年増女の美しさは、八月の肌を持っているからだ。
ああ小径には凋 るる花
残 んの芳香を上げている。
「よろしゅうございます、お話ししましょう。が、それ前に標語を一つ、お話しすることにいたしましょう。
『心にゴロン棒の意気を蔵し、顔に紳士の仮面をくっつけ、チャップリンの足どりで歩いたら、人生めったに行き詰まらない』と。······私のための標語なので。······で、お話しいたしましょう。聞いて下さるでしょうね、お嬢さん。······あッ、それ前にもう一つ、勿論貴女はお嬢さんでしょうね。······で、お嬢さん、お聞き下さい、構いませんとも、お話ししますとも。······つまり何んです、何んでもないので、
×
「二銭!」
「はい」
二銭を出し、私は遊園地の木戸をくぐった。約一間歩いたらしい。と、ちっちゃい
左はお城の崖である。晩春の草が
少し行くと二対の
右手には外濠線の軌道がある。××へ行く電車の軌道である。軌道の向う側は高い崖、崖の上には
遊園地は外濠の中にあった。崖と崖との底にあった。あるものといえば静寂であった。
ブラブラ歩いて行く青年であった。||私はブラブラ歩いて行った。
と、二頭の木馬があった。だが、たァれも乗っていない。可哀そうな可哀そうな相手にされない木馬! 四角な箱が一つあった。グルグル廻わる箱なのである。奥さんが坊ちゃんを連れて来て、その坊ちゃんを
半分咲いている山吹の
また鞦韆が出来ていた。子供専門の遊園地なのである。鞦韆ばかりがあるのである。
長方形の硝子箱||と云っても勿論一方だけが、硝子張になっているのではあるが、
「
ゴーッ! 電車だ! ××行き電車だ! 緑色の車体、27の番号、七八人の客が乗っている。どうぞ彼等の航海に、||全く航海に相違ない、××までつづいている新緑は、波というより云いようが無い。······で彼等の航海に、どうぞ平和がありますよう。
いや全く××電は、時々軌道から外れるというから。||
また青年は||私のことだが、ブラブラ先の方へ歩いて行った。
と、若い楓。若い桜。
と、金網を張り詰めた、六角形の鳥籠があった。高さ一間に、周囲三間、そんなにも大きな鳥籠だのに、鳩ばっかりが巣食っている。
数にして十羽である。
おお神よ、この遊園地は、それでは貧しいのでございましょうか?
クッ、クッ、クッ、鳩の声だ! 佇んで見ている私の方へ、翼を揃えて集まって来た。
何か
餌物を惜しんだからでは無い。買う金が無かったからでもない。
若い楓、若い桜、半分咲いた山吹の叢、三分咲いた躑躅の叢、あっちにも此方にも飛び散っている。
また歩いて行く青年であった。私はノロノロと歩いて行った。
また鞦韆! 一対の鞦韆!
その横に
だが誰も辷っていない。
ゴーッ、××電だ! 行って了った。
で、後は静である。渡っているのは微風である。
若い桜が沢山ある。みじめなことには一束の花が、葉に包まれて咲いている。
季節の祭礼は過ぎたのに||花の盛は過ぎたのに、||古ぼけた思想を後生大事に、守っているヤクザな思想家のように、どうして
廃嫡された鳥小屋があり、その前に遊園地の番人の家が、切張だらけの
この頃から私は感付いた。
「不良青年がつけているな」と。
だが本当を云う時は、遊園地の木戸をくぐった時から、不良青年につけられていることを、ぼんやり
ボヘミヤン・ネクタイ、
間もなく私の知ったことは、私をつけている不良青年は、一人では無いということであった。幾人もつけているということであった。
と云う証拠を発見したのは、番人の家まで来た時である。
鉛色の唇をした不良青年が、持っていた
「ふん」と私は鼻を鳴らした。「知ってるよ、知ってるよ、感付いているよ」
関わろうとはしなかった。
私はノロノロと歩いて行った。
後からノロノロとついて来る。
「知ってるよ、知ってるよ、感付いているよ」
そうして私はこうも思った。
「こんな俺のような服装をして、こんな遊園地を歩いていたのでは、餌食にしようと考えて、
||ままにするがいいさ||こう思った。
||勝手に餌食にするがいいさ。
||それで君達が
生活るかね! 生活るかね! ······セセら笑いたいような気持もした。
いや実際こぢんまりとした||そうしてひどくひっそりとした||散歩客が
ここで悪事を働いても、滅多に騒ぎにならないだろう。
私は用心しないことにした。
で私は依然として、ノロノロ歩いて行く青年であった。
「おや、変なものが立ってるなあ」
が、仔細に見なくとも可かった。そうして大して変なものでもなかった。
四方金網で張り廻わされた、
コンクリートで造られた瓢箪池、その池の中の濁った水、そこに浮いている二羽の
「
私はこんなことを思い乍ら、水禽小屋の前に立っていた。
「価値以上のものを
こんなことも考えていたようである。
だが私はこの小屋の前で、実際実際二銭以上の、素敵も無い高価な獲物を得た。
水禽小屋の横の方に、一脚のベンチが置いてあったので、休もうとして腰かけた時、若い美しい女の人が、向うの方からやって来て、軽く私に挨拶して、同じようにベンチに腰かけて、お天気の話からはじまって、ひどく懇意になったからである。
×
「彼女||私の奥さんですが、家出をして了ったのでございますよ」
で、私は話しつづけた。||
「罪はこの私にあったようです。あんまりご披露をし過ぎたので。で、友人が云いましたっけ、『奥さん話』を書くもいいが、あんまり書くと虫が付くぜ、
話し乍ら私の感じたことは、私の側にいるお嬢さんが、体を寄せてくることであった。そうしてお嬢さんの綺麗な手がチョイチョイ私へさわることであった。
||知ってる知ってる知ってるよ······私は事実知っていたのであった。
で、東を向かなかった。
ふん、ぐるだな! 解っているよ!
だが私はこだわらなかった。
平気で体を受けつけた。そうして平気で手も取らせた。
||尽くせよ、勝手に、貴女の媚態を! それで貴女と貴女との仲間が、生活することが出来るなら。······つまりこういう腹であった。
「ええ今日でした、
云いつづけようとしたのである。だが私はベンチから立った。何うやらお嬢さんの
||
||いくら何んだって体面がある。||こうも思ったからである。
||それにさ第一恥しいよ、そいつを公衆に見られてはね。||こうも思ったからである。
||それはさ
「ね、お嬢さん||お嬢さんでしょうね······ひとつ散歩をすることにしましょう」
(
立ち止まった
熊が一匹遊んでいた。ノッソリ、ノッソリ、ノッソリ、ノッソリ。······
並んでもう一つ檻があった。
猿が六匹遊んでいた。ノッソリ、いやいや、そうでは無い。敏活に遊んでいたのである。
猿の檻に並んでタラタラと、
大変悠長ではあったけれど、私とそうしてお嬢さんとは、一々檻を覗いて見た。
一つの檻には
で、これでお終いなのである。
いやいや夫れ等の檻の列と、向かい合った所の反対側に、更に一列の檻があった。
大変悠長ではあったけれど、私達二人は覗いて見た。
一つの檻には二羽の七面鳥! まあまあ是は結構である。
一つの檻にはモルモットが一匹! まあまあこれも我慢しよう!
それに続いてちっちゃい箱が||いやいや矢っ張り檻なのであるが、四つ並んで肩を揃えて、兵隊さんのように立っていた。中に這入っている
「この遊園地の入場者には、兎が大変お気に召すと見える」
だが私は
最後の立派な檻の中に······ナーニ、それとて鳥小屋なのであるが、その鳥小屋に飼われている、
「ニ、
神よ! いやさ、悪魔でも呼ぶよ! そこには家鶏が飼ってあったのである。珍らしくもない普通の家鶏が!
「この遊園地の入場者には、家鶏さえ見世物になるものと見える。
が、すぐ私は後悔した。
札が釣るされていたからである。
「寄贈者、名古屋市東区武平町三丁目、
鶏十五羽、殿村絹子殿」
鳥小屋に釣るされてあったのである。
「ああ
そこで私は改めて、兎だのモルモットだのの檻を見た。
兎の檻にもモルモットの檻にも、寄贈者の名が記してあった。
「みんなみんな寄贈品なのか。いや大変結構だ、いや実際名古屋市には、動物を愛し遊園地を愛する、善良な婦人が多いらしい」
||それに反して俺の奥さんは、俺をすてて、家出をして了った!
「ねえ、お嬢さん」と話しかけた。「コテン、さいさい、アッアッアッ······こう云って家出をしましたので、彼女||私の奥さんですがね。詳しくお話しいたしましょう」
で私は話しつづけた。
だが充分用心して、東の方へ向かなかった。
狙っているということを、ちゃんと知っていたからである。
だが時々
鉛色をした唇の、不良青年が杖をもって、その杖で時々合図をして、つけて来るのを知っていたからだ。
「どうしてああもあっさりと、家出することが出来るものでしょう? まったく私には不思議です。婦人というものは然ういうものでしょうか? もし然ういうものでしたら、私は婦人全体に向かって、拳を振るかもしれませんなあ。いや少くもボタンは締めます。勿論胸のボタンですよ。······そうは云っても婦人というものは、好もしいものでございますなあ。特に私の趣味から云えば、年増の婦人が好もしいので」
ここで私は咏嘆的に云った。
「年増女の美しさは、八月の肌を持っているからだ!」
更に一層歌うように云った。
「ああ小径には凋るる花、残んの芳香を上げている。||で、彼女||奥さんですがね、そういう女だったのでございますよ。結構な美しい婦人だったので」
だが私は考えた。「少し云い過ぎはしないかな? 奥さん讃美が例によって、しつっこくなりはしないかな?」構うものかと思い返えした。「云ってやれ云ってやれ、云ってやれ!」そこで私は
「眼! ね、眼がよかったので! 尤もその眼の美しさに就いては『××××』というヤクザの作で||なァに、立派な作でしたよ、その作で描写したのですから、ここでは細描写ははぶきますが、一口に云うとこうなるので『彼女は其眼を持っていたため、そうして其眼を活用したため、「
と私は憂愁に云った。
「そんなにもよい眼を持っていたので、奥さんは誘惑されたんですよ。彼奴、さよう、不良青年ですが、胸の悪くなる程いつもいつも、奥さんの眼ばかり見ていましたっけ。家畜が主人の眼をうかがい、そうして夫れに媚びるようにね。······で、こうも云えますなあ、奥さんの美しい眼なるものが、不良青年を誘惑し、誘惑された不良青年が、今度は奥さんを誘ったのだと。いやはや、いやはや、相違ありません。誘惑したものは誘惑されますよ」
私は当然意識していた。
非常にお嬢さんが濃艶に、申分の無い
「一体この女は何物だろう?」答えは恐ろしく簡単であった。
「間違いは無い。あの種の女さ」
「何故こんなことをするのだろう?」その答えも簡単であった。「他に何がある、
「だってこんな白昼に?」「白昼だからこそ商売になる」
顔にも姿にも手の指にも、あざやかな輪廓を持っていた。そうして特別に横顔が可かった。(これこそ何より大切なことさ!)
陰影のキッパリした女であった。(だから大概身分は解る!)
依然私はこだわらなかった。彼女の自由になっていた。
とはいえ何うしても東の方へだけは、私は顔を向けなかった。彼等の仲間がいるからであり、それが怖かったからである。
遊動円木、機械体操、廻転箱、また鞦韆、······そういうものの揃っている、小運動場の一画へ来た。
咲きはじめた藤の棚があった。
新樹が夫れらを引っ包み、大切そうに保護していた。
十日前だったら大変だったろう。桜の花を見る人で、ごった返していただろう。潮の引いた後は寂しいものだ。
小運動場から二十歩あるき、またベンチへ引っ返えした。展望台を兼有した、水禽の檻まで来たのである。
「一番ここが可さそうだ」この考えは誤りはあるまい。(お嬢さんのためにも私のためにも、そうして狙っている彼等のためにも)
腰をかけたベンチのもたれを越して、こっそり
ちゃんと背後に立っていた。と、ヒョイと杖を上げた。また合図をしたのらしい。
「どうやら危険は迫ったらしい」
私は
こんな場合に
「まず大丈夫だ、利器はある。こいつさえ旨く用いたら、あべこべに
「『コテン』というのは斯ういう意味なので······」私はお嬢さんへ話し出した。「頭を下げる意味なので、いや
ここで私は憂鬱になった。
「兎にも角にも家出です。重大問題じゃァありませんか。冗談事じゃァありませんよ。だのに奥さんはそんな時にも、それをやって家を出て行ったので『コテン、さいさい、アッアッアッ』······考えざるを得ませんなあ。」
かかわりの無いのは水鳥であった。
水禽小屋の鵞鳥輩であった。
ガッ、ガッ、ガッ! 啼いていやがる。
と、その中の一羽であるが、その長い頸を湾曲させ、嘴を水へ突っ込んだ。ブルブルブル!
と、もう一つが臆面もなく、その長い頸を湾曲させ、嘴を水へ突っ込んだ。同じように水を飛ばせたかと思うと、ヌッと首を高く上げ、ガーッ、ガーッ! 啼き出した。
こんな鈍感な
それを見ている私達であった。私もお嬢さんも黙っていた。で、ひっそりと静である。
何時まで続く静けさであろう?
しかし二人とも黙っていた。
だが何うしたら可いのだろう?
お嬢さんの綺麗な細っこい、その癖その割に力のある、一本の腕が緩く廻わり、私の肩の一方へかかり、私の全身を身近く引き寄せ、そうして一方別の手で私の頬を野蛮に抑え、ねじ向けようとしているのを。
いよいよ危機は迫ったらしい。
「引っこ抜くかな、引っこ抜くかな」
落ちかかろうとするのであった。そのお嬢さんの
ねじ向けられようとしているのであった。私の顔が東の方へ。
だから何うしても利器を抜いて、彼女と彼女の仲間との、姦策なるものを防ぐことによって、私の方が勝たなければならない。
無難に然うして滑らかに、私の
利器||
思う通りの結果となった。
手近の東の方角にある、外濠稲荷の木立の中から、
「おや、何んだ!」
という声がした。
つづいて
「肝腎な所を! 目茶目茶だ!」
鉛色をした唇を持った、不良青年の声である。
肩にかかっていたお嬢さんの手が、ダラリと下ったのは云う迄もない。
「ね、もう可いじゃァありませんか」
お嬢さんの感情を傷付けないように||彼女といえども商売があり、食って行かなければならないのだから、||私は充分
「もうそろそろ日も暮れます。仕事だって出来ないじゃァありませんか」
その時犬の吠声がした。
で、私は展望台を見た。
私の奥さんと情夫とが、互にしっかり抱き合って、展望台に佇んで、私の方を見ているのを、私は平然と眺めやった。
「二兎を射たのさ、何んでもありゃァしまい」
外濠稲荷まで来た時である、帽子を取って挨拶をした。
「キネマ会社の技師諸君、失望したでしょうね、
で、私は遊園地を出た。
「鉛色の唇の先生が、監督なんだから恐れ入るよ。······よく西洋にはあるやつだ、気取った青年へ女優をけしかけ、エロチックの振舞いをさせて置いて、それをこっそりヒルムに撮って、会員だけで見て楽しむ。ふむ、そんな物に引っかかるものか! いやはや、いやはや、日本にも、よくない模倣が現われたものさ。······ダブダブしたズボン、袖の広い上衣、そうして其上トルコ帽、いやはや、いやはや、俺の姿は、うってつけにそれに間に合いそうだ。······そうしてあそこの遊園地! 道具建てだけは出来ていたってものさ」
奥さんが家出から帰って来たのは、其夜ちょとばかり
「見ていたわよ、ひどい貴郎ね。熱があるのよ、抱いて頂戴。コン、コン、コン、······コン、コン!」
ノラが風邪を引いて帰って来た時、もしヘルマアに親切があったら||彼は充分親切者だ||介抱したに相違ない。まして私のノラさんは、新思想に誘惑されることによって私を捨てて行ったのでは無い。「ドン」······私達の飼犬だが、ちいちゃい時に貰って来たので、座敷の上で先ず育て、十
だからさ、介抱する必要はあるよ。
「
こう云ってから考えた。「八月の肌を持った奥さんは、少し今夜は熱っぽいだろうが、しかし恐らく私のために、二倍の音楽を奏するだろうよ」
×
中京喜劇キネマ会社から、手紙の来たのは数日後であった。
「K先生とは少しも存ぜず、とんだ失礼をいたしました。が、フィルムは非常に完全に製作されましてございます。甚だご迷惑とは存じますが、掛けた費用を捨てるも惜しく、公開することに致します。
こういう意味の文面であったが、私はその先を読まなかった。婉曲な
だが私はゴロン棒の意気で、直ぐに皮肉な返辞を出した。ただし文体は紳士的にした。仮面を
「ご自由にご公開なさいますよう。あの美しい女優さんと、この私との接吻の場面を、大写にした筈でございますが、これは失敗なさいました筈で、私の顔が映つる代りに、私の著書が映りました筈で。寧ろ公開は望むところであります。私の名と然うして著書の題とが、大きく映つるのでございますから。それに私は入念に注意し、たしか一度もレンズの方へ顔を向けなかった筈でございます。で、あれが公開されましても、私が私だということは、恐らく誰にも知れますまい。のみならず、公開されることによって、却って私は得をいたします。著書が広告されますので。沢山売れることでございましょう」
||誰が馬鹿らしい金を出して、そんなヒルムなんか買い取るものか。
×
貞淑な奥さんがこの事件以来、一層貞淑になったことは、あまりに当然な事であった。展望台から見ていたのだ。私とお嬢さんとの動作だけは、
奥さんは思ったに相違ない。「まだまだ家の坊やさんは||それは私への愛称であるが||美しい若いお嬢さんに思い付かれる可能性があるわ。油断は出来ない油断は出来ない」と。
「ところであの女優は何うしたろう?」
その後も時々思い出した。
「十九、二十、そんなものだった。
(附記。どうも私はキネマに就 いては殆 ど知識がありません。で恐らく其点で、この作には欠陥がありましょう)