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ランボオ詩集≪学校時代の詩≫

VERS DE COLLEGE

ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー Jean Nicolas Arthur Rimbaud

中原中也訳




 1 Ver erat



春であつた、オルビリウスは羅馬(ローマ)で病ひに苦しんでゐた

彼は身動きも出来なかつた、無情な教師、彼の剣術は中止されてゐた

その打合ひのは、我が耳を(ろう)さなかつた

木刀は、打続く痛みを以つて我が四肢をいためることをやめてゐた。

をりもよし、私は和やかな田園にはしつた

全てをばう······転地と懸念のなさとで

柔らかい欣びは研究に倦んじた我が精神を休めるのであつた。

云ふべからざる満足に充たされ、我が心は無味乾燥の学校を忘れ、彼、教師の魅力なき学課を忘れ、私ははるかな野面のづらを見遣り、春の大地のおもしろき、幻術を観るに余念なかつた。

子供の私は、かの田園の逍遥なぞと、洒落しやれることこそなかつたけれど

小さな我が心臓は、いと気高けだかき渇望に膨らむでゐた

如何なる聖霊が我がたかぶれる五感にまで

翼を与へたか私は知らぬが、押黙つた歎賞を以て

我が眼は諸々の光景を打眺め、我が胸のうち

やさしき田園への愛惜は忍び入るのであつた。マニ※[#小書き片仮名ヱ、10-4]ジイの磁石が或る見えざる力に因つて、音もなくありともわかぬかぎもて寄する、かの鉄環の如くであつた。


それにしても私の四肢てあしは、我が浮浪の幾歳月としつきに衰へてゐたので、

私は緑色なす川の岸辺に身をば横たへ、

たをやけきそが呟きのまにまにまどろみ、怠惰のかぎりに

鳥らの楽音、風神ふうしん息吹いぶきに揺られてゐた。

さて雌鳩らは谷間の空に飛びかよひ

そが白き群は、シイプルの園に、ヴェニュスが摘みし

薫れりし花の冠をくはへてゐた。

雌鳩らは、静かに飛んで、我が寝そべつてゐる

芝生の方までやつて来て、私のまはりに羽搏(はばた)いて

私のかうべを取囲み、我が双の手を

草花の鎖で以ていましめた。又、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみ

薫り佳き桃金嬢もて飾り付け、さて軽々かろがろと私を空に連れ去つた

彼女らは雲々のあひだを抜けて、薔薇の葉に

仮睡まどろみゐたりし私を運び、風神は、

そが息吹いぶきもてゆるやかに、我がささやかな寝台とこをあやした。

鳩ら生れの棲家に到るや

即ち迅き飛翔もて、高山たかやまに懸かるそが宮殿に入るとみるや、

彼女ら私を打棄てて、目覚めた私を置きざりにした。

おお、小鳥らのやさしいねぐら······目を射る光は

我が肩のめぐりにひろごり、我が総身はそが聖い光で以て纏はれた。

その光といふのは、影をまじへ、我らが瞳を曇らする

そのやうな光とはおほよちがひ、

その清冽な原質は此の世のものではなかつたのだ。

天界の、それがなにかはしらないが或る神明しんめいが、

私の胸に充ちて来て大浪のやうにただようた。


やがて鳩らはまたやつて来た、嘴々くちぐち

調べ佳き合唱を、およびもて指揮するを喜んだ

アポロンのそれに似た、月桂樹編んで造れる冠たづさへ。

さて鳩らそを我がぬかかづけるとみるや

空はひらかれ、めくるめく我がには、

フ※[#小書き片仮名ヱ、12-5]ビュス親しく雲の上、黄金の雲の上、飛び翔けり舞ふが見られた。

フ※[#小書き片仮名ヱ、12-6]ビュスは我が上にそが神聖な腕を伸べ、

又頭の上には、天上の炎もて

※(始め二重括弧、1-2-54)なんぢ詩人たるべし!※(終わり二重括弧、1-2-55)しるした。すると我が四肢に

異常の温暖は昇り来り、そが清澄もて光り耀く

清らの泉は太陽の光に(も)え立つた。

(さて)も鳩ら先刻さきにせる姿を改め、

美神※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ニュス合唱隊コーラスし優しき声もて歌を唱へば

鳩らそが腕に私を抱きとり、空の方へと連れ去つた

三度みたび※(始め二重括弧、1-2-54)汝、詩人たるべし!※(終わり二重括弧、1-2-55)と呼び、三度みたび我がぬかを月桂樹もてよそほうて、空の方へと連れ去つた。


千八百六十八年十一月六日

シャルルヴィル公立中学通学生

ランボオ・アルチュル

シャルルヴィルにて、千八百五十四年十月二十日生

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 2 天使と子供



ながくは待たれ、すみやかに、忘れ去られる新年の

子供等喜ぶ元日の日も、(ここ)に終りを告げてゐた!

熟睡うまいとこに埋もれて、子供は眠る

羽毛はねしつらへし揺籠ゆりかご

音の出るそのお舐子しやぶりは置き去られ、

子供はそれを幸福な夢の裡にて思ひ出す

その母の年玉貰つたあとからは、天国の小父さん達からまた貰ふ。

笑ましげのくちそと開けて、唇を半ば動かし

神様を呼ぶ心持。枕許には天使立ち、

子供の上に身をかしげ、無辜(むこ)な心の呟きに耳を傾け、

ほがらかなそれの額の喜びや

その魂の喜びや。南の風のまだ触れぬ

此の花を褒め讃へたのだ。


※(始め二重括弧、1-2-54)此の子は私にそつくりだ、

空へ一緒に行かないか! その天上の王国に

おまへが夢に見たといふその宮殿はあるのだよ、

おまへはほんとに立派だね! 地球ずまひは沢山だ!

地球では、しんの勝利はないのだし、まことのさち(あが)めない。

花の薫りもなほにがく、騒がしい人の心は

哀れなる喜びをしか知りはせぬ。

曇りなき(よろこ)びはなく、

不慥(ふたし)かな笑ひのうちに涙は光る。

おまへの純な額とて、浮世の風には萎むだらう、

憂き苦しみは蒼い眼を、涙で以て濡らすだらう、

おまへの顔の薔薇色は、死の影が来て逐ふだらう。

いやいやおまへを伴れだつて、私は空の国へ行かう、

すればおまへのその声は天の御国みくにの住民の佳い音楽にまさるだらう。

おまへは浮世の人々とその騒擾どよもしを避けるがよい。

おまへを此の世に繋ぐ糸、今こそ神は断ち給ふ。

ただただおまへの母さんが、喪の悲しみをしないやう!

その揺籃を見るやうにおまへの(ひつぎ)も見るやうに!

流る涙を打払ひ、葬儀の時にもほがらかに

手に一杯の百合の花、捧げてくれればよいと思ふ

げに汚れなき人の子の、最期の日こそは飾らるべきだ!※(終わり二重括弧、1-2-55)


いちはやく天使は翼を薔薇色の、子供の脣に近づけて、

ためらひもせず空色の翼に載せて

魂を、摘まれた子供の魂を、至上の国へと運び去る

ゆるやかなその羽搏きよ······揺籃に、残れるははや五体のみ、なほ美しさ漂へど

息づくけはひさらになく、生命いのち絶えたる亡骸なきがらよ。

そは死せり!······さはれ接唇くちづけ脣のに、今も薫れり、

笑ひこそ今はやみたれ、母の名はなほ脣のに波立てる、

臨終いまはの時にもお年玉、思ひ出したりしてゐたのだ。

なごやかな眠りにその眼は閉ぢられて

なんといはうか死の誉れ?

いと清冽な輝きが、額のまはりにまつはつた。

地上の子とは思はれぬ、天上の子とおもはれた。

如何なる涙をその上に母はそそいだことだらう!

親しい我が子の奥津城(おくつき)に、流す涙ははてもない!

さはれ夜けて眠る時、

薔薇色の、天の御国みくにしきみから

小さな天使は顕れて、

かあさんと、しづかに呼んで喜んだ!······

母も亦微笑ほゝゑみかへせば······小天使、やがて空へと(すべ)り出で、

雪の翼で舞ひながら、母のそばまでやつて来て

そのくちに、天使のくちをつけました······


千八百六十九年九月一日

ランボオ・アルチュル

シャルルヴィルにて、千八百五十四年十月二十日生

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 3 エルキュルとアケロユス河の戦ひ



嘗て水に膨らむだアケロユスの河は氾濫し、

谷間に入つて(ほとばし)り、その騒擾いはんかたなく、

そが浪に畜群と稔りよき収穫を薙ぎ倒し、

人家悉く潰滅し、みはるかす田畠でんぱたは砂漠と化した。

かくてニムフはその谷を去り、

フォーヌ合唱隊亦鳴りを静め、

人々は唯手をこまぬいて河の怒りを眺めてゐた。

此の有様をみたエルキュルは、憐憫の思ひに駆られ、

河の怒りを鎮めむものと巨大なをばをどらせて、

逞しい双腕に泡立つ浪を逐ひまくし、

そがもとの河床に治まるやうに努めたのだ。

おさへられたる河浪は、怒濤をなして呟きながらも、

やがて蜿蜒(ゑんえん)たるもとの姿にかへつたが、

河は息切いきぎれ、歯軋はぎしりし、そが蒼曇る背をのたくらし、

そが険呑けんのんな尾で以てすがれた岸を打つてゐた。

エルキュルは再び身をば投入れて、腕をもて河の頸をば締めつけた、その抵抗も物の数かは

河は懲され、エルキュルは、その上に、大木の幹を振りかざし、

ひつぱたきひつぱたく、河は瀕死のていとなり砂原の上にのめされた。

扨エルキュルは立直り、※(始め二重括弧、1-2-54)此の腕前を知らんかい、たはけが!

我猶揺籃にありし頃、二頭のドラゴン打つて取つたる

かの時既に鍛へたる此の我が腕を知らんかい!······※(終わり二重括弧、1-2-55)


河は慚愧に顛動し、覆へされたる栄誉をば、

思へば胸は悲痛にたぎち、跳ねて狂へば

獰猛のまなこは炎と燃えさかり、角は突つ立ち風を切り、

(ほ)ゆれば天も(ふる)へたり。

エルキュルこれを見ていたく笑ひて

ひつ捉へ、振り廻し、痙攣ひきつけはじめしその五体

※(「革+堂」、第3水準1-93-80)(たう)とばかりに投げ出だし、膝にて頸をば圧へ付け、

腰に咽喉のどをば敷き据ゑて、打ち叩き打ち叩き

力の限りに懲しめば、やがては河も悶絶す。

息を絶えたる怪物に、勇ましきかなエルキュルは、

(またが)つて血濡れたる、額の角を引抜いて、茲に捷利を完うす。

かくてフォーヌやドリアード、ニムフ姉妹の合唱隊コーラスは、

減水と富源のために働いた、彼等が勇士の愉しげに

今は木蔭に憩ひつつ、

古き捷利を思ひ合はする勇士に近づき、

かろやかに彼のめぐりをとりかこみ、

花の冠・葉飾りを、それの額にかづけたり。

さて皆の者、彼の近くにころがりゐたりし

かの角をばその手にとらせ、血に濡れたその戦利品をば

美味な果実と薫り佳き花々をもて飾つたのだ。


千八百六十九年九月一日

シャルルヴィル公立中学通学生

ランボオ・アルチュル

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 4 ジュギュルタ王



諸世紀を通じ、神は此の者をば、

折々此の世に降し給ふ······

        バルザック書簡。



     ※(ローマ数字1、1-13-21)


彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼はすこやかに

軟風そよかぜの云ふを聞けば、※(始め二重括弧、1-2-54)これはこれジュギュルタが孫!······※(終わり二重括弧、1-2-55)


やがては国のため人民のため、大ジュギュルタ王とはならん此の者が、

いたいけなりし或る日のこと、

来るべき日の大ジュギュルタの幻影は、

その両親のゐる前で、此の子の上に顕れて、

その境涯を述べた後、さて次のやうに語つた

※(始め二重括弧、1-2-54)おお我が祖国よ! おお我が労苦に護られし国土よ!······※(終わり二重括弧、1-2-55)

その声は、寸時、風の神にさまたげられて杜切れたが······

※(始め二重括弧、1-2-54)嘗て悪漢の巣窟、不純なりし羅馬は、

そが狭隘の四壁をこぼち、雪崩なだれ出で、兇悪にも、

そが近隣諸国を併合した。

それより漸く諸方に進み、やがては世界を我がものとした。

国々は、その圧迫をのがれんものと、

競ふて武器を執りはしたが、

空しく流血するばかり。

彼等にまさりし羅馬の軍は、

盟約不賛の諸国をば、そのたみ等をば攻め立てた。


彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼はすこやかに

軟風そよかぜの云ふを聞けば、※(始め二重括弧、1-2-54)これはこれジュギュルタが孫!······※(終わり二重括弧、1-2-55)


我、久しきより羅馬の民は、気高けだかたまを持てると信ぜり、

さはれ成人するに及びて、よくよく見るに

そが胸には、大いなる傷、口を開け、

そが四肢には、有毒な物流れたり。

それや黄金の崇拝!······そは彼等武器執る手にも現れゐたり!······

けがれたるかの都こそ、世界に君臨しゐたるかと、

よい力試ちからだめし、我こそはそを打倒さんと決心し、世界を統べるその民を、爾来白眼、以て注視を怠らず!······


彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼はすこやかに

軟風そよかぜの云ふを聞けば、※(始め二重括弧、1-2-54)これはこれジュギュルタが孫!······※(終わり二重括弧、1-2-55)


当時羅馬はジュギュルタが事に、

介入せんとは企てゐたり、我は

迫りくるそが縄目なはめをば見逃さざりき。立つて羅馬を討たんとは決意せり

かくて我日夜悶々、辛酸の極を(な)めたり!

おお我が民よ! 我が戦士! わが聖なる下々しもじもの者よ!

羅馬、かの至大の女王、世界の誇り、

かのは、やがてぞ我が手に瓦解しゆかん。

おお如何に、我等羅馬のかの傭兵、ニュミイドびと等を(わら)ひしことぞ!

此の蛮民等はジュギュルタが、あらゆるすきに乗ぜんとせり

当時世に、彼等に手向ふものとてなかりし!······


彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼はすこやかに

軟風そよかぜの云ふを聞けば、※(始め二重括弧、1-2-54)これはこれジュギュルタが孫!······※(終わり二重括弧、1-2-55)


我こそは羅馬の国土に乗り込めり、

その都までも。ニュミイドよ! なれが額に

平手打ひらてうちくらはせり、我は汝等なれら傭兵ばらを物の数とも思はざり。

茲にして彼等久しく忘れゐたりし武器を執り、

我亦立つて之に向へり。我は捷利を思はざり、

唯に羅馬に拮抗せんことこそ思へり!

河に拠り、巌嶮いはほに拠りて、我敵軍に対すれば、

ぜいは、リビイの砂原すなはらあるはまた、丘上の角面堡より攻めんとす。

敵軍の血はわが野山蔽ひつつ、

我がなみならぬ頑強に、四分五裂となりやせり······


彼はアラビヤの山多き地方に生れた、彼はすこやかに

軟風そよかぜの云ふを聞けば、※(始め二重括弧、1-2-54)これはこれジュギュルタが孫!······※(終わり二重括弧、1-2-55)


※(始め二重括弧、1-2-54)恐らくは我敵かたの、歩兵隊をも敗りたらむを······

此の時ボキュスが裏切りに遇ひ······思ひ返すもあだなれど、

されば我、祖国くにも王位も棄て去りて、

羅馬に謀反むほんをせしといふ、ことに甘んじてゐたりけり。


さても今またフランスは、アラビヤの、都督を(う)ちて誇れるも······

なんぢ、我が子よ、いましもし、此の難関に処しも得ば、

なれこそはげにそのかみの、我がため仇を報ずなれ。いざや戦へ!

にし日の、我等が勇気、今はが、心に抱き進めかし、

なれ等がつるぎ振り翳せ! ジュギュルタをこそ胸に秘め、

居並ぶ敵を押返し! 国の為なり血を流せ!

おお、アラビヤの獅子共も、此の戦ひに参ぜかし!

鋭きなれ等が牙をもて、敵の軍勢裂きもせよ!

さかえあれ! 神冥の加護なれにあれ!

アラビヤの恥、そゝげかし!······※(終わり二重括弧、1-2-55)


かくて幻影消えゆけば、幼な子は、青竜刀の玩具おもちやもて、遊び興じてゐたりけり······



     ※(ローマ数字2、1-13-22)


ナポレオン! おお! ナポレオン!(1) 此の今様のジュギュルタは、

打負かされて、縛られて、幽閉おしこめられて暮したり!

茲にジュギュルタあらためて、夢の容姿かたちにあらはれて

此の今様のジュギュルタにいとねむごろに云へるやう、

※(始め二重括弧、1-2-54)新らしき神に来れかし! 汝が災害を忘れかし、

佳きとし今やめぐり来て、フランスなれを解放せん······

なれは見るべし、フランスの治下に栄ゆるアルジェリア!······

なれは容るべし、寛大の、このフランスの条約を、

世に並びなき信仰と、正義の司祭フランスの······

愛せよ、汝がジュギュルタを、心の限り愛すべし

さてジュギュルタが命数を、つゆ忘れずてありねかし


註(1)アムボワーズの城に幽閉されたりしアブデルカデルは ナポレオン三世の手によりて釈放されたり 時に千八百五十二年


     ※(ローマ数字3、1-13-23)


これぞこれ、に顕れしアラビヤが祖国くに精神こころぞ!※(終わり二重括弧、1-2-55)


千八百六十九年七月二日

シャルルヴィル公立中学通学生

ランボオ・ジャン・ニコラス・アルチュル

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 5 Tempus erat



その頃イエスはナザレに棲んでゐた。

成長に従つて徳も亦漸く成長した。

或る朝、村の家々の、屋根が薔薇色になりめる頃、

父ジョゼフが目覚める迄に、父の仕事を仕上げやらうと思ひ立ち、

まだ誰も、起きる者とてなかつたが、彼は寝床を抜け出した。

早くも彼は仕事に向ひ、その面容おもざしもほがらかに、

大きな(のこ)を押したり引いたり、

その幼い手で、多くの板を挽いたのだつた。

とほく、高い山の上に、やがて太陽は現れて、

そのまぶしい光は、貧相な窓に射し込んでゐた。

牛飼達は牛をき、牧場の方に歩みながら、

その幼い働き手を、その朝の仕事の物音を、てんでに褒めそやしてゐた。

※(始め二重括弧、1-2-54)あの子はなんだらう、と彼等は云つた。

綺麗にも綺麗だが、由々しい顔をしてゐるよ。力は腕から迸つてゐる。

若いのに、杉の木を、上手にこなしてゐるところなぞ、まるでもう一人前だ。

昔イラムがソロモンの前で、

大きな杉やお寺のはりを、

上手に挽いたといふ時も、此の子程熱心はなかつただらう。

それに此の子のからだときたら、葦よりまつたくよくまがる。

まさかり使ふ手もとときたら、狂ひつこなし。※(終わり二重括弧、1-2-55)


此の時イエスの母親は、鋸切の音に目を覚まし、

起き出でて、静かにイエスの傍に来て、黙つて、

大きな板を扱ひ兼ねた様子をば、さも不安げに目に留めた。

唇をキツト結んで、その眼眸まなざしかばふやうに、暫くその子を眺めてゐたが。

やがて何かをその唇は呟いた。

涙の裡に笑ひを浮かべ······

するとその時鋸が折れ、子供の指は怪我をした。

彼女は自分のま白い着物で、真ツ紅な血をば拭きながら、

軽い叫びを上げた、とみるや、

彼は自分の指を引つ込め、着物の下に匿しながら、

強ひて笑顔をつくろつて、一言ひとこと母に何かを云つた。

母は子供にすり寄つて、その指を揉んでやりながら、

ひどく溜息つきながら、その柔い手に接唇くちづけた。

顔は涙に濡れてゐた。

イエスはさして、驚きもせず、※(始め二重括弧、1-2-54)どうして、母さん泣くのでせう!

ただ鋸の歯が、一寸かすつただけですよ!

泣く程のことはありません!※(終わり二重括弧、1-2-55)

彼は再び仕事を始め、母は黙つて

蒼ざめて、俯きかほに案じてゐたが、

再びその子に眼を遣つて、

※(始め二重括弧、1-2-54)神様、聖なる御心みこころの、成就致されますやうに!※(終わり二重括弧、1-2-55)


千八百七十年

ア・ランボオ






底本:「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫、講談社


   1990(平成2)年9月10日第1刷発行

   2007(平成19)年1月10日第9刷発行

底本の親本:「中原中也全集 5」角川書店

   1968(昭和43)年4月10日初版発行

初出:「アルチユル・ランボオ・詩集 学校時代の詩」三笠書房

   1933(昭和8)年12月10日初版発行

※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。

※ルビのうち括弧()付きのものは、底本の親本「中原中也全集」編纂者によるものである。

(例)羅馬(ローマ)

※底本では一行が長くて二行にわたっているところは、二行目が1字下げになっています。

※(1)は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付いています。

入力:オーシャンズ3

校正:L.P.S.

2009年4月12日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





●表記について