静かな秋冬が来る。わが国も、幸福な月日が廻つて来て、神の心も明るくなつて来て居られることゝ思ふ。秋からさきは神事が多く、従つて神の心を賑はし申す行事が、社々で行はれる。耳を澄すと、どこの野山、かしこの町中などに、必日毎に神祭りの楽器の音がしてゐる。秋ばかりに限つた事ではないが、此時期にかう言ふ神事の多く行はれるのは、理由のあることである。祭りがあると、芸能めいた所謂神賑ひの行はれるのが普通である。今日の人は、之を余興のやうに思つてゐるが、其は違ふ。祭り自体にとつて、極めて重要な部分だつたのである。
其等の中、特殊なものでない限りは、
神遊びは、神の行はれる遊びを言ふ義で、「あそび」と言ふことに意義の中心はある訣である。昔は鎮魂と言つて、人の身に魂を鎮める行事があり、それを行ふ時期があつた。其を行ふ方法も色々あつて、地方々々、家々で、実に多くの鎮魂法が行はれてゐた。併し、其等には皆共通した所があつた。歌をうたひ、楽器を鳴らし、舞踊を行ふことが其である。さうすることによつて、よい魂が人の身に鎮るものと信じてゐたのである。後世は、神事を離れた、遊びと言ふ語が広く行はれることになつたのである。
そんな訣で、冬には何となく、心の温まるやうな神事が行はれるのであつた。鎮魂行事のあつたのは冬の事であつたが、収穫祭が秋、其に続く鎮魂祭が冬と言ふ風に、祭りを中心に時の名を称へたので、秋と言つても、冬の中にもなり、又暦の考へが変つて、秋に行ふ祭りだから、暦の上の秋季にすると言ふやうなことにもなつて、秋冬にわたつて、祭の種類が次第に分化して行つた。さう言ふ神遊びの中に、
相撲などは、神事として、因縁の古い占ひであつた。秋に這入つてまづする農事の占ひは、このすぽうつによる外はなかつた。其が、宮廷にも、諸国の社にも催され、遂に芸能の神事として、人の心に大きな喜びを唆るまでになつたのである。神事から出て芸能化したいろ/\の神賑ひを思ふと、信仰の根深さ、又形を変へて永続する強い意力を感じる。打毬・馬術・
かうして日本の神々が、芸能を深く愛好せられると言ふ印象を、昔の人は持つやうになつた。荘厳な雅楽||又、舞楽||が、神事芸能に入れられたのも、かうした古人の理会から来た。田楽・猿楽の如く、中世から近世へ栄えた芸能も亦、最神事に縁の深いものであつた。武術などはまさか、と思ふ人もあらうが、此亦相撲同様、勝負を以て判ずる占ひの基準として、祭時に行はれたものが多かつたのである。
かう言ふ風に祭時に当つて、神社は芸能綜合の機能を発揮するのであつた。花などは、寺方からのみ起つたものと思はれてゐるが、之が純日本的起原を溯れば、やはり神事に帰する所もあり、最縁遠かりさうな茶の湯・香道などが、やはり神事に関聯してゐた。春日若宮祭りの夜の神幸には、盛んに香を

我々は、神が様々の芸能文化を分出し、又新しい芸能をとり容れて来られた迹を眺めて、今後の祭りの益賑々しく、栄えゆくことを思ひ、心自ら豊かなるを禁めえないのである。