能楽の獅子舞には、本式に、
赤頭に
獅子口の
面をつけて出る
石橋と、
望月や
内外詣のやうに、仮面の代りに扇をかづき、赤頭をつけるのとがある。現実の獅子として出て来るのが石橋で、獅子芸で世を渡る芸能者の役を勤める場合、扇をつけて出る訣なのである。
小沢刑部・伊勢の神主などは、望まれて世間の獅子芸能を舞ふのである。
江戸時代の歌舞妓所作事の獅子舞で、石橋うつしでありながら、扇に牡丹をつけ、赤頭で舞つたものゝ多かつたのは、見当違ひである。
本行らしく為立て直した連獅子・鏡獅子の類は、石橋物らしい姿に還つた訣である。だが石橋は
法被半切など言ふ姿で、首から下は全くの人である。だが、能楽以前は、石橋系統の獅子舞があつたとすれば、恐らく胴体も四つ脚も、やはり獣類の姿を模したものだつたらう。能の獅子へ来る一つ前の形は、延年舞の中にあつたのではなからうか。趣向の石橋に並行してゐるのは、延年小風流の「
声明師詣二清凉山一事」と言ふ曲である。奥州出の僧一人、声明研究の為に都へ上る。又一人の僧、これと道で遇ふ。其志を聞いて、それなら一層本元の唐土の五台山、清凉山へ渡つたがよいと言ふ。奥州の僧、なる程昔寂昭法師
||大江定基
||も其山へ参詣して、種々不思議を見たと聞いてゐる。案内してくれ、お伴しよう、と言ひ出す。やがて清凉山に達する。こゝは
文殊の浄土だ。法号を唱へ、祈念せよと言ふ。
笙歌遥に聞え候 孤雲の上。是は
聖衆の
来迎か。まのあたりなる奇特かな。
とある。寂昭の作と言はれた詩の一部だが、石橋の中入前にも、これに似た文がある。
能なら、後じてと言ふ風で、そこへ文殊菩薩獅子に乗つて、脇士二人を従へて出る。汝等の志にめでゝ現れ、声明の秘曲を授け給ふ、と言ふ。旅の僧、このついでに、極楽の歌舞の曲を見せ給へ、と願ふ。心安いこと。それでは見せてやらうと言つて、囃しになる。
霊山を訪ふといふ曲ばかり多い延年舞の事だから、此外にも、寂昭法師が清凉山で不思議を見たことを作つたものがあつた事は、想像して不都合でない。
天台山の石橋を見て記録を作つたのは、
成尋律師だつたのだが、其を延年を作つた何寺かの僧が、色々な点で錯覚をまじへたものだらう。延年舞には
風流の
被物をした動物類が活躍するので、右の文殊菩薩を乗せて来た獅子が、大いに狂うた段があつたものと思はれる。
石橋の方でも、
間狂言の仙人の這入つて後、
して・
つれで文殊と獅子とが現れてよいはずだが、何時の間にか、獅子だけがはたらくことになつたのである。
しばらく待たせ給へや。
影向の時節も今、いく程よも過ぎじ。
と言ふ語は、前じての語が地にふり替つたのである。謡ひ地よりも、寧、間狂言に牽かれて、獅子の出る形になつてゐる。
石橋の順道な解釈からすれば、獅子が文殊の化身と言ふことになりさうだ。文殊菩薩であつてこそ、獅子の座にこそ直りけれが、適切なので、獅子が獅子の座に直つたのでは、へんてつもない洒落にもならぬ文章になる。併、恐らく今日では、もうさうした変化の痕を辿ることの出来る資料は残つて居ないで、却つて、後じての輝く様な獅子の姿が、目に妥当性を持つて、動すことが出来なくなつた。
能自身にも、石橋系統以外の民俗舞踊式の獅子のあつた事を示してゐる。歌舞妓の獅子舞も、本流は石橋から出たやうに見えるのも、さう見せたゞけの事である。
牡獅子牝獅子の
番||交||獅子、其に絡む
嫉妬獅子とでもいふべき二人
立の獅子、三人立の獅子と言つた形の石橋様式を流しこんだものが多かつた。
上方歌舞妓の立役の獅子舞から岐れて、江戸へ流れこんだ女形の踊りの獅子は、一時期も二時期も画することになつた。瀬川菊之丞の相生獅子
||風流相生獅子
||は、名でも訣る様に交ひ獅子であつて、両腕で使うた
牝牡の手獅子であり、現に江戸下り以前は、番獅子と言つた様だ。菊之丞の第二曲は
英獅子||通称枕獅子
||で、其名をとつたのが、中村富十郎の
英執著獅子だつたのである。
元々石橋から出たものではない此系統の獅子が、踊りには多かつた。其外に、太神楽・角兵衛獅子をとりこんだ、鞍馬獅子・角兵衛の一人獅子、
勢獅子のやうな二人だちがあり、「三人石橋」の類は、三人だちである。此等は皆石橋が出来る前から、既にその種は用意せられてゐたのである。