一
秋が深くなって、朝晩、公園に白い霧がおりるようになった。
低く垂れさがった灰色の空から、眼にみえないような小雨がおちてきて、いつの間にかしっとりと地面を濡らしている。樹々の幹も、灌木も、草も、みな、くすんだ
風の吹いたあくるあさは、この小さな公園はすっかり落葉で埋まってしまう。桐や、アカシヤや、
公園の看手が箒をもってやってきて、それを掃きあつめていくつも小山をこしらえる。落葉を
公園の広場をとりまく灌木のひくい斜面のしたに、水飲み場のついた
砂場や辷り台で遊んでいる子供らを見張りながら、
しかし、もう秋が深くなったので、この小公園のなかは急にひっそりとなり、落葉を掃く看手のほかは、この休憩所へやってくるものもまれになったが、ただひとり、ひるごろ、毎日きまってここに坐っている老人があった。
汚れた
襤褸と皺に埋まったような老人もそうだが、馬のほうもまたたいへんな観物である。
横腹には洗濯板のように
おまけに、その馬は
むかし、ひどい怪我をしたのらしく、右の後脚がうんと
屠殺場へゆくほか、この世で役に立てようもないようなひどいぼろ馬だったが、手入れだけは、おどろくほどよくゆきとどいている。ちびた
老人は、いつも古手拭いの頬冠りなのに、馬は、耳のところに二つ穴をあけた黒いソフトをかぶっている。雨の日は、老人のほうは、南京米の袋を肩に掛けているだけだが、馬のほうは、古いながら
老人は、公園の入口のそばへ馬をつなぐと、馬車から
「ほら、もう、すぐぞ」
と、いいながら、両手でせっせとかきまぜる。
馬は、待ちきれないように長い首をのばし、老人の手をおしわけて、飼料槽の中に鼻先を突っこもうとする。すると、老人は片手でやさしく馬の鼻面をおさえ、片手で秣のなかの木片や小石をとりのけながら、こんなふうにいってきかせているのである。
「待ってろな。······いつぞやのように、釘なぞはいっていたら、また口を
まるで、
老人は、
「たんと、喰べろ、たんと、喰べろ」
そういいながら、着物をだいじにするひとがちいさな
「たんと喰べろ。······あわてずと、ゆっくり喰べえよ」
ところで、
馬は
すると、老人は、
「おお、よしよし」
と、いいながら、秣の屑を丹念にかきあつめ、それを
老人は、平手でやさしく馬の首をたたく。
「おお、すんだか、すんだか。······せめて、もう
そして、馬車の上の苗木のほうを顎で差して、
「あれが、一本でも売れたら、
いつの日も、判でおしたように、これをくりかえす。これほど胸をうたれる光景はなかった。
老人は、馬車の
「では、おれは、
と、いいきかせて、軽い
やれやれというふうにベンチへ腰をおろすと、弁当の包みをたいせつそうに膝のうえへおいて、ニコニコと笑いながら、ひとわたりグルリと公園のなかを見まわす。
この小さな公園の
たのしそうに、あちらこちらの繁みや藪かげをのぞき込みながら、
「
と、つぶやいたり、
「おや、
などといったりする。
花菅も、唐胡麻も、眼につくようなところにあるのではない。よほど注意して見なければわからないような、深い藪かげにあるのである。
たんのうするだけ花や草に挨拶すると、老人は水飲み台のほうへ立っていって、備え付けのアルミニュームのコップに、いっぱい水をくむ。それを口へもっていってすっかり飲みほすと、
「ああ!」
と、深い溜息をつきながら、空をあおぐ。
それは、このうえもない満足をあらわすしぐさなのだが、滑稽でもあり、あわれでもあった。
それから、ベンチへ帰ってきて、ゆっくりと風呂敷包みをとく。こんなことをいっては申し訳ないのだが、その
老人は、それを
「うむ」
と、感にたえたような声をだす。
老人は、上顎にも下顎にも一本も歯がないと見えて、口をムグムグやるたびに、皺だらけの頬がじつに奇妙な動きかたをする。上唇と下唇がいっしょくたになって、鼻の下まで飛びあがり、唇の両端が耳のそばまであがっていって、お能の翁の面のような、なんともいえぬ味わいの深い顔になる。
老人は、勿体なそうに、ひと口ずつたいへん手間をかけて食べる。しかし、世にも楽しそうなこの食事も、そうながくかかるわけではない。
老人は、指についた飯粒を唇でていねいにひろいとり、よれよれになった風呂敷を畳んで膝のうえにおくと、後味をたのしむように、うっとりとした顔でしばらくじっといる。それから、ゆっくりと腰をのばして、陽ざしをながめる。
「おお、てんとうさまがお見えにならしゃった。······それならば、この
と、掛声をかけながらベンチから立ちあがって、
「おおきにお世話さまになりました。······では、また
と、水飲み台や、ベンチや、まわりの草や
老人の姿が公園の入口の石段のところにあらわれると、馬は、いかにも待ちどおしかったというように、首を大きくあげたりさげたりしながら、ひひんと
「おう、おう、待ちどおだったか、待ちどおだったか」
と、いって、平手で、軽くその首をたたくのである。
二
キャラコさんの部屋の東側の窓は、公園の土手の真上にあいているので、そこから、広場の半分と、公園の入口と、休憩所の全部をひとめでみわたすことができる。
春から夏までのあいだは、子供たちが朝早くから走りまわるし、男や、女や、年寄りや、兵隊や、さまざまな人々が、いりかわりたちかわり公園へやってくるので、その老人だけに特別な注意をひかれるようなこともなかったが、だんだん秋が深くなって公園を散策する人影もまれになると、たとえば、木の葉が落ちて、今まで隠れていた空が急に見えだすように、この老人の存在がはっきりと目につくようになった。
老人は、まいにち同じころにやってきて、同じような単純なことをくりかえすだけなのだが、なんでもないその平凡な動作のうちに、たとえようもない人の好さと善良さがうかがわれるので、見ていると、なんともいえない豊かな気持になる。
キャラコさんは、馬を公園の入口につなぐところから、また馬車へ戻ってくるまでの、馬と老人の営みをまいにち窓からながめていた。
誰れも注意のはしにさえとめないような、みすぼらしい老人と、ふきだしたくなるような
何にもまして、キャラコさんのこころをつよくうったのは、いかにも澄みわたった、おだやかな、満ち足りたような楽しげな老人のようすだった。
せっせと
とりわけ、ベンチや、水飲み台や、まわりの草や花に、いちいち愛想よく別れの挨拶をする底知れない善良なようすを見ると、思わず、微笑んだり、ほろりとしたりする。
「なんといういいおじいさんなんだろう。いったい、どんな生活をしてきたひとなのかしら······」
じっさい、どういう
キャラコさんは、遠い憧憬に似た感情を心にかんじながら、こんなふうにつぶやく。
「いちど、あのおじいさんと、お話して見たいわ」
そのそばに坐って、季節のはなしや小鳥のはなしをするだけでも、なんともいえない楽しい気持になり、こころの隅々にまで
しかし、眺めていると、老人と馬のいとなみは、いかにも緊密で、しっくりと調和がとれているので、二人だけの深い生活の中へ、じぶんのようなものがささり込んで行くのは、いかにも心ないやりかたのように思われて、まいにちすぐ眼のしたに老人の姿を見ながら、おもいきって言葉をかける勇気がでてこなかった。
「あたしのようなものが飛び込んで行ったら、きっと迷惑するにちがいないわ。······それにしても、ちょっとお話するくらいのことはいけないかしら······」
だいぶ長いあいだもだもだしたすえ、キャラコさんは、とうとう決心した。
「こんにちは、というだけで、いいわ。······ただ、こんにちは、というだけ······」
昼御飯を早めにすますと、ひと束の
いつもの時間になると、すこし坂になった土手沿いの道のむこうに、おじいさんの馬車が見えだしてきた。
キャラコさんのほうは、馬と老人を策略にかけてちかづきになろうという下心があるので、なんとなく平気になれない。
「こんなふうにしていると、まるで、不良少女のようだわ」
不良少女はともかくとして、自分に関係のない他人の生活に興味をもって、ひと束の人参を手土産にして、うやむやにささり込んで行こうなどというのは、たしかに、あまり趣味のいいことではない。
キャラコさんが、まとまりのつかない顔をして立っているうちに、馬車はいつものところでとまり、老人は馬車のほうへのびあがって
キャラコさんは、それをぼんやりと眺めながら、足踏みでもするような曖昧な身振りをする。そのはずみに、うしろに隠していた人参が、ごつんとふくら
(ああ、そうだっけ!)
三四歩
「おじいさん、こんにちは。······あたし、公園へ散歩に来ましたのよ」
老人は、秣をかきまぜる手をやすめて、ゆっくりとキャラコさんのほうへふりかえると、片手で頬かぶりをしていた手拭いをとって、
「やあはれ、それはお元気なこって······。いやはや、こんなところへ馬車をばつなぎまして、お邪魔なこってござります」
キャラコさんは、へどもどして、
「いいえ、そんなことはありませんわ。いつまででもつないでおいてちょうだい」
老人は、それこそ、橋がかりへ出て来た高砂の
「そんならば、ちょっとの
と、いって、またゆっくりと秣槽を取りおろしにかかる。つぎ穂がなくなりそうなので、キャラコさんは、あわててでまかせなお愛想をいう。
「おじいさん、ずいぶん立派な馬ですね。······それに、利口そうな顔をしてますわ」
老人は、皺だらけの顔を笑みくずして腰をのばすと、可愛くてたまらないというふうに、馬のほうへ
「······こんな片輪ものですけに、立派ということはござりませんがな、気のいいことにおいては、けして、ほかの馬にひけをとらんのであります」
「それに、元気そうですわ」
「いやはや、わし同様、すっかり老いぼれてしまいまして、はやもう、なんの芸もないのでござります」
「そんなに謙遜なさらなくてもだいじょうぶよ。だれが見たって感心するにきまってますわ。うちにも一匹おりますけど、とても、この馬とはくらべものになりませんの」
「お嬢さま、あなたは、ほとほと馬がお好きと見えまするの」
「ええ、大好きですわ。でも、こんな立派な馬を見るのははじめてよ。······なるほど、すこし
老人は、嬉しそうにうなずいて、
「はい、仰せのとおりなのでございまする。何がどうあろうと、情け知らずでは駄目でござります。けだものと人間が、ながねん連れそって暮らしてゆくには、お互いの親切がなくてはやってけんのでござります」
そして、皺の中へ眼をなくして、また、いとしそうに馬のほうへふりかえりながら、
「こいつはまァ、気のいい、ひと

老人は、夢中になって、人の好さそうな顔を紅潮させながら、
「ああ、じっさい! なんということでござりましょう!······
そういって、うれしさのあまり、感きわまったように身ぶるいをした。
ああ、この老人は嘘をいっている!
ようやく
しかし、これを嘘といってはいけないのであろう。老人は夢を語っているのだ。貧窮のなかで、この夢想だけが老人の慰めなのであった。
もし、誰れかが、
(おじいさん、あなたは、たいへんな嘘つきだ。あなたは、この馬に、すこしばかりの乾草と、ひと握りの糠しか食べさせていないじゃないか)
と、いったら、この老人は、絶望のあまり泣きだしてしまうにちがいない。
キャラコさんは、どうしていいかわからなくなってしまった。喉の奥のところに、固いものが突っかけてきて、すんでのことに、涙を見せるとこだった。
老人は、酔ったようになって、いかにも誇らしそうに両手を
「······いま申しましたように、たとえようのない我ままなやつではありまするが、そうならばそうで、いっそうに愛らしく、はや、どうにもならぬ始末なのでござります。······まったく、こんなしあわせなやつは、この世にまたとあろうとも思われませぬ。······あの顔をば見てやってくださりませ。······なんという
たしかに、こういう見方もあるのに相違ない。
頭の禿げた、悲しげな顔をした馬は、いかにもひだるそうに、力なく横腹に波うたせながら、首を垂れ、うっそりと眼をとじている。しかし、仮に、老人の意見を認めるとすれば、
キャラコさんが、感動の極といったような声を、だす。
「そうだとすれば、なんという贅沢な馬さんなんでしょう! そんなしあわせな馬さんなんて、あとにもさきにも聞いたことがありませんわ」
「じつに、はやもう!」
「あたし、この馬さんを見たとき、なんというおっとりとしたようすをしているんだろうと、思いましたの。まったく、理由のないことじゃありませんでしたわ。そんなにだいじにされて、したいようにしているのだから、それで、こんな上品な顔つきになるのですね」
キャラコさんは、嘘をついたのではない。ほんの、ちょっとばかり、誇張したのに過ぎない。老人の夢に賛成することが、老人を慰めるいちばんいい方法だと思ったから。······そして、ひょっとして、こんなふうにでもいったら、見向きもしないというこの長人参を、
背中に隠している長人参の葉が、キャラコさんの手のなかで火のように燃える。なんとかして、この
ともかく、老人は、すこしばかりいいすぎたようだ。今となっては、どうしたってこの長人参を受けとるわけにはゆくまい。
(長人参などときたら、くわえても見ようとしないのでござります)
そのひとことが、たいへんな
ああ、じっさい! キャラコさんのほうにしたってそうだ。こういう経過のあとで、この人参を受けとらせようとするのは、なかなかなまやさしいことではないのである。
水気の多い、見るさえ
歯のあいだで噛みしめたら、口のなかが清々しい匂いでいっぱいになってしまうにちがいない。シャリシャリいう、なんともいえない歯あたりと、どこか、すこしばかりピリッとした甘い
四半桶の
ほんのちょっとしたことだった。長人参の悪口さえいわなければ、馬も老人も、わけなくその喜びを味わうことができたのだった。
キャラコさんは、
キャラコさんが、そろそろと切りだす。
「······ねえ、おじいさん。······これは、ほんの
「ああ、ありそうなことでござります」
「······それで、ご
「はい、それは、ものによるのでござります」
「すると、気にいったものなら、食べてもらえるわけなのね」
「かくべつ、遠慮するようなこともいたしますまい」
「もし、長人参だったら、どうでしょう」
「いやはや、それは······」
「やはり、喰べませんかしら」
「
「無理に口へ押しつけたら?」
「ああはや、飛んでもない! そのようなことをして、こやつに、フウッと太い鼻息でもひっかけられなんだら、そのひとのしあわせというものでござります」
「······でもね、おじいさん。······あたしたちなら、ひとの親切を感じたら、どうしても
老人は、
「いやはや、こやつでは、とてもそういう都合にはゆきますまいて······。鼻の先へおしつけられさえすれば、見さかいもなく、なんにでもむしゃぶりつくような馬とは、育ちがちがうのでござります。······見てもくださいませ。······あの上品らしい口が、ブランと長人参をくわえるありさまなどは、考えるだも、身の毛がよだつような思いがするのでござります」
キャラコさんが、ねじのゆるんだような声を、だす。
「なんという気品の高い馬さんなんでしょう。ほんとうに、感心しましたわ」
こんな棒切れのような長人参などを二人の前へさしだしたら、馬も老人も、軽蔑のあまり笑いだしてしまうことだろう。ひょっとしたら、
キャラコさんは、老人にも馬にも見えないように、後手で人参の束を地面へずりおとすと、靴の
「······おじいさん、あなたのおっしゃるとおりですわ。······長人参を食べる馬なんか、ほんとうに、下等ね」