一
「兄さん、あたしは、困ったことになりはしないかと思うんですがね。ピエールは、きのうも、あのお嬢さんと二人っきりで話していましたよ」
「あたしも、あのお嬢さんのいいところは認めます。でも、あなたのこういうやり方には、あまり賛成できませんね。······これじゃ、まるで、騒ぎの起きるのを待ってるようなもんだ」
アマンドさんが、厚い首巻きのおくで、はっきりしない声をだす。
「それは、いったい、どういう意味だね」
船尾までゆきつく。
そこで、くるりと廻れ右をして、
「ピエールが、あのお嬢さんを好きになったらどうします」
「ありそうなこったね。······白状するが、わしもあのお嬢さんがだいすきだ」
「そんなことは、聞かなくってもわかっています。あなたの日本
アマンドさんが、びっくりしたように立ちどまる。
「だれが、不幸になるというんだね」
「いわなくてもわかっているでしょう。レエヌです。······なるほどレエヌにはすこし気ままなところがありますが、それはそれとして、むかしならいざ知らず、今じゃ、あんなやくざな兄しかいない日本なんかで、ピエールにすてられでもしたら、あの娘は、いったいぜんたいどんなことになると思うんです」
「ピエールが、そんなことをいったのか」
「いいえ。······でも、ピエールがいまなにを考えているか、あたしにはよくわかっています。······あのお嬢さんを見る眼つきをごらんなさい」
アマンドさんが、クスクス笑いだす。
「お前の苦労性には、いつもながら驚嘆させられるよ。······これはともかく、そんなことなら、心配しなくてもいい。······あのお嬢さんは、レエヌからピエールをとりあげるようなことはしないから」
「どうして、そんなことがわかるの」
アマンドさんは、ピクンと肩をすくめる。
「あのお嬢さんは、かくべつピエールなんか好いていないからだ」
「そんなこと、わかったもんじゃない」
エステル夫人は、
「これだけいってもわからないなら、もう議論はよしましょう。······とにかく、あたしはそんな騒ぎを見るのはいやだから、横浜へ着いたら
「したいようにするがいいさ」
「最後に、はっきりいって置きますがね、あたしはあくまでもレエヌの味方ですよ。そう思っていてください」
「わかった、わかった」
エステル夫人は、アマンドさんの顔をマジマジとながめながら、
「どうしてあんな娘がそんなに気にいったの。なんだか、固苦しい、いやなところがあるじゃありませんか」
「お前には、それくらいにしかわからないか」
「ええ、わかりませんね。······それに、あまり貧乏すぎる」
「また、違った。······ひょっとすると、あのお嬢さんは、われわれよりも金持ちなんだぞ」
二
キャラコさんは、船室の中で眼をさます。
窓掛けが、頭の上で蝶がたわむれるようにゆれている。船窓からくる朝の光が、丸い棒のようになって横倒しにノルマンディーふうの
部屋の隅のほうに、
キャラコさんは、枕の上で顔をまわしながら、ぜいたくな寝室の風景をゆっくりと楽しむ。
「このくらい趣味がいいと、ぜいたくだってそうすてたもんじゃないわね、結構だわ」
退役陸軍少将石井長六閣下のみごとな
(あたしの適応性は、すこし、妙ね)
毛布を鼻のところまでひきあげて、のびのびと長くなる。またうつらうつらとなる。寝ぼけ声で、こんなふうに、つぶやく。
「骨やすめ、って、英語でなんというのかしら。······ボーン・セッティングは、骨つぎか。······
おかしくなって、ひとりでクスクス笑いだす。
ひとりは、寝室用の細長い朝食
さきに入ってきたほうが朝食膳の
いろいろなものがのっている。

盆のはしのところに朝顔の花が一輪。その下に名刺がある。ひらがなで、「おねぼうさん」と、書いてある。アマンドさんの息子のピエールさんのいたずらだ。
ピエールさんはコロンビアの大学のヒュウ・ボートン先生の日本の講座に出ていて、ひらがなを書けるのが自慢なのである。
キャラコさんは、このくらいのことでは動じない。ゆっくりとお膳の上の景色を観賞してから、順々に片づけはじめる。
寝台の頭の上で
クレエムを喰べながら、あいた片手でスイッチをあけると、きれいな澄んだ声が、小さな拡声器から流れ出してくる。イヴォンヌさんだ。
「キャラコさん、もう、おめざめ?」
「ええ、おめざめよ。いま、クレエム・フレェシュを片づけているところ。······ほら、きこえるでしょう。ピシャ、ピシャって······」
「ええ、きこえるわ。あまり、お上品な音じゃありませんわね。······それはそうと、あたし重大なご相談があるのよ」
「あなたの重大には、もう驚くもんですか」
「ほんとうなのよ。とても重大なことなの。これから、すぐおうかがいしていい?」
「ええ、お待ちしててよ」
キャラコさんをアマンド氏の
アマンドさんは非常な日本びいきで、趣味というよりは
ヴァンクゥヴァの自分の家の庭に日本ふうの
こんど日本へ遊びに来たのをさいわい、日本の近海に滞在するあいだ、ほんとうの意味の日本的なお嬢さんをひとり、ぜひ
山田氏やイヴォンヌさんが推薦するとなれば、それはもうキャラコさんにきまっている。
イヴォンヌさんが、のんきな顔で勧誘にやってきた。
「キャラコさん、十日ばかし
イヴォンヌさんと山田氏の紹介で、帝国ホテルで、はじめキャラコさんに逢った時から、アマンドさんは、はればれとした、愛想のいい、しっかりしたこのお嬢さんがすっかり好きになってしまった。
ふしぎなことには、顔だちばかりか、まっすぐに相手の顔を見てものをいうところ、なんともいえないほど愛らしい笑い方をするところ、わざとらしくないひかえ目なところなど、死んだ
アマンドさんは、キャラコさんが、すぐ自分の近くにいると思うだけでなんともいえぬよろこびを感じる。しかし、
横浜を
アマンドさんは、キャラコさんと一緒にいられる日を、一日でも多くしようとたくらんでいるようにも見えるのである。
三
イヴォンヌさんが、白いウールのスーツを着て、うさぎのように飛び込んできた。
息をきらせながら、大きな声で、
「キャラコさん、きょう
「重大な相談って、そんなことでしたの」
「ええ、そうよ。日本の女性全体の名誉にかかわることですもの。こんな重大なことってそうざらにないわ」
「あたしも、出なくてはいけませんの?」
「でも、ことわる理由はないでしょう。······いやねえ、あなたみたいでもありませんわ、キャラコさん。······もっと、しっかりして、ちょうだい」
「困ったわね」
キャラコさんは、しばらく考えてからあいまいな返事をする。
「あたし、うまくやれるかしら。······見ているほうがいいようだわ」
キャラコさんが、にえ切らないので、イヴォンヌさんが、かんしゃくを起こす。
「そんな元気のないことではだめ。······お願いだから、やってちょうだいね」
キャラコさんは、日曜ごとに長六閣下と

射撃に自信がないわけではないが、負けることの嫌いなレエヌさんとまた競争になりそうで、それを考えると気が重くなる。
キャラコさんは、レエヌさんと女学校の二年まで同級だった。レエヌさんのお父さまは廿年も前にカナダから来たフランスの学者で、日本で結婚をしてそれから幾年もたたぬうちに亡くなられたということで、レエヌさんは、学校では、母かたの姓を名乗って、木村
そのころのレエヌさんはロオレンスの絵にある少女のように美しかった。眼が深く大きくて海のように
家庭的にたいへん不幸なひとらしく、
身振りや、言葉のちょっとしたいい廻しのなかに、相手をどきっとさせるような、大胆な、人ずれのした調子があった。いつもものうそうにして、しょっちゅう遅刻したり休んだりした。礼奴さんには女学校でやっているようなことは、つまらなくてやり切れないのらしかった。
「退屈で死にそうだわ。女学校の教師なんてみな馬鹿ばかりね」
などといったりした。
二年の進級試験が終わった朝、礼奴さんが校庭の入口でキャラコさんを呼びとめて、
「あたし、カナダの叔父にひきとられることになったのよ。あなたとも、これでお別れだわ」
と、いつになくしみじみとした調子で、いった。
一年ほど経ってから、礼奴さんがカナダのヴァンクゥヴァから短い便りをよこした。
アマンドさんという、たいへんなお金持ちの叔父さんの
それでも、さすがになつかしかったらしく、キャラコさんの手をにぎって、
「あたし、あれ以来日本の夢も見たことがなかったの。······あなたとこんなところでお目にかかるなんて、ほんとうに奇遇ね。この
と、いって、いま、自分がどんなに幸福か、それを誇示するように、
しかし、レエヌさんの上機嫌は長くはつづかなかった。このごろでは、キャラコさんをあまりおもしろく思っていないらしい。
ニュウグランドの
ピエールさんは、死んだお母さんの子供のころの印象をなつかしそうにしみじみと話した。キャラコさんは、しんみになってそれを聞いていただけのことだったが、それ以来、レエヌさんは、なにか、ひどく対抗意識をもっていろいろといどんでくる。勝負ごとをひとつするにしても、いつも、あまり平和にはすまないのである。
それに、カナダの銀行家だという、かっぷくのいい
「あたしは、
などと、はっきりしたことをいう。
キャラコさんは、イヴォンヌさんの勧誘に屈服したばかりに、思いがけなく、こんな劇的な境遇に身をおくことになった。
キャラコさんにしてもあまりおもしろくないが、こんなことぐらいで弱くなってはならないと思って、いっさい気にしないことにした。
甲板のほうから鋭い銃声がひびいてくる。
「ほら、迎いにきたわ」
イヴォンヌさんは、じれったそうに足踏みをしながら、もだもだするというふうに胸のところをおさえて、
「あたし、ここんところにいいたいことがモヤモヤしているんですけど、どうも、うまくいえないの。······なんでもいいから、たった一度だけみなにあなたの腕を見せてやって、ちょうだい」
イヴォンヌさんは、キャラコさんの顔色を敏感に見てとって、
「よかったわ」
と、うれしそうに手をたたいてから、急に真剣な顔になって、
「やるなら、あのひとに負けないで、ちょうだい」
と、正直なことをいう。イヴォンヌさんも、レエヌさんが嫌いなのである。
八
二人が上甲板へあがってゆくと、
ベットオさんが審判係。バアクレーさんが記録係で、記録板を鼻の先におっつけるようにして点数をマークしている。かますのように
イヴォンヌさんが、遠くからにぎやかな声をあげて皆に挨拶をする。
レエヌさんが、いつもの例で、おや、見なれない娘だ、というふうに、不思議そうな眼差しで二人をながめてから、
「ああ、あなたたちだったのね。あまり遅いから、もう、
と、底意地の悪いことをいう。
イヴォンヌさんは、負けていない。
「あたしたちが、まだまごまごしているんで、がっかりなすった?」
レエヌさんが、肩をピクンとさせる。
「べつに、問題になんかしていませんわ」
イヴォンヌさんが、勇ましく、やりかえす。
「ええ、どうぞ、そうして、ちょうだい。あたしたちもそのほうが望みよ。······あたしたち、アマンドさんのお客で、あなたなんかにべつに関係はないんですから」
レエヌさんは、超然とした眼つきでイヴォンヌさんの眼を見かえすと、だまって
アマンドさんが、新しい銃を受けとって身構える。
ヒュッ、ヒュッと音をたてて、
ズドン、ズドン!
まっ白なクレエは飛びあがれるだけ飛びあがっておいて、それから、スッと
「
と、ベットオさんが叫ぶ。
みな、どっと声を合わせて笑いだす。
アマンドさんが笑いながら射撃台から降りてきて、キャラコさんに、身ぶりで、やりなさい、という。
イヴォンヌさんが、キャラコさんの背中を、ぐいとこづく。
キャラコさんは、決心して、射撃台へあがってゆく。
しっかり足をふんばって、銃をかまえる。
ズドン ズドン!
青空の真ん中で、クレエが雪のようにくだける。
また、空に、白い小さな雪煙り。
三つ目だけミスして、五分の四で、八十点。
果して、レエヌさんが挑戦して来た。人垣のうしろから、
「
と、甲高い声で叫ぶ。
レエヌさんがあまりうまくないことは、みながよく知っている。
まわりが、ざわめきはじめる。
英国人の
困って、アマンドさんのほうへふりかえると、アマンドさんは肩をゆすって見せる。かまわないから、やれ、というのだ。
イヴォンヌさんが、ジッとこっちを見ている。
(やるなら、負けないで、ちょうだい)
さっきのイヴォンヌさんの声が、耳の底によみがえる。長六閣下の顔がチラリと
モリモリと闘志が湧き起こってきた。心の中で、しっかりした声で叫ぶ。
(負けないわ!)
銃をとり直したとたんに、ヒュッとクレエが飛び出す。
ズドン!
つい、いまあった白いクレエはもうない。そこに、青い空があるばかり。
ブラヴォ! みな、夢中になって手をたたく。
(こんなちっぽけな娘なのに、すごい腕前だ)
こんどは、レエヌさんの番だ。
銃を取って、なんだこんなものといった顔つきで、身をそらす。
もう、
ズドン!
クレエは、ずっと空の向うまで逃げ出してゆく。
その次もだめ、その次もだめ。四度目に、ようやく一つ撃ち落とす。
四
レエヌさんは、頭痛がするから、今晩は食堂へ出ないそうだ。
イヴォンヌさんが、ささやく。
「はずかしくて、出て来られないのよ」
けさの射撃会のことで、腹を立てているにちがいない。キャラコさんは、なんだか気がとがめてしようがない。ピエールさんのほうを見ると、ピエールさんは、すまして食事にとりかかろうとしている。
(行ってあげればいいのに)
キャラコさんは、ひとりで気をもむ。
(きっと、ひとりで、さびしがっているのにちがいないわ)
しかし、そんな出すぎたことはいわれない。自分が見舞いにゆくのはわけはないが、そんなことをしたら、いっそう、かんしゃくをつのらせるばかりだ。もだもだしているうちに、食事が始まる。
料理にあわせて、バニュウルとか、ボオジョレー酒とか、モルゴンなどという白や赤の葡萄酒がつがれる。料理も酒も
キャラコさんは、べつべつにつがれる葡萄酒を、すこしずつ飲んで見る。料理と酒がなんともいえない
食卓の会話が、だんだん陽気になる。キャラコさんも、すこしずつ愉快になって、歌でもうたいたいような気持になる。となりをふりかえって見ると、イヴォンヌさんも赤い顔をしている。二人は顔を見合わせてニヤリと笑う。互いに、眼でやり合う。
(や、赤いぞ、赤いぞ)
(あなただって、そうよ)
食事がすんで
ベットオさんが、この世へ生まれ出てから一番最初に覚えた歌を、できるだけ大きな声で唄うこと、という課題を出した。
優しいようでなかなか手ごわい課題だ。たれもかれも、みな、むずかしい顔をして幼い時の記憶をたどりはじめる。
ベットオさんが、最初はわたしが模範を示します、といって立ちあがる。ベットオさんは、
鐘つけ、鐘つけ、
釣鐘草、
ハンスの家のお祝いだ、
そうれ、ごうんとつけ。
釣鐘草、
ハンスの家のお祝いだ、
そうれ、ごうんとつけ。
つぎに、やせたバアクレーさんが、ヒョロリと立ちあがる。近眼鏡を光らせながら、おおまじめな顔でやりだす。
ピエロオさん、
ペンを貸しておくれ。
月の光で
ひと筆書くんだ······
ペンを貸しておくれ。
月の光で
ひと筆書くんだ······
次々に立って、珍妙な歌をとほうもない大きな声で唄う。ひとりすむたびに、われかえるような爆笑が起こる。
そんな大騒ぎの最中、とつぜん、
レエヌさんが、
「たいへんな、ばか騒ぎね」
小さな頭をそびやかして、入口に近い椅子に掛け、
イヴォンヌさんが、キャラコさんのほうを向いて、ちょっと、片眼をつぶって見せる。
「······あれ、ピゲェの一九三八年の
キャラコさんも、見て知っている。たいへんだなア、と思って恐縮する。でも、きこえてはたいへんだから、あたりさわりのない返事をしておく。
「みごとね」
ピエールさんは、困ったような顔でそのそばへ行って、もう、頭痛はなおったのかと、たずねる。
レエヌさんが、
「うるさくて、寝ていられません」
これで、一座がしんとなる。
レエヌさんの部屋は、ここからずっと離れた船尾のほうにある。そこまでこの騒ぎがきこえるはずはないのだが。
アマンドさんが立って行って、いつも変わらぬ寛容なようすで、
「それは、悪かった。もう、よすよす······静かにしているから、行っておやすみ」
これで、折れてくるかと思いのほか、いっそう気狂いじみたようになって、
「出て行くのは、あたしじゃない。あたしはここにいるんだ!」
と、叫びながら、地団駄をふむ。
我ままなことは知っているが、こうまでの狂態はさすがに今まで見たことがなかったので、みな、あっけにとられて黙り込んでしまう。
キャラコさんは椅子にかけて、おだやかにほほえんでいた。
レエヌさんはまだ遠廻しにしかいっていない。お前、ここから出て行けとはっきりいったら、その時いってやることは、ちゃんときまっている。それまではじっとしていればいい。しかし、これは、なかなか勇気のいることだった。胸がふるえて来てとめようがない。
キャラコさんは、やはり聡明だった。この騒ぎは、これ以上発展しなかった。ピエールさんが、やさしい口調でなだめて、とうとうしずめてしまった。
みなの眼が、じっとレエヌさんを眺めている。さすがにレエヌさんもいにくくなったと見え、椅子から立ちあがると、
「ミリタリズム!」
と、聞えよがしにつぶやいて、出て行った。
これは、すこしひどい。
みなが、ハッとしたようすで、キャラコさんのほうをぬすみ見る。
キャラコさんは、のんびりした声で、いう。
「もし、負けていたら、あたしだったら、もっと腹を立てかねませんわ。······負けるって、あたし、ほんとうに嫌いよ。······ほらね。······レエヌさんのおっしゃったことは嘘じゃないわ」
これで、ピエールさんがわびなくともすむことになった。アマンドさんが、遠くから、感謝と敬意のまじった眼ざしでキャラコさんにうなずいてみせる。
元気のいい、がむしゃらなところもありそうなこの娘が、どんなこころでこんな不当な侮辱を忍んでいるのか、それがよくわかる。そのうえこのちっぽけな娘は、社交馴れた、最も聡明な夫人ほどにもうまくやってのける。ふしぎな娘だと思って、四方からキャラコさんをみつめはじめる。
またとつぜん
いずれエステル夫人がやって来るだろうという予感がみなの心にあった。たぶんレエヌさんは、エステル夫人のところへうったえに行くだろうし、そうなれば、夫人が黙って放っておくわけはない。果してだった。エステル夫人は、入口のところに立って、ごうじょうな気性をそのままに現わして、男のように腕組みをしながら、ジロジロとみなの顔をながめわたしている。だいぶ風向きが悪いらしい。
エステル夫人は、感情を無理におさえつけているような声で、
「いったい、どうしたの?」
と、切り出す。たれも返事をしない。結局、アマンドさんが、
「何がどうしたというんだね」
たいへんおだやかに、こういう。アマンドさんの受け方はなかなか堂にいっている。長年のうちに、
「そんなところに立っていないで、お前も仲間へはいりなさい。いま迎えにやろうと思っていたところなんだ」
エステル夫人が、はねかえす。
「よしてください、とぼけるのは。······ねえ、いったいどうしたの? どうしてレエヌをあんな目にあわせるんです。レエヌはわたしの部屋で泣いていますよ」
アマンドさんが、両手をひろげる。
「うるさくて眠られないから、静かにしてくれというので、この通り静かにしている。······これ以上、どうにもしようがない。······いったい、なにが悲しくて泣くんだね」
「悲しいのじゃありません、怒っているのです」
「いよいよもってわからないな」
「あなたがたが、皆がかりで、レエヌを怒らせてしまったのです。どうして、あの娘ばかりいじめるの。······ねえ、兄さん、このごろのあなたのなさることは、すこし
「ずいぶんだいじにしているつもりだ」
エステル夫人は、チラリとキャラコさんのほうへ
「おやおや。······あたしには、どうもそう思えませんがね。だいいち、ピエールが、いけない」
ピエールさんが、ピアノのそばの椅子で、照れくさそうな顔をする。
「今度は私の番ですか、エステルおばさん」
エステル夫人は、ピエールさんのほうへ向きなおって、
「ええ、そうですとも。あなたが、いちばんいけないんだ。じっさい、あなたの
ピエールさんが、顔を
「エステルおばさん、そういうあなたのなさりかただって、たいしてほめられはしませんよ」
エステル夫人は、
「あたしのことは放ってお置きなさい。なんであろうと、いうだけのことはいうんだから」
ピエールさんが、とてもかなわないといったようすで、折れて出る。
「私が悪いならあやまりますが、いったいレエヌはなにが気にいらないというんです」
「頭痛がするといって寝ているのに、なぜひとりで放っといたりするんです。あれは、あなたの何にあたるひと?······今からそれじゃ、レエヌだってやるせながるのも無理はないでしょう。······とにかく、あたしの部屋へ来て、レエヌにおあやまんなさい」
「そんなことまで、あなたに
「おや、大きな口をきくこと。なんでもいいから、あたしと一緒にいらっしゃい」
アマンドさんが、
エステル夫人は、またアマンドさんのほうへ向きかえって、
「ねえ、兄さん、あたしだって平和にやるほうが好きなんですよ。しかし、それにはそれだけのことをしてくださらなくては。······なにしろ、狭い船の中のことですからね。これは、けさもいいましたが、もういちど、ご注意までに申し上げときますよ」
エステル夫人とピエールさんが出て行くと、ベットオさんは、お前がいるから、それで、こんな騒ぎが起きるんだ、というような眼つきで、ジロリとキャラコさんの顔をながめてから、
「わしは、こんな騒ぎはまッぴらだ。······このへんでそろそろ退却しよう」
と、大きな声でいうと、不機嫌そうに肩をゆすりながら、
一座の気分は、これですっかりしらけてしまった。アマンドさんだけは、てんで気にも止めていないらしい。新聞を下に置くと、ニコニコ笑いながら、眼鏡越しに一座をながめわたして、
「さあ、もう嵐はおさまった。かまわないから続けなさい。海の上の
五
キャラコさんは、船室へ帰ると、すぐ
(そんなことをしたら、無理にこの
それに、この
キャラコさんは、あまりものごとに屈託しないたちだが、さすがに、うっとうしくなって、うんざりしてしまう。
「ベットオさんばかりじゃない、あたしだって、こんなうるさいことはまッぴらだわ。今度ぐらいつまらない目にあったことは、まだなかったわ」
丸い船窓から、水のような澄んだ月の光が斜めに
キャラコさんは、
みな船室へ引きとったと見えて、
キャラコさんは、船尾のほうまで歩いて行って、派手な
膚にさわらぬほどの海風が、気持よくそっと
薄い月の光で、海の
キャラコさんは、
「······
振りかえって見ると、ピエールさんだった。
ピエールさんは、すこし離れたところで立ちどまって、ジッとこちらをながめていたが、びっくりしたような声で、
「キャラコさんですね?」
と、いった。
キャラコさんが、笑いだす。
「ええ、あたくし。······人魚じゃなくてよ」
ピエールさんが、微笑しながら近づいてくる。
「人魚でなくてしあわせでしたよ。もし、人魚だったら、ベットオ先生につかまって遠慮なしに解剖されてしまうでしょう。······それにしても、どうして今ごろこんなところにいらっしゃるんです。珍らしいこってすね」
「あたしが詩人だってことをご存知なかったのね? ピエールさん」
ピエールさんは、おおげさに驚いたという身振りをして、
「詩人! ······おお、それは存じませんでした。射撃の名人が詩までつくるとは!」
「びっくりさせてお気の毒でしたわ」
「びっくりついでに、なにかひとつ
「でも、おしゃべりしながら詩をつくるってわけにはゆきませんわ」
「すると、つまり、私は詩作のお邪魔をしているってわけなんですね」
「ええ、まあ、そういったわけね。······それで、あなたのほうはどうなんです。身投げでもしにいらしたの?」
「身投げなら始末がいいが、私のやつは、こんなふうにのそのそ歩き廻らなければおさまらない病気なんです」
「
「たしかにそれに近いようですね。······つまり、心の悩み、ってやつなんです」
「おやおや、たいへんだ。じゃ、あたしなんかにかまわないで、どんどん悩んで、ちょうだい。ここで拝見していますわ」
「まあ、しかし、ちょっと
「ちっともかまいませんわ。どうぞ、およろしいだけ。······あたしは、あたしのことをしますから」
ピエールさんが、煙草に火をつける。男にしては、すこしやさしすぎる横顔が、瞬間、
ピエールさんは、心の中のひそかな憂悶をおし隠そうというふうに、わざとらしくほほえんで見せて、
「私は、レエヌを気の毒な娘だと思っています。誰からも愛されないし、誰からも好かれない。自分で、嫌われるように嫌われるようにしむけてゆくのです。······なにびとをも愛さなければ、どんな親切をも受けつけない。
キャラコさんは、返事をしなかった。答えようとすれば、ピエールさんのいったことに同感するほかはないのが情けなかった。
ピエールさんは、努力しながらものをいっているというふうに、ときどき、度を超えた快活な調子をまぜながら、
「······率直に打ちあけますが、私自身、どんな具合にしてレエヌの気持を
「あたしのためならそんなお心づかいはいりませんわ。たしかに、あたしの出しゃばりだっていけなかったのですから」
ピエールさんは、これ以上、廻りっくどいことはいっていられないというように、急に、激した口調になって、
「ねえ、キャラコさん、いったい、なにがレエヌをあんなに自棄的にさせるのでしょう。何かお気づきになったことでもおありですか」
キャラコさんは、当惑を感じながら、言葉すくなに、こたえた。
「あたしには、むずかしすぎる問題ですわ」
ピエールさんは、すぐ気がついて、
「ごめんなさい。あなたを困らせるつもりではなかったのです。······それにしても、レエヌは、むかしからあんなふうだったのですか。あんなふうに
「いえ、そうは思いませんわ。うちとけないところはたしかにありましたけど、そのために、友達を怒らせるようなことはありませんでした」
ピエールさんは、ちょっとの間沈黙していたが、だしぬけに口をきって、
「レエヌが、横浜の海岸通りで、母と兄と三人で小さな
「ええ、うすうす」
「たぶん、それが原因なのでしょう。······そういう事実が、われわれの耳へ届いたのは、つい二年前のことですが、父にすれば、何といったって弟の子供ですから、そんなふうに放って置くわけには行かないので、人をやって無理にレエヌをカナダへ引きとったのです。兄の
「それで、レエヌさんのお母さまはどうなすったの」
「間もなく病気で亡くなりました」
「レエヌさんは、
「しかし、そのかわり、カナダへ国籍が移されて、叔父や叔母や養父や義妹や、······それから、
(ピエールさんの
しかし、そうはいわなかった。
「そうかも知れませんね」
ピエールさんは、むかしのことを思いかえすような深い眼つきをしながら、
「レエヌが日本からやって来て、とつぜん、われわれの前へ現われたときは、ほんとうに、美しかった。まるで、生きた日本人形のようでしたよ。······長い
何ともつかぬ切実な感情が、キャラコさんの心をしめつけた。
「もし、そうだとすると、それは、レエヌさんの罪ではありませんわ」
ピエールさんは、当惑したような眼つきでキャラコさんの眼を見かえしながら、
「すると、いったい、だれの罪なんです。少なくとも、われわれは、どんな小さなことでも、レエヌの幸福ばかりを考えてやってきたつもりです。正直なところ、私がレエヌと結婚しようと決心したのは、そうでもしたら、レエヌを、······あの、手のつけられない
と、いって、苦味のある微笑をうかべながら、
「ところが、当のレエヌは、婚約披露の晩餐の席で、突然立ちあがって、わけのわからない自作の詩の朗読をやり出す始末なんです」
「どんな詩だったのでしょう」
「いや、とるに足らない
ピエールさんは、ありったけの
「あんな手に負えない
見苦しいようすを見せまいとして、押しだすような微笑をうかべながら、
「······日本からヴァンクウヴァへやって来たのが、あなたのようなお嬢さんだったら、それこそ、どんなに有難かったか!」
そういうと、眼に見えないくらい頬をあからめて、
「これは冗談です。どうか気になさらないでください。···人間というものは、取り乱すと、心にもないことを口走るものですからね。······ああ、よくしゃべくった。······風が冷たくなって来ましたね。もう、そろそろ、
すこし離れた船室の
「ちくしょう、殺してやる!」
走り寄ってきて、
「······
と、わめきながら、手に持っていた短いロープの切れっぱしで、気がちがったように続けさまにキャラコさんの肩を打ちすえた。
キャラコさんは、ロープのしもとの雨の下で、一種
(なるたけ、腹を立てないように······)
しかし、今度ばかりは、キャラコさんの忍耐はあまり役に立たなかった。生まれてからまだ一度も感じたことのないようなはげしい
(どんな事があってもあやまらせずにはおかない!)
レエヌさんが、息を切らして打つのをやめると、キャラコさんは、しずかに立ちあがって、秋霜のような威厳で命令した。
「レエヌさん、あなたがなさったのは、たいへんいけないことなんだから、あたしにおあやまりなさい! ······たった、一度でいいから!」
人並はずれて愛想のいい、やさしいこの娘の、いったいどこに、こんなはげしいものがひそんでいたのだろう。ついぞ、
レエヌさんは、憎悪に満ちた眼差しでキャラコさんの顔をにらみつけると、息をはずませながら、
「あたしが、······あたしが、あんたにあやまるんだって? ······あやまるわけなんかない。······死んだってあやまるもんか!」
キャラコさんは、
「たった一度でいいから、あたしにおあやまりなさい。あやまらないと、ここを動かさなくてよ」
「あやまるもんか!」
「あやまるまで、いつまでも待っているわ」
キャラコさんは、まじろぎもしなければ、ものもいわない。五尺ほど間隔をあけて、レエヌさんの顔を見つめたまま甲板に
けたたましいレエヌさんの叫び声をききつけて、何が起こったのかと思って、イヴォンヌさんやエステル夫人やベットオさんが、
それから、五分ほどしてから、アマンドさんが甲板へあがってきた。
ピエールさんからあらましのことを聞くと、大股にレエヌさんのそばまで歩いて行って、いつに変わらぬ寛容な声で、
「レエヌ、お前のほうが悪いのだからあやまりなさい。······キャラコさんは、たったひとことでいいといってるじゃないか」
レエヌさんは、踊りでも踊っているかと思われるような調子はずれなはげしい身振りで、地団駄を踏みながら、
「だれが、だれが、だれが! だれがあやまってなんかやるもんか! 死んだってあやまらない! ······あたしは、子供のときから、こんなふうにばかりして生きて来たんです! ······どうせあたしは
自分でも手に負えなくなった憤怒の情を、だれかに移してやろうというふうに、火のついたような殺気だった眼つきでまわりの一人一人をにらみ廻していたが、ピエールさんの顔の上へ眼をすえると、ツカツカとそのほうへ歩いて行って、
「ねえ、ピエールさん、あたしがこんな
······いままで炎をあげていたレエヌさんの眼の中が、急に白くなったと思うと、のろのろと
キャラコさんは、寝苦しい夜をあかした。夜あけごろ、
眼をさましたときは、もう八時半だった。あわてて飛び起きて身じまいをすると、電話で、イヴォンヌさんに宣言した。
「あたし、きょう、
イヴォンヌさんが、電話の向うで、たまげたような声を、だす。
「降りるんですって? でも、あたし、まだねむっているのよ」
「ゆすぶって起こしなさい」
「じゃ、ゆすぶってやるわ。······よいしょ、よいしょ。······はい、眼をさましました。······いますぐなの?」
「ええ、いま、すぐ。······これは、命令よ、早くなさい」
「できるだけ、あわてます。······ねえ、キャラコさん、あたし、もう、こんな
「こらこら、なにを、ぐずぐずいっている。早くしなさいったら!」
「へいへい。すぐやりますですから、あまり、お叱りくださいませんように······」
イヴォンヌさんのほうが片づいたので、ひとつずつ
「ほんとうに、楽しい思いをしましたわ。もう、二度とこんなことはできそうもありませんから、それだけに、なんだか名残り惜しいような気がします」
うるさい気持の葛藤や、昨夜のレエヌさんの仕打ちを思い出さないようにすれば、この二週間の
アマンドさんは、さすがに困ったような顔をしながら、
「ああ、せめて、そうでもいってくだされば、すこしは気持が楽になります。楽しくしていただこうと思ったのに、反対な結果になってしまいましたが、まあ、どうかゆるしてください。······レエヌは、けさくらいうちに
聖画の中の聖人のような素朴な顔を笑みくずしながら、
「ねえ、キャラコさん、······このわたしが、······こんな
そういって、温い大きな手で、キャラコさんの手をしっかりとにぎった。
いよいよランチが出るというときになると、エステル夫人もベットオさんも、さすがに名残りが惜しいらしく、キャラコさんの手をつかんでなかなか離そうとしなかった。エステル夫人が、キャラコさんの頬に接吻して、
「これは、お詫びのしるしです」
と、正直なことをいった。
ランチが、五
イヴォンヌさんが、元気のいい声で、
「さよなら、さよなら」
と、怒鳴った。
そのころになって、ピエールさんがあわてたように
六
「お若い男の方が、お嬢さまにと、おっしゃって玄関でお待ちになっていらっしゃいます」
と、女中がいいに来た。
玄関へ出て見ると、
すこし大きすぎる服を無頓着に着、踏みつぶしたような鼠色のソフトを
「あたしに、なにか御用でしたの」
「そうです」
唇も動かさずに、ぶっきら棒にいうと、帽子へちょっと手をやって無造作な挨拶をして、
「僕ア、
レエヌさんの兄さんの保羅······。そういえば、眼差しや眉のあたりが、美しいレエヌさんによく似ている。
(それにしても、あたしに用って、いったい、どんな事かしら······)
キャラコさんは、愛想のいい調子で、たずねた。
「······それで、あたしに、どんな御用?」
青年は、
「レエヌが、死にかけて、あなたに、逢いたがっているんです」
だいぶ酔っている。舌がもつれて、言葉のはしはしがよくききとれなかった。
「······ピエールと喧嘩をして
急に暗い眼つきをして、窓のほうへぼんやりと視線を漂わせていたが、右手の人差し指を曲げて

「······じつは、ゆうべ、とうとうやったんです。······まずいことには、これが
と、いいながら、ポケットから封筒にはいった手紙を取り出して、
「ここに、あいつの手紙を持っていますから読んでみてください。······僕なんかが、ぐずぐずいうよりもそのほうが、手っとり早い」
キャラコさんは、手紙を受け取るとぐっと、息をつめながら封を切った。一字一字を、どんなに骨折って書いたのだろう。ペンの先が、ところどころ、紙の裏まで突きぬけていた。
あたくしは、たぶん、不器用にやったのです。引き金のひきかたが下手だったので、弾丸 は頭のうしろのほうへ喰い込んでしまいました。しかし、弾丸を抜き出すことはできませんし、心臓にもそろそろ異常が始まっています。もう、どうせ、そんなに長いことはないのでしょう。
あたくしが弱っていなかったら、あなたのところへ飛んで行きたい。別れたピエールのことやあたしの辛かった時期のことでなく、あたしの短い生涯のうちで、いちばんはっきりした、誰も奪うことのできない、それこそ、ただひとつの実在だったあの楽しい女学生時代のお話をするために······。
あたくしは、あふれるばかりの甘さとやさしさの夢に満ちていたあの時代のことを、まいにち、無垢な感動をもって思いかえしています。
けれど、あの後のあたくしの生活はあまりにみじめで、そして、辛すぎたので、自分自身が、そんな楽しい時代を経たことがあったとはどうしても信じられないのです。どうぞ、あわれだと思って、ちょうだい。
あたくしの枕元に坐って、それがほんとうにあったことだとあたくしに、しっかりといってきかせてください。あたくしは、追憶の清冽な水でこころを洗い、いつも、そうありたいと望んでいたように、しあわせな娘のように、死んで行きたいのです。······
あたくしが弱っていなかったら、あなたのところへ飛んで行きたい。別れたピエールのことやあたしの辛かった時期のことでなく、あたしの短い生涯のうちで、いちばんはっきりした、誰も奪うことのできない、それこそ、ただひとつの実在だったあの楽しい女学生時代のお話をするために······。
あたくしは、あふれるばかりの甘さとやさしさの夢に満ちていたあの時代のことを、まいにち、無垢な感動をもって思いかえしています。
けれど、あの後のあたくしの生活はあまりにみじめで、そして、辛すぎたので、自分自身が、そんな楽しい時代を経たことがあったとはどうしても信じられないのです。どうぞ、あわれだと思って、ちょうだい。
あたくしの枕元に坐って、それがほんとうにあったことだとあたくしに、しっかりといってきかせてください。あたくしは、追憶の清冽な水でこころを洗い、いつも、そうありたいと望んでいたように、しあわせな娘のように、死んで行きたいのです。······
七
ちょうど、
水しぶきが自動車のまわりを白く立ちこめる。
キャラコさんは、レエヌさんの手紙を膝のうえにひろげ、薄暗いドーム・ランプの光でいくどもいくども読みかえす。
「悲しいわ」
じぶんの楽しかった時代を信じることができないという悲しさは、いったい、どんなだろうとつくづくに思いやる。それは、いま死にかけている、不幸だったひとだけが感じうる、やるせない懐疑なのであろう。
キャラコさんは、それをそっくり理解することはできないが、悲しみの深さだけはわかるような気がする。こまごまと思いやるよりも、あわれさのほうが先に立って、つい、ほろりとしてしまうのだった。
卅分ほどののち、自動車は競馬場の柵のそばでとまった。夏草ばかり繁ったさびしいところで、右手の闇の中に、ポツリとひとつだけ
保羅は、キャラコさんのほうを向くと、ブッキラ棒な調子で、
「あれです」
と、顎でそのほうを指した。
斜面についた細い坂道をのぼってゆくと、行きとまりの小さな雑木林の中にその建物が建っていた。闇の空で、屋根の
保羅が、門の前で大きな声で叫ぶと、すこし離れた別棟の小屋の戸があいて、
玄関へ入ると広い
保羅は、濡れた雨外套を着たままズンズン二階のほうへあがってゆく。キャラコさんは、濡れた靴を気にしながら、そのあとをついて行った。
保羅は、三つあるいちばん奥まった部屋の
雨の
窓ガラスの上を、ひどい勢いで雨が流れおちる。とどろくような嵐の音。寝台の枕元の
レエヌさんは、こんなわびしい風景の中で、一種孤独のようすで眼をつぶっていた。
片側からくるスタンドの光で、高い鼻のかげで頬のうえに奇妙な
「
と、ひくく呼んで見た。
レエヌさんは、ゆっくりと眼をひらくと、子供のように顔じゅう眼ばかりにしてまじまじとキャラコさんの顔をながめていたが、なんともいえぬ奇妙な微笑をうかべると、
「ああ、とうとう、いらしたのね」
と、つぶやくようにいった。
キャラコさんは、心からの和解の手を差しのべながら、
「ええ、あたしよ。······でも、思ったよりお元気そうで、うれしいわ」
レエヌさんは、
「ええ、どうも、ありがとう」
うわの空でいって、嘲笑するような口調で、
「ねえ、キャラコさん、あんた、とうとうやって来たわね」
と、もう一度くりかえした。
キャラコさんは、
「お手紙を見るとすぐに飛んで来たの······。ほんとに、飛ぶようにしてやって来たのよ、レエヌさん」
レエヌは、キャラコさんの手を払いのけると、瘠せた指で寝台の端をギュッと掴んで、けたたましい声で笑い出した。
「やあい、とうとう、ひっかかりやがった!」
(気がちがいかけているのかも知れない)
キャラコさんは、反射的に
いまにも吹き倒されるかと思うばかりに、ミリミリと家じゅうがきしみわたる。どこかで、風に煽られる
レエヌは、
「あなた、あの音、なんだか知っている? ······あれはね、保羅が、家じゅうの
と、叫び立てると、邪悪な喜びを隠し切れないといったふうに、また火のついたように笑いだした。
キャラコさんは、なだめるような口調で、いった。
「こんな嵐では、どっちみち、泊めていただくほかはないわ。······あれは、保羅さんが、鎧扉が飛ばないようになんかやっている音よ。おどかそうたってだめ」
レエヌは、ふん、とせせら笑うと、病人とは思えないようなドスのきいた声で、
「善人は善人らしいのんきなことをいってるわね。······おどかしなもんか、本当だイ。······要するに、あんたは、あたしたちの餌食になるのさ。べつに、どうってことはありゃしない」
キャラコさんは、あっけにとられて、
「ね、どうしたのよ、レエヌさん。······すると、自殺しそこねたというのは、嘘だったのね」
「ヘッ、ばか! ······あたいの頭をごらん。どうかなっているかい?」
まるで、手に負えないのだった。
「······では、あのお手紙も······」
レエヌは、ニヤリと笑って、
「あんな手紙、だれが本気で書くもんですか。小説の焼き直しよ。······ほら、これが
といいながら、枕元から薄っぺらな
Marcel Proust "La confession d'une jeune fille"(マルセル・プルウスト『少女の
キャラコさんが、たどりたどり読んで見ると、さっきの手紙と同じ書き出しがあった。
······ようやく、解放の時が近づきつつあります。あたくしは、たぶん不器用にやったのです。引き金のひきかたが······
この最初の二行を使って、あとはいい加減に書きそえたものだった。
レエヌは、上眼づかいでジロジロとキャラコさんの顔を見上げていたが、唇のはしを妙なふうに
「どう。感動した? ······と、すると、プルウスト氏にお礼をいっていいわけね」
キャラコさんは、しずかにレエヌさんの顔を見かえす。病気でながらく床についていたこの気の毒なひとは、小説を読んで、想像の中でさまざまに自分の境遇を変えて気晴らしをしているのかも知れない。
キャラコさんは、おだやかな笑いをうかべながら、いった。
「······あなたが、自殺しそこなう。その手紙を見て、驚いて、むかしの友達が駈けつけてくる。······二人が手をにぎる。······それから、どうなるの、レエヌさん······」
レエヌは、
「なんて奴だ。まだ嘘だと思っていやがる。······うしろを見てごらんなさい。あたしたちは、冗談をしてるわけじゃないのよ」
八
キャラコさんが、うしろを振りかえって見ると、いつの間にはいってきたのか、保羅が、濡れた髪をべったりと額にはりつけ、曖昧な薄笑いをしながら、大きな斧を持って
(どうするつもりだろう)
なぜか、すこしも危険は感じなかった。
「保羅さん、いまいろいろ、うかがっていたところよ。あたしを
保羅は、壁の凹みに斧を立てかけると、ジットリと濡れた外套の裾をまくりあげ、キャラコさんと向い合って椅子にかけながら、
「もう、たいてい察しそうなものじゃありませんか。······要するに、僕と結婚さえしてくれれば、それでいいんですよ」
事務の話でもするような、こだわりのない口調で、
「廻りッくどいことをいうのはよして、単刀直入にいいますが、もちろん、形式だけのことでいいのです。結婚式をあげて、入籍の手続きをすましたら、すぐ離婚してくだすって差し支えないんです。離婚の条件として、僕に十万円だけください。それだけのことです。たいして、むずかしいことじゃないでしょう」
レエヌが、鋭い声で叫んだ。
「どう、やっとおわかりになった? あなたが余計なところへでしゃばってきて、アマンドのほうをめ茶め茶にしてしまったんだから、それくらいの償いをしてくださるのはあたりまえよ」
キャラコさんは、たじろがない眼で相手の顔をながめながら、感情の
「お話はよくわかりましたが、あなた方がかんがえていらっしゃるように、そんなに簡単にゆくかしら······」
保羅は、ピクッと神経的に眉を動かして、
「こんなところに、三日も四日も僕と一緒に暮らしていたということが評判になったら、あなたのご親族も世間も、正式に結婚することを望むでしょう。いわんや、物固い長六閣下におかれては、なんであろうと、うやむやにすますようなことには賛成なさらないでしょう」
キャラコさんは、きゅっと口を結んで相手をみつめてから、ゆっくりと、笑いだす。
「おやおや、希望しないのはあたしだけですか」
保羅は、そっぽを向きながら、
「キャラコさん、僕は新聞社へちょっとした原稿を送ってあります。それにはね、二人が駈け落ちするまでのいっさいのいきさつと心境が、筆記体でくわしく書いてあるんです」
「なるほど、たいしたもんね。······それで?」
「二人が潜伏している場所は、だいたいこのへんと
「だれが、それを証明するの? あたしですか? それとも、保羅さん、あなたですか?」
レエヌが、甲高い声で、叫んだ。
「証人は、あたしよ。あなたと兄は、この春から秘密に結婚していたことを、婦人雑誌向きにちゃんと小説体で書いてあるの。······さっきの手紙よりも
枕の下から一通の角封筒をとりだすと、それを頭の上に振って見せた。
「ほら、ほら、これが、そうなの」
キャラコさんの
レエヌは、調子をはずした陽気な声で、
「······あたし、むかしからあなたを嫌いだったのよ。どこもここも模範だらけのあなたが憎らしくてしようがなかったの。いつか、やっつけてやろうと思って隙をねらっていたんだ。······ねえ、キャラコさん、あなたのように、お
キャラコさんが、しずかに
「もし、あたしが、いやだといったら?」
レエヌは枕をつかんで、キャラコさんのほうへ、不気味に身体を乗り出すと、
「ねえ、キャラコさん。あなた、さっき門をあけた
そして、勝ちほこったように、高笑いをした。
九
夜があけかかっていた。
キャラコさんは、もう、すっかり落ちついていた。
保羅が、新聞社へ原稿を送ってあるというのは本当だとしても、その方法はたいして成功しそうもなかった。信用のある新聞は、そんなことぐらいでたやすく動かされるはずはないし、ちょっと調査をしただけで、保羅の悪計だということをすぐ見ぬいてしまうだろう。
また、自分にしても、赤新聞が書き立てる
もともと、世間の評判などは、それほど価値のあるものだと思っていないし、そんなものぐらいで自分の価値が左右されるとも考えない。書きたてたければ、書き立てたって一向差し支えのないことだった。
しかし、そうだといって、いたずらに笑殺してしまうようなことは、あまり聡明なやり方だとは思われない。そんな意識の低いことではなく、二人の心をなだめ、充分にお互いの気持がわかり合えるようにしなくてはならないとかんがえていた。たぶん、それがいちばんいい方法なのであろうが、すっかりひねくれている二人の気持をどんなふうにしてやわらげたらいいのか、そのあてはなかった。
キャラコさんは、
頬のあたりに
これが、ゆうべ、あんな邪慳な口をきいたそのひとだとは、どうしても思えない。むかし、桜の花の散る校庭で、ひとり離れてしずかに読書をしていた、優しい
近寄ってそっと、額に手をあてて見ると、かなりひどい熱だった。頬がポッと桜色になり、うっすらと汗をかいている。息をするたびに、どこかがピイピイと
枕元の
食堂を通りぬけて料理場のほうへ行こうとすると、そこの
おどろいて、顔の上にかがみ込んで見ると、酒気と濡れた
鎧扉の隙間からくるぼんやりとした朝の光が、たるんだような保羅の横顔のうえにさしかける。頬に
キャラコさんは、
キャラコさんは、ルビンシュタイン先生のところへピアノの
保羅は、時々、先生のところへやって来ては、沈鬱な、
音楽にすぐれた才能をもち、どの青年よりも謙譲で優雅だったというその保羅さんが、
(このごろは、もう、ピアノなんかもよしてしまったのにちがいないわ)
食堂のとなりの
キャラコさんは、
オルガンは、ぶう、と気のめいるような陰気なうめき声をあげた。その音は、食堂で酔いつぶれている保羅さんの寝息といっしょになって、なんともいえぬ
キャラコさんは、説明しがたい深い憂愁の情にとらえられた。心は重く沈み、強い孤独の感じが襲いかかった。レエヌさんが、『不幸なあたしたち兄妹』といった言葉の意味が、説明もなしにそのままじかに胸にふれてくる思いだった。
キャラコさんは、やるせなくなって、逃げるようにオルガンのそばを離れて二階へあがって行き、足音を忍ばせながらレエヌさんの部屋へあがり込むと、そっと枕元に坐った。
レエヌさんは、熱が出てきたのらしく、眉の間に
「······お兄さん、······お兄さん、······また、陽が暮れかかってきたわ。······情けないわねえ。······ああ、なんて淋しいんだろう。······胸の
キャラコさんは、レエヌさんの手を
「レエヌさん、······レエヌさん······」
レエヌは、ぼんやりと薄目をあけた。すっかり熱にうかされてしまって、
「······それでも、ママが生きているうちは、まだしも生き甲斐があったわ。······学校の制服を脱ぎ捨てると、
「レエヌさん、······レエヌさん······」
「······ああ、気の毒なママ。······ママは、やはりあたしのことをあきらめ切れなくて、悲しがって死んでしまったのね。······ママが病気になって寝込んでしまったというあんたの手紙は、ヴァンクウヴァへ着いて一カ月目に受け取りました。······あたしは気がちがうかと思った。夢中になって、波止場まで駈け出したこともありました。······でも、歯を喰いしばって我慢しましたわ。······あたしは、もう、フランス人なんだと思って。······それが、日本を離れるときのママとの固い約束だったんですからね。······ママは、あたしたちに、しっかりした故郷をくれたがった。······立派なフランス人にすることがママのねがいだった。それで、辛い思いをしてあたしを手離しなすった。······ママのねがいにかけて、あたしは
キャラコさんは、聞いていられなくなって、椅子から立ちあがって、窓のそばまで逃げ出した。レエヌさんは、ああ、と深い、長い、ため息をついて、
「······日本のキモノを着ても日本人ではない。フランス語で話してもフランス人ではない。······このやるせなさを誰れも知らない。誰れも、察してはくれない。······気がちがわないのはまだしものことだったわ。······もう、どうなったってかまわない。なにか心の
とつぜん、
「キャラコさんなら、察してくれると思った。······あんないいひとですもの。きっとわかってくれると思った。······でも、キャラコさんも、やっぱり知ってくれなかった。······お兄さん、お兄さん、······キャラコさんは、あたしに、あやまれといいました。······あやまらなければ、ここを動かさない、って。······ああ、あの優しいひとまでが! ······悲しいわ。······死んだほうがましだ。······もう、生きてなんかいたくない。あまり、辛すぎますもの······」
レエヌさんの眼からあふれ出した涙が、枕の上へ
レエヌさんは、夢の中のひとのような響きのない声で、
「······お兄さん、あたしたちは、いったいどうなるのでしょうね。こんなに辛くとも、まだ生きていなければならないのかしら。······日本人でもなければ、フランス人でもない。あわれな
これが、レエヌさんのこころの秘密だった。自棄も、反抗も、無信仰も、みな、このやるせない絶望の中で熟成した不幸な気質なのだった。レエヌさんの意地悪も、強がりも、孤立も、
キャラコさんの、心はしみじみとうなだれる。この気の毒なレエヌさんをにらみつけて、立ちはだかっていた、自分のすさまじいようすを
キャラコさんは、手も足も出ないような心の無力を感じながら、低く、つぶやいた。
「······あやまらなければならないのは、あたしのほうよ、レエヌさん······」