父君早世の後、辛い境涯が続いた。物豊かに備つた御殿も、段々がらんとした古屋敷になつて行く。其だけに、教養を積むこともなく、そんな中で唯大きくなつたと言ふばかりの常陸の姫君、家柄は限りもなく高かつた。だが、世馴れぬむつゝりした人のよいばかりの女としか育ちやうがなかつた。其うへ、わるいことには、色の抜けるほど白い代りに、鼻がぬうとして居て、其尖が赤かつた。髪の黒々と長かつたに繋らず、鼻筋が曲つて、すつきりした処と謂つては何処にもなかつた。其へ、光源氏が通ひ初めて、春立ち夏過ぎて、十八歳の秋、満月後の廿幾日である。手紙を遣しても、返事はなし、ほと/\根負けするばかりになつて居る。今夜だしぬけに、姫君の居る座近く辷り込んで行つた。近よつて見れば、なか/\口返事などあるどころの騒ぎではない。とてもひどいと言ふ外はなかつた。そこで、
幾そ度君がしゞまに負けぬらむ。ものな言ひそと 言はぬ頼みに
||お黙りと仰らぬだけが目つけもので、其だけをたよりに、私はあんなにしつきりない手紙をさしあげた。其が皆、むだになつて居ます。どれ位、あなたの無言の行に負かされて来たか知れない||
姫君は勿論、無言である。ところが、其乳兄弟に当る侍従と言ふ小気の利いた女が、姫君のしうちがあんまりなのでぢつとして居られぬやうな気がして、姫が言ふやうに聞かして、鐘つきてとぢめむことは さすがにて、答へま憂きぞ、かつはあやなき
||いよ/\無言の行に這入る時には、鐘をつく。其ではないが、本気に無言ですましてしまふのも、でもどうかと思ふのだけれど、だからと言つて、答へる気もしない。此が、自分で自分がわからない気がします。(上の句、私の解説の逆を言ふ説が多い)||源氏物語「末摘花」
明治以後の文学用語の中にも、とりわけ好まれた点では、此しゞまなどが挙げられよう。だが詩の上の用例で見ると、恐らく昔びとが思ひも及ばないほど飛躍して使はれて居たやうである。つまり詩に限つて、高華であり、幽玄であり、亦極めて抽象的に用ゐられて来たものである。だがしゞまの日本式の意義も、単に無言の行など言ふ事ばかりではなかつた。しゞま遊びなど言つて、無言競べを言ふこともあるらしい。足を踏み出さない事をしゞまふ||蹙||と言ふのと同じく、口をつまへてもの言はぬことをしゞむと謂つたので、其一種の動詞名詞がしゞまなのだとも言ふ。謂つて見ればさうらしい気もする。其は、類型が目の前にあるからである。
此を前置きにして、私は日本文学発生の姿を説いて見たいと思ふ。
しゞまが守られて居る間は、文学の起りやうはない。之が破れて、はじめて文学の芽生えがあるのである。我々の国の詞章文章を辿つて行くと、果は実に何とも
私の友人に、仮面の歴史を調べてゐる人がある。だがまだ、ほんたうに、日本人が独自の物として持つて居た仮面については、何処まで溯つて行けるのか訣らないでゐるやうである。よい加減な処まで進むと、もう伎楽の面などが前方に立ち塞つて居て、先は唯、異郷からの借り物らしく見えてしまふのである。元来仮面を持たなかつた民族なのか、持つて居たが、早く外来の優秀な仮面に気圧されてしまつたものか。なければない、あればあつたで、何にしても知つては置きたいものだ。なかつたとしたところで、私などは、そんな点で、文化の恥ぢを感じない。けれどもあつたのである方が、先人の生活の豊けさが思はれるやうで、娯しい気がすると言ふ方が偽らない心持ちである。相応に長い月日を、此考へに使つて来た私は、仮面の、国土の上の存在の早さを知るやうになつたけれど、今は其を述べないであらう。多岐なる迂路を曲折して来なければ、明らかに出来ないことだからである。
唯、おなじ源氏物語若菜の巻の住吉詣での条に出て来る神楽面の記事などは、其芸能が芸能だけに、単純に伎楽・舞楽の面とは思はれない。此はどうも、後に言ふもどき面らしいのである。
猿楽の面を見ると、実に色々なものがあつて、思ひがけなく豊富な表情を集めて作られて居たことが知れる。而も伎楽・舞楽の面から転化したものとばかりは見られぬほど、此国土独自の姿を見せてゐるのである。此に比べると、仏像などに、如何に約束に縛られることがきびしくても、顔の表情を出すといふ上では一つであらうのに、日本化の程度に遅々として居り、又極めて微弱だと謂つてよい。仮面には、仏菩薩以外の物を、自由に打つことが出来たからだらうか。私はこゝにも、日本民族が古く此土において持つて居た仮面が、外来の仮面の表情と融合したにしても、その以前からの印象は没しきらずに居るのだと思ふ。勿論田楽・猿楽などに流用せられた外来面が、日本式になつて来たことは認めての上のことである。
田楽では
田楽とても、面を用ゐることは相応にあつたもので、殊に、狂言に使はれるうそぶき||後のしほぶき||の如きは、田楽から出たものと謂はれる。即もどきと言ふものである。此と「鬼」とは、田楽にはきつてもきれぬ関係の深いものであつた。もどき面は、条件として、口を尖して突き出して居る。所謂すげみ口である。面のつくりの上から言へば、細く飛び出た両唇を横に曲げた方が、打つ上からも、保存の上からも便宜なので、さう言ふ形に傾いて行つた。うそぶきと言ふ名は、鷽を寄せるに口笛を吹く事で、従つて其唇の形をさう言つた訣である。此は、此面の物を言ふ者としてのしるしなのである。唯かうした小さなすげみ口をしてゐるのには、若干の理由がなくてはならぬ。

猿楽では、此うそぶきの狂言面であるのに対して、能面として多く用ゐられる













我々の国の文学芸術は、世界の文学芸術がさうであつたやうに、最初から文学芸術ではなかつた。さうなり行くべき運命を持ち乍ら、併し
事実においては、或はさうでなかつたかも知れない。だが我々の古文献に残つた整はざる文学は、しゞまの時代の俤を伝へて居る。我々の国の文学芸術は、最初神と精霊との対立の間から出発した。神は、精霊に対して、おつかけ語をかけた。神の威力ある語が、精霊の力を圧服することを信じたからである。だが精霊は、其を知つて居た。圧服をくひ止める手段は唯一つ。神の語に対してとりあはぬことである。ひたすらに緘黙を守ることであつた。しゞまを守り遂げることの外には神の語の威力を逸らす方法がなかつた。此は固より、精霊自身がさう考へたのではない。古代人が言語の威力を信じ、其に圧服せられ行く物の姿をまざ/\と見るに連れて、想像を精霊の上にも廻したのである。かうも思うてゐるであらうかとしたのである。
精霊即すぴりつとであり、でもんである。此が口を開けば、直に神語に圧せられて、忽ち服従を誓ふ詞章を陳べなければならなかつた。
神代の物語として、
||わがすめみまの尊は、豊葦原の瑞穂の国を、安国 と平けくしろしめせと、ことよさしまつりき。かくよさしまつりし国内 に、荒ぶる神たちをば、神訊 はしに訊はし給ひ、神掃 ひに掃ひたまひて、発言 ひし磐根・木根立ち、草の隻葉 をも言封 めて······天降 しよさしまつりき。
此祝詞などは、後まで久しく行はれ又広く通用したもので、まづ常識になつた神語であらう。おなじ祝詞の中でも、古めいた色彩の濃い||六月祓詞
······安国と平けくしろしめせとことよさし給ひて、天 つ御量 もちて、ことゝひし磐根・木根立 ち、草の隻葉 をも言封 めて、天降り給ひし······
宮廷の祝詞である上から、かうして天孫に関聯して申しあげて居るが、村々の祝詞では、村の家々にことゝはぬ木すら 女 と男 ありと言ふを。唯一人子 にあるが苦しさ
哭 のみ泣きつゝ恋ふれどもしるしをなみと、ことゝはぬものにはあれど、吾妹子が入りにし山をよすがとぞ思ふ||高橋ノ虫麿(巻三、四八一)
||市原王悲二独子一歌(巻六、一〇〇七)
ことゝはぬ木にはありとも、うるはしき君が手馴れの 琴にしあるべし||琴の精の処女に仮託して。大伴旅人(巻五、八一一)
······朝鳥の殆後人が平談の間に使ふやうな、ほんの僅かの誇張を加へた、感情のない自然物と言ふ位の意味である。だがよく考へると、神威、到り尽して、「ことゞひ」絶えたものと思ふから出た語である。祝詞式の呪詞が弘通して居た為に、かうした考へも出て来るのである。其が更に、庶物自体さうした言語表情の機能を欠いたものと言ふ風に、発想を替へられるやうになつたものと思はれる。
神威の張り充ちた時、自然草木口を緘すると謂つた考へは、実は今一つ前の形を底に持つて居るのであつた。我々の常識は、神力をもつて口を封じたことを考へて、其前に更に、神力が巌木の口を開かせたことあるを忘れてしまつて居たのである。
日本紀にも見えて居るが、国語表現をしてゐる古事記の方が、もつと我々には近しい親しみを持たせるから、其天孫降臨のくだりを引く。
······(宇受売 命)こゝに
田毘古 神を送りて、還り到れり。仍、悉 に鰭 の広物 、鰭の狭物 を追ひ聚めて、汝 は、天つ神のみ子に仕へまつらむやと問ふ時に、諸の魚皆、仕へまつらむと白 す中に、海鼠白さず。爾 、天ノ宇受売ノ命海鼠に謂ひけるは「この口や、答へせぬ口」と言ひて、ひもがたなもちて、其口を拆 きゝ。故 今に海鼠の口拆けたり。
此は、

物言はゞ奉仕を誓ふことになる。不逞の輩は、かうして、頑に口を緘しとほさうとしたのである。だが、此とても、元々自然庶物が自由にことゞひをしたのが、時に随意に緘黙に這入ることが出来たと解するのではいけない。
言語なき物をして、ことばを出さしめるのは、神の威力であつた。さうして口を開いたが最後、神の呪詞を反覆して、違はざらむことを誓ふものと考へたのである。鸚鵡返しの芸能は、必しも近代に初つたことではなかつた。古代に溯るほど寧、さうした形であつたが為に、わりに安易に次第に日本の芸の種目は殖えて行つたものと考へられる。命令であり、問ひかけであつたものを、語尾を少し更へれば、承服ともなり、答へともなるのである。
神武天皇大和入りの初めを伝へる日本紀の伝へには、諷歌・倒語を以て、目に見え、見えぬ兇悪を従へられたと言ふ。人の胸中の事を悟るのが、精霊の常である。後代にも、山のこだま・すだま・山わろなど謂はれるものが、さとりの力を持つて居ると考へられて居る。思へば悟り、言へば直に言ひ返して、呪詞の功力を逆施する。
諷歌といふのは、
猿楽能の鸚鵡小町では、宮廷より賜つた「雲の上は、ありし昔にかはらねど、見し玉だれのうちや ゆかしき」と言ふ御歌に対して、老い
おなじ猿楽の翁面についても、いろ/\な説が行はれてゐた。雅楽の
唯私どもからすれば、採桑老が翁の述懐をして「三十にして情方に盛りに、四十にして気力微かに、五十にして衰老に至り、六十にして行歩宜しく、七十にして杖に懸りて立ち、八十にして座にあること、魏々たり、九十にして重病を得、百歳にして死すること疑ひなし」と言ふ「詠」を唱へる所から見れば、日本古代にあつた成年式の
今存しないといふことは、全然なかつたと言ふことを意味しない。なかつたかも知れぬが、あつたことも考へられるのである。其よりも、あつたもので、百年数百年の中に、痕形もなく亡びた物の多いことを思へば、今ないから昔あつたと断言出来ないと言ふ方が安全ではあるが、実は、此方に後代への考慮を傾けねばならぬ部分が多いのである。どうも、面の説をなす人の考への底には、本土元来仮面無しと言つた信念に似たものが拡つてゐるやうな気がする。黒式尉の猿楽面系統のものは、どうも採桑老よりも古くからあつたらしいのである。山人が里を訪れる時の姿に、単に蓑笠で掩うて来るものばかりではなかつたのである。私は山人の祭りにつけた山かづらと言ふものを、仮面と同じ用途にあるものと見てゐる。此には、現行の歌舞妓芝居の鬘から、桂巻・鉢巻等、昔の縵にまで及さねばならぬから、こゝには避ける。が、猿楽能の猿楽面なる黒尉のもと/\の役目はどこにあるかを、一口述べる位はよいと思ふ。
黒尉に、白尉||翁||のもどき役であり、さうして其中世近代風の所作発言の向うに、説明するにも出来ない深い昔を湛へてゐることは、芸能と前代生活とを結んで考へる人の胸には、極めて自然に浮ぶことゝ思ふ。三番叟の所作発言はことほぎと称せられるものであるが、同時にあの詞章だけをとつて来ると、
猿楽能のおもしろい所は、近代様になり移り乍ら、何時までも、能成立以前の俤を残して居る点である。其で一方に、

私は、

こゝには忙しく多くの印象を書いたに過ぎない。我々の国には、

註、老婆心切一項。もだすは今通用の辞書類、多くだまるの義とばかり説いてゐる風だが、本来は何もしないと言ふことである。ぢつとしてゐる・手も出さない・関与しないなど言ふおつくうらしい意義が、その沈黙の義の上に重りかゝつて居ることを注意しておきたい。