暗い窓から
地球が吸ひよせる雨||そんなふうな降りだ。
六十年ぶりだといふ暑熱に、苦しみ通した街は、
叩きつける雨の勢ひは、
私は、硝子窓を細く細くあけ、口をあけて
私が、肘かけ窓の柱に凭れて、一人所在なく起きてゐる二階は、細い、長い
小ブルヂヨア町なのに、その、くひちがひの一角だけが謙遜な平家建ばかりで、斜向ひの角家は、表側に引窓をもつやうな舊式な長屋だ。それを見くだすやうに、こんくりーとの石段を入口に三段ばかりもつて、何處もかもガラス戸で、安普請のくせに傲然と他の二角を見下してゐる、現代式の貸家だつた。
夜の
||何時の間にか、雨はあがつた。青い光が硝子戸ごしにカーテンに明暗する。濕氣が病人にあたらない方の小窓へいつて見ると、一氣に夏が押流されてしまつたやうな高い空に、眞新しい月が出てゐて、月の面前を、薄墨雲が、荒々しいほどドンドン走りすぎてゆくのだ。
もうやがて、いつもならば、寢苦しがる家の戸が繰りあけられるに近い時刻なのだが、しつぽりと世間は寢しづまつてゐる。
空を見てゐる私も、頭はハツキリしてゐるのに、體がぐつたりしてしまつた。適當に病室の空氣を入れかへて、さつぱりして柱にもたれると、氣が遠くなつてゆくやうだつた。
とろとろしたのだらう。私はハツと驚いた。
||忘れちやいやよ||
と、ばかに元氣な蠻聲に耳を打たれた。窓の下からだ。吃驚りしてカーテンの下から覗くと、トラツクから
「わ、すう、れえ、ちやあ、いやあ、よ||」
と、奇聲をあげる瞬間だつた。流行歌謠だつたのだ。
不思議なことに、このくひちがひ袋小路は晝間は平凡な、薄い人通りで、夜更けになると、ありのままの、好い人間たちが遠慮なく通つてゆく。
ここへ、そんなことを思ひくらべたと書くのは、誠にをこがましいが、私は幾度か思つた。源氏が六條のほとりの、夕顏の

私は、大型のマンホールを横つ腹にひかへてゐる二階で、
キーツと止ると、パタンと扉を押す音、自動車の客席は、白い強い明りに、パツと切ツ
しかし、深夜の聲は、さうベラベラと話しつづけてゆきはしない。聲といひはするものの、私の耳にするのはほんの一言か半言、しかも素通りをしてゆくだけなのだが、わすれちやいやよ氏同樣、中々味な印象を殘してゆくものだ。
||あの女を引つ張り拔かれちやつたら、呼びものはねえや。
これは、若い、パナマ
||だからよ。と、洋服は上衣を脱いで、肩にかけると、そこへまた、圓タクがガタリと止つた。四人下りた若者が頭を集めて、小錢を出しあつてゐるのを、運轉手が顏を出して見てゐるので、洋服は默つて行つてしまつた。暫くたつと、
||何がなんだと。
と、威張つて
丁字路の、|の方から曲つてくる黒い姿がある。三個で、ひよろひよろ、よろよろと、洋服の野呂松人形のやうだ。××が光つてゐる。互に小楊枝をせせつて、小脇に土産折の新聞包を抱へてゐる。一人が何かいはうとしては、キユツといふだけなのに、あとの二人は、しきりに、こつくりこつくりと頷きつづけてゆく||
明るい室で
そこまでは去年の夏の話だが、今年もおなじ時節がめぐつて來た。あの二階で病んでゐた三上於菟吉も、恢復期を我家で靜かに養つてゐて、氣づかつたこの暑熱にも中々強い。私の方が氣が遠くなるやうに暑がり、眠がつてゐる。
そこへ、春子
||これは本當の話で、
そこまではまじめだが、
||なんしても、米の水一斗も、毎日攝取してゐたのだから、條虫の榮養はおどろくばかりよくつて、飮んでやる機械になつた人間の方は弱つちやつたわけで、結局條虫が酒豪だつたつてことになるのね。うン? なに、そりや直ぐに出た。うまい酒が、今日は來ないなと、奴さん大きな口をあけて待つてたから、一日絶酒したあとへ來たやつを、ガブリとやると藥だつたから、すぐ
||その人は
私はその時、ふと、わにのことを思ひだした。去年大石千代子が、サンポーロから歸つて來た時から、鰐をほしくないかといつてゐたがこんどフイリツピンヘ行くので、鰐をどうしようといふので、春子の畫室へ吊しておいてもらつたらいいといつたことを、傳へておかうと、
||さうさう、春ちやん、鰐を二ツあづかつておくんなさい。
春子
||一匹くれない? 小さい奴は柔らかいからハンドバツグにしても好いし、もすこし大きければ、靴と鞄だ。
と慾ばつたことをいつてゐる。それを聞くと私はクツクツと笑つた。
||貰つて來た大石さんも、小さければ置物になると思つたのだつて。日本人で、とても鰐を釣るのがうまいと自慢する人があつたので釣るといふから、ちつさいのに違ひないと、ひとり合點で、お土産に釣つて下さいと頼んでおいたらば、いざ出帆といふ時に、汽船へ擔ぎこんで來たんだつていふの。
||え、擔ぎ込んで來たつて? 一體どれくらゐなのなの。
||一間以上、もしかするともつと大きなのかも知れない。なめし賃が高くなければ、何かにこしらへて、
と、いふと、分けるより一匹の方が好いと思つたのか、
||でも、いいや、皮なら。
と春子
||皮ぢやないよ、本ものの剥製だから、ちよいとグロテスクで、預けるのにもてあましてるのだから、春ちやんとこの二階の畫室へ吊しておけばつて、いつてあげたの。あなたなら氣味わるがらないだらうし、繪にも描くだらうからと思つて。
あははは、あははは、と彼女の甲高い笑ひはとまらない。笑ひ笑ひいふには、
||早速新聞から寫眞をとりに來て、春子さん、鰐を兩脇に抱へてください。もつとわににあなたの顏をおつつけて、つてなことになるなア。
あははは、あははは、とそこにゐるものたちは、みんな笑つてしまつた。
まさに、春子

||ニユージーランドではね、女もまるはだかの島があるのだつて、おふんどしは、女も木の葉だつて。
||は、これはまた、とんだ事をいひだした。
さうはいふが、
||でね、女が裸で、トカゲや蛇を生で食べてるのだつてさ。文明國の女は、
||壯快だなあ、なあに、鯉の
||火食鳥の卵が好きだつてさ。
||今に、南洋産火食鳥の卵の新鮮なのがありますと、銀座あたりで賣出すかも知れない。
その、まるはだか美人が來て宣傳するかも知れないが、まるはだかでなければ意味ないからなぞと、話はみんなが口を出して混線した。
處女は鉢卷をしてゐるのが
||美人は、縮れつ毛で、凄いやうに髮の毛がおつたつてるんだつて。
||あははは、パーマネントを逆立てるのがはやつたら大變だ。みんな不動さまスタイルになつちやふ。
||パプーアつて、チヂレツ髮つていつてるんだつて、其島でも。
そこで私は、毛の薄い、昔の軍學者のやうな、春子
||そこの土人でさへ、鰐は厭がるんだつて。
(「東京日日新聞」昭和十二年八月十一日)