まだあの時のひそかな感動は、消されないでゐます。小正月を控へた
昔も、洛中に田楽流行して、狐の業と騒がれた記録があります。花祭りにもさうしたつき物の力が、籠つてゐる様な気がしてなりません。
其最初の聞き出し手であり、今尚、語ること益幽に這入つて来たのは、早川孝太郎さんであります。さうして、其手初めに誘惑せられたのが、実は私でした。花祭りを思ふ毎に、此大和絵かきの懐しい話しぶりを憶ひ浮べずには居られません。私などの花祭りに関する乏しい知識は、隅から隅まで、此人の東道によつて、とりこんだものと言はねばならぬ。其ほどおかげを蒙る事が深い次第を皆様に告げておきたいのです。
花祭りに、「ねぎばな」と「法印ばな」とがあり、其が、
その頃既に、早川さんは地狂言を研究せられてゐました。さうして私も、芸能史の組織を思うて居た頃でした。其より又四五年前、私もまだ若く、感傷に溺れ易くてゐた頃、信州の南隅、下伊那の旦開村の通りすがりに、新野の伊豆権現の正月、雪祭りの田楽の話を聞いて、又来る時のありさうな気がしてゐました。新野から東三河の東北隅、佐太に越える
此雪祭り見物の宿願と、その後、早川さんに唆られた花祭り採訪の欲とが、道順によい日どりも続いてゐる事を知つて、もう圧へることが出来なくなつたのでした。大正十二年の正月、前後五日に亘つて、雪祭りの作法と、村人の感情とを凝視しました。本祭りの前日は、一日だけ目だつ行事もなかつた。その日ちようど、三河領豊根村三沢の花が、山坂一つ越えるばかりの牧ノ島といふ
其頃の三沢の花には、顔の整うた、舞ひぶり優な若い衆が揃うて居ました。三つ舞ひ・湯ばやしなど、若衆の役になつてゐるものは、旅人の私どもにも訣り易く、味ひよかつた、と記憶します。
絵巻物に見る下人の直垂から法被に、さうして、近代のはつぴ・絆天の出て来る道筋の明らかに見える

其ほど複雑な、渦巻き返す夢の様な錯乱と、在所々々で特殊化の甚しくなつた神事芸能とが、其後も常に同行と憑んだ早川さんの手で、此一冊に鮮やかに組織せられたのを見ますと、嫉ましくさへ感じます。
でも、早川さんは、当然酬いられたのです。その後、唯一人の旅人として、村から村へ、
其結果は、我々の知る限りの神楽以外に、ある時代・ある地方から宣布せられた、一種の神楽があつて、其方式や、目的の点に於て、従来学者の定説変改を促す含蓄のあるものゝ存して居た事が、見出されたのであります。
数十百度、此土地の方言どほり、らんごくな山の家に寝返りし、自身は、稗の飯・切りこみ汁に腹の損ふ事に甘んじて、都会の優雅な人士に、栃餅や、茸の胡桃あへなどの珍味を齎して還つて来られた、とでも言ふべきでありませう。
而も早川さんは、最よい指導者と、美しい心の擁護者とを持つてゐられました。前者は、私ども共同の学問の父たる、日本民間伝承学の祖たる柳田先生であり、後者は、志篤い、学問の本宮へ詣る間もない忙しさから、人をして代参の礼を致さしめようとする渋沢敬三さんであります。
柳田先生から受けた方法を守る為に、採訪記の範囲を出ようとせられなかつた。此事は、今の学問のにさい衆、豈夫、能くせむや、と言ひたい。而も、其記録は、結論を言ふと等しいまでに、賢明な配列法をとられてゐます。柳田先生の方法上の一つの理想は、茲に完全な姿を顕したのであります。
渋沢さんは、早川さんの学問を遂げさせる為に、又其記録を公にさせる為に、述べ難いまでの奇特心を発起せられました。さうして、其間に、自身亦、花狂ひの一人と呼ばれるまでの情熱を持つ様になられたのは、世間に名を掲げる金持ち趣味や、
早川さんは、師匠に、擁護者に、得難い人を並べ得ました。だが、今一つ、なくては寂しい学友の、一人として学問の感触を温めてあげる者がない事であります。此は、日本の民俗学が、まだ新らしく、おれが/\の学者に充ちてゐるからだ、と思ひます。私なども、友人でありながら、早川さんの為のよい友人としての誇りは持てない不心切な心で居ます。此後もつと、採訪と実感と論証とに、互ひの励みをつけて行きたい、といふ気になつてゐます。其は、此「花祭」に対する感謝からばかりではありません。此研究の、形をとり出した始めから、早川さんの後について来た久しい歩みの跡をふりかへる事が、りくつゞくめの、中年の同門の盟友としての感情に、止つてゐられなくしたのです。さう言ふ唆られる様な情愛を以て、此本の解説であり、一異見ともなる様な文章を書きました。
私の此文章が、必しも花祭り及び山の
花祭りを行ふ村々は、早川さんの、細密な報告が既に明らかにして居る様に、此設楽だけでも二十个所ばかりあります。其外、境を接した、南信州の一部・北遠州天龍沿ひの山間にも、一二个所はあります。此を行ふ村は、それ/″\範囲がきまつて居るので、どこからどこまでは、どの
こゝ、三河の北東は、まことに興味の多い土地です。南、北設楽郡を中心に、信・遠の国境一帯の山間には、
私の考へは、二通りあるのですが、此考へは、当然一致すべきだと思ひます。一つは、三河の山奥に傭兵の村||其は同時に神人団体であつた||があつて、こゝから多くの人が出かけて行つて、諸方の武家に力を貸した、其残りが花祭りの村々であると、かう考へるのです。勿論、今ある花の村が、皆昔からの村々だとは言へないでせうが、大体、さうした昔からのものが、主になつて居るとだけは見られます。どうしてそんな村が出来たか。三河の北東の山間は、前に、三河・尾張・美濃、三个国の平野を受けて、一種の神事に与る人達の住むのに適した地勢だつたからです。彼等は、同時に傭兵ともなりました。此等の人達は、それほど大昔から居つたとも思はれません。或時代に、諸国を廻り歩いて居たものが、地勢の関係から、こゝに屯する様になり、其が分派し、又後に来た者も、同じ様に定住をして、村が出来たのだと思ひます。
日本には、国家意識のまだ確定しないほどの大昔から続いて、一つの神人団体が流浪して居ました。一種の宗教的呪力を持つて諸国を遊行し、其力で村々を幸福にもし、押へもした、後の山伏団体で、彼等は、時代々々の色合ひを受け、当代の宗教に近づいて行つた為に、多少の変化は見せて居ますが、本来の精神は、殆変らないで、かなりの後までも、芸能と呪力とを持つて、旅を続けて居たのです。
此形式が、はつきりとは言へないが、鎌倉時代以後、或種の武家によつて真似られてゐます。つまり、武家の亡びたものや、庶流の者などが、部下を引きつれ、土地を求めて旅に出たのが、直に昔からの遊行神人を真似して、村々をおびやかしたのです。らつぱ・すつぱ・すり・がんどうの様なものが、其から出て居ます。
斯様に武家は、誰でも旅に出ると、さう都合よく、直に神人の真似が出来たと言ふのには、理由があります。昔の武家は、皆一種の、或地方共通の宗教を持つて居たので、自然、神事の中心となるべき儀式も心得、其に附随した芸能も出来た訣です。彼等は、村々国々から歓迎を受ける為には、先、村・国を祝福する芸能を行うて、人心をひきつけた様です。
併し、彼等の為事は、それだけではなかつた。傭兵となつて、戦争にも参加しました。昔は、戦争も一種の神事だつたからです。法力の戦争から、実戦にまで与る様になつたのです。
此らの人達は、大抵、地方の武家・豪族の家に寄食の形で止り、其まゝ居著いてしまふ者もあり、用事がすむか、不都合があれば、また新しい土地を求めて旅へ出るのもあり、時には、保護を受けた主家を倒して其土地を奪つたなどゝ言ふのもありました。鎌倉以後、戦国時代までには、さうして地位を得たものが少くありません。
譬へば、後北条早雲なども、此様式で旅行をした様です。彼の動き出した初めは、宇治の奥、田原から起つて、山城・伊賀・伊勢・近江の一部に跨つて居ます。嫡流は伊勢の
かうして漂泊を続ける形の神人も昔からあつたのですが、其よりも、神人としては、常には奥山家にあつて、時折り里に下りて来るのが古い形なのです。山の神に仕へる神人で、此を
山人と言ふと、後には、鬼・天狗を想像し、又、山男・山をぢなどゝも言うて、蛮人を考へる様にもなりましたが、決して、さうした妖怪でも、先住民族のあとでもありません。鬼と考へられた道筋は、後の説明で、追々に訣つて行くだらうと思ひます。
山人が山の妖怪らしく考へられたと同じ様に、山姥も山の女怪と信じられる様になりましたが、此は、山の神に仕へる巫女で、うばは、神を抱き守りする職分から出た名で、小母に通じるものです。これが後には、神の妻ともなるのです。
設楽の山間に屯した一団は、此古い形を守つたのだと言へます。併し、だから彼等は、余程古くから居つたらうなどゝは申されません。彼等は都合で、平野にも奥山家にも出入りをしたので、諸国を巡り歩いて居る中に、一つの中心地として、此、美濃・尾張・三河の平野を控へた、設楽の山間に屯する様になつたと見るのがよい様です。其選ばれた理由の一つには、天龍の水を考へに置かねばなりません。
かうした山人と言ふのは、常には里との交渉を絶つて居ますが、歳暮・初春には、檀那の家や村をことほぎに下りて来ます。冬の祭りの、鎮魂を伝へた山舞ひを持つて降りて来るのですが、それが終れば、また行方知れずの様に山へ帰つて行きます。里人に気づかれない様に、道を迂廻するのです。「隠れ里」の伝説は、其から起つて居ます。私は、田峯を訪れ、又遠州の山奥に田楽を見学に行つて、つく/″\出入りの地形が似て居る事を感じました。うつかり海道を行つたのでは、容易に気づかれない様なところに村が展けて居るのです。山人としての祝言職を持つた人達の根拠は、大抵、さうした隠れ里にあつた様です。
此山人が里へ下りて来る年の暮は、古くは
霜月の極限がしはつで、しはつとは極限と言ふ事であつたらしい。其をしはすとも発音したので、古代には、師走といふ月があつた訣ではない様です。
此冬祭りの日に、彼等は里へ降つて、
此たまふりに来た山人のみやげが山づとで、此を里のものと交換して行つたのです。山姥が市日に来て大食をした話や、小袋に限りなく物を容れて帰つた伝説は、其から起つたと思ひます。古代に市といはれた処が、大抵山近くである理由も考へられませう。そこで物々交換が行はれたのです。
冬祭りに就いての私の考へは、他の場合に述べて居ます。ふゆは
此祓ひのすんだしるしに、山人の持つて来た山づとを家の内外に飾り、身にもつけます。浄められた村人は、神の物となつた家内に、忌み籠るのです。此が正月飾りの起りで、山かづら・羊歯の葉・
此山人が持つて来るものゝ中で、最考へねばならぬものは、山人がついて来る杖であります。大きければほこですが、此杖を山人が里へ残して行きます。此で地面を搗くと、土地の精霊を押へる事になるのです。むつき・うづきは、そんな事に関係のある語ではないかと、私は考へてゐます。
むつはむちうつと同義語です。むつ・うつ・むち・うち、すべて同じ意を持つた語です。むつきに就いては色々な説明がされてゐますが、月を聯想するから訣らない事になるので、きさらぎ・やよひなどにはつきがついて居ません。此なども意味の訣らない語だと思ひますが、結局、月のつかない、意味の訣らない語の方が古いので、むつきなども、さうした語だつたのが、つきとあるので、月の運行を聯想する様になつて、月名となつたのではないでせうか。元は、きさらぎ・やよひ・しはすなどゝ同じ様につきはつかなかつたのだと思ひます。其つく様になつた初めは、恐らくむつきなどが最初ではなかつたかと考へられます。
正月に関係のあるもので、卯杖・卯槌など言ふものがありますが、此は、元は地面を叩く道具だつたと思ひます。此行事は、今は小正月にも行ひますが、正確には、霜月玄猪の日に行つたもので、土地の精霊を押へて廻る儀式だつたのです。後には、精霊は地中に潜むと考へた事から、
此、地を打つ行事は、歳暮・初春とは限らなかつた。五月田植ゑの前にも、田畑を押へる必要がありました。初春に行つた事を、更に効果がある様に、まう一度くり返すのです。四月のうづきも、やはりむつきと同じ意味だと思ひます。言海などの説明は、もう改めなければならぬのだと思ひます。
山人の持つて来る杖には、大体さうした意味があるのですが、尚、其さきの割れ方・裂けた状で、来年の豊凶を占ふと言ふ意もあります。其をはなと言うたので、はなと言へば、後には木や草の花だけに観念が固定してしまひましたが、ついで起るべき事を、予め仮りに示すのがはなです。で、此杖は、根のあるまゝのものを持つて来て地面に突き挿して行く事もあります。根が生えて繁ることを待つたのです。根のないものでも、桑などは根が著き易い木です。祝詞にも、「
とにかく、此杖の信仰は、我が国の後々の信仰生活にかなり大きな影響を与へて居ます。形状も段々に変つて来たので、ほんたうの杖である事もあり、ほこである事もあり、或は
此杖の一種が、今でも、信・遠・三の奥山家には残つて居ます。年の暮・小正月の前夜に、家の入口・納屋の入口などに薪を立てるので、此をおにぎともにふぎとも言うてゐます。今では人が立てに行くのですが、其に祝福の意味がある事だけは忘れないでゐます。
おにぎは鬼木でせう。こゝの鬼は、尚後で述べます様に、決して悪鬼羅刹ではありません。たゞ巨人といふだけの古い意義を止めてゐます。此鬼木にも、山から来る不思議な巨人が持つて来ると考へた印象のある事は十分感じられます。
にふぎは、もし、此が、
とにかく、年の暮になると、山から不思議なものが来て棒を残して行くと信じた古代の信仰が、そんな形で残つて居るのです。
斯様に、常には奥山家に隠れてゐて、時あつて里を訪れる神人が、古くから我が国にあつたので、殆ど其が空想化されてしまつて、山人を妖怪と考へるほどの後になつても、尚それを学んで、年毎に山を下りて来る人があつたのです。此が三河の山奥に花祭り行事の残つた一つの原因だと考へるのです。だが、此様なものは、必しも設楽の山の中にだけあつた訣ではないでせう。恐らく外にもまだあつたらうと考へられますが、其が、特に設楽にだけ残つたのは、彼等が戦国時代に力を貸した檀那の家々が栄えて、其保護を受ける事が出来た為だと考へて見る事が出来ます。
併し、現在の花祭りが残つた原因は、単に、其だけではない様です。他に、まう一つ原因があると考へられるので、それは割り合ひに新しいところにあると思ひます。
私は、最初花祭りを見ました時には、以上述べて来た様な事を心に浮かべて、単にそれだけの興味と、一種の尊ぶ様な気持ちとで此行儀を見て居たのですが、尚よく考へて見ますと、其うちには、割り合ひに近世らしい移動のあとが見られます。どうも此には、伊勢皇太神宮の信仰を持つて歩いた人の運動が這入つて居る様です。
此信仰を持つて歩いた人は相応たくさんありました。其芸能は神楽でした。神楽芸能には、最後に獅子が出て解決をするので、段々此が中心になり、今では、神楽と言へば獅子面を想像する様にさへなりましたが、恐らく此にも幾度か変化があつたのだと思ひます。
私どもが知つて居る一番新しいものは、代神楽です。此は色々に聯想が重つた為に、今では殆、訣のわからないものになつて居ますが、代神楽と言うたのには、代参の意味と、寺方で謂ふ永代の意味とがあつたのだと思ひます。つまり一種のきよめはらひに村々を廻つたので、皆が伊勢へ行つて浄めて来なければならぬのを、彼等が廻つて来て、代りにみそぎをしたのです。
伊勢に限らず、熊野神明の信仰を持つて歩いたものなどもさうですが、時代によつて色々な形で伝つてゐます。室町から江戸へかけて評判になつたものでは、伊勢踊りがあり、それが新しくなつて伊勢音頭なども出来てゐます。
伊勢踊りと神楽と同じものであるかどうかは疑問ですが、伊勢の神楽は、今の代神楽だけでなく、もつと古い形式のものが幾つかあつたに違ひありません。一昨年、三越呉服店で催された「伊勢詣での会」の出品中、神楽の書止めがあつて、其に、まどこおふすまの絵があつたと言ふ話を聞きました。私は遂にそれを見ないでしまひましたが、恐らく天蓋の様な形をしたもので、其を垂らすとすつかり姿が隠れてしまふ事になるのだと思ひます。
早川さんの調査によつて訣つたのですが、こゝには元、三日三夜に亘る神楽があつたので、現在の花祭りは其一部分であると言はれてゐるのです。神楽に関しては、其後段々書止めなども出て来たので、其がいつの時代に這入つたかは訣らないが、とにかく、今民間に伝つて居るどの神楽よりも古いと言ふ事だけは言へ相なのです。併し、現在の花祭りが其一部分であると言ふのは問題で、果して神楽が最初から此を含んで居て三河へ這入つたのか、以前から此行事が山間にあつて其が神楽に結びついたのか、三日三夜に亘つた行事が一夜に短縮されたと言ふのは、其重要な部分だけを行ふ様になつたのか、此は、容易には解決の出来ない事ですが、私は、今のところ此二つを別種のものだと見て居るのです。
とにかく、我々の知つて居る、今の代神楽よりは幾代前かの神楽でせう。其を持つて此山間に這入つて行つた人があるのです。此地方でも、漠然と其人を想像して伝へて居るので、其をみるめ様と言うてゐますが、みるめ様はそんなに古い人ではないと伝へて居る村もあります。私も見て来ましたが、
結局これは、山人の職業を、其後幾度か人が変つて受け継いでゐる中に、最後に伊勢の神楽が這入つて来た、さうして以前からあつた花祭りを習合する様になつた、かう考へて見るのがよい様です。其を、山人が習つて来たか、別に持つて這入つた者があつたか、其這入つて来たのがいつ頃であつたかと言ふ事は、もう訣らないと思ひますが、大体伊勢の神楽はそんなに古いものではないのです。何故ならば、伊勢に起るべきものではないからで、八幡の神楽などに比べれば、かなり新しいと言へます。此の這入つて来た年代も、さう古い事ではないでせう。さうして、伝説に従へば、他から持つて這入つたものがある様だとだけが考へられる訣です。
此神楽で、先注意しなければならぬものは、伊勢の神楽の真床襲衾にあたるものを、こゝでは
これも、後にそんな理窟がついたのかも知れませんが、ものが生れ出る時には、すべて装飾を真白にしなければ、生れ出ないと考へたのです。我々の辿れる限りでは、産室は真白でした。八朔には女が白無垢を著ました。此風習は、後には遊女だけに残つたのですが、此は神事に与る女は皆行つた様です。つまり成女戒前の物忌みのしるしで、女となつて生れ出る式ですから、産室を白くした様に、白無垢にくるまつたのです。
白山と言ふと、すぐに越の白山が思ひ出されます。あの山をなぜ白山と言うたかは訣りません。雪が積つてゐるからかも知れません。しらあいぬかも知れません。語原を同時に、三つも四つも考へるか、一つの語原で説明するかは、此からの学問の岐れ目だと思ひます。とにかく、此山を白山と言うたのには、何か由来があつたと思はれますが、一つの聯想は、此山に菊理媛を祀つた(一宮記)とある事です。此神は、
山伏の生活の中に、いしこづめと言ふ事があります。こづむはたゞのつむではありません。海岸などに、波でうづ高くなつてゐるのを木積と言うたので、石こづめは、石の中へこづみ込むのです。此が後には春日の十三塚の様な伝説を生む様になつたのですが、此は、山伏生活の中にそんな式があつたのだと思ひます。其も単純に、山伏の私刑であつたなどゝ考へてはなりません。魂を身に著ける、復活の儀式として行はれたのが最初の様です。
爰で聯想されるのが、謡曲の「
つひ先頃、穂積忠さんから聞いて非常に興味を覚えたのですが、伊豆の海岸には、まだ盆がまの風習が残つてゐる相です。盆がまと言ふのは、成女戒を受ける前の女児が物忌み生活をした遺風で、まゝごとの起源でもあるのですが、こゝでは、大小二つの
かまと言ふ語はどこまで遡れるか、かまどは釜をかけるからと言ひますが、其では訣らないと思ひます。洞窟の事を、かま・がまと言ひます。がまは多く水辺の洞窟を言ふ様ですが、其には限らないと思ひます。これにもやはり、洞窟の中に密閉して置いて、或時期が来ると出すといふ風習があつたのではないでせうか。盆がまなども、一緒に飯を食べるといふことゝ、一緒に籠るといふことゝ、二つの意義がある様です。穂積さんの話の、竈を二つ作ると言ふのは、大きい方が
此山が、後には道成寺の鐘にまで変つて来たのですが、かう考へると、設楽神楽のしら山の事がゝなりはつきりしてくる様です。真床襲衾が天幕の様になつた訣で、神楽の方では、これに這入る中心行事を、うまれきよまりと言うてゐます。きよまりはきよまはりで、物忌みをして浄める事だつたのですが、白山の聯想から生れ出る事を考へて、うまれとつける様になつたのではないでせうか。此行事は、六七十年前に全く跡を絶つてしまつたのですが、要するに、設楽神楽の中心行事はうまれきよまり、即、はらひをすることであつたと思ひます。さうすると行事の意味がよく訣るので、つまり後の代神楽と同じ事になるのです。
話は愈花祭りに這入りますが、現在行はれて居るものを見ますと、純粋に花祭りだけを行うて居る所、田楽を兼ねてゐる所、まう少し不純な芸能を兼ねてゐる所などがあります。
花祭りを行ふ主なる人を「花
山伏の方は、「花山伏」とは言ひませんが、此が中心になつて居るのを、「山伏花」「法印花」と言ひ、禰宜の中心になつてゐるのを「禰宜花」と呼んでゐます。勿論正確な区別ではありません。漠然と昔からの伝へが残つてゐるだけで、昔でも、土御門家からの扱ひは同じでした。
処がこゝに、一つ違つたと思はれるものがあります。京花園の妙心寺派に属する、一種の奴隷宗教家||念仏
此を行ふ人達は、村の中の小名ともいふべき部落に居つて、他はすべて其をうける形です。どこでも、かうした芸能を持つた部落は、大抵村のはづれなどにあり、他から特別な扱ひを受けた事から、地方によつては、特殊部落だと思はれる様になつたものなどもありますが、幸ひこゝでは、さうした事がなく、全く関係のない他の村からも頼まれて出かけて行く様な事が頻りにあつたらしく、平坦部近くのものは、殊に其が多かつた様です。譬へば田楽を兼ねてゐる、
第一に申さねばならぬ事は、以前は此が霜月に行はれた事です。昔は、霜月が年の終りで、其極限がしはすであると申して置きましたが、斯様に十一月・十二月の区別のなかつた頃の習慣は、暦が出来て師走といふ月が出来れば、当然師走に行うてよさゝうな行事を、やはり霜月に行つて不都合を感じなかつたのです。時代が経つと段々実感がなくなるからです。さうして其が翌年の祝福になつたのです。明治になつて偶然正月に行ふ様になりましたが、此は、偶然ながら当を得た事になつたのです。
此行事を行ふ場所は、村によつて違ひます。社の境内でやる処と、毎年場所をかへて、家々で行ふ処とがあります。此は家々で行ふ方が古いと思ひますが、一概には申されません。可なり古い形式と思はれるものが社で行はれてゐるのもあります。
断定的な事を言ふのは暫く控へたいと思ひますが、社で行ふのは、恒例通り社で行ふといふ考へが生じてからだと思ひます。神楽でも社でやつたとは限りません。神事だから社ですると言ふのは、常識的な考へです。とにかく、此を行ふ場所は二様あるので、其は、禰宜花と法印花とで違ふのでもない様です。
家で行ふ時には、今では戸をはづす位のものですが、昔は、壁もしたみ板も全部とり払つて、吹きさらしにしたのでした。此家を舞ひ屋といひ、入口の土間を、舞ひ
家の設け方に就いては申しますまい。上り框を上ると、そこがおへで、其奥が奥座敷で、鬼部屋になるのですが、納屋になる事もあり、舞ひ役者が支度をする処です。おへは、かん座と言うて囃子の座になります。かん座は、三河の方言では解釈出来ない様です。上座でも神座でもない様です。そんなに古い語だとは思はれませんから、或は神楽などの持つて来たものかも知れません。今は、笛・太鼓の楽人と、村の主なる人が坐りますが、昔は檀那衆が控へた処でせう。
舞ひ
花祭りの中心になつてゐるものは色々あります。神楽と習合した事から、一層複雑になつたのだと思はれますが、現在行はれてゐるものを見てゐますと、其最中心になつてゐるものは
一つの仮説ですが、此警蹕の声は、家々で皆違つた様です。さうして、それが尊い人の名前にもなつたのだと思ひます。日本紀に、「
花祭りでは、此反閇を、主に鬼が踏みます。此が一つの中心行事になつてゐるので、まう一つは、花の行事(花の唱文・花の言ひ立て・花の舞など言ふのがある、総括して仮りにこんな語で言つて置く)であります。此二つが行事の中心になつて居て、其外につき添うてゐるものがあるのです。此を行ふ人の来歴を語る事で、同時に其は、行事の由来を説く事にもなるのです。先此三つが花祭りの主なるものと見られます。只今では、反閇だけが中心の様になつてゐますが、嘗ては物語りの盛んだつた時代もあつたと思はれます。
花祭りの花は、花の行事から出てゐると思ひます。はなと言ふのは、なりものゝ前兆を示す、一種のさきぶれの事です。木の花・草の花は其一部分で、成りものゝ前ぶれになるものは、すべてはなと言うていゝのです。だから、はなが出来る出来ないは、穀物の成熟不成熟を示す重大な前兆になるのです。同時に、此はなは、成年戒とも関係があるのですが、此方は殆忘れられてしまつて、今では、穀物だけの関係を考へてゐる様です。成年戒の方は、神楽の中心行事になつて居た為に、神楽が衰へると共に忘れられてしまつたのだと思ひます。
日本の古い信仰では、花に就いては、初めと終りとの二つを考へてゐました。育てる事、いゝ花を咲かす事、むだに散らさない事、此が非常に大切な事だつたのです。春の花が早く散れば田のみのりが悪い兆と見、人の身に譬喩して悪疫流行の前ぶれと考へたからで、なるべく花を散らすまいと願つたのです。此が鎮花祭の起りで、平安朝の初め頃から愈盛んになつたのですが、奈良朝には既にあつたのです。併し、平安朝にも奈良朝にもない神を祀つてゐるのですから、恐らく其以前からあつたのでせう。やすらひ花のやすらひは、花にぐづ/\しろの意で、散るのをまつて落ちつけといふ事なのです。
鎮花祭では、此点が頗重要なのですが、三河の花祭りは、此方面には、深く関係がない様です。此関係があれば、もつと田楽に結びついてゐなければならぬと思ひます。
三河の花祭りは、花育ての方が主になつてゐるので、同時に其は、花の占ひにもなるのです。此行事は、古い芸能では、延年舞の中にあります。露払ひの出た後で、花の稚児と称するものが、花の枝をもつて出て舞ふのですが、三河でも、此行事は大抵子供がします。だから、花祭りは、延年舞と同じものだといふのではありません。併行して行はれてゐる中に、一方は発達をして止まり、一方はそのまゝ続いたゞけです。とにかく、花育ての行事は子供がするものになつてゐる様ですが、或はそれが若者であつたかも知れません。
日本では、赤んぼから子供になる||袴着は褌をつける式である||のと、子供から若者になる||元服||のと、成年戒と準成年戒と、二度も繰り返して行ふので、花の稚児の舞ふのは、其形だと思ひます。さうすると、白山の行事とは二重になる訣ですが、そんな事は平気でやつたでせう。
併し、田舎の人には、うつかりした事は言へないと思ひました。一昨年上黒川の花祭りを見学に行つた時、そこの神主に聞かれて、花祭りの花は、翌年の穀物の花を占ふので、花育てが中心であらうと話したところ、次に行きますと、「成程仰言つた通りらしい。調べて見たら、稚児の持つ花の杖に、米の穂がついて居た」と言うて、早速そんなものを造つて持つて来られたのには驚きました。米の穂がついたのでは意味をなさない事になります。
かやうに、花の占ひが大事な事になつてゐるので、其には
花祭りの中心は、どうしても花育てにあつたと思ひますが、同時に、其が冬の祭りであつたので、山から山人が祝福に下りて来る印象がとり入れられてゐます。鬼の舞ひが其です。
山人が、鬼・天狗と考へられる様になつた事は前に述べて置きました。後には、鬼といふと暗い方面だけが考へられる様になりましたが、花祭りの鬼には、祝福に来る明るい印象が十分見られます。
鬼が里を訪れる機会は幾度かあつたのです。歳暮・初春の外には、五月田植ゑの時にも現れます。此の発達したのが田楽の鬼で、田楽では、天狗もまた大切なものになつてゐます。殊に田楽では、「四匹の鬼」といふ名高い演芸種目がある位ですが、四匹の鬼には意味があると思ひます。花祭りにもやはり四匹の鬼が出ます。四つ鬼、或は朝鬼と言はれてゐますが、恐らく元は一匹であつたのが、二匹になり、四匹になり、後無条件に殖えて来たのだと思ひます。
一匹の鬼を、山見鬼と言ひます。語の意味はよく訣りませんが、土地では、山の姿を見て廻る、ほめて廻るものゝ様に思つて居る様です。
此山見鬼と問答をする役があります。鬼||神||と問答をするのには、人間の語では訣らないから、通弁役が必要なのです。
花祭りでは、此二匹の鬼が大切なものになつてゐます。其中最大切なのが、山見鬼です。此鬼が、鎮魂に来たしるしに反閇を踏む、其威力が村全体に及ぶと考へたのであります。
いづれ斯うした鬼には、眷族がお伴をして来ます。これが子鬼で、今は無数に殖えてゐますが、元は四匹だつたと思ひます。
朝鬼(四つ鬼)は、其引き上げの形を見せたものでせう。昔は、一番鶏が鳴けば朝だつたので、其時には、もう鬼が退出しなければならぬのですが、段々朝日を考へる様になつて、朝の考へが二重になつた為に、鬼の口に旭があたるまでには祭りを終らねばならぬなどゝやかましく言ふ様になつたのです。つまり、鬼はあの世のものなのですから、夜が世界である、だから朝一番鶏が鳴けば引き上げねばならぬので、退出しないのはいけないと考へた事から、追ひ払ふ様になつたのです。此から鬼やらひの考へが出てゐるので、殊に出雲系統の神楽では、皆鬼が悪者になつてゐるのですが、花祭りの鬼には決してさうした処はありません。
前に言うた物語りの話になるのですが、神主が出て物語りをします。其に、たゞの禰宜で出てくるのと、まう一度翁に変つて出て来るのと、二度あります。ひいなと称する一種の御幣を担いで出て来て、遠い旅行をして来た、自分の来歴を物語るのですが、此は神楽に関係があると思ひます。つまり神主が祓ひにやつて来るので、なかてばらひと言うてゐますが、中臣祓ひだと思ひます。
土地によつては、此を海道下りとも言うてゐます。日本の芸能に、海道下りといふ一種目が出来たのは鎌倉時代ですが、此形は、余程古くからあつたので、遠くから来た神が、其道筋の出来事を語る辛苦物語りから出てゐるもので、此の最発達したのが宴曲の海道下りです。つまり都から地方に下つて来た道中を語る道行ぶりです。
ところが、此物語りを翁が出てまう一度やります。黒式の尉で、生ひ立ちから、母の述懐を述べて、自身の醜さを誇張して笑はせ、婿入りの失敗、京に上る道中の出来事などを語るのです。翁と禰宜とは、表裏になつてゐるので、一方は祓ひをし、一方は由来を語つたのだと思ひます。此翁・禰宜が分裂をして色んなものが出来てゐます。翁から媼が、禰宜から巫女が出てゐるのです。巫女を天照皇太神宮と呼んでゐる処がありますが、つまり、面から来る神聖感が、さうした神を想像させる様になつたのだと思ひます。面は、どれでも、非常に神聖視してゐるので、此を被ると一種の神秘な心が起るらしいのです。それから何でも神様になつて行つたらしいのです。
面で、特に注意しなければならぬものは、翁の面の顎が切れてゐる事です。新野で写して来た書物には顎がない様に書いてあつたが、顎の切れてゐるのはものを言ふしるしです。大体面を被る芸は、声を出すべきでないので、翁の面だけが、顎が切れてゐるのです。
更に面で注意すべきは、巫女面・上

尚、花祭りの面で最大切なものになつてゐるのは、ひのう・みづのうと言はれる二つであります。此は最初から二つだつたのでなく、後に対照的に作つたのではないかとも思はれますが、其形が所によつて区々なのです。ひのうは男の様でもあり、赤い翁である所があり、天狗である所があり、みづのうが白尉である処もあり、うずめである所もあります。
どこでも此をしづめ様と言うてゐます。最後に神楽がすむと、此陰陽二つの面を被つて出て来て舞ひ納める。しづめは其から出てゐるらしいのです。恐らく此語は神楽の将来したものでせう。併し、此にみるめ・きるめの二人の王子の聯想が結びついて、実在の人物の様に考へてゐる所もあり、又、ひのうを猿田彦に、みづのうを鈿女に説明したがつてゐる所もありますが、元は一つだつたらうと思ひます。しづめと言ふ語は、割り合ひ新しい語だと思ひます。
翁・禰宜・巫女などが出ますと、其について大勢のもどきが出ます。花祭りではもどきが肝腎なものになつてゐるので、正式なのと、ふざけたのとありますが、翁には正式のもどきが出ます。翁の言うた事を拡大して言ふのがほんたうなのですが、今では、一緒に言うたり、本を持ち出して読んだりしてゐます。もどきと言ふ語は、反対するが古いのかも知れませんが、中世の芸能では、相手方と言ふ事になつてゐます。その外、飜訳する・物まねするなどの意味があるので、翁の通訳と言ふ事になるのですが、時には違つた語・違つた動作であらはす事もあります。
私の考へでは、禰宜がもとで、翁が其もどきであると思つてゐます。三河には、まだ翁を猿楽とする考へが残つてゐます。譬へば、鳳来寺の田楽を見ても、翁を猿楽と言うて、前にやつた事の物まねをするものになつてゐます。都の芸能が翁を本体にしたのは、翁を主体としてゐた猿楽役者が栄えたからであります。併し、日本の芸能は、或時代、復演に復演を重ねて来ました。こゝでも其が見られるので、禰宜のもどきが翁であり、翁にもどきがつき、更にそれの復演出である、ひよつとこ面を被つたのがあばれ廻りもします。ひよつとこは関東の里神楽にもありますが、此は反対する・逆に出る方の、悪い意味のもどきです。
要するに、翁の語りは、今花祭りの中では重要なものになつてゐますが、此行事には従と見らるべきもので、後から這入つて来たものでせう。主としては、中臣祓をしに出る禰宜が、神楽をすゝめる為に諸国を廻つたと言ふ物語りと、山から鬼が来て反閇を踏む霜月の行事、それにまう一つ花育ての行儀と、此三つが重つて居るので、翁の方は軽く見ていゝと思ひます。
既に平安朝の新猿楽記を見ましても、どれだけの種目があつたのか、どれが主体であるか訣らないほど、色々なものがとり入れられてゐます。由来、民俗芸術には、さうした性質があるので、あらゆるものを吸収して膨脹して行くのです。花祭りにも、色々な種目がとり入れられて、どれが中心だか、もう殆訣らない様になつてゐますが、やはり元は一つの中心があつたに相違ありません。たゞ、昔の人は、後に色々なものをとり入れるにしても、単に面白いからといふのでなく、何か根本的の関係があつて結びついたのだと思ひます。其だけに、一層訣らないものにもなつてゐるのです。
それでも、花祭りで比較的筋目立つてよく見られるのは、田楽との関係、神楽との関係で、此三つが纏綿としてからみついてゐるのです。信・遠・三、此三个国の山奥に残つてゐる芸能を集めて見ますと、田楽・花祭り・神楽と言うてゐるものが、皆一部分づゝ関聯してゐて、彼等の間に取り合ひの行はれた跡がよく訣るのです。
既に前にも一寸触れておきましたが、此花祭りと、かなり似通うて居る古い芸能を、中世のものに求めますと、第一に延年舞が思ひ浮べられます。延年舞の研究の権威は、何と申しても高野斑山博士であります。其おかげで、非常に此方面の事が訣つたのです。
延年舞は、先、大体、平安朝の末に盛んに行はれたものと見ていゝと思ひます。そして、此中心になつて働くものは、花祭りの話の中で既に暗示を全うして置いたと思ひますが、やはり成年戒前の稚児を主体として居ます。それに対照して、遊僧と称する一団があります。此は、村方に於ける小若衆・若衆の関係を、寺方で行つた形と言ふ事が出来ます。此為組みが複雑になつて来ますと、女をも老体をも含んだ、田楽の様な形が認められ、更に拡張せられても来る訣です。
延年舞の稚児は、先第一に、花の杖をさゝげて出て来る様です。そして舞台の構造が、著しく後々発達する泉殿式の舞台とは区別せられて見えます。それは、最適切に芝居と称するものゝ語原に当つて居る様です。時代によつて舞台の構へ方にも変化はありませうが、如何に後になつても、地上を舞台として、其上に或種の敷物を設けて、此を芝居と称して居た事だけは言へます。
単に、そればかりでなく、舞台以外に、別に山と称するつくり台が設けてありました。此は後には、しんめとりいをとなへる為に、左右に据ゑた様でありますが、私は、此を初めは一つのものと考へます。そして、楽屋と称すべきものが、出演者の道路、即、橋がゝりを隔てゝ、舞台の後にあつた事、そして、其謂はゞ花道を囲んで、囃方・謡ひ手・舞台番などの人々が控へて居つた様に見えます。
此構造と言ふものは、能舞台とも、芝居の舞台とも変つて居て、延年舞が一つの典型をなすものであります。ところが、よく考へて見ますと、昔の芸能の舞台が、泉殿式の舞台になる以前の形を維持展開して来たものだと言うてよさ相です。
私どもの語では、門外の芸・庭の芸・泉殿の芸と、かう三通りに、芸能の格式を分ける標準を立てゝ居ますが、此が庭の芸の、古い形の、少くとも一つであります。
延年舞との比較は、詳しくするほどの資料もありませんし、また其だけの岐路に這入る余裕もありませんから、さしづめ入用な部分だけをとり出して、花祭りと比較しようとしたのです。併し、此を直に、花祭りの出自を延年舞だと引き出す企てだと思はれては困ります。
先第一に、花祭りの舞台は庭であります。其が社の庭であるにしても、或は家の庭であるにしても、或は屋外の野天であつたらしい証拠もありますが、いづれにしても座敷芸ではありません。また、ものゝ外側から内に向つて演奏するといふ内容も持つて居りません。其行はれる庭が、即、其家及び家を中心とした、土地・村・郷・荘を意味するものだと考へて居ります。そして、其周囲がすべて見物の見所であり、時としては、舞台までも見物が割り込んで来るといふ事になつて居ります。
延年の記録では、花祭りの様な乱雑な村々の祭りを書いて居りませんから、見物と舞台との関係を截然たる区画のあるものと言ふ風に考へさせ易く記され、描かれしてゐます。でも、此は、かうした舞台の性質上、後にうすべり或は所作舞台に似た敷板を設けるまでは、優人見物の入り乱れの行はれた事は考へられます。
まして、此に似た様式の祭りが、古い村々に行はれて居たとしたらどうでありませうか。其、囃方や役方の控へて居る中を中道が通るといふ事は、只今では花祭りの著しい特色になつて居ますが、歌舞妓芝居の如きも、或は此に似たものでないかといふ姿をそなへて居りました。其は、見物が舞台の後方に、役者よりも高い位置に控へて居る、所謂らかん台の形でありますが、此もらかん台の発生を探つて見ない以上は、只今の花祭りのかん
ところが、まう一つ含まれてゐる考へを分析して見ますと、かん座に控へて居る人達は、舞台へ出て舞ひ奏でる人と同種類の、神聖な人達と見られて居つたらしいのです。
楽屋は、其後にとつてあるといふのも、此また今日の花祭りに必、見られる事でありまして、之はかん座の一部分を、特に神聖な秘密部屋として囲ひ込んだものだといふ姿は見えます。
それに、今一つ大事な、延年舞の山は、勿論、大嘗祭り其他の古い祭りに曳かれた
其は、此神物なる事を示された山の中に、同じく神物となるべき人が山ごもりをして居るといふ考へが含まれて来た事を思ふ事が出来ます。
標の山に人形を立て、其人形が人間の舞人になり、
とにかく、山を立てなければ延年舞の完全な形が備らなかつたといふ事だけは申されます。此山は、ねりもの芸には、非常に執念深く残つて居りますが、舞台芸の上では、痕蹟といへば痕蹟、或は別種のものと言へば、さうも言へ相なものが、歌舞妓芝居に存して居るばかりです。即、高野博士が謂はれる山台の事です。
何故舞台の
今日の花祭りでは、此山を立てる式を行ひませんが、此は、かなり重大な事の忘却と言はねばなりません。恐らく此山は、花祭りに於ては、また複合して、
花祭りで最注意しなければならぬ事は、神楽を改作したとすれば、修験の方式が、其規範になつて居るに違ひありません。だから、舞ひ
神楽の一大事とせられたものは、山についての行事で、凡そ、若衆の舞ふ、三つ舞ひ・四つ舞ひに、直に接して行はれて居たのであります。伝天正・伝正徳・伝慶長以下、六種類の神楽の次第書を見ても、大体、
そして、此行事を、総括して、うまれきよまりと称してゐました。勿論、ゆまはり・きよまはりと言ふ俗神道にも通用せられた、古い語が、其用途と直に聯絡して、生れきよまりと言ふ様な形になつたものと思うていゝ様です。
そして、此行事を行ふものが、山割り鬼で、花祭りの中、最重大な神役であります。たゞ、花祭りでは、山を割るといふ事を主にしなくなつた為に、山をたづねる方面から、山見鬼なる名前が普通になつて来たのだと見てよいと思ひます。
此設楽の一番奥、
要するに三河の山奥には、最初から、単に花祭りだけがあつた訣ではないでせう。色々な芸能を行ふ一種流浪の宗教家が居つて、彼等は時々里へ祝福に下りて来ては、里の趣向に応じた芸能を含んで行つたのだと思ひます。花祭りの村も、最初は、さうたくさんはなかつたのでせう。奥といふのも、最初は里近い処だつたのが、後に、里が開けて行くに随つて段々山奥に這入つて行く様になつたのだと思ひます。たゞ考ふべき事は、高山霊山などいふものがあると、そこへ這入つて行きます。此は、彼等の旅行には、常に一つのめどであつたのです。
只今のところでは全然訣らないのですが、大入は或は古い村かも知れません。三河では一番奥で、殆、遠州領といつてもいゝほどの山奥で、山の彼方には水があります。此は大いに考へねばならぬ事で、山の上の池・滝の水で浄めに来ると言ふ考へは、日本の宗教では大切なものになつてゐたのです。いつの時代か、遊行神人の一団が三河の山奥に屯したのには地勢の関係があると前に述べて置きましたが、境山を下りると天龍の流れがあります。此水が彼等の生活には大切だつたのだと思ひます。
若、花祭りが古いと言ふ事を許せば、先、東に聳えてゐる山々に、根拠を据ゑねばならぬ様です。さういふ点から言ひますと、中心が段々里近くへ下りて来た様で、山内・小林・古戸と下つて来て居るのです。