作者は大方「型」を持っています。その「型」の中で微動し
乍ら創作をつづけて行くときはまずあぶな気がありません。一通りのものは作れます。そいつを
何時迄もつづけていると作が生気を失います。「型」を思い切って破壊するか、
乃至は「型」の中に居り乍ら深く下へ掘り下げるか、どっちかにしなければなりますまい。小酒井不木氏の「疑問の黒枠」は一方「型」を深く彫り下げ一方「型」を破ろうとして居ります。こういう意味に於て問題にされましょう。平林初之輔氏の「山吹町の殺人」は同氏従来のどの作品よりも手際よくまとまっては居りますが、しかし平林初之輔氏程の人を、わずらわす
可き作品とは思われません。谷譲次氏の「肖像画」は
||五十枚ぐらいで切り上げたら
何うにか目鼻の付きそうな作を、百枚二百枚と書くことによって、目鼻の付かないシロモノとする、そういう優秀で無い作家への、よいミセシメになる好個の読物です。
加之その裏には人情観察があります。