一
風がまだ冷たいが、もう、すっかり春の気候で、湖水は青い空をうつして、ゆったりとくつろいでいる。
キャラコさんは、むずかしい顔をして、遊覧船の
キャラコさんは、半月ほど前から、
キャラコさんは、早く家へ帰って家事の手伝いをしたり、ピアノのおさらいをしたり、今までどおりキチンとした生活をしたいのだが、千万長者の相続人になったばかりに、窮屈な思いをしてこんなところに隠れていなくてはならない。本当の名を名乗ることさえできないのである。
こんな淋しい山奥に年ごろの娘がたったひとりでのっそりしているのは、ずいぶん奇妙に見えるにちがいない。キャラコさんは
キャラコさんに、父の長六閣下から、手紙で、当分のあいだ、家へ帰ることはまかりならぬと申し渡された。
······当分本名を名乗ることはならぬ。名前をいう必要がある時はキャラコとだけいいなさい。それから、当分の間、いっさい新聞雑誌を読んではならぬ。友人のところへ手紙を出してはならぬ。右、命令す。
父
ならぬ、ならぬ、ならぬ、||長六閣下の
青天のへきれきである。どういう理由でこんな眼に逢わなければならないのか、いくら考えても思いあたることはなかった。
二三日たってから、キャラコさんが当惑しているだろうと察して、秋作氏がくわしい便りをよこしてくれた。
キャラコさんは何も知らなかったが、そのころ、東京ではたいへんな騒ぎがもちあがっていたのである。キャラコさんの居どころをつきとめようとして、東京中の新聞社の自動車が社旗をヒラヒラさせながら狂気のように走り廻っていた。
ひところは、世界の
どんなことがあっても『キャラコさん』をつかまえて、ひと言でもいいからしゃべらせろ。捕まえたらかまわないから、
まるで、殺人犯人でも追いつめるようないきおいで狂奔したが、キャラコさんはおろか、写真さえ手に入らない。長六閣下の機敏な統制と
キャラコさんは、ここへ来る途中、小田原の駅でこの
キャラコさんは、何が起きたのだろうと思って、ちょっと足をとめて眺めてから、そのそばを通って電車の停留所のほうへ歩いて行った。
······お前は競馬馬ではないのだから、下劣な関心の対象にするわけにはゆかない、という長六閣下の意見には、俺も賛成である。そんなわけだから、当分お前はお前でないことにして置きなさい。
長六閣下は、あの四千万円を、日本のためになるようにお前に使わせたいといっている。最も意義あるようにあの金を使うために、すこし世間を見て置くのもいいだろう。旅行をするなり、働くなり、この機会を利用してできるだけいろいろ経験をつみなさい。閣下も希望している。
つまらぬ財産をもらったばかりに、こんなよけいな苦労をしなくてはならぬことは、さてさてお前もふびんなやつだ。
長六閣下は、あの四千万円を、日本のためになるようにお前に使わせたいといっている。最も意義あるようにあの金を使うために、すこし世間を見て置くのもいいだろう。旅行をするなり、働くなり、この機会を利用してできるだけいろいろ経験をつみなさい。閣下も希望している。
つまらぬ財産をもらったばかりに、こんなよけいな苦労をしなくてはならぬことは、さてさてお前もふびんなやつだ。
秋作
キャラコさんのほうは、財産を相続したことなどは、すっかり忘れていたといっても決して嘘にはならない。人形でももらうほどに気軽にもらってしまったが、それもなにか
ところで、この手紙を読むと、四千万円という金が、とつぜん、ひどい重みで自分の肩にのしかかってくるような気がする。
あたしがあの四千万円を使う? 考えただけでも気が重くなる。なにしろ、キャラコさんは、いままで自分の手から二円以上の金を使ったことがないのに、それが、四千万円ということになると途方に暮れるほかはない。
キャラコさんは、思わずためいきをついた。
「たいへんだわ、死ぬまで、金をつかうことに、あくせくしなければならないとすると······」
金をもつことは、不幸のはじまりだということの意味がわかるような気がする。じじつ、あんな遺産などをもらわなければ、こんなところで肩身を狭くしていることもいらないし、世間へ金の使いみちを探しに出かけることもいらない。そう思うと、キャラコさんは、なんだか山本氏がうらめしくなってきた。
キャラコさんは、いつまでたってもうごかない
二
佐伯氏は
傷痍軍人といっても、

そういえば、なるほど顔色は陽にやけて黒く、歩きぶりにもどこか軍隊式なところが残っている。肩も腰も頑丈で、この肉体がどんな
黒い大きな眼鏡で顔が半分以上隠されているが、鼻も口もきりっとしまっていて、学者とでもいったような、奥深い、理智的な印象を与えるのに、声は低く細く、いつもふるえるような調子をおびていた。極めて理性的なものと、極めて感情的なものと、まるっきり矛盾した二つの性格がひとつの肉体の中におさまっているような感じだった。
佐伯氏の兄妹は五日ほど前の夕方ここへやってきた。宿のひとのはなしでは、佐伯氏はここへ点字の勉強に来たのだそうだった。まだ春が浅く、それにこんな淋しいところなので
佐伯氏は、
どちらも静かなひとたちで、ときどき、佐伯氏に本を読んできかせるらしい茜さんの澄んだきれいな声がきこえるほか、一日じゅう、ひっそりとくらしていて、部屋の
佐伯さんは、まいにち三時ごろになると散歩に出て、湖のそばでフリュートを吹く。まだ習いはじめだとみえ、とぎれとぎれで、なんとなく悲しげだった。茜さんのほうは、めったに部屋からも出て来ない。たまに廊下などですれ違うと、
キャラコさんは、はじめての日、湖畔から宿のほうへ曲り込むわかれみちのところで佐伯氏に逢った。
佐伯氏は、道からそれた
キャラコさんは、すぐ、眼の悪いひとなのだと気がついて、佐伯氏をていねいに道まで連れ戻し、そのままそろそろと宿のほうへ手をひいて行こうとすると、佐伯氏は、とつぜん、邪険な仕方でキャラコさんの手をふり切って、毒々しい口調で叫んだ。
「いいから、独りで歩かしてください。これから毎日散歩に来なくてはならないのだから、道に馴れておこうと思ってやって来たところなんです。おせっかいはごめんだ」
黒い眼鏡だけのような顔を、キャラコさんのほうへふり向けると、
「······もっとも、一生私の手をひいて下さるというなら別ですがね。たった一度くらい世話してもらったってなんにもなりゃしない」
そして、空うそぶくようにして、は、は、は、と笑った。
すこし、ひどいいい方だったが、キャラコさんは気にもかけずに、
「でも、ここはひどい石ころ道で、とても危ないのよ。······それに、陽もくれて来ましたし······」
佐伯氏は、ふん、と鼻を鳴らして、
「陽も暮れて来たし······か。私にとってはどっちみち同じこってすよ、お嬢さん。はじめっからまっ暗なんだから。······まあ、放っておいてください。私はめくらだが、あまりめくら扱いにされるのは好きじゃないんです」
キャラコさんは、すこし悲しくなってきた。しかし、自分があまりうるさくしたのがいけなかったのだと思いかえして、いわれた通りに佐伯氏の腕から手をのけた。
佐伯氏はステッキで道をさぐりながら、危なっかしい足つきで歩いてゆく。道がわからなくなると、
キャラコさんは心配でたまらないので、すこしあとからついて行くと、佐伯氏はキャラコさんのほうをふりかえって、
「君はどこか別な道から帰れないの。うるさいから、ついてこないでくれたまえ」
と、イライラした声で、投げつけるように叫んだ。
キャラコさんは、
「ええ」
と、素直にそう返事をして、しばらく立ちどまってから、ずっと離れて見え隠れに宿の入口まで送って行った。
宿へかえると、キャラコさんは、机に向って日記を書きはじめた。
キャラコの失敗
私は不幸なひとを見ると、すぐ感動してしまう。
きょう、私は夢中になりすぎて、不幸なひとをいら立たせた。
他人の不幸に感情だけで同感するということ。||ことに、衝動的な親切などは何の意味もなさない。私は、私の薄っぺらな同情を佐伯氏に見ぬかれてしまった。
それは、······
私は不幸なひとを見ると、すぐ感動してしまう。
きょう、私は夢中になりすぎて、不幸なひとをいら立たせた。
他人の不幸に感情だけで同感するということ。||ことに、衝動的な親切などは何の意味もなさない。私は、私の薄っぺらな同情を佐伯氏に見ぬかれてしまった。
それは、······
ここで、急にペンが動かなくなった。
キャラコさんは、にがにがしい顔をして長い間ペン軸を
つまり、私が、おっちょこちょいだから······。なってないわね。······よく覚えておきなさい。他人 に同情するなどというのは、けっして容易 いわざでないということを。いい加減な同情などは、これからつつしまなくては。
キャラコさんは、寝床へはいってから、いつまでも大きな眼をあいて天井をながめていた。
気持が沈んで、ひどくメランコリックになっている。なんだかもの足りない。あの不幸なひとにやさしくしてあげることができないというのは、なんというさびしいことだろう。
アッシュのステッキをついて、そろそろと足さぐりして歩いている佐伯氏のわびしそうな姿が眼にうかぶ。
佐伯氏は、石ころだらけのゆるい坂道を虫のはうように歩いて行く。杖のさきで長い間道の上をたたく。いよいよ大丈夫だと見極めがつくと、おずおずと右足を伸ばす。また杖で道をさぐる。それから、ようやく左足が出てゆく。
なんて、はかばかしくないんだろうと思って、キャラコさんのほうで、ジリジリしてくる。がっかりしたような声をだす。
「とても、見てはいられないわ」
佐伯氏は、まだのそのそやっている。あまりひどい骨折りなので、すぐ疲れてしまうらしい。四、五歩あるいては立ちどまって汗をふく。それからまた元気を出してやりだす。
ところで、休んでいるうちに方角がわからなくなったとみえて、道を
キャラコさんの胸が
「あら、危ない! ······ほうら、とうとう落っこっちゃった」
自分の声ではッと気がついて赤い顔をする。てれくさくなって、枕の上で頭をまわす。
キャラコさんの耳に、毒々しい佐伯氏の声がきこえる。
(うるさいから、放っておいてくれたまえ! めくら扱いにされるのはごめんだよ)
たしかに、ひどすぎるいい方だ。
キャラコさんは、こんな事をかんがえながら、一方では、穴ぼこのなかからやさしく佐伯氏を助け起こしている。
どんなに腹を立てようと思っても、どうしても思うようにならない。
キャラコさんは、幻想を払いのけるために、えへん、と大きな咳払いをする。
「こんなことじゃしようがないわ」
自分があまり
「むやみにひとに同情しやすくて困るわね。だから、みなあたしのことを馬鹿だと思っている。もう、十九にもなったんだから、そろそろこんな性質にうち勝たなくては!」
キャラコさんは、額に
「ともかく、もっと強い意志を持つことだわ! あんな意地の悪いひとなど放っておけばいい」
これで、ようやく安心する。枕を置き直して眼をつぶる。
間もなく眠くなってきた。
キャラコさんは、うつらうつらした
三
次の日の夕方、いつものように
またうるさがらせてはいけないと思って、猫のように足音を忍ばせながら、そっといま来たほうへ帰りかけると、とつぜん、佐伯氏が声をかけた。
「ああ、きのうのお嬢さんですね」
キャラコさんは、ギョッとして立ちどまった。
「ええそうよ······。あたし、あちらへまいりますわ。お邪魔してはいけませんから······」
佐伯氏は、あわてたように身体を起こすと、
「邪魔だなんて、······よかったら、······すこし、話して行ってください」
そういって、狭い
とげとげしたところはなく、今日はたいへん静かな口調だった。
「でも、あなたひとりでいらっしゃるほうがお好きなんでしょう。気がつかないでこんなほうへやって来てしまって······。あたし、やはり、あちらへまいりますわ」
佐伯氏は、唇のはしに神経質な微笑をうかべながら、
「そんなに気をつかってくださらなくとも結構ですよ。······でも、あたしのようなものとお話になるのがおいやなのなら······」
キャラコさんが、あわてだす。
「あら、そんなことありませんわ。いやだなんて······。あたしは、ただ、お邪魔してはいけないと思っただけなの。······お差しつかえなかったらここへ坐ってよ」
へどもどしながらそばへ並んで坐ると、佐伯氏は
「きのうはずいぶん失礼なことを申しました。どうか、ゆるしてください。疲れてイライラしていたせいなんです。······おわかりになりますまいが、こんな不自由な身体で長い旅行をすると、思うようにゆかないことが多くて、ついいら立ってしまうのです」
「どんなにかご不自由なことでしょうね、お察ししますわ」
「有難う。······感のわるいところへ持ってきて、すこしわがままなもんだから、なんでもないことにすぐ腹を立ててしまうのです。結局、自分の損なんだけど······」
「まだお馴れならないせいもあるでしょうし······」
「そうですよ、なにしろ、俄かめくらでね」
「そんな意味でいったのではありませんわ」
「気になさらないでください。どうしてでしょうかね、つい、こんな口調になってしまうのです。······眼が見えなくなったという事実にたいしては、すこしも遺憾はないのですが、日常の直接なことにあまり不便が多すぎるので、じぶんで始末がつかなくなってしまうのです」
キャラコさんは、だまって佐伯氏の顔をながめていた。それにしても、あの
キャラコさんは、すこし腹が立ってきた。······しかし、なにか事情のあることか知れないし、自分が差し出るような性質のことではないので、そのことには触れなかった。
佐伯氏は、しばらく黙り込んでいたが、ふいにキャラコさんのほうへ顔を向けると、
「それにしても、あなたは、いったい、どういう方なのですか、お嬢さん?······声のようすだとたぶん、十九ぐらい······」
キャラコさんが、笑いだす。
「当りましたわ。······あたし、十九よ」
「ずっと、ここにおいでなのですか」
「ちょうど、半月になりますわ」
「失礼ですが、どなたと?」
「あたし、ひとり」
佐伯氏は、驚いたように、ほう、といって、
「どこかお悪いの?」
キャラコさんが、すこし、あかい顔をする。
「いいえ、ただ、こんなふうにしていますの。······妙でしょう。あたしも、妙でしょうがないのよ。あたしのような若い娘が、たったひとりでこんなところにブラブラしているなんて、あまりほめた話でありませんけど、すこしわけがあって、もうすこしの間こんなことをしていなくてはならないの。でも、そのわけは申しあげられませんわ」
佐伯氏が、つぶやくような声でいった。
「だれにだって、事情はあるもんだから······」
「でもね、あたし、悪い人間でないことだけはたしかよ」
キャラコさんがそういうと、佐伯氏は、低い声で笑いだした。
「誰がそんなふうに思うもんですか。それどころか、あなたのような親切なお嬢さんに逢ったのははじめてです」
「おや、どうしてでしょう」
「いえ、ちゃんと知ってますよ。······私があんなひどいことをいったのに、それにもかかわらず、あなたは心配して、とうとう宿の入口まで送ってくださいましたね。······ほんとうに、有難かった。······言葉では、ちょっといい現わしきれないほどです」
キャラコさんが、やさしく抗議した。
「あんなのが親切というのでしょうか。あなたをうるさがらせただけですわ。あたし、差し出がましいまねをしたばかりに、あんなにあなたをいら立たせてしまって申し訳ないと思っていましたの。あたし、出しゃばりで、ほんとうにいけないのよ」
「親切だといっていけなければ、たいへんに心の深いお嬢さんだと申しあげましょう。······あなたは私の歩く道の石ころをみなとり
キャラコさんは、閉口して黙り込んでしまった。
「······それから、
「············」
「私は、その音をたよりに、迷わずに湖水のほうへ出てゆけるのです。帰るときも、またその通り、わき道へはいり込まずにすみます」
佐伯氏は、深い感動のこもった声で、
「······昨日まであんなものはありませんでした。······お嬢さん、あなたがしてくだすったのですね」
佐伯氏の口調が、あまり切実なので、キャラコさんは度を失って、思わずうつ向いてしまった。
「あなたが、してくだすったのですね?」
「············」
「返事をしてくださらなくとも結構です。······あなたのような優しい方でなくて、誰れがあんなことをしてくれるでしょう。有難う、お嬢さん······」
佐伯氏は、とつぜん、眼ざましいほどに昂奮して、
「ありがとう、ありがとう。······このありふれた言葉を、私が、いま、どんな深い感情で叫んでいるか、とてもあなたにはおわかりにならないでしょう。······しかし、いつか、それがおわかりになる時が来たら、あなたが、なんの気なしにしてくだすった親切が、ひとりの男の人生に、どんなたいへんな影響をあたえたか、きっと了解なさるでしょう。······これだけ言ったのでは、なんのことだかおわかりになりますまいけど、あなたの親切のおかげで、いままで知らなかった新しい高い世界が、とつぜん私の前にひらかれたような気がしているのです。······ほんとうに、思いもかけなかった新しい世界が······」
そういうと、唇をふるわせながら、急に言葉をきってしまった。
佐伯氏は、戦場でいろいろ痛烈な経験をしたので、それで、なんでもないことに感じやすくなっているのに違いない。キャラコさんは、佐伯氏の感情を乱してはいけないと考えて、できるだけしずかにしていた。
しばらくすると、佐伯氏は
キャラコさんが、たずねた。
「なんだか悲しそうな曲ですね。それは、なんという名の曲?」
佐伯氏は、人がちがったような落ち着いたようすで、キャラコさんのほうへ向きかえりながら、
「これは、フランスの十七世紀ごろの古い舞踏曲で、『罪のあがない』という標題がついているんです。······舞踏曲にしては妙な名ですね。どんな意味なのか私にもわからない。でも、なんとなく好きで、こればかり吹いているんです。······それはそうと、私は、さっきから、あなたがどんな顔をしていられるのかと思って、いろいろに想像していたんです。······たぶん、やさしい美しい顔をしていらっしゃるのでしょうね」
キャラコさんが、例の、大きすぎる口をあいて、笑いだす。
「あたし、美しくもなければ、やさしい顔なんかもしていませんわ。······むしろ、みっともないといったほうがいいくらいなの」
佐伯氏が、釣り込まれて、低い声で笑った。
「すこし、説明してみてください。······その前に、あなたをどうお呼びすればいいのでしょうね、お嬢さん」
「キャラコ、と呼んでちょうだい」
「キャラコ······。珍らしいお名前ですね。······では、こんどは顔のほうを······。あなたは、どんな眼をしていらっしゃるんですか」
「眼は割に大きいほうよ。······でも、魅力があるという工合にはゆきませんわ。ただ、大きいというだけ。······
「いいえ、かまいませんとも。······それで、鼻はどんなふうですか」
「鼻はそんなにひどくはありませんわ。段なんかつかないで、割とスラッとしていますの。ちょっと
佐伯氏は、想像を楽しむように、こころもち首をかしげながら、
「すこしずつあなたの顔が見えるようになりましたよ、······もうすこしいって見てください。口はどんなふう?」
「困ったわね。······口は、とても
「歯はどうです」
「歯並びはいいほうよ」
「髪は?」
「棒みたい」
「棒って、なんのことです」
「つまり、パーマネントをかけないもんですから、髪が棒みたいにブラブラさがっていますの。でも、別に気にもしていませんわ。······どう? あたしの顔、だいたいおわかりになって?」
佐伯氏が、楽しそうにうなずいた。
「もう、はっきり眼に見えますよ。あなたがどんなやさしい顔をしていらっしゃるか!」
夕風が吹き出して、湖の
こんなことがあってから、
四
キャラコさんは、たったひとつ佐伯氏にたずねたいことがある。佐伯氏の眼が本当に絶望なのかどうかということである。今までいく十
秋作氏の親友で、キャラコさんを本当の妹のようにかあいがってくれる
秋作氏は、立上のやつ、
キャラコさんが、
見ると、佐伯氏の
「あなた、本がお読みになれるの」
佐伯氏は、悲しそうな微笑をしながら、
「私は、まず骨を折って点字で読みます。それから、その活字の本をこうして
このごろは、心ないことばかり口走って佐伯氏を悲しませる。これも、自分の感情が足りないせいだと思って、キャラコさんは、そっと唇をかんだ。それにしても、眼のことに触れられるのを、こんなにもいやがっているひとに、あなたの眼はもうだめなのか、などとたずねるのは、いかにも心ない
「佐伯さん、あたくし、たったひとつ、おたずねしたいことがありますの」
佐伯氏は、ビクッとしたように、キャラコさんのほうへ顔をふり向けて、
「あらたまって、どうしたんです。······ききたいって、どんなこと?」
「あなたのお気にさわることなんですから、はじめに、おわびしておきますわ。······あたしがおたずねしたいのは、あなたの眼はどうしても絶望なのかどうかということなの。······まだ、いくぶんでも希望があるのでしょうか」
キャラコさんが、そうたずねると、佐伯氏は、急にキュッと
キャラコさんは、どうしていいかわからなくなってしまった。うなだれて、唇だけを動かして、ごめんなさい、とつぶやいた。
佐伯氏は、ふいに、渋い微笑をうかべて、
「いま、ごめんなさい、といいましたね。よく聞えましたよ。······あやまることなんかいりません、なんでもないことです。······私が眼のことに触れたがらないのは、じつは、どうしてもあきらめきれないことがあるからなんです。···私のは、
ここまでいいかけると、とつぜんいらいらした口調で、
「もう、よしましょう。この話は」
と、クルリとキャラコさんに背中を向けてしまった。
キャラコさんは、宿へ帰ると、秋作氏の
······そういうわけですから、この手紙を見次第、
キャラコの信念
佐伯氏の眼は、必ず見えるようになる!
佐伯氏の眼は、必ず見えるようになる!
一日おいて次の日、立上氏から、ミヨウゴニチアサユクという電報が来た。
キャラコさんは、その電報を持っていつものところへ駆けて行った。
キャラコさんは手帳の紙に、
佐伯さま。
と、走り書きをし、それを電報用紙の中へ細長くたたみ込み、その表に、(
それから、三十分ほどすると、
しばらくののち、手紙を持った手がだらりと下へ垂れる。それから、左手をいそいで眼のほうへ持って行った。
佐伯氏は、こちらへ背中を向けたままいつまでも立っている。佐伯氏の手の中で、キャラコさんの手紙がヒラヒラと風にひるがえっていた。
五
次の朝、廊下の窓のそばの
ウールのレーンコートを着て、腕に外套をひっかけている。
廿二三だと思われるのに、どこか、ひどく
すらりと、キャラコさんのそばに立って、
「いいお天気ね。
否応いわせない、おしつけるような調子があった。
キャラコさんは、きのうの返事がきけるのだと思って、急いで自分の部屋へ行って帽子と外套を持ってきた。
二人は
とりわけ、きょうは陽ざしが熱く、湖の
モーターの響きがこころよく身体につたわる。茜さんは、眼を細めて、うつりかわる対岸の景色をながめたまま、いつまでもおし黙っている。キャラコさんは、すこし気味が悪くなって、
「お話って、どんなお話」
と、おそるおそる切り出してみた。よくよく辛抱したあげくのことである。茜さんは急にこちらへ顔をふり向け、運転手のほうを眼で指しながら、
「ここでは、なにも申しませんわ。あなただって、それでは、お都合が悪いでしょうからね」
と、
どういう意味なのか一向わからない。何かひどく腹を立てていることだけはわかる。しかし、どう考えて見ても、茜さんを怒らせるようなことをした覚えはない。
(いったい、何をいいだす気なんだろう)
キャラコさんは、ひとりで首をひねっていたが、そのうちにめんどうくさくなって、そんなことにクヨクヨしないことにした。
茜さんは、ボートから降りると、岸づたいに岬の鼻を廻り、先に立って
キャラコさんは、なんだか
「お話って、こんなところでなければいけないことですの」
茜さんは、キッと振り返って、冷酷な眼つきでキャラコさんを見すえると、
「それは、あなたのほうが、よくご存知でしょう。······逃げようたってだめよ。だまってついて来てちょうだい」
と、甲高い声で叫んだ。
キャラコさんは、閉口して、またトボトボと歩き出した。
茜さんは、急に足をとめて、
「······どう? ここなら、どんな話でもできるわね。······あたしが、こんなに気をつかってあげるのは、女のよしみだけですることなのよ。親切だなんて思いちがいしないようにして、ちょうだい」
それにしても、わけのわからないことばかりいう。キャラコさんは返事のしようもなくておし黙っていると、茜さんは、唇のはしに
「キャラコなんて、ずいぶんトンチキな名ね。ひとを喰ってるわ」
と、切って放すように、いった。すこし無礼だと思ったが、キャラコさんは、笑いながら素直にうなずいた。
「そうね」
「それ、あなたの本当の名?」
キャラコさんは、うちあけた話をする。
「いいえ、
「本当の名は、なんというの? 宿帳には、
「いいえ、あれは
「じゃ、あんたの名は?」
キャラコさんは、まっすぐに茜さんの顔を見つめながら、こたえる。
「それは、いえないことになっていますの」
ふうん、と鼻を鳴らしてから、
「じゃ、あんたのお父さまは、何をなさる方?」
キャラコさんが、首をふる。
「それも、いえませんの」
「おや、不便ね。······どういうわけで?」
「それも、申し上げられませんわ」
「ええ、いってくれなくても結構よ。······要するに、あんたは、
茜さんは露骨な嘲笑をうかべながら、
「なにか、よくよくうしろ
キャラコさんは、返事をしなかった。うしろ暗いことなんかないといってみたところで、しょせん水かけ論だからである。
茜さんは、勝ち誇ったような声で、
「そんなことぐらいわからないと思う? あたしはよほど前からちゃんと知っていたのよ。あんた、
キャラコさんが、落ち着いた声でいう。
「おっしゃってみて、ちょうだい」
「あんた、兄に対して、どんな感情を持っていらっしゃるの」
「お気の毒だと思っていますわ」
「おや、たったそれだけ?······ほんとうのことをいってくださいね」
「あたし、嘘なんかいったことはありませんわ」
茜さんは、ふん、と鼻で笑って、
「自慢らしくいうわね。だいたい、嘘のある
キャラコさんは、ゆっくりとかんがえてみる。
どう考えても、特別なんてことはないようだ。佐伯氏にたいする愛の感情は、秋作氏や
キャラコさんは、微笑しながらこたえた。
「特別な感情なんかもっていないようよ」
「じゃ、なぜ、あんなにしつっこく兄をつけ廻すの」
「あなた、考えちがいをしていらっしゃるんだわ。あたし、本を読んであげたり、お話をしてあげたりしているだけなの」
「それ、本当でしょうね」
「本当よ」
「誓うことができて?」
「ええ、誓ってもいいわ」
「そんなら、それでいいから、じゃ、もうこれっきり兄に逢わないようにしていただきますわ」
「あら、なぜでしょう」
茜さんは、マジマジとキャラコさんの顔をみつめながら、吐きだすように、
「
そばへ寄ってもらいたくないというふうに、
「ご存知ないかもしれませんけれど、あたしの一族は
キャラコさんは、思わず立ちあがった。が、すぐ自制した。
(······すこし、頭の工合が悪いのかも知れない。どうも
キャラコさんは、馬鹿馬鹿しくなって、口をきく気にもなれなくなった。
茜さんは、いら立たしそうに眉をひそめながら、
「なんでもいいから、兄から手をひいてちょうだい。いくらつけ廻したって、もうモノにならなくてよ」
茜さんは美しいので、キャラコさんはたいへん好きだったが、あまり下等な口のききかたをするのでガッカリしてしまった。
「それで、佐伯氏のほうは、どうおっしゃっていらっしゃるの?」
茜さんは、イライラと足踏みをして、
「兄のことなんか放って置いてちょうだい。もちろん、あんたのことなんか、もう問題にしていなくてよ。······兄はお
キャラコさんは、ちょっと眼を伏せた。
(なるほど! きのうに限って
もちろん、よく思われようとしてやったことではないが、それにしても、こんな情けない原因で佐伯氏に逢えなくなるのは、すこし悲しかった。
しかし、自分でなければ、佐伯氏を慰めることができないというのではないし、それに、いつまでもそばにいてあげられるというわけでもないのだから、どっちみち同じことのようである。
茜さんは、鋭い舌打ちをひとつして、
「ねえ、お返事はどうなの」
キャラコさんが、はっきりと、こたえた。
「もう、お目にかかりませんわ」
「逢わないっていうだけでは困るのよ。すぐあの宿から出て行っていただけるかしら?」
キャラコさんは、素直にうなずいた。
「ええ、そうしますわ。今日じゅうならよろしいの?」
「できるだけ早くね」
茜さんは、背伸びをするようにグッと胸をそらすと、
「······それから、あしたおいでになるというドクトルの件ね、あれ、お断わりしてよ」
キャラコさんは、眼を見はって、
「あら、どうしてでしょう。そのかたなら、かならずお兄さまのお眼を
茜さんは、切りつけるような調子で、
「結構よ。放って置いてちょうだい。······あたし、兄を
キャラコさんは、自分の
「茜さん、あなた······」
茜さんは、空うそぶいて、せせら笑うように、いった。
「盲目の兄! なんて、ずいぶん、
とりつくしまもなかった。
六
キャラコさんは、これを機会に、秋作氏のすすめにしたがって、すこしの間ほうぼうを歩いて見ることにきめた。
箱根町の小さな旅館へ引き移って、旅行の支度をしようと思って町へ買物に出ると、町かどの電柱に、
会場へ行くと、入口に大きな国旗をつるし、
講堂にはもう大勢の聴衆がつめかけ、演壇の両側には町の役員らしい人たちがズラリとい並んでいる、前列のはしに、佐伯氏が、すこしうつ向き加減になって、茜さんと並んで掛けていた。
キャラコさんは、うしろから突かれてとうとう演壇から二列目の椅子のところまで押しだされ前の人の背中に隠れるようにして坐っていた。
定刻になって、司会者のながながしい紹介が終ると、とどろくような拍手が起こり、佐伯氏が茜さんに手をひかれて、演壇あがってきた。
昂奮しているせいか、いつもより顔の色が悪く、ソワソワして、まるっきり落ち着きがなかった。水差しの水を一杯飲んでふるえるような手つきで唇をぬぐうと、聞きとりにくいほどの低い声ではなしはじめた。
「······南京城攻略戦は、······南京城壁、東南方から開始されまして、······十日の午後五時、脇坂部隊は、工兵部隊の決死的城門破壊と間髪を入れず、光華門の一角を占領······」
声がとぎれて、何をいっているのか最後のところははっきりと聞えなかった。顔が
佐伯氏は演壇に両手をついて首を垂れていたが、しばらくののち、顔をあげると、つぶやくような声でつづけた。
「······午後五時廿分、
壇に手をついて、肩で大息をつき、
「われわれ、······一同······」
もう、倒れる。······キャラコさんは、夢中になって、われともなく、
「ああ」
と、大きな声をあげた。
佐伯氏はギョッとしたように、急に顔をあげてキャラコさんのほうを眺めていたが、聴衆のほうへ向き直ると、とつぜん、
「申し訳ありません。······実に、どうも、不敵千万な······」
と、いうと、声をあげて演壇の上へ泣き伏してしまった。
講堂の一同は、何事かと眼をそばだてているうちに、佐伯氏は、錯乱したように演壇を駆けおりると、
キャラコさんは、旅の身じたくをして箱根町から
渚の向うに、毎日、佐伯氏と落ち合っていた疏水の蘆が見える。
いろいろな思いが、しずかに心のうえを流れる。
佐伯氏の過去に、いったいどのような事があったのか察することができないが、なにか、たいへんな不幸か、たいへんな悩みがあったのだという事だけはわかる。あの狂い出したようなようすを見るにつけても、それが、どんなにかひどいものだったろうと、思いやられるのである。
······疏水のほうから、
キャラコさんは、なつかしさに耐えられなくなって、
キャラコさんは、そのそばへ
佐伯氏は、もうあの黒い眼鏡をかけていなかった。どうしたのかと思われるほど、いきいきとした顔色をしていた。
楽しそうに、ゆっくりと
「キャラコさん、私はあなたに、ひどい嘘ばかりついていました。どうか、ゆるしてください。······私の弱さのせいもありますが、それはともかく、そうしなければならない深い事情があったのですから······」
キャラコさんは、黙ってうなずいた。
佐伯氏は、言葉を切ってから、ちょっと例のないほど率直な口調で、
「······キャラコさん、驚かないでくださいね。私は、昨年の暮れから世間を騒がせていた三万円の
キャラコさんは、だまって佐伯氏の顔を眺めていた。自分でもふしぎに思われるほど静かな気持だった。
佐伯氏は、両膝を抱いて、ゆるゆると身体をゆすりながら、
「こんな話は、お聞きになりたくもないでしょうが、でも、我慢して、もうすこしきいてください。あなたのご親切を、こんなふうに、長い間裏切っていたおわびのためにも、せめて、そうでもさせていただきたいと思うのです」
キャラコさんは、微笑しながらこたえた。
「あたしにお
佐伯氏は、
「私は、今あなたが乗っていらしたモーター・ボートで箱根町へ行って自首するつもりなのですから、どっちみち、そんなに長い間お話はできないのです。······もう、時間もありませんから簡単にお話しますが、私も茜も、子供のときから、屈辱や不安や空腹などの鋭い切っ
キャラコさんは、思わず眼を閉じた。キャラコさんのような人生の経験の浅いものにも、それからどんな悲劇が起きたのか、これだけ聞くともうなにもかもわかるような気がした。
佐伯氏は、眼に見えぬほど顔を赤らめて、
「······どれほど卑屈になじんでいたとはいえ、さすがに、そんなことまでする気にはなれませんでしたが、茜が泣いて説得するので、死んだ気になって承知しました。······そうさえすれば、二人とも、長い貧乏の中から浮びあがれるのですから。······ところが、それもいつまでもつづきませんでした。茜はたった二年で捨てられてしまい、そのあげく、こんどは私を解雇するといい出しました。······私は、貧乏だというだけの理由で、長い間、底知れぬ悪意や不親切や迫害に駆りたてられて、すっかりひねくれてしまい、人生とは、いつか復讐してやる値打のあるものだといつもそう考えていましたので、課長のひどい仕打ちにしかえしをするために、その日、支店へ送るはずの三万円の現金を持ち出してやりました。せめて、それくらいのことをしてやらなければ息がつまりそうだったのです。······それから
そういって、おだやかな微笑をうかべながらキャラコさんの眼を見かえし、
「······ところで、ここであなたにお目にかかるようになってから、とつぜん、私の前に新しい世界がひらけることになりました。······こんな親切な世界もあるのかと、
プツンと言葉を切ると、蘆の間でゆるゆると身体を起こしながら、
「······さあ、ずいぶんしゃべった。······では、そろそろ出かけることにしましょう。······いつか、私がそういいましたね。なんでもなくしてくださったあなたの親切が、私にどんなたいへんな影響をあたえたか、いつか必ずわかるときが来るって。······つまり、これが、その
キャラコさんは、
佐伯氏は船尾に坐って、ゆるゆると
岸では、キャラコさんが長い蘆を振ってわかれの挨拶をする。
次の日のひるごろ、キャラコさんと茜さんは、
キャラコさんは、ここから
いよいよ別れる時がくると、茜さんが、いった。
「兄は、ほんとうにあなたを愛していたのではないでしょうか。あなたが
二人は、右と左にわかれた。互いの姿が見えなくなるまで、手をふりながら。