ポンと右手がふところへはいり、同時に左手がヒョイとあがった。とたんに
東海道の真っ昼間、時は六月孟夏の頃、あんまり熱いので人通りがない。ただ一人の虚無僧と、道中師めいた小男とが、相前後して行くばかりだ。
と同じ事が行われた。つと駆け抜けた道中師、ポンと右手をふところへ入れ、ヒョイと左の手を上げた。その袖口から一条の捕り縄、スルスルと出てキリキリキリ、虚無僧へ巻きつこうとするのであるが、やっぱりいけない。さっと払う尺八につれて、グンニャリとなる。がその時には捕り縄は、袖口からふところへ手ぐられていた。
眼にも止まらぬ
なんの変わったこともなく、虚無僧は悠然と歩いて行く。道中師にも変化はない。
鈴ヶ森まで来た時である。ふいに道中師が横へそれた。後から続いて虚無僧が行く。耕地があって野があって、こんもりした森が立っていた。手拭いを出してバタバタバタ、切り株を払った道中師。
「おかけなすって、一休み」
虚無僧腰かけて
「熱いねえ、ずくずくだよ」
いいながらグイと胸をあけた。あっ! 張り切った二個の乳房、
「忠公のばかめ、
「へい」道中師小びんをかいた。「
「あれで手練かい、叩き落とされたくせに」
「中条流の捕り縄も、あねごにかかっちゃあ文なしだ」
「これは驚いた。中条流だって? そんな流名があるのかい」
「私のつけた流名で」
「よりどころでもあるのかい」
「そりゃアありますとも、大ありで。それ私の名は忠三でげしょう」
「
「ひどうげすな。そいつアひでえ、いえ忠三でございます」
「忠的にしよう、その方がいい」
「だんだん悪くなる、驚いたなあ。いえ私の名は忠三で、しかも肩書きは
「早引の忠三、なるほどね、だが大してドスも利かない。ところでどうなんだい、中条流は?」
「忠三をもじって中条流。もったいがつくじゃアありませんか」
イスラエルのお町、ふき出してしまった。
「いわれを聞けば有難い······とこういったら嬉しかろうが、どうもね、お前の中条流、こればっかりは戴けないよ。······それはそうとオイ忠公、準備は一切いいんだろうね」
「うん、そいつだ」と早引の忠三、にわかにピンと張り切った。
············
「うん、そいつだ」と早引の忠三、にわかにピンと張り切ったが、すぐにトンと声を落とし、「一切準備が出来たればこそ、長崎くんだりまで飛脚を出し、江戸入りをおすすめしたんですよ。そうして今日あたりはおいでだな、こう思ったのでこの忠三、お迎えに出たのでございますよ」
「ああそうかい、そいつあ有難う。永い間の念願が、それじゃいよいよ届くんだね」
「へい、さようでございますとも」
「うれしいねえ。お礼をいうよ。ああ本当に千べんでもね。だが······」とお町は不安そうに、
「競争相手もあるそうだが、そっちの方も大丈夫かしら?」
「まず大丈夫でございましょう」
「まず大丈夫とは気がかりではないか。確かに大丈夫でなけりゃあね」
「さようで」といったが早引忠三、
「へい、確かに大丈夫で」
「だってお前、競争相手は、ひととおりの奴じゃあないそうだが」
「その代わり味方にも大物がいます」
「でもね、お前、そのお方は、
「かりにも三家のご一人、立てるものではございませんよ」
「そうはいってもつながる縁、お母様さえあのままなら······」
「おっとおっと、そいつアいけねえ」
忠三は急いで手を振った。「死児の
「さあ何にもなるまいがね」お町はちょっと憂鬱になり、「時々妾は考えるのさ。お母様さえなみの人で、今日までご存命なすったら、こんなみじめを見るんじゃあない、それこそ本当にお姫様で、外へ出るにも供揃い、駕籠に乗って行かれるのに······」
「そいつもなみの駕籠じゃあねえ。
「ああなるほど、島原をね。あいつも江戸にいるのかい」
「えらい勢力でございますよ」
「あいつをたらしてさてそれから?」
「以夷制夷でございますよ」
「ふふん
「こいつ成功疑いない」
「それじゃあ腕を振るおうか」
「どうぞね、一つ、すごいところを」
「ではそろそろ出かけよう」
「まず
「あいよ」
といって引っかぶる。と、もう虚無僧姿である。街道へ出て江戸へ入る。雀色の夕まぐれ、さっと人波にさらわれてしまった。
慶安三年六月二日、天草の乱しずまってより、わずかに十二年を経たばかり、将軍家光存命ながら、狂乱の噂府内にもれ、物情騒然人心
いずれ悪漢に相違あるまい、イスラエルお町と早引忠三。
ここに一人の武士がある。
知行五百石でお旗本、代々の主人がつましかったからか、旗本仲間での大金持ち、富豪といってもよいほどで、本所錦糸堀に屋敷があり、無役ではあるが
その広太郎この頃中、一層調子が狂って来た。笑うかと思うとしょげ込んでしまい、しゃべるかと思うとだまり込む。すなわち快活と憂鬱とが、はげしく交叉するのである。恋だ恋だ恋をしているのだ。さて広太郎ある夜のこと、悪友どもと例によって、一杯飲んで夜をふかし、別れて家へ帰る途次、さしかかったのが隅田の
「
で、堤をあるいて行ったが、その時事件が起こったのである。「御用! 御用!」というとり
「これは」と思って眼をやると、対岸
「や、こいつは大捕り物だ!」たたずんでながめたものである。
「あッ」という悲鳴、「待て!」という声、「神妙にしろ!」とわめく声! あわいははるかに離れていたが、深夜だけにあたりさびしく、ちまたの雑音の聞こえないためか、粒だって声が聞こえてくる。
「ドブーン!」水音の響いたのは、とり
と、ボーッと火が立った。放火したのだ! 家が燃える。その光にボッと照らされて、一人こっちへ泳いで来る。
火事の光にボッと照らされて、一人こっちへ泳いでくる。「網をのがれた
「有難え、ぬれてはいない」よっぽどうれしかったに相違ない。こうハッキリつぶやいたものだ。
木蔭で見ていた広太郎、ムラムラ好奇心がつのって来た。そっと近寄り
酔ってはいたが心は正気、ましてあらかじめ曲者と、用心していた広太郎、飛びしさると桜を楯、幹に全身を隠しながら、刀の鯉口ブッツリと切り、相手の様子をうかがった。
片手
「見たであろう? む、どうだ?」右へ右へとジリジリ廻る。
「不運な奴だ、いかしては置かぬ」
不思議な
立ち木を中に広太郎、左へ左へと逃げながら、心でつぶやいたものである。「すごいなあ、恐ろしい奴だ。人を斬ったな、幾人となく。血煙りの中を通って来た奴だ······。勝ち目はない、おれに勝ち目は」
「これ若造」と例の声、「感心だな、抜きおらぬな。逃げるつもりか、それもよかろう。ふ、ふ、ふ、逃げられめえ」
右へ右へと廻りこむ。
「殺されてしまえ、きっと殺す。······なぜのぞいた、馬鹿な奴だ、見さえしなければよかったのだ。見られた以上は助けられない。コレ前へ出ろ、切りこんで来い。······来ないか、行くぞ。ソレ、ソレ、ソレ」
構えをつけながらしゃべりまくる。
さっと左右へ飛び違う。
「えらいの、若造」
「何を! だまれ」ブルッと一つ武者振るい、タラタラと流れるあぶら汗、額から両眼へ入ろうとする。
「御用! 御用!」と遠のく声。とり物も終りに近づいたらしい。火事は盛んだ。
二合目の太刀、また
と、初めて、「待て!」という声が広太郎の口からほとばしった。時のハズミで出た声で、真に呼び止めた声ではない。その証拠には追おうともしない。追わないばかりかグタグタと、大地へ坐ってあぐらをかいた。ホーッともらす太い息、と、ガチャンと刀を捨てて、ピッタリ両手を突いたものである。
「天下は広大。えらい奴がいるなあ」まずもらしたものである。「柳生の
ただ肩越しに見たばかりで文字か絵画か何が書いてあったか、見て取ることは出来なかった。
腕のしこりをもみほぐし、落ちている刀をさやに納め、フラフラと立った広太郎、自分の屋敷へ帰ったのは、半時ばかりの後であったが、その夜出会った強敵が、その後も永くつきまとおうとは、神ならぬ身の||ちょっと古風に||実に知る由もなかったのである。
七日ばかりは気持ちが悪い。で広太郎はこもっていた。
「もうよかろう、泳ぎ出すかな」カラリと晴れたよい天気、フラリと広太郎屋敷を出た。さて行く先はきまっている。恋人お京様の屋敷である。
ここに小松原平左衛門といって、やはり五百石のお旗本、同じく無役で、相当裕福、といって
「舞二郎殿おいでかな」
「おおこれは袴様。ハイハイ皆様お庭の方で、お話し最中でございます」
「ははあ、どなたかご来客で」
「はい、いつもの
「うむ、そうか、臼井殿」にわかに広太郎いやな顔をした。それにはもっともの理由がある。広太郎の恋の競争者だからだ。
玄関からグルリと庭づたい、裏庭の方へ行って見た。縁に腰かけた三人が、面白そうに話していた。
「これはようこそ広太郎殿」真っ先に舞二郎が声をかけた。
「おや、これは広太郎様、ようこそお出かけなさいました」こういったのはお京である。
「これはこれは袴
何となく毒気の含まれている、臼井金弥の挨拶を聞くと、広太郎
臼井金弥は旗本の長男、父は臼井小六郎といい、二百石の
舞二郎の意見にもお京の心にも、充分理解は持ちながら、なお平左衛門は自説を棄てない。頑固一遍での旧弊なら、説破することも出来るのであるが、そうでないだけにむずかしい。
一方金弥は広太郎という、恋の競争者が出て以来、にわかに
「ほほう拙者の噂をな、それはそれは迷惑千万、ろくな事ではござるまい。噂といえばよく聞こえるが、いい換えると人の蔭口。ところでどうも蔭口というやつ、おおかた悪口に堕するものでな、例えばその人の口癖とか、または身振りとかいうようなものを、つい誇張していいたがるもので」ムカムカしているので広太郎、思わず火ぶたを切ってしまった。
噂とはすなわち蔭口である。広太郎のいったこの一言、金弥の胸へはピンとこたえた。というのは実際この時まで、蛇のようにノラクラした
「なるほどな。これは金言、さすがは袴広太郎氏、うまいことを仰せられる。がしかし愚考するところ、少しく矛盾してはおりませんかな」
「ナニ、矛盾? そんなはずはござらぬ」
「いつぞやの貴殿のお説によれば、座談はすべからく悪口たるべし、ということであったはず。噂すなわち座談でござる。自然悪口がよろしいはずで」
「うむ」とこれには広太郎、行き詰まらざるを得なかったが、にわかに
胸に五寸釘の金弥であったが、そんな
しかし広太郎も驚かない。「ほほうさようか。それなら結構、まことに公明正大というもの、見上げてござるよ、臼井氏」
ヒョイとあっさり引っぱずしてしまった。
今度は金弥があせって来た。「なんだ、お高くとまりやがって、見上げてござるもないものだ。これじゃあまるでおれの方が、下眼に見られてスカされたようなものだ。お京様の前だ、いけねえいけねえ。馬鹿に見える。このおれがな」
いいなずけの娘お京の眼に、馬鹿気て見えるということは、まさしく一大事に相違なかった。
「大きく出てやれ、話を大きく」で金弥はいったものである。
「いや何貴殿の噂などは、ほんのチョット出たまでで、実は当今のお政治向きについて、主として話しておりましたので」
こいつを聞くと広太郎「ははん」といって眼をまるくした。がその眼が細まった時、プッと両方の頬がふくれ前歯がチラリと現われた。軽蔑しきった苦笑である。「ははん、さようで、それは大きい。うぶな娘ごの前などでは、大きな話をした方が、たしかにえらく見えますからな。しかし一層大きいなら、日本の話より五大州の話、ないしは
と、ムラムラと金弥の顔へ、怒気が浮かんだものである。
金弥の顔色が変ったのは、広太郎にとっては痛快であった。しかしこれ以上やり込めるのは、大人気ないと思ったので、クルリと背を向けて舞二郎へ向かった。
「舞二郎殿、おいそがしいかな」
「いや、例によって平凡で」
「ちょっといつもよりお顔色が悪い、勉強が過ぎるのではあるまいかな」
「ナニ、それほど勉強しません」
「それがよろしい、おなまけなさい」
「これ以上なまけたら馬鹿になる」
「いやそれ以上勉強されては、この拙者などはお話しさえ出来ぬ」
「そういわれるとこの拙者、なんだか大変学者のように見える」
「学者でござるとも、立派な学者で」
小松原舞二郎、
「拙者などより広太郎殿、貴殿の方が世間が広い、面白い話はござらぬかな」
「さようさ」といった広太郎、先夜の出来事を思い出した。
「一つあります、意外のことが、世間には物騒なやつがある。拙者ひどい目にあいましたよ」
で、捕り物のあったこと、不思議な人間に斬り立てられたことを、かいつまんで物語った。
「ほほう」と舞二郎それを聞くと、驚きの目を見張ったが、「捕り物の内容ご存知かな?」
「いやいやトンと存じませんな」
「邪教徒の
「ははあ邪教徒? ではキリシタン」
「さようさようキリシタンで」
「で、結果は? 一
「主領をはじめ五、六人の者が、うまくのがれたということで」
「ふうむなるほど、それでわかった。隅田で出あったあのくせ者、恐らくそいつらの一人でござろう」
「さよう、話のご様子ではな」
「どっちにしても物騒な世情だ」
「
「いや全く困難らしい。
「変な浪人も沢山いますな」
「由井正雪、
「
「伊達、島津、加賀、毛利」
「天草、島原の残党などもな」
「それに近来頻々と、奇怪な盗賊が横行するようで」
「それに」と舞二郎はうれしそうに、「お聞き及びでもござろうが、婦女子をかすめる悪漢が
この時であった、不思議な声が、塀の外から聞こえて来た。
「イスラエルの神に······にえ捧げようぞ!」
続いてジャラーンという音がした。
しわがれてはいるが力のある、鬼気を含んだ声である。
「あいつの声だ! 間違いない。······ご免」というと広太郎、裏門から外へ飛び出した。
飛び出したところは屋敷町、いつもは人通りが少ないのに、近所に祭礼でもあると見えて沢山人が歩いている。その人々の頭の上、二尺あまりもグンとぬきんで、巨大な
「
その時修験者は
あッと思う間の出来事である。
広太郎はぼんやり突っ立ってしまった。
「あの早業、あの力量、あの男に相違ない。······だがいったい何者だろう?」
その時である、耳もとで、つぶやく声が聞こえて来た。
「お嬢様にご用心なさりませ。······あぶのうござります。······ご用心」
振り返って見ると一人の男、
「おかしいなあ、なんのことだろう? お嬢様にご用心なさりませ。あぶのうございます、ご用心。······おれにいったのか誰にいったのか、こいつからしてわからない。おれには一人だって妹はない、女房がないんだから娘もない」
気がついて見るとその傀儡師、宮坂町の方へ行くと見えて、春日町の辻を西へまがった。
「待てよ、こいつひょっとすると、お京様のことじゃないかしら? どっちみちひどく気にかかるなあ」真夏の白昼、修験者と傀儡師。二つのものの
その夜起こった事件というのは、不思議といえば不思議でもあり、奇怪といえば奇怪でもあるが、平凡といえば平凡ともいえる。一口にいえば、娘のお京が、危うく人さらいにさらわれようとしたのを、袴広太郎が人さらいをとらえ、通りかかった同心達へ、突き出したというまでである。
人さらいというのはほかでもなく、「イスラエルの神へにえ捧げようぞ」こう呼ばわった修験者であった。
その夜お京は兄の部屋で、かなり遅くまで話しこみ、十二時近くなって
寝についても眠られず、昼間
「どなたか
それはそとから来るらしい。ふすまを抜け出し雨戸を開け、裏庭をのぞくとよい月夜。と、また「お京!」と呼ぶ声がする。「はい」というと、はだしのまま、スルスルと庭へ下り立ったが、裏門の方へフラフラと行き、門を開けたのも無意識であった。
と見ると往来には
「
「
「はい有難う存じます」
「選ばれた処女、恐れるには及ばぬ」
ユラユラと歩く後につき、屋敷の角をまがろうとした時、真っ黒のものが飛び出して来た。
「
「無礼者!」
「人さらいめ!」
ジャラーンと鳴る
「お出合いなされ! お出合いなさい!」
わめいた声を聞きつけて、小松原家から
そこへバラバラと走って来たのが、市中見廻りの八丁堀の同心。
「おお袴氏と仰せられるか、こやつ邪教徒、しかも人さらい、捕えあぐんだ曲者でござる。ようこそお捕えくだされた。お渡しくだされ、引っ立てて参る」
「それはご苦労、お連れくだされ」
「今後もお娘ごにご用心」
見ればお京、気絶している。家へかつぎ込んで介抱すると、パッチリ眼を開けたが物をいわない。しかし事件がこれだけなら、さして問題でもなかったのだが、この後が非常に悪かった。
というのは数日後、衣裳美々しい立派な武士が、袴広太郎を訪れて、こんなかけ合いをしたからである。
「それがし事は西国の武士、
丁寧なようなところもあれば、傲慢なようなところもある、かなり不快な態度口調で、まずその武士は口をきった。
「いかにもさよう」と広太郎、負けずに不作法に返辞をする。
「それがなんとか致したかな?」
「いや、お手柄でございましたな。||ところで甚だ失礼ながら、あの人攫いは容易ならぬ手きき、なかなかもって普通の事では、取りおさえることは出来ませぬ。いかが致して貴所様には、
「木刀で脳天をくらわせてござる」
「ほほう、木刀で。それは不思議。では貴所様には、あの人攫い、昨夜あの辺を襲うということを、あらかじめご承知でござりましたかな?」
「さよう」といったが広太郎、こいつ何かもくろみがあって、やって来たなと感づいた。「まずまずそういってもよかろう」
「拙者もさよう存じました」築土という武士、どうしたものか、ここでキラキラと目を光らせた。
「袴氏······で、獲物は?」声を落とした忍び
「何、獲物? なんのことでござる?」
するとその武士、ニヤニヤしたが、「駄目でござるよ、袴氏。たとえどのようにお隠しあっても、決して決して一人占めにはさせぬ」変なことをいい出した。
「一人占め、いよいよわからぬ。なんでござるな、獲物とは?」
「ふッ、ふッ、ふッ、ふッ」とどうしたものか、築土という武士、陰険に笑った。「いやさすがは袴氏。容易に底をお割りにならない。そうでござろう、それが当然。実際それだけのご用心がなければ、あのような仕事は出来ませんからな。がしかし袴氏、われらも最近あの男を、つけ狙っていたのでございますぞ。横取りされてはたまらない。第一」と武士は眼を怒らせた。「本来きゃつの持っていた物はわれわれ一味の所有物でござった。それをきゃつめがドサクサまぎれに。······いやそれゆえあの獲物を、全部貴殿よりお返しを願い、一人で
「われわれ一味にご加入くだされ、その入会の
これには広太郎参ってしまった。なんのことだかわからない。
「獲物獲物とおっしゃるが、この拙者にはトンとわからぬ。どのようなものかな、その獲物とは?」
真面目にきき返したものである。と、武士の面上に、憎悪の情が浮かんだが、すぐに
「いいかげんになされ、袴氏。とぼけるのにもほどがござる。よしまたどのようにトボけられても、食わせられるような拙者でもない。お芝居をするも善し悪しでござるよ」
「芝居もしなければトボけもしない。拙者真面目にきいているので」
「ふふん」と武士はせせら笑った。
「あくまでもシラをきられる気かな」
「知らぬものは知りませんな」
「それで拙者を追っ払う気かな」
「当方でお招きしたのではない。ご用が済まば帰られるがよろしい」
広太郎も少し
「さようか、なるほど。そう出られたか」
築土新吾、スッと立った。がまたすぐにピッタリと坐り、探るような声でつぶやいた。
「ご不満かな、山分けでは? よろしい、それでは、四分六といたそう」
「くどい!」と広太郎、腹に据えかね、はじめて

「よろしい!」
と新吾、わしのように、その眼光をひらめかせたが、
「後悔なさるなよ、袴氏······いやきっと後悔する······見たようなものだ、後悔されよう! ······貴殿に関してはこの数日、われら懸命に探ってござる。秘蔵の一品盗み取り、貴殿に鼻をあかせて見せる」
「よかろう」と広太郎投げるようにいった。
「盗みたければお盗みなされ」
「ふふん、その時······」
「馬鹿め!」
「何を!」新吾の顔に一瞬間、身振るいするような兇相が、ムラムラとばかり現われた。
帰ったあとで広太郎、吹き出さざるをえなかった。
「なんだろう、あいつ、変な奴だった。
だが間もなく驚くべきことが、かれの身の上に振りかかってきた。
二日ほどたった深夜のこと、小松原家から人が来て、お京の紛失を告げたのである。
「ううむ」と広太郎、それを聞くと、手を握らざるをえなかった。「秘蔵の一品盗んでみせると
大小ぶっこむと屋敷を出、辻駕籠に乗ると駈けさせた。
「舞二郎殿、真実かな

小松原家へ駈けつけるやいなや、声を筒抜かせたものである。
平左衛門と舞二郎、成長した
「広太郎殿、よい知恵を」
いつも沈着の平左衛門が、まずオロオロといったものである。
「お聞かせくだされ、どういう事情?」
「こうでござる」と舞二郎、沈痛の口調で語りだした。
「実は
これが舞二郎の話であった。
「ううむ」とうなると広太郎、腕をくんで考えたものだ。
しかしこれは
「おおかたこうだろうと思っていた。おれにはきゃつらのやり口がわかる。築土新吾となのる奴、おれが獲物を持っていると、あくまでも信じているところから、お京様を奪い取り、それをおとりにおれを誘い、きゃつらのいうところの獲物なるものを、巻き上げようとするのだろう。なるほどな。うまい手だ。おれが獲物を持ってさえいたら、早速出すに相違ない。ただいかんせん、持っていない。第一獲物の性質さえ知らない。いったい何だろう、獲物とは? ······しかしそれはともかくとして、きゃつらの目的は獲物なのだ。有難いことにはお京様ではない。で明日にもきゃつらの方から、なんとかいってくるだろう。その時かまわず乗り込んでゆき、掛け合ってお京様を取り返してこよう」
で広太郎はこういって、小松原家へいとまを告げた。「拙者に少しく存じよりもあれば、まずまずおまかせくださいますよう。あすかあさって、両三日中には、お京様をきっと奪い返し、おつれいたすでございましょう。心配ござらぬ。ご安心なされ。特に
そとへ出ると
だが上野まで来た時である、うしろから人の足音がした。振り返ってみると見覚えのある、例の不思議な
「四谷左門町、
つと横へきれて消えてしまった。
慶安年間の四谷左門町ときては、いわゆる
なにがし播磨守という大名屋敷が、この一郭に立っているのは、ちょっと場違いの感があるが、その屋敷の裏手にあたって
その物騒な巴小路の真ん中どこに立っているのが、巴御殿という化け物屋敷であった。御殿とはいっても巴小路での御殿。黒板塀こそかかっているが、決してたいした
だがいったいどういうところから、化け物屋敷というのだろう? いずれ原因を探ったら、先住のなにがしが
事実そこはここ数年来、借りて住む者がないのであった。
借り手がないから家がクサる。家がクサるから陰気になる。で、世間の連中が、化け物屋敷だと
「巴小路の化け物屋敷、そりゃあとてもすごいものだ。だがおれは驚かねえ、おれはそのそばに住んでいる。どうだえ、えらかろう、金をよこせ」
すると一両出すところを、二両出そうということになる。
巴小路の住人にとっては、巴御殿の存在は、とんだ
金儲けの種だから大事にする。そこでセッセと宣伝する。次第まさりに巴御殿、出世せざるをえないではないか。で、このごろでは巴御殿、幻怪神秘のとばりを
ところがほんの最近に至って、驚くべきことが出現した。
金儲けの種で信仰のマトの、巴御殿に借り手がつき、かれらの縄張りを犯したことである。いよいよ一騒動なくてはならない。
喧嘩するにもゆするにも、あらかじめ敵の状況なるものを、知っておかなければ都合が悪い。巴小路の住人ども、巴御殿の借り主を、そこでこっそり探ってみた。天草殿と呼ばれている、一見貧弱な老武士と、築土新吾と呼ばれている、威風堂々たる中年の武士。それから
「なんだ、たった三人か、二本差しなんかにゃあ驚かない。ねじ込んで行け、ねじ込んで行け」
すっかりなめて掛かったが、間もなく見当がはずれてしまった。なるほど住み手は三人ではあるが、続々と異風の人間が、出たりはいったりするからで、武士姿の者、町人風の者、無頼漢風の者、旅姿の者、しかもそれらが揃いも揃って、足の運び眼の配り、普通尋常な者ではない。
「驚いたなあ、何者だろう? どっちみち大変な奴らしい。こいつアちょっと手が出せねえ」残念ではあったが巴小路の住人、指をくわえて引きさがってしまった。
さてある日の午前である。この物騒な巴御殿の前へ、姿を現わした武士があった。
「四谷左門町播磨守様の裏手、黒板塀に巴の印、うむ、この屋敷に相違ない」不思議な傀儡師に暗示を受け、お京を取り返すそのために、やって来た袴広太郎である。
「ご免」と玄関で案内を乞うた。
ぬっと姿を現わしたのは、向こう傷のある兇相の武士。
「どなたでござる。何かご用?」
「拙者は袴広太郎。築土殿に
「ははあ、貴殿が袴氏で。取り次ぎましょう、
「いやな奴だな、笑いおった」あたりを見廻すと庭が広く、樹木が小暗く繁っている。「場合によっては斬り合うかもしれない。立ち木の多いのは結構だ。多勢を相手に戦うには、
「袴氏、いざお上がり」同じ武士が現われた。
通された部屋は薄暗く、しけるとみえて
「これはこれは袴氏。過日は参上失礼いたした。
憎い奴とは思ったが怒っては損と広太郎、わざと冷静沈着に、「一昨々日おいでの節も仰せられた獲物という言葉、とんと拙者には合点参らぬ。まずそれから承りたいもので、かかる場合掛け引きは無用。拙者決して
「黙らっしゃい!」とまず一
「な、袴氏、貴殿のことだ。危険至極のわれわれの住居へ、単身やって来られたには、それだけの用意があったからでござろう。それポッポ、懐中にさ、それとも左右の
袴広太郎、これを見ると、もういけないと決心した。「おそらく何かの誤解だろう。思い違いをしているらしい。といってとくにもとかれない、一層こだわるは知れている。屋敷はたいして広くはない、築土新吾と先刻の取り次ぎ、奥にいるらしい老いぼれ武士、家内はどうやら三人らしい。斬って家探ししてやろう」
飛びのく築土。広太郎は、ギョッとしてピタリと
チョコンと坐ると丁寧に一礼、それからしゃべりだしたものである。
「ようこそおいで袴殿。愚老は浪人
膝を進めた天草時行、
「正直に申す、広太郎殿。愚老は貴殿の気性が好きだ。ふすまを隔てて、お聞きした五音、
「イスラエル教主、島原城之介? 秘蔵の巻軸と仰せられるは?」広太郎ゴックリつばを呑んだ。なんともいえない奇態な妖気、それが天草という老武士から、陰々とせまって来るからである。
「うむそいつもご存知ない? これは当然、そうでござろう。お話し致す。城之介とはな、貴殿が捕えて同心へ渡した、あの白衣の修験者でござる。そうしてそやつが持ってるので、その巻軸というものをな」
「が、すでに修験者は、同心の手から奉行所へ」
「なるほど渡っているかもしれない。しかしそこには裏があります。地獄の沙汰も金次第、いやな例だが引かねばならぬ。貴殿お家はたいへん裕福、それ、そいつを利用して」
「わいろを使えとおっしゃるのか?」
「いや、そこまでは指図いたさぬ。潔白のご気性、おいやであろうな······では、やむを得ぬ。お眼にかけよう、貴殿、魂のおののくものを」
天草時行スッと立ち、ふすまを開けると、縁へ出た。
「広太郎殿ついておいで」
縁の行きづまりに一つの部屋、それを通るともう一つ、そこのふすまを引き開けた。昼だというのに暗いのは、四方たてこめているからで、ほんのり照ったのは
「逢ってお話しなさるがよい」トンと広太郎を突きやると、天草時行立ち去ってしまった。
走り寄った広太郎、お京の肩を
「拙者でござる袴広太郎! お助けに来ました。もはや大丈夫! お京様! お京様! お京様!」
だが返辞をしなかった。何かをじっと見詰めている。と、やがてあこがれるように、
「美しい殿堂、毛皮の
お京、ふっと声を切り、顔を横向け広太郎を見た。「あっ、あなたは広太郎様!」
「気がつかれたかな、お京様!」
が、やっぱり駄目であった。お京の顔が上向くと、
「花に蜜蜂、野には
「気が狂ったのだ! 発狂だ!」
「そうではござらぬ」と奥の部屋から、天草時行の声がした。
「
今日の浅草
碁盤目小路からやや離れ、今日でいえば
さてある晩のことである。例によって南蛮屋は繁昌していた。二十人近くの客があって、その中に五人ほどの武士がいた。
店とのれんをさかいにし、狭い料理場が出来ていたが、そこに数人の
「おい、見や見や今夜もいるぜ。薄気味の悪いリャンコめが。あのあから顔の四十年輩、あの侍を知ってるかい」
「知らなくってよ。お茶の水だあ」
「せいの高い侍は?」
「あれは
「本郷六丁目も来ているぜ」
「ふふん、浅草七軒町もいらあ」
「おっと、
「全くもってご精が出るな、とっ代え引っ代え飽きもせずに、やって来るのはいいとしても、時々ひどく乱暴するので、たいして有難い客ではないよ」
「有難くないばかりかい、迷惑至極というものだ。あいつらが来るのでいやがって、足を遠のかせるお客様もあらあ」
「だがあいつら、自分たちの素姓が、わからないと思っているのだろうか。もしそうならトンチキだな」
「江戸じゃあ一流の人物だ、まさかそうとは思っていまい。顔の知れている奴らだからな」
「親方にちょっと知らせておこう」
ひとり奥の方へはいって行った。
店では五人の侍が、チビチビ杯をなめながら、あたりの様子をネメ廻していたが、
「これ、ごろん棒、お前はどこだ?」お茶の水と呼ばれた四十年輩の武士が、横手に腰掛け酒を飲んでいた、地廻りらしいいなせの男へ、ぶっきらぼうに話しかけた。
「見れば立派な体格だが、それに年もだいぶ若い。働き盛りだ、働け働け。酒などあまり飲まぬがよい。貴様五本もたいらげたではないか。もっともおれは十本たいらげた。飲みたければ酒も飲むがいい。が、なるたけほかへ行って飲め。南蛮屋では飲まぬがよい。ひどくボルよ、この店はな。さあさあ帰れ、いいかげんで帰れ。いずれ女房もあるだろう。帰って女房を可愛がれ。たいしてべっぴんでもあるまいがな。貴様のつらも相当不出来だ。おそらく似合いの夫婦だろう。······なんだ、そのつらは、
相手が悪いと思ったのか、地廻りらしいいなせの男は、にが笑いをしてだまっていた。かさにかかったお茶の水という武士、
「これ、貴様、無礼千万だぞ。武士たるものに言葉をかけられ、返辞をしないとは何事だ。おしか、それともつんぼなのか」
「うるせえヤイ! 三ピンめ!」
ここらあたりの地廻りときては、武士などには驚かない。とうとう爆発させてしまった。「何がなんだと、いらざるお世話だ! おれの金をおれが使うのだ。てめえの厄介になりゃあしめえし、女房のことからおれのつらまで、なんの用があって詮索するんでえ。どこで飲もうとおれの勝手だ。ボルかボラねえかそんなことはてめえ達よりおれの方が詳しい。見りゃあ相当のなりをしているが、田舎者だな。銀流しだな、ゆすろうとかかっているのだな。ヘンべら棒、その手に乗るか、コウこの辺の地廻りはな、雑種とは違う江戸ッ子だ。火事が好きで喧嘩が好き、女が好きで酒が好き、大名小路広小路、伊勢屋稲荷に犬の糞、江戸紫から錦絵まで、嫌えなもなあ一つもねえ。が、一つある。二本差しよ。こいつだきゃア
「元気がいいの。うん、ごろん棒」
「いてえいてえ。おおいてえ!」いなせの地廻りもがき出した。
「おそろしい力だ、おおいてえ! こんなに強いとは知らなかった。ワーッ、いけねえ、人殺しいい!」
「これこれ何だ、
いなせの地廻り
「それとも拙者の忠告を入れ、今後南蛮屋へは来ないようにするか。誓えばゆるす。どうだ、どうだ」
「へえへえ承知致しやした。もう来ることじゃあございません。旦那様え、ごめんなすって」
「うんそうか、それなら許す。が、なんとかいったっけな、大名小路広小路、伊勢屋稲荷に犬の糞、江戸紫から錦絵まできらいなものは一つもねえが、二本差しだけは好かねえか」
「ありゃあ無駄の形容詞で」
「お前が本来むだじゃあねえか」
「そんなあんばいでございます」
「むだな人間というものは」トンと
「お払い!」とそとで叫んだのは、とんだ場違いの江戸ッ子である。
とうとう一匹つまみ出してしまった。バラバラと四、五人が立ったのは、そば杖を恐れて逃げたのだろう。
「いや、お茶の水面白かった」こういったのは
「さあ飲んだり、大きい奴で」グイとどんぶりを突き出したのは、本郷三好坂といわれる武士。と、一人ヒョイと立った。浅草七軒町と呼ばれている武士で、部屋の片隅に腰かけている、商家の若旦那とも思われる、町人のそばへ寄って行った。
事件が起こるかと思ったところ、何にも事件は起こらなかった。武士が寄って来ると見て取るや、「ヒャッ」とわめいて若旦那、金も払わずに飛び出してしまった。損をしたのは南蛮屋で、がっかりしたのは七軒町という武士。
「骨のある奴は一人もないな」ギロギロあたりをネメ廻す。と、七、八人バラバラと、急いでそとへ逃げ出してしまった。だが、その時不幸にも、一人の武士がはいって来た。成長した
五人の侍うれしがってしまった。
「おい、三好坂、お前ゆけ」
「よろしい」というと立ち上がり、ニヤニヤ笑いながら近寄った。「あいや、お武家。お酌しましょう」
驚いた金弥、眼をあげると、三十八、九の立派な武士、向こう側に腰かけている。
「これは恐縮、いやそれには······」
「ご遠慮なさるな」とドクドクとつぐ。「南蛮屋とはおなじみかな」
「なかなかもって、今夜がはじめて。それも偶然通りかかり」
「ははあさようで、それなら結構、こんな所へは来ない方がよろしい。お見受けすればご若年。それにどうやら浮かないご様子、失礼ながら失恋かな?」沈着な声でズケズケと聞く。
すると金弥は眼を見張ったが、「ほほう、どうしてご存じで?」
「アッ、やっぱり失恋か。それはそれはご同情に堪えぬ。
「
「さようさ」といったが三好坂という武士、かえってアベコベに面くらったらしい。
「いずれべっぴんでござろうな」
「いかにもさよう。天女のようで」
「いやいや拙者の思うところでは、弁天様のように美しい筈で」
「お言葉どおり、弁天様のようで」
「だが少々浮気の方でござろう」
「これは無礼!」と金弥おこった。
「貞淑無類、珍しいほどで」
「いやいや拙者の考えでは、浮気者の
「さあ」と金弥、なぶられるともしらず、「一人ありました。旗本の次男で」
「それそれそいつが仇し男でござる。おそらく今ごろは手に手を取り······」
「いやいや断じて、そんなことはござらぬ。実はその男も拙者と同じく、探し廻っている筈で」
「などと安心していると、貴殿、煮え湯を飲まされますぞ。そいつが
「さようかな? そうだろうか?」
金弥うかうか乗りかけた。「ここに一つ残念なは、そやつの方が、武道では······」
「ははあ、貴殿よりできますかな」
三好坂という武士、またニヤニヤ、
「さようさ、全く、打ち見たところ、貴殿はご
縹緻がよいといわれたので、またもや金弥オホンと咳。
「失礼ながら貴殿には、寺侍でござろうの?」そろそろ無礼なことをいう。
「とんでもないこと、旗本でござる」
「ははあ、徳川ご直参か」
「しかも安祥旗本で、家柄にかけては、
「それは、えらいの」とだんだん無礼。「で、ご
「む」と金弥つまったが、「そういう貴殿は、お大名かな?」
「拙者、天下の浪人でござる」むしろ
「どうしたどうした三好坂」こういいながら四人の武士、ドカドカかたまってやって来た。
「何さ、ここにいるご仁がな、あんまり縹緻がお美しい。寺侍かと聞いたところ、安祥旗本とおっしゃるので。どうかな、旗本に見えるかな?」
「どれどれ一見。これは美男! ははあこいつ、河原者だな」
「どれどれ一見。これはヨカ
「どれ拙者にも見せてくれ。あッ、なるほど。これは
「まあさ、拙者にも見せたり見せたり。ウフッ、まさしく
金弥ガタガタふるえ出した。「無礼でござろう、無礼でござろう!」
「しゃれた事を申せ!
「それがよろしい。なまくら拝見」一人が金弥の刀を抜いた。
「感心感心、さびてはいない。しかし曲げると曲がるやつだ」
ガランと往来へ投げ出してしまった。
「後学のため見て置かっしゃい!」
「わかるかな、
すると続いて七軒町という武士、同じくギラリと引き抜いた。
「
続いて三人が引き抜いた。
「
「すなわち
「驚いてはいけない、
「もうよかろう」といったのは、お茶の水という武士であった。「さあさあ帰れ。今後は来るなよ」
トンと金弥を突き出した。
あとには客は一人もいない。みんな逃げ去ってしまったらしい。
「これ、小女。酒を持って参れ」
この前後から十二、三人の人影、家の奥から店をながめ、打って出ようとひしめいていたが、どうやら誰かがとめたとみえ、いつか姿が消えてしまった。
「酒はどうした。酒だ酒だ!」
「もうよかろう。勘定だ」
すると小女が現われた。
「へえ、五両いただきます」
途方もない高い値段である。またゴテルかと思ったところ、例のお茶の水と呼ばれた武士、だまって小判を五枚並べた。一斉に立ち上がって出ようとした時、門口から客がはいって来た。ほかならぬ袴広太郎である。
どうしてこんな南蛮屋などへ、袴広太郎は来たのだろう? やはり金弥と同じように、偶然入り込んで来たのだろうか? それにしては様子が違う。何か一心に思い詰めたような決心の色が明らかに
乱暴な五人の侍が、見のがしておく筈はない。はたして五人の侍は、広太郎を見ると顔を見合わせ、元の席へ引き返した。
ここは南蛮屋の奥座敷、屋号に似つかわしい南蛮風の部屋で、青い
ガラガラと器物の壊れる音が、店の方から聞こえてきた。
「チェッ、奴らまだいやがる。乱暴
「うっちゃってお置きよ、どうなるものか。今があいつらの全盛時さ。あばれ放題あばれるがいいや、そのうちにこっちが勝ってみせる」
「などとおちついているうちに、口があいたらどうします」
「
「あっしにゃアなんだか心配でね。どうでしょう、いっそのこと、荒っぽい料理に取りかかっては」
「そいつこそ本当にあぶないよ。だって忠公そうじゃあないか。味方に五百人の人数があれば、敵には千の人数がある。それに味方がどうかというに、残念ながら
ミーンとなきながらスペイン猫、寝椅子の上へ飛び上がった。
「眼に毒だ、
「へん」とお町はあざ笑った。「そう緋縮緬がこわくては、
「それがさ、並みの緋縮緬じゃあない。あぶらの乗った真っちろな、ピンと張り切ったはぎが二本、鎮座ましますと思うとね、こう胸の辺がモダモダしまさあ」
「
「惜しいものだ」と
「あねごも今年ははたちの筈だ。いろをこしらえていい頃だ。
「
「どっちにしても似たようなものさ。なにしろあねごは
「そりゃあそうだろう。わざとしているんだもの。根からの平民という奴は、不思議にひどく高踏がるし、貴族うまれの人間は、あべこべに平民になろうとするよ。でもね」とお町ぼんやりと、あこがれるように眼を据えた。「いい相手さえ目つかったら、
「どんな男がお好きかね?」
「ああ真っ先にいって置こう。お前のような男じゃあないよ」
「ご丁寧でげす。さてそれから?」
「色の浅黒い好男子さ」
「アレ、おいらに似ているぜ」
「武道の方も達人でね」
「中条流の
「金持ちでなけりゃ嫌いだよ」
「あッ、こいつだけがはずれている」
「三拍子そろった若い男さ」
「飲む打つ買うの三拍子なら、めったにヒケは取らねえが」
「さあそいつだってあぶねえものさ、飲むときまって
「ワーッ、あねご、コキおろしましたねえ」
「冗談おいいな。正直なところさ」お町グルリと腹ばいになった。薄物を透して二本の足が、かかとからスンナリと伸びている。ワングリした腰つき短い胴、たくましくはあるがととのった肩、日本人放れのした体格である。伸ばした腕に袖がまくれ、二の腕がムッチリとあらわれている。
見ないような様子はしているが、忠三こっそり眼を使い、はだけて見える乳の辺へ、いやな笑いを送っている。二つの乳房に押し伏せられ、もがき廻っているスペイン猫が、どうやら忠三には羨ましいらしい。
「おいらも猫になりてえなあ」こんな事を考えているらしい。
「無理あねえな」と忠三がいった。「島原城之介がコロリと参り、あねごの味方になったのはね」
「ふふん、あいつもお前に似ている」
「惜しいことをした。ちょっとの違いだ。
「今さらいったってどうなるものか」
「あねごにしちゃアまずかったね。すぐに巻き上げりゃよかったのに」
「いくら好色の城之介でも、あれほどの物が手にはいりゃあ、ちょっと渡すのが惜しくなるものさ」
「そのうちとうとうとッつかまってしまった」
「なんとかいったっけねえ、とっつかまえた奴は?」
「袴が広いとかいう奴さ」
「ああ袴広太郎か」
「あねご?」と忠三、声を強めた。
「あねご」と忠三、声を強めたが、「どんなものでしょうね。こんな時にこそ、お館におすがりになっては?」
「それがさ、どうも気が進まないよ」イスラエルのお町、気がなさそうに、「せっかくここまで仕上げたんじゃアないか。それを今さらおすがりしては、
「機会を逃がすと大変だがなあ」
「うるさいねえ。心得ているよ」
「いい手段でもおあんなさるので?」
「いったじゃアないか、もうさっきに。待てば海路の
「私にゃ難船が眼に見える」
お町、今度は返辞をしない。
「わがままでさあ、わがままですよ。ちゃんと膳立てをしてお招きした、あっしの苦心は買ってくれず、待てば日和は
「なんだい忠三、いいかげんにおしよ」涙をふくとイスラエルのお町、グルリと一つ寝返りを打った。喜んだのはスペイン猫で、乳房のおもしから逃げ出してしまった。と、お町、口をすぼめ煙りを吐いたものである。
「あのね、いずれはそうなろうよ。お館様のお力に、おすがりするようになるだろうさ。それよりほかに今のところ、いい手段はないのだからね」
「そうでげしょう、そうですともさ。そうきまったらさあすぐに」
「ところが駄目さ、まだ今はね。······誰かいっそ強い押し手で、押し立ててくれたら飛び込んで行くよ」
「え?」といったが忠三には、どうやら意味が飲み込めないらしい。「なんのことでげす、押し手とは?」
「はっきり
「ははん」と忠三、今度はわかった。「いけねえなあ、大望の邪魔だ」
「何がさ?」とお町、眼を返す。
「やっぱりなんだ。玉の杯には、底がねえ方がよさそうだ」
コツコツと戸を打つ音がした。
「ああいいよ。はいっておいで」
はいって来たのは料理人、やはり仲間の一人である。
「イスラエルのあねご、お客様で」
「え、私に客だって? おかしいねえ。だれだろう?」
「立派なお武家様でございますよ」
「あっ、驚いたなあ、もう来やがった」これは忠三のつぶやきである。
イスラエルのお町を訪ねたのは、ほかならぬ袴広太郎であった。帳場の前へたたずみながら、ジリジリとして待っている。
「逢わなければならない。どんなことをしても。まだかなまだかな、どうしたんだろう?」
五人の不気味の侍が、ジロジロ見ているのにも気がつかない。
「どうしても逢ってお願いする。是が非でも納得させなければならない」地団太を踏むばかりである。
発狂ではござらぬ。
何より真っ先に訪ねたのは、懇意の与力勘十郎の屋敷で、広太郎はこういってたのみ込んだ。
「先夜拙者手ずから捕え、通りかかりの同心衆へ、お渡しいたした白衣の修験者、島原城之介と申す者に、特別をもってこっそりと、牢前にても結構でござれば、おあわせくださることなりますまいかな?」
それに対する勘十郎の言葉は、まことに不思議なものであった。
「何を袴氏仰せられる。修験者とか島原城之介とか、さような
びっくりしたのは広太郎で、途方にくれざるを得なかった。思い余って市中をさまよい、車坂まで来た時である。よいやみの中からものの
「浅草へおいでなさりませ。
で、訪ねて来たのである。
「あの傀儡師何者だろう? まるで運命の神様のようだ。吉凶共に先ぶれをする。イスラエルのお町とは何者だろう? 善か悪か不安だなあ。逢えばわかる逢えばわかる。善悪にかかわってはいられない。少しでも力になる者なら、たのんでたのんでたのみ込み、どんな犠牲を払ってでも、お京様から呪縛を解き、あの屋敷からつれ出さなければならない。が、それにしても驚いたなあ、あの時の同心がにせ物とは。はたして島原城之介、どこに隠れているのだろう? イスラエルのお町とかいうその女、城之介のありかを知っているのかしら?」
取り次ぎをした料理人、奥へはいったまま出て来ない。
「まだかな、まだかな、どうしたんだろう? ······ああそれにしてもお京様、なんという境遇になったんだろう。あのままでは気違いだ。一日遅れれば一日だけ、悪化するに相違ない。······それに気味の悪いあの屋敷。それに気味の悪い天草という武士。よしや呪縛はなかろうと、あんな屋敷へ入れて置いたら、本物の気違いになるだろう。······遅いなあ、どうしたんだろう? 逢わなければならない、逢わなければならない。······逢ったらおれはこういってたのむ。費用も惜しまぬ。不義に心をまかせてもいい。どんなのぞみにでも応じましょう。もしも可憐なお京様を、正気にお取り戻しくだされたら」
「お逢いなさるそうでございます。さあさあどうぞお上がんなすって」
取り次ぎの者がこういった時、はき物をぬぐのももどかしく、広太郎は座敷へ飛び上がった。
店を通ると廊下であり、その突き当たりに
見知らぬ訪問者を怒ったかのように、スペイン猫が背を持ち上げ、ガリガリとつめをといだのも、金属性のなき声を、籠の中で
「花ちゃん花ちゃん、だまっておいで」
イスラエルのお町はいったものである。すると鸚鵡がなきやんだ。
「ネロやネロや、あっちへおいで」
すると猫が立ち去った。
「お掛けなさりませ、袴様、······
底力のある
ああ優秀なるバンパイヤ! さすがの広太郎も圧迫を覚え、じっと立ちすくんだものである。
「だが大丈夫だ。この女なら! どんなことでもかなえてくれよう」
同時に心の片隅では、安心を覚えたものである。
しかしはたして広太郎にとり、イスラエルのお町と逢ったことは、そんなにも幸福なことだったろうか?
しんと
一つの辻をまがったとたん、「参るぞ!」という声がした。同時に人影、黒々とおどり、サッと太刀風が頬にふれた。飛びしさった広太郎、家の外壁へ背をつけた。
「これ、何者だ。人違いをするな。拙者は旗本、袴広太郎。怨みを受ける覚えはない!」
柄は握ったがまだ抜かない。暗中の敵を
「ふふん」とあざ笑う声がした。
「袴広太郎、まさしく承知。さあ出て来い、出られるかな」にくにくしいおちついた声である。星影で見れば大上段、辻の真ん中に立っている。感覚でわかる、その構え、容易ならない強敵である。
「袴と知ってかかって来たか。わけは知らぬが是非に及ばぬ」
気息を調べる忍び声、こういうと広太郎はスッと抜いた。
「盗賊かな、遺恨かな? 島原城之介の一味かな? 困ったものだ。ちと手強い」前足を折り、後足を敷き、敵の胸まで肩を落とし、スルスルと進むは柳生流の下段、二星を取って勝とうという、すなわち
沈龍の構えで広太郎、スルスルと辻まで寄せて行った。
とまたジリジリと寄り合った。相手は青眼、その太刀先、三寸へわって太刀をつけた。間一髪、横手払い、チャリンと払った敵の太刀。そこへ
「素早い奴だ。業も巧み、一流の達人。何者だろう?」決して油断はできなかった。辻の四方を見廻してから、家の外壁へ背中をつけ、そのままゆるゆると横歩き、辻を一方へ曲がって行った。とまた同じような辻へ出た。
「参るぞ」
という声がした。全くちがった声である。二人目の敵が出たらしい。辻の中央に黒々と、
「また出たな」と広太郎、
用心しながら進んでゆく。と、また四辻へ現われた。が人影は見えなかった。それを一方へ曲がった行く手に人影が立っていた。ちがった声で、「参るぞ!」といった。
辻ではない、狭い小路だ。振り廻すことはできなかった。
「えらい気魄だ。まずご免!」いったかと思うと敵の影、一つの小路へ駈け込んだ。そのまま姿が消えたのである。
すっかり汗ばんだ広太郎、
「あいやお武家、袴氏とやら。ずいぶん立派な腕前だの。拙者
鉄扇で相手をするという!
「さあおいで、なんで来るな。
怒りを発した広太郎、柳生の極意、九ヶ必勝、大のしにのすと水月を越し、こぶしさがりに斬り込んだ。太刀といっしょに身を沈め、敵の打ち物に隠れたが、ドンと飛んだは体あたり、敵もろともに自分の身も、こなにしようとしたのである。
「惜しい」
という声がうしろでした。ハッと広太郎振り返ると、鉄扇の武士が立っている。
クックックッと笑ったが、「まずまず見事、ちと遅かった。それはともかく、うしろをご覧。槍だ槍だ槍が出た」
家の外壁へ背を持たせ、いわれるままにうしろを見た。はたして暗中に人あって、槍に
「袴氏とやら、槍参らせる」さも愉快そうな声である。
グルグルグルグルと闇ながら、眼前に渦巻くものがある。槍だ槍だ槍の穂先だ。眼がそこから放れない。しだいしだいに引き込まれる。
「もう一本!」と声がした。とたんに繰り出された槍の穂先、広太郎夢中で払い上げたが、
「あっ!」と声を筒抜かせた。
なぜ広太郎は驚いたか! 夢中で払い上げた槍の穂先、チャリンと金の音は響かずに、ボコンと木の音がしたからである。「おっ、こいつ稽古槍だ!」
すると哄然と笑い声がした。「さよう、いかにも稽古槍、穂先の代わりにタンポがある。がしかし袴氏、この稽古槍受けられるかな。生き胴はもちろん鉄壁なりとも、拙者が突けば突き通す。うそと思わば貴殿の胸板、遠慮はいらぬ差し出しなされ。
またも闇中にグルグルと、ほの白いものが廻りだした。飛び込めもせず
「ソレ袴氏、お行きなされ。飛び込んだり飛び込んだり。たかがタンポ槍、なんでもござらぬ。拙者後見、大丈夫でござる。······いけませんかな、飛び込めませんかな。ははん、さようか、無理もないて。······あいや
バラバラと辻から現われたのは、三人の武士の姿である。広太郎五人に取り巻かれてしまった。「駄目だ」と考えた広太郎、ガラリ太刀を投げ出すと大地へ坐って腕を組んでしまった。「殺そうと生かそうとままにしやがれ」覚悟のほぞをきめたのである。と見て取った正面の敵、トンと槍を地に突いたが、
「これは感心、よく見抜かれた。どうせかなわぬと思ったら、そういう態度がいさぎよい。ひどい奴になると盲滅法、飛び込んで来て怪我をする。一層の馬鹿は逃げようとする。卑怯者になるとたすけを乞う。貴殿の態度は
「さよう」といったのは鉄扇の武士で、つかつかと小腰をかがめた。「失礼いたした、袴氏、
すると槍の武士が一
するともう一人が進み出た。「
続いてもう一人の武士がなのった。「浅草七軒町で槍術指南、拙者は加藤市右衛門でござる」
「拙者は奥村八左衛門。
「実は」と能弁の三郎兵衛、「先刻南蛮屋にてお目にかかり、その際申し上げようと存じたところ、奥へ通られて出て参らぬ。そこで途中でお待ち受けし、甚だ失礼とは存じたが、一つには力量もためしてみたく、またご忠告も致したく、五人代わる代わる立ち
すると忠弥が進み出た。
つと進み出た丸橋忠弥、
「南蛮屋の一味を一口にいえば、天草、島原のキリシタン、その目的は邪教の
「丸橋氏」と三郎兵衛がとめた。
「これでお
「それがよろしい。しからばこれにて」
「ご免くだされ、袴氏」
タラタラと五人肩を揃え、スッと小路へ消えてしまった。その素早さ、あとはシーン!
大地へぶっ坐った袴広太郎、しばらくは立ち上がらなかった。
「なるほどなあ。かなわない筈だ。五人ながら江戸の一流、わけても丸橋柴田ときては、
と、その時、星の
「はて何だろう?」と見上げたが、たいして気にもとめなかった。
碁盤目小路をやっと出て、自分の屋敷の方へ帰って行った。
さて一羽の巨鳥であるが、碁盤目小路の屋根上を過ぎ、深夜の江戸を西南に向かい、赤坂の方へかけてゆく。
そこまで来た時、その巨鳥、翼をちぢめると思ったが、スーッとばかり木立へ下りた。しばらくは何の音もない。
その奥庭に張り出して、一宇の建物が立っていた。その部屋の中に端然と、見台にむかって坐っているのは、五十年輩の高朗たる人物、館の主頼宣である。
と、ハタハタと戸外から、雨戸をたたくものがある。が、頼宣気がつかない、じっと書物に食い入っている。と、またハタハタとたたく音! はじめて頼宣顔をあげた。
「はてな。風でも出たのかな?」
と、またハタハタとたたく音!
当時紀州頼宣といえば、
下ぶくれの
とまたあま戸へあたる音、ハタハタハタとやわらかい。
「これはおかしい」とズイと立ち、ふすまを開けると長廊下、つと立ち
「ほほう」とさすがに驚いて、静かに坐るとだきかかえた。鸚鵡はちっとも動かない。紙片をほぐすと女文字、一通り見ると打ち案じたが、やがて
「はっ」といらえてふすまを開き、手をつかえたは
「うむ、ちょっと
間もなくやって来たは牧野兵庫。おそば去らずの
「おお兵庫か、これを見い」例の紙片をヒョイと出した。
「拝見」というと押し戴き、一渡り見たが顔を上げた。「町姫様よりの懇願状!」
「うむ、そうだ。意外だったよ」
「しかしお
「今な、鸚鵡が舞って来た。そうしておれに手渡したのさ。で、すぐに返辞をやった」
「ははあ、鸚鵡が?」と眼を見張ったが、「何とお館にはご返辞を?」
「いうまでもない。承知したとな」
「これはごもっともに存じます」
「ついてはその方大儀ながら、すぐに参って取り計らってくれ」
「かしこまりましてございます」
退出をした牧野兵庫、間もなく大納言家の裏門から、一
見台に向かった紀州頼宣、読んでも意味がわからないらしい。
「町姫、町姫、可哀そうな娘! あれの母さえ······尋常であったら······」眼頭に涙がたまったらしい、指で押さえたものである。
その間もかごは宙を飛ぶ。
深々とふけた夜の江戸、そこを駈けゆく一挺のかご、まるで流れる星のようだ。いったいどこへゆくのだろう?
その牛込の
その屋敷の長廊下を、二人の武士が歩いて行く。一人は
「鵜野、戸をあけい」と正雪の声。
ガチンと
「島原、島原、城之介! おいのりかな、精の出ることだ」まず正雪声をかけた。「が、根気ではおれも負けぬ。今夜もお前を責めに来た。さあさあ強情もいいかげんにしろ。巻軸を出せ、出してしまえ」パチパチと鳴らしたは、むちである。
と、城之介合掌を解き、グルリと正雪を振り返ったが、
「正雪殿、ご苦労千万」こういった声には鬼気がある。「全く根気のよいことで、日夜お責めにいらっしゃる。で、拙者も持っているものなら、その巻軸とか申すもの、早速進呈致したいのでござるが、お気の毒様で持っていません。その証拠には衣裳をはぎ、下着を取ってお調べになったが、どこにもなかったではござらぬかな」むしろヘラヘラ笑ったものだ。
「うむ、それはわかっている。······どこに隠したか聞いているのだ。
「拙者はイスラエル教の教主でござる。信者のある所、
「大きく出たな」と由井正雪、今度はあべこべにヘラヘラ笑った。
「実際浮世をおどかすには、なるたけ大きく出た方がいい。そういう点では賛成だ。しかし人を見て法を説け。この正雪にそんなことをいっても、驚きもしなければ感心もしない。上は天文下は地理、武芸十八般
だが城之介がえんじない。「それというのも底をわれば、巻軸欲しさのしわざでござって、親切づくしではござらぬ筈、その証拠には同じ日の午後、富坂町の四辻で、その佐原殿の一群が拙者を襲ったではござらぬかな。もっとも
城之介あざ笑ったものである。
島原城之介に笑われても、正雪怒りもしなかった。「ではいよいよ不承知か」
「承知不承知は別問題。拙者巻軸など持っていません」
「まだ強情か、やむをえぬ」正雪ここで考え込んだ。青白い秀麗な顔だけに、考え込まれると気味が悪い。「鵜野」と正雪は小さな声で、「拷問の用意! みっしりとやれ!」
「何?」と城之介顔色をかえた。「拷問なさるとおっしゃるか?」
「なみの拷問とは違うぞよ」正雪水のように冷静に、「一本一本髪を抜く、頭がはれあがって四斗樽ほどになろう。さてそのつぎには歯を抜くのだ。ミリミリミリと釘抜きでな。さてその次には眼をえぐる。だが両方はえぐらない、片眼だけは助けて置く。
「おやりなされ!」と城之介、かれ声をしぼって、うめくようにいった。「神の試練! こらえてみせる!」
「さて最後の拷問は······」
「まだやるのか。これは面白い」
「お前の恋するイスラエルのお町······」
「何を!」と城之介膝を立てた。「巻軸取りの競争相手······ううむ」とうなったものである。
「おびき寄せてこの牢屋で······」
「何をするのだ、何をするのだ!」
「一糸もまとわずはだかにし······」
「はずかしめようとするのだな!」
「お前の見ているその前でな······」
「罪悪だ!」と飛び上がった。「エリヤよ、予言者よ、イスラエルの神よ! この悪人を、
「ほえろほえろ、五十ぺんでもほえろ。イスラエルの神が天上から、この土牢へ現われて、屋根を破ってお前を連れ出し、奇蹟を現わしたらおれは信ずる」
「モーゼに現われた大天使よ、この
「いい形容詞だ。かなり荘厳だ。さてイスラエルの神様め、火柱になるか雷になるか、ちょっとおれにも楽しみだ。が永くは待たれない。なるたけ早く出してくれ。十まで数える、十までな。······一、二、三······」とゆっくりと、正雪数をかぞえ出した。「十だ!」と叫ぶと皮肉にも、四方を見廻したものである。
「これはいけない、現われないようだ。さてそれではおれの番だ。どうやら最後の拷問が、いちばん利き目があるらしい。鵜野門家の衆を率い、南蛮屋敷へ取り詰めろ! お町一人を目がけてな」
「待て!」と城之介がひざまずいた。「お町にはなんの罪もない! どうぞそれだけはやめてくれ!」
「ではよこすか、巻軸を!」
城之介なんの答えもない。
「鵜野、行け!」と正雪の声!
「はっ」というと九郎右衛門、牢屋口から出ようとした。とたんに外から声がした。
「先生、ご来客にございます」
来客というのはほかでもない、紀州家の家臣牧野兵庫、客間にピタリと控えている。
「おおこれは牧野氏、深夜のご来駕何用かな!」
はいって来るや正雪は、やや不快そうにこういった。
兵庫
「さて早速に申し上げる。承れば由井殿には、島原と申す修験者を、おかくまいあると申すこと。しかるに紀州大納言様には、該修験者とは懇密でござる。で至急に修験者を、お屋敷から追放なさるようこの段しかと申し入れます」
「ははあ」といったものの正雪にとっては、これは意外の言葉であった。「いかにも島原城之介と申す、怪修験者はかくまいおりますが、どうしてそれを大納言家には?」
「いやその儀につきましては、拙者とんと存じませぬ」
「ううむ」と正雪考え込んでしまった。「不思議だな、どうしたんだろう? 島原城之介を捕えたことは、世間の者は知らない筈だ。ましてや紀州大納言様などが、知っておられる筈がない。それにも拘わらず知っておられる。そればかりでなく城之介めと、懇密の仲だと仰せられる。どうもまこととは思われない。
とその時牧野兵庫、一膝進めると声を落とした。
「紀州家の使者として申すでなく、単なる牧野兵庫として、由井先生へ申し上げます。これは先生におかれては、是非とも大納言家のお言葉に従い、島原という修験者を、この際追放あそばすよう、切にお進めいたします」
「うむ、それはどういうわけかな?」
「大納言様へすがられた方が、尋常な方ではございません」
「ナニすがる? すがるとは?」
「修験者を追放するように、すがった者があるのでござる」
「ははあなるほど。何者かな」
「それより先に先生へ、お尋ね致したいことがございます。イスラエルのお町と申す婦人、先生にはお聞き及びござらぬかな?」
「さようさ、噂は聞いております。島原天草の残党で、あるスペイン司僧の娘と、日本の貴族との間にできた、混血の美人だと申すことで」
「その日本の貴族というのが、大納言家でございます」
「ナニ、それではイスラエルのお町は、頼宣公のご
「そのご落胤の町姫様がおすがりしたのでございます」
牧野兵庫の駕籠が帰り、夜が白々と明け初めた頃、由井正雪の門前で、ジャランという鉄杖の音がした。現われたのは島原城之介、スタスタ町の方へ歩いてゆく。
「由井正雪といったところで、ろくな知恵は持っていねえ。眼の前にある巻軸に、気がつかねえとはあきれたものさ。身体や頭をさがしたところで、なんでそんなものがあるものか、持ち物にだよ、持ち物にだよ」こんなことをつぶやいている。
明けゆく江戸は美しい。高台のあたりで
山伏町から
「眠いねむい、恐ろしく眠い。入りかわり立ちかわりやって来て、眠らせねえようにしやがったんだからなア。こいつにゃおれも参ったよ。十両でも二十両でもくれてやる、どうぞちょっぴり眠らせてくれ、ほんとにおれはこう思ったものさ。······それはそうとここはどこだ!」グルリと
「イスラエルの神ににえ捧げようぞ!」
ジャランと鉄杖を響かせた。あさまだきで人気がない。さびた声と鉄杖の音、虚空を渡ってさえ返る。とスタスタと城之介、足を早めて行き過ぎた。「まずあの女もこっちのものだ。
身体も疲れているらしい。歩く足がヨロヨロする。
「さてこれからどこへ行ったものだ? ほかに行く所があるものか。南蛮屋だあね、お町の所さ」どうしたものか笑い出した。「あの女を思うとグラグラする。全くなあ、いい女だ! いってみればにが手だね、こっちが
本郷を抜けて
よい天気、日がさして来た。堂のいらかが光っている。
と南蛮屋の
「やりきれねえな、あのあねごには」これが最初の口小言である。
「袴が広いという奴に、とうとうとろけてしまやアがった。口をすくしてたのんでも、おいらのいうことはきいてくれず、そこへあいつがやって来て、一口たのむとすぐ承知だ。よろしゅうござんすというところで、パーッと鸚鵡をトッ放す。すると城之介が帰って来て、ヘラヘラ変てこに笑ったかと思うと鉄杖の中から巻軸を出し、うやうやしく献上する。この辺までは結構だが、どうもそのあとが面白くねえ。せっかく奪った巻軸を、天草へ返せというのだからなあ。あッ、痛え! この野郎! どいつだおれにぶつかったのは! オヤオヤオヤ、
公孫樹におわびを申し上げ、さて忠三走り出した。
「こうなりゃアおれが投げ状で、島原の残党天草時行、浅草
「フェーッ」というと先棒が、ガタンと駕籠を抛り出した。
「へえへえこれは親分さんで、どうぞご勘弁願います。やくざ者ではございますが、まだお縄を戴くには、間があるようでございます。そりゃアあなた稼業がら、
すると後棒がまかり出た。「これはこれは親分さんで、どうぞマアご勘弁を願います。へい私どもの稼業がら、海道筋へでも出ますれば、ゆすりかたりの一度や二度、やらねえこともございませんが、それとてあなたこれまでに、両とねだったことはなし、お縄だけはお目こぼしを。······オイ先棒もう一度あやまれ」
すると先棒がまた出た。「親分さんえ、まあどうぞね、おゆるしなすっておくんなさいまし。チョクチョクいやなことをやらかすのも、浮世が悪いからでございますよ。へい全くセチ
「何を!」といったが早引の忠三、ふと気がついてふところを見た。捕り縄の先がのぞいている。
「ははあ岡っ引と見やがったな」そこで忠三活用し出した。
「承知出来ねえ、承知出来ねえ、コレ、てめえ達悪い奴だぞ!」
「これてめえ達は悪い奴だ」こうはいったものの早引の忠三、どうにもおかしくてならなかった。
「へい?」と駕籠屋、眼をまるくする。
「ばか!」と一つおっかぶせたが、ここでちょっとヘンなものになった。「もっともてめえ達のいうとおり、どうもご
「へえへえこれは有難いことで」駕籠屋喜んで両手をこすり、「親分さんのお供なら、
「うん、ところで駕籠賃は?」キワドイところ、掛け合いをする。
「めっそうもない、そんなもの。なんの親分さん、戴きましょう」
「そうか」といったが奥歯をかみしめ、「おれはわいろは取らねえぜ」しかしとうとうニコツイてしまった。「駕籠賃ぐらいはいいだろう」
トンと駕籠へ腰を据えた。「早くやんな、ゆするなよ」
ホイホイというので駈け出した。
クックックッと早引の忠三、横っ腹を抱えたものである。「見せてえなあ、あねごによ。忠的忠的ってばかにするが、その忠的時によると、こんな儲けもするんだからなあ。それにさ、あねごはコキおろすが、中条流の縄だって、場所によっては役に立つ。クックックッ、ただの駕籠だア」
「へい四谷へ参りました」
「うん」というとヌッと出る。巴小路へ入り込んだが、いわば敵地へ乗り込んだようなものだ。オッチョコチョイの忠三ではない、顔も身体もひき締まった。巴御殿の玄関に立ち、「ご免」といった声にさえ、ピーンと覇気がみなぎっている。
巴御殿の表門から、一挺の駕籠がかき出されたのは、忠三が入り込んでから半とき後で、北をさして走って行く。内にはたれがいるのだろう? 牛込を過ぎ小石川に入り、
「いったい
髪一筋乱れていず、衣裳一つ着崩れていない。中高の細面。神性と処女性のあることを、さながらに現わしたあこがれるような眼。これが旗本の娘だろうか、貴族の姫君ではあるまいか? こう思われるほど気高い鼻。少しやつれてはいるけれど、昔のお京と変りがない。
「おや」とお京は眼をみはった。「ああここは掃除町だ。妾の家があそこにある」
夢中でバタバタとかけ込んだ。
真っ先にお京を目つけたのは、庭を掃いていた若党で、
「お嬢様がお帰りでございますぞ!」
声に応じて走り出したのは、父平左衛門、兄舞二郎、袴広太郎、臼井金弥、まず父と子が抱き合った。
「お京!」といったが涙を流し、「お礼を申せ広太郎殿に。おかげだおかげだ、広太郎殿のな!」
だがその後でもらした言葉は、まことに不思議なものであった。
「これで切腹はまぬかれた。お京の身の上に間違いでもあったら、あのお方に対し、いきてはいられぬ」
巻軸は元の持ち主へ帰り、お京は家へ帰って来た。事件は一段落ついたとはいえ、間もなく起こった二つの事件で、その平和はかき乱された。
その翌日のことであるが巴御殿の門前へ、フラリと現われた人物がある。
「
例の老人の傀儡師であった。
「そもそも傀儡のはじまりは、日本においては神の頃、神代時代にございます」リリカルに口上を述べ出した。「下って
おりから忙しいたそがれ時、宵闇が迫ろうとしていたが、上手な口上に人立ちがして、グルリと傀儡師をとりまいた。
「まず手はじめは
ヤンレ文屋の康秀 は
業平朝臣 と恋仇
小町 の采女 と焦がれたが
すると、バラバラと巴御殿から、二人の武士が現われた。巴御殿から出て来たのは、築土新吾と向こう傷のある武士||長崎左源太という武士であった。
「これこれなんだ、やかましい。立ってはいけない、散った散った!」
こういったのはその左源太。
「ほほう傀儡か、よかろう舞わせ」これは築土の言葉である。
「これはこれは旦那様、なにとぞなにとぞご覧くだされ。見るも
一向意味がわからない。しかし大変面白い。箱から取りあげた文屋人形、ヒョイと地へ置いた老傀儡師三尺ばかりさがったが、片手で膝を打ちながら、なお口上を続けてゆく。
「ヤンレあわれな文屋殿、そこで手をすり申すには、お許しくだされ業平さん、京は
だんだん変てこなものになる。だがいったいどうしたのだ。地上に置かれた人形が、口上に連れて手を動かし、首を振ったりするではないか。いや不思議はない、ぜんまい仕掛け、しかしこの時代では驚異である。
「やア踊り出した踊り出した」
「いきてるいきてる、活き人形だ」見物は口々に
その騒ぎに誘われたのか、ヌッと現われたのは天草時行。
「騒がしいの、どうしたのだ」醜いみつ口でうめくようにいった。
「傀儡でござる。いきている傀儡」こういったのは築土新吾。
「どれ」とかき分けて前へ出て、
爆発の音の響いたのは、実にその次の瞬間であった。煙硝の匂い、黄色の煙り、ワッという悲鳴、逃げ出す足音! 傀儡が破裂したのである。もうそのころには老傀儡師、どこへ行ったものか姿がない。
「やられた!」と叫んだのは天草時行で、屋敷の内へ駈け込んだ。
「
間もなくこういう叫び声がしたが、同じその夜に小松原家でも、一つの事件が勃発した。
お京が無事に帰ったので、広太郎と金弥とを客として、小松原家では宴を開いた。お京だけは出席しない。それは疲れているからで、隣りの部屋へ寝かして置いた。イスラエル教とはどんな宗教か? この問題で花が咲いた。
「キリシタンでござろう。それに相違ない」例によって金弥出しゃばったものだ。
「しかしキリシタンはキリシタン。イスラエル教はイスラエル教、おのずから差別があるようでござる。もっともだいぶ似たようではあるが」これが広太郎の意見であった。
「いやキリシタンに相違ござらぬ」バカのくせに金弥がんばろうとする。
「拙者そのうち調べてみましょう」舞二郎穏やかにこういったので、話がほかの方へ移って行った。
「なんに致しても広太郎殿には、ひとかたならぬご恩になり、なんと申してよろしいやら、お礼の言葉もございません。お京にとっては命の恩人、また私にとりましてもな」平左衛門改めてお礼をいった。いい尽くせないというようである。
「いや今回の事件では、私にも責任がございましたので。それに成功しましたのも、ほんの偶然でございましてな。
金弥そこでまた出しゃばる。「拙者も随分苦心しました。江戸じゅうグルグル廻りましてな。お京様は拙者の
当然なことには誰一人、金弥の武勇伝を信じない。
その時であった、トントントントンと門をたたく音がした。門番がくぐりを開けてみると、
「なんだろう、いったい?」と平左衛門、封を切って読み下した。
「お京様のお身の上、さる
どうして! いつの間に? 何者が? お京を誘拐したのだろう? 隣室には家人がいた。しかも四人のさむらいが。
「いや大事はござるまい。かえってこの方がよいかもしれぬ。どっちみち今回の出来事は、島原城之介、天草時行、そういう者のわざではござらぬ、······だが不幸の娘ではござる」これが平左衛門の言葉であった。
日本橋から三里、
四方樹木にかこまれた、すり鉢形の小盆地で、その真ん中に宏大な屋敷、里の
この杉窪の特権として、運上を納める必要がなかった。ただしその代わり毎年の元旦、選ばれた芸人が
さてある日のことである。銅兵衛の屋敷の前庭から、明るい女の笑い声がした。
「ホ、ホ、ホ、ホ、馬鹿だねえ。どうしてそんなにノロマなの。とらえるといいわ、遠慮なく。さあさあ早くおとらえよ! ノロマのノロマの三吉や!」
すると続いて猿の声が、キーキーキーと聞こえてきた。
木立が深いので姿が見えない。と、派手やかな振り袖が、庭の一方から他の一方へ、木の間を縫って走って行った。しばらく経って追って行ったのは、毛だらけの猿の足である。
「オヤ
手のひらでたたく音がした。とすぐ猿のなき声がした。
とまた派手やかな振り袖が、庭の一方から反対の方へ、木の間を縫って走って行った。
「ノロマのノロマの三吉や、どうしてそんなにノロマなの。とらえてごらんよ、さあ妾を」
ややあってノソノソした猿の足が、声のする方へ追っかけて行った。
どうやら鬼ゴッコをしているらしい。
その時一人の若者が、木戸をくぐってはいって来た。
「へ、へ、へ、へ、お嬢様、相変らずねんねえで」
「だあれ?」と娘の声がした。「文三さん? 何かご用?」ひどくその声は不平らしい。
「まだ親方は帰りませんかね」
「今夜あたり帰るとさ。······行ってくださいよ、用もないくせに。······ノロマのノロマの三吉や、とらえてごらん、さあ妾を!」また振り袖が木の間を縫う。
娘と猿の鬼ゴッコ。それを見ている文三という若者、変な気持ちにならざるをえない。
「ねえお嬢様、
「いやだヨ||、ばか文三」娘の声がすぐ聞こえる。「なんだい、お前
またも木の間をヒラヒラと、べに色
その後を追うのは猿ではなく、文三という若者の足。
「そう
「
ピチャピチャピチャとたたく音!
「引っ掻いておやりよ、三吉や! かまわないよ、引っ掻いておやり!」
するとキーキーと猿の声。
「おお痛い、おお痛い、ぶちましたね。お嬢様、これは有難う存じます。いえ何大変結構で、ほう帯をして、油紙で包み、大事に致します。······がその代わりお嬢様! ちょっとちょっと。ようがしょう」
「何をするんだヨーいやな奴! だれか来ておくれヨー。だれか来ておくれヨー文三がわたしをなめ殺すヨーッ」
その時であった。木戸をくぐり、一人の人物がはいって来た。例の不思議な老傀儡師である。眼を据えて及び腰、木の間をじっと透かしたが、
「これ文三、何をする!」りんとした威厳のある声である。
「ヒヤッ」という文三の声。「これは親方、ようお帰り!」小びんを掻き掻き現われた。
「ようは帰らぬ、悪い時に帰った。アッハッハッ、気の毒だったなあ」
「へい」というとヒョコリとお辞儀。「お早いお着きでございます」
「何を馬鹿な、
「ご帰館!」と文三いい直した。
「ご
「何さ、裏に清水がある」
「へい」とトチッてまたお辞儀。
「それでは私は里じゅうへ······」
「うん、ふれを廻してくれ」
「ヘ||イ」というと汗をふき、野郎、木戸から飛び出してしまった。
「お父様!」と娘の声! うれしそうに走り寄った。
「娘や、やっと帰ったよ」老傀儡師は機嫌を直し、これもうれしそうに笑ったものである。
老傀儡師
「人数が不足だ、武辺者がほしい。五、六人ほしい、一人でもよい」口の中でこんなことをつぶやきながら、武事を監督した。
「どうなすったの、お父様?」娘の君尾が不思議そうにきいても、銅兵衛は手を振って答えなかった。「お遊びお遊び、歌ってね。お前にはそれが一番似合う。山の小鳥さん、お日様の子。なんにも心配することはないよ」
だが恐ろしい大敵が、襲って来るということだけは、間もなく君尾にもわかるようになった。
さてある日のことである。三吉猿を引き連れて、君尾は盆地をのぼって行った。のぼり切ったところに草原がある。灌木、微風、
「さあさあ三吉、鬼ゴッコだよ。とらえてごらん、さあわたしを」例によって鬼ゴッコをやり出した。
スーッと君尾が走ってゆく。とその後から三吉猿、今日は手拭いで頬かむりをし、後足で立って追っかけてゆく。
だがなかなか捉えられない。しかしいったいどうしたのだろう? 猿は
「ノロマのノロマの三吉や、さあ
スーッと君尾は一方へ走った。
「ひとつ今度はとらえてやろう」こう思ったか三吉猿、一躍すると袖をとらえた。
「アラとらえたね、この悪者は! なんだいなんだいいやらしい。おとこ猿のくせに女をとらえ、何をするのさ、お放しよ! 放さないね。ソーラぶつよ」
そこで繊手がひらめいて、すぐピチャピチャと音がした。キーキーキーとなきながら、三吉猿はにげ出した。
「堪忍しない、堪忍しない。いやらしい奴、しようのない奴。ぶってやる、ぶってやる。サア、サア、サア、······」林の方へ追って行った。
と一人のさむらいが、林の中から現われた。じっと君尾をながめたが、
「これは意外! お京様!」こう叫ぶと走り寄り、つと君尾を引っかかえた。
「おお、お京様、拙者でござる!」武士の声は上ずっている。
見知らぬさむらいにひっかかえられ、驚いたのは君尾である。「何をなされます、失礼千万!」ポンとさむらいを突きやった。「妾は君尾と申します。お京様などとはとんでもない。お人違いでございましょう!」
「ナニ人違い?」とそのさむらい改めて君尾を見詰めたが、
「や、いかにも。これはこれは、人違いに相違ございません」あわててとったは
「
君尾はかえって気の毒になった。
「いえいえそのようにご
「はい」といったものの広太郎、小首をかしげざるを得なかった。
「驚いたなア、そっくりだ。中高の細おもて、高貴の姫君ではあるまいか? そういったような貴族的の鼻、夢見るような神秘的の眼! だが、いささかちがうのは、お京様の方には霊性があり、この娘には野性がある。それはそうとこんな山中に、どうしてこんな美しい娘が、猿などと一緒に遊んでいるのだろう? 衣裳はといえば大振り袖、べに色勝った友禅
若いさむらいに見守られても、君尾はいっこう恥ずかしがらなかった。野原を吹く夏の風! そういったような性質で、ものにかかわろうとしないからである。とはいえいかにも江戸っ
「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、おさむらい様、お珍しそうでございますことね、でもお気の毒でございますわ。秋祭りにはまだ間があり、夏祭りは過ぎてしまいました。当分妾の顔の中を、だしは通りはいたしますまい。ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、おあいにくさま!」いいたいことをいってしまった。
「や、これは、お手きびしいことで」しかし広太郎も吹き出してしまった。「アッ、ハッ、ハッ、ハッ、面白いことをおっしゃる。だが無作法はお許しを願い、どうぞもう少しお見せくだされ」そこで
不意に君尾が声をかけた。
「失礼ながらお武家様には、剣術がお出来でございましょうか?」
「さよう。いささか、柳生流をな」
「あの、名人でいらっしゃいますの?」
「なかなかもって。下手糞の方で」
「いいえ」と君尾は真顔に笑った。「きっと名人でいらっしゃいますわ」
「結構な折り紙。ありがたいことで」
「自然とわかるのでございますの」
「ははあ人相もお出来とみえる」
娘があんまり開放的なので、つい広太郎もつり込まれ、冗談口を利くようになった。
「出来ない方は自慢をし、お出来になる方は謙遜します。······下手だとおっしゃったではございませんか。ですから名人でいらっしゃいますのよ」君尾、やっぱり笑いながらいう。「それはそうとお武家様、なんと思って杉窪などへ、おいでになったのでございますの?」高価な衣裳を惜し気もなく、君尾は草へ坐りこんだ。
君尾が草へ坐ったので、これもうっかりつり込まれ、広太郎も草へ坐り込んだ。
「ははあそれではもうここが、杉窪の里でございますかな」広太郎の方できき返した。
「はい、さようでございます。盆地をくだれば杉窪の里、ほんの眼の下でございますの」
「実はな、先ほども申しましたとおり、尋ねる人がありまして、まず手はじめに水戸の方を······といって何もその水戸に、尋ねるお方がいるものと、そう思ったのではございませんが、······つまり、一つにはうさ晴らし、霞ヶ浦の風景でも、探ってみようかと存じましてな。松戸の宿まで参りましたところ、眼についたは一つの
「おやおやさようでございましたか。でも杉窪と申しましても、別に変った土地でもなく、家があって、人がいて······悪い人だっておりますのよ」
「ほほう、悪人もおりますかな?」
「文三といって大悪人······」
「ははあ、人殺しでもしましたので?」
「妾を追っかけるのでございますの」
「なるほど、そいつは悪い奴だ」広太郎愉快に笑ってしまった。
「でも、いいものもおりますの」
「ははあ、美しい若い衆でも?」
「あの、いいえ、三吉猿」
すると
「これはこれはよい若衆。ははあ三吉と申しますかな」またも広太郎笑ったものだ。
「お可哀そうでございますわね」君尾、こんなことをいい出した。「お探しなすっているお京様、まだお目つけになれませんので」
「これは容易に目つかりますまい」
「あの、妾に似ておりますそうで」
「
「では、やっぱり妾のように、お美しい方なのでございますのね」
「ううん」と広太郎面喰らってしまった。だが益

「さようさよう、あなたのように、お美しい方でございます」
「そうして妾のようにおとなしい」
||あッ、こいつだけは賛成出来ない||。
「いや、あなたはお
こう率直にいったのが、かえって君尾には気に入ったらしい。ホッ、ホッ、ホッ、と例の笑い||明るい笑い声をぶちまけた。
と、すぐ木だまがホッ、ホッ、と返り、それを縫って、キョッ、キョッ、キョッと、ほととぎすの声が聞こえてきた。
「いいなア」と広太郎はうっとりとした。「お京様そっくりのこの娘と、こんなすがすがしい山間で、一緒に暮らしたらどうだろう」
その時君尾がいったものである。
「あの、袴広太郎様、お願いがあるのでございますの。どうぞどうぞ当分の間、むさくるしくはございますが、妾の家にお泊まりくだされ、杉窪の里の人たちの、味方となってはくださいますまいか」
その声には熱があり、訴えるようなところがあった。
袴広太郎と君尾とが、山上で話をしている頃、銅兵衛は武器蔵で部下を指揮し、武器の手入れにふけっていた。
「槍が五十筋、弓が百
銅兵衛八方へ指図をする。
武器と武器との触れ合う音、ビーンビーンとつる鳴りの音。······出て行く者、はいって来る者、女は女で立ち働き、男は男で立ち働く。手入れができると片っぱしから、ドンドン外へ持って出る。要所要所へ配るのであろう。そとから持ち込むのもある。イタミの出来た武器であろう。
「ばかめ、なんだ、その手入れは!」銅兵衛またも叫び出した。「布でふいて油を塗れ! 油を塗ったらまたふくのだ。そうだ今度は乾いた布でな。······これこれ馬鹿者、なんということだ。槍の穂先を磨き粉で磨く? そんなべら棒があるものか。やっぱり布だ、布で拭け。さてそれから油をさす、そうして二、三時間うっちゃって置く。乾いたところでまた拭くのよ。そういうことを五、六度やる、すると
副頭領の
「ところでおとしあなは掘ったかな?
「ナーニ親方、大丈夫だ」誰とも知れず一人がいう。
「うん、そうとも、大丈夫だ」杉窪の銅兵衛すぐ応ずる。「が油断は禁物だ」
「ナーニ、あべこべにみな殺しにしてやる」
「うん、その元気。そいつが大事だ!」
ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ、武器を運び出す掛け声だ。ド||ンと遠くで爆発の音!
「えい、間抜けめ、もったいない。地雷弾を一つ落としゃアがった」
カツン、カツンと木を切る音!
なんのための戦闘準備? 何者がせめて来るのだろう?
「味方がほしいな。軍師がほしい」銅兵衛口の中でつぶやいている。「おれ一人では手が廻らない」
カパ、カパ、カパと
その時バタバタと足音が、武器蔵の方へ走って来た。
バタバタと武器蔵へ走って来たのは、ほかならぬ娘の君尾であった。
「お父様! お父様!」と嬉しそうに、「あの、お客様でございますの、山で目つけたお客様。江戸のお方でお旗本、そして剣道は柳生流、お若くてりりしくて立派な方。霞ヶ浦へおいでの途次、この里の噂をお聞きになり、見物に参られたそうでございますの。客間においででございます。早く早くお逢いなさりませ。助太刀をなされてくださるそうで、ええええ
驚いたのは銅兵衛で、「これこれ娘、どうしたのだ。袖がもげる。まあ待ってくれ」それからちょっと考えたが、「不思議だな、合点がゆかぬ。こんな場合に見知らぬ武士が、
「おい」と副頭領の楠右衛門、五十年輩のたくましい顔を、銅兵衛の方へ振り向ける。
「お前さんはどう思うね?」
「さあ」と
「何をいうんだよ、馬鹿楠右衛門!」君尾遠くからぶつ真似をした。「そんな人品とは違うのよ。立派な立派な若殿様。お前の息子の文三なんか、束になったって追ッつきはしない。証拠があるのさ、いい証拠がね。悪人か善人かすぐかぎ出す三吉猿がなついたじゃアないか」
「ほほう」というと楠右衛門、金網窓へ半面を向け、槍の穂先をとぎ出したが、「三吉猿がなつくようなら、なるほど悪人じゃアなさそうですね。······文三、こいつは馬鹿でごわす」
するとさっきからそのそばで、
「アッハッハッ」と杉窪の銅兵衛、とりなすように笑い出した。「どうも相変わらず口が悪い。が、こいつも育ちのためさ。素姓は途方もなくいいのだが。······それはそうとそのおさむらいさん、姓名を名乗りはしなかったかな?」
「姓は袴、名は広太郎。こうおっしゃってございますの」
「えッ」というと杉窪銅兵衛、持っていた種ヶ島をほうり出し、何かにさされでもしたように飛び上がった。
「袴広太郎! ううむ、袴! や、えらい人がおいでになった!」
「
「知ってる段かい、大知りだ! 立派な人物! いい味方だ!」
「ご覧よご覧よ楠右衛門め! 間者だなんて何をいうんだよ。若殿様だよ、思い知るがいい」君尾ピシャリとやッつける。「ねえ、お父様楠右衛門は、よっぽど馬鹿でございますねえ」
「そうともそうとも大馬鹿者だ」銅兵衛
「文三も馬鹿でございますねえ」
「問題にも
武器蔵を出ると中庭である。それを通ると
「袴広太郎殿、しばらくでござった」
振り返った袴広太郎、「おおこれは
「さようで」というと杉窪銅兵衛、ピタリとすわったものである。
広太郎と銅兵衛とのこの会見、銅兵衛にとっても意外であったが、広太郎にとっては一層の意外といわざるを得なかった。「いつもよいところへ現われて、ピタピタ予言をしてくれた、あの不思議な老傀儡師が、ここの主人とは夢のような話だ」||で広太郎手をつかえ、挨拶の言葉をのべようとした。と、銅兵衛とめたものである。
「ああいやいや広太郎殿。お互いの挨拶は抜きとして、早速ながらお願いの筋、なんと聞き届けてはくださるまいかな。というのはほかでもござらぬ。われら一同大敵を受け、今や困難の立場におります。でご助力をねがいたいもので。もっとも娘より承れば、すでに承引くだされたとか、事実ならば千万お礼。いかがのものでございましょうな?」
底力のある声である。覇気充満の態度である。傀儡師時代とは似も似つかぬおもかげ、さながら老英雄である。気合いに押された広太郎、ついつり込まれてのっけからいった。
「よろしゅうござる。恩報じの意味、何事であれ、お味方致す。しかし若輩拙者などが······」
「謙遜ご無用」とまた銅兵衛、片手を上げると抑えつけた。
「たしか剣法は柳生流、据え物切りではご名人。兵法はたしか甲州流、
これには広太郎気味を悪くした。自分より自分のことを知っている。いったいどうしたというのだろう? ぼう然とならざるを得なかった。それを見て取った杉窪銅兵衛、にわかに調子をおとしたが、
「いやナニ、これには理由がござる。非常に簡単な理由がな。一口に申せば隅田において、島原城之介と斬り合われて以来、拙者不断に貴殿の身辺を、つけ廻して研究いたしましたのでござる」ここでニッコリ微笑したが、にわかに穏やかな顔となり、好々爺のおもかげさえ現わした。
「しかし」というとキッとなった。「決してご貴殿お一人を、つけ廻していたのではございませぬ。天草時行、島原城之介、イスラエルのお町、由井正雪、すなわち巻軸に関係ある、あらゆる人達の身辺を、つけ廻していたのでございますよ。さてその理由は······」とここでまた、やさしい顔に一変したが、「その巻軸を拙者の手に、奪い取ろうがためでござった。······そうして幸いにも巻軸は、今や拙者の手中にござる。しかるに······」というと銅兵衛の顔、恐怖の情を現わした。と、ゴックリとつばを飲む。「しかるに天草時行一味、近日大挙してここへせめ込み、巻軸を奪い返そうといたす! きゃつ極悪、
はじめて敵の何者かを、銅兵衛うち明けたものである。
広太郎自身からいう時も、お京様を一時監禁した、天草時行そのものは、まさしく敵といってよかった。そいつを相手に戦うことは、むしろ痛快なことであった。「よし一番戦ってやろう」決心のほぞはかためたが、気にかかるは巻軸である。
「さてご老人、助太刀の儀は、拙者誓ってお引き受け致す。ついては多勢の人々が、そうまであらそう巻軸なるものの、
巻軸の内容はなんであるか? こう広太郎にきかれた時、銅兵衛の顔は充血した。しかし結局語らなかった。
「九州島原、原の城、落城の前に持ち出された、絶対秘密の巻軸でござる。巻軸、城より持ち出されたため、原の城は落ちたのでござる」わずかにこういったばかりである。
もうこれ以上は聞かれない。断念をした広太郎、銅兵衛の屋敷にとどまって、
一日二日たつうちに、
「おれはお京様を忘れたのではない。お京様を愛しておればこそ、お京様そっくりのこの娘を、こんなに愛し恋しているのだ」これが広太郎の心持ちであった。
君尾にとっては広太郎は、はじめての恋しい男であった。里の若者のガサツとちがい、なんと広太郎は優秀なんだろう! 山上ではじめてあった時から、君尾は広太郎に魅せられた。だがおおかたの処女なるものが、恋を感じたその場合、物思わしくなるのと違い、君尾はいよいよ快活になった。で、広太郎と三吉猿、恋しい男と可愛い動物、二人をつれて駈け廻った。
一方広太郎は里人の間に、信頼と尊敬とを博していた。親方に忠義な里人が、その親方の気に入っている、広太郎を気に入らない筈がない。広太郎と君尾の恋についても、里人は好感を持っていた。たまらないのは文三である。で、いつも機嫌悪く、広太郎と君尾の挙動ばかりを、白い眼をしてネメ廻した。
武備はドンドンはかどった。さあいつでもやって来い! 杉窪の里は活気に充ち、里人は腕をさすったりした。
さてある日のことである。江戸へ出して置いた物見の一人が、敵の行動を知らせて来た。
「
「敵の同勢約五十」これが第二の報告であった。すると銅兵衛はこういった。
「いやいやもっと来るだろう」
はたして第三の報告には「敵の同勢八十」とあった。
「いやいやもっと来るだろう」これが銅兵衛の意見である。はたして第四の報告には「敵勢大略百人」とあった。
「もうそれくらいでとどめたいものだ」こう銅兵衛はつぶやいた。
しかしその次の報告には「敵の同勢百五十人」とあった。
「ううむ、随分やって来るな」
「
「正面から来るな、大胆至極、自信がなければ出来ないことだ。天草らしいやり方だ」銅兵衛不安そうにつぶやいた。
と、果然驚くべき、一つの知らせがやって来た。
なんだろう驚くべき知らせとは?
「天草一味と連絡のない、一百人の同勢が、二挺の駕籠を引っ包み、
「不思議だなあ、何者だろう?」
「巻軸取りの連中は、天草以外にも沢山あるが、
「広太郎殿どうしたものでござろう?」相談をかけたものである。
「草加の方から来るといえば、里の背面を襲うものとみえます。うっちゃって置くことは出来ますまい。といって、人数を二手にわけては、両方とも守備が薄くなります。で背面へは地雷を仕掛け、点火の人数を二、三人だけ、配置することに致しましょう」これが広太郎の意見であった。
「これはいかにもそれがよかろう」||で地雷弾を埋めることにした。
天草一味の百五十人が、盆地の頂き、東南の地点、
その十五日目の日もくれて、二十日の月がかかったころ、一つの人影が人目を忍ぶように、盆地の上へ上がって行った。上がりきった所は原である。見ると遙かの林の中から、
「よし」というとその人影、かがり火を目がけて走り出した。と灌木の茂みから、二、三人の人影が現われた。
「これ、貴様、何者だ」抜き身を突きつけて取り巻いた。
「へい、私は里の者で」
「うむ、そうか、どこへ行く?」
「天草殿に逢いたいので」
「ははあ貴様、
「いいえそうじゃアございません、天草殿にお目にかかり、お話したいことがございますので。どうぞ陣所までお連れなすって。へい、大丈夫でございます、刃物一本持っていません」
「そうか」というと二、三人の者、何か互いに耳打ちをしたが、
「よろしい、それでは案内して進ぜる」
二人の武士が左右につき、篝火の方へ歩きだした。
篝火に近づくに従って、白い物が見えてきた。張り廻された陣幕である。
陣幕の中央に
パチパチと篝火の燃える音、時々
「どうもいけないよ。浮世の連中、ひどく物事を信じたがってな」話の続きに相違ない。天草時行さえない調子で、忙中閑ありというように、こんな事をいい出した。「孫子呉子、
「ええやはり天草殿には、天帝をお信じなされた結果、原の城へお
「ぼろい儲けはあるまいかな? こう思って入城したってものさ。神様商売もうまくやると、お
「それはまたなぜでございましたな?」
「一口にいうと信者ばかり多くて、不信心家が少なかったからさ」
「面白いお言葉でございますな」
「面白いものか、ひどい目にあったよ。だってお前そうじゃアないか。一切物は信じてはいけない、それだのにお前物もあろうに、神様なんかを信じるんだからなあ。戦争に負けるのはあたりまえだよ」
「しかし神様というものは、信じるものではないでしょうか?」
築土新吾は、不思議そうにきく。
「神様の方からいえばだね、まさしくお前のいうとおりだよ。だが人間からいう時は、信じるような顔をして、本当のところは利用するんだなあ。······待てよ?」というと天草時行、床几から離れて槍をとり、陣幕をくぐってそとへ出た。
二十日の月がかかっている。森も林も灌木も、月光に浸ってぬれている。戦いの前の静けさである。槍を地につき、槍の柄へ、
「気になるなあ、どうも変だ。······あの物音! なんだろう?」
杉窪の里とは反対の方へ、聞き耳を立てたものである。が、いったいどうしたんだ、なんにも音などは聞こえないではないか。しかし天草には聞こえるとみえ、槍を取り直すと引きしごき、見えない敵へ突っかけた。「カーッ」とかけた気合いである。
見えない敵へ気合いをかけ、さて引っ返して来た天草時行、床几に腰かけると考え込んだ。
「どうなされました、天草殿?」築土新吾、不思議そうにきいた。
「うむ」というと天草時行、
すると築土は微笑したが、「その
「オイオイ築土、何をいう。持ち出したなんて、人聞きが悪い。ふんだくって来たとこういいねえ。すべて物事というものは、下等な言葉でいうがいい。万事その方がいきいきしてみえる。上品な言葉を使ったが最後、物事精彩を失ってしまう。······そうだよ巻軸をふんだくって来たよ。ところがどうも驚いたことには、おれより一層素早い奴があって、いつの間にか一本持ち出してしまった。二本の巻軸を合わせないことには、秘密の糸口はわからないんだからなあ。これにはおれも参ってしまったよ」
「その素早い人間とは、杉窪の銅兵衛でございましょうな?」
「そうだよそうだよ銅兵衛だよ。きゃつも一個の人傑だが、その上に立っている人間が、すばらしくえらい人物だな」
「ははあ何者でございますか?」
「
その時であった、陣幕の外から、「天草殿へ申し上げます」こういう声が聞こえてきた。
「はいはい何用でござんすかえ?」天草時行気軽に答える。
「文三と申す若者、密々に言上致したいと、里を抜け出して参りましてござるが」
「ほほう、さようで。それは結構。文三さんとやら、さあおはいり」
声に応じて陣幕をかかげ、恐る恐る姿をあらわしたのは、さっき盆地を駈けあがり、天草の部下にとらえられた男、楠右衛門の子の文三であった。
「ようおいで、今晩は。築土よ築土よ、円座をおやり。さあさあ文三さんお坐りなすって。······さア何用で参れらたな? などと正面から切り出すと、ちといいにくうござろうな。開戦間際に味方を出し抜き、こっそり敵陣へ来られたからには、内応と見当をつけるが当然。よろしゅうござる。内応なされ。いずれござろうな、交換条件が。金かな、それとも女かな? 二つの
内応であろう? 交換条件は? こう天草にいい出されて、文三ハナから
「女がほしいんでございますよ」
「ああさようで、ご婦人をな。で、どういうご身分の方で?」
天草時行依然として軽い。
「親方銅兵衛の一人娘、君尾という子でございます」
「ははあなるほど、君尾ちゃんで。······どうなさろうとおっしゃるので?」
「いずれ乱軍になりましょう。ドサクサまぎれに引っさらい、逃げて行きたいんでございますよ。あなたの陣中へ飛び込みます。その時お見のがしを願いたいもので」
「たいへん簡単で、いと
「盆地の裏手、屋敷の背後、そこが手薄でございます。ただし地雷が張ってあるので、幸い私がその係り、火口をしめして置きましょう。破裂しっこはございません。そこからおせめなさいまし」
「ははあ」というと天草時行、トロトロトロトロと両眼を、
が、ヒョロヒョロと床几へ腰かけ、ホッホッホッホッと女のように笑った。「いや信じます、信じます。なんのあなたがペテン師なものか。人相に出ています人相にな。よい人相、善人善人。で、取り引きもこれで終った。ではお別れと致そうかな。······ああそれからもう一つこれは付録としておたずねしたい。ええと最近に銅兵衛さんが、大事にしている一つの品物、箱か竹づッぽかそんなような物が、たしかにあると存じますがな、どの辺にしまってありましょうな?」何気ない様子にカマをかけた。うっかり乗った裏切り者、文三ベラベラしゃべってしまった。
「肌身放さず親方が、持っているようでございますよ」
「で、今夜は銅兵衛さん、どこらあたりにおいでかな?」
「武器蔵か本陣でございます」
「では文三さん、おさらばおさらば」
陣幕をくぐって文三が、そとへ出たのを見きわめると、天草時行突っ立った。
「築土築土いくさは勝ちだ! 伏せた五十人を引き払い、貴様そいつを引率し、裏手へまわって乱入しろ! 本陣へだ、武器蔵へだ! 残った百人で正面攻撃、大石大木を投げおろし、弓鉄砲で打ちすくめろ! むやみと
「はっ」というと築土新吾、陣羽織の袖をひらめかし、幕をくぐって飛び出した。
だが不思議にも天草時行、さも不安らしく渋面を作った。
「聞こえる聞こえる変な物音が!」槍を握ると陣幕から、ヒラリとこれも飛び出した。
陣幕から飛び出した天草時行、槍を横たえると地上へ寝、土へ耳をおッつけた。
「約半里、東北にあたり、人数にして百人前後、まさしくこっちへのぼって来る。不思議だなあ。何者だろう?」じっと聞きすましたものである。「どっちみちうっちゃって置かれない、そうだ!」というと飛びあがり、陣幕の中へ駈け込んだ。
引き出したのはスペイン製の野砲、ガラガラと東北へ押し向けた。
「さあ来てみろ、防いでみせる! 十発も放したらみな殺しだ!」
月光にギラギラ輝くのは、上向いた野砲の筒口である。
いやさすがは時行である。その聴覚には狂いがなかった。
ここは天草の陣営から、半里離れた峠道、今一隊の異風行列が、二挺の駕籠を前後に包み、十本のたいまつで道を照らし、粛々として歩いて来た。そのかずおよそ一百人、だが
「この辺でよかろう。駕籠とめい!」
同時に二挺の駕籠が下り、タラタラと一同居並んだ。カタンという戸の開く音、一挺の駕籠から現われたのは、
「江戸を離れる数里の山間、おそらくあたりに人もあるまい。連判状を読み上げい」重々しい声でいったものである。
「はっ」というと一人の天狗、髪は総髪、法眼袴、威風あたりを払うのが、スルスルと前へ進み出たが、懐中から巻物を取り出した。
と、スッ||と上へ持ち上げ、徐々にキリキリと巻きほぐす。と、読み出したものである。
「それ人は天地の精、人ありて万物備わる。この上に立って支配するもの、みかどにあらずんばあるべからず。わが
読み終わると一礼し、僧正天狗の膝もとへ、開いたままの連判状、つと押しやったものである。
「盟主とたのみ奉るは、紀伊大納言頼宣卿!」
「うむ」というと僧正天狗、袖から錦の袋を出した。「牧野
進み出たのは儒者風の天狗、袋を受け取ると印を出した。
「虎の
声に応じて一百人、一同
頼宣卿の虎の御印、連判状におされるや、法眼袴の総髪の天狗、ふたたび連判状を取り上げた。
「指揮するもの由井の正雪」こういうと自身頭を下げた。「江戸表は佐原重兵衛」
声に応じ、頭を上げたのは、医師姿の天狗である。
「大坂表は金井半兵衛」
すると鷹匠に身をやつした、一人の天狗が一礼した。
「京都表は熊谷三郎兵衛」
鍛冶風の天狗一礼する。
「元帥は柴田三郎兵衛」
陶工風の天狗一礼する。
「柳営放火、将軍脱出、丸橋忠弥、あずかるべきもの」
神主風に身をやつした、一人の天狗が一礼する。
「名古屋表は坪内作馬」
||と、僧体の一人の天狗、これも謹んで一礼する。
「大将衆といたしましては、吉田初右衛門、加藤市郎兵衛、鵜野九郎右衛門、
朗々たる音声、それに従い、シタシタと頭を下げたものである。
すなわち慶安義士の一党、頼宣卿を盟主に奉じ、改めて誓いを立てたのである。
と、頼宣、声をかけた。「正雪舞え! 予が歌う!」
「はっ」というと立ちあがり、法眼袴の一天狗、由井の正雪踊りだした。
「天王寺の
それに合わせて一百人、「妖霊星! 妖霊星!」
「天王寺の妖霊星! 見ずや見ずや妖霊星! 天下乱るる前兆なり!」
「妖霊星! 妖霊星!」一百人が合唱する。
ドカドカ燃えるはたいまつだ。キラキラ光るは森の木々。ザワザワ渡るは深夜の風だ。物すさまじい光景の中、幕府の権勢を空しゅうし、踊り狂う天狗舞い! 足裏を見せ、身を斜めに、キリキリ廻ったとたんである。風が変わったか遙か山上、杉窪の里の方角から、
「踊りやめい!」と頼宣卿。「誰かある。物見致せ!」
「はっ」というと神主風、一人の天狗が飛び出した。丸橋忠弥盛幸である。灌木を渡る風のように、サーッとばかりに駈け出した。
あとは
と、またもや風に連れ、鉄砲の音が聞こえてきた。
「第二の物見。柴田参れ!」
正雪声をかけた時、馳せ返って来た丸橋忠弥、片膝を敷くと声をはずませ、
「杉窪の里を追っ取り巻き、何者か攻め立ておりまする。窪地の頂きに野砲一門、こなたに筒口を向けまして······」
「よし!」と頼宣みなまで聞かない。「正雪指揮! 里を助けろ!」
「承る!」と走り出した。
「五十人は続け! あとはご警護!」
二手に別れた一百人、五十人が後を追う。
「姫よ、姫よ!」と頼宣卿、女駕籠へ声をかけた。
スッと駕籠から現われたのは、小松原の娘お京である。
駕籠から現われた一人の娘、それはお京に相違なかったが、
と、ドーンと山上から、響き渡った野砲の音! 天草時行がスペイン砲を、助太刀に向かった正雪の軍へ、ぶっ放したに相違ない。
お京ヨロヨロとよろめいたが、
「お父上様、お姉様は

「うむ」というと紀州頼宣、お京を片手でつとささえた。「そちにとってはふた
「早くお逢いしとう存じます! 一里でも二里でも三里でも、たとえ十里でもひろいます!」お京シャンと立ち上がる。
二発目の野砲、またもとどろき、ワーッという
「さあ進め! 押し寄せろ!」頼宣の下知に五十人、頼宣とお京を真ん丸に包み、たいまつで道を振り照らし、頂上さして押しのぼった。
森を抜けると灌木の原。そこをよぎると草の斜面。頂上に近づくに従って、叫喚の声、剣戟の音、鉄砲の音が近まさり、手に取るように聞こえてくる。
「意外だ意外だ。どうしたことだ」頼宣走りながらうめくようにいう。
「いったい誰だ。攻めている奴は! ああ銅兵衛を殺したくない! あれは旧臣、忠義者だった! ······お京お京!」とその手を引き、「ゆえあってそちと君尾とは、生まれ落ちるから手もとに置けず、残念ながら
「大丈夫でございます。大丈夫!」頼宣に引き添った牧野兵庫、「銅兵衛殿はあれほどの豪勇、めったに負けはしますまい」
「いやいや、それはわからない! 君尾はどうだろう? 姫はどうだろう?」
「銅兵衛殿の息のあるかぎり、君尾姫にはご安泰。見越しをつけるべきかと存ぜられます」
「ともかくも急げ、のっ立てろ!」
森があって森を出た。と、カーッと火の光! 天を染めて真っ赤である。
「や、火事だ! 火をかけたな! 里が焼かれる! 牧野、牧野、姫を背負え! 京姫を背負え!」
ドッと五十人駈け上がった。破壊された鉄砲、裂かれた陣幕、天草時行の陣営があったが、正雪一味に破られたとみえる。そこをトッ走ると盆地の
子供の泣き声、女の悲鳴、剣戟の音、ガラガラガラ、建物の崩れて落ちる音! 火の底から聞こえてくる。渦巻きあがる黒煙り! その中を駈けめぐる無数の人馬! と、一つの人影が、盆地の斜面を駈け上がって来た。
「何者?」と叫んだは牧野兵庫。
「丸橋忠弥」と折り敷いた。槍の柄が血のりでぬれている。
「いくさの勝負? 敵は何者? 銅兵衛はどうした? 君尾はどうした?」頼宣卿たたみかけた。
「残念!」と忠弥まず叫んだ。「島原の残党天草時行。こやつが敵にござります! 味方に裏切る者があって、伏せた地雷が役に立たず、そこを目がけて裏手より、敵ムラムラと乱入し、一挙に本陣武器蔵をつき、銅兵衛殿には鉄砲にあたり······」
「おっ!」と頼宣こぶしを振った。「ううむ銅兵衛やられたか!」
「気息
「姫はどうした、君尾はどうした

「文三と申す裏切り者、もったいなくもかどわかし!」
「残念!」と頼宣、おどり上がった。
「ただし袴広太郎という義士、追っかけてゆきましたと申すこと」
「銅兵衛に逢いたい! のしくだせ! 槍をもて! さあ続け!」
「殿!」と兵庫、さえぎった。「千金の
「だまれ!」と槍をひっ抱え、「京姫! 京姫! そちもつづけ! 修羅の戦場! 一度は見ておけ!」
サ||ッと盆地を駈け下りた。
屋敷をめぐると一個の建物、ここばかりは燃えていない。すなわち本陣武器蔵である。
走り込んだ紀州頼宣、天狗の面をかなぐりすてると、
「銅兵衛!」と呼んで
銅兵衛かすかに眼をあけたが、
「おっ、お館様······もったい至極! ······殿、殿、姫君を奪われました! ······申し訳······申し訳······ござりませぬ」眼を閉じガックリ
将右衛門どん、とは何だろう? しかし鉄砲にあたって以来、絶えず叫んでいる言葉であって、君尾を取り返しに追っかけて行った、広太郎もこの言葉を聞いていた。
ふたたび眼を開かぬ杉窪銅兵衛、そのまま息が絶えてしまった。
ちょうどこの頃のことである。杉窪盆地から西南の山路、ふもとへ下れば草加宿となる。そのウネウネとした山路を、杉窪の方へ上ってゆく、一個不思議な人物があった。二十日の月に照らされて、一匹の白布がノビノビと、地上から空へ引き上げられたようだ。ジャラーンという鉄杖の音! 修験者島原城之介である。
ブツブツ口小言をいっている。
「ヤキが廻ったね、このおれも。玉は取られる鳥には逃げられる。憐れをとどめたというものさ······たしかにこっちへ来た筈だが、どんなことがあってもとッつかまえなけりゃならねえ。······それはそうとどうしたんだ! 空が真ッ赤に焼けていらあ。ははあさては山火事だな」
そのおりからである。山上からカパカパカパとひづめの音、この坂道を乗りおろして来る。
「火事の知らせかな。それにしても、
つぶやいて
「どけ、あぶねえ!」としわがれ声!
「や、手前は!」城之介、ピューと鉄杖を横へ振った。
島原城之介力をこめ、ピューッと鉄杖を横へ振ったが、払い落とすことはできなかった。
馬上の人物手綱をしぼり、まずもって馬の両脚を、ピンと
「待て! 天草!」と城之介、追いすがるのを馬上の武士、振り返ったが
「ご苦労! 島原! また逢おう!」
つぶてを恐れたためだろう。前輪にピッタリ食ッつくと、パッ、パッ、パッ、パッ、パッ、パッ、ふもとをさして
ぼんやり突っ立った島原城之介、「天草時行とは驚いたなあ」まずもらしたものである。
「一体全体なんのために、こんなところにいたのだろう? あいつのことだ。いずれ何か、悪事をたくらんでいたのだろうが」
首をかしげたが見当がつかない。
「が、マアそれはどうでもいい。よくねえのは逃げた鳥だ。ほんとにほんとにどこへ行きおったかな」
「天草殿! 天草殿! そう急がれてはかなわない。お待ちくだされ。お早いことで」呼びかける声が聞こえてきた。
「ふふん、天草の一味だな。今度こそのがさぬ。見ていやアがれ」つと城之介木かげへ隠れ、鉄杖を構えて窺った。
それとも感づかぬ武者一騎、手綱をゆるめ、身を乗り出し、ムラ葉を抜いて現われた。飛び出した城之介声もかけず、鮮やか鮮やか棒の手だ、「
「
「口から鼻から血が吹いていらあ。おお痛かろう痛かろう。可哀そうだなあ。南無阿弥陀仏······やっ!」というと胸を張った。「ほほう、こいつ、築土新吾だわい」愉快そうにゲラゲラ笑い出した。「そうかそうか新吾だったのか。いい気味いい気味、ざまア見やがれ。これでかたきの片腕を、たたっ斬ってやったというものだ。······が、いよいよおかしいなあ。こいつらいったいここらあたりで、何をたくらんでいたのだろう?」また考えたがわからない。「死骸があってはちょっと面倒。とびや
谷間を目がけて、片足上げ、ドッと蹴落とした。その拍子に、新吾の死骸の懐中から、小長い物がころび出て、コロコロと草間へ隠れたのを、島原城之介見のがしてしまった。
眼をあげれば山上の空、色を加えていよいよ赤い。
ジャラーンと鉄杖の音を立て、一歩踏み出した時である。
「誰か来てくださいヨ! 助けてくださいヨ!」行く手から女の悲鳴がした。
「お町じゃアねえかな?」と城之介、ギョッとして耳を引っ立てた。
「助けてくださいヨ! 誰か······誰か······」
プッツリ声の切れたのは、口をふさがれたに相違ない。
「お町じゃねえかな? お町じゃねえかな?」グイと鉄杖をかい込んだ。
グイと鉄杖をかい込んだ時、
「文三、文三、何をするんだヨー。
「ははん、なんだ。お町ではないのか」安心をした城之介、かい込んだ鉄杖をおろしてしまった。
「お町でなければおれは知らんよ。どうやらこの辺の若い衆が、
「助けてくださいヨー」と女の悲鳴、にわかに横へそれてしまった。
「あッはん、さようか、それましたね。それがよろしい。正当だ。あんなに悲鳴をあげられては、里へ連れては行かれないからなあ。そこで
ノッシノッシ歩きだした。
と、今度は行く手から、チャリーンと太刀音が聞こえてきた。
「今夜はよくよく変な晩だ」島原城之介突っ立ってしまった。
「馬に女に刀ときた。いくらおれだって気味が悪いよ。ふけろふけろ、ふけてしまえ」木の間をくぐって立ち去った。
またもやチャリーンと太刀の音! バタバタバタと走る音! しだいにこっちへ近づいて来る。
と、一人の
「助けてくださいヨー」と女の悲鳴!
「お助け致す! お助け致す! 袴広太郎、お助け致す」ヨロヨロと前へ出るところを、出鼻を利用し、一人の武士、広太郎の眉間へ斬りこんだ。
拝むがように太刀を捧げ、つばで受けとめた広太郎、斬り返して行く力もない。受けた拍子にまたヒョロヒョロ、おのずと左へまわり込んだ。太刀が離れ体が離れ、入り違った時広太郎、片手で刀を右へまわした。それがきまって敵のうなじ、盆の窪からスポリと斬った。
悲鳴、それからたおれる音。
「斬ったな、斬ったな」と広太郎、口の中でつぶやいた。「まだ斬れる。大丈夫だ! ······ああ幾人斬ったろう? 二十人は斬っている。おれも斬られた、おれも斬られた。槍傷、太刀傷、
と、一人飛び込んで来た。
「来たな」と広太郎刀を捧げた。とまたつばで受けとめた。押し返してゆく気力もない。ヒョロヒョロヒョロヒョロと右へまわった。と自然と太刀が離れ、体が離れて入り違った。そこで夢中で広太郎、サ||ッと刀を左へまわした。おのずときまったかぶと割り、敵のうなじをはすかいに、耳の下からスッポリと斬った。
「斬ったな、斬ったな、まだ斬れる」またもや口の中でつぶやいた。
「大石大木を投げおろし、それからそろって
ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと前へ出る。刀を青眼につけている。ともするとそれがおりようとする。
「眼の前がだんだん暗くなる。ここはいったいどこなんだ? 杉窪じゃアないのか? やッ、敵がいる!」
ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと前へ出ると、また一人飛び込んで来た。ヒョイと広太郎刀を出した。と、チャリーンと音がした。受けたのではない、からみ合ったのだ。二本の刀が一本となる。火事の光と月の光、木の間をもれてボッとさす。それにうつってまるでつららだ。
と、キューッという音がした。しごいた太刀の音である。とたんにピカリと一閃した。広太郎の刀が動いたのである。ワッという悲鳴がすぐ響いた。刀の落ちる音がした。
「斬ったな、斬ったな、腕を斬ったらしい? こいつらはいったい何だろう? ······火は八方へ燃え移った。屋敷の方から悲鳴が聞こえた。馬を煽って飛び返った。敵勢、敵勢、裏手の敵勢! どうして地雷は破裂しなかったんだろう? 聞こえてきたっけ、『裏切り者だアア』と。······みんな武器蔵の方へ走って行った。おれも走った、武器蔵の方へ! ······胸にたま傷! 銅兵衛殿! おれを拝んだ。拝みながらいった。『君尾が、君尾が、文三めに!』······あっ、そうだった、やっと思い出した。おれは文三を追っかけて来たのだ! 文三めエッ!」
と睨みつけた。もう刀が持ちあがらない。ダラリと垂れると地へ突いた。その
と、パタパタと足音がした。「参れ!」と息も絶え絶えに、やっと持ちあげた
最後の勇気を腕へこめ、広太郎刀を一振りした。が不思議にも手答えがない。ないのが当然、バタバタと、足音を立てて山上へ、二人の敵は逃げたのである。
と、また刀をダラリと下げ、地へ突くと寄りかかった。
「逃げた逃げた。ざまア見やがれエーッ」
だが自分もたおれてしまった。
「残念!」とうめくと膝を立てた。立てた膝がすぐまがる。
「あッ、あッ、あッ、君尾殿オー」
ザワザワザワと渡る風、風にまぎれて、「助けてくださいヨーッ」遠く遠く君尾の悲鳴、裏手の方から聞こえてきた。
「声が、声が、声が聞こえる! 君尾殿オオーッ、君尾殿オオーッ」刀を杖にまたヒョロヒョロ立ちあがったが駄目である。ドッとたおれるとはい廻った。
「お助け致す! お助け致す! おのれ文三! 待て待て待て! ······手がつる、手がつる! 足が動かねえ!」
ガリガリと土を引っかいた。その手にさわった小長い物! 夢中で取りあげじいッと見た。
「巻軸一本! ······ここにあったアア······」
グイと懐中へ押し込んだ。
「助けてくださいヨーッ」
と声が消えた。
もう広太郎動かれない。||グッと横向きに伸びたままだ。太刀はしっかり握っている。ブルブルブルブルふるえる切っ先、大波を打つ背のうねり、その上を火光と月光と、ボ||ッと淡く照らしている。
意識がだんだん失われて行く。銅兵衛の姿が浮かんできた。と、その姿が娘になった。君尾だ君尾だ、笑っている······と、一軒の家が見えた。縁に娘が坐っている。お京様だお京様だお京様だ! やっぱりうれしそうに笑っている。······
「おれは死ぬのだ!」||ハッキリ思った。深い空間へ落ちてゆく。何者かおれを引っ張っている。······それっきり何にも感じなくなった。
木の間をもれて月光と火光、依然広太郎を見おろしている。千切れたもとどり、顔にかかった髪、ああその顔のあおいことは! ゲッソリ痩せて、骨ばって、黒い輪が両眼を
静かである。山の中! 誰一人助けには来ないらしい。風もやんだ。木の葉も動かぬ。スクスクと立っている両側の木立! 幹がなま白く光っている。静かである。まだ静かだ。
その時山上から足音がした。忍び寄るような足音である。と人影が現われた。さっき逃げた二人の武士だ。
「おい」と一人がささやいた。「死んでいるようだ、たおれている」
「うん」ともう一人がささやき返した。「どれ、とどめでもさしてやるか」
スルスルと一人近寄った。ポンと足で蹴ってみた。広太郎動かない。
「よし」というとそのさむらい、広太郎の死骸にまたがった。片足あげて横顔を踏み、抜き身の切っ先ユルユルとおろし、耳のつけ根をぶッつりと! 刺そうとした時一条の捕り縄、
「うまいぞ、忠公!」とかん高い声、木立の蔭からひびき渡った。
「ヒッ」と叫ぶとひっくり返った。ズルズルズルズルと引きずられる。縄がしばられるからである。
「ヤッ」と仰天したもう一人の武士、麓を目がけてかけ出した。と、その前へ一人の
「悪党!」と一声、
「ガッ」という悲鳴、
手足をバタバタおよがせたが、首をしめられたその武士も、すぐに伸びて動かなくなった。
ピョイと木蔭から飛び出したのは道中師風の小男である。
「どうでえ、あねご、こんなものでげす。中条流の捕り縄だって、時にはこんな働きもしまさあ」ほかならぬ早引忠三である。
「見事見事。ほめてやってもいいよ」虚無僧姿のイスラエルのお町、
「それはそうとこのお
がっかりしたのは忠三で、「ワッ」というと飛びあがった。
「袴が広いか! 惜しいことをした。おれにとっちゃア恋がたき、助けなけりゃアよかった。くたばれくたばれ!」
そんな言葉は耳にはいらぬお町、広太郎をだきしめた。「お町でございます、お町でございます。お心をしっかり! お持ちくださいヨーッ······おおおおそれにしてもこの傷は! まるでクチャクチャに斬られているよ。······息は?」と片手を鼻へやった。「しめた。忠公、生きていらっしゃる!」
「へーいさようでござんすかね」
「これでマア少しは安心した! もしこのお方に死なれようものなら、それこそ
「へーい」とノッペラ棒の返辞をする。
「水だヨーッ······水々······水を汲んでおいで!」
「で、どの辺にござんすえ?」
「一、二、三、四、ヤイ忠々! 十かぞえるその間に、水を汲んで来なかろうものなら······」
「あねご、無理だ! 水のあり場所······」
「谷だ!」とお町、くらいつきそうだ。「飛び込め! そうして飛びあがれ! 笠に一杯!
谷のふちまで駈け出したが、「こいつアいけねえ、とても深い!」
「五、六、七、八、ヤイ忠々!」
「あと二つか······どうなるものか!」
絶壁に懸かった
ほとんど死骸の広太郎を、しっかりだきしめたイスラエルのお町、ワナワナ全身をふるわせている。
谷底から忠三の声がした。「あねご、大変だ、大変だ!」
「大変だ」と叫ぶ忠三の声、お町の耳へははいらない。お町うっとりと考え込んでしまった。
「不思議だねえ。夢のようだよ」まずつぶやいたものである。
「あの夜南蛮屋の南蛮部屋で、はじめてこの人と逢った時から、妾の心は変ってしまった。巻軸の秘密、ほしくもなく、ほしいのはこの人だった。どんなことをしたって手に入れよう。恋だわねえ、初恋ってやつさ」またここでじいッと考え込んだ。「それからというもの忠三にいいつけ、この人の様子を探らせていると、にわかに旅へ出たとのこと。『忠三のばかめ、目つけておいで!』毒づいてやったら可哀そうに、それでもあっちこっち聞き合わせたあげく、杉窪とかいう別天地へ、入り込んだらしいという人の噂。では行こうと出かけると、あのいやらしい城之介め、ついてついてつき廻る。中途でマイて来てみれば······こんな姿になっておられる。······それでも縁はあったってものさ。これがもう一足遅れようものなら、それこそ取り返しがつかなかったんだからねえ」
「あねご!」と谷から忠三の声、「築土が殺されておりますぜ!」
だがお町には聞こえない。依然広太郎に見入っている。
「傷は?」とお町、気がついた。だいた広太郎をそっと置き、まず胸をひらいてみた。「肩に三ヵ所胸に二ヵ所、みんな薄手だ、大丈夫。腕に八ヵ所、斬られたものねえ。だが安心、かすり傷だ。股に六ヵ所、たま傷、矢傷。ああ有難い、深手はない、精根をつからせてたおれただけだ。でもいったいどうしたんだろう? まるで戦場で斬り合ったようだよ」
「水だ!」という声がうしろでした。
振り返ってみると
と、かすかに身をうねらせ、二、三度まぶたを
「気がつかれた!」とお町の歓声!
「やれやれ」という忠三の声!
とたんに広太郎、叫んだものである。
「お助け致す、君尾殿!」
その君尾だが、文三にだかれ、山の反対側を走っていた。
「助けてくださいヨー、誰か来てくださいヨー」
火光は見えない。月光ばかりだ。
「お嬢様、お嬢様。もう駄目です。呼んだって誰が来るものですか」文三走りながらしゃべりまくる。「謀反までしたこの文三、みんなあなたがほしいからで。どうやら里は亡びたらしい、銅兵衛さんだって傷を負った。助かりませんな、鉄砲傷だ! 家もなければ親もねえ、それが今のお嬢さんで。文三におすがりなさいまし。大事にしますとも、大事にします。一緒に住みましょう、町へ出てね。働きますぜ、お嬢様のためだ。だからお嬢様もおとなしく、あっしの子供でもうむがいい。誰と暮らしたって一生でさあ。こんなにこがれている文三だ。添って功徳をお果たしなせえ。駄目駄目、駄目駄目、もがいたって駄目だあ」
林の中へ駈け込んだ。と何物か文三の顔へパッと飛びつくものがあった。
「ワッ、いてえ! 眼を引っかきゃアがったア!」
文三の顔へ飛びかかったのは、君尾の飼い猿三吉であった。戦場から逃がれ、林づたい、追っかけて来たに相違ない。
「畜生! てめえ、三吉だな!」
文三片手で脇差しを抜いた。「けだもののくせに途方もねえ、人間の恋の邪魔をしやがる」
振り廻したが素早い三吉、今度は足を引っ掻いた。
「アレ、この猿、狙いどころをかえたな。顔なら顔と一つ所を狙え」
キッ、キッ、キッと叫びながら、三吉、左手を引っ掻いた。
「いてえ!」と叫ぶと手を放す、ドンところがったのは君尾である。飛び起きると走り出した。
「しまった!」と文三あとを追う。そこを後ろから三吉猿、肩へ飛びついて引っ掻いた。「おのれ!」といって振り返り、脇差しを振るうとスルスルスル、三吉猿は木へのぼった。「お嬢様、お嬢様、お待ちなすって!」文三後を追いかける。とまった木から三吉猿、飛びおりて頭を引っ掻いた。「チェッ!」というと脇差しを振るう。と三吉スルスルスル、またもや木の上へのぼってしまった。「逃がしてたまるか!」と君尾を追う。またまた飛びおりた三吉猿、ふくらはぎを引っかいた。「野郎!」というと振り返り、またも文三脇差しを振るう。が結果は同じだ。三吉猿、木へのぼって葉に隠れる。
「お嬢様、お嬢様!」と追おうとしたが、あっ、君尾の姿が見えない。「むうう」とうなると可哀そうな文三、ベタベタとすわったものである。
そのころ君尾は林を抜け、草の斜面を走っていた。夜の山中、人はいない。なまじに声を立てたならかえって文三に目つけ出されるだろう。そこで無言でひた走った。二十日の月夜、ボッと明るく、森や林が立っている。灌木や
「あっ」といって立ち止まった。数本のたいまつが燃えている。十数人の人が立っている。それは奇怪な光景であった。真ん中にノビノビと立っているのは
掘り出された一個の
と一斉に振り返り、君尾の姿を不思議そうに見た。
この時はじめて君尾の口から、「お助けくださいまし」と声がもれた。ベタベタとすわって手をついたのは、憐れみを乞うというよりも、一種荘厳の光景に、強く胸を打たれたからであった。
今は秋! 江戸も涼しい。ここは上野山下である。明月が空にかかっている。と一人の若ざむらいションボリとして歩いて来た。と向こうから人が来た。片眼つぶれた若者である。これもションボリとうなだれている。二人事もなく行き違おうとした。
「あの、もしえ、お若い
「へーい」というと片眼の若者、足をとどめて振り返った。
「何かご用でござんすかえ?」
「お京様をご存知ではございますまいか!」
「あの、一向存じません」
「でも、もしやご存知では?」
「とんと存じませんでございます」
「それは大変困りました」若ざむらいはうなだれた。ほかならぬ臼井金弥である。
「あの」と今度は若者がいった。
「君尾様をご存知ではございますまいか?」
「とんと存じませんでございます」
「それは大変困りました」片目の若者は文三であった。
で二人向かい合い、ションボリとして立っている。二人の影が地に落ちている。どっちが影だかわからない。きっと四つとも影なんだろう。
「あのね、あなた。お京様はね、私の
すると今度は文三がいった。「よく似た身の上でございますなあ。あのね、あなた。君尾様はね、私と許婚ではございませんでしたが、許婚になりたいと存じまして。いいえさ、実は、夫婦にね。······で、出かけたのでございます。はい、さようでございます。はい、さようでご一緒にね。すると、あなた、邪魔がはいりました。それがさ、人間ではございません、猿だったのでございます。三吉猿と申すもので。ほんとにほんとに憎い猿で、連れて行ってしまったのでございます。それに私の顔を引っ掻き、片眼つぶしてしまいました。今年の夏のことでございます。で、さがしておりますので」
「お気の毒さまでございますね。で、いまだに目つかりませんので?」金弥同情したらしい。
「目つかりませんでございます。しかしどうやらこの二、三日、猿の居場所だけは目つかりましたようで」
「それは結構でございますな。でやはり木の上にでも?」
「塀の内にいるのでございます。立派なお屋敷の塀の内に、つまりお庭でございますな。飼われているようでございます。で私の思いますには、三吉猿がいる以上は、君尾様もおられるに相違ないと······そこで毎日出かけてゆき、様子を見るのでございますが······」
「しかし、はたしてその猿が、三吉猿でございましょうか?」
「それはもう確かでございます。なき声を知っておりますので。キーキーキーキーキー、キー、こんなようになくのでございます」
「キーキーキー、キーキーキーははあ、こんなようになきますので。だが、たいがい猿というものは、キーキーとなくようでございますな。ところでお屋敷はどの辺で?」
「そ、そいつは申されません」
文三にわかに後じさりをした。
「それはまたなぜでございますな?」金弥さもさも不思議そうにきく。
と、その時どこからともなく、フフンという冷笑の声がした。
フフンと冷笑の声はしたが、二人の耳へははいらなかったらしい。
「何ゆえと申しましておさむらい様、うかうかとお屋敷をあかそうものなら、先廻りをしてあなた様が、私のこがれている君尾様を、横取りなされないものでもなし······で、お屋敷はあかされませんなあ」文三用心がいいのである。
「それなら大丈夫でございます」金弥別に怒りもしない。「私にはお京様がございますので」
「あっ、さようでございましたね。あの、ところでお京様は、まだ手がかりがございませんので?」
「八百八町広いお江戸を、五十ぺんほどもまわりましたかしら。いまだに手がかりはございません」
「さぞお疲れでございましょうな」
「他人の足のようになりました」
「ほんとにご同情申し上げます」
「はい、そうしてあなたへも」
丁寧に二人辞儀をした。またションボリと向かい合っている。と金弥がいい出した。
「今夜もお探しでございますかな?」
「はい、これから参ります。そうしてグルグル屋敷を、見廻るつもりです」
「成功をお祈りいたします」
「はい有難う存じます。どうぞあなたもお京様を、一日も早くお探しなさるよう、私もお祈りいたします」
また丁寧に辞儀をし合う。月がまるまると照らしている。
「ではお別れいたしましょう」
「はいお別れ、ご機嫌よろしゅう」二人左右へ別れてしまった。
とその時家蔭から、ピョイと飛び出した小男がある。
「いや面白いかけ合いだった。キーキーキー、キーキーキー猿のこわ色まではいったんだからなあ。······待てよ」と小男腕を組んだ。「こいつ笑ってはいられない。袴広太郎様の尋ね人、それも確か君尾といった。三吉猿の話も聞いた。文三という悪党が、かどわかしたということだが、今の野郎が文三かもしれねえ。それにしては安手だなあ、どっちみち後をつけてみよう、猿のいるというその屋敷に、君尾という娘がいるかもしれない。よし」というと足音を忍ばせ、ヒタヒタと後を追っかけたが、南蛮屋の主人忠三であった。
さて文三つけられるとも知らず、上野山内を根岸へおりた。今日の上根岸、六十番地にあたる辺、そこに立派な屋敷がある。グッと取りまわした厳重な高塀、庭木が森のように繁っている。と、文三ピッタリと身体を塀へくッつけた。
「どこかに節穴でもあるまいか。のぞいて見てえ、のぞいてみてえ」こんなことをつぶやいている。指でさぐっても節穴はない。板と板との合わせ目もない。だが容易にあきらめない。塀に添いながらノロノロと、先へ先へと歩いて行く。まがり角まで来た時である。月光に浮かんで一条のとり縄、弓形をなして飛んで来たが、キリキリキリ、首を巻いた。気が遠くなってぶったおれる。と現われたのは早引の忠三、縄を解くと脈を見た。
「殺してしまっては都合が悪い。気絶ぐらいが格好だ」ズルズルと木蔭へ引っ張り込んだ。「いったいどなたのお屋敷だろう! 大々名の下屋敷、といったような
塀へよじ登った早引忠三、足をちぢめると飛びおりた。さても広大な裏庭である。立ち木が多いので先が見えない。地をはいながら進んで行く。と一むらの竹林があった。月光を受けて光っている。そこを廻ると草ぶきの
「どうやら人間がいるらしい」心でつぶやくと早引忠三、大胆にもそっちへはって行った。ふすまがピッタリとしめられている。ふすまの奥は空部屋で、そのまた奥に部屋があり、そこに人がいるらしい。「かまうものか、押し込んでやれ」益

「将軍塚と申すので、南北朝時代の武将などの、遺物があると思いましたところ、
「はてな?」と忠三首をかしげた。「異国の人間に相違ない」
その時別の声が聞こえて来た。「不遇な
とまた老人の声がした。「このまが玉やくだ玉から見ると、将軍塚の塚ぬしは、
コロン、コロンと音がした。
「ははあ」と忠三感づいた。「コロンコロンというあの音は、玉を台の上で転がしているのだ。なんだちっとも面白くねえ。第一爺イと子供とが、あんなに真面目に話していたのでは、どうも聞く方で飽き飽きする。やっぱり若い女中どもが、つめったり引っ掻いたり、キャー、キャーいって、色っぽい話をしている方が、おれには有難いというものだがなあ」だがその次に聞こえてきた、老人の声を耳にした時、早引忠三ふるえあがってしまった。
「
それはこういう声なのであった。
ふるえあがった早引の忠三、ピッタリ畳へ食いついてしまった。
「驚いたなあ。知ってるらしい。逃げなければいけない、逃げなければいけない」だがどうにも動かれない。なんともいわれない一種の恐怖、そいつが上からおさえつけている。「なんてえことだ! なんてえことだ!」動かれないのだから仕方がない。全身汗びたしになりながら、隣室の様子をうかがった。と、少年の声がした。
「呼び入れて訓戒いたします」
「結構」と今度は老人の声。「が、人間の肝臓を、好んで食べたというような、
「ちと難儀でございますな。で、先生ならどうなされます?」
「さよう、私ならうっちゃって置きます」
「みすみす物を奪われましても?」
「ナニ、一個人の盗み高など、悪い為政者の国盗みからみれば、たいして問題でもございませんよ。もちろんよいことではござらぬがな」
「これはごもっともに存じます」
ここでちょっと話が切れた。忠三息づいたものである。「まずよかった。大丈夫。どうやら見のがしてくれるらしい。だが皮肉の連中だなあ。おれのいることを知っていながら、平気で噂をしているんだからなあ。底なしの大胆というのだろう。いったいどういう連中かしら?」
またも老人の声がした。「光殿、光殿。ご存じかな、道教における
「たしか
「さよう、抱朴子にありました。一口にいえば気息の調和で。心臓から出ずる気、
「いけねえ」と忠三ちぢこまってしまった。「まだおえねえよ、おれの噂は」
すると少年の声がした。「はは泥棒に役立ちますかな」
「はい、大いに役立ちます。わが
「なるほどなあ」と早引の忠三、今度はすっかり感心した。とまた老人の声がした。
「これが反対にいく時は、盗賊を目つけるに役立ちます」
「少し風向きが悪くなった」忠三またもちぢこまる。
「慣れない賊などが忍び込むと、少なくとも
「どれ?」と忠三胸をおさえた。「まるで早鐘でもついているようだ。······何しろあぶない。早く逃げよう」スルスルと膝ではった時、老人の声がまた聞こえた。
「光殿、光殿。間違っても、逃げる賊を捕えてはなりませんぞ」
「おれはどうにも動けなくなった」またもや忠三ベッタリと、畳へ食いついた時である。「ではいよいよあすの晩、
傾城塚へ行こうかという、老人の声を聞いた時、早引の忠三「おや」と思った。それは最近めっきりと、噂にのぼっている塚だからで、時々女の泣き声が聞こえてくるということである。
少年の声がすぐ聞こえた。「お供することにいたします」
すると老人の声がした。「やっぱりわしにはあの塚は、南朝に関係ある武将などの、
「さていよいよ掘ってみて、
「いやいやそれとて結構でござる。一国の正史を編もうとするには、それくらいの障害はやむをえません」
「これはいかにも
ここでしばらくしんとなった。
「正史をあむということは、偉人を世の中へ出すことではなく、偉人をぶちこわすことでござる」老人の声が聞こえてきた。「できあがっているものを鵜呑みにする、この傾向はいけませんな。一度は疑ってみるべきです。あの人物は偉人だという。しかし信じてはいけません。偉人ではないときめるのです。そうして材料をあつめるのです。偉人ではないという材料をな。するとこれも当然なことには、たいがい偉人ではなくなります。一応値打ちをひっくり返す! 真髄をつかむ秘訣ですな。もっともどんなにひっくり返しても、ひっくり返らない人物もあります。それこそ本当の偉人です」
「どんなお方が偉人でしょう」
「大楠公などは偉人ですな。それだのにロクないしぶみさえない。是非建てなければなりませんな。さよう
だんだん真面目な話になる。忠三なんとなく引っ張り込まれ、耳をすまして聞いていた。また、しばらく静かになった。
と少年の声がした。
「紀州の叔父上のお振る舞いなど、いかが先生には
「ちと奔放に過ぎますな。平地に波瀾を起こされるようで」
「困ったものでございます」
「そのうちおいさめなさるがよろしい」
「しかし私など若年で······」
「年など考えてはいけませんな。よいと思ったらなさるがよろしい」
「はい」とおとなしい返辞が聞こえた。またしばらく静かになった。
忠三には見当がつかなかった。
「塚をあばくっていうのだから、大泥棒かと思ったら、今度は歴史をあむんだそうだ。それじゃア二人とも学者なのかな? 紀州の叔父上って誰のことだろう?」
その時老人の声がした。
「勢力をおさえてもいけませんが、無理に進めてもいけませんな。自然自然に移るのを、徐々に進めてゆかなければ、当人どもはよいにしても、はたが迷惑いたしますよ。ご覧なさい明朝は潰れました。そうして清朝が起こりました。しかし支那の四百余州は、決してくらしよくはなりません。とうとう私など逃げて来ました。······少し部屋の中が
仰天したのは忠三である。たまるものかと這い出そうとした。とスルスルとふすまが開き、さっと灯し火がさしてきた。
「これこれ若者、逃げないでもよろしい。何か物でもほしいのか」
「どう致しまして、とんでもないことで」
忠三おずおず眼をあげたが、「まあどうだい、この部屋は!」
まあどうだいこの部屋は! こう忠三つぶやいたものの、それはその部屋の装飾が、特別に珍しいからではなく、本が余りにも多いからであった。部屋の大きさ五十畳敷きもあろうか、本来なれば見かすむばかりに、広く見えなければならない筈を、恐ろしく狭く見えるのであった。三方が本で埋ずめられている。が、ただし、その間には、古墳から掘り出したと思われる、石のからびつ、古刀剣、曲玉管玉、
一人の老人が坐っている。あごひげと眉とが純白で、耳から耳まで白髪が輪取り、
「ははあ、なんにもほしくない?」ちょっと老人は不思議そうにした。「うむ、賊ではなさそうだな」
「ヤクザ者ではございますが、コソコソ泥棒ではございません」忠三ヒョコリと辞儀をした。
「では何ゆえここへ忍び込んだ?」
「さようでございますね。ついうかうか······」
「ここをどこだと思っているな?」
「とんと存じませんでございます」
「このお方をご存知かな?」少年武士を指さした。
「とんと存じませんでございます」
「尊いお方だ。ご挨拶をしな」
「へい」と忠三頭をさげた。
すると今度は少年武士がいった。
「このご老人を知っているかな?」
「とんと存じませんでございます」
「えらいお方だ。ご挨拶をしな」
「へい」と忠三お辞儀をした。
「ナニサわしは
「料理屋の亭主でございます」
「ほほう、さようか、それは結構。では唐風の料理の書、一冊そちに進ぜようかな」
「いえ、私のは南蛮流で」
「さようか、それでは役に立つまい。······どうだな、亭主。変わった話はないかな?」
「へい、どうも、これといって······」
「何かあるだろう。話してくれ」
「お
「まだよかろう。もっと話して行け」
「へい。有難う存じますが、もう夜ふけでございますし、店の方も心配で。······不用心の世間でございますから」
「全く不用心の浮世だな、戸締まりを破って押し込む奴がある」
「いえ、自然と開きましたので」
「光殿、光殿」と老人はいった。
「今後雨戸は閉じない方がよろしい。その方が用心がよさそうでござる。······では亭主、また来るがいい、ただし今度は表門から来いよ」
「へい」というと早引の忠三、部屋をすべって廻廊へ出た。それから庭へ飛び出した。と、女の声がした。
「ノロマのノロマの三吉や!」築山の方から聞こえて来る。
「ノロマのノロマの三吉や」築山の方から聞こえて来る。「おや」というと早引の忠三、やみに立ってそっちを見た。明月に照らされた大築山、頂きに女が立っている。その前にいる一匹のけもの、頬かむりをした猿である。後足で立ち、手を差しあげ、月をとらえようとするように、ピョンピョンピョンピョンはねている。
と、美しい女の声。「ノロマのノロマの三吉や。さあ妾をとらまえてごらん」スーッと築山を駈けおりた。と小猿が後を追う。「ノロマのノロマの三吉や」いいながら女は裾をめぐり、築山の向こうへ行ってしまった。「キー、キー、キー」となきながら、猿がその後を追っかける。と、またもや女の影、築山の頂きへ現われた。つづいて猿が現われた。ピョンとはねると飛びついた。
「おや、とうとうとらえたね」キュッとだきしめるとベタベタと、頂きへ坐ったものである。
「ねえ、三吉」と話しかけた。「お前はほんとにノロマだよ。杉窪にいてもノロマだしお屋敷へ来てもノロマだし、ノロマのノロマの三吉や。でもね、お前は恩人だよ。お前が助けてくれなかったら、妾は今ごろ文三めに······お前はノロマで恩人だよ。······ノロマの恩人の三吉や! お前がいるからまだいいのさ。そうでなかったらさびしくて、妾は病気になってしまう。
「だからね三吉や。宿なしなのよ、妾たちはね。どこへも行く事ができないんだわ。悲しいわねえ、三吉や!」キューッと猿をだきしめたらしい。
「キー、キー、キー」と猿がなく。あんまりしっかりしめられたので、痛いヨーと泣いたのだろう。「お前と毎晩お庭へ出て、鬼ゴッコをするのが楽しみよ。
「とらえてごらん、とらえてごらん」ヒラヒラと一方へ走って行く。猿がその後を追って行く。
「とらえてごらん、とらえてごらん」反対の方へ走って行く。と猿が後を追う。
お庭が一時に深山となり、美しい孤独な山姫が、けものと遊んでいるようである。
と、再び一躍し、猿は女へ飛びついた。
つとかかえて胸へだく。
「袴様!」と空を見た。「お助け致す、君尾殿! お声が耳に残っている。でも助けてはくださらなかった。······あの方どこにおいでだろう。······いいお月夜! 思い出すわねえ」
月の光に顔が浮かび、夕顔の花のように真っ白だ。眼のひとところだけキラキラと、露でもおりたか光っていた。涙というものに相違ない。
じっと見ていた早引忠三、「ううむ」とまずもって感心した。
「町の女とはまるで違う。なんといったらよいだろう? 野からうまれた阿魔っ子だなあ」
その時猿がキーとなき、忠三の方を指さした。
「どなた?」という女の声。
「へい」と忠三やみから出た。
とうとう目付けられた早引の忠三、闇の中から踏み出した。
「明るい晩でございます」トボケた調子で声を掛けた。
「ええほんとに、昼間のようね」無邪気な君尾の声である。
「あのどちらからいらしったの」
「へい」といったが返辞が出来ない。「よいお月夜でございます」
「
「裏門からでございます」
「なんのご用でいらしったの」
「うん」とつまったが、「かまうものかひとつ、この娘をおどしてやれ。······お嬢様!」と恐ろしい声で、「あっしは大泥棒でございますよ」
「そう」とちっとも驚かない。「で、何かお取りになって?」
「やりきれねえなあ」と思ったが、「途方もないものをもらって来ました」
「見せてちょうだい、どんなもの?」
「それがね、ちょっと見せられません」
「なぜでしょうね。見せてちょうだいよ」
「形のないものでござんす」
「形のないもの? では夢ね」
「うまいことをいう」とつぶやいたが、「いえ『言葉』でございます」
「『言葉?』」と君尾は打ち案じた。どうやら意味がわからないらしい。
「
「内丹説?」と首をかしげる。「何かのご用に立ちますの?」
「へい、さようで、泥棒のね」
「ねえ」と君尾築山から、二、三歩下へおりて来た。「ご存知なくて、袴様を?」
「さあ」とこれにはこまってしまった。「どういうお方でございますか?」
「よいお方でございますの」
「いずれよいお方でございましょうな。あの、お嬢様のお仲好しで?」
「ええそうよ、兄弟のように」
「夫婦のようではございませんかね」
「ええそうなるかもしれないの」
「ひどくサッパリした返辞だなあ」忠三感心をしたものである。「でもね、お嬢様」と進み寄った。「その袴様という人が、ほかのお嬢様に恋せられ、一緒に住んでいたとしたら、あなたは何んとなされますな?」
「いいえ、そんな事ありません」君尾の声はりんとなった。
「いいえ、そんなことありませんの!」信じきっている調子である。「ねえあなた」といい続けた。「お逢いになったらいってちょうだい、君尾が待っておりますとね。そうしてここにおりますとね······ノロマのノロマの三吉や!
築山の向こうへ駆けおりた。とまたヒョッコリ現われた。「あのね」と忠三へ話しかけた。「楽しい時もありますの。ええそうよ、妾にだってね。古塚を掘りに行く時はね。妾もお供を致しますの。ノロマのノロマの三吉や!」
また向こうへ駈けおりてしまった。
きびすを返した早引の忠三、塀まで来ると縄を引く。ピョイと飛び超すと縄をたぐる。ふところへ納めて気がついた。
「どうだ野郎、まだいるか」木蔭をのぞいたが文三はいない。「ふふん、眼ざめて飛んだとみえる。よかろう、達者で永生きをしろ。そうして死ぬまで探すがいい。君尾様、君尾様、君尾様とな! 水戸家の御曹司光圀様、
やがて帰って来た南蛮屋。
「旦那、遅いじゃアありませんか」
「悪いか」と睨んで南蛮部屋へ通る。ドンと寝椅子へ腰かけたが、「あねごがいねえと寂しいなあ」一息にグーッと眠ったが、眼ざめたときは翌日の正午、と、戸が開いてノッソリと、はいって来たのが島原城之介。
「よう島原か」「うん、早引」
睨み合った忠三と城之介、ひとしきり部屋内静かである。と、笑ったのは忠三である。
「ご精が出るの、え、島原」
「うん」というと腰かけた。「手に入れるまでは毎日来る」
「よかろう」と忠三せせら笑ったが、「出世の秘訣は
「出世とは違う、女の話だ」
「似たようなものさ、何が違う。おめえがあねごを手に入れれば、途方もねえ出世といっていい」
「ふふん」というと城之介、ギロギロあたりを見廻したが、「今日も帰っちゃアいねえのか」
「そうさなあ」と冷ややかに、「南蛮屋は随分手広いが、おっ
しかし城之介返辞をしない。ムッとした眼つきで見廻している。
「だが」と城之介いい出した。「猫も、
「ほほう」と忠三からかいづらだ。「その観察は優秀だ。が、要するに優秀だけさ。居場所についてはわかるめえ」
「ああいう荷厄介な生き物だ。遠いところまでブラブラと、さげて行くような気づかいはない。
「なんのなんの長崎から、持ち運んで来たしろ物だ。
これで城之介だまってしまった。
「だがナア」とまたもいい出した。「気象に似合わず卑怯なまねだ。巻軸一本取ってくれたら、ままになろうといいながら、そいつを実行しねえんだからな」
「それがよ」と忠三鼻をこすり、「おめえの鈍のなすところだ。巻軸を渡したその瞬間、
「ところがあの時断りおった」
「そいつを素直に承知かえ」
「まさか手ごめにも出来なかったからな」
「そこで逃げたというものさ」
「そいつが卑怯だといってるのだ」
「おれの知ったことじゃアねえ」
「うんにゃ」と城之介手を握る。「てめえもグルだ! どこへ隠した」
「何をべら棒!」と負けてはいない。「
というと早引の忠三、寝椅子から身体を乗り出した。
「お前の
うっかり乗り出した島原城之介、いおうとした時気がついた。
「その手に乗るか、ばかな
そっくり返ったものである。
真ん中どころを射あてられ、さすがの早引忠三も、げんなりとして苦笑したが、反動的に
「おおおおおお、いかにもなあ、まだおめえにア脈がある。もっともおれにカマをかけられ、チョロッカにねぐらを明かすようじゃア、よくよくヤクザな人間だ。そこまで耄碌はしていねえだろう。よろしいよろしい天が下、人ある所おめえの住居、大きく出たところに稚気があって、そうして大変可愛らしい。そこであねごの隠れ家だが、やっぱりそうだ天が下、人ある所にあるらしい」ここで意地悪く笑ったが、「ただしちょっくら匂わしておく。あねごは一人じゃないんだぜ。そんな不経済をするものか。相手があるのだ、
ヌッと立ち上がった城之介、すごい笑いを浮かべたが、「能弁能弁、見事なものだ。が、時々すき切れがして、大事な奥がチラツイたぜ。だからあんまりしゃべらねえがいい。しかしおかげで······何さ馬鹿め!」フラリと部星から出て行ったが、すぐにジャラーンと
「しまった!」とわめくと飛び上がった。「ヤイヤイ誰かやって来い」
「へい」といって現われたのは、
「親方何かご用ですかい?」はいって来た権十きいたものである。
「うむ」というと早引の忠三、改めてじっくり考えた。「色ぼけている島原城之介、なんのあねごの離れ家を、目つけ出すようなことがあるものか。それにしてもちょっといい過ぎたなア。······それはそれとして君尾という娘、目つかったからには明かさなければならない。······オイ、権十」と呼びかけた。「お前これからすぐに出かけ、あねごのところへ行って来てくれ。つまりなんだ、こういうのだ。至急も至急大至急、すぐに南蛮屋までおいでくださいとな」
「へい、よろしゅうございます」
「オイ待て待て、まだあるのだ。本来なれば忠三が、おうかがいするのでございますが、お仲のよいところをのぞくのも、まことに変な格好で、あねごにとってもご迷惑、忠三にとってもご迷惑。そこでお呼び立て致しましたとな」
「へい、よろしゅうございます」
「オイ待て待て、まだあるのだ。そうよなア、何ていおう、寮お住居もようがしょうが、南蛮屋だってすてたものじゃアねえ、時々いらしってもようがしょうとな」
「へい、よろしゅうございます」
「オイ待て待て、まだあるのだ。袴広太郎様はようがしょうが、忠三だってようがしょうとな」
「へい、よろしゅうございます」
「オイ待て待て、まだあるのだ。一体全体何がなんでえ! ひとつこういってどなって来ねえ」
「へい、威勢よくどなるんですね」
「まあ少し待て、考えてみよう。······どなるだけ理由はなさそうだな。オイ権十、どう思う」
「かまうものですか、どなりなせえ」
「おだてるねえ」と睨みつけ、「どうだろう権十、おれのつら、このごろトンマに見えねえかな?」
「どう致しまして、聡明で」
「ふふん、駄目だよ、
「親方、行くんですかい、行かないんですかい?」
「うせやアがれ!」と
「まだいたのか! 途方もねえ奴だ!」
「ひでえや!」とわめくと子分の権十、外へ一散に飛び出した。
小梅の里も奥まったほとり、一つの寮が立っていた。
「
「渡り鳥が来たようでございますね。
「よい季節になりましたな。ははあなるほど、椋鳥が」
不意にあたりが暗くなった。とバラバラと音がした。
ちょっとの間沈黙する。とまたお町話しかけた。
「落ちあゆの季節になりました」
「ああいかにもな、落ちあゆの季節」
「カマスやヒシコや小がれいや、かじきまぐろの盛りだそうで」
「さようさよう、そんなようで」
「からいも、
「秋はよろしゅうございますなあ」
「
「さぞ忙しいでございましょう」
「
「そんなあんばいでございますな」
「
「あっ、私も聞きました」広太郎はなんでも同意する。
「木犀に萩にすすきに
「いろいろの花が咲き出しました」
「霧にとんぼに稲刈りに、面白い時令となりました」
「面白い時令となりました」
「二百十日に二百二十日、
「みんなみんな結構で」
「ホ、ホ、ホ、ホ、おかしなお方!」
「アッハッハッハッ、愉快でござる」
大変のどかな会話である。
「あなた、ご気分もお
「よろしゅうございます、おかげさまで」
「お肥えにならなければいけません」
「沢山たべて肥えましょう」
「少しはお散歩なさりませ」
「ボツボツ散歩しましょうかな」
「あなた」と少しく語気を強め、お町、広太郎へいったものである。
「あなた」と語気は強めたが、思い返したというように、お町は元のやさしさに返った。広太郎の心にさわるまい、こう思ったがためらしい。
「以前は陰気でございましたのに、この頃は陽気におなりなさいました。何があなたをおかえしたのでしょう?」
「さあ」といったが広太郎、むしろ水のように淡々と、「いろいろの事情があるようです」
「おあきらめなすったのではございますまいか?」
お町追っかけてきいたものである。
「それもあるようでございますね」ひとの噂でもするようである。
「ほんとにそれに致しましても、どうして目つからないのでございましょう」お町の方が熱心である。
「この世にいないのかもしれません」やはり広太郎水のようだ。
「忠三さんをはじめとし、沢山の人を手分けして、杉窪からかけて江戸一帯、近郷近在までさがしたのに、どうしてもお行方が知れないとは」
「この世にいないからでございましょう」
「お気の毒な娘さんでございます」
君尾の噂をしているのであった。
「あのそれからお京様の方も、お行方が知れないそうでございますね」探るようにお町がきく。
「そんな評判でございます」広太郎少しも動じない。
「ほんとに不思議でございますわね」むしろ自分へいったのである。
「若い娘ごが二人まで、行方不明になるなんて」
広太郎なんとも返辞をしない。依然水のようにすんでいる。
柱につるされた
コツコツコツ、コツコツコツ、鸚鵡が煎餅をつつく音! ふと広太郎がつぶやいた。
「生死の境いを経てくると、人間というものは変りますなあ」
お町が聞きのがす筈がない。「袴様、どういう意味で?」
だが広太郎答えない。庭の木立を眺めている。とまたつぶやいたものである。
「本来私はあの時に、殺されている身分でございますよ」
「ほんとにあぶのうございました」
「それを今日生きております」
「ご運がよかったからでございます」
「いやあなたに助けられたからです」
「
「私の身体はあの時以来、私のものではない筈です。あなたのものでございますよ。······それはそれとして人間というもの、ああいう境地を経て来ると、覚悟が出来るものですね。流れるままに流れよう。こだわらずに生きて行こう。過去は一切消えたのだ。現在ばかりに生きて行こう。そうしてそれもあなた任せ! こういう覚悟でございますよ」
一種の悟りの結果でもあろう。広太郎の言葉には含蓄があった。
「だがこれまでになりますには、相当
というと広太郎、微妙な微笑を頬に浮かべた。
「しかし」と広太郎はいいつづけた。「正直に申しておきましょう。お京様は初恋人、忘れることはできません。いまだに心に焼きついております。が、しかし残念なことには、すでに
「一緒にこそ住んではおりますものの、夫婦ならぬ夫婦ではございませんか」お町の声はさびしそうである。
それには広太郎は答えなかった。
「私にとりましては
「ただそれだけでございましょうか」お町不足そうにせまって行く。
「私を愛してくださいました。私を看病してくださいました。私を放そうとなさいませんでした。そこで実家がありながら、私はそこへ帰ろうともせず、あなたと一緒に住んでおります」
「たいへんお気の毒でございますこと」
「最初私には疑問でした。いったいどういう女だろうと?」
「妾、毒婦でございますの」
「はい、さようで。この私にも、ある時はそんなように見えました」
「こわい女でございますのよ」
「私が命を助けられたばかりか、お京様を天草の屋敷から、無事にお取り返しくださいましたのも、やはりあなたでございました」
「あなたのおたのみでございましたから。······」
「二重三重の恩人です」
「いやな言葉でございますこと。······」お町不足らしくいうのであった。「恩人! 恩人! どこまでいっても恩人!」
すると広太郎暗示的にいった。「男女の恋というようなものは、いろいろの関係からなり立ちますなあ」
お町じっと聞き澄ました。そのあとの言葉を待ちもうけた。
淡々と広太郎はいい続けた。
「一目ぼれというのもございます。一番純な恋ではありますが、同時に一番あぶなっかしいようで。······しげしげ逢っているうちに、ほれてしまうのもございますな。女に物でもみつがれると、ついほだされて恋してしまいます。これが一番不純のようで、その実一番理詰めでございます。ご恩になったからご恩を返す! なんと合理的ではございませんか。ましてや女が二つとない、命をみついでくれたとなると······」
お町、ヒョイと手を出した。と、広太郎も手を出した。十本の指がしっかりと、からみ合って握られた。
「袴様!」と熱病のような声! 「いつぞやあなたに申しました! はい、南蛮屋の南蛮部屋で、あなたとお目にかかった時! 『お金もいらず物もいらず、何もいただこうとは思いませぬが、そのうちあるいはあなた様の、一番一番大切なものを、いただきにあがるかもしれません』と。······今日こそわたくし
「よろしゅうございます。お待ちなされ」
「では
「今夜あたりで幕をおろしましょう」
「ああ、夢のようでございます」
「夢はこれから見るのです」
「······夢を! 今夜から! 美しい夢を······でも」と不安に耐えないように、「そういっているうち、今日が日にも、お京様か君尾様のいどころが······」
「知れてみなければわかりません。······お京様や君尾様が現われて、あなた以上に私の心を、もし狩り立ててくれましたら、そっちへ移るでございましょう。······今は今を楽しみましょう。流れるままに、引かれるままに。······」
肩と肩とが寄り合った。首と首とがめぐらされた。きっと唇が合うのだろう。
庭木のこずえから夕日が消え、宵やみが襲って来ようとしている。
権十の姿が現われた。
「イスラエルのあねご、おいでかね。親方の使いで参りやした。一体全体何がなんでえ! こうどなれと申しました。寮住まいはようげしょうが、南蛮屋だってようげしょう! 袴様はようげしょうが、忠三だってようげしょう! 是非南蛮屋へ来てくだせえ! うしゃアがれ! まだいたのか! ひっちかられてしまいやした。至急南蛮屋へおいでくだせえ!」
庭先に立っていったものである。
さてこの頃南蛮部屋では、忠三、寝椅子にころがりながら、こんなことを考えていた。
「あねごが来るのだ、あねごがよ! イスラエルのあねごがおいでになるのだ! そこでおいらは立ちあがり、あねごへ寝椅子を奉る。と、あねごがやんわりと、そこへお腰をかけられる。忠さんその後はご無事かえ? などとおっしゃるに相違ない。そこでおいらは『へい』といって、ひとつはにかんでみせるかな。うんにゃウンと威張ってやる! そうしてノッケから巻くし立ててやる。あねごいけねえ目っかっちゃった! へいさようで、君尾様がね! で、あねごはお払い箱、袴様からヒマが出る。いらはいいらはい南蛮屋へ! するとあねご来るかしら?」
「忠さん」とその時声がした。はいって来たのはお町であった。
「来たア!」
とわめくと早引の忠三、もろに寝椅子から飛びおりた。「さあおかけ!」と
それからニヤニヤ笑ったが、予定の行動というやつだ。ノッケからいい出したのである。
「あねご、とうとう目つかりやした!」
「何が?」とお町眼をまるくする。
「お聞きなせえ、まずこうだ。芝へ行ったと思しめせ。へいさようで、昨晩ね。帰って来た所が上野山下、そこで逢ったのでございますよ。へい二人の野郎にね。一人はお京様をなくしたし、一人は君尾様をなくしたし、月がまるくてションボリだ。猿のなき声キーキーキー、もっともこいつはこわ色で。そこであっしが追っかけて行き、キューッとしぼったは中条流、ピョイと飛び越すと朱舜水様葵のご紋もおいでなさる。内丹説に胆をつぶし、飛び返ってみるとまたキーキー、今度は本当の猿がいて、『ノロマのノロマの三吉や』とうとう目つけたというもので······だがね、あねご。これだけじゃア、とてもわかりっこありますめえね。······いったい何だ、このざまは!」
自分で自分を毒づいたが、
「枝葉を刈り込んで幹ばかり、こいつでお話し致しましょう。あねご、鷲いちゃアいけません。探しあぐんだ君尾という娘、ところもあろうに根岸住居、あねごの父上紀州様、そのお方の
昨夜の話をしたものである。
「さてそれからもう一つだ、困ったことが出来ました。もっともこいつは一言もなく、あっしの責任ではございますがね。たった今し方島原城之介、あねごを探しに来たってもので。ついうかうかと舌が廻り、その、あねごの隠れ家を、もちろんはっきりとではありませんが、しゃべってしまったというもので。しかし間抜けの城之介、目つけ出す気づかいもありますまいが、あっしとしては気がかりだ。そこでちょっくらお呼びして、お話したというもので。そそっかしいは昔からだ。こいつはご勘弁を願うとして、とにもかくにもご用心、お願い致しとう存じます。······これでやっとセイセイした。すまじきものは駄弁でげす! 今後は注意致しやしょう」
いくらか不安だというように、忠三お町を見たものである。
「おやおやおや、どうしたんだ!」
忠三思わず飛びあがった。お町の様子が変ったからである。
まず顔色があおざめた。それからひとみが一点を見詰めた。唇がブルブルふるえてきた。そうして
「夢が消えた! 美しい夢が!」笛のようなかん
「あねご!」と叫ぶと早引の忠三、ジリジリと後へ退いた。
「ど、どうしたんで? どうしたんで!」
「お礼をいうよ!」とまた進んだ。「よく目つけたねえ、君尾様を! 時もあろうに、こんな時に! 明日ならよかった! 明日ならよかった! 忠三」と眼から涙を流した。「食い殺してもあき足りないヨーッ」
「ワーッ、いけねえ!」と早引の忠三、壁へピッタリとくッついてしまった。
「オイ!」とお町、なお進む。
「オイ!」といいながらイスラエルのお町、ジリジリと忠三へせまったがにわかに両手で眼をおさえると、グタグタと椅子へくず折れた。と、
「君尾様の居場所、君尾様の居場所······知れたからには袴様へ! ······それと知ったら袴様、どんなお心になられるだろう? ······なんといってもあの人の恋人······探しあぐんだ娘さん······ガラリお心が一変し······傾きかけたお心が······向こうへ移ってしまうヨーッ······移ったが最後容易には······取り返せない······取り返せない! ······棄てられるヨーッ! 棄てられるヨーッ! 忠三!」とヌッと顔を上げた。
「あねご!」と忠三ふるえ上がってしまった。
「
「済まねえ!」とギックリ腰を曲げる。
「ああ
「水だ!」と忠三、飛び出そうとした。
「殺しておくれ! さあ妾を!」
「堪忍!」とガタガタふるえ出した。
「よくもよくも目付けたねえ! なぜだい! なぜだい! なぜだい! なぜだい!」
「無理だ! あねご!
「ねえ」とお町、ぼんやりとした。
「いったわねえ、目付けろって! で、お前は目付けたんだねえ。ああそうとも、よく目付けたねえ······今夜が過ぎればよかったんだ。······妾の人になったんだから。······早かったわねえ、一日だけ! 忠三さん!」というと凝視した。「縄をお貸しよ、お前の縄を!」
「どうなさいます? ねえあねご?」
「あのねえ」ジイッと天井を見た。「掛けておくれよ、あそこの
「ううむ」とうなったものである。「首を······あねご? い、いけねえ!」
「貸してくれないの。え、忠さん! そう、それなら借りません。······舌をかんだって死ねるねえ」
寝椅子の上へつっ伏した。背筋からかけて肩口まで、ウネウネ波のようにうねるのは、泣きじゃくっている証拠である。
眼を垂れ床を見詰めたが、忠三心でつぶやいた。「こんなにもほれていたのかなあ」
月が窓からさして来た。店から客の声がした。酔客のうたう声である。

「妾は行きます。さようならよ」
「あねご、送りましょう。へいそこまで」
「妾は行きます。さようならよ」
戸口の所で振り返った。
「お前たっしゃでいるがいいよ」
部屋の外へ消えてしまった。
酔客の歌が聞こえて来た。
「起こりそうだなあ、恐ろしいことが」
忠三胸へ腕組みをしたが、はたして恐ろしい出来事が、その夜のうちに起こったのである。
ちょうどこの頃小梅の寮では、一人広太郎が灯火の下に、例の
「いったいどこの城だろう? 随分大きな城郭だが。もう一本の巻軸を継ぐと、完全な図面になるものと見える。だがいったいこんな図面が、どうしてあんなにも大切なんだろう? はてな?」とつぶやくと眼を上げた。金目垣の向こうに何者か、いるような気勢がしたからである。
何か白いものが浮かんでいる。「おや!」と一層のぞき込んだ時、フワリと横へそれてしまった。「おかしいなあ、何だろう?」心にかかったが立ちもあがらず、再び絵画面に見入ったが、これが悪運の基であった。
「いやそれにしてもお町という女、いかにも変った性質ではある。杉窪の里の裏山で、ゆくりなく拾ったこの巻軸、多くの人の争うところを見れば、大切なものと思われる。しかし拙者には不用の品、差し上げましょうといったところ、以前はほしゅうございましたが、今はほしいとは思いません。妾のほしいのはそれでなく、袴様あなたでございます。こういって取ろうとしなかったが、サッパリとして面白い気象だ。······巻軸二本手に入れると、どんな功徳がありますかな? おれがこう聞くとあのお町、袴様あなたのお家などには、あり過ぎるほど沢山にある、そういう物をさらに一層、手に入れることができますので。こういって冷淡に笑ったが、いったいなんのことだろう? おれの家にある物といえば、先祖代々貯め込んだ、
二の丸と三の丸の境い目の、濠の一所にポッツリと、半分にち切れた
「妙なものだなあ、何だろう? どうやら意味があるらしい。そうだ、もう一本の巻軸を、ここへ
物にでも襲われたというように、フラフラ立ったがまた坐った。手を伸ばすと巻軸を、グルグル巻き納めたものである。
と、その時籠の鸚鵡、にわかにコーッと鳴き出した。と、飛びあがったスペイン猫、背を持ち上げると爪を磨き、
「袴氏!」としわがれた声!
「袴氏!」と声を掛け、飛び込んで来たのはほかでもない、修験者姿の島原城之介。ツカツカ進むと縁側の手前、庭先へジャラーンと鉄杖を突き、および腰をしてのぞき込んだ。
「袴氏、しばらくでござった。隅田以来随分の因縁、今日はお礼に参ってござる。わけてもよくぞ拙者を捕え、正雪一味へ渡されたな! 次にはよくぞイスラエルのお町を、拙者から横取りなされたな」まず城之介いったものである。それから
「お町を出せ!」
グイとかい込んだ鉄杖を、右八双に構えたのは、機を見て振り込もうためであろう。
「ははあ鸚鵡も籠にいるな。スペイン猫もご健在。ひどく拙者が嫌いとみえ、ガーガーミンミン鳴きおるわい!」ドンと片足を縁へかけた。「お町を出せ! お町を出せ! とはいうもののそのお町、今いねえのは百も承知だ! 金目の垣のうしろに立ち、そうさなア、一刻余りも、内の様子を見ていたっけ。手を取り合って口づけし、今夜出来合おうのご相談! みんな聞いたみんな見た! ムカツク胸をさすりながら、
というと鉄杖を、グイとばかりに突き出した。と、経机が飛んできた。袴広太郎投げたのである。
「おっとあぶねえ」とたたき落とした。「これこれなんだ、とんでもねえ奴だ! 机には罪はない筈だ。これまで二人で寄っかかり、厄介をかけた机じゃアねえか。いかに不用になったとはいえ、そう
とたんに飛び上がった広太郎、そばの刀へ手をかけると、スルリと引き抜いたものである。
「えッへッへッ、抜きましたね。ソレ!」
というと島原城之介、グルリ鉄杖を右手廻し、環頭をもってすくい上げた。
怪修験者島原城之介。現われた時から広太郎、「残念、駄目だ!」と考えた。隅田の堤で逢って以来、敵の力量は知れている。無双の手利き、恐ろしい奴だ。が、あの時はまだよかった。というのは広太郎たっしゃだったからだ。今はいけない病後である。体も心も弱っている。太刀打ちは愚かこれまでは、戸外の散歩さえしたことがない。
「これはやられる! これはやられる!」
さりとて逃げることも出来なかった。いついたままでピタリと青眼、差し付けられた鉄杖を、睨みつけているばかりである。「おれは屋内、きゃつは戸外、きゃつの獲物は長目の鉄杖、おれの得物は幸い小太刀、うまく屋内へ誘い入れたら、万に一つ勝とうもしれぬ。そうだそうだおびきよせてやれ!」
その時城之介鉄杖を廻し、広太郎の足を払って来た。「うむ」というと背後へ飛んだ。そこへつけ込みスルスルスル、城之介屋内へはいってきた。「しめた!」と叫んだ広太郎、片膝敷くと
こいつを受けたら刀が折れる、身をかわすと辛く
縁まで下がってきた城之介、ヒョイと飛ぶと庭へ下り、引きそばめると鉄杖の先、片手に握ると六尺の長さ、胸の長さを加えると、八尺となって余りがある、ゆるやかに斜めに振り上げたが、妖精じみた窪んだ眼で、狙いをつけたは広太郎の右肩、
「もういけめえ!
例の
癒着していない傷があった。そいつがわれてしたたる血!
「むっ!」というと袴広太郎、縁にへたばったがそれも一瞬、血溜りの中へ横倒し、悶絶をして動かなくなった。
「ほほう」というと城之介、例によってジャランと鉄杖を立て、それへ寄っかかって見おろしたが、「片がついたというものさ。死にゃアしまいね、え、まさか?」片手を出すとグイと伸ばし、広太郎の鼻息を窺った。「大丈夫だア」と眼を上げた。と、眼についたは巻軸である。「思わぬ獲物! すなわち
小門にあたって女の足音!
「や、帰って来たお町めが! が、今逢っては面白くない。玉をさらってひとまずのがれ、さてそいつをおとりにして、
またも鳴き立つ籠の鸚鵡、バタバタバタと羽ばたきをする。と四散する翼の
足音の主はお町であった。
「君尾という娘、目つかったからには、どうでも袴様へ知らせなければならない。ああ捨てられたら死ぬまでだよ! ······どうしたんだろう? やかましいねえ」
庭づたいにやってきた。見ればタップリ縁の上、血がたまって赤黒い。
ギョッとしたお町、「袴様!」
呼びかけたが返辞がない。駈け上がると探し出した。
「袴様! 袴様! 袴様!」
返辞のあろう筈がない。飛び返ってきたイスラエルのお町、ベタベタと縁へすわってしまった。思い出したは忠三の言葉!
「城之介めだ! 城之介めだ!」ヨロヨロと立ったがまたベッタリ。
「畜生! 畜生! 畜生! 畜生! 城之介めが袴様を殺したヨーッ」
血だまりを睨んだものである。
「あッ、
キューッとこめかみを押さえつけた。
気だって遠くなるだろう。眼だってグラグラするだろう。恋が叶ってサア今夜! 楽しい夢を見る事が出来る。こう思ったおりもおり、君尾の居場所が発見され、一つの邪魔がはいったのでさえ、随分お町には苦痛だったのに、帰って来て見れば恋人がいない。残されているのは血だまりだ。殺されて死骸を捨てられたか、負傷してどこかへさらわれたか、どっちみち、恐ろしい運命が、恋人を見舞ったに相違ない。間を置いて来たならともかくも、一度に襲ってきたのである。もしもお町が気弱だったら、気絶ぐらいはしただろう。
お町はいつまでも動かない。ぼんやりと血だまりを見詰めている。さりとて考えているのではない。放心、放心、放心しているのだ。と、ポッと眼の前へ、一つの
頭の芯がジーンと痛む。身体の骨が抜けてしまいそうだ。胸ばっかりがむやみとおどる。だが、ちっとも涙が出ない。
と、この時どうしたものか、血だまりを廻っていたスペイン猫、ネロがお町へ飛びかかって来た。すなわちお町の袖をくわえ、グーッと前へ引っ張ったのである。お町は無心に払いのけた。飛び退いたネロ、縁を飛び下り、金目の垣まで走ったが、ガリガリと地面を引っ掻いた。と、またも飛び返り、袖をくわえて引っ張った。
「あっ、そうかい!」と、イスラエルのお町、にわかに手をうち飛びあがったのは、一つの考えが浮かんだからである。
慣らされ切っているスペイン猫、血のにおいだけはかぎ分ける。地にしたたっている広太郎の血潮、ははあこいつをたよりにして、袴広太郎様のおり場所へ、案内しようとしているのだな! ||こう考えた時お町の心、明るくなったのは当然といえよう。
「ネロや、ネロや、有難うよ!」まずもって礼をいったものである。「案内しておくれ、さあすぐに! 行くとも行くとも連れて行っておくれ! どこにいるのさ、袴様! さあさあ行こうさあさあ行こう! ああ、でも、もしや行き着いた所に、あの方の死骸でもあろうものなら、それこそ、本当に、どうしよう! ······でも行こうねえ、さあ行こう! ネロや、ネロや、連れて行っておくれ!」
ヒラリと縁から飛び下りた。
「お待ち!」
とにわかに立ち止まった。
「忠さんへ知らせよう、忠さんへ!」
ふたたび座敷へ駈け上がった。ベッタリ坐ると
立ち上がると鳥籠へ行った。戸を開けるとうれしそうに、舞い出してきた白鸚鵡、差し出したお町の手へ止まった。だき抱えたイスラエルのお町、手早く紙片を巻きつけた。
つとお町縁へ出た。
「花ちゃん」と鸚鵡へ話しかけた。
「行っておくれよ、南蛮屋へね。忠さんへ手紙を渡しておくれ! 急いでね、大急ぎ!」
やわらかくだきしめ頬ずりをし、それからサッと切って放した。夜の鳥、眼は見えまい。しかし慣らされた文使い、感覚だけで飛ぶことが出来る。プーッと飛び立つと空を斜め、浅草の方角へかけったが、見る見る姿が見えなくなった。
「用心までに!」と、イスラエルのお町、手文庫をあけると懐刀を出した。
「さあネロや、連れて行っておくれ!」
地上へ飛び下りたものである。
フーッとうなるとスペイン猫、ポンと
「お待ちよ、お待ちよ!」とイスラエルのお町、小門から外へ駈け出した。
ネロはズンズン走って行く。後からお町が走って行く。今夜も明月、あたり明るく、
一匹のけものと一人の女、走る走る東北へ!
「ネロやネロや、早くお行き! 何をしているのさ。早くお行き!」夢中になって追い立てる。
一匹のけものと一人の女、こうしてだんだん進んでゆく。
ところでこの頃島原城之介、どこを走っていたかというに、
「島原!」と斬り込んで来たものがある。
「島原!」と叫んで斬り込んで来た人影、月光に見れば額に傷、すなわち天草時行の片腕、九州浪人長崎左源太。
アッという間に島原城之介、二間あまりうしろへ飛んだ。左手に抱えたは気絶の広太郎、右手に高く振りかぶったは、例の得物鉄杖である。
「ふふん」とばかり鼻を鳴らした。「おお長崎か、左源太か。いつの間に
と正面からせり詰めた。
「強い強いと聞いてはいたが、こうまで強いとは知らなかった。これはまるで逃げることさえ出来ない。のっかかって来る。おっかぶさって来る。なんてマアせいが高いんだ。······なんてマア得物が長いんだ。廻り込もうとさえしおらない。真っ正面からせまってくる。しかも片手だ、片手打ちだ! 随分重い鉄杖だろうに! なんだ、あいつは、光っているのは? 環だな、環だな、月に光っている! ······カラカラカラ、カラカラカラ、環が鳴るのだ、ぶつかり合って! 動かしているのだな、いつかないように! ······左手に死骸を抱えている。殺されたんだろう、可哀そうに! ······人間ではないものの
後じさることも出来なかった。横へそれることも出来なかった。魅入られたように凝然と、立ちすくんでいるばかりであった。
と振りかぶった城之介の鉄杖、ピリピリピリピリとふるえ出した。力が籠った証拠である。月光斜めに照らしている。半面明るく半面暗く、城之介の
「うぬ!」と叫ぶと飛び込んだ。
「おっ!」とわめいた城之介、飛び込まれようとは思わなかったらしい。少しあわてて振り降ろした。ジャラ||ンと鉄杖の響いたのは、不覚にも大地を打ったからであろう。当然のことにはしびれが来た。ガラリと鉄杖を落としてしまった。
「しめた!」と叫んだ長崎左源太、斬り込みはしない、太刀を引き、パッと横っ飛びに逃げ出した。
走る走る、見えなくなった。その素早さ、猟犬である。
後を見送った島原城之介、しばらくはぼんやり立っていた。ひどく感心したらしい。ややあって大変
「ワッハッハッハッハッ、逃げっぷりがいい。きゃつたしかに出世するなあ。というのは機を見るに敏だからよ。たいがいのヤクザはあんな場合にはきまって斬り込んでくるものだ。勝てるというような錯覚でな。が、飛び込んで来たが最後、血ヘドを吐いてくたばらなけりゃアならねえ。城之介様の高足駄、一本歯の利器と来た日には、
叫ぶと一緒に広太郎を、ドンと地上へ置いたものである。手を伸ばすと広太郎の片袖、グイとばかりに引きちぎった。
なぜ広太郎の片袖を島原城之介は引きちぎったのか! 広太郎の肩の傷口から、血がしたたっていたからである。
「こうむやみと出血しては、可哀そうに死んでしまう。死んでしまっては玉なしだ。せっかくのモクロミが駄目になる。何を置いても一介抱、どれ」というと腰をかがめ、ちぎった片袖をさらに裂き、クルクルと傷口を引き結んだ。
「よろしい」というと引っ抱えた。落ちていた鉄杖を拾いあげ、それからあたりを見廻したのは、つけてくる奴があるかないか、そいつを見きわめるためであろう。「大丈夫、どれ参ろう」
やぶの裾を歩き出した。と不意に城之介の姿、どこへ行ったものか見えなくなった。だが誰か人あって、しさいに耳を傾けたなら、周囲十町は充分にある。
で、今は静かなのである。
と、月光をぬいながら、こっちへ走って来る人影があった。女である。お町である。
「ネロや、ネロや、案内しておくれ! お急ぎお急ぎ、急いでお駈け!」
背を持ちあげ、背をひくめ、高く月に飛び、低く地にはい、お町の前方を走っているのは、スペイン猫のネロであった。
やがて
「ネロや、ネロやどうしたのさ? 早くお行きよ。さあさあ早く!」
うしろに立ったイスラエルのお町、追っ立てるように声をかけたが、ネロは一足も進もうとはしない。グルグルグルグルと同じところを、こまのようにめぐってばかりいるのであった。だがまだそれはよい方で、ネロはにわかに動かなくなった。空へ鼻づらを振り上げて、ニーンと悲しそうに鳴いたかと思うと、行儀よく前足を前へそろえ、その上へあごをピッタリとつけ、絶望したようにうずくまってしまった。
「ネロや!」お町は驚いてしまった。「どうしたんだよ、どうしたんだよ! なぜ行かないのさ、疲れたのかえ? もう一息だよ。走っておくれ! どこにいるのさ、袴様は? ······おかしいねえ。なぜ動かないんだろう? 道でも間違ったんじゃアないかしら? ······いったいここはどこなんだろう? ああ
もしやと思って呼んでみたが、もちろん返事は来なかった。ただ袴様、袴様と、その甲高い声ばかりが藪へつきあたったばかりである。風が渡るかその藪の木々、ザワザワとそよいで音を立て、その外側をなま白く、輪郭づけていた月光を、チラチラとはね返すばかりであった。依然としてネロは動かない。地面のひと所を見詰めている。気がついたお町、地面を見た。まさしく血だまり、そこにあった。
「おおそれでは袴様は、ともかくここまでは来たものとみえる。そうしてここから? そうしてここから?」どこへ行ったものか。ネロが案内しない限りは、お町には知ることは出来なかった。そうしてネロには案内出来ない。ここを最後に血のしずくが、地面にしたたっていないからである。絶望してペタペタと坐ったが、一方この頃長崎左源太、耕地を町の方へ走っていた。
長崎左源太走って行く。
「危難はのがれたというものさ。今夜の一

月光をしのいで一羽の巨鳥、まりのようにハズンで
二人、あやうくぶつかろうとした。
「おッ、貴様早引か!」
「やッ、手めえは左源太か!」
同時に刀へ手をかけたが、二人とも抜こうとはしなかった。さっと飛びさがったものである。
「今夜はせわしい。オイ早引、また逢おうぜ。
「今夜はせわしい。オイ左源太、また逢おうぜ。一昨日逢おう」
サーッとそのまま馳せちがった。
忠三は鸚鵡を追っかける。
「花公花公、早い早い、ゆっくり
飛鳥の後を追っかける。
長崎左源太も走って行く。するとまたもや行く手から、二、三十人の人影が走ってきた。手に手に得物を持っている。忠三のあとを追っかけて行く。
「ははあ南蛮屋の一味だな? だがいったいどこへ行くんだろう?」
グルリ
「無断借用、かまうものか」
飛び込むとマセ棒を引っ放し、ド||、ド||、ド||と引き出そうとした。後じさりをしていななこうとする。チョッ、チョッ、チョッ、と口を鳴らし、驚かさないように引き出したのは、さすがにさむらい、慣れたものである。スラリと乗ると裸馬、
ところでこの頃巴御殿では、天草時行同志をはべらせ、一本の巻軸を前に拡げ、陰湿たる奥の小座敷で、ヒソヒソ謀議にふけっていた。
巻軸のおもてに描かれているのは、宏大な城郭の縄張り図面、ただし半分しか描いてない。
「これはな」と天草さえない調子で、ポツリポツリと話し出した。「ある大城の絵図面さ、ご覧のとおり半分しかない。それ大手前の半分だ。肝腎の要害は描いてない。もっとも三の丸は描いてある。ところで。······」というと天草時行、例の窪んだ小粒の眼へ、例のあたかも
「こいつが大変な
「さあ?」といったように十数人の武士ども、互いに顔を見合わせたが、どうやら見当がつかないらしい。誰一人口をきこうとしない。
「わからないかな? そうだろうて」時行むしろ満足そうに、「わからない方が当然だ。わからないものならきもを冷やすだろう。ところがおれにはわかっている。いやいや、それとても見当だけさ。たしかなところはわかっていない、それでもう一本の巻軸を是非手に入れたいと思っているのさ。二つを合わせると完全に、どこの城だかわかるんだからなあ。が、ともかくも見当だけは、おれについているのだよ。ところでもしもおれの見当が、見当
ここでニヤニヤ笑い出したが、例のみつ口がほころびたため、かえって物すごく怒ったように見えた。
「というのはほかでもない」さえない調子で話し出した。「家康以来代々の将軍、すなわち秀忠も家光も、いずれも熱心なキリシタン信者! ということになるんだからなあ。こいつは実に考えただけでも、きものつぶれる話ではないか。実際代々の徳川幕府が、信者に加えた圧迫ときたら、その残忍と酷薄さにおいて、世界に名高い宗教戦のうちでも、特筆大書していいほどの、すばらしく大げさなもんだからなあ。しかるに親玉の将軍家が、その宗教の信者だとあっては、全くもってどういっていいやら、挨拶にさえ困るじゃアないか。ところがおれの考えによれば、事実代々の徳川将軍は、たしかにキリシタンの信者らしいのさ。いやいやこれはおればかりではない。原の城にこもった一揆の中の、幹部と称される連中は、ことごとくそんなように思っていたらしい。そうしてそう思っていたればこそ、あんな騒動も起こしたってものさ。幕府攻囲軍の大将として、松平信綱をよこしたのは、決して将軍家の本意ではない。あれは二義的の策略なのさ。神主や坊主がキリシタンのために、ドシドシ縄張りを犯される、そこで大いに閉口して、幕府に向かって上訴した。キリシタンをやッつけてくださいとな! 坊主や神主の勢力は、日本としてはおろそかには出来ない。もしこいつらを怒らせると、
キリシタン宗徒の連中へ、徳川家康がお墨付きを渡した! これはまことに意外なことで、充分驚いてもよさそうである。その秘密を知っていて、天草時行が話そうという。興味を起こさざるを得ないではないか。座にい並んだ十数人の武士ども、そこでちょっとばかり居住まいを直し、
と、天草こんなことをいった。
「これこれ
「は」というと三十格好、ほおひげの濃いさむらいが、「天文十八年かと存じます」
「まず及第、その辺であろう。······これこれ
「は」というと三十二、三、薄あばたのあるさむらいが、「大友
「まず及第、その辺であろう。······
「は」というと四十年輩、片耳欠けたさむらいが、「織田信長かと存じます」
「まず及第、その辺であろう。······
「は」というと四十二、三、胸毛の多いさむらいが、「天帝
「ははあ、それで帰依したというのか?」
「私、さように存じますが」
「零点だ、落第だよ」天草苦笑したものである。「なんの戦国の戦争請け負い人が、そんな
「は」というと二十八、九、眼に星のあるさむらいが、「スペイン人ザビエルで」
「かれの持って来た財産のたかは?」
「は」といったがわからなかった。
「わからないかな、そうかもしれない。絶対秘密になっているんだからなあ。が、伝説による時は、ザビエルの持って来たその財産、日本の国なら二つも買える! そんなにも
多比良と呼ばれた五十歳ぐらいの武士、
「は!」といったものの
天草時行一向平気、そんな様子には気がつかないらしい。
「大ばくち打ちの信長が、南蛮寺を建てたのはいつだったかな?」
「さようで」といったが知らなかった。「失念致しましてございます」
「よろしい、満点、その方がいい。無駄な年号なんか覚えているより、そろばんはじきを習う方がいい。満点ついでにもう一つ聞こう。なぜ南蛮寺を建立したかな?」
「は、やっぱり紅毛人の、ご機嫌を取るためでございましょう」
「百二十点! 感心感心。お前むやみといい点を取るなあ。ではもう一つ質問しよう。機嫌を取ってさてそれから?」
「は」といったがまたわからなかった。そこでもう一度ほめられようと、「失念致しましてございます」
「今度はいけない、零点だよ。失念ということがあるものか。お前ははなから知らなかったのだろう。そうそういつも柳の下に
真面目になった天草時行、急に暗示的にこんなことをいった。
「もう一本の巻軸を、この巻軸へつなぎ合わせ、それが事実千代田城の、縄張り図面となったなら、伝説が伝説でなくなるのさ。そうだよ、伝説が事実になるのさ。すなわち素晴らしい財産が、千代田城中の一ヵ所に||ここだよここだよ、
カッ、カッ、カッと馬のひづめが、門のあたりで聞こえたからである。
「おかしいなあ」と天草時行、「こんな時分に馬に乗って、誰が訪ねて来たのだろう?」
くぐり戸の開く音がした。つづいて玄関をあがる音、間のふすまがやがて開き、現われたのは長崎左源太、すわるといきをはずませた。
「なんだ、お前か、変哲もない。あわただしいなあ、どうしたんだ」
「天草殿、大きな獲物」左源大のっけからいい出した。「島原城之介のおり場所を、だいたい突きとめてございます」
「ああそうだろう、だいたいだろう」時行期待もしないらしい。「そのだいたいが、あぶないものさ『この天が下、人あるところ、みなそれがしの
「いえ」と左源太膝をすすめた。「今回にかぎって、おおかたたしか······」
「そうだろうて、おおかただろう。が、ともかくもいってごらん」
「は、
「まあさ」と天草とめてしまった。「おやめよおやめよ、
そこで左源太いったものである。
「
「待て!」とにわかに天草時行、鬼気のある声音で一喝した。「ううむ、そうか。渋沢の藪地か! ははあなるほど、渋沢だな?」突然マリのように飛びあがった。「これ、馬は幾頭ある?」
「十五頭!」といったのは
「至急繰り出せる人かずは?」
「は、大略、三十人!」こういったのは平戸という武士。
「よし、繰り出せ、三十人! そのうち十五人は騎馬で行け! このおれも行く、真っ先に! ······地雷弾を持て! 火縄を長く! ······左源太、功名をしたなア! 間違いはない。そこが住居だ! 渋沢の藪地のまん中に、一座そびえている
パッと玄関へ走り出した。
と間もなく
しかるにこの時、巴御殿の塀に、ピッタリ身体をくッつけてじっと様子をうかがっていた、一個の覆面の武士があったが、ツト離れるとどことも知れず、立ち去ったのは何者であろう?
それはとにかく、この頃のこと、渋沢の藪地を前にして、向かい合っている男女があった。
「あねご、おわびだ。おれが悪い!」
渋沢藪地を背景にして、地面へべったり膝を
「血がね、なるほど、なくなりましたかね。で、なんですかい、ネロちゃんが、
南洋鸚鵡の花ちゃんと、藪地の裾で狂っていたネロ。ネロめエーッとしかられたので振り返ったが、お町ではなくて忠三だと見ると、ミーンとも鳴かず背も低めず、また花ちゃんと狂い出した。つまり完全に無視したのである。
と純白のつばさをひろげ、ピョンと花ちゃんが飛びあがった。とネロちゃんも負けてはいない。背筋をうねらせるとポンと飛ぶ。とまた花ちゃんがピョンと飛ぶ。するとまたネロちゃんがポンと飛ぶ。そのつど月光がはね返り、水銀のようにチラチラする。
「だがね、あねご」と手を揉みながら、「寮からここまでは長道中、そうフンダンに血が流れては十石あろうと足りませんや。いずれポッツリポッツリと小出しに出たんじゃアありましょうが、それにしてもだ、もうこの辺で、ポッツリポッツリもやんだ方がいい。でなかったら命が持ちませんや。そうはいってもごもっとも。血のしたたりがなくなって、案内役が休んだでは、追っかけてゆくことが出来ませんからねえ。そこでおこって地べたへすわり、何をいっても返辞さえしない。でこうなっちゃア仕方がねえ、わっちが懸命に探しやしょう。けだものが骨を折ったんだ。そこで人間が働くってものだ。なんのちっとも不思議なものか」訳のわからないことをいい出した。「ヤイ、でくの棒、手めえ達も悪い」突然うしろを振り返った。
後を慕って追って来た、忠三一味のこぶん達が、数間のうしろにたむろしている。お町の機嫌が面白くなく、忠三がお辞儀ばかりしているので、近寄りかねているのである。
「な、いいか、こんな場合にはな、一緒になってあやまるか、一緒になって探すものだ。それを一番楽な方をとって、
「あねご、しめた。土がやわらかい!」叫んで飛びあがった早引の忠三、今度はにわかに前のめりに地面へ腹ばったものである。
月光をなま白く肩から浴び、坐り込んでいるイスラエルのお町、こう忠三に叫ばれても、身動き一つしなかった。
しかしその次の瞬間に、こう忠三にわめかれた時、はじめてお町立ちあがった。
「ね、あねご、そうじゃねえですか。右に鉄杖、左に袴様、おそらく島原城之介、引っかかえていたに相違ねえ。その上きゃつは大男、重い身体を持っていまさあ。はいている下駄は一本歯!」
「ああなるほど、下駄の歯跡が!」
「やわらかい土にさ、ついている筈だ!」
「感づいたねえ、いいところへ! 探しておくれよ。
お町、同じく腹ばった。
「探しますとも、罪のつぐないだ! そうだ、あっしの駄弁のね!」忠三、地面を廻りだした。
「おッあった! いやちがう! わだちの跡だ、荷車の!」
「そうだよ、そうだよ、お前のセイだよ! 小梅のほとり、寮住居、萩の柴折戸、金目垣、などと、お前さえしゃべらなかったら、いくらあいつが魔法使いでも、探し出すことは出来なかったんだからね。ああ、妾たちの住居をね。······おッ、歯跡! あったあった! おや、ちがう。石の取れた跡だ!」先へ先へと這ってゆく。手で地面を探るのだろう、ガザガザ枯れ葉の音がする。
「もう一度あやまる。駄弁はいけねえ。慎みますとも、今度はね。······こいつはどうだ? またちがった!」
二匹のけものが這うように、先へ先へと這ってゆく、
「今度こそ本物! 歯跡があったア!」早引忠三喜声をあげた。
「どれ!」というとイスラエルのお町、はねるように
クッキリとついていたものである。
「それじゃこいつを!」
「たどって行きやしょう! ······ここにもある! それここにも!」
「もう大丈夫! ここにもあるよ!」
大またに歩いた証拠である。一間ぐらいの間隔を置き、藪地の裾に沿いながら、一本歯の歯跡がついている。
すっかり勇気づいたお町と忠三、歯跡歯跡と追っかける。と突然消えてしまった。
「おい忠さん、歯跡が消えた!」
「待ったり」というと早引の忠三、最後の歯跡へ眼をつけたが、「あねご、見なせえ、位置が違う」
「位置?」とお町にはわからないらしい。
「そうじゃアありませんか、ねえ、あねご。これまで歯跡は藪地に沿い、一の字を引いておりましたよ。ええそうでさあ、先へ先へと。ところがこいつは藪地へ向かって一の字を引いておりまさあ」
「わかった。それじゃア、城之介め、ここから藪地へはいったんだね」
「へい、さようで、疑いなく」
「では妾たちもはいって行こう」
「オーイ!」と忠三、こぶんを呼んだ。「手めえ達も来い。ついて来い! 先へ行くなよ。後からだ!」
藪地へはいったお町と忠三、「こいつア不思議だ!」と声をあげた。
もちろんハッキリとではなかったが、そうしてひどく狭くもあったが、
周囲十町はたっぷりとあり、
「あねご!」と忠三はずみ声をした。「わっちア今までうっかりしていたが、女の泣き声が聞こえるというので、世間でやかましい
「そうそう」とお町すぐ応じた。
「そうするとお前この路は、その古塚に通じているかもしれない」
「そこへ持って来て一本歯の跡だ。あねご、知れましたね、きゃつの住居!」
「女の泣き声という奴も、塚があいつの住居ときまれば、どうやら胸に落ちようじゃアないか」
「大オチ大オチ!」と手をうった。
「『イスラエルの神へにえささげようぞ』この手でゴロゴロころがして来た、大江戸のいいところの
「お賽銭?」と興味もなさそうに、「そんなものより妾にゃア、袴様の方が大切だよ! さあ急ごう、オイ忠公!」
「
走りにくい走りにくい。路とはいっても名ばかりである。
忠三が先頭、お町が続き、その後からこぶんども! 縦隊をつくって突きすすむ。
と、にわかに早引の忠三、ピタリと足をとめたものである。
「あねご、聞きなせえ。ひづめの音!」
なるほど、遙かの行く手にあたって、十数頭の馬のひづめ、カッ、カッ、カッと聞こえて来た。
「おかしいねえ。何者だろう?」
「おかしいなあ。
「なんでもいいや。急ごうよ」
こっちが進むに従って、ひづめの音も近寄って来る。しかし
と、一ところ藪地が
「あねご、こいつだ。傾城塚!」
「調べてごらんよ、足跡を!」
「どれ!」と忠三腹ばった。ここらあたりは木立がない。月光
「あねご、あった! こっちのものだ!」
「入り口をお探し。塚の入り口!」
「ヤイ野郎ども、さあ手をかせ!」
岩石と土壌と雑草とで、堅くよろわれている傾城塚、入り口はどこにあるのだろう? ただ寂然と立っている。
と、その塚の反対側にあたり、今まで聞こえていたひづめの音、急にとまって静かになった。
天草時行の一隊が、塚の向こう側へ着いたらしい。
傾城塚の内部である。
············
正気づいた袴広太郎が、塚の中で経験した出来事は、全く意外なものであった。
最初に知覚へのぼったのは、幾人かの女が集まって、合唱しているような声であった。どこから聞こえるともわからない。遠いところから来るのだろう。
「ここはいったいどこなんだろう?」
重い眼をあけて見廻して見た。なんにも見えない、真っ暗である。身体がだるく力がない。そうして全身がズキズキ痛む。手であたりを探ってみた。堅いつめたいデコボコしたものが、身体の下にころがっている。
「ああこれは岩らしい。おれは岩の上にねているらしい」そろそろと両手を伸ばしてみた。何物も指先にさわらない。広い空間が延びているらしい。いよいよ広太郎にはわからなくなった。
「いつこんなところへ来たのだろう? どうもハッキリわからない」完全に記憶がよみがえらないらしい。「起きられるかな? 起きてみよう」まずゴロリと横になった。それから手をついて起きあがろうとした。が、そいつは失敗であった。手がほとんどいうことをきかない。突いたとたんにさすような痛みが、肩の辺からわき起こった。で、ドタリとたおれながら、指先を肩へあててみた。肩が布で巻かれている。それを通してベットリと、つめたい物が指に触れた。「はてな」というと嗅いでみた。間違いはない、
「うん、どうやら気絶したらしい。そうしているうちにこんなところへいつか運ばれて来たらしい。······とするとここはどこなんだろう? そしていったい何者が、おれをこんなとこへ運んだのだろう?」これはすぐにも考えることが出来た。
「城之介めだ! きゃつに相違ない!」思わず声に出していったものである。すると全く意外にもすぐ手近から返辞が来た。
「袴氏、目ざめられたかな」聞き覚えのある、しわがれた島原城之介の声である。
驚いた広太郎痛みも忘れ、ムックリとばかり起きあがった。とまた城之介の声がした。
「お騒ぎなさるな、危害は加えぬ。珍客でござるもの、なんの危害を。······」つづいて笑い声が聞こえて来た。「アッハッハッハッ珍客珍客。しかし人質といってもよろしい」
声のする方へ眼をやった。やみの暗さを一層黒め、一個の人影がうずくまっていた。島原城之介に相違あるまい。何かいおうと思ったが、物をいうさえ大儀であった。で広太郎はだまっていた。とまた城之介の声がした。
「ここはな」となんとなく、嘲笑的に、「貴殿、当分のお住居でござる。で、一応部屋の様子を、お目にかけて置く必要がござる。まず正面をお見詰めなされ」
立ちあがるらしいけはいがした。と、とびらでも開けるような、ギイ||ッという音が聞こえて来た。とたんに一つの光景が、広太郎の眼前に展開された。形にして
だがなんとその部屋の怪奇なことは!
広太郎にとってはこの部屋の
広太郎の眼前に展開されている部屋は、広さおおよそ二十畳敷きぐらい、自然と出来た
その巨像が異様なのである。
けもの神のような裸体の男、
その巨像の右と左に、青銅らしい香爐があり、
天井から
四方の岩壁には無数の絵画が、
しかしこれらの光景は、さして驚くにもあたらなかった。
驚くべきは柱であった。
部屋の四隅に立っていた。
それは形容を絶したところの、醜い形を持っていて、
ところで柱を囲繞して、うごめいているのはなんだろう? 柱を一本の
なかば裸体の女達が、幾十人となく柱を取り巻き、
その呻き声が一緒になって、一種の
柱にすがっている一人の女の、両方の肩は
女達は汗にぬれていた。時々すべってたおれることがあった。とすぐに飛びあがり、またも柱へすがるのであった。席のない女は他の女を突きのけ、そのすき間からすがろうとした。と突きのけられたその女は、突きのけた女をさらに突きのけ、急いで柱へ取りすがった。誰も彼もみんな恍惚としている。
四本の柱で行なわれている運動! さすがの袴広太郎も、放心せざるを得なかった。
「ああこいつはまぼろしだ!」
「いや!」と城之介の声がした。「現実でござるよ、袴氏!」
「現実でござるよ、袴氏」こういった城之介の声のうちには、真面目の響きがこもっていた。
「なんと見られるな、あの柱を?」
「けがらわしいものだ!
「いや、宗教の根本でござる」島原城之介いいつづけた。「ギリシヤ人種における親愛の神、アリアン人種におけるファリスの神、エジプト人種におけるオシリスの神、チベット人種における天地仏、あれをもって神体と致しております」
「日本にはない! この日本には!」袴広太郎はわめくようにいった。
「北多摩郡の多穀神社、笠島の道祖神、屋張の国の
「が、何者だ! あの女達は!」
「良家の処女さ!」と城之介の声、ここでにわかに嘲笑的になった。「よくよくご覧、袴氏。みんなあの通り喜んでおります」
「
「さよう」といよいよ嘲笑的に、「あらゆる女は呪縛されたがっている」
「だまれ!」と叫ぶと広太郎、勇を振るって立ちあがろうとした。肩が痛い、立ちあがれない。で、ムズとあぐらをかいた。
「袴氏」と城之介、隣室から来る琥珀色の光に、ぼんやり半身をひからせながら、広太郎を上から見下ろしたが、「一切万事浮世のこと、愛欲の目もりをはずしては、物の値打ちをはかることは出来ぬ。が、貴殿はまだお若い。そういうことはわかりますまいな。さようさ人間四十歳にならぬと、その辺の消息ハッキリしません。若輩と老成の相違点、愛欲をぼかして眺めるか、愛欲を正しく眺めるか、
ヌッとのぞき込んだものである。
が、広太郎返辞をしない。全身をワナワナふるわせながら、隣りの部屋をながめている。見まい見まいとするのである。と一層眼に焼きつく。全身の汗、胸の動悸、クラクラクラクラと眼が廻る。
「ふふん」と城之介鼻を鳴らした。「お
ジャラーンと鉄杖の音がした。同時に袴広太郎の身体、ドンと隣室へころげ込んだ。島原城之介鉄杖で、広太郎の腰を払ったのである。
ギ||とへだての戸が閉じた。とたんに一斉に女達、広太郎の方へ顔を向けた。
と、そとから城之介の声! 「さあ袴氏、窒息なされ!」
忽ち数十人の裸体の女、柱から離れて円陣をつくり、グルグルと広太郎を取りかこんだ。
渦まいているのは香爐の煙り! 次第に円陣がちぢまって来た。
しかしその時
「日本紀元二千三百二年、傾城塚爆発発掘、教主身をもってわずかに逃がれ、犠牲の処女大半焼死、イスラエル教覆滅し、珍器財宝没収されおわんぬ」
「オイ城之介、もう駄目だ」
「それじゃアおれを殺すつもりか」
「杉窪の里の裏道で、築土を殺したのはお前だろう?」
「時のはずみでなぐり殺したよ」
「その時巻軸を奪い取ったろう?」
「いやおれは取りはしない」
「あの時築土が持っていたのだ、一本の方の巻軸をな。一本の方はおれが持っていたが」
「いやおれは知らないよ」
「あとから死骸を探しにやった。築土の死骸は谷底にあった。だが巻軸は持っていなかった。お前が取ったに相違ない」
「いやおれは取りはしない」
「ではお前はどこまでも、巻軸のありかを知らないというのか?」
「いや巻軸は持っている。だが築土から取ったのではない。袴広太郎というさむらいから、全く偶然手に入れたのだ」
「そうか、そんなことはどうでもいい。とにかくそいつをこっちへ渡せ。そうしたら命だけは助けてやろう」
そこで城之介は懐中から、例の巻軸を取り出すと、天草時行へ渡し、のがれて行方をくらましたのである。
ところでこの夜袴広太郎は、城之介のために誘拐され、傾城塚の中にいた筈だが、その運命はどうなったかというに、女達と一緒に
「おっ、お町殿!」といいながら、そっちへ向かって走り出した時、塚から逃げ出した大勢の女が、二人の間をかけ隔ててしまった。そしてまたもや広太郎、夢中で藪の中を逃げ廻っていると、松明の火が近寄って来た。とまたそこから女の声で「袴様!」と呼ぶ声がした。ヒョイと見ると意外も意外、道服をまとった老人や、葵ご紋の少年武士や、大勢の武士に守られて、杉窪銅兵衛の娘の君尾が、こっちへ走って来るではないか。そこで「君尾殿!」と叫びながら、そっちへ走って行こうとすると、
と、そこへ来かかったのが、異風をした百人の行列で、偶然この手に救われることになった。
昏倒した袴広太郎の前へ、通りかかった異風行列、しかし異風といったところで、物好きにやっている異風ではなくて、
「や、ここに怪我人がいる」「しかも立派なおさむらいさんだ」「ひどく藪の中が騒がしい」「火の手が見える。火事かもしれない」などと口々に
「大事の前のこれは小事だ。お気の毒だがこのおさむらいさん、介抱してやるひまがない。さあ野郎ども、急いでゆけ」||で一隊動きだしたが、突然その時広太郎が、
「杉窪の里、銅兵衛殿、必ず君尾殿をお助け致す!」
君尾の姿を見たことによって、責任感を呼び起こしたのであろう。
「とまれ!」といって号令をかけると、スタスタと後へ引っ返して来た。
「おかしいなあ。このおさむらいさん、銅兵衛殿を知っているらしい。これは捨ててはおかれない。これ野郎ども介抱せい! ······あのお方以外には乗せられない駕籠だが、場合が場合仕方がない。このおさむらいさんをお乗せ申せ」
で、広太郎は助けられたのである。
小鎌を月光に輝かせ、しだいしだいに足並みを早め、やがて藪地の裾をめぐり、その一隊が立ち去った時、藪の奥から女の声がした。
「袴様!」と血をはくような声だ。
藪をおしわける音がして、現われたのはイスラエルのお町で、もう一度呼んだが答えがなかった。でベタベタと地面へ坐ると、
「みんなつま先で歩いているよ、多勢の
さてその木地師の一隊だが、しのびやかに江戸へはいったのは、それから程経た後のことであった。
やがて来かかったのは紀州家のやかたで、例の老人が裏門をたたいた。「誰じゃ!」と門内から声がした。「富士見の
と、ギーと門があき、スルスルとはいって行ったその老人、しばらくの後出て来たところを見ると一挺の女駕籠を先立てていた。
それを守って今度こそ、どことも知れず立ち去ってしまった。
だが事件はこれだけでは済まず、同じその夜巴御殿では、風変わりの事件が起こっていた。
というのはほかでもない。城之介から巻軸を奪い、小踊りをした天草一味が、巴御殿へ駈け込んだ時、百人あまりの覆面の武士が、巴御殿を占領していて、帰って来た天草一味の者を、一網打尽にしたのである。
天草時行の一味の者を、一網打尽にした覆面の武士は、由井正雪の一党であった。これより以前、天草一味が、傾城塚を攻めようとして、騎馬で乗り出したそのおりから、塀にピッタリへばりつき、様子を窺っていた武士があったが、これこそ正雪一党の中でも、忍びの名人として知られていた、
さてそれはそれとして、その夜から幾日か経過した。ある気持ちのよい朝まだき、根岸、朱舜水の屋敷から、一群の旅人が発足した。朱舜水、光圀、それから君尾、この三人を主人公とし、他に十人の武士をまじえた、すなわち十三人の団体で、いずれも目立たない旅よそおい、編笠を深くかぶっている。
「征東大将軍
「傾城塚には驚きました。まさか邪教の
「信濃の秋が見られます。美しいことでございましょう。それこそ
信濃の史実を集めようと、発掘旅行に行くのらしい。
ところでこれと同じ日に、例の浅草の南蛮屋からも、二人の旅人が発足した。
「で、テッキリ信州路へ、入り込んだということになるんでさあ」例の調子で早引の忠三。
「もしもそっちにいなかろうものなら、お前そのままでは置かないよ」例の調子で、イスラエルのお町。
「ワーッ、いけねえ、もうコレだ。何かというとおどすんですね」
「それがさ、妾におどされるのが、お前にはひどくうれしそうじゃアないか」
「またあねごときた日には、あっしをおどかすのがうれしそうですねえ」
「おどかされっぷりがいいからさ」
「ところであねごはおどしっぷりがいいや。どっちみちあねごと二人っきりだ。今度の旅行は楽しみさ。
「口説かれたいね、袴様に」
「あッ、なるほど、そうでしたねえ。袴様を探しに行くんでしたねえ、
袴広太郎を探すべく、木地師のあとを追っかけて、二人は信濃へ行くのらしいが、はたして木地師の一隊は、信濃方面へ入り込んだかしら?
さようこの頃、木地師の一隊、
海抜一千一百尺、ここは笹子の山道である。一隊の人数が歩いている。火事場頭巾のような風変りの頭巾、縞の筒袖山袴、手に小鎌を持っている。すなわち木地師の一隊である。先頭に立ったは将右衛門、つづいて二挺の駕籠が行く。その駕籠の戸が開いている。一つの駕籠にはお京様、もう一つの駕籠には袴広太郎、のどかな顔をして乗っている。その後から一百人、みんな愉快そうに話している。大変行動が自由である。秋は半ばに近づいていた。木々が
そこをタッタッと走って行く。時々野馬が顔を出す。ヒョッコリ熊が現われる。
この光景は本当にいい!
とはいえ木地師達はなまけ者ではなかった。抜け目なくかれらは仕事をした。ヒョイと一人が列から離れ、林の中へ飛んでゆく。鎌を振るって木の幹を
そのつどかれらは話し合う。
「あいつの
「いい
皮を透して外側から、内の木目をあてることぐらいは、かれらとしてはなんでもなかった。というのはかれらは木地師だからである。ひとニラミで年輪の数をあて、ひとニラミで枯死する年さえあてた。
タッタッと一隊は進んでゆく。江戸から笹子まで幾十里。その間かれらは到る所で、気に入った木を目つけては、鎌でしるしをつけたものである。そうしてこれからも行く先々で、おんなじことをやるだろう。
非常に早い足並みである。しかも同じ速力である。少しもムラのない歩き方である。
と、一つのわかれ路まで来た。二十人あまりの同勢が、一方の道から現われた。
「ヤー兄弟!」「ヨー兄弟!」双方声をかけ合った。同じ木地師の連中である。で二組が一緒になり、一百二十人の同勢となった。
タッタッタッタッと歩いて行く。
夜が来た。ねなければならない。テントが張られた。休むことになった。なんと綺麗な天体だ! ほんとに天の河の音が聞こえる。
翌朝は霧の中を出立した。
タッタッタッタッと歩いて行く。鶴瀬村を過ぎれば
そっちへズンズンと歩いて行く。
どこまで行こうとするのだろう?
駕籠二挺、百二十人、揃う足並み、光る鎌!
どこまで行こうとするのだろう! かれらは
二千九百尺の八ヶ岳、その大
八ヶ岳の大
その建物のまわりには、栃だの欅だの檜だの、
だがこれは不思議なことではないか! 元来木地師というものは、最も下等な漂泊民で、木地を目つけて山から山を、獣のように渡り歩き、採った木地類は
何か非常に大切なものを、その紅毛人が守護している! 山中の
だがもちろんいうまでもなく、どういう性質の大切なものかは、杣夫や村人は知らなかった。そうしてそれが知られないために、いよいよそれが重大視された。
「尊い経文だということだよ」「莫大な宝だということだ」
「あらたかな神像だということだ」
またかれらは紅毛人について、いろいろ神秘的の取り沙汰をした。
「
だが決して杣夫や村人達は、そのため木地師を嫌わないばかりか、かえって尊敬し親しくさえした。というのは木地師の
だがもう一つ紅毛人について、驚くべき一つの噂があった。一人で住んでいるのではなく、この世の人間とは想われないほどに、気高い美しいお
「あれはね、満月の晩でしたよ。仕事の都合で遅くなり、気味が悪いとは思いましたが、湛慶滝のそばを通りますとね、滝の中からあのお方が、現われて来たではありませんか、ええそうです。紅毛人がね。全身ビッショリ水ぬれです。見るとだいているじゃアありませんか、綺麗なお稚子さんをね。それが非常に妙なんです。眠っているのか死んでいるのか、そのお稚子さんは動かないのです。眼口を閉じているのです。そうしてその顔を紅毛人が、じっと見おろしているのですね。もっとももう一つその二人を、見おろしているものがありました。まんまるい空のお月様です。とどうでしょう、紅毛人は布を下げたような滝の中へ、またはいって行ったじゃアありませんか。ええそうです、お稚子さんを抱いてね」
杣夫の語った物語。
さてある日のことである。
その木地師の郷の中から、活気ある喜びの声がもれた。旅へ出ていた仲間の者が、
その翌日のことである。秋の
秋の木洩れ陽をいっぱいに浴び、坐っているのはお京と広太郎、のどかに話をかわしている。
「よい秋
「もうソロソロ八ヶ岳の峰へは、雪が来ることでございましょう」袴広太郎の挨拶である。
で二人は沈黙した。
閑寂でいい。平和でいい。情景にふさわしい沈黙である。
とまたお京が話しかけた。
「歌声が聞こえるではございませんか」
「さようでございますね、木地師の歌が」
眼界にバラバラと木小屋がある。そこから聞こえる歌声である。
「犬の吠え声が聞こえます」今度は袴広太郎。
「鶏の鳴き声も聞こえます」
で二人沈黙した。
閑寂でいい。平和でいい。情景にふさわしい沈黙である。
とまたお京が話しかけた。
「お聞きなさりませ袴様。赤ん坊の笑い声が聞こえます」
「ああそうしてあやしている声も······」
で二人沈黙した。
閑寂でいい。平和でいい。情景にふさわしい沈黙である。
「穏やかな土地でございますね」こういったのはお京である。
「はい、まるで別天地で」また沈黙が続こうとする。
「なんだか私はねむくなった」袴広太郎つぶやいた。
「動くのがいやになりました。いつまでもいつまでも、坐っておりとうござります」
五度沈黙をしたものである。
お京の顔には神性がある。昔ながらの神性が。お京の顔には処女性がある。昔ながらの処女性が。いやいや昔よりもより一層、神性も処女性も深まさっている。
広太郎の顔は
と広太郎つぶやいた。
「ああ私は休息したい。何を置いても休みたい」
「
「どうやらここでは休めそうだ」また広太郎つぶやいた。
「きっと休めるでございましょう。お互い休むことにいたしましょう」
それから永い沈黙が来た。
不意に広太郎横になった。
とお京が声をかけた。「おつむりをおのせなさりませ。妾の膝へ、ご遠慮なく」
膝枕をした広太郎、眠ろうとするのか眼をとじた。膝枕をさせたお京様は、無表情に前方を眺めている。
ちっともいやらしい形ではない。むしろ美しい群像である。人に見られても恥ずかしくはあるまい。
「エ||、エ||、エ||」と声がする。木地師達がめいめいの小屋の中で、盆だの茶筒だの菓子鉢だのへ、磨きをかけながら歌っている。
広太郎は眠りはしなかった。じっと考えにふけっていた。
「さわってはいけない、過ぎ去ったことへ!」口の中でつぶやいた。
「おれは何にも知りたくない。おれはなんにも聞きたくない。過去をほじくるということは、ろくな結果を持って来ない。現在だけで結構だ。ひとの過去も知りたくない。自分の過去も知らせたくない。それでいいのだ」
お京の膝を枕にし、袴広太郎は考えた。「ききたいことは沢山ある。あの夜小松原の屋敷から、どうして突然身をくらませ、今日までどこにいたのだろう? そうしてどういう理由があって、こんな木地師の郷などへ、この娘は入り込んで来たのだろう? これからこの娘はどうするつもりか? ······がそんなことはどうでもいい。おれにとっては初恋人、そのお京様と逢ったのだ。もうそれだけでいいではないか。なんにも苦情をいうところはない。君尾にしろお町にしろ、こうなっては影が薄い。なんといっても初恋人、このお京様のなつかしさは、おれには何物にも換えがたい」
これが広太郎の心持ちであった。
お京の心持ちはわからない。
しかしやっぱり広太郎と同じに、いうまい聞くまいとしているらしい。現在に満足をしているらしい。もしもお京にその心があったら、これだけは聞かなければならない筈だ。
「どうして肩に負傷して、木地師の駕籠などに乗っていたか? また忠弥の注進によれば、杉窪の里の乱闘の際姉の君尾を取り返そうと、袴広太郎という一人の義士が、追っかけて行ったということだが、その時の袴広太郎と、この袴様とは同一人なのか?」
が、お京は聞こうとはしない。
それにしても全く不思議である。お京は紀州家の息女ではないか。それだのに木地師というような、いやしいいやしい漂泊民の郷へ、どうして単身入り込んだのだろう? 紀州
何もかもがわからない。わかっていることは一つだけだ。久しい間別れていた。二人の本当の恋人同士が、思いもよらない境遇のもとに、顔を合わせたということだけだ。
二人はいつまでもだまっている。
「おれには何だか予感がする。ここの平和は破られそうだ」ふと広太郎つぶやいた。すぐ眼の上にお京の顔が、すぐにもこわれそうなもろさを持って、清浄に白々と浮いている。「平和は処女性とは同じようなものだ。きっと破られるという約束のもとに、しばらく生命を保っているものさ」
口に出してはいわなかった。
酸味を帯びた感情が、広太郎の心へ忍び込んで来た。もちろんそれはかれにとっては、苦しくもあればさびしくもあった。
お京の膝を枕とし、なお広太郎は考えていた。
「ほんとになんとこの娘は、
次第に皮肉な考え方になる。
「全く神様というものは、さも崇高に立っている。だから」
とまたも皮肉になった。「ちょっと
次第に残忍な考え方になる。
「誘惑の手を伸べたなら······神様神様としたこの娘、転がって来るのではあるまいか?」
「いけない、いけない」と払いのけた。「
そのやわらかさ、その温かさ、その弾力、その
その時お京の声がした。
「お起きなさりませ、袴様」
起きあがると広太郎端坐した。
「何を考えておられました」とがめるような声ではない。憐れむような声でもない。悲しみに充ちた声である。
広太郎には返辞が出来なかった。しかし心では考えた。「俺の心を見抜いたらしい」
だがすぐ後で歌うように、次のようにお京がいった時、広太郎は案外な思いがした。
「妾は流されたのでございます。可哀そうな女でございます。父が妾をこんな山へ。······でも悪気からではございません。妾の身の上を案じたからで。······いまに恐ろしい騒動が、この国に起こるのでございます。あの、
陽が木小屋にあたっている。ひときわ大きいのは伐木場で、調べ革の音が聞こえて来る。きられる材木の音がする。窓々が明るく眼をあけている。そこから働いている人影が見える。共力と生産とがそこにある。もちろんそうして平和がある。
しかし、はたしてこの平和が、いつまでもつづくものだろうか? いやいや平和はつづかなかった。それから二日経った早朝のこと、「カワトの連中が湛慶川の岸へ、天幕を張った」という知らせが来た。
これが事件の発端であった。
カワトが天幕を張ったという、ちょうどその日のことである。袴広太郎は将右衛門と、頑丈な卓を中にはさみ、工場の中で話していた。
「カワトはいったい何者でござるな?」
こう聞いたのは広太郎。
「ああカワトで、天幕組でござるよ」気もなくいったのは将右衛門。「川の岸ッぷちに天幕を張り、そこでくらしをするところから、世人称して
「やっぱり木地師と同じようなもので?」
「漂泊民という点では、さよう、われわれに似ております。しかしかれらにはこれといって、きまった商売がありませんでな。もっともササラや
「ははあ泥棒を致しますので?」
ちょっと広太郎眼を見張った。
「なにさそれとてコソコソでな、たいした仕事はいたしません。せいぜい干し物をふんだくったり、家畜や野菜を荒らしたり、時には子供や娘などをさらうようなこともありますが、そんなことはメッタにありませんなあ」
「とまれ厄介な人間どもで」
「それもさ特別カワトに限って、厄介な人間でもございませんて。どの方面の人間だって、たいがい厄介でございますよ。いやかえってカワトのようなものこそ、厄介でない人間かも知れませんなあ。気の向いたところでくらしをする、
「これだけの工場をささえて行くには、少しの人数では出来ませんからなあ」
工場は活動にはいっていた。太い柱の中央に、巨大な一個の
と、将右衛門ヒョイと立ち、ブラブラ工場を歩きだした。

盆にお椀にお茶筒に
鼻唄をうたいながら将右衛門、工場の中を歩きだした。
工場の片隅に娘達が、行儀よく坐ってかたまって、出来あがった
「ご精が出るの、娘さん達や」将右衛門立ちどまって話しかけた。
「何を磨いているな、お石坊?」
するとお石坊が返辞をした。「はいお
「ああなるほど、子持ちお椀か。ほんとにいいなあ、子持ちお椀は。中から中からと子供が出る。そうありたいよ万事万端。なるたけかずはふやさなければいけない。······お杉坊、お杉坊、何を磨いているな?」
お杉という娘が笑いながらいった。「磨いておるのではございません。そそくれを取っておりますので。あのまな板のそそくれを」
「おおおおそうか、それはいい。そそくれというものは邪魔っ気なものだ。邪魔っ気なものは取った方がいい。そうしてまな板というものは、大事な大事なお勝手道具さ。そういう物こそ作らなけりゃアいけねえ。すぐに役立つ物だからなあ。とくさをかけて
「はい、あの根つけを磨いています」
「えッ、根つけ? ああそうか。ナーニ根つけだって結構さ」こうはいったが変な顔をした。
「だが、たんとは作らないがいい。たくさんの入り用はないものだからなあ。ものずきの人間しか喜ばないものだ。そうしてそういう人達はこんなことをいっているそうだよ。『小粒のところが大変いい』『ひねったところがおつでげす』『役立たないところに値打ちがある』······アッハハハおかしくなるなあ。······お竹坊何を磨いているな?」
お竹という娘が返辞をした。「はいお頭さん、
「おっとおっとそう磨いてはいけない。そんなように磨くと艶が出ない。出ないどころか消えてしまう。すべて器というものは、性質を知ってから扱わなければならない。知らないで扱うと殺してしまう。殺すために磨くんじゃアあるまいな。そりゃアそうさ、いかすためさ。······だがこの工場は明るいなあ」
四方の窓から朝の陽が、

ブラブラ工場を歩き廻る。もちろん監督をしているのであろう。だが高い声一つしない。その必要もなさそうである。みんなクルクル働いている。木口を戸口から運んで来る者、そいつを中途で受けとる者、器をざるへ入れる者、それを戸口から持ち出す者、一方部屋の片隅では、火が

「広太郎どん」といいながら、例の頑丈な卓を隔て、粗末な腰掛けへ腰かけた。「杉窪の里の銅兵衛どん、あれはこのわしの義兄弟でごわした」
「銅兵衛どんとは義兄弟でごわした」頭の将右衛門話し出した。「全く立派な人物でな。いわば私の兄貴分で、そうして同じように里の頭で、そうして同じようにあるお方に、おつかえしたことがございましたよ。ええとそうしてそのお方の命で、ある同じ城へこもり、
またもクックッと笑ったが、ヒョイと立ち上がると歌い出した。

卓によったまま広太郎、

「なにそうばかりもいわれるものか。高いところにだっていいことはあるさ」
その時あわただしく一人の木地師が、戸口から工場へ飛び込んで来た。「お頭、変てこでございますよ! なみのカワトじゃアありませんよ!」
「何?」と将右衛門突っ立ったが、これから大事件が起こったのである。
注進に来たのは佐太郎という木地師で、セカセカとして述べ立てた。
「天幕が変なんでございますよ」グッとつばを呑んだものである。「女子供へ気をつけろ! お頭のいましめがありましたので、崖の上で見張っておりますとね、すぐ眼の下が湛慶川、その向こう岸にカワトの天幕、点々と張ってあることか、大陣幕が二流れ、取りまわしてあるじゃアございませんか。おかしいなアどうしたんだろう? もしカワトなら家族別に、小さい天幕を三角形に、いくつか張らなければならない筈だ。で私はこっそりと、崖を下って行ったんで。崖の木蔭に身を隠し、様子をうかがったんでございますね。すると大勢の人間どもが、動き廻っておりますので。なるほどみなりはまさしくカワト、きたないぼろは着ていましたが、その動作がまるで違う。すばしっこいんでございますねえ。いよいよおかしいと見ていますと、どんどんどんどん
こいつを聞くと将右衛門、「ううむ」とうなったものである。ややしばらくは物をいわない。ただ眼の前を見詰めている。思案に余った様子である。
「そうか」とややあって声をもらした。「何者かおれには見当がつかないが、充分用意はしよう。オイ佐太郎」といかめしく、「もう一度様子を探って来てくれ。一人ではいけまい、二、三人で行け」
「へい、よろしゅうございます」
駈け出そうとした時もう一人の木地師、またセカセカと飛び込んで来た。
「お頭、お頭、面会人で」
「誰だ?」と将右衛門神経質にきいた。
「カワトからの使者だということで」
カワトの使者となって来たのは、二人の立派な武士であった。
「お尋ねにあずかりました木地師の頭、将右衛門めにござります」
すると一人の武士がいった。「ええ拙者ことは長崎左源太、貴殿ご存じの天草時行、その者の使者にございます」
つづいてもう一人の武士がいった。「拙者ことは柴田三郎兵衛、江戸の浪人にございます。なにとぞ自今お心やすく。名前ぐらいご存じかと存ずる、由井正雪と申す仁、その方の使者と致しましてな、まかり越しましてございますよ。閑静なお
部屋の中を見廻したものである。
名乗りを聞くと将右衛門の眼、ピカリとばかり一閃したが、さあらぬ
「承ればお歴々、木地師風情の拙宅へ、何用あっておいでなされたかな」
「されば」といったのは長崎左源太、一膝ズルよう進み出たが、「万事掛け合いは率直がよろしい。で、率直に申し入れる。二
障子に秋陽がさしている。南向きの障子である。と、一点ポッツリと、黒い影があらわれた。うしろ羽根の長い小鳥である。そのうしろ羽根が動いている。チッ、チッ、チッとなき声がする。とまた一羽やって来たらしい。二羽の小鳥の影がうつった。ふッと二羽が一緒になった。くちばしとくちばしが合わさった。だがすぐパッと消えてしまった。どこかへ飛んで行ったのだろう。かすかにゆれている立ち木の枝、それが障子にうつっている。
「いや、だがしかし浮世には、突発的のものはございませんよ」不意に三郎兵衛がいいだした。
「で、われわれが参りましたのも、突発的ではございません。順々に順を追ったあげく、参るべくして参りましたので。そこでひとつゆっくりと、ご談合することに致しましょう。が、内容は非常に簡単、二本の
ジロリと将右衛門を見やったが、薄っ気味の悪い眼つきであった。「将右衛門殿、将右衛門殿。あの二本の巻軸へな、数行の隠語が現われましてござるよ」持っていた扇をサラサラとひらくと、パタパタと胸をあおぎ出した。あつくもないのにいや味な事をする。「お話し致そう、それまでの経路を」パチッと今度は扇をとじ、膝の上へ突っ立てた。それから話し出したものである。
皮肉をまじえた能弁をもって、柴田三郎兵衛話し出した。
「二本の巻軸の何物であるかは、お話しするにも及びますまい。原の城にこもられた貴殿のこと、充分性質はご承知のことと存ずる。が一口に説明すれば、おとぎ話的伝説を持った、宝探しの材料で。······さてその巻軸でござるがな、原の城より江戸へ運ばれてござる。誰がどうして運んだか、まあまあそれもよろしゅうござろう。いずれ誰かが必要があって、持ち出したに相違ござらぬからな。ところで江戸へ運ばれて以来、
「こういう井げたの印でござる」指で井げたの図を書いた。
「つまり空井戸と見なすべきで。あるべからざるそんなところに、空井戸があると仮定すると、宝のあり場所と睨んでも、見当違いとはいわれますまい。で、あり場所はわかったが、そいつをたしかめる手段がない。場所は千代田城、われらは浪人、忍び込むことは出来ませんからなあ。では困ったかと申しますに、それにはそれの手段があり、困らなかったのでございますよ。というのは紀州大納言様の、お手を拝借したのでござる。紀州大納言様すぐ承知! なぜかというに由井殿とは、懇密の中で兵学の門下! そこで早速ご登城なされ、濠のあたりを探られたところ、アッハハハ将右衛門殿、空井戸はなかったのでございますよ。自然宝のあり場所もなくなってしまったのでございますよ。すなわち巻軸にまつわっていた、おとぎ話的伝説は、文字通りおとぎ話的伝説となり、ここに一場の夢物語、サラリと幕を閉じにけり。······ということになってしまいましたので。いやもうこれが当然で、こういかなければおもしろくない。······そりゃアそうさ!」と急にゾンザイになった。「日本の国さえ買えようという、そんな素晴らしい財宝が、そんなチョロッカの方法で、ほんとに発見出来ようものなら、財宝の値打ちがさがりますからなあ。でわれわれ一同の者、かえって気持ちがセイセイし、大きく笑ってあきらめかけた時、とんでもないことが
ヒョイと顔を突き出したが、額ごしに柴田三郎兵衛、将右衛門をギロリと見たものである。
「お話し致そう、その隠語をな!」
「それには及ばぬ!」と富士見の将右衛門、はじめてこの時声を響かせた。「その隠語なら、拙者より申そう!」
「その隠語なら、拙者より申そう!」こういった富士見の将右衛門の声、りんと響いたものである。
「これは素晴らしい! 申されるか!」こういったのは柴田三郎兵衛。
「これは潔い。さあさあいわれい!」つづいていったのは長崎左源太。
「拙者の書いた隠語でござる! 拙者が明かすに不思議はない!」
「案の定だ、貴殿書いたか!」ここで三郎兵衛ジリリと寄った。
「柴田氏」と冷やかに、将右衛門むしろ笑ったものである。
「が、その前に聞きたい一義、隠語どうして現われましたかな?」
「巻軸二本泉水に捨てた!」
「誰が?」とあごを突き出した。
「紀州大納言頼宣卿!」
「ほほう面白いお殿様で」
「と、巻軸水にぬれ、おのずと解けたそのおもてへ······」
「ワッハハハ白々と、
「そいつを渡せ!」と今度は左源太。
「なぜな?」と将右衛門、差し出すあご。
そいつがにくいというように、「巨宝一人占め、まかりならぬよ!」これもやっぱり左源太であった。
「なに巨宝? これはこれは、
「これさこれさ」と柴田三郎兵衛、あやなすようにいい出した。「
「さればさ」といったが将右衛門、首をかしげたものである。「いやだといったらどうなさる?」
「知れたことよ」と出しゃばる左源太、「
「こわいの」と将右衛門、すくめた首で、「わしは嫌いだ。人殺しはな」
「わしも嫌いで」と柴田笑う。「手をうちましょうか、見せるという
「まず待った」と考え込んだ。
シーンと一座静かである。
と将右衛門、うかがうように、
「いかがでござろう、柴田氏。熟慮お許しくださるまいか」
「ならぬ」左源太のしかかるのを、眼で抑えた三郎兵衛、
「時期は?」といって冷静に見た。
「さようでござるな、明払暁······」
「ちと永すぎる」とまたまた左源太。
「いや、よろしい」と三郎兵衛、アッサリ引き受けたものである。
「朝日
「承引の場合は竹ぼらを、拙者吹くことに致しましょう」
「ふん、不承知の場合には?」また左源太め、ひじを張った。
「へいへいなんにも吹きましねえ」
立ち帰る二人を見送りもせず、夜まで考えていた将右衛門。
「いわなけりゃアならねえ、山の小父さんへ」湛慶滝の方へひた走った。
「あなたがお悪いのではございません。私が悪かったのでございます。いえいえそれよりあのお方がお悪かったのでございます。神の子よ! 神の子よ! あなたがお悪い! ······ローマで虐殺が行なわれました! スペインで虐殺が行なわれました! ありとあらゆる国々において||沙漠においても、森においても、都会においても、田舎においても、限り知れぬ海上においても、そうして雲迷う曠野においても。神の子よ、あなたの名において、幾十万の生霊が、血みどろになったか知れません! ······ああそうしてこの国のはて、美しい島の天草でも、幾万の人が殺されたでしょう! 女はおおかたはずかしめられました。
最後の言葉の悲しそうなことは!
と、白い滝を背景に、ユラユラと立ちあがる姿が見えた。腹ばっていた老人である。と、左右に枝が張った。老人が両手をひろげたのである。さながら十字架の
水にぬれた少年をだきかかえ、滝壺から現われた裸形の老人、岩組みへのぼるとジッとなった。少年の顔をノシかかるように上から見おろしているのである。
「可哀そうな子供よ! お気の毒なお方!」むせぶがような老人の声。「天童にまで祭りあげられ、殺人鬼にまでコキおろされたお方よ! あなたに罪はございません。むしろ私にございます。ああ直接の罪といえば! ······なんと美しく、なんと清らかく、なんとおろかで、なんと無邪気で、あなたはあったことでしょう! 事なく成長なされたなら、善良な一人の人間として、世をすごされたでございましょう。······私がそれを誤りました。私があなたをまどわしました。私があなたに法外もない、天国の夢をお見せしました。そうして私はいいました。『天国を地上へお建てなさりませ。あああなたこそは選ばれたお方! ああ、あなたこそは救世主!』と。そのためあなたは一朝にして、狂信者におなりなさいました。『天童!』とあなたはご自分で、自分のことをおっしゃいました。そう信じたからでございましょう。『建てる!』とあなたはおっしゃいました。『おれは建てる神の国を!』||建てられるものとあなた自身、お考えになったからでございましょう。だがいつもあなたのうしろには、私がいた筈でございます。人形使いのこの私が! しかしそういう私のうしろにも、人形使いがおりました。神の子と称する人形使いが! ······あなたを慕って幾万の人が、集まって来たことでございましょう! その結果なにが起こったでしょう? 地上へ天国が建つかわりに、戦いが起こったのでございます! ······人殺しが行なわれたのでございます! ······あなたから私、私から神の子、連絡をなし、組織を立て、人を殺したのでございます! ······しかも私は神の子のために、肉親をさえ犠牲にしました! 私の娘よ! イサベラよ! にくんでおくれ、この私を! お前を貴人のにえにしたのは、まぎれもないこの私だ! そのためお前は悶死した! 孫娘よ、孫娘よ、どこにいる? ······ああ
ユラユラと群像が動き出した。少年をかかえた老人が、岩組みの上を歩き出したのである。滝の白さと、星のあおさ、それに
ゴロゴロと岩からころがり落ちた。「天童よ天童よあなた様のおために!」
ヌッと老人が立ちあがった。とクルクルと廻り出した。巨大な立ち木が立っている。烈しくぶつかる音がした。老人が身体をぶつけたのである。「にえになった娘、イサベラのために!」
立ち上がった老人の姿が見えた。
と、一つの星が流れた。その光が老人の姿を射た。胸の一所が一瞬間光った。何かヌラヌラ流れていた。血が流れているのだろう。
岩によりかかった少年の姿、端然として動かない。だが見詰めてはいるのだろう。うしろの岩に蔽われて、ほとんど輪郭がわからない。横半面と左の肩ばかりが、滝の微光に色づけられ、浮き出しているばかりである。
その時走って来る足音がした。と、やみから声がかかった。
「将右衛門めにございます」
「将右衛門めにございます」やみの中から声がした。富士見の将右衛門が来たのである。滝の微光に半身をぼかし、ひざまずいている人影がある。それが富士見の将右衛門であった。
うずくまっていた老人が、物憂そうに顔をあげた。
「ああ将右衛門か、何しに来たな?」
「いやなことが起こりましてございます」
「そうか」といったまま老人は、依然地上にうずくまっていた。「人の世のことはみんないやだ」
「あなた様にもご存じの、天草時行が参りました」
「ああ天草がな? 裏切り者がな。······わしとはちがった意味の裏切り者」
「江戸の浪人、由井の正雪、一味の者が参りました」
「ああそうか、なんのために?」
「
「ああそうか、唐櫃をな? なんの必要があるのだろう?」
「宝がほしいそうでございます」
「宝? なるほど、宝をな。······そうだ宝には相違ない。······なぜあんな宝がほしいのだろう?」
「誤解しているようでございます」
「中身をなんだと思っているのだろう?」
「金銀珠玉、異国の珍器」
「唐櫃はどうも渡せないよ」
「はい、渡すことはできません」
「そういうがいい、渡せないとな」
「とても承知は致しますまい」
「無理に取ろうとしているのか?」
「兵をひきいて参りました」
「兵を?」とはじめて老人の声が、すさまじい感情を現わした。
「戦いか! 恐ろしい! 流血か! おそろしい! おれはいやだ! おれはいやだ!」
「私もいやでございます」
「それはどうしてもやめなければならない!」
「いかがでございましょう。時行、正雪に、中身をあからさまに見せましたら?」
「ならぬ!」と威厳のある老人の声! 「わしはいいのだ、わしなどはな! だがあの方を
そこで将右衛門はだまってしまった。ひざまずいたままで動かない。うなだれて考えている。うずくまったままの老人の姿、やはりじっと動かない。
と、将右衛門やがていった。「どうぞご用意あそばしませ」
「用意?」と老人は聞き返した。
「なんの用意だ、将右衛門?」
「流浪いたさねばなりますまい」
「引き払うのか、富士見の郷を?」
「ほかに手段はございません」将右衛門の声は沈痛であった。
「ああ流浪か、それもいいなあ。そうだ、
「どうぞご用意あそばしませ」
「わしはいかないよ」と老人はいった。「ここにいるのだ、ああここにな! あそこへ籠って、あそこへな。······」滝の方を指さした。「わしの命も永くはあるまい。······おこもりをして死ぬつもりだよ」岩組みの方へ歩いてゆく。と、将右衛門を振り返った。「お別れをお告げ! このお方へ!」
「天童よ!」と将右衛門、かたく合掌をしたものである。
しだいに暁に近づいてゆく。片われ月が空へかかった。ちょうどこの頃の事である。富士見高原のふもとにあたって、一点たいまつの火が見えた。のぼって来る二個の人影がある。
「もうすぐですぜ、ねえあねご」
「やっとそれでも行きついたかねえ」
木地師の郷の方角へ、話しながら歩いて行く。
かなり燃え尽きた
「狂わなかったというものさ、けっく
「なんでござんす、眼力とは?」聞き返したのは早引の忠三。
「木地師の連中袴様を、引っさらったという眼力さ」
「あッはん、なるほど、そのことで」
「だってお前さんじゃアないか、渋沢の
「ナーニそれとて原の城に、あっし達と一緒に木地師の大将、富士見の将右衛門がこもっていて、そいつの部下の木地師どもの、歩き方をあねごが知っていたからさ」
「だがそれだけじゃア袴様を、さらったという証拠にはならないよ」
「へい、マアそりゃアそうですねえ」
「最初に妾は思ったのさ。袴様は手傷を負っている。だから遠くへは逃げられまいとね」
「でもあの時あっしをかり立て、あたりを探させたじゃアありませんか」
「ところがどこにもおられなかった」
「無駄骨折ったというもので」
「そこで妾はきめちゃったのさ、木地師が袴様をさらったとね」
「恋の眼力というやつでね」
「ああさ恋の直感でね」
「それからのあっしと来た日には、ミジメ至極でございましたよ。······さあさあ忠三江戸中を、こまのようにブンブン廻っておいで! 探しておいでよ、木地師の行方を! ······仕方がないのでヘイコラサ、あてなしに飛び出して聞き廻ると、よくしたもので、知れましたねえ」
「一挺の駕籠を引っ包み、小梅を通って江戸へはいり、ところもあろうにお父様のやかたへ······」
「へい、紀州様のお屋敷へ、スーッとはいっていったそうで」
「そこで妾はその木地師を、富士見の将右衛門と睨んだのさ。だって将右衛門はお父様の家来、原の城へこもったのもそのためだからねえ」
「だが間もなく女駕籠が、一挺お
「ナーニ妾ア問題にしないよ。それよりもう一つの駕籠の方が、妾にとっちゃア問題さ」
「つまりそいつに袴様が、乗っていらっしゃるとこういうので」
「そうとしか取りようがないじゃアないか」
「でもどうして木地師の連中、袴様をさらって行ったんでしょうね?」こいつが忠三にはわからないらしい。
「妾にもそいつはわからないがね、よい意味にとればこうなるのさ。傷を負って袴様が倒れていたので、捨てても置かれず助けたんだとね」
「なるほど、ところで、悪い意味にとれば?」
「悪い意味になんかとらないよ」
「大変結構でございます。大変楽天家でございます」
二人はズンズンのぼって行く。
「だがねえ忠さん」とイスラエルのお町、にわかに感傷的に呼びかけた。
感傷的に呼びかけたが、どうしたものかイスラエルのお町、そのままフッとだまってしまった。別に忠三も聞き返さない。二人ズンズン歩いて行く。
「だがねえ忠さん」イスラエルのお町、もう一度感傷的に呼びかけた。「ほんとうのところを白状すれば、妾アだんだん心配になってきたよ」
「へえさようで、変てこですな。······何がいったい心配なんで?」忠三今度は聞き返した。
「······逢おうとしても逢われない、······あの時聞いた南蛮屋での歌、あいつが本当になりそうな気がして。······」
「ははあなるほど、予感というやつだな。ナーニ大丈夫でございますよ。すべて目的の一歩手前、そこまでこぎつけると大概の者は、かえって否定的になりたがるもので。それもさ、目的が大きければ、大きいほどそんなように考えるもので」忠三ひとかど考え深そうに、「だがあの時っていつのことで?」
「君尾という娘のいどころを、お前さんにはじめて明かされた時さ」
「いったいどいつがうたったんで?」
「店の酔っ払いの客だろうさ」
「風流の歌をうたやアがった」
「何をいうんだい。縁起でもない歌さ」
「さようさ、あねごにとってはね。······だが、あっしの身にとっては······」
「ふん」とお町突っぱねた。「また出したねえ、
「執念深うございます」
「妾もそうさ、袴さんにはね」
「面白くないというところで、打ち切りやしょうや、この話はね、ほんとにあっしは袴様では痩せるほどあねごにコキ使われていまさあ」どうやら忠三不平らしい。
「妾にゃアそうとは見えないがねえ。お前なんだかうれしそうに、妾に使われているじゃアないか」
「なるほどそうとでも思わなければ、こうまでコキ使やアしますまい」
いよいよ忠三不平らしい。
二人ズンズン歩いて行く。松明の光のとどく中で、灌木の葉が
「だがね、あねご」と早引の忠三、意味ありそうな薄笑いをし、盗むようにイスラエルのお町を見た。
「予感があたったらどうなさいます?」
「さあ妾どうしよう」
「逢えなかったらどうなさいます?」
「ああ妾逢えなかったら」
「日本国中さがしますかね。このあっしを供に連れて?」
お町今度は返辞をしない。じっとうなだれて歩いて行く。
「そうなったら妾ヒョッとすると······」
「縄で······首を······おつりなさいますか」
「あきらめてしまうかも知れないよ」あざ笑うような声である。「どうしても縁がないものとね」
「えらい!」と忠三飛びあがった。
「あねご、それでこそ悪党だ!」
「そうかねえ。悪党かねえ」
「いよいよそうなるとこの忠三······」
「役付くとでも思うのかい?」
「え?」
「駄目だよ!」
「なぜ?」
「なぜでも!」
「だって理由は? ······」
「すかないからさ!」
「ひでえや、ひでえや。ハッキリし過ぎていらあ」げんなりとして笑ったが、ヒョイとお町の胸を見た。
お町の胸を見た早引の忠三、ポイと話を横へそらせた。「江戸を出た時からあっしには、ひどく気にかかっていたんですがね。胸に垂らしているそのまるい物、いったい何でござんすね?」
松明を差しつけたものである。
「これかえ?」というとイスラエルのお町、首へかけた銀鎖、その先に着いている黄金のメダルを、大事そうに
「ナール」といったが早引の忠三、全くめずらしくしんみりとなった。「だがねえあねご、何と思って、そんな物をかけていらしったので?」
「なんでもないさ。お守りにだよ」
「ナール」ともう一度早引の忠三。「こいつはお守りになりましょうよ。雲の上からお母様、じっと見おろしておりましょうよ。殉教者ののぼる天国のね」
「いいえ妾の胸の上から」掌を捧げるとイスラエルのお町、眼の前へメダルを持って来た。松明の光にぼんやりと、打ち出された肖像が浮き出して見える。まぎれもないスペイン型、

「さあさああねご、参りやしょう」しめった心を引っ立てるように、ガサツな調子でしゃべり出した。「ね、あっしからいわせると、そういう光景は気に入らないんで。ちょっともあねごに似合いませんなあ。やっぱりなんだ。あねごとしては、オイ忠々、オイ忠的などとあっしに毒づきながら、
駄弁を
「さてどっちへ行ったもんだろう?」
たたずんだおりから、うしろにあたり、かすかではあるが聞き覚えのある、
「あねご!」「忠さん!」「島原の野郎!」「つけて来たねえ!」「幽霊のように!」
またもジャラーンと鉄杖の音!
城之介の鳴らす鉄杖の音、次第次第に近寄ってくる。別れ道に立ったお町と忠三、顔を見合わさざるを得なかった。
「あねご、どうしやしょう。逃げましょうか?」
「ナーニ」というとイスラエルのお町、一方の肩をそびやかした。「こわかアないよ。逢ってやろう。グッと妾が一睨みすると、手も足も出ないあいつじゃアないか」
「そりゃあマアそれに違いありませんがね。だが、うるさいじゃアありませんか。それに恐らく邪魔をしましょう、ソレ袴様と逢うやつをね」
「ああなるほど、そりゃアそうだ。困ったねえ、こいつだけは」
「ね、あねご、こうしましょう。とにかくわきに隠れていて、様子を見ようじゃアございませんか」
「ああそれがいい。それがいい」
「そこで邪魔なは松明だ。がまさか火を持って隠れも出来ない」
忠三ポンと松明を、道の一方へふり投げた。「あねごこっちへ。隠れ場所!」
丘ぐらいはある灌木の
ユラユラと城之介歩き出した。草が分けられてサラサラと鳴る。間もなく姿が見えなくなった。だがその音さえ元気なく、ジャラーンと鉄杖の音がした。
イスラエルのお町と早引の忠三、灌木の陰から現われたが、顔を見合わせたものである。
「プッ」と
「プッ」と吹き出した早引の忠三、城之介の行った方へ眼をやったが、「ありゃア城之介じゃアありませんね。城之介の魂のぬけがらで」例によって毒舌を振るい出した。「きゃつの魂ときた日には、人一倍太うございましたねえ。そいつが
「ほんとにねえ」とイスラエルのお町、これはどうやら同情したらしい。「あんなにもやつれてしまっては、憎むにも嫌うにも不足だねえ。なんだかイッソ憐れっぽくなったよ」
「憎まれる方がまだいいや。ほれている女に憐れまれた日にゃ、野郎たるもの浮かばれませんねえ。それはそうとネエあねご、どっちの方角へ行きやしょう」
「そうさねえ」と考えたが、「なんだか前途を見届けたくなったよ」
「え、前途? なんの前途で?」
「魂のぬけがらの前途だよ」
「ふふん、こいつアよっぽど変だ」ひどく忠三いやな顔をしたが、「憐れが凝って同情となり、同情があつまって恋となる。······というようなことだって、時タマ浮世にはあるものだ。······いけませんな、え、あねご。第一袴様にすみますめえ。忠三にだってすまねえや」
「何をいうんだい、ばか忠々」お町吹き出したものである。
「魂があってさえいやだったのに、魂のなくなった
「いいなあそいつだ。その『ヨーッ』だ! そうならなけりゃア面白くない。感傷的だったり、予感的だったり、さっきのようじゃア困りますからねえ。旅が旅らしくなくなってしまう。が待ってくれ。その旅も、もうすぐおえるんでございますねえ。袴様とあねごとがヒョイと逢う。うれしいヨーというところで||もっともどうもこのヨーは、あっしにとっちゃア苦痛だが、とにかくヨーというところで、手を取り合った暁に邪魔になるのはこの忠的! そこで
「どうしたんだい、性急に?」
「フッ、フッ、フッ、まずこうだ。あの魂のぬけがらを、追っかけているその間は、袴様とは逢われねえ。と少なくともそのうちじゅうは、あねごと一緒にいられるってものだ。へいさようで、二人きりでね。いいなあいいなあ、行きやしょう」
「忠さん」とお町、気の毒そうに、「そんなに妾といたいのかい?」
「あねご!」とあぶなくシンミリとしたが、すぐにまぜっ返したものである。「なんのアタボウ、背負っちゃアいけません。恋の燃えがら、もえ残り。いらねえいらねえ、いりませんねえ。だが」というと横目で見た。「くださるものならもらいますぜ。もっともさっきも二、三度いった」
忠三スタスタ歩き出した。それにつづいてお町が行く。あとに残ったは捨てられた松明、ボッと焔が立っている。暁近い高原の夜を、くさび形に割って燃えている。と一匹明かりを慕い、こおろぎがポンと飛んで来たが、すぐに羽根を焼かれ、まるくかたまって死んでしまった。
ジャラーンとその時鉄杖の音、かすかに上の方から聞こえて来た。「ああ不吉な音色だわい」こうつぶやいた者がある。
富士見高原の峠道、
先頭に一群の人数が行く。君尾を真ん中に引っ包んだ、数人の若い
「鉄杖の音でございますな。何か不吉の前兆でも、先生にはお感じなさいましたので?」こうきいたのは光圀である。
「さよう」というと朱舜水、
「不快な音色でございましたよ。
「これはごもっともに存じます」
一行
「君尾殿には元気のよいことで」
「七、八歳の娘のようで」光圀も微笑したものである。「朝日奈、朝日奈」と呼びかけた。
「は?」というと朝日奈小弥太、
「そちが探った君尾殿の素姓、だいたい間違いはあるまいな?」
「はい、間違いはございません」
「銅兵衛という杉窪の
「はい、さようにございます」
「そうして銅兵衛は紀州殿の、旧家臣だとこういうのだな」
「はい、さようにございます」
「で、君尾殿がかどわかされた晩||杉窪の里の亡びた晩、たしかに紀州の伯父上が、由井正雪一党を率い、異風天狗に身をやつし、杉窪へ行ったというのだな?」
「私、殿の内命を受け、杉窪の里へまかりこし、二代目の
「だがそれにしても紀州の伯父上、何ゆえ天狗などに身をやつされ、杉窪などへ行ったのであろう? ······そんな異風の天狗などに······」
「恐らくそれはこうでござろう」口を出したのは朱舜水、「天狗は我慢の象徴でござる。豪放濶達の紀州殿のこと。我慢の天狗に身をやつされ、幕府の権勢をセセラ笑い、天狗舞いをしたのでございましょうよ」
「しかし正雪一党などを」
「さよう。こいつは問題でござるな」ここで朱舜水思案した。
またはなやかな笑い声が、君尾の群れからわき起こった。
また聞こえてくる君尾の笑い声、はなやかで明るくてサッパリしている。そこで朱舜水いったものである。
「
すると光圀うなずいたが、「それに私にはあの娘が、紀州の伯父上のおもざしに、似ているように思われます」
「さようさようその通りで」そこで朱舜水暗示的にいった。「杉窪の銅兵衛は紀州殿の家臣、君尾殿は銅兵衛の養女。そうして君尾殿のおもざしが、紀州殿に似ておられる。その紀州殿が杉窪の里へ、助太刀をしにおいでなされた。ということであってみれば、紀州殿と銅兵衛殿と、その間に、連絡がなければなりませんなあ」
「私にもそんなように思われます。······ひょっとすると、伯父上の、落胤などではあるまいかと」
「もしそうなら好都合で」
「は、好都合とおっしゃいますと」
「これは以前にも申しましたが、どうやら紀州殿のやり口は、平地に
すると案内の
「いえもう間近でございます。この道を真っ直ぐに参りますと、湛慶川の川岸で。それを上流へさかのぼりますと、湛慶滝でございます」
そこでズンズン進んで行く。
ややあって光圀が笑いながらいった。「先生、はたして湛慶滝に、南朝の遺跡がございましょうか?」
「さあそいつはわかりませんなあ」一向こだわらずに朱舜水がいう。「とまれ村人やきこりたちや、そういう人達の噂によると、湛慶滝には色々の、伝説があるようでございますな。古いところでは仏師湛慶。新しいところでは紅毛人。そうして綺麗なおちごさんの噂。そこで私は思いましたので。すべてそういう伝説的の土地には、何かしら遺跡や旧跡が、必ず残っておりますとな。それが南朝の遺跡なら、この上もなく好都合であり、そうでなくとも結構でござる。とにかく一応伝説的の土地は、調べる必要がございますよ」
一行スタスタと歩いて行く。
この時君尾の一群れでは、面白い話がはじまっていた。
「
「君尾様の美しい夢物語、これは聞きずてになりませんなあ。お聞かせくだされお聞かせくだされ」こういったのは新十郎といって、ずっと前から君尾の機嫌を、取り結んでいる
「あるお方の夢なのでございますの。妾の大好きなあるお方のね」
「あッはん、さようで」といったものの、新十郎という武士興ざめたらしい。
「それはこうなのでございますの」
「それはこうなのでございますの」昨夜見たという夢物語、それを君尾話し出した。「妾の大好きなお方がね、行ってしまったのでございますの。高い高いお山へね。でもやっぱり下にいますのよ。ええ、にぎやかな町の中にね。お花畑が咲いていました。
ホッ、ホッ、ホッと明るく笑った。邪心のない晴れやかな笑いである。
「風変わりの夢でございますな」こういったのは新十郎。「ええとそこで君尾様には、その大好きなお方のことを、フッツリ断念なさいましたので?」
「そうよ、夢が本当ならね。······あら!」というと足を止めた。「あんなところに
いかさま遙かの行く手にあたり、大篝火が燃えている。それに照らされて桃色の、
正雪と時行の陣営が、そこに張られてあったのである。
ここは正雪の陣営である。
陣幕の中は陽気である。今にもいくさが始まるかもしれない······といったような気配さえない。いわゆる無礼講の酒もりが、さッきから始まっているのである。四隅で篝火が燃えている。火気に
「槍には三位の
「よろしいよろしい、槍は三位。ところで貴殿は槍の名人、そこで貴殿も三位の位。まあさ三位氏一人で飲まずに、杯をこっちへ廻したまえ」こういったのは柴田三郎兵衛、忠弥の前に坐っている。酒が発して顔が赤く、笑みを含んで穏やかである。しかし依然として皮肉である。
「杯を廻せ? ばかをいえ! 拙者に備わった杯だ! 一人で飲む。やらぬやらぬ! おっ、なんだ、柴田の兄貴か! アッハハハ献じよう」忠弥の顔は蒼白い。内に籠る酒らしい。眼が据わってギラギラしている。「柴田の兄貴には一目置くわい。さあさあ誰かついでやってくれ」
少し離れた片隅で、四、五人の者が興じている。その一群の頭上をつらぬき、一本の棹が伸びている。その棹の先で何物か、グルグルグルグル廻っている。
「あざやか!」と一人の武士がいった。
「見事!」ともう一人の武士がいった。そうしてハタハタと拍手した。総髪の熊谷三郎兵衛である。
「武士をやめても食って行けます。式部氏芸人におなりなされ。いや全く立派なものだ」もう一人の武士がこういいながら、唇から前歯をのぞかせたが、ほかならぬ金井半兵衛である。
「拙者にしてからがそのつもりでござる」秦式部片手で棹をあやつり、両眼で杯を睨みながら、さも
棹を手もとへ引いたものである。
ぐっと離れて篝火のそばに、ポツネンと一人すわったまま、碁を打っている武士がある。
碁を打っているのは奥村八左衛門、由井正雪門下の中では、一番若い人物である。相手なしの一人碁だといって碁盤のある筈がない。白紙へ筋を引いたのが碁盤、碁石といっても同じく紙製、眼のないほどの囲碁好きで、どこへ何用で行こうとも、この二品だけは携えて行く。
「考えてみれば徳川の天下、ひっくり返すのもいいけれど、しかしおれには
墨染めの法衣の胸をはだけ、ムシャムシャした胸毛を露出させ、
「
「白三と一間掛かりと来たら、どう応対していいだろうかな? 四とつけ十まで運ぶかな? これが通例というものさ。······それはそうと忠弥の奴、まだ俺を見てはいないかな?」ヒョイと眼を上げると忠弥の方を見た。と、忠弥の眼とぶつかってしまった。「どうもいけない。またぶつかったよ」あわてて盤面へ眼をおとした時、
「奥村氏!」と呼ぶ声がした。ロレツの廻らない忠弥の声だ。
「しまった。忠弥め、やって来るぞ」
はたして忠弥ヒョロヒョロと立ち、八左衛門の方へやって来た。ムズと坐るといい出した。
「さて奥村、ひと勝負やろう。この前は負けたが今度は負けぬ。······白をよこせ、勝ってみせる? なんだ貴公なま若いくせに、先輩の拙者に黒を渡すとは! ······今日は勝つぞよ、きっと勝つ! 復讐戦というやつさ! ······ところであらかじめいっておく。貴公拙者を負かしたが最後槍がとぶぞよ、三位の槍が! 槍がこわかったら拙者に勝たせろ! なんでもいいから拙者に勝たせろ!」
フラつく手先で白を握り、「それ」というと一つ置いたが、碁盤
丸橋忠弥酔っ払っている。一向平気で
「ふふん、何だ、平凡な奴だ。つまらない所へ据えやアがった。よしよしそれならこうやってやれ」忠弥それでも感心に、今度は盤の上へ石を置いたが、ヌの十という真ん中である。
「さあやれやれお前の番だ。考えてはいかん、遅い遅い。······よいかな、兵は神速をとうとぶ。ばかの考え休むに
むかい合っている奥村八左衛門、本来下戸で一滴も飲まない。酒の匂いさえ嫌いである。忠弥の息が顔へかかる。胸が悪くてムカムカする。で、むずかしく渋面をつくり、時々顔を横へそむける。
「なんてだらしがないんだろう。宝蔵院の槍を取ったら、日本一の手利きか知らないが、酔っぱらうと日本一のばかになる。よしよし思うさま負かしてやれ。それ! ······」というとハの四の位置、そこへピタリと石を置いた。
「驚かねえよ」と丸橋忠弥、少し真面目に置いた石は、タの十五という位置である。
「少し正気になったらしい」こう思った八左衛門、タの十七へ石を置いた。
「よし、来やがれ」と丸橋忠弥、レの十七へ石を置いた。
「真剣になってきたらしい」こう考えた八左衛門、レの十八へ石を置いた。
ズンズン手合わせが進んでゆく。最初の二つがわざわいし、忠弥だんだん追い詰められる。で、じっと考え込んでしまった。嬉しがったは八左衛門、ひざ
「さあさあ丸橋、やったりやったり! 沈思黙考かな。気の毒千万。それ兵は神速をとうとぶもの。ばかの考え休むに
突然忠弥いい出した。「おい奥村、一目待て!」
「ナニ一目? 待てませんねえ」
「是非待ってくれ。おれがたのむ」
「いけませんね。待てませんよ」
「たのんでいるのだ。待ってくれ!」
「おあいにくさま」と八左衛門、あごを前方へ突き出したが、「似合わないなあ、え丸橋。お前は随分強気の筈だ。それをなんぞや待てなぞと! 打ったり打ったり、さあさあ打て! それともお前戦いの場で、組み伏せられた敵に対して、首を掻くのは待ってくれ、こんなことをいってたのむかな? たのむというなら卑怯未練!」
「だまれ!」と突然丸橋忠弥、ほえるように声を響かせたが、「卑怯とはなんだ! 無礼の一言!」
続いてアッという声がした。声の主は八左衛門、忠弥に投げられた大杯で、
「騒々しいの、静まらっしゃい!」りんとした声が響き渡った。
声を掛けたは由井正雪、陣幕に染め出した菊水の紋、それをうしろに
いわゆる鶴の一声である。柴田、丸橋、奥村ほか、五、六人がゾロゾロと、陣幕の外へ出て行ったが、あとはヒッソリと白け渡った。
正雪の前に老人がいる。ほかならぬ天草時行で、自分の陣屋からコッソリぬけ出し、遊びに来たという格好である。
「お若い方は勇敢で」こんなことをいい出した。「が、ちと面白くござらぬな」
「さよう」と正雪眼をひそめたが、「丸橋氏の軽率と短気、困ったものでございます」あたりをはばかった小声である。
「それと同時に奥村氏の、囲碁好きも困ったもので」これもあたりをはばかった声。
「ほほう」と正雪驚いたように、「囲碁という遊戯、いけませんかな?」
「いや大変結構でござる。囲碁、将棋、生花、茶の湯、ことごとく結構な遊戯でござる。こいつにふけっておりますと、心が静まり物欲がなくなり、美的情操さえ養われます。ええとそれだから奥村氏には、ちと不向きでございますなあ」
「ははあさようでございますかな」||だが正雪にはわからないらしい
「いやむしろこれはこういった方がよろしい。われわれ義党の面々にとっては、この種の遊戯は総体に、面白くない、とこのようにな」
「ははあさようでございますかな」やはり正雪にはわからないらしい。
「徳川の天下をひっくり返す、というのがわれわれの目的の筈で。······これは素晴らしい大欲望でござる」
「さようさよう大欲望でござる」
「で、
「なるほど」といったが由井正雪、かすかにうなずいたものである。
公平に照らしている篝の火が、かえって不公平に思われるほど、二人の姿は似ていない。
「それはそれとして正雪殿」天草時行ささやき出した。「敵を前にしての無礼講、拙者これには感心しております」
「これには訳のあることでな。あえて敵勢をあなどるのでもなく、また、大胆をてらうのでもござらぬ」
「それは承知で」と天草時行、貧弱にへこんでいる胸を打った。「人物試験をなされている筈で」
「見抜かれましたな。その通りでござる」
正雪くちびるをほころばせたがにわかにグーッと首をさげた。「巻軸二本を泉水へ投げた、紀州大納言家のお振る舞い、天草殿にはなんと思われるな?」そういった声の不安そうなことは!
正雪にきかれて天草時行、音の響きに応ずるように、即座に答えたものである。
「変心でござるよ。一目瞭然!」
「ううむ」とうめいたが由井正雪、いよいよ不安に堪えられないらしい。「そうとられるかな、貴殿においても」
「とりようがござらぬ。これ以外にはな」
「が、ただご短気と解しては?」
「甘い!」とばかりセセラ笑った。
「よりけりでござるよ、ご短気にもな!」
「とはいえ従来大納言家が、われらへ寄せられたご好意から
「ということであってみれば、下世話の言葉にもなかなか身にしむ、金言というものがございますなあ」妙なことをいい出した。
「なんでござるな。下世話の金言?」正雪眉の間へしわをたたんだ。
「あばたがえくぼに見えるというやつ。アッハハハいかがでござる」笑いはしたが
「ほれ込んでいるといわれるのか?」正雪いやアーな顔をした。
「さようでござる頼宣どんにな! かれ老英雄、腹の知れぬご仁。貴殿トロトロとたらされております」
だがなお正雪眉をひらかぬ。凝然と時行を見詰めている。
「釈迦に説法とは思うものの、その釈迦さえも
だがやっぱり由井正雪、眉もひらかず物もいわない。心で悩んでいるらしい。と、にわかに
「その問題はそれとして、貴殿天草時行殿を、われらが党中へ加えた一事は、われら本望と致しております」
「いや、こいつこそ偶然で」時行突然ひょうきんになった。「そうはいっても、この拙者、何か仕事がなかった日には、退屈で退屈でたまらぬという、困った性質の持ち主でな。謀反商売などまことに結構、そこで喜んで党中へ、加入いたしたというものでござるよ」
「拙者自身を高祖に引くは、あたらぬもまた甚だしいもの。しかし貴殿だけは
「薄ッきたない張子房で」
「武田家における
「
「アッハハハ」
「アッハハハ」
「どっちにいたしても
「さあてね」と天草時行、皮肉に顔をゆがめたが、「お高く買ってくださるはよい。だがそれにしては扱いが悪い」小言をいおうとするらしい。
扱いが悪いと時行にいわれ、正雪いくらか興ざめたらしい。
「ははあ何かご不満かな?」首をかしげたものである。
「いいえさ、今は満足でござる」今度は時行キサクに笑った。
「思い出したからいうまでのこと。初めてお逢いしたあの際の扱い、あれはどうにも謀将を扱う、扱いぶりではござんせんでしたよ」
「あいつをいわれると拙者困る」鼻白んだというように、正雪苦味ある笑い方をした。
「いや驚いたのなんのって、あの時こそびっくり敗亡し、時行グーの音も出ませんでしたよ」かえっておかしそうに笑ったが、「二本の巻軸島原の手から、やっと取りあげて帰宅してみれば、百人余りのおさむらいさん、なんの苦もなく拙者を
「しかし、あの際お目にかかり、一言二言お話しするうち、これは素晴らしい器量人、拙者なんどの及ぶところでない、こう存じて客間へ招じ、義党へお加わりくださるよう、懇願した筈ではござらぬか」
「そこで拙者は加わりました」
「で現在は謀将とはいえ、その実立派なお客人で」
「さようさ、拙者もそのつもりで」トホンと時行いい放った。
「全く貴殿は人物でござるよ。つきあえばつきあうに従って、いよいよえらさが加わります」正雪、持ちあげたものである。「いい
「いや貴殿こそおえろうござる」今度は時行が持ちあげる。
「いい得べくんば一
「いや貴殿におかれても」
「それは駄目駄目」と手を振った。「拙者などだまって坐っていると、米屋のご隠居に踏まれます。そこでむやみとしゃべりますて」
「どっちみち拙者より貴殿の方がおえらい」
「どういたしまして貴殿の方がおえらい」
「なかなかもって貴殿の方が!」
「いや貴殿こそ!」
「貴殿こそ!」
大変仲がよいのである。
顔見合わせて微妙に笑った。
「そこで一ぱい」と正雪がさした。
杯を受けて||グッと飲み、「返ぱい」といって時行がさした。
二人快く酔ったらしい。
「そこで話を元へ戻し」時行一層小声となった。「敵前においての無礼講、人物試験は気に入った催し。ところで結果はいかがかな?」
「さればさ」と正雪あたりを見た。「各自の個性見て取れました」
「で、ことごとくたのみある武士で?」
「まずその辺。······貴殿においては?」
「拙者の見どころ、いささか違う」
「お聞かせくだされ」と顔を沈めた。
「一徹短慮の丸橋氏と、女性的性質の奥村氏、二人を斬ってお捨てなされ」
「それは不仁、なりますまい」
「やむをえませぬ。下世話の金言、もう一つお聞かせいたしましょう。千丈の堤も
その時であった。陣幕の外から、「
「横へそれた。上流へ行く! 湛慶滝の方へ行くんだろう」||朱舜水一行の松明らしい。次第に夜が明け始めた。
往々例外はあるにしても、悪人の最期というようなものは、どうやら案外もろいものらしい。島原城之介の最期など、その一例といってよい。二つの亡霊を見たために||少なくもかれにはそう見えた。かれは自滅をしてしまった。かれが原の城へこもったのは、キリシタンの秘法を盗みたいがためで、そうしてそれを盗んだため、落城前に脱出してしまった。かれほどの悪人ではあったけれど、かれに秘法を伝えてくれた、島原一揆の総大将||もっとも黒幕ではあったけれど、イマニエル司僧が落城と共に、表に立った総大将の天草四郎
そこへ付け込んだのが亡霊であった。
夜は明けたが日が出ない。朝の霧が立ちこめている。そよいでいるのはなんだろう? 崖を蔽うている群ら葉である。群ら葉に抱かれて懸かっている滝! シーンと音なく落ちている。と、ジャラ||ンと鉄杖の音! 霧を分けてユラユラと、現われたのは城之介、滝壺を取り巻いた岩の上へ、ヒョロヒョロと上がると足をとめた。
「滝がかかっている。······音がしない。······行く手は絶壁、行きどまりだ。······お町め、お町め、どっちへ行ったかな」岩の上へ突いた鉄杖へ、痩せこけた身体をもたせかけ、
「島原! 島原!」とその時である、滝の中から声がした。
「おれを呼んでいる! 誰だろう?」
眼を見張った時、滝の背後から、崖へ現われた物影がある。人間だろうか? 人間らしい。だが正直に形容すれば、人骨といった方がよいようである。そんなにも痩せかれているのである。眉に赤毛が渦巻いている。腰に白布が翻っている。あとはむき出しの裸体である。胸から
滝を左に、崖を背に、朝風になぶられる霧の中に、のびのびとして立っている。
「島原! 島原! どうして来たな!」体に似つかわしい、しわがれた声だ。
「ああ、あなたは、イマニエル司僧!」こう城之介の叫んだのは、しばらく経ってからの後であった。ジャラ||ンと鉄杖の音がした。うしろへよろめいた証拠である。
二人向き合って突っ立った。これは劇的の光景であった。しかし間もなく一層の、劇的光景が演ぜられた。すなわち次のような問答の後、島原城之介身をおどらせ、滝壺の中へ飛び込んで、再びこの世へ出なかったのである。
「イマニエル司僧よ。あなた様が、この世に生きておられようとは? いや亡霊だ亡霊だ!」
「逃げて来たのだ。裏切ってな!」むしろ愉快そうな声である。
「私でございます、裏切ったのは!」
「だからお前は非常に賢い!」
「おれにはわかる。叱っているのだ! イマニエル司僧の亡霊が!」そこで城之介いったものである。
「おお司僧様。あなたには、ご殉難なされた筈ではございませんか?」
「誰のためにだ? 聞かせてくれ!」アイロニカルの声である。
「はいあなた様の拝まれた、万能のお方のそのために!」
すると突然笑い声が、紅毛人の口から出た。それから次のような言葉が出た。
「万能のお方か! あああれはな、そういう美しい名のもとに、地に鮮血を敷くものだよ!」
「いいえそんなことはありません!」かえって島原城之介、はじき返すようにいったものである。
「ああそれでは悪魔と同じだ!」
「いいや」といよいよアイロニカルに、紅毛人はいいつづけた。「教えてあげよう。悪魔とはな、その気の毒な名のもとに、万能のお方を空高く、雲の上まで持ちあげているものだ! 同情していい引っ立て役だ!」
「おれにはわかる。叱っているのだ! イマニエル司僧の亡霊が! ······裏切り者のこのおれを!」
そこで城之介悲しそうに、
「イマニエル司僧の亡霊よ。では人間はこの世では、何を拝んだらよいのでしょう」
「そいつはおれにもわからないよ。おれも探しているのだからな」
「お教えくださいまし! お教えくださいまし!」
「おれをあんまりせめないでくれ」
「お教えくださいまし! お教えくださいまし!」
「お前は悩んでいるようだな」
「悩んでいるのでございます!」
「その後平和ではなかったのかい」
「ひどい目にばかり合わされました」
「どっちを向いてもひどい目に合うよ」
「力をお授けくださいまし!」
「わしからお前へお願いしよう」
「イマニエル司僧の亡霊よ! ······」
「また拝む物をか? 教えてくれか! 教えてやろう! 第三の者だ! 神と悪魔を踏まえているものだ!」
「それは何物でございましょう?」
「人間だよ! 人間だよ!」またガラガラと笑い出した。「沢山いるなあ、人間は! 地球をうずめてウジャウジャいるよ。しかし人間は一人もいない! ······だが島原!」といかめしくいった。「滝壺をご覧! 一人いる! この上もない馬鹿者が! だから一番尊い人が!」
滝壺をのぞいた城之介の口から、恐ろしい叫び声が飛び出した。そうして、その次の瞬間に、滝壺の中へ躍り込んだ。
「ここにも亡霊! ······天童よ! ······水の中から······生きながら······私を睨んでおいでなさる! ······裏切り者のこのおれを!」
水音! 静寂! それだけであった。
「お
「イマニエル司僧!」男の声! 飛び出して来たのは早引の忠三! 「おおお町か! 私の孫!」紅毛人はよろめいた。「おいでおいで私の巣へ! ······だが逢えようとは思わなかった!」
「生きておられたのでございますか!」お町、岩の上へひざまずいた。
「亡霊ではない! 生きているわしだ! おいでおいでわしの巣へ!」
三人滝の裏へ隠れた時、またもや霧を割りながら一隊の人数が現われた。朱舜水と光圀の一行である。
「これは珍しい!
「それにもう一つ修験者の死骸が」こういったのは水戸光圀。
「滝のうしろで人声がします。お爺さんの声と娘さんの声が」
こういったのは君尾である。
朝日が
富士見を離れる十里の地点、木地師の大軍が走ってゆく。先に立ったは将右衛門、左右に二挺の駕籠が行く。左の駕籠にはお京様、右の駕籠には広太郎、のどかな様子をして乗っている。その後から行くものは、男の木地師、女の木地師、老人、子供、それから家畜||馬や犬やにわとりや! それから荷車、それから
トットと走る。木地師の大軍。さて行く先は? 北だ! 北だ!
「日が出た、日が出た」と将右衛門、さも愉快そうにしゃべりだした。「日の出を合図に約束の
トットと先へ走って行く。あとから全軍が引きつづく。
「今日はお天気、明日もお天気。おれにはわかるよ、明後日もな、きっとお天気に相違ねえ」また将右衛門しゃべり出した。
「結構な旅行、どこへ行く? どこかへ行くよ、心配はねえ。気に入ったところで
こういうと富士見の将右衛門、駕籠に乗っているお京の方へ、ヒョイと顔を振り向けた。
「あなたは紀伊様のお姫様、お
お京様の方へ振り返った。
将右衛門お京へ話しかけた。「不幸なお方でございますよ、へいさようで、あなた様はね。······が、あなたのお母様は、もっと不幸でございましたよ。お美しいお方でございました。お
「最近のことでございますよ、私へ急飛脚が参りましたので。すぐ江戸表へ出るようにとな。お館様からの急飛脚で。そこで私は行きました。旧ご主君でございますからねえ。いや紀州のお館様ときたら、英雄に相違ございませんよ。私のような木地師から、
こういうとまた将右衛門、広太郎の方へ振り返った。
「お見受けしたところあなたには、どうやら以前からお京様とは、ご懇意のご様子でございますが、大変結構でございますよ。そこで私は申しあげたいんで、ご夫婦におなりなさいましとね。そうして第二世木地師の
機嫌よくしゃべって走って行く。
「それにしても君尾様をあずかった、銅兵衛どんの死んだのは、私にとっては悲しみで。いい兄貴でございましたよ。だがマアそれも仕方がない。人間一度は死ぬものだ。生きているうちにお働き! ホイ、ホイ、ホイ、いいお天気! 明るいなあ、何もかも!」そこでうたい出したものである。「明るくなければいけません!」
「驚いたなあ」と広太郎、駕籠の中で胸へ腕を組んだ。
駕籠の中で腕を組んだ広太郎、考え込まざるを得なかった。
「ほほうそれではお京様は、そんな身分であったのか。紀州大納言家
ヒョイと駕籠から首を出した。眼の前にお京様の駕籠がある。そこからのぞいているお京様の顔! 二人の眼と眼がぶつかった。
「よし」と広太郎つぶやいた。
「これできまった。山にいよう」
だがいったいどうしたんだ? 何が決心をさせたんだろう? なんでもなかった。お京様の眼に、涙が光っていたからである。
木地師の大軍走って行く。
さて
ふもとの方へ下って行く。
麓の方へ下って行く。サクサクサクサクと音がする。踏まれて雪がきしるのである。雪が反射する真昼である。
「ねえ忠三様」とお町がいった。なんとやさしい穏やかな、そうしてつつましい声なんだろう。
「やっぱりお
「はいさようでございますとも。イマニエル司僧様はお逝くなりになる時、昔どおりの信者になられました」なんと忠三のそういった声も、つつましく真面目のことだろう。
「でもお祖父様はご自分のためには、しまいまでお祈りをしませんでした」
「お嬢様のおためには祈られました」
「神よ、私をおにくしみください。しかし憐れな孫娘ばかりは、どうぞお守りくださいまし! こうお祖父様はいいましたのね」
「はいさようでございました。でも神様は司僧様の霊をも、天国へ導かれるでございましょう」
「でもお祖父様はいいましたわ、『ああ俺だけは地獄へ堕ちよう』と」
「だから天国へ参られます」
「どうぞ天国へ行かれますよう」
雪を踏んで二人歩いて行く。二人の影法師が雪へうつる。見送っているのは山々である。さむざむと
「予感があたって袴様とは、お逢いすることができませんでした」お町の声はむせぶようである。
「一日違いでございましたな。残念なことをいたしました」
「木地師に連れられて袴様、どこへおいでになられたやら! ······」やはりむせぶような声である。「でもよいことを致しました。この富士見へ来たばかりに、なくなられた筈のお祖父様と、お目にかかることが出来ましてね」
「そうしてお
「ああそうしてお葬式をね」
「滝壺の中で司僧様、天童様とご一緒に、眠られることでございましょう」
「お二人ながら
「原の城から逃げられた時、身を隠されて来た唐櫃の中で」
「ああ何もかも元へ帰った」
二人ふもとへ下って行く。裾の辺を風が吹く。
「それにしてもイマニエル司僧様は、立派な豪僧でございましたよ」忠三の声には感激がある。
「あの二本の巻軸の秘密も、どうやら解けたようでございますね」
「みんなお祖父様の細工でしたのね」
「それも悪気からではございませんでした。布教のおため! でございました」
「そうしてお祖父様はその『ため』に、心を食われてしまいました」
「ご熱心からでございます」
「そうして背信者になったのね」
「人間性があり過ぎましたからで」
「あのむごたらしい懺悔生活も。······」
「人間性があり過ぎましたからで」
山々がだんだん高くなる。次第に二人は下って行く。
「お町様!」と不意に忠三がいった。「これからあなたはどうなされます」
「これをね」とお町は胸をさした。「埋ずめに行きますの、ご遺言通り!」
メダルと並んで小さな箱が、お町の胸へかけられてある。
メダルと並んで小さな箱が、お町の胸へかけられてある。
何がはいっているのだろう?
「ああお
こういったのは忠三である。
「お祖父様のね。······唯一の形見」お町の声は泣いているようだ。
「そうしてご遺言とおっしゃるのは?」
「『お前のお母様のメダルと一緒に、故国の土へうずめるように』これがご遺言でございました」
「故国?」と忠三は不思議そうにきいた。
「スペイン!」とお町がすぐ答えた。「お祖父様とそうしてお母様のお国!」
「海のあなただ! 遠い国だ!」
「
忠三はじっと考えた。「私もお供を致しましょう」
「どうぞね、お願い致します」
「参りますとも、
「いいえ、仲のよいお友だちとして」
「そうしてスペインでくらしましょう」
「ええ、神様にお仕えして」
「まずとりあえず江戸へ帰り、旅の仕度をいたしましょう」
「花ちゃんとそうしてネロちゃんを連れてね」
「そうして南蛮屋を片付けて」
「東海道を下りましょう」
「まず長崎へ! それから船で!」
「スペインへねえ! スペインへねえ」突然お町は眼をおさえた。「
「巻軸?」と忠三きき返した
「袴様! 袴様! 袴様!」
その声が高原をはって行く。
「おあきらめにならなければいけません」忠三の声は病んでいるようだ。「お嬢様ばかりではございません。誰もかもそうなのでございますよ。空しいものばかり追っております」
「袴様!」ともう一度呼んでみた。お町! と呼び返す声はしない。袴様と返るばかりである。
二人トボトボと歩いて行く。サクサクサクサクと雪がきしる。雪を持った木々が二人を迎え、雪を持った木々が二人を送る。
と不意にお町がいった。「でも妾は慰められます。しぶきが舞い込み、しずくが落ちる、あの滝の裏の
「そうしてそこで私達も、幾月かくらしたではございませんか」
「それが私達をかえてくれました。よい人間へ! 真面目な人間へ!」
「そうして私達に教えてくれました、懺悔生活というものを」
「懺悔しながら暮らしましょうねえ」
「そうして前途へ希望を持って」
「ええ」とお町はうなずいた。しかしまたもや眼をおさえた。そうして声をしぼったものである。
「ああ袴様は! ······妾をすてて!」
忠三には何ともいえなかった。ただ同じように眼をおさえた。
と、お町振り返り、今来た方を眺めやった。
「日本を離れたら二度と再び、こんな所へは来られない。よく見ましょうよ、忠三様!」
眼界の限り真っ白である。起伏して山々がうねっている。巨大な大理石の墓のようである。
まさしくそれは墓場であった。イマニエル司僧と天童の! そしてお町の悲しい恋の!
やがて二人はふもとへおり、甲州街道へ足を入れた。彼らは間もなく異国へ行こう。二度とこの国へは帰って来まい。神よ! この世におわすなら、苦労しながらむくいられなかった、可哀そうなお町の前途にだけでも、その
慶安四年四月二十日、晩春初夏の物憂い日、
「天草一揆!
物狂わしく叫びながら、将軍家光
千代田の内外大騒動、大名旗本総登城、だが
同じ月のある日のこと、朱舜水屋敷から二挺の駕籠が供揃い質素にかつぎ出された。
紀州家の客間、主客二人。||
「
「偶然お助け致しましたまでで。しかし伯父上のご落胤とは、夢にも想像いたしませんでした」光圀微笑をしたものである。
「そうであろうな」と紀州頼宣、これも微笑を浮かべたが、グルリと君尾の方へ膝を向けた。
「済まなかったな、苦労をさせて」
「はい。······いいえ」と君尾はいった。つつましく両手は揃えたが、明るい心の彼女である。苦労した様子などは見えなかった。「いつも楽しゅうございました」||といった様子である。
「さて」と改めて光圀が、頼宣へ話をしかけた時には、すでに君尾は座にいなかった。侍女たちにかしずかれて別の部屋で、もてなしを受けていたのである。「少年の私、伯父上に対し、このようなことを申し上ぐるは、差し出がましゅうはございまするが、特にご免をこうむりまして······」
「ははあ」と頼宣トボケた顔で、「どんなことかな? 話すがいい。いやいや光殿は年こそ子供、が心は立派な大人。遠慮はいらない、お話しなされ」
「
「ああ正雪、丸橋の徒か」
「あまりお近づけ遊ばさぬよう」
「よろしい!」と潔く引き受けてしまった。「わしもな」とそれからいい出した。「従来は少しく思うところあって、正雪、丸橋、
「安心いたしましてございます」
「南海の
「いえいえ龍は
「朱舜水先生のお仕込みだの」
「これは」といって笑ってしまった。
「アッハハハ」と
「物騒千万に存じます」
「ナニ落っこちたから平和だよ」
「落っこちになりました原因は?」
「やくざな二本の巻軸のためさ」
「ははあ」といったが光圀には、なんの意味だかわからなかった。
「よろしい。ひとつ、話してやろう」頼宣そこで話し出した。
「因果は
「はい、
「ほほう、死蝋? それは珍しい。話には聞いたが、見たことはない。もちろん持って帰られたろうな」
「いいえ」と光圀残念そうに、「相好あまり美しく、それに神々しゅうございましたので、朱舜水先生が仰せられました。手に取らぬがよい。そっとして置けと」
「全くそうだ」と紀州頼宣、何を思い出したか膝を打った。
「美しいものへは手を出してはいけない。意外に手傷を負うものでな。君尾の母、志乃という女、美人だったので手を出したところ、たちまちひどい目に逢ってしまった。やっぱりキリシタン信者でな。暇を出さなければならなくなったのだよ。ところで」
と頼宣けげんそうにした。
「光殿、光殿。それにしても、君尾がわしの落胤だと、どういう所から探り出されたかな?」
「はい」と光圀微笑したが、「杉窪の銅兵衛臨終の際、伯父上へこのように申されましたそうで、『殿、殿、姫君を奪われました』と」
「ああそうそう、そういったよ」
「里人がそれを聞いておりまして、最近に知らせてくれました」
「そうであったか。よくわかった」それから心でつぶやいた。「町姫や京姫はどうしているかな?」それからなおも考えた。「たった一度だ。
すると光圀、老成的態度で、「水戸家でお預かりいたしましょう」
「が、それでは同じことだ」
「朱舜水先生のお手もとで」
「ああなるほど。それならよかろう」安心したような様子であった。
同じ年の七月となった。その時起こったのが
それはとにかく、慶安騒動で、江戸が動揺をしている最中、日本橋の真ん中で、夏の熱い日を浴びながら、こんなことを話している人物があった。
「お京様をご存知ではありますまいか?」
「存じませんでございます。······君尾様をご存知ではございますまいか?」
「存じませんでございます」
臼井金弥と文三である。またパッタリ逢ったらしい。今だに探しているらしい。よろしい。探せ三十年も! だが絶対に目付かるまい。
「お父上、書面が参りました」
こういったのは舞二郎。
「なに、書面、どこからだな?」
こうきいたのは平左衛門。
小松原家の裏座敷、庭に夏の陽があたっている。
「珍しい人からでございます。飛脚が持って参りました。袴広太郎殿とお京との連署で······」
「なるほど、珍しい。どれ拝見」
「おなつかしいお父上様お兄上様」お京の書面にはこう書いてあった。「紀州大納言家の
「友よ!」と広太郎は書面の中で、親しく舞二郎を呼びかけていた。
「友よ僕の妻は
護身護身といいながら、人ばかり斬るのはどうしたものだろう?
だがマアマア理屈はやめよう。とにかく剣というものは、ひどく捨てがたいものらしい。だから捨てなければならないものさ! そこで僕は捨ててしまった。人間として飛躍したよ。だって友よ、そうではないか。ぶちこわす方から足を洗って、造り出す方へ向かったんだからね。僕は非常に楽天家になった。ふさぎの虫なんかけし飛ばしてしまった。それは環境がいいからだ。木地師というものの生活は、全く人を神経質から救う。君は学者だ。やって来たまえ! 木地師なるものを研究してみたまえ。きっと得るところがあるだろう。ところで君はきくかも知れない、何をいったい造り出すのかと。荒々しい自然生の樹をたおし、人間に端的に必要な、日用品を造り出すのだよ。これは実際いいことだよ。『芸の術』という名のもとに、つや布巾をかけ、とくさをかけ、小粒な、まるまっちい、ピカピカ光る||そうでなければいぶし銀的の、たいして要でもない小道具類をつくり、威張りっこをするのが流行している、きょうこの頃の浮世には、わけてもこれはいい事だよ! だがマア皮肉はやめにしよう。妻はどうやらこの書面で、いかにも女性らしい美しい、自然描写をしたらしいが、そういうところもこの土地にはある。だが本当をいう時は、この土地の自然は
二人は顔を見合わせた。
「行こう舞二郎!」と平左衛門はいった。「わしは老年だが大丈夫だ。山駕籠へ乗ったら行けるだろう」
「行きましょう行きましょう!」と舞二郎がいった。「私も病身でございますが、山駕籠へ乗ったら行けますとも!」
数日経ったある日の早朝、小石川
「舞二郎や、地図を持っているだろうね」
「はいはい持っておりますとも。······
「持っているとも持っているとも。娘から送ってくれた花だからな」
うれしそうに二人話して行く。旅人の姿がチラホラ見える。憂いを持っている旅人もあろう、悲しみを抱いている旅人もあろう。だが二人には誰もかもが、みんななつかしく思われるのであった。やがて二人は木曽街道へはいった。信濃と越後の国ざかい、乗鞍岳の大渓谷、そこに出来ている木地師の郷、そこを眼差して行くのである。袴広太郎とお京とが、そこに待っているのである。四人逢った時の光景は? 愛情深いものであろう。そうしてそういう光景は、かえって描写しない方が、情趣を深めるに相違ない。とまれ二人は歩いて行く。下板橋からわらびの方へ、浦和から大宮、上尾の方へ。道には
さて二つ三つの蛇足を加え、この物語大団円としよう。二本の巻軸は紀州頼宣から、イマニエル司僧へくれたもので、巨宝存在の
ところで天童とは何者であろう? 天草一揆の表面の大将、天草四郎時貞であると、解釈するのはどうだろう? あまりに