一「こゝろ」 その一
およそ歌を見、歌を作る上において、必らず心得て置かねばならぬ、四つの段階的観察点がある。
此観察点は、元来作者の側にあるものではなくて、読者としての立ち場から出るものであるが、作者といへども、其作物を、完全なるものたらしめむ為には、出来るだけ自分の作物を客観の位置において、推敲を重ねなければならぬ。即、此場合においては、作者即批評家といふ態度に出なければならぬのである。されば、読者、又は批評家の立ち場において生じた批判の範疇は、作者が其作物を推敲する上においても、当然採用せられねばならぬわけで、前に述べた段階的観察点といふのは、即、此批判の範疇に外ならぬのである。
まづ美的情緒が動いて、ある言語形式を捉へると、此処にはじめて、こゝろが成り立つのである。こゝろは、作者の方においては之を思想といひ、読者の側からは之を、ある形式を通して受納する意味、といふ。繰り返していふと、言語形式を俟つて、ある限界が、情緒の内容を為して居る思想(未だ明に思想といふことの出来ない、甚だ渾沌たる状態にあるもの)の上につけられて、内容が固定して来るので、明確なこゝろは、此処に到つて現はれるのである。
形式の成ると共に、内容が定まる。此処にはじめて、ことばと、こゝろとの対立を見るのである。こゝろすぐれたりだの、おとりたるこゝろがまへだのといふのである。如何なる情緒も、取り扱ひ方、即、形式一つで、すぐれた内容とも、おとつた内容ともあらはれる。情緒と言語形式とは、互に因果関係を交錯することはあるけれども、内容は常に、形式の後に生ずるといふことは納得せられねばならぬ。世の中の歌よみが、こゝろを本とし、ことばを末だとして、
之に反して、ある情緒を盛るに適切な形式、限界を与へなかつた時は、詩歌ではなくて、単に叙述文に過ぎないものとなり
兎も角も、此情緒を発表する趣向は、作物の根柢となるものであるから、適切なる言語形式を捉へることは勿論、極めて厳密な美的考察を要する。
事物を定義することに無頓着であつた古人は、伝習的に用ゐ来つた歌学上の専用語を、自由に用ゐて居る為に、たゞこゝろといふ一語を以て、趣向にも、亦内容にも通じて使つて居る。下に説かうとする数々の語も、皆かういふ風に、使用者が読者の直覚を予期してかゝつて居たのであるから、今日之を説くには、非常な困難を感ずる次第であるが、みな之は、言語の意味の内包が明かでなかつた為に生じた結果で、歴史的に発展の過程を考へて見れば、歌合行はれ、歌式出で、歌話が物せられ、師範家が出来、批評家が現はれた中に、雑多な用法をせられ乍ら、其処に、ある一道の集合的概念を抽き出す事が出来ると思ふ。此意味における専用語の意味を説明すると共に、発展の路において、経て来た異なる意味の用ゐ方をも、示したい
こゝろといふ語は、内容、即思想、及趣向の意に用ゐられて居る。
ここに一言断つて置かねばならぬのは、趣向といふものは、一体が、どういふ風に情緒を発表すれば、言語形式を通して、完全なる内容を形づくることが出来るかといふ、努力を意味するものであるから、趣向というても、思想というても、全然異なる事柄ではないので、たゞ原因結果の関係があるものといふ外に、明瞭な区別は出来ない。強ひていふと、趣向は動的で、まだ全く固定したといふことの出来ないもの、思想は静的で、結果より帰納せられた、固定したもの、言ひ換へれば、ことばと趣向とよりなつて、読者をして、形式的に、実質的に、並に想像の結合によつて、作者が最初に起したものに近い美的情緒を、再現せしむる
天徳四年内裡歌合の、八番右の兼盛の、
ひとへづゝ八重山吹はひらけなむほどへて匂ふはなとたのまむ
とある歌、判の詞に、「右歌、八重山吹のひとへづゝひらけむは、ひとへなる山吹にてこそはあらめ。心はあるに似たれども、八重咲かずば、本意なくやあらむ」とあるもの、応徳三年の若狭守通宗朝臣女子達歌合に、
郭公あかずもあるかな玉くしげ二上山の夜はのひとこゑ
の判詞に、「ふたかみ山、あかずなどいふ心、いとをかし」云々とあるもの、建保五年の歌合の、二十三番の、
須磨の浦に秋をとゞめぬ関守ものこる霜夜の月は見るらむ
の歌に、「秋をとゞめぬ関守、残る霜夜の月をみる心宜し」とて、為スレ勝トと定家が追記したるもの、景樹の、六十四番歌結、三十四番左の、「いかにせむ萩にはしかと頼めてし」云々の歌の判詞に、「左、萩にはしかとゝいふに、鹿をこめて、さてその萩だにもすぎむとぞするといはれたる、心
思想の意味に用ゐたのには、古今集の序、「在原業平は、そのこゝろあまりて、ことば足らず」云々とあるもの、
千五百番歌合、百三十六番右、定家の歌の、
まちわびぬ心づくしの春霞花のいざよふ山の端の空
を評して、「右、心こもりて、愚意難シレ及ビ」云々と、見えて居るもの、六十四番歌結に、三番子日ノ友の右、
たちまじり小松ひく日はわれならぬ人のちとせもいのられにけり
とあるのゝ判詞に、「右は、その意したゝかにいひすゑられて、あまりこちたきまでにぞ聞きなされ侍る」云々、とある類が、二「こゝろ」 その二
思想と内容との関係については、前章に於て聊か述べておいたが、今尠しく説いておく必要がある。
世間には、往々思想と内容とを混同して居るものがある。この詩歌の内容を、即思想とする辺から多くの
これらの人の頭には、思想と内容との関係区別はおろか、形式と内容との交渉分離に就いてさへも、明かな考はなからうと思はれる。
内容は形式を俟つて生ずる。形式は内容に対しての名である。尠くとも、内容といふものを形式にさきだつて存するやうに考へ、内容を拒外したる形式があるやうに思ふのは誤謬である。この点に於て、思想と内容との区別が
思想がある形式によつて制限を加へられたものが内容なので、これを他の方面でいへば、結果である。これに対して、思想は動機である。或はこれを、第一次思想、第二次思想といふ名称を与へて、区別をつくることが出来る。第二次思想は、即、ある形式を通じて、ある限界を加へられた思想をいふのである。
前にもいうた通り、第一次思想といふものは甚だ渾沌たるもので、これを客観的にいへば、情緒の内容、主観的に見れば、情緒と並行して進む思想である。であるから、多くの場合に於て、第一次思想を予め工夫しておいて、然る後に、ある形式を捉へようとすると、情緒の之に並行しないで、第二次思想との間に、非常な間隔のあるものが出来上る。客観を主とする俳句の如きに於ては、それもよいが、客観よりは寧ろ主観を生命として居る和歌に於ては、不成功に終つたものといはなければならぬ。
今一度言葉をかへていふ時は、思想は情緒のある傾向を示すものである。情緒と思想との関係は、斯の如く、非常に密接なものである。これが形式を呼ぶ場合に、趣向といふ立ち場が出来るが、和歌に於ては、屡この階梯は顧られぬことがある。和歌のみならず、主観を生命とする詩は、この階梯を形式成立後に延ばしておくことのあるのは、
しかしながら、第一次思想そのものをさながら表はさうといふことは、到底行はるべきことでない。この場合には、「言語形式」によつては、殆ど
単に、作者の情調の傾向を読者に与へればよい。だから、この派の作者は、音楽的表示法を重じねばならぬと思ふ。音楽的表示法というたのは、音響を聴いて、その如何なる事件、如何なる思想を述べたといふことを知らないで居て、それでまづ聴者をして、音覚によつて惹起する所のある感情を感受せしむる方法である。この場合においては、この感情即内容である。音を利用して読者の感情を促がすといふことの可否は別に論ずる。この所にては、第一次思想を
内容と思想との関係区別は、前章以来、屡説いたのであるから、もはや明かになつたことゝ思ふが、形式と内容とに就いては、今少しいはなければならぬ。形式内容の前後軽重をいふのは、甚考へざるものである。ある形式とは、ある内容の外囲である。ある内容とは、ある形式の内包である。ある内包をとり去られた外囲は、決して形式といふことは出来ない。また実際に於ても、さういふものゝあるべき道理はない。唯、便宜上与へた名称なので、もと/\独立して存在すべき筈のものではない。しかしながら、それと共に、理論上、明かに区別は立てゝおかねばならぬ。これと同様に、ある外囲を棄てた内包は、内容と名づくることは出来ぬ。しかしながら、この場合において、いささか、いうておかねばならぬのは、作者側に「情調傾向」といふ主観的事実あるが如く、内包の予定なくしてあらはれた形式の後の内容といふものも、成り立つべき余地がある。これは、形式の観念が明かになれば何の
前章にもいうた如く、和歌は一面において形式美に偏した処があるから、この点はよく考へておく必要がある。主観的に内容の予定なく、あるひはそれが乏しくとも、客観的にはその形式に対して、当然適当な内容が来るべきものである。畢竟するに、動機論、結果論二つながら、理論上にも実際上にも欠陥があるのだから、理想とする所は矢張り、何れにも陥らない内容と形式との調和にある。しかしながら、今はそれを論ずる場合ではない。が、昔からあまりにこの思想を重んじすぎて居る。しかも、その根柢においては、詩歌の思想と内容との意義の混同が、大なる原因をなして居るに相違ない。自然主義者の所謂「
この前提に立つて、自分は新に形体的内容、実質的内容といふ新名辞の説明を試みたい。
実質的内容とは、作者の予定より来る内容で、第一次思想から来るものであるから、これを直接内容とも名づけることが出来よう。次に、形体的内容とは、内容の予定なくして聯ねられたる言語が、偶然にある内容を有する形式となつた場合のその内容をいふので、畢竟実質的内容とは、思想より一直線に来る第二次思想、形体的内容とは、思想を発表する径路において、言語形式の為に、ある他の内容を形つくるもの、いはゞ副産物とも称すべきものである。
この副産物の出来る度合にも色々ある。或はこの副産物と主産物と全く融合して居ることがある。(
唯副産物の量を少くして、殆ど皆無と見ゆるに至るまでにするのが従来の作家の理想ではあるが、又一方に、この副産物を
形体的内容と、実質的内容との結合する点において、屡矛盾がある。是れ欠陥であると共に、亦これを利用して、好結果を収めることがある。落語とか笑府とかは、畢竟思想より直通して居る実質的内容と、言語形式によつて生ずる所の形体的内容とを並行せしめて、ある滑稽な内容を
川柳に於ては、最も著しくこの傾向を認めることが出来る。たとへば、
居候醋のこんにやくをいつも喰ひ
といふ句において、単に実質的内容なる茲に集合概念というたのは、厳格な意味に於て用ゐたのではなく、唯二つの内容が集合して一種特別な意味をなす点を捉へていうたのみで、勿論この集合概念の上には意味ある予定ある思想が働いて居るので、無意味の中から、意味を取り出すといふのではない。
実質的内容は一つではあるが、形体的内容は、二つ以上に実質的内容は、根本を作者の主観において居るが、形体的内容は、読者の客観を基礎として居る。
一体主観といふことは、背景的事実、認識すべからざる現象で、実際にはあらはれて来ない。すべて認識の上のことは、元来、皆主観から出るのであるが、これをいひあらはす場合には必ず客観的になつて来る。唯便宜上その程度によつて、主観とか、客観とか分つのであるが、もと/\皆主観に発した所の客観なのである。実質的内容は、作者の主観から発して客観的段階を経て、読者の客観を俟つて、その主観界に復活するものであるが、これにも度合があつて、読者に主観的分子を多く感ぜしむるものが主観詩で、客観的分子を多く感ぜしむるものが客観詩である。形体的内容についていふと、もと/\この表現は作者本来の目的でないので、元来は主観的でないのであるが、そのあらはす径路に於て主観的な表現法をもとることがある。
繰りかへしていふと、思想は作者の主観に根柢をおいて、之を客観的に観察したもので、これが更に客観的表現法によつて、ある形式を採つて読者の客観界に入つて、はじめて内容といふ名を得る。これがまた個々の読者の主観界に空想的仮象として顕はれる。
形体的内容は、読者の観照によつて、写象としてあらはれるが、今一歩其知性的分子を脱して感性に入ると、感覚的仮象となるのであるが、此感覚的仮象が観念界において、実質的内容から来た所の空想的仮象と結び附く処に、種々の関係を生ずる。勿論此場合、右の両者の統一融合せられるといふのが理想であるが、常に之を望むことは出来ない。しかし此理想地に至らなければ、観念的感情は起らない。感覚的仮象によつて感覚的感情が惹起せられたばかりでは、文学の真の目的が達せられたとはいはれぬ。しかも、尚此上に大なる要件がある。其は、観念の聯合といふことである。これは、専ら読者側にあることではあるが、作者は予め適当な観念の聯合をなさしむる為、恰好な形式内容を読者にあたへねばならぬことはいふまでもない。
形体的内容は、読者側において生ずるものなることは勿論であるが、作者の予期はおなじく度外視してならぬ。
読者の観照によつてあらはれる写象は、三つの異なる立ち場を
一、主観的表現
二、客観的表現
三、絶対的表現
此三つの場合について、簡単な説明を試みよう。二、客観的表現
三、絶対的表現
(一)主観的表現といふのは、写象をとほしてある主観が認めらるゝもの。
君しのぶ草にやつるるふる里は松虫の音ぞかなしかりける(古今)
わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり(同)
前の歌は、忍草のしのぶといふ語を契機として、君しのぶといふ思想が結びつけられて居る。単にわが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり(同)
後のも、やはり、世をうぢ山のうといふ語がはずみとなつて、単に処を示すばかりでなく、作者の人格を述べて、歌全体に世を憂といふ色彩を
ましみづの細きながれは居ながらも手をひたすらになつかしげなる(大隈言道、草径集)
兎も角、読者は僅かな音を媒介として、作者の思想と見ゆる者を二種以上(二)客観的表現は、客観事象によつて惹き起された興味の印象が、全体的又は部分的に、実質的内容を蓋うて居るもので、此には叙景的のものと叙事的のものとがある。
(イ)桜さく遠山どりのしだり尾のなが/\し日もあかぬ色かな(後鳥羽院、新古今)
忍れどこひしき時はあしびきの山より月のいでゝこそ来れ(貫之、古今)
波まより見ゆる小島のはま楸ひさしくなりぬ君にあひ見で(勢語)
津の国の浦のはつ島はつかにも見なくに人の恋しきやなぞ(雅成親王、玉葉)
いづれも景を叙するのは、ある語を喚び起す為の用意なので、短くて用を達するのもあるが、大抵長くなる様である。波まより見ゆる小島のはま楸ひさしくなりぬ君にあひ見で(勢語)
津の国の浦のはつ島はつかにも見なくに人の恋しきやなぞ(雅成親王、玉葉)
叙景によつて与へられた印象が、しつくりと実質的内容にあてはまるものでなくてはならぬ。あてはまるといふのは、必しも関係のある事実を述ぶる必要はない。唯その形体的内容の聯想が、実質的内容と、傾向を一にして居ればよいのである。此には屡失敗したものがあるが、左のものゝ如きは成功して居る。
(ロ)ますらをがさつ矢たばさみたち向ひ射るまとかたは見るにさやけし(万葉)
よひにあひてあしたおもなみなばりにかけながき妹がいほりせりけむ(同)
あしびきの山どりの尾のしだり尾のなが/\し夜をひとりかもねむ(同、作者未詳)
たちのしり鞘にいり野に葛ひく我妹ま袖もて着せてむとかも夏葛ひくも(万葉)
叙事的表現といふのも、畢竟、此うちにこめて説く事が出来ようと思ふ。ある観念、又はある思想を喚び起す為に、他の事実現象を述べて、それを契機として言語の類似、又は同一思想を捉へて、本題目に入る手段であるが、質朴な万葉時代の修辞法には屡用ゐられて居る。しかも、多くは本題よりも遥かに長く、形式の大部分を占めて居る事は注意せねばならぬ。あしびきの山どりの尾のしだり尾のなが/\し夜をひとりかもねむ(同、作者未詳)
たちのしり鞘にいり野に葛ひく我妹ま袖もて着せてむとかも夏葛ひくも(万葉)
此法においては、最も形体的内容の聯想が、実質的内容と傾向を同じくする必要がある。最も形体的内容が明らかにあらはれて居るのは、此法であるが、それだけにまた、実質的内容を融合することも困難である。極めて単純なる感情をばあらはす手段であるから、形体的内容を述ぶることに低徊して、なるべく、事実よりも印象を深く与へて、実質的内容の量を深く感ぜしむるといふのが眼目である。此点は象徴派の参考とすべきものであらう。
(三)此表現法は、美的仮象を分解して、空想的と感覚的との両写象にして仕舞つては、完全な内容を形くることの出来ぬ者、即主観客観の融合した者と、主観客観を超越した者とを併せていふので、名称に稍不穏当な処あるが、
時鳥まつにしもさく藤の花人の心のなびくなりけり(加納諸平、柿園詠草)
身をうみのおもひなぎさは今宵かなうらに立つなみうち忘れつゝ(大和物語)
諸平のは、時鳥を今か/\とまつ心を折しもさいて居る藤の上にうつしてよんだもので、要はたゞ、人の心が時鳥になびいて居るといふ実質的内容に帰するが、それが形体的内容と融合してあらはれた美的仮象は、決してそんな単純なものではない。感覚的仮象(即形体的内容)は、松になびいて咲いて居る藤の花、空想的仮象は、なく初声をまつ心が時鳥になびくといふこと、前後にまつとなびくといふ語があつて、此が契機となつて、両仮象を結びつけて居るが、其集合概念としてあらはれた美的仮象は、やゝ趣を異にして居る。松になびいて居る藤の花を単に形体的内容とし、人の心が時鳥になびくといふのを身をうみのおもひなぎさは今宵かなうらに立つなみうち忘れつゝ(大和物語)
次の歌の類は、沢山ある。此は前の者よりは主観が明らかにあらはれて居る。うみは単に
此外、
定家の所謂幽玄体と称するのは、非常に音覚を重じた者で、主観客観を出て絶対境に入らむとして居るものが多い。であるから、従来の学者の如き、内容に形体的、実質的の両面のあることの考へもなく、且、勿論二方面の区別を立てた後に、之をまた融合せしめて考へることの出来なかつた頭脳からは、難解とのみ却けられたのも
右、
第一次思想の限界を加へられてあらはれたものが実質的内容であることは、
次に、実質的内容に並行して、同一の形式の上に統一せられて居る形体的内容がある。
君恋ふるなみだのうらにみちぬればみをつくしとぞわれはなりぬる(新撰万葉)
君を恋ふるあまりに、自分は常に涙におぼれて居る。かくては、我身をも終につくすべきかといふ実質的内容に並んで、涙を湛へた中に右は、内容が並行して居る場合を述べたのであるが、茲に一つ注意しておくべきは、形体的内容が、一部分の連鎖を持つて居るばかりであつて、それによつて起された感情が詩全体に遍満して居る場合がある。これをもこの場合に併せて挙げておく。
若鮎のひれふる姿みてしよりこの川上の家ぞ恋しき(加納諸平、柿園詠草)
この歌は、万葉の「玉島のこの川上に家はあれど君をやさしみあらはさずありき」といふ歌が根柢になつて居ることを、この川上の家といふ言葉によつて悟らしむる。若鮎は、領布をおこさむ為の