一人は
太古からかれない泥沼の底の主、
山椒の
魚でありたいといひ、ひとりは、夕暮、または曉に、淡く、ほの白い、小さな
水藻の
花でありたいと言ふ、こんな二人。
一人は
澎湃奔放たる濁流を
望み、ひとりは
山影の
苔清水をなつかしむ。
『
水清ければ魚すまず、駄目だよ。』
『そのかはりに月影が澄む。』
山椒の
魚たる主人と、清からんとして、
山椒の
魚の住みにくいのを忘れてしまふ私との問答。
良人操縱なぞ夢にも知らず、正直まつぱうを
眞かうにかざす。知つてゐるのは、夫も癖の多い人間で、神ではおはさぬことと、もひとつ、惡魔とも懇意な小説家であるといふこと。
世間の男、一度は可愛いと言つたであらう口の下から、夫婦は戰ふのだと、憎々しく言ふ。だから、此處へ、劒法の極意といふやうな譬へをもつて來ても、をかしくはないでせう。
敵を突くには斬られるつもりで
|| そこで悟つて曰く、
『操縱するとは操縱されること。』
これでもう、この『
良人操縱』といふテストはすんだやうなもの、わたしは
のんきに、花を見、空をながめ、小鳥の巣の卵を覗いてゐる。
ま、お茶を一杯。
すつかり青葉になつて、五月の風が吹いてゐる。青葉をもめば青い
液が出るやうに惱めば思ひはかぎりない。が、何ごともそれにばかりぴつたり執しすぎると、自分の重苦しさに堪へられなくなる。結局墓穴へたどりつくまでの旅を、一日一日と歩くなら、お互ひに氣もちよくゆくこと。
伴侶といふ言葉には味がある。
三上於菟吉の『
崇妻道歌』によれば、彼も
細君操縱については
干物にしてたべるところまで
悟入してゐる。
一生の重荷となれば、憎くもなり、
投りだしたくなる方が道理で、これは『
細君』であるからの退屈ではない。花火的の情熱の
對手なら、猶更その負擔と欠伸は早く來る。
||わが
生命をいつくしめ。生活を
興覺めたものにするな
|| そこで、
斬死の覺悟で對手の
胸もとに飛込んでゆく。
わたしといふのんきものは、沼の主山椒の魚の嘆息にさざなみたつ、遙か遙かの頭の上で、水藻の花と咲いてゐる氣持ちでのどかに居る。時折、山椒の魚動き出しての問答が、
『水清ければ魚すまず、駄目だよ。』
『魚は住まずも月が澄む。』
も一度テストに答へます。
『操縱されてるやうに見える
良人なんて、煮ても燒いても食べられるのぢやない。』
(昭和二年六月・女性)
沼の主山椒の魚を望んだ三上於菟吉の『崇妻道歌』に答へさせられた小文。
『崇妻道歌』
一聯があると、彼の面目躍如たりでこの一文も
生るのだが、殘念ながら函底に
見當らない。