私は半生をつうじての貧困の生活を、昭和初世の滝野川と杉並馬橋とでおくつた。場末の洋食店に女給をしてゐた、醜貌の上に無教養至極だつた女との腐れ縁の生活が絶えようとしてはまた続き、常に順環小数のやうな別れ話の繰返しに漸く私の生活は精神物質共に日に/\不如意とはなつて行く許りであつた。その上はじめ西ヶ原の雪中庵ちかくの西洋洗濯店の二階借りをしてゐたのがやがて近傍の陋巷に佗びしい長屋の一軒をみつけて移り住んだとき、関東節薄倖酒乱の天才小金井太郎の一家が何と落魄最中の私をたよつて寄食して来た。さらぬだに不如意であつた私の生活には当然それが二段三段の拍車を掛け、つひには収拾す可からざる状態にまで陥つてしまつたので、その年の歳晩、たうとう私は居候の太郎一家を置去りにして夜逃げをしてしまつた。流寓逃亡の記憶は、それが二十代のことでもあり、今日しづかに考へて見れば却つて尊い人生読本の一頁とも感じられてさら/\悲哀とはおもはないが、この不遇なりし生活のため、愛蔵の盲小せんの「ハイカラ」、故円右の「五人廻し」その他貴重の故人吹込のレコードを入質したまゝながしてしまひ、悠久に再入手の機を得ないことは返す/″\も遺憾に耐へない。この間の悲喜劇に付いては未発表の小説「
でも、かうした貧寒困窮の生活の中で尚且私は左の荷風先生模倣の身辺小記などを某々誌へと発表してゐた。元より私の手許からは夙に散逸してしまつたものを、先生小針正治君からおくられたのである。抄して見よう。
北豊島の
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雪また雪||このごろ、いたく雪多し。さんぬる十日の大雪の夜は、浪花節の木村某、はなしかの柳家なにがしらとお
予が、少年の日は雪いたく降り、東京街々、見上ぐる許りの雪だるま作らへられしこと屡々なりしが近年にては稀のことなり。わけて、上野の広小路なる前述の雪の狸など亡祖母よりしば/\聴かされし、江戸末年の大雪に、新川なる酒蔵に丈余を超ゆる雪達磨
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なつかしといへば、同じ雪の夜、席ハネてかへれば天の美録の生一本、すでに長火鉢の銅壺に沸れり||好物のすゞこなど肴にひとりいさゝか傾くれば、
今日私は読者と共に旧稿を再読して見て文壇と家庭とに指標を見失ひ、深酒を煽つては端席の高座に、文士くづれの落語家として出演してゐた時代の落莫たる己の姿をあはれ憫然なりしものよと云つた風な感情を以ておもひ泛べないわけには行かない。文中の浪花節語りとは初代重松門下で甘美感傷の節調を有しながら誇大妄想の性癖が累をなしてよく中流以上の看板とならず、終戦直前、甲州の山村に疎開後病歿した木村重行である。私が小金井太郎と酒間の交りを結んだのは、この重行らと場末の寄席を打つて歩いてから半年位のちのことであつたかと記憶してゐる。文中いま一人の落語家柳家某とは、今日爆笑諧謔の現代落語に隆々の名声高い柳家権太楼君。同君も亦当時は私と同じく至つて雌伏悶々の準備時代に過ぎなかつたのである。
でも拙文は、いかに心境の荒涼、家庭の非を秘し隠して、まるで日々是好日と云つた風な清福の文字許りをば飾り列ねてはゐることよ。私をして云はせるならば、せめてもかくは太平逸楽の文字を装つて、身辺の荒蕪を救はむものとあはれ心にもない智恵を振絞つてはゐたのである。蓋し当年の私の一寒境涯を知つてゐる人たちは私のこの言の嘘許りでないことを容易に諒解して呉れるであらう。同時に又、貧乏をすれどこの家に風情あり。質のながれに借金の山と落語「狂歌家主」を地で行つた心構へのあつて、辛うじて私はよく貧困の生活にも敗北してしまふことなく、今日只今までめでたく馬齢を重ねて来られたのでもあらう。頃日も程遠からぬところに住む新進探偵小説家楠田匡介君は、画描きでその画面に己が生活の貧苦の
さて滝野川界隈には江戸伝来の名所旧蹟が寡くない。飛鳥山は私に佑天吉松父子対面の巧緻だつた先代東家小楽燕の悲愁の諷ひ尻を想ひ起させ、王子扇屋海老屋の名は「鼻きゝ長兵衛」「王子の狐」の落語、また幕末の破戸漢青木弥太郎の事蹟などを切りに念頭に泛ばせて呉れた。徳川何代将軍かのお成りの名園の名残り、無量寺の小庭、一里塚の榎、先日物故した常磐津松尾太夫の稽古所。一日私は、岡本綺堂先生に母と妻とを伴ひて、滝野川の紅葉を見ると前書して、
掛茶屋の紅葉弁当三つ買ひぬ
と云ふ句のあるのを知つて、殆んど小遣ひにも事欠く日々なのに態々紅葉寺まで小金井太郎と杖曳いたことがあつた。滝野川の渓流に影映す紅葉の美しさはそのときも未だ辛うじてほんの些かのこつてゐたが、憩ふ可き茶亭とてなく、紅葉弁当の風流は已に二た昔も前に亡びつくしてしまつてゐた。尤も仮にその弁当がのこつてゐたとしても、到底その折の私たちには、懐中それを購ふ可き持合はせはなかつたこと云ふまでもない。呵々。「王子の狐」と云へば、此を放送した四世柳家小さんはそのまくらで、大江戸の昔年々の除夜に王子装束榎の下へ関八州の狐が寄りつどつて狐火を燃やしたと云ふ広重浮世絵の光景を説き、私共はその事の真偽如何を質すよりも暫くその伝説の風流さを渇仰す可きでせうと断じたは、流石に俳諧の道に遊ぶこの人の識見らしくして愉快であつた。古川柳にも「元日に関八州の毛を拾ひ」と王子狐火に材した吟詠がのこつてゐるので、私の江戸文学の師たる川柳久良伎翁は、そのころ大晦日の一夜を必らず同好粋士と計つては王子扇屋に狐火句筵を催されるのが常であつたが、いかに物価低廉の当時とは云へ、妓を侍らしての一夕の会費は当然一人前二十金ちかくを数へてゐたから、陋屋から指呼の間にある扇屋での旧師歳晩の雅宴へ私はたゞの一回も出席することができなかつた。当時の私の生計は到底江戸伝来の料亭扇屋の佳肴を口に入れられるやうな贅は許されるものでなく、偶々懐中の裕なるときとて高々濁酒の酔を買つて権現境内秋祭の一夜あはれにもいとしい猫と鼠の見世物など覗いて見るのが関の山の日夜なのであつた。
さてその私がどうやら今日、除夜狐火の饗宴にも世間様並の会費を支払つて席末に列するを得るやうになつたとき、催主たる久良伎翁は已にこの世を辞してしまつてをられて年久しい。尤も私は同門の吉田機司医博を談らつて、古川緑波、徳川夢声両君と雑誌「川柳祭」を刊行中であるから、適当な世代が来たとき今度は私たちが発起人となつて大年の一夜を
国破れて山河在りと往昔の詩人は歌つたが、私共旧東京人は国破れて山河も共に喪つてしまつた。「王子の狐」に冴えを示した四世小さんもそれから月余、急逝したことを何としようぞ。
(昭和丁亥盛夏記、同年初冬追補)