(一)河内里(土中下。)右、由レ川為レ名。此里之田不レ敷レ草下二苗子一。所二以然一者、住吉大神上坐之時、食二於此村一。爾、従神等、人苅置草解散為レ坐。爾レ時草主大患訴二於大神一、判二云汝田苗者、必雖レ不レ敷レ草、如レ敷レ草生一。故、其村田于レ今不レ敷レ草作二苗代一。(播磨風土記)
(二)復有二兄磯城軍一。布二満於磐余邑一。(磯。此云レ志。)賊虜所レ拠、皆是要害之地。故道路絶塞無レ処レ可レ通。天皇悪之。是夜自祈而寝。夢有二天神訓一之曰、宜取二天香山社中土一(香山。此云二个遇夜摩一。)以造二天ノ平
八十枚一(平
。此云二毘羅个一。)并造一厳
一、而敬‐二祭天神地祇一。(厳
。此云二怡途背一。)亦為二厳咒詛 一。如レ此則虜自平伏矣。(厳咒詛。此云二怡途能伽辞離一。)天皇祇‐二承夢訓一、依以将レ行。時弟猾又奏曰、倭国磯城邑有二磯城八十梟帥一。又、高尾張邑(或本云、葛城邑。)有二赤銅八十梟帥一。此類皆欲下与二天皇一距戦上。臣窃為二天皇一憂之。宜今当取二天ノ香山ノ埴一、以造二天平
一、而祭二天社国社之神一、然後撃レ虜則易レ除也。天皇既以二夢辞一為二吉兆一。及レ聞二弟猾之言一。益喜二於懐一。乃使下椎根津彦著二弊衣服及蓑笠一、為中老父貌上。又使三弟猾被レ箕為二老嫗貌一、而勅之曰、宜汝二人到二天香山一、潜取二其巓土一。而可二来旋一矣。基業成否、当以レ汝為レ占。努力慎焉。是時、虜兵満レ路難二以往還一。時椎根津彦乃祈之曰、我皇当三能定二此国一者、行路自通。如不レ能者、賊必防禦。言訖径去。時群虜見二二人一。大咲之曰。大醜乎(大醜。此云二鞅奈瀰
勾一。)老父老嫗。則相与闢レ道使レ行。二人得レ至二其山一、取レ土来帰、於レ是天皇甚悦。乃以二此埴一、造二作八十平
・天手抉八十枚(手抉。此云二多衢餌離一。)厳
一、而陟二于丹生川上一。用祭二天神地祇一。則於二彼菟田川之朝原一、譬如二水沫一而有レ所二咒著 一也。(神武紀)








(三)故大国主神、坐二出雲之御大之御前一時、自二波穂一、乗二天之羅摩船一而。内二剥鵝皮一剥為二衣服一、有二帰来 神一。爾雖レ問二其名一、不レ荅。且雖レ問二所レ従之諸神一、皆白レ不レ知。爾多邇具久白言、(自レ多下四字以レ音)此者久延毘古必知之。即召二久延毘古一問時、荅二白、此者神産巣日神之御子、少名毘古那神一。(自レ毘下三字以レ音)故爾白三上於二神産巣日御祖命一者。荅下告此者実我子也。於二子之中一。自二我手俣一久岐斯子也。(自レ久下三字以レ音)故与二汝葦原色許男命一、為二兄弟一而、作中堅其国上。故自レ爾、大穴牟遅与二少名毘古那一二柱神、相並、作二堅此国一。然後者、其少名毘古那神者、度レ于二常世国一也。故顕二白其少名毘古那神一、所謂久延毘古者、於二今者一山田之曾富騰者也。此神者、足雖二不行一、尽二知天下之事一神也。於是大国主神愁而、告下吾独何能得二作此国一。孰神与吾能相中作此国上耶。是時有二光レ海、依来之神一。其神言、能二治我前一者、吾能共与相作成。若不レ然者、国難レ成。爾大国主神曰、然者、治奉之状奈何。荅三言吾者伊 二都岐奉 于倭之青垣東山上一。此者坐二御諸山上一神也。(神代記)
数限りなくある類型のほんの一例として、右の三種の文献を引いて、我々の国の文学の歴史の話の出発点を作つて見ようと思ふ。我々の住む国土に対して、他界が考へられ、其処の生活様式が、すべて、此
この三種の様式のまれびとの信仰は、多くの古典のみか、後代久しく、中には今に至るまで、民間伝承に其姿をとどめてゐる。古事記の例を見ると、霊物と威霊と二通りの形に、一つの
かうした常世・まれびと及び此土の生活の関聯した例は、数へきれない程だが、その合理化を経た結果、多くは、最重大なまれびとの職分に関する条件を言ひ落してゐるものが多い。異人の齎した詞章が、この民族の文学的発足点をつくつたことを、此から述べようと思ふ。即、常世ものゝ随一たる呪詞唱文に就いての物語である。
第一に明らかにして置かなければならないのは、異人は、果して異人であるか、と云ふ事である。言ふまでもなく、さうした信仰を持つ邑落生活の間に伝統せられた一種の儀礼執行者に過ぎない。この行動伝承を失つたものが、歴史化して行く一方、行動ばかりを伝へたものは、演劇・相撲・

この呪詞が、常世の国から将来せられ、此土のものとなつたと考へ変へられて行く様になつた。が、その威力の源は、常世にあるといふ記憶を失はなかつた証拠はある。のろふ(呪)が、もと宣言であり、同時に精霊に対する呪詛であつたのが、呪詛の一面に偏して行つたのと同じ動きを見せてゐる語に、とこふ(詛)なる語がある。その語根とこは、
(一)明神御宇日本 ノ天皇 詔旨ラマト、(謂下以二大事一宣中於蕃国使上之辞也。)云々咸聞。
明神ト御宇ス天皇ガ詔旨ラマト(謂下以二次事一宣中於蕃国使上之辞也。)云々咸聞。
明神ト御二(宇)大八洲 一天皇ガ詔旨ラマト、(謂用於朝庭大事之辞。即立二皇后皇太子一、及元日受二朝賀一之類也。)云々咸聞。(以上、公式令、詔書式)
明神ト御二(宇)
(二)八月甲子朔、受レ禅即レ位。庚辰詔曰、現御神(止)大八島国所知天皇大命 (良麻止)詔大命乎 ······(続紀、文武元年)
(三)二月甲午朔戊申天皇幸宮東門使蘇我右大臣詔曰明神御宇日本倭根子 天皇詔······(大化二年紀)
詔曰、明神ト大八洲所知倭根子天皇大命(良麻止)宣大命乎······(宝字元年七月紀)
(四)大日本根子彦国牽天皇、大日本根子彦太瓊天皇太子也。天皇以二大日本根子彦太瓊天皇三十六年春正月一立為二皇太子一······七十六年春二月、大日本根子彦太瓊天皇崩。(孝元紀)日本根子天津豊国成姫天皇、少名阿閇皇女······(元明紀)
日本根子高瑞浄足姫天皇、······日並知皇子尊之皇女也。(元正紀)
宮廷に於ける呪詞も此径路を踏んで発達してゐるので、令義解の解説||細字の部分(||は、必しも古い形を説明してはゐない。正確に言へば、此詔詞が最適切に用ゐられる場合は、即位式並びに元旦朝賀の時である。御代の初めの宣言を行はせられた即位式は、古くは大嘗祭と一つ儀礼である。一方、元旦は言ふまでもなく年の初めだ。即、御一代一度の行事が、一年一度の行事と一つだ、と考へられた事を示してゐる。而も、外蕃に対しての関心を持たない時代の詔詞は、大倭根子天皇なる御資格を以て、大儀礼を宣せられたのだ。其で「大倭根子······天皇」と謂つた御諡を持たれた御方々がおありになる訣だ。詔詞の始めに据ゑた御資格が、御生涯を掩ふ御称号となつたのである。日本根子高瑞浄足姫天皇、······日並知皇子尊之皇女也。(元正紀)
古代日本の生活は、必しもその一番大きな生活様式であるところの、宮廷の様式だけを論じてすますわけにはゆかぬ。各邑落に小さいながらも、同じ様式の生活があつたと見る事が出来る。断つて置かねばならないのは、言ふまでもなく邑落・種族によつては、全く違つた生活様式もあるのだけれども、だん/\上の生活を模倣して来る。此が、われ/\民族の古代生活に於ける、一つの生活原理なのだ。だから、宮廷の生活は、或点まで総ての貴族・邑落の君主と同様だと言ふことが出来る。其立ち場に立つて言うてゆけば、話が非常に簡単に進んでゆく。宮廷生活に依つて、民間の生活が見られると共に、邑落の生活から、逆に、宮廷の生活の古風を考へることが出来る。
邑落の生活、或は後々の貴族の生活で見ると、異人になつて来る者は、多く其家の主人であつた。其を接待する役は、其人に
其宮廷の祭に於いても、主上が人々の上に臨んで宣布せられる詞章は、
時天照大神誨二倭姫命一曰、是、神風伊勢国則、常世 之浪 ノ重浪帰国也 。傍国可怜国也 。欲レ居二是国一。故随二大神教一其祠立二於伊勢国一。因興二斎宮于五十鈴川上一。是謂二磯宮一。則天照大神始自レ天降之処也。(垂仁紀)
神と人間との間に立つて物を言ふ、後世の所謂中語に当る職分をしてゐた人たちには、尠くとも二通りの形のあつたことが考へられる。宮廷の尊貴な女性では、神と主上との間に、中介者のあつたことは述べて来た。と同時に、主上が神と人間との間に立つて、中語の御役目をなされた事も考へられる。其は、みこともちと云ふ語によつて知れる。一体みこともちは、古い文献には、既に地方官の高等な者、京官の下級の者などを示すことになつて、宰・大夫の字面を用ゐてゐるのが普通だ。が、其はみこともちの用語例が、低い方に固定した為で、元は上から下まで次第々々に中語の役目を勤めることが、官吏の職であつた為、総べてをみこともちと称した。其一番適切な証拠を示すものは、日本紀だ。尊・命と二様に書き分けてゐるが、みことと云ふ語は、みこともちの慣用から来た略語である。各階級に亘つて言うたからの区別である。だから、みことなる語は、神から天子及び其以下の貴族にまで附くことになつてゐるのだ。即、其最明らかなのは、
日の
日の御子が代り替りに此土に下られるのも、実は、食国政を行はれる為に過ぎないのであつた。
かう言ふ古代生活の組織を最後まで持ちこたへてゐたのは、ものゝふの階級である。而も、われ/\に考へられる、さうした様式の最後の生活者たる大伴家持の作つた物には、宮廷の御趣意を族人或は部下に伝へる積りで作つた長歌がある。その一例は次章に挙げる。繰り返して言ふと、天子がみこともちでいらせられる事の外に、宮廷の職員として、中臣・斎部が後世まで其俤を残したことは、既に述べたが、その外に更に、部曲々々に就いて、さうした意味のみこともちたる宰領を奉じてゐたと言ふことが出来る。顕に見えてゐる事実を挙げると、安曇ノ連の祖大浜ノ宿禰が、諸地方の

かうして、第一次の発言者を主上とするみこともちの用語例が、様々に岐れて来る。つまり、其伝来のみことに依つて、其家の社会的地位は動かないのだ。処が、此呪詞が世を逐うて次第に変化し、独立すると同時に、みこともちの呪詞としての意義は忘れて、其家独自に発生したものだ、と考へる様になる。其が更に、叙事詩化して、其種族の歴史・職業団体の歴史と云ふ風になつて来る。其一例として次の章を書いて見度い。
夏四月甲午朔。天皇幸二東大寺一。御二盧舎那仏像前殿一、北面対レ像。皇后太子並侍焉。群臣百寮及士庶分レ頭行‐二列殿後一。
遣二左大臣橘宿禰諸兄一白レ仏。三宝 乃奴止仕奉流天皇(羅我)命 ラマト盧舎那ノ像能大前仁奏賜(部止)奏久。此大倭ノ国者天地ノ開闢 ヨリ以来爾黄金波人国(用理)献言波有(登毛)斯地者無物止念(部流仁)聞看食国中能東方陸奥国守従五位上百済王敬福伊部内少田郡仁黄金出在奏弖献。此遠聞食驚伎悦備貴備念(久波)盧舎那仏乃慈賜比福 (波閇)賜物爾有止念閇受賜里恐理戴持、百官乃人等率天礼拝仕奉事遠挂畏 三宝乃大前爾恐美恐(美毛)奏賜(波久止)奏。」従三位中務卿石上朝臣乙麻呂宣。現神御宇倭根子天皇詔旨宣 大命親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。高天原爾天降坐之天皇御世乎始天中今爾至(麻弖爾)天皇御世御世天日嗣高御座爾坐弖治賜比恵賜来流食国天下乃業(止奈母)神奈我良母所念行(久止)宣大命衆聞食宣。加久治賜比恵賜来流天日嗣乃業止、今皇朕御世爾当弖坐者、天地乃心遠労弥重弥辱美恐美坐爾聞食食国乃東方陸奥国乃小田郡爾金出在止奏弖進(礼利)······中略······又大伴佐伯宿禰波常母云如久天皇朝守仕奉事顧(奈伎)人等爾阿礼波汝(多知乃)祖 (止母乃)元来久海行波美豆久屍。山行波草牟須屍。王乃幣(爾去曾)死米。能杼(爾波)不死止云来流人等(止奈母)聞召須。是以遠天皇御世始
、今朕御世爾当(
母)、内兵止心中 (古止波奈母)遣須。故是以子波祖乃心成(伊自)子(爾波)可在此心不失(自
)明浄心以弖仕奉(止自
奈母)男女并
一二 治賜夫······下略······(続日本紀、聖武紀)
賀二陸奥国出レ金詔書一哥一首并短歌
葦原能美豆保国乎 安麻久太利之良志売之家流 敝売呂伎能神乃美許等能、御代可佐禰、天乃日嗣等之良志久流、伎美能御代御代 之伎麻世流四方国爾波、山河乎比呂美、安都美等、多弖麻豆流御調宝波、可蘇倍衣受、都久之毛可禰都。之加礼騰母、吾大王能毛呂比登乎伊射奈比多麻比、善事乎波自米多麻比弖、久我禰可毛 多能之気久安良牟登 於母保之弖、之多奈夜麻須爾、鶏鳴 東国能美知能久乃小田在山爾、金有等麻宇之多麻敝礼、御心乎安吉良米多麻比、天地乃神安比宇豆
比、皇御祖乃御霊多須気弖、遠代爾可可里之許登乎。朕御代爾安良波之弖安礼婆、御食国波左可延牟物能等、可牟
我良於毛保之売之弖、毛能乃布能八十伴雄乎、麻都呂倍乃牟気乃麻爾麻爾、老人毛女童児毛、之我 願心太良比爾、撫賜治賜婆、許己乎之母安夜爾多敷刀美、宇礼之家久伊余与於母比弖、大伴能遠都神祖乃其名乎婆、大来目主登於比母知弖、都加倍之官。海行者美都久屍。山行者草牟須屍。大皇乃敝爾許曾死米。可弊里見波勢自等許等太弖、大夫乃伎欲吉彼名乎、伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾、
我佐敝流於夜能子等毛曾。大伴等佐伯氏者、人祖乃立流辞立 人子者祖名不絶、大君爾麻都呂布物能等 伊比都雅流許等能都可佐曾。梓弓手爾等里母知弖、劔大刀許之爾等里波伎、安佐麻毛利 由布能麻毛利爾大王能三門乃麻毛利 和礼乎於吉弖且比等波安良自等、伊夜多弖於毛比之麻左流。大皇乃御言能左吉乃聞者貴美
(反歌)大夫能、許己呂於毛保由。於保伎美能美許登能佐吉乎聞者多布刀美
大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波、之流久之米多底。比等能之流倍久
須売呂伎能御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知能久夜麻爾、金花佐久
天平感宝元年五月十二日。於二越中国守館一大伴宿禰家持作之。(万葉集、巻十八)
朝波開レ門夕波閉レ門弖、参入罷出人名乎問所知志、咎過在(乎波)······(御門祭。祝詞式)
ものゝふの用語例には、大和宮廷の溯れる限り古い時代から、近代までの所謂武家なるものを、完全に含んでゐると考へられてゐる。処が、ものゝふなる語がある時代に飛躍して、内容が変化をして了つてゐる事に、注意しないで居るのである。即、平安朝中期以後階級的に認められて来たものゝふは、実は語自身既に擬古的で、内容は変化して了つてゐる。其で、其以後の武家に関した知識を以てしては、最近い平安の宮廷武官の生活に対してすら、理会の出来ないところが多い。





賀二陸奥国出レ金詔書一哥一首并短歌
葦原能美豆保国乎 安麻久太利之良志売之家流 敝売呂伎能神乃美許等能、御代可佐禰、天乃日嗣等之良志久流、伎美能御代御代 之伎麻世流四方国爾波、山河乎比呂美、安都美等、多弖麻豆流御調宝波、可蘇倍衣受、都久之毛可禰都。之加礼騰母、吾大王能毛呂比登乎伊射奈比多麻比、善事乎波自米多麻比弖、久我禰可毛 多能之気久安良牟登 於母保之弖、之多奈夜麻須爾、鶏鳴 東国能美知能久乃小田在山爾、金有等麻宇之多麻敝礼、御心乎安吉良米多麻比、天地乃神安比宇豆



(反歌)大夫能、許己呂於毛保由。於保伎美能美許登能佐吉乎聞者多布刀美
大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波、之流久之米多底。比等能之流倍久
須売呂伎能御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知能久夜麻爾、金花佐久
天平感宝元年五月十二日。於二越中国守館一大伴宿禰家持作之。(万葉集、巻十八)
朝波開レ門夕波閉レ門弖、参入罷出人名乎問所知志、咎過在(乎波)······(御門祭。祝詞式)
虚心平気な、文献による研究は、平安朝の生活に思ひがけない古代が保存せられ、印象せられてゐる事に心付く筈である。家常茶飯として、特に伝へる必要を感じなかつた古代生活が、奈良朝以前の記録に漏れて来た理由は、考へ難くない。唯、其が、たま/\平安朝に引継がれて、固定して存してゐた部分の、特殊な取り扱ひを受けねばならぬ程、変つた様式と考へ出されるのだ。其が却つて、近代からは、其時代に始まつた為に、文献に見え出したと考へられてゐる様だ。だが、さうした考へこそ、すべての歴史観に立つ学問から、取り除けられねばならぬものだ。こゝには其一つとして、ものゝふ並びにかんだちめについて説かうと思ふ。
ものゝふは宮廷並びに公式の祭時に当つて、音楽・舞踊、即、古代の語で云へば、神遊びに属するものに深い関係を持つてゐる。原則として、宮廷武官・六衛府の官人其他が関係する訣である。而も、それらの中の指導者と言ふべきものを、ものゝふしと称へてゐる。同時に此語が、曲節など云ふ意義をもつてゐなかつた事は明らかだ。必、ものゝふを根幹としてゐる語だと云ふ見当に、誤りがあるまい。王朝中期以後次第に京都に勢力を得た武士は、もと大番として、或は貴族の随身として、召されたものなのである。この様に宮廷や
宮廷に於けるものゝふには、尚、後世王氏の配下となつた武家の源流と見るべきものがある。必しもものゝふの家々に附属するものでなく、個々別々に発生したものと見る事が出来る。即、神話を基礎とする伝統から離れた、別様のものゝふである。所謂
ものゝべのものが、霊魂であることには疑問はない。更にわれ/\が云はうとする物語||叙事詩||なる語が、やはり霊魂の感染であるらしい。祝詞や宣命に現れる
ものゝべの文学に関与してゐる側から云ふと、物部氏の複姓なる
虎にのり 古家 を越えて、青淵に鮫龍 とり来む 劔大刀もが「境部王詠数首物歌」(万葉)
かうした一種の創作も、平安朝まで残つて鎮魂歌||即、神楽歌の替へ歌||として用ゐられた、石ノ上ふるやをとこの大刀もがな。くみのを垂 でゝ、宮路 通はむ(拾遺)
の歌を参照すると、時代は前後してゐるに拘らず、一方には遥かに古い形が残り、他方には其非常に変化した姿を出すと云つた、民間伝承の特異性を示してゐる。其と共に、万葉の歌が拾遺の歌によつて、是に二嬪恒に歎きて曰く、悲しきかも、吾が兄の王、いづくに行きけむと。天皇、其歎きを聞きて、問ひて曰く、汝、何ぞ歎けると。対へて曰く、妾が兄・鷲住王、為人、強力軽捷なり。是によりて、独り八尋屋を馳せ越えて遊行 し、既に多日を経て面言することを得ず。故に歎くのみ······(履仲紀)
同時に、ふるの呪術から導かれたふるやなる語が、更に一方には、八尋屋といふ風に誇張せられてゐた事が察せられる。前に挙げた三つの例は、密接に続いてゐるのでないが、此等によつて見ても、鎮魂の歌や其章曲が、いろ/\に岐れて行く筋道は考へられる。而も物部の表面に現はれた一番大切な為事は、宮門を守ることであつた。其が推し拡げられて宮垣・宮苑を守ることになる。其に対して、新しく宮中に入つた舎人系統のものゝふは、||其組織から見れば、さう言へないだらうが||宮殿の上に侍した、と言ふ差別があるのだ。此が平安の宮廷其他の御所に、種々な名目の武官が居ることになつた理由だ。大体に於いて、此二種類のものが、衛府の人々になるのである。舎人のことは
ゆぎかくる伴緒ひろき おほともに、国栄えむと、月は照るらし(詠月。万葉集)
所謂大伴門(朱雀門)に月のさしてゐる有様を、万葉集巻五にある憶良の「令レ反二惑情一歌」(神亀五年作か)の如きも、聖武天皇の詔詞を飜訳したものなることは明らかだ。其と同じ系統で、更にそのなり立ちを明らかにしてゐるものは、大伴家持の「賀二陸奥国出レ金詔書一歌」である。即、同年の宣命と割り符を合せる様になつてゐる。恐らく此時代には、詔詞が発せられると、族長・国宰の人々は、かうした形式で、己が部下に伝達したものと思はれる。其と同時に、その氏・国の特殊な歴史と結びつけて表す風があつたのである。かう云ふ考へ方から、万葉の長歌を見てゆくと、其本来の意味のはつきりして来る物が、もつとあるかと思ふ。古いところで云つても、藤原奠都の時の役民歌・御井歌などは、呪詞の飜訳と言ふことの出来るものである。或は既に、呪詞なくして、長歌ばかりがその用に製作されてゐたかも知れない。殊に「藤原ノ御井ノ歌」に至つては、宮地讃美の歌ではあるが、根本に於いて東西南北の門讃美の形をとつてゐる点に、注意を要する。
ものゝふの普通の用語例には入つて来ない部族に於いても、場合によつて、ものゝふの職に当ることがあつたらしい。猿女氏の男が宮廷の守衛に当つたりする場合がそれである。
所謂斎部祝詞の中、御門祭の祝詞の如きは、かなり後世風な発想法を交じへてゐるが、此から推して窺へるのは、必、古く、物部によつて同じ系統の呪詞が用ゐられてゐた事だ。この稍古式を残してゐる詞に於いてすら、「相ひ口
采女に就いては、巫女の生活の条にも詳しく述べることは出来まいから、簡単に要点を云ふ。職分及び其由来不明な
おほみやのちひさことねり。玉ならば、昼は手にすゑ、夜は纏 きねむ(神楽歌譜)
舎人に対して、やはり早くから侏儒が召されてゐる。必しも世界宮廷共通の弄臣としての意味許りでなく、尚幾分の特殊性が見られる様だ。其が後に先進国の宮廷の風に合理化したに過ぎないのだらう。所謂小舎人、或は小舎人童と称せられる者の古い形がそれだ。普通侏儒をひきひと或はひきうどと云ふ様だが、此は宮廷に仕へた場合の称号なのだ。小舎人に当るものが、高低二種類に岐れて、其貴族の子弟の殊に、臨時に召されることを童殿上と云つた。小さ子の侏儒であることを早く忘れて、伝承の形の変化したのが、小子部ノ連

先の神楽歌は、其以前の生活を印象してゐる他に、別様の意義に考へられてゐたものだらう。恐らく五節・淵酔の様な場合の即興歌として歌はれたものと思はれる。此殿上童或は小舎人の起原は、もと家屋の精霊として考へられてゐたのだ。殿舎を祓へ、祝福する場合に、最重要な位置を占めるものと思はれる。此信仰の古いものは、
侏儒の起原を説くものらしい少彦名ノ命に就いても、其常世の国に対する事と共に説かねばならぬ部分が多い。
天皇賜二志斐嫗一御歌一首
不聴跡雖云、強流志斐能我強語 比者不聴而、朕恋爾家里
志斐嫗奉レ和歌一首
不聴雖謂、話礼話礼常詔許曾、志斐伊波奏。強話登言(万葉集)
実の処、私の古い考へでは、日本文学の源を、専、巫女の託宣に置いてゐた。又、其程、重要な位置を信仰上に占めてゐたのだ。けれども、託宣は遅れて発達してゐるもので、文学の発生時代に置く事は出来ない。巫女の職分であつた事の、男覡の為事となり代つて行つたのもあるだらう。或は、巫女自身が神の妻であるとする信仰から、神と巫女とを混同した多くの例があるから、巫女の仕へる神の日本に於いては、巫女の勢力の盛んであつた時代が古く且つ長い。宮廷・貴族・国主の家々には、階級的に多数の巫女がゐる。国主・貴族の最上級の巫女が、宮廷に召されて、更に其上に、幾段かの巫女を戴いて、宮廷の神に仕へる。宮廷に於いては、原則として、王氏の巫女と、他氏の巫女とが対立してゐた。後次第に、他氏の巫女が栄えて、王氏の方は衰へて来る。それは、神なる人の主上に仕へる意味に於いて、人間生活の上にも勢力を得たので、宮廷の神に、専仕へるのが、王氏の巫女の為事であつた。とりわけ、当
王氏の高級巫女に就いては、種々な伝承はあるが、其中斎宮に関するものは、倭媛ノ皇女が、宮地を覓めて歩かれた物語が、同時に歴代斎宮の群行の形式を規定してゐる。かうした色々の過去の事実と信ぜられたものが、高級巫女の掟となつた。さうした掟を感得せしめ、聖なる人格を作らせる者があつたのである。其最著しく職業意識を生じたものが、一つの部曲を形づくつた。其存在した処もあり、又其様式を完成せずに了つた処もあるらしいが、所謂語部の実際存在した事は疑はれぬ。巫女と男覡の職分が、交錯してゐる場合が多いのだから、処によれば、男を語部の主体と認めた処もある様だが、概して女性が語部の本職を保ち、戸主でもあつた。此が宮廷式なのである。
呪詞を伝承して暗記させてゐる間に、其主君の皇女・皇子たちに呪詞の含むところの
巫女・男覡に限らず、目上の人を教育する力は、信仰上ないものと考へ、
高級巫女であると同時に、姫神となる資格を
語部の語原に関聯して、かたるとうたふとの区別を唯一口申したい。うたふは抒情詩、かたるは叙事詩を諷誦することであつた。かたるの再活用かたらふの用語例が、その暗示を与へて居ると思ふ。かたらふは言語によつて、感染させて、同一の感情を抱かせると云ふことである。で、私はかたる・かたりが、古代人の信仰に於いて、魂の風化を意味してゐるのだと思ふ。
簡単にまう一度、前に述べた事をくり返すが、言霊は、一語々々に精霊が潜んでゐることだとする人が多い。だが、此は誤解だ。ことばとことのはとが対立してゐる如く、やはり、こととことばとでは違ふ。ことと云ふことは、一つのある連続した唱へ言・呪詞並びに呪詞系統の叙事詩と云ふことだ。かたると対照的になつてゐる方面のあるとなふといふ呪詞に関した用語も、実は
尠くとも日本人と一つ系統から分岐した沖縄人は、国王に物を教へなかつた。此が、日本と沖縄と運命の岐れて来た理由だ。従つて、沖縄には、優れて立派な国王も居り、また暗愚な国王も出た訣だ。此は、日本紀の記述などにも、怖しい暗示がある。日本では、主上に教育申し上げる事は出来ないが、主上は詞を覚え、或は、聴かなければならなかつた。其によつて教育されると同じく、主上に他の魂、教育的なまなあ(外来魂)が憑いた。飛鳥朝の末頃から、儒学による帝王・王氏の教育は始まつたと言うてよい。其国語の詞章について行はれたのは、平安朝にはじまると言つてよい。此二つの教育法が、源ノ順の倭名抄、源ノ為憲の
一番気をひく事は、難波津・安積山の歌などが、手習ひに使はれた上に、現に曾根好忠などの集には、其が更に展開してゐる。一体手習ひといふと、左右の手を考へるが、此「て」には、一種の意味があるのだらう。われ/\は書法の手を考へるが、音楽・舞踊の方でも手と云ふ語を盛んに用ゐてゐる。つまり、一種の魂に関係のある語で、魂が身に寓ると、其によつて身体の一部分の働き出すことが、「て」であり、其現れる部分を手と考へたらしい。さうして、其を完成する為に、習熟することが、ならふなのだ。手を習ふと同時に、読むのを聴き、自分も読む。此三方面から自分の魂を風化する事に勉めた。宮廷の女房たちは、采女の中実際の神事から遠のいて、神人に入らせられる主上並びに其外の方々の後見をした者が多いのだ。此等の人々の為事が、平安朝の文学を育てる原動力となつたのだ。所謂王氏・貴族の人として、知らなければならない事柄を教へるところに目的がある。これを昔風に云へば、さう云ふ知識を持つ事によつて、其人の位置を保ち、実力を発揮すると考へてゐたのだ。だから、平安朝になつても、国々に伝つてゐた
一体、呪詞の数は元極めて少なかつたと云ふ事は述べたが、世の進むにつれ、特殊な事情が恒例の儀式の上にも起つて来るし、まして臨時には、いろんな事が起つて来る。かうして、呪詞が次第に増して行く。其を主上が御出しになる場合に、みこともつ役は、第一義としては女であつた。後には様式変化して、文字で筆記する事になつて来、更に主上の旨を受けて、文章までも女房が作る様になつて来る。かうなつて来る径路には、常におなじ詞のくり返しをしてゐた時代の連続を考へねばならない。唯、外に対しての大きなみことを持つ者は、男でなければならなかつたのだ。だが、其外に神代以来の儀式だと云ふ考へから、どうしても主上御躬ら仰せられねばならぬ詞がある。此方は、簡単になつて来る。此点から見ると、此章の初めに援用した女帝と志斐嫗とのかけあひの歌も、さうした女の、幼少から御成人後までおつきしてゐた事を示す様である。語部自身の詞章のうちに、呪詞も歌も諺も籠つてゐた事が考へられる。譬へば、出雲風土記にある語ノ臣猪麻呂が、自分の娘を鰐に獲られた事に就いて、天神に祈つた事件を見れば、疑ひもなく、此は、出雲の語ノ臣の間に伝つてゐた一種の呪詞が、段々叙事詩化して来る径路に出来たものだ、と見ることが出来る。唯、言ひ添へて置かねばならぬ事は、宮廷の組織は、旧日本の多くの邑落の儀礼と大分特殊な処がある。宮廷の習俗を以て、旧日本全体と考へるといふのは、無理である。一例を挙げれば、宮廷以外では、才の男は、多く人形であるのに、宮廷では、人間を用ゐてゐる。と同時に、語部の如きも、前に述べた様に女性を主とするのは、宮廷が最甚しいものと見えるのである。
語部の伝へてゐた呪詞系統の文学は、主上其他に段々伝へられて来る。其間に次第に歴史的内容を持つて来、過去の事実だと云ふ反省を交へて来る。すると其処に、時間的の錯誤が起つて来る。過去の事だと知り乍ら、現在の事だと感じる矛盾が、日本文学に沢山ある。其ほど時代錯誤を平然と認容してゐるのが、日本文学だ。それと同時に、日本の文学の特徴||誇るべき特徴ではないが||歴史的に意義あるものは、地理錯誤である。此亦、盛んに行はれてゐる。宮廷で唱へられた呪詞を、みこともちが地方へみこともつて行つても、同じ効果が生ずる故に、其土地が初めて宣下せられた地と感じられる。さうした錯誤の第一義的なのは、日の御子のみこともたれた詞章に依つて、天上・地上一つと信仰した所から起る。地上の事物に、
扨、古代に溯るほど、主上は呪詞其他の伝承古辞を暗誦して居なければならなかつた。主上が神人であると共に、神である為だ。此主上の仰せられること並びに、其をみこともつ伝宣者の詞の長かつたのが、逆になつて、其を受ける側、即、奏上者或は服従者の詞の方が延長せられて来る。其理由は、服従者の詞の中に、主上の詞章を含んで繰り返す形になるからだ。其と同時に、服従者自身の祖先、更に近代的に言ひ換へれば、自分達の職業の祖先が、宮廷に奉仕し始めた歴史を長々と語る様になるのである。此が、家々に次第に発達して来る。さうして、儀礼の度毎に、特に輪番で其を繰り返すことになる。此点から見ても、呪詞の歴史が考へられる。主上の宣下せられる詞よりは、臣下が奏上する詞の方が、量に於いて有勢になつて来る。我々の知る事の出来る限りに於いて、延喜式祝詞などは、形は宣下式をもつてゐるものがあるにも拘らず、全体として奏上式な要素を含んでゐるのは、此結果だ。尚此等の事に就いては、最後の章に述べることにするが、此処では巫女の事に就いて簡単に結末をつけて置く。
巫女は、謂はゞみこともちであるよりも、先に、みことを絶さない役をしてゐた者だ、と言ふことが出来る。つまり、宮廷以外の邑落に於いては、男の場合に
故殿のおほん服の頃、六月三十日の御祓へといふ事に、いでさせ給ふべきを、職 の御曹司は、方 あしとて、官のつかさの朝所 に渡らせ給へり。······日くれて、暗まぎれにぞ、すごしたる人々皆立ちまじりて、右近の陣へ物見に出で来て、たはぶれさわぎ笑ふもあめりしを、かうはせぬことなり。上達部のつき(着座)給ひしなどに、女房どものぼり、じやう官などのゐる障子を皆うちとほしそこなひたりなど、苦しがるもあれど、きゝもいれず(枕草子)
前に述べた通り、上達部なる語も亦、平安朝に残留してゐたもので、これを以て、奈良朝以前の様子を窺ふことが出来る語なのだ。「かむだち」は言ふまでもなく、神館で、字に書けば、※[#「广+寺」、43-8]が当つてゐる。普通の用例を以て見れば、※[#「广+寺」、43-9]は祭りに与る人の籠る処で、民間で云へば、此「おみ」たちの家に伝はる古伝の文学がある。其が即、
時にさうした寿詞が、主上の系譜を表す事があつたらしい。つまり、特殊な関係のある臣の家柄と、王氏との系図の交錯を述べた一種の語りごとである。即、此が呪詞類の中の一つの分科をなすものだ。勿論、宮廷にも、かうした口頭伝承の系図のあつた事は信ぜられるが、記・紀・続紀から推測すると、臣下の系譜が宮廷の系譜を整頓する基礎になつた傾きがある様に思はれる。譬へば、出雲人の系譜、又御大葬の際に称へた臣たちの
尚一つ閑却出来ないのは、此臣たちは同時に部曲の頭で、伴部の
(一)······伊波比 乃返事 能神賀 ノ吉詞 ······次 のまゝに、供斎 つかへまつりて······天つつぎての神賀 ノ吉詞 まをしたまはくとまをす。(出雲国造神賀詞)
(二)······夕日より朝日照るまで、天都詔刀之太詔刀言 をもちて宣 れ。······皇神たちも、千秋五百秋の相嘗に、相うづのひまつり、かきはに、ときはに、斎奉利
······(中臣寿詞)

(三)皇御孫の命の天の御翳・日の御翳とつくりつかへまつれる瑞 のみあらかを、汝屋船 ノ命に天津奇護言 (古語云、久須志伊波比許登)をもちて、言寿 鎮 め申さく······(大殿祭祝詞)
祝詞の語原は、半ば知れて、半ば訣らないでゐる。其為に、とに就いては、種々の説がある。けれども、すべて近代の言語情調によつた合理解に過ぎない。所謂「天つ祝詞の太のりと扨、かうした祝詞が、次第に其一部を唱へることになり、其が、全体を唱へるのと同一の効果を持つもの、と見做され出して来た。中臣祓の、長くも短くも用ゐられる様なものだ。其は寿詞に於いては諺を生じ、叙事詩に於いては歌を生じて来たのと、同じ理由である。
(一)俗諺曰、筑波峰之会ニ、不レ得二娉財一者、児女不レ為矣。(常陸風土記)
(二)風俗諺曰、筑波岳ニ黒雲
斎部祝詞並びに、稀に、中臣祝詞に於いて、天つ祝詞と称するものは、祝詞を口誦する間に、挿入せられて来たものである。其部分にかゝる時には、一種の呪術を行ふことになつてゐたものらしい。だから、非常に神秘な結果を齎す詞として、人に洩らすことが禁じられて居た。本道の意味に於いては、天つ祝詞ではなく、所謂諺と称すべきものであらうと思ふ。其が後には、祝詞を称へなくても、其部分を口誦する事によつて、祝詞全体の効果を持ち来すもの、と考へられる様になつた。此諺が、次第に意味の全く不明な呪術的なものと、社会知識的なものとに岐れて来る。そして、後者は、教訓的な意義を持つて来るが、此は必しも新しい事ではない。而も、さうした諺自身が既に、叙事詩の影響を受けてゐる。言ひ換へれば、其発生した呪詞時代を過ぎて、叙事詩時代に入つても、尚新しく出来るものがあつて、叙事詩の影響を受けたからだと云つてよい程、歴史的の内容を伴うてゐる。或は、更に古く脱落してゐたものに、叙事詩的な背景を附加して来た部分もある様だ。最異風な諺を挙げて見れば、地名・人名に絡んだ枕詞の古形をなすものが其で、昔は
諺の様式は、大体に偶数句を以て出来たもので、此から言はうとする歌と、大体に違ふ点は、問答唱和風でないことである。さうして、歌は主として、奇数句に傾くことだ。
此小さな論文を以て、私の師匠柳田国男先生の同時に、同じ叢刊の中に発表せられる論文に接続させようと試みたのであるが、其結び玉になるべき歌の事をお話する前に、もう余白が無くなつた。其で、此処には極めて概念的に書き添へておくことに止めたい。
諺の場合と同じく、歌は、呪詞から変化した叙事詩の、最緊密な部分と目せられる部分で、恐らく、古い叙事詩に含まれて居なかつたものが、次第に挿入せられて来たのだらうと思ふ。伝承の都合からして、問答唱和の形を残して居らないものも多いが、実は、さうした形を採らねばならなかつたのである。併し、根本的には、諺の形式の叙事詩の中で発達したものが、歌である。而もさうした要素は、既に呪詞の中にも見えてゐた。所謂天つ祝詞の部分に於いて、発唱者と被唱者との間に問答が行はれた事は、祝詞に於ける所謂、返し祝詞或は
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日本文学は、少なくとも私の申してゐる時代には、文学ではなかつた。例外なく宗教上の儀礼であつた。異人の詞を伝承すると云ふ意義に於いて、或期間持続せられ、其間に固定し脱落し、変化改造が加つて来た。其上に、歴史意識が加つて、叙事詩が出来、其断片化したものが諺及び歌になり、更に歌の方面に、非常な発達を遂げることになつた。結局最初の文学は、律文であつた。けれども今日の感覚を通して感じる時は、最初は、寧、散文に近いと思はれる呪詞があつた。其が、叙事詩になつて、純粋な律文と称すべきものになつた。呪詞の中に祝詞・寿詞・鎮護詞の区別があり、更に祝詞に対しては、原形に近い宣命が、対立する様になつた。今謂ふ所の祝詞よりは、寧、祝詞らしい要素は、宣命に多く含まれてゐる。
歌に於いては、掛け合ひの形から出発して小長歌になり、其は二部に岐れるところの小長歌の形から、全然変化を重ねて行く。我々が、最初の観察の対象に置くのに便宜な形は、片哥及び旋頭歌であるが、此が
われ/\の文学は、此国土以前からあつたのだから、原始と云ふ語を用ゐるのは、絶対に避けなければならない。長歌が次第に長くなり、これに創作意識が加つて来ると共に、一方声楽上の欲求から、長歌の中に短歌が胚胎せられて来る。其短歌成立の動機は、同時に片哥の中にも、催されてゐた事だ。此最新しく、而も近代に至るまで、わが民族の生活に最叶つてゐる様に見えた短歌が、明らかに形式を意識せられて来たのは、飛鳥末から、藤原へかけてのことらしい。
私の論文に於いて、いま少し力を入れたかつた部分は、文学と、其を伝承し、製作する階級との問題、文学意識並びに鑑賞力の啓発せられて行く過程であつた。だが、今は其だけのゆとりがないのです。