私の
私は誰にも逢わなかった。又逢いたいとも思わなかった。しかし、親友のドン・ムリオだけには逢って見たいような気持がした。
「カスピナに逢うのも悪くはない。私は誰でも構わない。慰めてくれる人が欲しいのだ」
ドン・ムリオの一人の妹、十九のカスピナが久しい前から、私を愛してくれていた。私はそれを知っていた。そして私もその乙女をただ一通りには愛していた。とは云え
冬薔薇の花の
「あら」
と、喜びに張ち切れそうな、カスピナの声が聞えたかと思うと、すぐ其顔は引っ込んだ。
彼女と私とは玄関で間も無く手と手とを握り合った。
「あら、あら、ほんとに帰ったのね。ほんとに帰っていらっしゃったのね」
彼女の声は情熱の為に
「ええええ帰って来ましたとも。この通り帰って来ましたよ」私は彼女の情熱に
「どんなに私待ったでしょう」彼女の声は潤んで来た「お手紙一本くださらなかったのね」
「············」ほんとに
「済まないことをしましたね」私は彼女の髪の毛を優しく指で
「いいえいいえ」とカスピナは、機嫌を直して微笑んだ。「馬鹿なのは私よ、ね、そうでしょう?」
私は返辞が出来なかった。何故かと云うにそう云った時、彼女の処女らしい純潔な眼が、私に謎を掛けたから、その眼は私に斯う云っている「馬鹿なのは私よ、ね、そうでしょう? 私は
どうして返辞が出来ようぞ! 私はいまだにマリア姫を死ぬほど愛しているではないか。
「ムリオは
「ええええ家にいますとも。家にいなくてどうしましょう。兄もどんなにか待ったでしょう」
彼女の声は
ムリオの室の前へ来た時に、どうしたのか彼女は意味あり気に私の顔を見守った。
「兄は大変変りました。何故だか私は知りませんけれど······憂鬱になったのでございますよ。そうかと思うと突発的に陽気になることもございます。熱病病みか
「熱病やみか狂人か?······」私は心で呟いた。それでは此俺と同じでは無いか。一体どうしたと云うのだろう? この快活なムリオめが?
私達は
彼、ムリオは、ああ本当に、何んてまあ変わって了ったんだろう? 彼は
西班牙の夕暮の美しさ! 真昼の暑さは名残り無く消えて、涼しい
古池の方からは
私とムリオとカスピナとは、夜の燈火を灯もそうともせず、ほのかな外光を窓から受けた夢見るような室の中で、極めて静に話し合った。
カスピナが席を外ずした時、私はムリオの手を取った。情熱的に握り
「ね、君、ムリオ、話してくれ給え。どうしてそんなに変わったのだ? ほんとに君は変わったね。何が君をそんなに変えたのだ?」
しかしムリオは黙っていた。空想的の黒い眼を、窓の方へ
「僕達は親友では無かったか」私は
それでも親友と云われるだろうか||最後に云った此言葉が、ムリオの胸に堪えたと見えて、窓に向いていた彼の眼が、私の方へチラリと向いた。眼には涙が溜まっている。そして、其眼には、意外にも嘆願するような気配があった。嘆願するような眼の色が、私を非常に驚かせた。そして私は恐怖と共に一つの危惧が胸に湧き、
「それではムリオ、ああ君もか?······君は誰かを愛しているね?」
「············」ムリオは
「
ムリオの声は次第次第に嘲笑の
彼は床からスックと立って室をあちこち歩き出した。私の答えを待ちながら。
私は彼を眼の前に置いて心の
其時、ムリオは私の前で、ピッタリと停まって腕を組んだ。白い前歯をチラリと見せて、たった其笑い一つだけで人の心を逆上させ、憎悪の為に笑った男を絞め殺してやろうかと思わせる程の、悪意に充ちた微笑をした。果して私は逆上した。私もスックと立ち上った。
「ムリオ!」と私は呼びかけた。「手袋を投げるのはまあ止めよう」
「何故?」とムリオは訊き返えした。
「決闘は紳士の
「で君は
「僕はやらない。何故かというに、君が紳士でないからだ······君は親友を裏切った。それを後悔していない。
「僕は西班牙の青年だよ」
「そして紳士だと云うのかい! が併し僕は認めない。僕は
「犬?」とムリオは進み出た。
「犬と決闘は出来ないじゃ無いか。僕は手袋は投げないだろう。僕は少しく考えよう。そして考えが纏まったらそれこそ犬を殺すように君を一発で殺してやる。よいか、ムリオ、気を付けろよ。君を虐殺してやるからな。正々堂々の決闘など、君に対しては
ムリオの喚くのを背後に聞いて私は彼の室を出た。
カスピナが廊下に立っている。鉛のような蒼い顔! 彼女は立聞をしたらしい。
「ダンチョン!」と彼女は叫び乍ら、私へよろよろと倒れかかった。私は片手で夫れを支え、火をさえ凍らせる冷い眼で彼女の顔を無言で見た。彼女は憐れにも首を垂れ、杭のように其処へ突っ立った。
その横を私はすり抜けて玄関から外へ出たのである。
私は悪夢に
私は今でも夜になると、銀笛の
「見ていらっしゃい。お嬢さん、犯人は他にありますから。屹度私が捕らえて見せます。全然意外の方面にその犯人は居るのですよ······手太鼓の音と山羊の声、たしかにお聞きになったのですね? ところで手太鼓の音に混って鈴の
で、私は少し考えてから、
「そう云えば聞いたようにも思われます。手太鼓の音が、
「時々聞えたと云うのですね?」イバネスさんは斯う云われて
「あの夜は風が吹きましたね?」
「嵐の気味でございました」
「
「矢っ張り時々でございました。それも私はその晩は、山羊が鳴くのだとは思いませんでした。誰か風邪をひいた人でもあって、その人が屋敷を廻わり乍ら||あの、つまり散歩をしながらですね、咳をするのだと斯う思って、気にも掛けずにいたのでした。ところが翌朝になりますと、屋敷の
「あなたの観察はお立派です。恐らく山羊が鳴いたのでしょう······ところが、甚だ御迷惑でしょうが、凶行のあった其晩のことと、その前の日の出来事とを、
「お聞かせ致すどころじゃございません。私幾度でも申しますわ。それにしても本当にマリア様が||あんなにお美しかったマリア様が一晩でお
あの日の夕方、お久しぶりで、ダンチョン様が参られました。ダンチョン様は半年ほど前から、旅行されていたのでございます。突然のお出ででございましたから、どんなに、私は喜びましたでしょう。私はすぐにダンチョン様を兄の室へ御案内いたしました。兄は大変驚きました。そしていくらか不機嫌でした。此処で一寸申し上げたいと思いますが、一体兄は夫の前からずっと不機嫌でございました。
「
「声高に話して居りました」
「どんなことを話して居られました?」
「さあ······」と私は云い淀んだ、それから黙って了いました。どうして其後が云えましょう。あの恐ろしい二人の議論! わけても最後にダンチョン様が兄に向かって云った言葉「ただ一発でぶち殺すのさ!」どうして此言葉が云えましょう。
「ご存知なければ宜うございます。大事なことでもありませんから」
「大事なことではございませんて? それでも警察の人達は······」私はあわてて口を
「ははあ警察の人達は夫れが大事だと云いましたかな。それではあなたから聞こうとして
「何んにも私云いませんでした」
「そこで連中はあなたを捨てて召使を調べたと云うものでしょう」
「ええ其通りでございますわ」
「連中の遣り口はそんなものです。所で獲物があったかしら······が、まあ夫れは
「どんな失敗でございましょう?」
「二人だけ室へ残して置いて、あなたが席を外したのは確に失敗でございますね······だって
私は
「あなたは何うしてそんな事まで······」私は喘ぎ乍ら訊きました、
「私が何うしてそんな事まで知って居るかというのですか? 私は何んにも知りませんでしたが、併し私はたった今、それを知ることが出来ました。そうです、お嬢さんが顔色を変えて、あなたは何うしてそんな事までと如何にも、大事そうに有仰ったので、
「それでも何うしてダンチョン様が、兄に
「ははあ夫れではダンチョン氏が、兄様にそんな事を云いましたか? ただ一発でぶち殺すぞと······ダンチョン氏の方で云ったのですね」
探偵は愛想よく笑いました。
「だってお嬢さん、こんな言葉は、人間が少しく昂奮すると、普通云う平凡な
「存じてはいないだろうと思います。私は一口も申しませんし、召使は兄とダンチョン様とが議論したことを知りませんので」
「それは大変好都合でした。と云うのはダンチョン氏の為にですよ。そんな事でも知ろうものなら、警察の奴等めダンチョン氏を
イバネス探偵は苦笑して、それから改めて訊きました。
「ねえ、お嬢さん、警察では、何の理由でダンチョン氏を拘引したんでございましょうな?」
「それは」と私は
「兄さんは紳士じゃありません! 兄さんは紳士じゃありません!」て。そうすると兄は云いました。「いいや紳士だ。西班牙のな」って。
「兄さんは謝らなければなりません。そうしなければ悪者です」と、私は尚も云い募りました。兄は
「ほんとにお前の云う通りだ。俺はダンチョンに謝罪せねばならぬ。俺の態度は悪かった。これから行って謝まって来よう」
「兄さん!」と私は嬉しさの余り、兄の胸へ飛びついて行きました「兄さんは夫れでこそ紳士です!」
「しかしダンチョンは許すまいよ」不安そうに兄は呟き乍ら、それでも外出の支度をして急いで出かけて行きました。
「ああ、まあ、是で安心だ。これで屹度二人は前通り
そういう
ふっと気が付いて眺めますと、眼の前に立っている
「ダンチョン様とお逢いになって?」
「ダンチョンは
「兄さん
「是か?」と兄は包を見て、「俺も何んだか知らないよ。すぐこの向うの並木まで来ると、小娘がヒョッコリ現われてね。私に金を
兄が包を解きますと、中から笛が出て来ました。しかも立派な銀笛で、それには一面に鳥や獣の不思議な形が彫ってあって、精巧を極めたものでした。
「何んだい、こりゃ! 笛じゃないか。それも
「乞食の小娘から貰ったなんて、いい加減のこと兄さん云ってるわ。どこかで買っていらっしゃったのね」私は笛が
けれど私がそう云っても、兄は矢っ張り今云った言葉を繰り返すばかりでございました。
「これは何んでもボヘミヤ彫りだ。
などと云って兄は一つ一つ
間も無く私は挨拶をして、兄の室を出たのでございます。そして、二つほど室を隔てた自分の寝室へ帰りまして、ベットに寝たのでございます。私は
と、どうでしょう。
そのうち次第に銀笛の音が、弱って来るのに気がつきました。それに反して手太鼓の音は益々高く鳴るのでした。最初は遠くで鳴っていたのが、屋敷をグルグル廻った末、玄関の方へ出た様子で、それが今度は、玄関に近い兄の室の前へ行ったと見えて、弱りに弱った銀笛の音を打ち消すようにハッキリと聞えて来たのでございます。と不意に銀笛の弱り切った音がプッツリと消えたのでございます。すると同時に手太鼓の音も、プッツリと切れて了いました。そして
そして其次に起ったのが
拳銃の音が起るや否や家内中の騒動となりました。どんなに
兄は
其時、母の叫び声が(
「誰でもいいから、此処へ来てさあ此ムリオに触ってごらん! 氷のように冷えてるじゃ無いか! この子は死んでいるのだよ!」
母は卒倒いたしました。父が其時居りさえしたら、どんなにか
私は
驚愕、悲哀のその間にも、私達は取り乱しはしませんでした。私はすぐに警察へ電話を掛けてやりました。私達は検屍の来るうち
間も無く、検事に、予審判事に、警視が二人に巡査が四人に、それから刑事と警察医とが自動車で駈けつけて下さいまして、現場の臨検に取り掛かられました。何より先に兄の屍骸をお調べになったのでございます。何処にも傷は無いのでした。弾傷も太刀傷も注射の痕も。
「
警察医は小首を
「毒でも飲みはしないかね?」一人の警視が訊きました。
「解剖しなければ確かの所は申し上げ兼ねるように思いますが、外見には毒を飲んだ痕跡など何処にも残っては居りません」
「心臓麻痺とでも云うやつかな?」
「さあ」と検医は
それから皆は室の
すると検事が窓硝子の破れた所を指差し乍ら、私にこのように訊きました。
「是は
「いいえ」と私は答えました「昨夜までは破壊れては居りませんでした」
「ははあ」と検事は頷き乍ら「それではお嬢さん、お宅では、夜も此様に窓掛も閉めず、
「いいえ何時もは卸しますけれど、
「うっかりしてと仰有ると、それでは何か兄さんのお身にうっかりしなければならないような、心配事でもございましたので?」
私はしまったと思いました。それでいくらか周章てながら、
「そんな事、私、存じません」と、声をはずませて云いました。
検事は、すると、
「もう一つお訊きしたいのは、昨晩、最後にこの室を、つまり兄さんの室をですね、お出になったのは
「それは私でございます」
「ああお嬢さんでございますか。で夫れは何時頃でございます?」
「午前一時頃だったと思います」
「大相遅かったじゃございませんか。何時もそんなに遅くまでお話しなさるのでございますか?」
「いいえそうじゃございません。けれど昨夜は
「それでは何うか其事情をざっとお話し下さいまし」
私はだんだん問い詰められて、少し
「それではお話し致しますが、兄は昨日の夕方に、友達と議論を致しまして、大変昂奮して居りましたので、私、その晩遅くまで慰めていたのでございます」
「ほほオ、友達と議論をした?」検事は傍に立っていた予審判事と意味ありそうな微笑をチラリと取り換わせました。
「何という名のお友達で?」
「あのドン・ダンチョンという方で、決して
「成程と」検事は
「いいえ私は存知ません」
「そうするとあなたは其席にはいらっしゃらなかったのでございますね?」
「席をはずして居りました」
「それは残念のことでしたな······ところであなた方御兄妹と、ダンチョン氏との関係を、すこしく詳細にお聞きしたいもので」
それで私は、その関係を、出来るだけ
私の話を聞いて了うと、検事は黙って頷きましたが、そこで暫く考えてから、
「それでは、あなたは、何の理由で二人が昨夜争ったか、確に御存知ないのですね······それでは一応召使たちに尋ねて見ることに致しましょう······ところで、もう一つ銀笛ですが、これは兄さんの笛でしょうな?」こう云って検事は左の手に||死んでいる兄が左の手に尚も握っている銀笛を指差し乍ら訊きました。
私は、執つこい尋問に、この時
「ええ是は兄の銀笛です」
「屹度兄さんは是を吹いて、昨夜は遅くまで寝ようともせず、此処に腰掛けて居られたのでしょう。それを、窓外から硝子を破って、ピストルを
「それは確でございます。ピストルの音にでも驚かなければ、家中の者が一
「それにしても、屍骸の何処を見ても弾痕の無いのは不思議ですな」
「それでも兄さんは死んでいます! 死んでいるのが証拠です!」
「それでは、或は、こうかもしれぬ||拳銃の弾は当らなかったが、すぐ耳元で爆発する恐ろしい物音を聞いたので、それで兄さんはハッとして、突然心臓に故障を起し、
「全然無いことでもありません」検医は真面目にこう答えました「勿論、極めて稀ではあるが、前例も幾つかございます」
検事と警察医とのこの言葉を丁度裏書でもするように、
「何だ?」と検事が訊きました。
「拳銃の弾でございます」
「見せろ」と検事は刑事の手から拳銃の弾を取りました。
「成程、これは拳銃の弾だ、それでは、お嬢さんの仰有る通り、何者か外からこの室を眼がけて拳銃を
斯う云って検事は先に立って、庭の方へ
窓の下は花壇でございます。私、先刻も申した通り、花壇は荒らされて居りました。百合や鳳仙花や水葵や、
一番私達を驚かせたのは、其辺一面に靴の跡が、着いていることでございます。それは大変上品な華奢な靴跡でございました。刑事の一人は其靴跡を直ぐに手帳に写しました。そして
「いくら何んでも、まさか山羊が、ピストルを放つことは出来ないだろう」
判事の洒落で誰も彼もみんな笑い出して了いました。
それから皆は
「おや、手袋が落ちている」
もう一人の刑事が腰をかがめ、冬薔薇の
「これは結構な手がかりだ」検事は云い云いその手袋を、傍の判事へ示しました。
こうして人達は家の
やがて皆は
みんなは黙って居りました。誰も一
私は母が心配なので(母は卒倒をして以来、自分の寝間へ閉じ籠って、誰の質問にも応じようともせず、唯泣くばかりでございました)一度様子を尋ねようと、兄の室を出ようと致しました。
すると廊下に足音がして突然姿を現わしたのはダンチョン様でございます。ああ其時のダンチョン様の不思議な物凄い顔と云ったら!
「私が犯人でございます。この手をお縛り下さいまし」両手を前へ突き出しました。
俄に室はざわめき出しました。判事はそれを制し乍ら、
「失礼ですがお名前は?」
「インセント、ドン、ダンチョンです」
「ははあ
それから忽ち兄の室は仮予審場に変わりました。
「自分で犯人だと仰有るからには、それだけの理由がございましょう。それはどういう理由ですか?」
「理由は至極簡単です。ムリオに怨みがありましたので、昨晩庭先まで忍んで参り、拳銃一発で放ち倒しました」
「確に殺したとお思いですか?」
ダンチョン様はそう云われると、驚いたような表情をして、
「確に殺したと思います。その証拠にはこの通りムリオは死んで居るのですから······
「半信半疑でいた訳は?」
「その訳は、あんまり奇怪なので······」
「奇怪! 奇怪とは何う奇怪です?」
「それを私が申し上げても、恐らく御信用なさいますまい······」
「信用するしないは別として是非それを聞かせていただきましょう」
「それほど仰有るなら申し上げますが、私はムリオを射つ代りに妖怪を射ったように思いましたので」
室の中は再びざわめきました。
「ほほオ、妖怪? 妖怪とは?」
「胴から上は人間ですが胴から下は動物という、そういう妖怪でございます」
「その妖怪がどうしました?」
「その妖怪が
「それを放ったと有仰るので? その時あなたは何処にいました?」
「冬薔薇の蔭に居りました」
「妖怪、妖怪、妖怪を放った?」
判事は検事と眼を見合わせ、そんな事は信じられないというように、苦笑を
それから尚も訊問は
地面に残っていた靴の跡。ダンチョン様の靴跡と少しも違いがありませんでした。冬薔薇の中から見出された黄色い鹿皮の手袋の一つ。もう一つの手袋はダンチョン様のズボンのかくしから出て来ました。額縁から出た拳銃の弾。それも矢っ張りダンチョン様の拳銃の弾でありました。
それで
「それですっかり解りました。誠に有難うございました」
イバネス探偵は、私の話を、熱心に聞いて居りましたが、この時叮寧に斯う云われました。
「それですっかり解りました。そうです、すっかり、何も彼も······が併し、お嬢さま、それにしても、どうしてお嬢様は銀笛をマリア姫に上げたのでございます?」
「あああの銀笛でございますか。これという訳もございません。あれを形見にしたいから是非くれとマリア様が仰有ったので差し上げたまででございます」
「それが大変な失敗でした」
「それは又
イバネスさんは苦々しそうに、私の顔を見ただけで、説明しようともなさいません。それで暫く私達は、黙って見合って居りました。
「ところでお嬢様、お兄様の古い日記がございますか?」
イバネスさんは何と思ったか、俄にこんなことを訊きました。
「ええ
「是非それを拝見したいもので······大変重大の事ですから······」
「それでは持って参りましょう」
私は兄の書斎へ行って古い日記を探がしました。そして納戸の奥の方で絹紐で縛った日記の束を発見することが出来ました。
「これで全部でございますわ」私が斯う云って其日記をイバネスさんへ渡しますと、イバネスさんは礼を云って、貪るように読み出しました。
そこで私はイバネスさんの丁度正面へ陣取って、イバネスさんの顔色から何かを知ろうと決心して、イバネスさんの顔ばかりを熱心に見詰めて居りました。
イバネスさんは読んで行く。私は熱心に見詰めている。こうして無言の重苦しい時が、恐ろしく長く経ちました。忽ち冷静だったイバネスさんの眼が、焔のように燃えました。が、それもほんの一刹那で、石のように堅い其顔は、再び冷静に立ち返りました。
「これで充分でございます。誠にお手数を掛けました」イバネスさんは立ち上って別れの挨拶をいたしました。私はすぐにマドリッドを発って旅へ出ようと思います、犯人を追い込んで行くのです。見ていらっしゃい、お嬢さん、犯人は他に居りますから。屹度私が捕らえて見せます。
探偵は室から出て行きました。
そして夫れっきりイバネスさんは私に姿を見せないのです。このマドリッドには居ないのでしょう。恐らく旅に居るのでしょう。
犯人はどうなって居るのでしょう? 捕らないに違いない。いつになったらダンチョン様は青天白日の身になられるのでしょう?
イバネスさんのお手紙が待遠しくて仕方が無い!
(ムリオの妹カスピナに与えた、私立探偵イバネスの手紙)
親愛なるお嬢様(こう呼びかけるのをお許し下さい)何より先にこの私はお喜びを申し上げなければなりません。何故かと申しますに、犯人が、とうとう見つかったからでございます。そうです
で、犯人は何者かと、性急にお嬢様はお訊ねでしょう? それはご尤でございます。しかし私は、順を追って、申し上げたいと思います。どうしてと申しますに、その犯人を、今すぐあなたに申し上げましても、お信じ下さるまいと思いますので。
あの日お嬢様とお別れすると、私は家へ
私が真先に尋ねたのは、
「ドニメ」と私は
「ボヘミヤの奴等? 知りましねえ」ドニメはとぼけて云うのでした。
「何、知らねえと、嘘云うな? 貴様がそういう心なら、俺にも少し覚悟がある。ドニメお前は三月ほど前に、女の子を
「旦那に逢っちゃ敵わねえ。へえへえ何んでも申します」
ドニメは私の
「ボヘミアの奴等でございますか。ええと、彼奴等、問わず語りに、アンダルシア地方へ行くなんて、こんな事云って居りましたよ」
「ほほオ、偉い方へ行ったんだな······それで何うだい、え、ドニメ、美しい娘達もいたろうな?」
「ボヘミアの娘達と来やがったら、どれもこれも像のように綺麗ですよ||ええと、その中、何んと云ったかな? そうそう一人ゴッサンという素晴らしい娘が居りましたぜ。そいつぁ本当に綺麗でした。マドリッドの侯爵の姫君だって、とても敵やあしませんな」
「よしよしそれでもう結構だ」私はズボンのかくしから銀貨を一掴み掴み出してテーブルの上へ投げ出してから、ドニメの家を飛び出しました。
そして直ちにアンダルシア指して発足したのでございます。
ご承知の通りアンダルシアは
或日私は其
巨大な大理石の円柱だの、
内陣の正面まで来た時に、そこの
「しめた!」と私は思いました「あいつらの連中の一人だろう」
それで私は何処までも其女の後をつけてやろうと、このように決心いたしました。
やがて小娘は立ち上がって、寺院の外へ出て行くので、私は後を追いました。娘は市中へは
間も無く小村へ差しかかりましたが、娘は村へは這入らずに、その横を通って鬱蒼とした椰子の林へ入り込みました。
すると
こうして遂々探がしあぐんだボヘミア人の一行を、その林で私は見つけたのです、彼等は同勢三十人ほどで、男はいずれも馬皮の帽子を頭に冠って居りました。そして馬乳を一杯に入れたニッケルの筒を藤蔓で脇の下に下げて居りました。
「いよう兄弟」と声をかけて、私は少しも恐れずに彼等の方へ近寄りました。
「いよう何うしたはぐれ鳥め、
「俺を仲間に入れてくんな」
「いいとも一緒に行くがいい。馬乳で産湯を使った身だ(彼等の諺)」
こんな具合で訳も無く彼等の仲間に這入りました。
彼等は獣皮の
間も無く夜になりました。
彼等の中に混り乍ら、私は夕飯をたべました。それから外へ出て見ました。あちこちに天幕が張ってある。一天幕が一家族で、
私は天幕を一つ一つ端から覗いて行きました。
と、或天幕の前まで来ると、中から微妙な銀笛の音が、聞えて来るのに気がつきました。
私はショックを感じ乍ら、その天幕の前に立って、いつ迄も動こうとはしませんでした。やがて私は決心して、このように言葉を掛けました。
「ゴッサン、少し用がある。一寸天幕から出ておいで」
「誰?」と美しい娘の声。
「私はマドリッドから来た者だが······お前、ムリオを知ってるかい?」
「············」
忽、天幕の裾の方が、浪うつ様に飜めくや否や、一人の娘が猫のようにヒラリと飛び出して参りました。
私と娘とは無言のまま、人眼に付かない林の奥へ並んで歩いて行きました。間も無く林が途切れまして空の明るい月光が、一面に地面へ散り敷いた美しい空地へ出ましたので、二人とも切株へ腰をかけ、明日は雨でも降ると見えて、
突然、彼女は云いました。
「それじゃ、あなたは、その筋の方ね?」
「いいや、そういう訳でも無い······つまり私立の探偵なのさ」
彼女は沈黙を重ねました。
「あなたは腕のある探偵さんね」彼女は俄に笑い出して、
「どうして、あなたに解ったでしょうね? 私の仕業だっていうことが」
「二つ証拠があったからさ||特に大事な証拠というのは、銀笛の歌口に塗りつけてあった、トプシンという毒薬さ||あのトプシンはお前達のような、ジプシイでなければ其製法を、断じて知ることが出来ない筈だ。そしてもう一つの証拠というのは、ムリオが断末魔の其間中、鳴っていたという手太鼓の音だ||怨みのある奴を殺す時、その人間の苦しむ間中、鈴の付いた手太鼓を打ち乍ら、
「ほんとに
「そして私、ムリオの
「ところで並木道に立っていて、ムリオへ笛を渡したという、少女というのもお前だろう?」
「そうよ、矢っ張り私だわ。顔をすっかり布で包み、声の調子を変えていたので、それであの人、気がつかなかったのよ······大変あわててもいたようだし」
「そこで、ゴッサン」と重々しい声で、私は真面目に尋ねました。「そこでゴッサンは何の理由で、罪も無いムリオを殺したのか?」
「罪も無いムリオを殺したかって? 罪があるから殺したのよ! そうよ、私を裏切ったからよ!」
ゴッサンの声は泣くような、
「ほほオ、お前を裏切った? それは一体どういう訳だ?」私は突っ込んで行きました。
するとゴッサンは次のような、可哀そうな話を致しました。
「あの人は私を裏切りました。そうです、あの人はこの私を、見事に裏切ったのでございますわ。ですから私、あの人を、自分の手で殺したのでございます。人を裏切るということが、どれだけ悪いことかということを、思い知らせたのでございます······そうです、あれは一昨年の、しかも五月でございました。私初めてあの人と、マドリッドの画廊で逢いました。それは大変よく晴れた美しい夕方でございました。私はその日何気無しに、画堂へ行ったのでございますわ。私達のようなジプシイでも、絵の美しさは存じても居るし、時々は見たいとも思います、で私、その日、ただ一人で、見廻わっていたのでございます。卵色の
それで私はコブラの絵を何時迄も眺めて居りました。フッと其時気がついて見ると、私の横に先刻から
これが私とムリオとの最初の会見でございました。執念く私を見ていたのが、本人のムリオでございまして、もう一人の人はお友達のダンチョンという人だったのでございます。
その日はそれだけで何事も無く、仲間の方へ私は帰えりました。
其時は丁度私達が、マドリッドの郊外にいた時で、夜はコソコソ男達は、町の方へ掠奪に出て行きますし、昼間は天幕を開放して、其処で私達女ばかりが、山羊を使って曲芸をして、お金と暇のある町の人からお金を搾っていた時でした。
それで翌日、芸をするため、何気無く舞台へ出ましたところ、すぐ眼の前に昨日の人が||つまりムリオでございますわ||ムリオが椅子に腰かけ乍ら、大きく見開いた黒い眼で、例のように恐ろしく執念深く、私を見ているではありませんか、私はドキリと致しました。けれども其日の芸当はどうにも旨く行きませんでした。
翌日、舞台へ出て見ますと、矢っ張りムリオが居るのでした。執念ぶかい眼付をして。その又翌日、出て見ますと、矢っ張りムリオは居るのです。こうして幾日も幾日も、ムリオの姿は舞台前の椅子に坐って居るのでした。
『何故あの人は執念深く私をあんなに見るのだろう? 何故あの人は、面白くも無い山羊の曲芸など倦きもせず、毎日毎日見に来るのだろう?』しかし、私は、知っていました。何故ああ私を見詰めるのか、何故こう曲芸を見に来るのか、理由を私は知っていました。
『私以外の娘だったら、
『しかし私はそんな事を、あの人に
それで私は、私の心を||ムリオに対する恋心を、これ以上燃やしては危険だと、このように思いまして夫れからは、成る丈けムリオに逢うまいとして、舞台へも出ないように心掛けました。
しかし夫れさえ無駄でした。私達の仲間にピトンという
その室へ私を押し入れると、ピトンは逃げて行って了いました。私とムリオとはたった二人で向い合ったのでございますわ。
するとムリオは云いました。
『死ぬほどお前を愛している』って。私は黙って居りました。いつまでも何時迄も意地悪く黙っていたのでございますわ。併しムリオは諦めもせず、私の前へ跪いたり、そうかと思うと嚇したり、それこそ泣いたり喚いたりして、私を口説いたのでございますわ。
それで私は何うしたでしょう? 遂々私はムリオのために口説き落されたのでございます。それは其筈でございますわ、私は、今も申したように、あの人を愛していたのですもの。
けれど、私はそれ前に、ムリオに一つ誓わせました。私は其時から云ったのです。
『ムリオ、私は今すぐにも、お前さんの云う通りになるけれど、それ前に一つ誓っておくれ。今度また二人逢う時まで、誰も他の人を愛さないって事を』
するとムリオは名誉にかけて、それを誓ったのでございます。
『ムリオ』と私は復云いました。『お前さんが誓を破ったが最後、
するとムリオは微笑して、夫れも承知だと云いました。
そこで、私は、納得して、ムリオの云うままになりました。私達は大変幸福でした。両方で愛し合っていたのですもの、けれど私達の幸福はほんの短かい間でした。どうしてと云うに夫れから間も無く、私達の仲間が其土地を離れて
私もムリオも泣き乍ら、此次ふたたび逢う時まで、決して他の人は愛さないと、改めて誓を結び合って涙ながら別れたのでございます。
私達の仲間はそれからずっと、二年ほど放浪をつづけました。そして二年目の
ところが、どうでしょう、ああムリオは、私と誓った誓を破って、私以外の他の女を愛しているではございませんか!
その時はじめて私の心に殺意が起ったのでございます!
『ジプシイ女の咒詛というものが、どれほど恐ろしいか
そうです、ほんとに、其時はじめて、私の心に此恐ろしい殺意が起ったのでございます。そして私はその殺意を実行したのでございます······」
それは兎に角、可哀そうなのはゴッサンの身の上でございます。ゴッサンは自殺を致しました。
それは又どうして? とお嬢様は
つまりゴッサンはムリオ様だけを、殺そうと思っていたのです。それが意外にももう一人の人(マリア姫のことでございますが)を、自分が手こそ下さないが、ムリオ様を殺した同じ笛で、殺して了ったということを、大変悲しんで居りました上に、殺人の嫌疑が、罪も無い、ダンチョン氏に懸かったということを、気の毒がって居りました。それにもう一つ、この私が、ダンチョン氏の嫌疑を晴らそうため、ゴッサンを捕らえてマドリッド市へ護送しようと思っていた心を、彼女が早くも観破して、それを嫌ったのとが一緒になり、彼女の良心を刺戟して、自殺の覚悟をさせたのでした。
其夜、私とゴッサンとは、そうやって切株へ腰をかけて、いろいろ話をした末に、一先別れたのでございます。帰る時彼女が云いました。「今夜一晩だけ銀笛を私に貸して下さいな」「これか」と私は云い乍ら、手に持っていた
その笛を貸せと云うのです。
私はうっかり貸しました。まさか彼女が其笛を吹いて、ムリオ様やマリア姫と同じように、歌口に着いている毒薬のために、自殺するつもりであろうなどとは、夢にも思わなかったからでした。
ところが、其夜、夜が更けて、人々がみんな寝静まった時、ゴッサンの天幕から微妙な音色が、聞えて来るではございませんか。そして間も無く其音色が、糸のように細くなりました。
何という私は馬鹿者でしょう! 微妙な銀笛の其音色が、そうやって糸のように細くなり
「しまった!」と私は思いました。しかし決して
そうです、それは明かでした。翌朝、彼女の天幕の中に、どこにも傷の無い屍骸となって果して