して了ひ、一般の言葉は、又新しい中心を求めて、長い煩悶を続けてゆくのである。