意外な夢遊探偵
一方、星田代二と別れた雑誌記者の津村は、殆んど逃げる様にして新橋駅構内を出た。そうして何処をドウ通り抜けて来たか、わからないくらい混乱しいしい銀座の左側の通りをセッセと歩き出した。
けれども、それから人ごみの中を二三百歩ばかり一直線に歩いて来ると彼はハタと足を
······俺は星田を救わねばならぬ。······自分の先輩とも、兄とも、又は一種の保護者とまでも感じて、尊敬していた星田を、鉄のバイトみたようにシッカリと掴んでいる「完全な犯罪」の機構の中から救い出さねばならぬ立場に現在タッタ今置かれて居るのだ······こうして銀座の人ゴミの中をタッタ一人でテクテク歩きながら······
と云ったような感じを受けると、気の小さい彼は、殆んど身動きも出来ない気持のまま、又もソロソロと歩き出したのであった。
······誰も加勢して呉れる者は無い。······否······タッタ一人居る。
······村井······村井だ。······
そう気が付いた時に彼は又も脊髄までドキンとさせられながら立佇まった。
彼は眼を一パイに見開いた。唇をワナワナと震わした。今までよりも更に数等深い鋭い恐怖に襲われつつ、白昼の夢遊病者のようにノロノロと自分の周囲を見まわした。
「日本橋の二〇二〇三······じゃない。本石町の医療器械屋へ······イヤ······本石町へ行けばいいんだ······」
と殆んど夢うつつの様に彼がつぶやいたのと、自動車が動き出すのと殆んど同時であった。彼はクッションのマン中にドタンと尻餅を突いて引っくり返りそうになった。
「······村井だ······村井だ······」
「完全な犯罪」の側杖を喰って、星田以上の恐怖に打ち
「アッ。此処だ」
と突然に叫んだ津村は、それでも五十銭玉を一個、運転手に渡すことを忘れなかった。そうして「医療器械」と大きく「
彼は此処まで来てヤット「此処まで来た理由」を思い出したのであった。
彼は今日の午後一時頃、此の医療器械屋を出て、怪しい男女の乗った自動車を東京駅まで跟けて行く途中で、星田に云った自分の言葉を今一度その通りに自分の耳に云って聞かせたのであった。白地の看板を見上げながら······
「僕はヒョットしたら、是は村井さんのイタズラじゃ無いかと思うんですが······」
そう云って村井の行動の怪しい点を一つ一つに拾い出した時の自分の微苦笑じみた気持までもハッキリと思い出したのであった。
つつましやかな彼は、こうして自分の云った言葉や、他人から云いかけられた言葉をいつまでもいつまでも丹念に記憶している癖があった。だから彼はそれと一緒に、ツイ四日前あの
ところが、そんな潜在的な記憶に心を惹かれていたせいでもあったろうか。何の気もなく「村井君のイタズラかも知れない」と云った彼の言葉は果然、重大極まる事実となって彼の眼の前に立ち塞がってしまったではないか。そうして何でも彼でも此の疑いを晴らさなければトテモたまらない······と云った気持にフラフラと此処まで追い遣られて来た彼自身ではなかったか······。
そう思い思い彼は依然として、躊躇するでもなく、しないでもないフラフラとした恰好で店の中へ
「いらっしゃいまし」
と云うイガ栗頭の中小僧の愛嬌顔と、縞の筒ッポーが彼の眼に映った。しかし空ッポになった彼の頭は、それ以外の事を何一つ印象し得なかった。其処で其の中小僧にドンナ事を尋ねたかすら記憶しないまま又もフラフラと店を出た。
「イイエ。その方は御自分で新聞記者とは
と云う雄弁な中小僧の言葉を片耳に残しながら······。
······村井は吾々を撒く為に此店へ立寄ったのだ。新聞記者である彼が······あんなにまで熱心な態度を見せていた彼が、事件を見かけてコンナに
津村はソンナようなモヤモヤした疑いの雲を、今までの疑いの上にモウ一つ包みかけながら何時の間にか往来を歩き出していた。老人の様に背中を曲げて、眼の前の空間を凝視して、彼の頭の中のように夕霧の立籠めた中からポカリポカリと光り出して来る自動車の
「ハハア。これは村井が出て居る新聞社だな。そんなら、俺は此処へ村井を探しに来たんだな······」
という事実をやっと意識した彼は、いつも村井に会いに行く時の習慣を無意識の
鉄梯子の上の写真製版室から真白い光明が、眼も
「オイ。何処へ行くんだ!」
「アッ。君だったのか······君······村井は何処へ行ったか知らないかい」
「知らないよ。今日は来ない様だがね······何か事件かい」
「ウン。チットばかり凄いんだ。星田が引っぱられたんだ」
「星田······星田って何だい。議員かい」
「馬鹿。この間会ったじゃ無いか。村井と一緒に······」
「アッ。あの星田が······探偵小説の······ヘエッ。
「······そんな処じゃ無いんだ。
「アハハ。初めやがった。モウ担がれないよ」
「馬鹿······冗談じゃ無いぞ。警視庁に居る戸田からタッタ今電話がかかって来たんだ。各社とも騒いで居るんだが、何か一つ特種を市内版までに抜かなくちゃならないんだ」
「村井は居ないのかい」
「チェッ。だから君に聞いているんじゃないか。
「村井はモウ事件に引っかかって居るんじゃ無いかな」
「ウン。そいつもあるね。何とも知れねえ。しかし取りあえず困った問題が一つ在るんだ。そいつに弱ってるんだ」
「何だ······その問題ってのは」
「
「······むろん······見せ給え。その紙を······」
「フーン。······サイアク······オククウ······何だいコリャ······」
「······シッ······
「フウン。どうして······」
「ウン、それがね。
「フーン。しかし夫れだけじゃ特種にならないね」
「だからさ。ヒントなら何のヒントだか、これから考えなくちゃならないんだが、俺ぁトテモ苦手なんだ。こんな事が······しかも此の······サイアク······オククウは星田が村井に伝えてくれと云う意味で、特に村井と心安に戸田の顔を見かけて云ったことかも知れないんだ。戸田自身にソンナ気がすると云ってよこしたんだがね」
「ウーム。サイアク、オククウ······逆様には読めないし······と······サイアク。ダイマク。カイサク。ナイカク。······トクキウ。ホクフウ······わからねえよ。ハハハ······」
「誰か君、星田の懇意な奴を知らないかい。親類でも何でもいい。妻君のほかに······」
「そりゃあイクラでも居るだろう。何とか云う雑誌記者と、いつもつながって歩いて居るって話だがね」
「ウン。その雑誌記者の名前を思い出してくれよ。雑誌は何だい」
「たしか淑女グラフだったと思うがね」
「そいつの名前は······」
「ウン。何とか云ったっけ······ウーン。山口じゃなし、大津じゃなし······と······エーット」
津村記者は全身にジットリと汗を
しかし彼はモウ驚く力もなかった。星田が捕まった事さえも当然の事と思えるくらい
所が、そのポストに手をかけた瞬間であった。彼はハッとして手を引いた。そのポストの生冷たさが熱鉄のように彼の
彼は星田が此頃、極端な西鶴の崇拝者になっていることを知っていた。ことに其の中でも「桜蔭比事」の研究に没頭していて、○○館発行の古い西鶴全集の下巻を振りまわしながら「······ドウダイ津村君······最近、和洋を通じてドエライ発達を遂げた犯罪と探偵小説のトリックのどの一つでも、此の中の何処からか探し出すことが出来ると思うんだがね」と怪気焔を揚げていたことを、昨日の事のように記憶して居たのであった。だから彼は、殺人の嫌疑を受けた星田が、警視庁の裏手で自動車から降りた時にヤット気付いた最後的なヒントを、絶体絶命の思いで村井に伝えて貰おうとした。その物凄いセツナイ努力を、こうした思いもかけぬ方法で、彼自身に受け取ることが出来たものであったろう。
彼は慌てて
||本朝桜蔭比事。巻の四。第七章||「仕掛物は水になす桂川」
昔、京都の町が静かで、人々が珍らしい話を聞き度がっている折柄であった。五月雨の濁水滔々たる桂川の上流から、新しい長持に錠を卸して、上に白い
此処まで読んで来た津村はパッタリと本を閉じた。そのまま宙に吊るされたような恰好で、眼を上釣らせたまま調査部を出て行った。
「これが······これが······種に苦しんだ活動屋の思い付きだろうか······星田の推理した『完全な犯罪』の真相だろうか······これが······これが······」
津村は頭がジイーンと鳴り出したまま、こうした疑いを氷のように背骨に密着させて新聞社の階段を降りた。棒のように固くなったまま眼の前に停止したタクシーに乗り込んだ。