大体の感想は、日本青年館での合評会で申し述べたから、其機関雑誌「青年」に載る事と思ふ。其を御参照願へれば結構である。たゞ爰では、熱心な傍観者が、日本国中の手のとゞく限りの民俗芸術を、真の意味に於て自分の実証的態度を鍛錬する気組みで見て歩いた、さういつた態度を離さないで、今度も見せて貰つた其感想を記録して置きたいと思ふのである。
日本青年館の此事業に対する毎年の苦労と言ふものは実に感謝に値すると思ふ。ついでは、柳田先生、高野博士、主としては訓練のない田舎の芸術団の為に、骨を削る様な苦労をして下さる小寺融吉さんの努力を、我々会員は協同にねぎらはなければならない気がする。たゞ忌憚のない感じを申すと、あまりに小寺さんの近代的審美感から、極めて僅かではあるが、時々
尚一言、芸術的態度に就いて申したい。青年館の立ち場からすれば、新しい綜合芸術を田舎生活へ与へようとする点に、意義を見出しても居られるのであらうが、我々から申すと、其ならば今少し大胆な修正を加へていゝと思ふ。しかし、さうした修正は、うつちやつて置いても、刻々に地方々々で行うて居るのであるから、此催しでは、たゞ地方造型美術の展覧会を開く意味に於て、あまり芸術的と言ふところに目標を置いて戴かない方が、演出者も楽であり、見て居る我々も、真の過去の生活を顧みさせられる事になると思ふ。
青年館の事業に於てだけでなく、田舎を歩いて見ても常に感じる事であるが、日本の現在の民俗芸術の出発点が比較的近代にあり、而も、其本源が極めて単純で、今尚分化の過程の複雑でない事を思はせる事が屡である。殊に今度のものに於て一層此感が深められた様な気がする。合評会の席上で此事を話して、柳田先生から大分訓戒を戴いたが、どうも其気持ちは、やはり移らないで居る。大体に於て、念仏系統・万歳系統、此二つに分れ、而も其が近世の演芸者の演芸種目の関係上、混乱を来して居ると言つた、極めてものたりないと言はうか、寂しすぎると言はうか、当代の隠者、榎本其角でもあり、平賀源内でもあり、又、原武太夫でもあり、更に最適切には蜀山人を思はせる偉才兼常清佐先生をして、極端なる無視と残虐を
其中、やゝ俤を異にしたものは日向児湯郡の臼太鼓踊りであつた。此には、南国の種子を十分に有して居る事が見られ、前の二つのものよりは、根本に於て古代が窺はれると思うた。でも、其演技法に於ては、かなり近代化したものを見た。私どもは、舞踊音楽の専門家でないだけに、或点には囚はれないで、其ものゝ本質を見る余裕を持つて居る様な気が、他の方々の話を聞いて居る中にしたのである。此踊りが、最現代の生活に受け容れられ易い事は事実でもあり、訓練其外の行き届いて居る点では感心させられて居るが、不幸にして王様の襯衣を空想化出来なかつたあらびやんないとの子供の様な門外漢は、如何に芸術味を要求しないとは言へ、此を芸術国へ持ち出さうと言つた一部の企てと其勇気には驚かずに居られない。
全体、臼太鼓踊りなるものには、名前は一つでも、いろ/\違つた、とんでもない種類のものが含まれてゐる。だから、此一つでは、九州南部はもとより、南島地方の臼太鼓踊りの標準的のものと言ふ事も出来ない。寧、臼太鼓踊りの名をかりた他の民俗芸術と言ふ方が正しいと思ふ。念仏踊り・万歳の外に立つ唯一のものとして挙げた此ですらも、御覧の通り、其音頭・囃しは極端に念仏であつた。此では、悲観しないでどう居られよう。此は、鹿児島の
要するに、成年戒の時にあたつて行はれた激しい南島風の舞踊が、次第に他の民俗芸術を含んで変化して来たものに相違ない。あの背に背負つた、我々を喜ばした、丈高い指物は、確かに或時期に於て伊勢踊りの要素を含んで来た事を示して居る。即、お伊勢様から貰つて来る
伊豆新島の盆祭り祝儀踊り。これも近代に、念仏者||門ぼめ・家ぼめの万歳式を含んだ||が此離れ島へ渡つて、青年期を印象する舞踊の上に俤を止めたものと思はれる。而も此には、伊勢踊りの要素が十分にとり込まれて居る事は、其演芸種目に伊勢踊りのある事から見ても知れる訣だが、第一、傘ぼうろくと称する、其
更に、此は偶感的な事ではあるが、此盆踊りの中に、或はたゝら踊りの系統が色濃く流れて居るのではないかと感ぜられた。あの扇や足の遣ひ方に、たゝら・棒づき||どうづき||或は堂供養の要素が濃厚に見られる様な気がしたのである。
同じ系統のものに、飛騨宮村の神代踊りがあつた。此踊りに対する一般的の批評は、新島の盆踊りと対照して、其時代が遅れて居る、其だけ芸術的に或洗練が加はつて居ると言ふ点にあつた様だ。後半の批評は、芸術批評は控へねばならない私にも訣る様な気がする。けれども、前半の批評は、其が全体の為組服装などの点から出て居るところを考へると、遽かに賛成は出来なく思ふ。為組の中にも、部分的に変化があり、固定がありする点を見なければならない。殊に服装の上では、其が行はれる場合を考慮において見なければ問題にならない。所謂桃山時代以後盛んになつて来た上覧踊りに於ける庶民の服装が、更に時を経て洗練せられてあゝいふ風になり、又、或期間の中絶が、此を一層華美に飛躍せしめた処なども考へて見なければなるまいと思ふ。
此踊りで注意すべき点は、あの一群が四組に分れ、各組に一人宛、女に扮した、さうして風流笠を戴いた男の交つて居る点である。此は数个の
会津の玄如節は、非常に統一のついたものであつたが、一点のもの足りなさがあつた。あまりに自由で、少しの拘泥もない、と言つたところが、却つて欠点だつたのではなからうか。それに、芸を見せると言つた意識のある事が我々にも感じられた点が、如何にも残念だと思はれた。あれでは、どうしたつて向うに磐梯山が聳えて居るとは思はれない。会津平野で踊つて居ると言ふ気持ちでなく、やはり東京の人達が見て居る前で踊つて居ると言ふ意識の方が強く、如何に自由な踊りぶりであるかを見てくれと言つた気持ちが、我々の胸にも這入つて来た。勿論、其が同時にあれの面白かつた所以でもあるのだけれども、まう少し、さうした優越感のなかつた方がよかつた様な気がする。だから、さうした優越感のあつた人ほどいけなかつた。人を指しては気の毒だけれども、あの中では一番うまくもあつたのだらう。それにいろ/\他人の世話をやいたりしなければならない地位にあつたんだと思ふが、最後に水を飲んできつかけをつけた人があつたが、あの人から受けるものが一番感銘が不純だつた。此点では、水を飲ました演出者にも不平はある。しかし、日本のかうした大衆的な芸術に、あゝしたせんちめんたりずむな気分は、最早滅びる時期が来たのだと思ふ。勿論、大衆芸術には当然感傷味がなければならぬのではあるが、現代では、さうしたせんちめんと以外に、もつと外の或ものが加はらなければならぬのだと思ふ。
たゞ、爰で民俗芸術史の立ち場から感じた事を一言申して置くと、普通我々が言ふ長篇の
淡路の大久保踊りに就いては、或晩一緒に見て居た北原白秋氏が、此と同じものを大分の
尚此機会に述べて置くが、私は、いつでも此郷土舞踊の会に、日本の舞踊の一原理になつて居る、極かすかな演劇的な味を含んだ、演劇的なものが避けられ勝ちな傾向にあるのを遺憾に思うて居る。若し此が、職業的であると言ふ、或は都会的であると言ふ事の為にさうされて居るのであるとしたら、そこに尚一層の苦心を願つて、都会的・職業人的でないところの演劇舞踊の発見と紹介とを一つの標目にして戴きたいと思ふ。でなければ、我々は、少くとも平安朝以後の歌謡・舞踊に通じて居る一大原動力を見落す事になるのである。
何にしても青年館の毎年の努力に対しては、二本の手では賛成し切れないほど厚意と満足とを感じて居るのであるが、外の方々も既に感じて居られる様に、こゝで一飛躍をしなければ、演芸種目の上に或固定が出来る事は事実である。其には、かう言ふ方面を考へて見る事も、確かにさうした方面の一活路を開く事になると考へられるのである。
あまり長くなつたが、あとの二つに就いて一言だけ言うて置かう。
隠岐のどつさり節の如き、山城の六斎念仏の如き、片方は追分の一分化と称しながら、極めて追分とは縁遠くなつて居る点に於て、日本民謡の或性質が見られる様に思うた。
六斎念仏では、殊に出て来た村が、上葛宮吉祥院であるだけに、御霊信仰・念仏などの関係が、深く我々の歴史的考究欲をそゝつたのだが、譬へ、私の考へる民俗芸術の範囲は全然離れて居ないにしても、既に私が最後の条件を加へた部分の民俗芸術に入り過ぎて居るものである。若し此を許す事の出来る雅量があるならば、今少し静かな、今少し演芸的でないもので、而ももつと田舎の演劇的な要素を含んだ||演劇芸能の歴史を顧るに好都合な||材料がたくさんあるに違ひないと思ふ。
しかし、何の彼のと言うても、我々は街に居ながら、静かに田舎の人と同じ呼吸をかはす一夜を、譬へ一年の間に数夜だけであらうと得られると言ふ事は、幸福な年中行事だと感謝をして居る。