六日||||
雨だらうと思つたのに案外な上天気。
書椽の方の障子一枚開くと真青な松の梢と高い晴れた空が覗かれる。波の音も聞こえぬ。サフランの小さい花がたつた一つ咲いてゐる。
穏やかな、静かな朝だ。何となく起きて見たい。枕の上に手をついてそつと上半身を起して見る。少し頭が重いばかりだ。
来さうにもない手紙を待つてたけれども駄目だつた。
午後お隣りのお婆さんの歌が始まつた。
「わしが歌ふたら、大工さんが笑ふた。
歌にかんながかけられよか」
なんて、おもしろい調子で歌ふ。「婆さんが沈み入るごとある声出して歌ひなさるけん、私どもうつかり、歌はれまつせんや」
若い、お婆さんの養子は高笑ひしながらお婆さんを冷やかしてゐる。お婆さんの細い声がクド/\何か云つてゐる。暫くして畑にゐた祖母が垣根越しに養子と口きいてゐた。
「へゑ、只今御愁嘆の場で御座います、もう、近々お
ときさく者の養子はあたりかまはず笑つた。祖母の笑ひ声も聞こえた。
今日も、平穏無事な一日が静かに暮れて行つた。
八日|||||
午前に近藤さんが来た。昨日からの暗い悲しい気分がまだ去らないので折角来たのにろくにお話もしなかつた。何時もながらの、私の
我儘と云へば私の此の頃の激しいわがまゝは自分でもはつきり分つてゐながら制する事が出来ない。どうせ、永いこと、家にゐる体ぢやないのだもの、とついさう思つてしまふ。それでも私に欺かれた家の者はいくらか力づいたやうだ。そして私の我儘も割合に何かと云はないでゐる。うまく、欺きおほせた私は、人々のあさましい態度と
私は今日まで可なり、真面目に、熱心に、少しでも、私を愛して呉れる父や母に、周囲の人に、本当の私を理解して欲しいと思つて苦しい努力を試みた。然しそれはみんな、無駄な努力だと知れた。私と、両親との間は、あまりに遠すぎる。私が、真面目に私の本体を臆面なく、人々の前に、さらけ出さうとすれば、父も、母もみんな、目を覆つて、見やうとはしない。そして、私は、わざ/\、醜くい本体を人前にさらし、間違つた道を歩いて行く馬鹿者だ、世間知らずだと、ばかり罵られる。真面目な私の苦悶は、それにつれて動く感情のうつりかはりの激しさに、気狂ひと冷やかな笑を浴びせられるばかりだ。
十重廿重に
どうせ、私は父の子じやない。母に教育された子じやない。
安楽や幸福を願へばこそ、何かゞ恐くなつて来るのだ、はじめから、苦しむつもりで苦痛の底に潜んだ何物かをさがすつもりで、かゝれば何にも恐れるものはない。すべての迫害、圧迫、におぢて、おど/\した不安な、なまぬるい生を送るより、刹那も強く弾力ある、激しい生き方を私は望ましいと思ふ。
私は、両親を欺いた。すべての、私の周囲の人を偽つた。然しそれを私は、罪悪だとか何とか考へたくない。
私が激した時······父母に対して激しく何か憤つた時······私は父や母が何だらう、血と肉を受けたばかしだ。私の両親は、少しも、本当に私を愛してくれない、そして、私といふものを、認めてくれない。何時までも、赤ん坊のつもりで扱つてゐる。私にとつては、祖母や両親は、師より友より、更に/\遠い人だとしか思へない。そして、私は何の権威もない、割に合はない、子の親に対する道徳など考へたくない、実際私の親位、自分達の下らない、満足を願ふ為めに可愛いゝと、口癖のやうに云つてゐる、子を苦しめるといふ、矛盾した勝手なまねをする親は、ないだらう。
さう、思へば親なんか、何でもないと、いふ気も出るけれども、矢張り目に見えぬ、何かの絆は、しつかり、親と、子といふ間を、つないでゐてその絆はどうしたつて、断つ事は出来ないのだ。そして私は、たしかに父や母が私に対するよりも以上に、私は父や母を理解する事が出来ると思ふ。
一切を捨てゝ、
「不足なう教育も受けてゐながら、人並にしてゐれば幸福に暮せるものをどうして従順 しくしてゐる事が出来ないのだらう」
と昨日も祖母が次の間でこぼしてゐた、私は黙つて目をつぶつてゐた。午後たあちやんが来た。ザボンを持つて······
私が五つになるまで守をして呉れた女だ。私の幼い記憶に残つてゐる、たあちやんは赤い、うすい髪の毛をひきつめた銀杏返しに結つた、色の黒い目の細い、両頬に
十三の年にあつて、それつきり会はないでゐるうちに見違へるやうな奇麗な女になつてゐる。廿四とか云つてゐた。今まで
私がナイフを出してもらつてザボンをむいてゐる間にも、祖母は、たあちやんをつかまへて、云はなくてもよささうな余計な事まで聞いたり、話したりしてゐた。矢張り、自分の経験をふりまはして、お嫁に行つてからの事をいろ/\注意を与へてゐるのだ。何処まで人の世話が焼き度いんだらう。ザボンはたあちやんの宅になるので奇麗な内紫だ。味はまだよくついてゐないけれども匂ひが馬鹿に高い。たあちやんは、私を時々見送りながら私の幼い時の話をはじめた。私はザボンをたべながら黙つて、話を聞き聞き、
この頃のやうな秋の暮れ方、燈ともし前の一時を私はきつと、たあちやんの背に負はれる。そして海岸に行つた。私は小さい時から海が好きだつた。松原ぬけて砂丘の上にたつて、たあちやんは背をゆすぶり
椎ーのやーまゆーけばー
椎がボーロリボーロリとー
と透きとほるやうな声で歌つて呉れた。椎がボーロリボーロリとー
暮れ方のうるみを帯びた物しづかな低い波の音につれる子守歌がたまらなく悲しい。私はたあちやんの背に顔をうづめてシク/\泣いた。そしてじーつと耳をすましては、歌を聞き思ひ出したやうに、泣き止んだり、また泣いたりした。たあちやんは、歌ひ/\サク/\砂丘を降りてまつしろな、きれいな藻の根を、青い藻の中からさがし出しては私の手に握らして呉れた。私は冷たいその根を噛んでは甘酢つぱい汁を、チユウ/\音をさして吸ふた。さうしてたあちやんは椎の山を歌ひながら寒い海の風に吹かれて白い渚を行つたり来たりして背中をゆすつた。
五時近くたあちやんは私の髪を
九日||||
今日も
昼間シヤブが松原で殺された事が誰からともなく家の者の耳に入つて来た。皆浮かぬ顔してゐる。
やさしい、おつとりした親しみを持つた眼と、深いフサ/\した美しい毛をもつた、老ひてはゐたが利巧な犬、可愛いゝ犬だつた。可なり引き締つた気持ちでゐる私の目からもホロリ/\と涙が出る。
皆次の間で食事しながら犬の事で泣いたり笑つたりしてゐる。私はひとり突きはなされた者のやうな気分でさびしく考へてゐる。
私はかうして独りはなれて、なるべく周囲の何物も耳にしないでつとめて、自分ひとりの気分をかばつて一日でいいさうした周囲に起る不快なくだらない
黄昏の冷たい空気が何処からともなくしみ込んで来て暫くの間に
[『青鞜』第二巻第一二号・一九一二年一二月号]