震災ずっと以前のことであった。今はもう昔がたりになったが、あの小さい劇場の有楽座が建ったはじめに、表に
帝劇の屋根の上に
丸ビルは建った当時はすばらしく大きな洋式な建物が東京駅前に建ったという感じがした。私はまだ建ち終らないうちからホトトギス発行所にその一室を契約した。そうしたら周囲のものが笑って
「和服に靴ですか。そろ/\あなたも洋服を
「ナーニ和服で結構だ。」といったが、心ひそかに危ぶんでいた。
出来上っていよ/\ホトトギス発行所をこの丸ビルに移転することになった。
私自身が何とも思わないばかりか、周囲の人も何とも思わない。(であろうと想像しておる)
そればかりか、春先や秋口になると、田舎の爺さま
「あら上るだ、上るだ。」と傍若無人に口を開けて見ておる。やがて一つ自分も上って見ようと恐る恐る
「下駄の
ドンがなると丸ビルの各事務所から下の食堂めがけて行く人は大変なものである。各エレベーターはことごとく満員で、そのエレベーターが吐き出す人数は、下の十字路を通る群衆の中になだれ込んで、
「
漸く群衆の中から抜け出た私は、やっと食堂の片隅に椅子を見出してそこで空腹を充たす。弁当、すし、天どん、うなぎどんぶり、しるこ、萩の餅、そばなどの食堂もあれば、ランチ、ビイフステーキ、ポークカツレツ、
震災の時、私は鎌倉から横須賀まで歩いて、関東丸に乗って品川湾に
翌朝芝浦に上陸して見ると、右往左往に歩いている男女のそわそわしている状態は、鎌倉、横須賀辺に比べて更に
桜田本郷町を過ぎて警視庁、帝劇の焼けあとを見、いたる所に『すいとん』の旗が出ていて、そこに人が黒山のようにたかっているのを見た。
私はこの『すいとん』に腹をこしらえたことも一、二度ならずあった。しかしこの時八重洲町を歩いているうちに、どこであったかを忘れたが、(否、どこということを十分気にもとめなかったが)ある洋館の
丸ビルは多少破壊しておったが、それでも
丸ビルの地下室の食堂が開かれたのはそれから間もないことであった。群衆は殺到した。その時から食券は前売ということになった。必要に迫られるといろ/\新しいことが発明せられる。群衆の殺到、混雑から、食券の前売ということが工夫せられた。そうして今日ではその事が、こういう食堂の一般の通則となった。
二階の大丸呉服店にも客が殺到した。これより前大丸の店は客が店員より少いという評判であった。震災後になって
その後三越、松屋等が復興してから、又日本橋銀座等の繁昌はもとの通りとなった。しかしながら東京停車場を前に控えた大玄関の丸の内一帯は震災前とは一大変化を来して、新繁昌の中心地となろうとしている。
丸ビルと
大玄関に対して東京市の正門は東京駅である。
朝鎌倉からの私を乗せた汽車が東京駅に
それ等の客の中に一人小さい男の子が交っている。洋服を著て、膝から下を露出して、ランドセルを背負って、マスクを掛けて、チョコチョコとそれ等の群衆の中に交っている。まだ幼稚園か、小学校でもたか/″\一、二年生であろうと思われるのに、誰もついていない。一人である。それが敏活に大人の間をかいくぐって階段を降りる。忽ちその姿は見えなくなる。やがて又第三ホームの山の手線の電車の階段を上っているのを見る。
それ等の客の群衆は改札口に押し寄せる。ぞろ/\と後から後から来る。まだ人の山を築いておるのに、又電車が著く。吐き出す人は
改札口を出た人はそこから四散する。女学生かと見えたのが、改札口の駅員にちょっと礼をしてすぐ右手の構内の駅員室に消える。これはやがてその上に黒のガウンを羽織って礼売りの窓口に現れるのであろう。
乗車口を降りた人は丸ビルと三菱本館の間を通って行く人もある。また三菱本館の前を左に取る人もある。また目黒行、中渋谷行、新宿行、水天宮行の円太郎に乗る人もある。そしてその多くは丸ビルにはいる人のように見える。
丸ビルには一階に百室、八階で八百室、その一室に平均十人と見て一万人近くの人が毎日出はいりするわけある[#「わけある」はママ]。それに食堂、売店に出はいりする客を数えたら大変な人になる。
その丸ビルに吸い込まれる人を横切って自動車が駆ける。その自動車は
今の三菱村がまだ原であった時分、その原の一隅に今の東京駅が出来た。その頃の東京駅はだだ広くって、旅客があちらに一人こちらに一人、駅員も尋ね廻らねば見当たらぬという状態であった。
『こんな広い不便なものを
『折角作るなら、もうすこし広いものを作って置けばいいに。』
そんなつぶやきが聞こえるようになった。
そこで乗車口も降車口もそのはいり口が幾度か改造された。(これははいり口ではないが、山の手循環線が出来た時であったが、そのプラットホームに行く階段が作りかえられた。)はじめ自動車口と人力車口と歩行者口とが区分されたが、それは
が、この頃又乗車口の一部分のれん瓦を掘返して、何か工事をやっているのは何事であろう。聞く所によると、これは荘司が二十何万円とかを鉄道省に寄付して、そこの地下に理髪室浴場などを設けることになったのだという事である。
やがて遠からぬうちに東京地下鉄道のステーションがこの東京駅の前に出来るのだとかいう事も聞いた。それも結構である。又この荘司の理髪店も結構である。併しそれ等よりも東京駅と丸ビルを連絡する地下道を作って、われ等をして安心して門から玄関に行き得るようにしてもらい度いものである。二、三人自動車で
朝早く東京駅に著いて、寒い北風を片頬に受けながら丸ビルに駆け込むと二、三台のエレベーターはもう動いている、八時十五分過ぎ位である。
七階で降りて、懐中から鍵を出してホトトギス発行所のドアを開けて内にはいると、スチームはまだ通っていないが、鉄骨に昨日のぬくみが残っていて何所となく暖かい。
四隣の部屋はまだ静かである。昨日帰ったあとにドアの穴から投げ込まれた郵便物が沢山ある。取り敢えずそれを整理する。それから
便所には女の掃除人が今掃除をはじめたところである。石鹸の汁みたようなものを白い化粧れんがの敷いてある上に流し、ごしごしと磨きはじめる。私はだまって便所の中にはいる。
「おはよう。」という声がする。男の声である。
「おはようございます。」という声がする。これは掃除している女の声である。それから二、三言浮世話をして男は出て行く。小便をしたものであろう。この男の姿は見えないが三菱地所部に使用しているものか、
私はこの便所でゆっくりと用をたしていると、忽ち隣の便所の戸をはげしくたたいて、甲高いヒステリックな声で、
「
上へ
女は寒い時分でも額に汗を流さんばかりに忠実に掃除をしている。かつて当事者の話を聞いた事がある。それは、「この便所も少し油断をするとすぐきたなくなる。不浄を周囲に垂らす者がある。たまには落書をするものがある。又御苦労にも便所につるしてある紙をまるめて穴の中にごし/\突っ込んでいる者などがある。併しそれをとがめるよりも、先に立ち先に立ちしてこちらで清潔にする。そうすると遂にはいたずら心を止めるようになろう。」と。掃除婦の忠実な掃除っぷりを見ると、いつも私はこの当事者の話を思い出す。
朝早くまだ掃除婦の来ない時か、もしくは昼間、掃除婦の遠ざかっている時に便所にはいると正に驚くべき現象を見ることがある。それはどの便所も/\悉く黄色いものがぷか/\と浮いていることである。ただちょっと水を出して流すだけの手数をせずに立去る人の心を考えさせられる。
私はここを出て、再びわが事務所のドアを鍵で開けてはいる。部屋にはもうスチームが通って
やがて集配人が肩に掛けている鞄にはみ出すようにつめ込んだ郵便物を配達して来る。これ等の集配人は丸ビルのみを受持つものであるそうな。この丸ビルには一千に近い事務室がある。これを平地に延べて見たらば先ず一千戸ある町である。それに配達する郵便物は可なりな分量のものであろう。そこに配達する集配人も特別な人を要するわけである。
最前から電話の鳴り続けている部屋がある。そこの事務員はまだ誰も来ないものと見える。
隣室にはタイプライターを打つ音が響きはじめる。
中庭を隔てて向う側のある部屋の窓には人顔がうつる。そこは昼間でも明るく電灯をとぼしている歯医者である。椅子にもたれて歯の治療を受けているものがある。医療器械を掃除している女の助手がある。
その上の部屋の窓はカーテンが下りたままになっている。そこは球突きである。朝遅いのも道理である。
丸ビルの廊下は人通りが多い。この廊下は往来も同じことである。人々は勝手に往来することが出来る。寄付を強要するもの、無心をいいに来るものなどが、それ等の人々の中に交っている。一時、『あめを買って下さい。』といって来る朝鮮人がよくあったが、この頃は余り見ない。
『ネクタイは入りませんか。』といって来る女学生のような服装をした物売りがよく来る。それに何々写真帖とかいうものを買わんかといってはいって来る洋服の紳士?がある。国粋何々会の会長と名乗る長髪の恐ろしい人も来る。それにわがホトトギス発行所に特別な訪問客が来る。一時は七、八人の来客が詰めかけて(それが各々違った種類の来客で)応対に忙殺されることがある。
その中で俳句会を開くことがある。よく
俳句会というと畳の上に座ってするものという習慣であったのが、いつの間にか椅子に腰掛けてするものになった。これはもう十年この方の事である。それに会社官庁のひけ時に集まって夕飯まで(二時間か三時間の間)に会を終るという事は、丸ビルにホトトギス発行所を置いた時からはじまったことである。
ホトトギス発行所でも規定の四時までは事務を取っている。事務員が帰ってから、室の一隅に備えてある畳椅子を取り出し、総計で二十個程の椅子を並べ、この一室は
鉄道協会とか、電気
鉄道協会の俳句会の席上であったか会が終って多少余裕の時間のあった時の雑談に、
「ビルデングの最上層に能舞台を作って、そこで演奏し度いものですという事を観世喜之氏がいったことがあります。」と一人の人がいった。
私は面白いと思ってその話を記憶している。現に丸ビルのルーフなどは広大な場所が
今こんなことをいうと一つの空想談のように聞こえるが、必ずしも空想談ではあるまいと思う。
現にホトトギス発行所がこの丸ビルの一室に陣取るという事は、あまり突飛なこととして、初めは人人の
震災で
それのみならず、この丸の内の各ビルデングではそれぞれ娯楽機関が設けられて、囲碁、将棋、謡曲、和歌、俳句等、各好むところの集団を作って、各々日に何回というように会合している。
永楽ビルデングの最上層は日本間が設けられて、そこに囲碁の音が響き、謡のけいこの声が漏れる。銀行集会所の最上層もその通りである。今建ちつつある電気倶楽部には更に完全した設備の日本間が設けられるという事である。それ等の日本間が鉄骨の建物の中の一部分に存在しているという事は少しもおかしくない。遠からずこの三菱村のどの建物にも必ず存在する事になるかも知れぬ。今はエレベーターで最上層に上ると突として日本間があることが不思議なことのように思えるが、それも暫くの間である。時の流れは不思議なものをも不思議で無くしてしまう。丸ビルのルーフに能舞台が出来たところでやがては少しも突飛なことでなくなる。
夜遅く帝劇を出て有楽町駅まで歩くと、おびやかさるるのは日日や報知の自動車が翌日の新聞を満載して社の中から出て来る事である。各階のどの窓にも電灯が明るくともってその中には人の活動している様が想像される。それをうかうか眺めながら通っていると、警笛を鳴らして忽ち自動車が家の中から現れて来る。それが往来に来たと思うとまっしぐらに走り去る。その自動車に驚いて飛びのくと、今度は人を乗せた自動車が一方からやみを突いて来る。そのやみの中に立っている私は魂をひやしてまた片方に飛びのく。その後ろからも後ろからも自動車が来る。いずれも全速力で来る。夜ふけたこの辺は昼間の雑踏の時よりもなか/\に肝を冷やす事が多い。
その路傍の暗い所に薄暗い灯をともした支那そばの店がある。其店は荷車の上にこしらえられたもので、のれんが垂れ下っている。中に二、三人首を突っ込んでいる。暖かそうな湯気の中にその横顔が見える。
有楽町駅の
有楽町駅に上って眺めると、帝劇の屋根の上には電灯が沢山にともっていて、そこが歓楽の境であることを思わしめる。震災後屋根の上の翁の像が除かれて、特に帝劇という異色を認むるものがなくなったが、夜になると、この電灯が沢山ともっているという事だけでも、せめてそこが劇場であることを思わしめるに足る。
今まで見て居った芝居の事を思うて見るが、何も頭に残って居らぬ。ただ眼が疲労を感じて痛むばかりである。
今から一五、六年前に帝劇が工事を起して、鉄をたたく鎚の音が盛んに響いている時分、私は或人に案内せられてその中にはいって見た。あぶない足場を渡りながら、およそこれが舞台、これが楽屋という説明を聞いた。そうしてそこを出てすぐ隣の女優養成所にも案内せられた。そこで女優の舞踊や芝居のおさらえを見た。森律子、村田嘉久子、初瀬浪子、河村菊江、鈴木徳子などという名を覚えた。それらの人々は何れもまだ二十歳ばかりの娘盛りであった。
それから森律子は同郷の森肇氏の令嬢というので、二、三度逢った。それに鈴木徳子には私の友人が知り合いであったので二、三度引き逢わされた。
帝劇の工事が竣成して花々しく開場した時には私も賓客の一人として招待された。赤いじゅうたんをしき詰めた階段の上を皆が恐る恐る踏んだ。中に物なれた素振りで平気で闊歩するらしく見える人もひそかに靴のよごれを気にした。
「頼朝」と題する新作物(それはたしかには覚えぬ。或は間違っているかも知れん。)は余り面白くもなかったが、それでも美しい建築と、大がかりの舞台装置とは人目をひいた。
外の芝居は余り見ないが、ただ帝劇だけはよく見る。そうして毎回見ている時には、多少の興味を覚えるが、一旦そこを出て表に立つと、今何を見ておったのかさえもう覚えておらぬ。ただ眼が疲労して痛みを感ずるばかりである。そうして自動車に脅かされながら、漸く有楽町駅にたどりつくのである。
京阪地方から上京する旅客は、横浜を過ぎて大森あたりから、漸く帝都に近くなったという感じがするであろう。しかしながらわい小な家屋が乱雑に建っておるのを見ては、これが帝都かという浅ましい感じもまたしないことはなかろう。殊に芝浦あたりからのバラック建や、その間に残っている廃墟のような煉瓦の堆積を見ては、震災のあとのいつまで
それが漸く新橋を過ぎて、わが丸の内にはいるとはじめて面目が改まって、やや帝都の帝都らしい感じがして来るであろう。
比較的宏壮な建築物が整然としてある。今までに見て来たようなわい小なものとは選を異にしている。それ/″\の建物の屋根は大空に
高架鉄道になった今日から見ると、是等の建築の屋根が一番問題になる。それ等の旅人はもとより、日々通勤する人(遠くは逗子、鎌倉より、近くは大森、品川より)の眼を知らず
上野から電車で来るにしても、西も東も見る限りバラック建の中を通って来て、突として丸の内に入ると、はじめて宏壮な建物を迎えて、何となく愉快な感じがするであろう。(宏壮な建物が
プラットホームに立って、顧みて日本橋、京橋方面を見ると、そこにも三越や、三井銀行や、日本銀行や、千代田ビルデングや、第一相互保険ビルデングやが、バラックの中に棒杭のように突っ立ているのが見える。遠からずそれ等の高層建築は垣の如く建ち並んで、わが東京もやがては欧米の都市を見るようになるであろう。丸の内に少しばかり建ち並んでいる建築を珍しそうにいうのも、今暫くの間であろう。
今遠く永田町に建っている議事堂の鉄骨を眺めると、何となく心強いような感じがする。
現在の東京はまだ震災のあとがまざ/\と残っていて、それ等の建築も上京して来た旅人の心を楽しまするには足らぬであろう。けれども汽車が東京駅に近づくに従って、その汽車に或は
明治の三十五年頃、私は神田の猿楽町に住まっていて、
その頃日比谷はまだ公園にならず、草の生えた空地であった。練兵はもうやらなかったが、練兵場の面影がまだそのままに残っていた。和田倉門外も大概空地で、僅かに明治生命と商業会議所と今の一号館と二号館があるばかりであった。三菱ヶ原の四軒長屋と
その頃は品川から浅草迄通っている鉄道馬車があるばかりであった。急ぐ時でも人力車より早いものは無かった。その人力車も梶棒に両手を合わせて、よっちら/\曳く老車夫が多かった。又乗る客も今の様には急がしくなかった、私が内幸町に通う時でも、そこで用事をすませて帰って来れば、それで一日の用事は済んだ。
或時一人の老車夫の
その時分の丸の内はただ暗く静かに、又さびしく物騒な天地であった。夜分などはこの明治生命の前を通ると、向うは真暗な原っぱで、ただ大空に星が輝いているばかりであった。今の東京駅のあたりも闇の続きで、その向うに僅かに京橋辺の灯が見えた。
やがてぼつぼつと家が建って、その四軒長屋の間々が建てふさがるようになって、俗にこれを「一丁ロンドン」と呼ぶようになった。仲通り一帯が建ち並んだのは四十四、五年の頃であるとか。
仲通り一帯の多くの建物にははいり口が沢山ついていて、そして或会社なり事務所なりは、
大正十二年、丸の内ビルデング即ち丸ビルが出来て、この丸の内の空気に一大変革をもたらした。
丸ビルの食堂、売店には沢山の女給、女事務員がおる。それ等には美人が多いとの事であるが私は詳しくは知らぬ。ただ夏になると、六階、七階、八階の洗面所が中庭を隔てて私の部屋から見える。その洗面所には鏡が
熱湯がほしければ湯沸場に取りに行く。お化粧がしたければ洗面所に行く。すべてが公開で何の障壁もない。
夜になると、各階の窓には明るく火がともる。これは丸ビルばかりではない。郵船、海上その他のビルデングもその通りである。三十年前ただ真暗な原っぱであった所が今は灯火の海である。
雨風の烈しい時は、東京駅から丸ビルに行くまでが大変である。大きな建物がある間を風は吹く。殊に東京駅にぶっつかった風は渦巻きを起こして、どちらの方向から吹くのか、見極めがつかなくなる。されば、雨風の烈しかった後では、途上に雨傘の破れたのが打っちゃってあるのを見る事が
雨の日にはカラコロ/\と石段を駆け上り駆け下りるわが高下駄党の多いことは格別である。なくなった高橋駅長が、『あのカラコロカラコロには困る。』とかいったという話を聞いたことがあるが、困ったところで
雪駄もだん/\改良される。丸ビルの一階の阿波屋で売っておるものなどの中には、だん/\小雨などにははいても
必要! その事が種々の工夫ともなり発明ともなり、又ついに新しい調和ともなって現れて来るのである。
丸の内一帯の新文明?はかくの如くして

丸ビルにはいって
室内には仕事に余念がないところへ、人がはいって来る。そうして表は大変な暴風雨だという。成程最前コウモリ傘をへし曲げられそうになったのを僅かにこらえて来た時のことを思う。向うを見ることも出来ず傘をつぼめて横しぶきの雨をよけていると、電車が来る、自動車が来る。漸く命がけでこの丸ビルに
『相変らず吹いているか。』
『滅茶苦茶に吹いている。』
『そんなにぬれたのは傘をささなかったのか。』
『傘なんかさせるものか。』
そういった友達も暫くして、この室内の空気にならされて、風雨の事は忘れ去ったものの如く談笑に余念がない。そこへまた別の友達がはいって来る。その友達もまた風雨になやまされたらしい。また一時暴風雨の事が話題になる。
併しその友達もすぐ風雨の事は忘れたようになってまた談笑に余念が無い。
『まだ降っているだろうか。』
『さあ。』
『もう風は止んだのだろう。』
『そうさなあ。』
暫くしてからそんな事を話しているうちに忽ちピカッと光ったと同時に鳴りはためく音が聞こえた。それは光ると同時に聞こえたのであるから余程近くであろうと想像したが、併しその音はあつぼったいものを隔てて聞くようであった。この鉄骨のビルデングでは雨風の音が聞こえぬばかりか
丸ビルにいると、自然現象にはうとうとしくなる。雨が降り雪が降ること位は、窓ガラスを透しても知れぬことはない。併しそれとても十分にわからぬ時がある。(私の室から中庭ばかりを眺むるようになっているのである。)雨は降っていないと心得て表に出ると、ポチポチと落ちている事がある。
その他雷霆のひらめく時位は漸くわかる。
夕焼けの雲が赤くなっているのは、九階(精養軒のある所)の屋根の上の僅かの空でそれと知る。
従って詩的材料には余りぶっつからない。
鳥さえ余り眼に入らない。
時には飛行機が飛ぶ。その爆音が聞こえるので窓に首を出して見ると、大空近く飛行機の飛んでいるのが見える。
時には飛行船も来ることがある。魚とも鳥ともつかぬようなものが、すぐ丸ビルの屋根の上近くを過ぎていることがある。
鼠がいたのに驚かされた。それは私の部屋では無い。八階に用事があって七階の階段を上っていると、
一階の森永の男が三、四人表に出て、
鼠や蠅は別に詩的材料というのではない。併し蠅は俳句の季題ではある。
私は暫くその蝶を見ておったが、ふと中窓をめぐる各の窓に目を移すと、あちらの窓にもまたこちらの窓にもこの蝶を見ている人の顔があった。
蝶は舞台にある舞姫のように、ただ
私は窓を離れて再び用事に携った。そうして手を離して目をやると、蝶はなお飛んでいた。暫くしてまた目をやると、なお蝶は飛んでいた。
その日用事を果たして帰るべく窓際に立つと、もう蝶はいない。そこにはただ殺風景な事務員の影がどの窓にもあるばかりであった。
雪の降っている日である。丸ビルの七階の事務所の窓によって中庭を見ていると、真白に積っている何のきずもない雪の上に、何か落ちて来て忽ち大きく黒いあとを印した。何事であろうと上を仰いで見ると、九階の精養軒の一つの窓に、白い洋服を著て髪を美しくわけたボーイと赤い帯を締めて白粉を塗っている女給とが笑いながら下を見ているのが眼にとまった。そうしてそのボーイの手にかためられている雪のかたまりがあるのが目に入った。やがて又ボーイの手で雪が投げられる。忽ち中庭の雪は黒くあとをつける。
中庭といっても、そこは売店の屋根になっているところで、丁度丸菱の屋根に当る。
その雪のかたまりは下の雪を破って、黒く売店の屋根が現れ出るのである。
ボーイと女給は面白そうに笑っているのである。
そのボーイは、丁度窓の敷居の前に積っておる雪を、手のひらに丸めてはそれを放るのである。
きょうは日曜である。しかも雪が降っている。時計はさっき十二時を打ったが、精養軒には余り客が無く、ボーイも女給も手持無沙汰なのであろう。そんな事をして遊んでいるものと見える。
そういうわが事務所も休みである。或用事があって私一人出て来ているのである。どの部屋の窓のカーテンも皆下りてひっそり
日曜の丸ビルは淋しい。エレベーターも半数は休んでいる。その動いている半数のエレベーターにも乗る人は少ない。
売店にも客は少ない。
食堂も同様である。かしこに一人、ここに一人という風に陣取っているだけだ。それも多くはそとから来た客だ。元来ここの食堂の客はこの丸ビルに通勤している事務員が多い。それに又近所の会社の勤め人が多い。日曜日はそれ等の客がげっそり減るので淋しい。
九階の精養軒でボーイや女給が雪を投げてひまをつぶしているのも道理ある事である。
丸ビルが淋しいばかりでなく、東京駅も淋しい。遠隔の地方から来る客、又遠隔の地方に旅する客には変りは無かろうが、近郊から来る通勤客は皆無だ。
勤人が細君から命ぜられた買物をして帰るのは丸ビルが最も便利である。そうでなくても大概
それ等の人は日曜日には無い。銀ブラの盛んな時間になると、丸ビルはひっそりとする。勤め人の帰り去った五時頃には売店は大概店をしまうのである。食堂も七時か八時頃には大概戸を閉じる。
丸ビルばかりではない、丸の内一帯がひっそりする。
日曜で殊に雪の日の暮方は淋しい。東京駅にはただ遠方に行く旅客が集まり来るばかりである。自動車の中から寒そうに現れる家族連れがある。外套の襟を立てて重い鞄をさげた客が市電から降りる。それ等が泥濘を踏んで東京駅頭に立つ。
少ない客を載せた円太郎は、雪汗を飛ばせながら景気よく駆けて来る。それが五、六台もたまって黒く雪の中にいるのが目立って見える。
よく新聞を見ていると、郵便集配人が雪にこごえて山の中に死んでおったという話などがある。『あわれな郵便集配人よ。』とそれ等を読む度に
私は郵便物を自分で東京中央郵便局に持って行く事が
この中央郵便局というのは、震災前までも木造の粗末な建物であった。震災後は殊に一夜造りのバラック建である。
表の戸からして粗末である。狭い入口が二つあって、その一つは開けっ放しになっている。沢山の人の出はいりに便宜なようにハンドルが細引か何かでしばりつけてあって一枚の戸が開いている。風がビュー/\吹き込んで寒いだろうが、局員はそんなことには
郵便切手を売る口、書留、速達便を受取る口、普通郵便を受取る口などに分れているが、すべて敏活に無造作に取扱われる。
書留、速達便の前には人の山を築いていることもある。私は速達便など持っていく時は、その山の後ろからポンと机の上に
「たのみます。」というと、局員は他の書留便などを処理している間でも、ちょっとそれを見てうなずいてくれる。そうして、他の書留便に移る寸隙を見て、切手の上に日付のスタンプを
余り無造作なので、あれで無事に配達してくれるかと思う事もあるが、三、四時間の
普通郵便物にしたところでポストに抛り込むように出来てはいるが、そこに一人いる局員に手渡しても受取ってくれる。彼は受取るかたわら地方別にしている。
雑誌などを車で引き込むと、すぐ向うの方で、それが処理されている様子である。
郵便の赤自動車は絶えず裏口から出ている。
万事が
私はこのバラック建の中央郵便局が好きである。たま/\現在の局員が皆いい人なのかも知れぬが、そればかりでもあるまい。矢張り沢山の人が来るこの郵便局は自然
中央郵便局はやがて立派な建築をするということである。そうすれば東京駅頭に又美しい建物が一つふえるであろう。立派な建築が出来たらこんな風に無造作には行かなくなるかも知れぬ。併しわが愛する中央郵便局はどこまでもかく無造作にありたい。無造作にあるように窓口の建築をする事だ。
山中で凍死する集配人にも敬意を表するが、この中央郵便局員にも敬意を表する。
丸ビルのホトトギス発行所で社員が新しく出来て来た雑誌の発送をしていた。二、三人の俳人も来合せてその手伝いをしていた。そこへヒョコッと淋し気な顔を出した男がある。それは近々来るという事がわかっていたので、発行所のものや、その俳人達も暗に待っていたところのものであった。
その男も矢張り俳句を作る男で新潟の片田舎のものであった。それが商売の方が面白く行かないためか、外に理由があってか、今度ブラジルに移住することになったのである。もう近々渡航するという話であった。
「どうしたんだろう。ちっとも近頃たよりがない。」と殊に親しいその俳人の一人はさっきもその
「やあ来たな。」とその俳人の一人はいった。
「大変やつれているではないか。」他の一人もいった。
「二、三日寝なかったせいですよ。」
その男は淋しく笑った。
「いつ上京したのです。」
「昨日でした。すぐ横浜に行って又引返して来たのです。」
「いつ出帆するのです。」
「二十三日です。」
今日から数えるとあと四日しかなかった。
一座のものは皆真面目になってこの男の顔を見た。ブラジルといえばわれ等とは地球の反対の側にある。そこへ
折柄午近くなっていた。雑誌の発送も一片づき片づいたところなので、一同で下の食堂へ飯を食いに行くことにした。
廊下の向うの隅の所に一人の婦人と校服を
「あれが私の家内と弟です。」とその男はいった。
その細君という人はかぼそい人であった。その弟という人は顔立ちがよくその男に似ていた。二人とも淋しそうに突っ立っていたがわれ等が促すままに一同の中に加わった。
食卓をめぐるものは都合で十人であった。
その男に親しい俳人はいった。
「百姓をするのでしょうね。」
「そうです。」とその男は答えた。
それから千何百円とかで二十五町の地面を買ったという事を話した。
「そうすると立派な地主だね。」と俳人は笑った。
「そうです。」とその男も淋しく笑った。以前出京した時分はこれ程までには思わなかったが、今度は何となくその言動が淋しかった。
「君、百姓が出来るのですか。」と俳人はこの男の
「出来るだろうと思います。」とその男は空しく口を開いて笑った。
私はそのかぼそい細君を見た。弟というのも
「何日かかります。」
「五十六、七日かかるそうです。」
「それ位で行けるのですか。」
「喜望峰を廻って行くとその位だそうです。」
「喜望峰!」と一同は皆又男の顔を見た。
「併し五十六、七日で行けるとすると遠いようでも近いものだな。もう少し飛行機が発達すると或は二、三日で行けるようになるかも知れぬ。ちょっと東京見物に帰って来るという事も出来るようになるかもしれぬ。」
「そうです。」とその男も微笑した。
そんな話をしているうちに食堂は人で一杯になった。その食堂の一テーブルはこんな惜別のまどいが比較的長く占領していた。
或日の午後二時半頃から一時間ばかりのひまを得て、丸ビルを出てそこらあたりを歩いて見た。先ず東京駅降車口前に行く。ここに朝のうちは沢山に列を作って客待をしている自動車||ちょっと見ると百台近くもあろうかと思われる||も、今は三分の一位に減っている。
そこに一つの銅像が立っている。正二位勲一等井上勝君像とある。この人はわが国鉄道の初めの長官で創始時代の功労者と聞いている。その銅像の後は広い空地になっている。すでに数年前からここは鉄道省の敷地にきまっていると聞いているが、予算の関係でいつ建つかわからぬらしい。東京駅外が
それから永楽町の電車停留場の方へ行くと、左側のバラックには何とか活動写真株式会社とあって派手な絵看板が沢山掛け
又その何々株式会社とある建物の一室に何とか理髪店というのが
それから反対の側の鉄道の下のガードには、その中に巣くうている店がある。之は浅草の仲見世の売店の下等のようなものである。洋品店、床屋、
ここを通った時の感じは場末の盛り場といった感じである。東京の正門を出る二、三十歩で
それから丸の内ホテルの前あたりで電車道を横切って、朝鮮銀行の横手をはいると、
バラック建の
併しこの諸官省は総て桜田門外に移転される事に内定していると聞いた。諸官省が、今の司法省と電車道を隔てて一所にかたまって立派な建築をするとなれば壮観であろう。
併しそのあとが問題だ。その馬小屋を取りのぞけばあとはそのまま広野である。丸の内は昔からお城とお濠と広野||草原||がある事に相場がきまっていた。矢張り広野のままにして置くのもよかろう。
が、又九階八階のアメリカ式のビルデングが立ちふさがりつつある三菱村の勢力が、ここまで延びて来てこの
東京駅を正門として、丸ビル等を玄関として、それから左翼に延びつつあるビルデング街、また右翼にもだんだん建ち連なろうとする大建築、それ等から推しはかって見るとこの一帯も長く広野としての存在は許さないであろう。
今の丸の内は大きなビルデングが目覚しく突っ立っている。また現に突立ちつつある。八重洲ビルデングだとか昭和館とかがその一例である。けれどもそれ等の外は空地がまだ相当にある。またバラック建の粗末な建物がある。ガードの下に巣くうている小店もある。今の丸の内の文明は先ず新開町の田圃の中に建物がぼつ/\建ちはじめた位の程度である。これを立派な町に仕上げて、新丸の内街を作り上げるのにはなお相当の歳月を要するであろう。
一時間ばかり自動車におびやかされながら私はトボ/\歩いてまた丸ビルに帰った。
十一時半になると丸ビルの地階、一階、九階の食堂が皆開く。一階の西北隅の竹葉の食堂にはいる。まだ誰も客のいないテーブルの一つに陣取る。
ここの壁や柱には万葉の歌が沢山に書いてある。見るともなしにそれを見る。
誰か園の梅の花ぞも久方の清き月夜にこゝだ散り来る
ほとゝぎす来啼きどよもす橘の花散る庭を見む人や誰
天の川霧たちわたり彦星のかぢの音聞ゆ夜の更け行けば
今朝啼きて行きし雁金寒みかもこの野のあさぢ色づきにける
あが宿の秋萩のへに置く露のいちじろしくもあれこひめやも
率直なる感情を高朗なる調子でうたう万葉の詩人をなつかしく思う。柱の下の瓶には薄紅梅が生けてある。その薄紅梅の花を見ると平安朝の大宮人を連想する。ほとゝぎす来啼きどよもす橘の花散る庭を見む人や誰
天の川霧たちわたり彦星のかぢの音聞ゆ夜の更け行けば
今朝啼きて行きし雁金寒みかもこの野のあさぢ色づきにける
あが宿の秋萩のへに置く露のいちじろしくもあれこひめやも
海上ビルデングの建物が行幸道路を隔ててそびえている。すぐ近くには郵船ビルデングの大きな建物がのぞいている。
先刻見た古い地図の事が思い出される。それは寛永、元禄、天保、文化、嘉永等数枚の丸の内の地図であった。
その地図を見ると、古くからこの丸の内は大名屋敷がかず多く並んでいたものと見える。その屋敷も時代時代によって人が変っておるが、ただ変らぬのは鍛冶橋内、即ち今の東京市庁のあるあたりが土佐と阿波の藩邸であったことと今の鉄道省の敷地のあたりが細川越中守の邸であったことである。その他大藩の邸もあるにはあったが大概皆移動している。
わが丸ビルの所は寛永年間に松平新太郎の屋敷に当り、元禄年間は松平内蔵の屋敷と戸田兵部の屋敷に当り、文化年間は溝口駒之介の屋敷に当り、嘉永年間は織田兵部の邸に当っていたようである。
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六十銭のうなどんの食券を女中に渡す。
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その一つの大名屋敷の大いさは今の丸ビルよりはなお大きかったらしい。そうすると土塀か何かをめぐらしたその大邸宅が並んでいたこの丸の内は夜にでもなったら定めて淋しい事であったろう。
その一つの邸のうちには勤番長屋もあったろう。勤番には妻子を連れたものもあろう。又中間若党の
それから又そのいつの時代を切り離して見ても、その時代の人はその時代の文明を一番立派なものとして賛美していたろう。たとえば今博物館内の表慶館に並べてあるような
古き時代の人が持つ誇りは近代人が持つ誇りであり又後代の人が持つ誇りであらねばならぬ。
生滅々為して地上に
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薄紅梅が一輪散った。