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夜の浪

水野仙子




 どちらから誘ひ合ふともなく、二人は夕方の散歩にと二階を下りた。婢が並べた草履の目に喰ひ入つてゐた砂が、聰くなつてゐる拇指の裏にしめりを帶びて感じられた。

『いつてらつしやいまし。』と、板の間に手をつく聲が、しばらく後を見送つてゐることゝ、肩のあたりにこそばゆい思をしながら、あの女にも嫉妬を持つと民子は自分の胸のうちを考へた。綺麗な女ではない、けれどもそのおとなしさと、少くも自分がここに來るまでの幾日間を心にかけて朝晩の世話をしたといふことに||それは都で受け取つた手紙の中に書き插まれてあつた||嫉妬らしい思が湧くのである。明日は馬鹿らしいこの思に、愚しい懸念の輪を一つ一つかけながら、ここを離れて行かなければならない······と思ふと、うなだれ氣味に一足二足おくれて行く民子の前に、白絣の胴を締めた白縮緬の帶の先が搖れつゝあつた。

 先の草履の音の行くまゝに民子は從つた。草の根に縋つて僅な崖を攀ぢる時、默つて握つたまゝ渡されるまゝに、默つてその手のぬくみの殘つた草の根を握つた。さうして小高い丘に立つた時、ふと振りかへつたとほりに民子もまた振りかへつた。遙に低く見える宿の二階の二人の部屋に、窓のカアテンが白く二人の目を捕へた。その小窓に倚りかゝつて、二人が見合せたあの時の目の微笑を思つた時、民子の胸は再びそのあぢはひを經驗した。

 岬の中腹を低く高く導いて行く小道に、一つ二つ河原撫子のいたいけなのが叢の中に咲いてゐた。いつもならば大裟袈な表情の聲をあげて、危かしいところならば摘んでも貰ふものを、民子はたゞ認めるだけの目を注いで過ぎた。

 世間を忘れて明した今朝も、晴々しい朝の氣になほ幾日かのたのしい夢が續くのを占つたかひもなく、午前の便で着いた姉からの手紙を披いて讀んで行くうちに、民子は間もなくここを去らなければならないことを覺悟した。二人の上に就て、たゞ一人の同情者である姉は、中一日を置いて歸國の旨を言ひ送つて來たのであつた。それには民子を伴ふことに就ては一言も書き及ぼしてはなかつたけれど、姉のみ歸つた時の母の失望と疑惑とを思つては、民子はどうしてもすぐにここを去らなければならないと思つた。それに今度の深い探い決心を持つて歸國するには、助言のために姉の感情も考へなければならなかつた。しかしそれはあまりに殘をしい悲しいわかれであるために、民子は歸るといふことに就てはまだ一言もいひ出さなかつた。

 あらゆるものを彈いてたゞ二人が二人の息をしてゐた日は、僅ではあるが尊いものであつた。一またゝきにも、その唇の微なふるへにも、二人にのみ動く神經が、どうして一つの胸にばかり思の宿るのを見逃して置かう。民子の考は男の思であつた。

 たとへ二人は間もなく二人の生活をはじめるのであるにしても、それはまたある時のことであつて、現在の滿足を失ふかなしみには、漸く見出すほどの慰藉に過ぎないのである。四つづつついた砂の足跡も、明日からは寂しく二つづつ殘るであらう。浪に、砂に、それとない告別の目が民子の顏色を沈ませた。その顏色がまた男の顏色であつた。

 自分の心を悟つてゐる男の心をまた悟つて、その沈默を破るのを恐れるやうに、民子はやはりいつまでも默つてついて行つた[#「行つた」は底本では「行つだ」]。潮風は一足毎に岬の鼻に近づくに從つてしめりを加へて來た。耳になれた浪の音は、次第次第にその度を高くして行く。ふと民子は立ち止つた。それは導くあゆみがぴたりとそこに止つたからであつた。見ると、白絣の袂の下に跼んで、一人の媼が何やら摘み取つては籠の中に入れてゐる。

 二人がそこに立ち止つたので、媼は體を崖の方に寄せて、背をそばめて道を開けようとした。けれども二人はしばらくそこに立つて、ぽきぽきと音をたてゝ摘まれる草の手元を見入つた。

『おばあさん、なんだいその草は?』と、初めて男によつて口が開かれた。

『これかね、これあ濱菊つてまさあ。』

『なんするんだらう?』

 それはひとりごとともつかず言ひ出された言葉であつた。

『土用の牛の日にね、これを摘んでて、風呂に入ると、リウマチなんぞにそりやあよくきくんでさ。ここらの奴どもあ、誰もこんな有り難いことを知りあがねえんさ、ほんに勿體ねえ、こんなにどつさりあるものをさ。』

 媼はぶつぶつ呟くやうに言ひながら、貪るやうにぽきぽきとその有り難い藥草を折り溜めた。投げ入れられる草は、籠の中に氣のせいほどのしほれを見せて積み込まれた。

 二人はやがてまた默つて歩き出した。岬の頂には、待ち構へたやうな潮風が、はらはらと浴衣の袂を弄んだ。南上總の海は、靜さのうちに徐々として黒みを加へつつあつた。斷崖の先に打ち込まれた幾本かの杭に引いた針金のゆるみが、搖ぐほどに時たま風は強く吹きあげる。

『あの船は歸るんでせうか、行くんでせうか?』

 民子はしづかにその杭の一つにつかまりながら言つた。

 遙の沖に一つ小鳥のとまつたやうにぢつとしてゐる船は、少しづつ動くやうでもあれば、また動かぬもののやうにも見えた。

『さあ。』

 しばらくして男は言つた。

『今時分出て行く船もあるまいから、その邊で漁でもしてるのだらう。ごらん、ぢつとしてるぢやないか。』

 はらはらと鬢の毛が頬を撫でる。

 空と海との境は紛るゝほどになつた。たゞ下にはちらちら閃くものが走り、上には雲らしいものがかすかに薄く漂ふのである。

『まだ動きませんね、あの船は。』

············

 民子はふとその顏を仰ぎ見た。

 かなしみを含んだ男性の沈默、その目は暮れて行く浪の面に動かず注がれて沈んだ。民子の胸には、言ひやうのない感激がかなしさを誘つて流れた。

『民さん。』

『え?』

『明日歸るつもりなんだらう?』

············

『ね?』

『えゝ。』

 この時矢のやうに走つたいとしさが民子の胸を震はした。それは生れて二十二年を經て初めて湧くおもひである。

『この人が?······この人が?······』と思つて、つくづく親しくその顏を眺められた朝から、思ひもかけぬ感情のはたらきが民子の心を支配した。これがわが言ふことであらうかと思はれるやうなうるほひのある言葉も、體の曲線のうねりも、少女の持つ寶として、それは戀の鍵に依つて開かれたのである。

『ぢやあね、九月を待つてるよ。ね、九月になつたらきつと出て來なけりやいけないよ。何もかも民さんの決心一つなんだから······

 民子は默つて合點をした。包むやうな男の胸の匂が、ふと記憶を掠めて消えた。

『もう歸らう! だんだん暗くなつて來た!』

 その聲に、慴えたやうに民子は立ち上つた。

『あら! あの船はまだぢつとしてますよ!』

 思ひもかけなかつたやうな驚異の言葉は、ふと出てその半を潮風に掠はれて行つた。

 船の影は黒くなつて死んだやうに靜止してゐる。浪といふ浪はすつかりそれ自身のうちに薄い暗を吸ひ取つてゐた。


 簾戸を漏れる燈の影が、凉しく縁側を越えて庇の屋棍瓦にその末を投げてゐる。紙を走るペンの音が、そのあかるい灯の中から聞えた。民子の姉に齎す手紙が、男によつて一心に書かれつゝあるのであつた。なんとはない溜息が一ぱいにつまつたやうな胸を抱へて、民子は先刻から廊下に出てゐた。欄干といはず、柱といはず、潮氣を含んでしとしとになつた不氣味さも、海の宿の思出の一つと明日からはなるのであらう。

 すぐ目の下の入江に寄せる夜の浪は、月のないのにじれる腹立だしさのやうに、どゞゞどうと岩に碎けては、ざあと勢こんで引いて行く。僅に波頭の光るのが、碎けては黒い浪の畦に白い飛沫となつて散つた。果もなく續く濤の音は、幾千年の昔から幾らの年の未來に渡つてその響を傳へるのであらう? 小さなる人間の肉體や、精神や、思想やを無視して、絶對の無に動いてゐる濤には、怨恨もなく、愛情もなく、故意もなく、偶意もないわけであつた。弄ぶでもなく、運ぶでもなくに運ばれた一つの物體が、どこかの果に漂ひ寄つたとしても、そこに人間の發見の目がなかつたならば、それは偶然とも言へないのである。藻の一房のたゞよひも、杭一本の漂着も、たゞ人間の考に依つて意義をつけられるのであつた。おゝ大自然よ!

 ふと民子の胸にはある不安が萠した。海草の漂ひ寄つたにも等しい自分のこの一週日ばかりの生活が、この無心に雄大な浪に再び根を誘はれるやうな機會が、明日のわかれではないかと思つた時にであつた。と思ふと、二日ばかり前に、慰み半分に寫眞を撮影してゐる貝細工屋の主人を招んで、二人がたのしい生活の記念にと、ある夕方岩の上と下とに立つて撮らせた寫眞が、時刻が遲かつた爲にだめだつたと言つて來たことを思ひ出して、その薄ぼんやりとした映像を目のあたり見るやうな氣がしながら、それが何かの凶い兆でもあるかのやうに思ひだされるのであつた。

 ことこと、ことことと簾戸を搖る潮風と、絶間ない濤聲に、はたはたと廊下を行く草履の音を空聞きして、民子はまたしてもふとあの可憐なおとなしい婢のことなども思ひやつた。

 ペンの音はなほ續いてゐる。

 夜の浪は寄せて碎けて、引いて、散つて、また搖れた。それはいつまでもいつまでも止まぬ活動であつた。






底本:「水野仙子集 叢書『青鞜の女たち』第10巻」不二出版


   1986(昭和61)年4月25日復刻版第1刷発行

初出:「女子文壇」

   1913(大正2)年7月

入力:林 幸雄

校正:小林 徹

2003年1月15日作成

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