まことに、人間の遭遇ほど、味なものはない。先代片岡仁左衛門を思ふ毎に、その感を深くする。淡々しい記憶が、年を経て愈濃やかにして快く、更に何か、清い悲しみに似たものを、まじへて来るやうな気がしてゐる。
役者なんぞに行き逢うて、あんな心はずみを覚えたと言ふことは、今におき、私にとつては、不思議に思はれる程である。年から謂つても、十四五|六の間、純と言へば純、だが
何でも||当時、加賀の屋敷||西横堀川金屋橋西詰から北、木綿橋の南に亘り、西はおなじ橋から今の電車線路を越えて、ずつと、更に長く西に及んでゐた||確か、堀江「
も一つはつきり、記憶してゐるのが、紺飛白の単衣に、羽織を着てゐたことだ。麦藁帽に羽織は、不思議だが、其羽織に、翡翠の前環を抱いた紐のついて居たことが、今も目に残つてゐる。今になつて考へると、まだせるろいど細工の世間に出ぬ時分だから、全く翡翠の環のおちつきは、見る人の心を動したものだつた。そんな生いきなことまで見てゐる、少年だつたのが恥しい。併し第一、いくら秋に入つて居ても、羽織をはふつて居て、麦藁はをかしい。錯覚ぢやないかと思ふが、どうも此二つが、まざ/″\と印象してゐる。だからどうも可なり、不つりあひの時候になつても、麦藁帽子をかぶつて歩いてゐたと見るより外はない。尤、考へれば役者だもの、人目につくのを厭がつて鍔広の帽子を、放さなかつたのかも知れぬ。今一つ細かな事を覚えてゐる。その帽子がいたりあの麦藁の、編み目の細かなものらしかつた。此帽子だけは、不つりあひに、新しくない感じだつた。そのよごれ加減になつた大帽子をかぶつてる人として、目をひいたものだらう。||そのうち、やつと電車が来た。二人とも南へ乗つて行つたやうな気がする。さうして、其あとの記憶は、もう痕迹も、残つて居ない。私の目にうつゝたのは、その帽子の
此頃はもう、さすが若々しかつた鴈治郎も、似合はなくなつて、縮緬づくめの羽織著物と謂つた風は、やめてゐた頃ではないかと思ふ。が、此二人のこのみの相違は、今かうして考へるとおもしろいが、少年には、其処までの聯想のあらう筈はなかつた。人の服装に心をひかれたなどゝいふことは、私のその後の一生にもあまり覚えがない。渋好みなど言ふことにも、一向気のひかれぬ私である。だが、此時の記憶は、ともかくも、いつまでも残つた。
紺の飛白などを、いゝなと見たのも、此時が初めの終りかも知れぬ。我当と悟つて後、其なり形を見直したのなら、こんな見方もするだらうが、何分まだ子どもである。いきなりすべての服装の調和と、それを破つて、而も再ある調和をとり戻す麦藁帽子||、かう言ふ風をして歩いて居た人が、広い大阪にも見かけることのなかつた所から、目についたものであらう。今もさう思うて居る。電車に入りこんで、私の向ひに腰かけた彼を見ながら、何処かの檀那と言はれる人だらうと思うたのだらう。けれども、何と言ふことなしに、私の知つた、どの大家の檀那にも、類型のないすつきりした||まづ其帽子をとつた顔である。
今思ふと、その鼻である。鼻と脣とを繋ぐ線の張り。其から下脣を越して顎・咽喉へ続くくねり||、目を閉ぢて思ふと、額から
其と又、此は今でこそ考へることだが、江戸風の、よい顔と言ふのとも違つて居た点は、関東好みでは、眉と目とを中心として、あまり明らかな線を欲するところから来る、容貌のこはさまでも、よさの一つの条件にしてゐる。さう言ふ好みとは、全然違つた所を持つて居た。その時の感じ方でいふと、目尻に豊かにあつた皺が、其幾分細めのきれ長の目を、涼しく優しく見せてゐた。髪も、額の辺で幾らか、卑しからず、ちゞれ加減であるのが、何となく緊り過ぎた顔を、しなやかに見せてゐたのではないかと思ふ。かう言ふ風に印象を分解してゐると、よほど後入要素が加つて来て居さうに思ふが、十一代目仁左衛門の素顔を、しみ/″\見たのは、後にも先にも、これ一度と言うてよい程なのだから、其程、記憶の夾雑がわり込んで居る筈はないと思ふ。其だけ古いが、何か新鮮な、真正直な感情が今も残つてゐる。
尤、後年木挽町近くの街路に、
彼の容貌は、町の住民として実に洗練せられたよさを示して居たけれども、舞台顔の下地になる為には、すべてよくまとまつて居て、荒さと、おほまかさと、おもくるしさとが足らなかつた。謂はゞ、よさがてとり早く出て居て、漠としてとり出させ、考へ出させる空虚味ともいふべきものが、欠けてゐたといふ気がしてならぬ。古い印象を中心として、彼の舞台顔に対する記憶を憶ひ返して来ると、あれで、よく大づくりな顔面の役者たちに伍して、圧倒せられなかつたものだと思ふ。だが、歌舞妓顔のまだ衰へず、幾つも残つてゐた時代の舞台に、彼の顔を見ると、何だかさうした点の、濃厚味の足らぬところも、感じずには居られなかつた。たとへば、所謂芝居のぐろてすく味と言ふものゝ、殆ない容貌で、素の感じの強い人であつた。此顔が、青壮年期を通じて、彼にどの位損させたか知れない。あまりに素人らしい賢さが、人に反感を持たせがちであつた。其と、恐しく正反対の芝雀雀右衛門と、一つ舞台に出てゐた例をひいて見てもわかる。はじめは、どうも不調和な気持ちが、とれないで困つたものである。その中、仁左衛門特有の
素で居た顔がしかめられ、又平常の生活以外の何を表現するでもなかつた彼の上体||主として||が、をこつきはじめると、芸の脂が、すつと彼の顔に出て来る。彼の整つた鼻も、顎も、さかしい素人の顔以外の物を形づくつて来る。だが俄然として、時に素人顔に還ることがある。仁左衛門が、舞台に興味を失うた場合である。
世間人としては、整うた顔だが、歌舞妓顔としては、特殊味を持つたと言はれぬ容姿を、よくあれまで、役者のかほ・がらとして使ひこなしたものと思ふ。
此は、鴈治郎・歌右衛門、其から、仁左衛門といふ風に並べて考へると訣る。一番役者らしさの為に、常人の顔としては、欠点の多かつたのが、鴈治郎である。歌右衛門も、素の感じを絶えず起させた人で、常人としての美しさを、ふんだんに、発揮した人だが、舞台人としての顔面要素は、其でも、彼よりは多かつた。
だがどうも、歌舞妓顔といふよりは、も少し別な顔であつた。彼となると、どうしても揚げ幕を歩み出た位では、さうした感じは出ない顔である。花道七分三分あたりへ来て、見えをし、きまることでもあると、其から舞台顔らしくなるが、若し花道での為事なしに、舞台にかゝる様だつたら、素の気分は、舞台まで続く。彼は、故ら長く誰よりも後まで、さし出しを花道で使うた。歌舞妓の約束よりも、かうまでして、彼の顔は早く濃厚味を持たせる必要があつたのだ。所謂「何が何して何とやら」と開き直らぬと、芸が、のりぢになつて来ぬ人だつたと見える。さうまで言ふのは、言ひ過ぎかも知れぬが、気のりのせぬつまらなさうでゐる仁左衛門を、舞台に見ることの多かつたのも、其せゐが多いと思ふ。其だけに、彼はすき好んでをこついた。どうかすれば、臭いと謂はれる、上体を震幅大きくゆする動作で、さうした気分を作る必要があつたのである。だから、彼における限りでは、をこつく事が、彼の芸を特殊化して居た。
さう言へば、近頃をこつく
少年時の記憶で、彼に絡んで、一層はかないものが、も一つある。||私はまだ忘れない。去年の春の焼き撃ちで
前に記した時より又、六七年も前、私は町外れの家から、「島の内」の高等小学校へ通うて居た。一里からもある通学距離を、出来るだけ時間をかけて楽しんで往き返りした。其中には、とんでもない処から処に通じてゐる道を通ることも、人知れぬ喜びの一つになつて居た。今言うた道などは、その中殊に、思ひ設けず発見した道であつた。だが、こゝを頻々と通つた訣ではない。第一この道は、泥つぽく、しめつぽく、黴くさかつた。如何にも侘しく細々とした長い家裏の道だつた。恐らく三四度とは通らなかつたと思ふ。併しその内の一度、まう少しで阪堺鉄道||南海線の旧名||前に出ようとする露地の中程で、壁の切れ目から、庭へ出て行く道のあることに気がついた。ちようど逆に、停車場の方から這入つて半町ほど来た辺であつた。ひよつと覗き込んだ目と同時に、足が踏み込んだ庭らしい所は、やはり黴くさい、
其時か、其より前か、或はもつと後にか、そんなことも覚えて居ぬが、此が小松島屋の屋敷だ、と聞かされた。今におき果してさうだつたか、誰にも糺して見ようとすることなしに居る。其にしても、此家は、どちらから這入つたものやら、入り口の向いて居た方角も知らずにしまうた。私の覗いたのは、切り戸口といふやうな処だつたのだらう。が、此屋敷以外の地面は、やはり酒屋か、醤油屋か、味噌・漬け物屋か、さう言ふ醸造商の納屋のやうなものが、とり廻してゐたのではないかと思ふ。竹屋町の学校へ通うて居た頃だから、まだせい/″\十一・二の頃に違ひない。もう芝居は見はじめてゐたが、我当は、見てゐなかつたかも知れぬ。唯何となく、この屋敷の裏から窺うた経験が、そのあるじだつた優人に、違うた興味を感じさせたのは事実だ。さうして、其後いつまでも、此訣の訣らぬ印象が、私の仁左衛門観の上に、翳をおとして来たやうに思はれるのも、妙である。木綿橋の行き逢ひに、何だか不思議な親しみを覚えたのも、そんな事が、関聯してゐたのかも知れぬ。
あまり個人的な何の足しにもならぬ幼な話をし過ぎたかも知れぬ。||が、もつと親しみを感じてよい鴈治郎よりも、彼に、其を深く覚えるのは、どうやらかう言ふ事が、関聯してゐる様な気がしたのである。
其外に思ひ出せば、尚一度、舞台外の彼を見てゐる。何でも、新橋演舞場のひどく閑散な、夜の事であつた。錣太夫か誰かゞ、
此三度の遭遇を聯ねて考へると、何となく彼の一生の一部を、断片的に見て来た様な気がした。だから、此楽しげな様子を見て、彼のよい
ところが、数日後の
彼は少くとも、東京の役者の間では、義太夫の語れる、聞きわけられる人としては、先輩であつた。近代では、その右に出る者はなかつたらう。彼も其は知つて居たゞけに、単純な、よい気になり易い彼は、其を何の気なく顔に出した。さうして、人に厭な気を起させたり、迷惑がらせたりした。其は、中年時代も、老年に及んでも、やまなかつたと見てよい。
だが又其だけに、浄瑠璃は深く読んでゐた。さうして、作中の人物々々を其々舞台の性根に訳して、行き届いた解釈を持つてゐた。
戯曲としても、単純化のよく出来、一幕物として綜合の行き届いた物を、可なりよく探求して来た。其には、彼を指導した人々があるかも知れぬが、教へられたゞけでさうなれる性格でもなく、又独創を喜んだ彼だけに、自分自身の発見も、多いのだらうと思ふ。事実実際に語つて、知つた彼なのだ。||さうして見ると、「桜鍔恨鮫鞘」の鰻谷も、「紙子仕立両面鑑」の大文字屋も、語り物としては名高いものだつたが、舞台には、彼の発意で移されたものだつた。其から観音霊験記の壺坂も、さうだつたと記憶してゐる。一段とり出して見ると、一幕物としての綜合のよく出来た、段物浄瑠璃が、よくあるものである。之を可なりよく、知つて居た彼である。又、ひいき客などで、彼にさう言ふ語り物の上演を、奨める人もあつたに違ひない。わりあひさう言ふ事には、虚心坦懐で居られたらしい彼であつた。
彼の擁護者を想像して見ることは、彼一代の芸風と、生活とを考へる上に、楽しい暗示となるだらう。大阪の檀那衆の大通と言はれた人々が、若い彼に、明るい色々な境遇を見せたに違ひない。東西を通じて、他の優人には、遊びぬいた人たちも多かつたらうが、皆どうしても芸人としての境を越えなかつた。彼ほど通人らしい、風格を持ちとほした者はない。併し、遊所には、俳優の遊興を喜ばぬ風が、明治時代までは、続いて居た。だから彼の如く遊び、彼の如く拘泥なかつたのは偏に、彼の擁護者の、引き廻しによるのである。彼の富んだぱとろんたちは、まづ彼を導くに、大通の生活を理会させる所から初めた。此が彼の最特異な風格を作るのに、役に立ち、同時に生得の気むつかしさを愈発揮せしめた。江戸期の優人にも、内々乍ら通人の生活を学ばうとしたものもあつた。だがさうした気位を保つて行くことは、彼等を表向き遮断した社会の制裁が、許さなかつた。東京になつて、芝居町以外に住むことが自由になつても、彼等は脱しきれぬ役者臭を持つてゐた。かう謂つては、言ひ過ぎだと思ふ人もあるだらう。が、彼だけである。ほんたうの通人らしくふるまひ、心底通人となり得たのは、我当も三十代に達してからの事であつた。
年代で言ふと、明治二十年以後のことである。私などはまだ生れたばかり、呼吸し初めたばかりの大阪の町には、まだ、昔の町人中心の空気が満ちて居た。江戸の町の町人の代表者と言へば、蔵前の札差であつた。其から見ると、おなじ町人でも、ずつと高い富と、深い為来りとがあつた。鴻池・泉屋||住友・加島屋・天王寺屋、少し低いところで、銭屋・島屋・千草屋などのあるじの、謂はゞ町人貴族の暮し方が残つて居た。幸福な我当の経験は、大阪風の丸持粋人の生活の一部を体得したことであつた。さうして、前後何年かの江戸生活の与へた江戸通人の気分が、之を洗ひあげた。鴈治郎が、紫縮緬の
併し粋人だの、通人だの言ふのは、一つの生活態度で、其を立てとほすだけの資力が必要であつた。其上、時に其態度と反対になる現実生活の、皮肉な方面のあることも是非のないことであつた。併し大体において、仁左衛門一代を通じて、壮年時代に擁護者から授つた此生活法は、保ち続けられてゐたやうである。
曲りなりにでも貫いた彼一代の正義観も、其から間々見当違ひを交へて居た、愛敬ある主張も、笑殺はせられても、軽蔑を受けなかつた。偏癖な行動も、皆彼を憎みきらせなかつた。其ほど、彼の持つて居る善良で、上品な稚気が、ものを言つたのである。我がまゝではあつたが、威張るのではなかつた。
新作の大石内蔵助で、横身で三味線を爪弾き乍ら、狐火前唄か何かをうたつて居た、ずつと後の彼の舞台を見て、此人が居なくなれば、此ほど適切な大石を見ることが出来るかしらと思つたことであつた。我当時代から仁左衛門になつて後まで、かうした生活を、身につけた彼である。彼一代の教養は、此点を主として考へられてよい。此が他の俳優になかつたものである。成程かう言ふ点で、彼が堀越秀なる団十郎を凌がうとしたのも、頷かれる。つまり此教養を自負したのであつた。
完全な粋人は、相当な資産を擁して居なければ、其立て前をとほすことは出来なかつた。彼の擁護者は果して、何人であつたか、ほんの一二人のほかは、まだ私には訣つてゐない。当時まだ生れて居なかつた今の我当君なども、大体は聞き知つて居るだらう。其中、当代の松島屋に見識りが出来れば、此は是非、教はつて置きたいと思うてゐる。彼が為たい様にふるまひ、思ふさまにものを言つても、生活に、大した破綻を起させなかつたのは、この安定の上に立つての自由であつたのである。彼の擁護者は、異常な通人を作る為、型変りの優人をつくり上げる為に、彼にまづ資産を作らせたものと見ねばならぬ。だから仁左衛門の財産を整理し、更に若干の富みを分与した人があることになる。彼に、布引炭酸水の泉源地を買ひ与へた擁護者があつたことは、古くから聞いてゐる。彼の財産状態は、如何なつて居たかは聞かぬが、其が、唯の金持ち役者と違ふ所のあつたことは、確かに注意せねばならぬ。
併し親から伝へて、更におのが子に引き渡した長い役者渡世の間に、整理すべき財政状態に、立ち到つたこともあらう。若い頃の彼は兄我童と、相当に流離の苦しみも重ねた。之を整理してやつた何人かの厚意が思はれる。殊に晩年の綺麗な身の
最後の舞台になつた忠臣講釈の喜内を勤めるまで、非常に長く休み、又、其後も久しく舞台を見限つたやうに出なかつた。さうして唯、甥我童の子の改名口上の為に下つた大阪で、風邪に罹つて死んだ。まづ此ほど、さつぱりした死に際も少いと言へる。子や孫の身の立ち行きを案じて、ちよつとでも、息のある中に、粒立つた役をつけて置かうと、其ばかり考へたらしいのは、歌右衛門である。不自由なからだを何時までも、すわりきりに、板についたまゝの舞台で勤めた僚友を見て、彼一流の冷笑を放つたこともあらう。「早うやめをればえゝのに」と。或は、歌右衛門のゆき方が、むやみにみじめに見えるのに張り合うて、彼は舞台に出ぬことに快さを感じたかも知れぬ。まさかと思ふほどの心持ちを、表現することのある彼だから、かう言ふことも、考へられる。
根が役者のことだから、根柢の修養として、芸能一通り心得て居ねばならなかつた。其中でも、第一義の位置にあるものは、上方では舞ひ、江戸では踊り、謡ひ物・浄瑠璃・三味線に、その他の囃し、此等は役者の持つべき舞台知識の根拠になるものであるので、ある点まで之を備へなくては、歌舞妓役者としての、資格を欠いたことになる訣だ。彼が、義太夫に通じてゐた事は、疑ひもない。が、実際どの程度の語り手であつたかは、私には訣らぬ。彼の自慢の芸を、私の耳で聞いて訣る年に達した頃は、もう彼にも、自慢らしくは、語りひけらかす時が過ぎてゐた。
大阪を離れて、東京に永住するやうになつて後も、萩の茶屋の辺に、広い地面や家作を持つてゐて、其からあがる収入が、彼の生活を気楽にさせて居ると聞いてゐた。此なども、さう言ふひいきの紳士たちの好意が、遥か後に、幸福な実を結んだものと思つてよいのであらう。萩の茶屋と言へば、元の今宮
先に述べた馬車の話だが、一度は、確かに新しい「歌舞伎座」の新築後だつたが、一頭立ての馬車に乗つて、目の前を通り過ぎた、のどかな彼の姿を見、彼の馬を見、幌をはねた車体を見、彼の車の別当を見た。一時は役者仲間でも、此が相当にはやつたものらしいが、其があまり重くるしく、古風に見える感じから、誰一人せぬやうになつても、彼はなか/\やめなかつた。寧、誰もしなくなつて、彼の得意は愈加つて来たらしく思はれる。
馬車の行く先が、木挽町でなくて華族会館の玄関でゞもあるやうな気がした。彼もたしかにそんな幻想を
彼の想像する世界は、何時も、有洲成人に扮した彼の居る谷間姫百合時代であつた。
同年輩の芝翫が、こぶし||小杉天外作を戯曲化したもの||の女主人公で、諸肌脱ぎで湯を使ふなど言ふ自信深い舞台を見せた時すら、谷間の姫百合は既に、歴史になつて居た。其でもまだ彼は、「姫百合」よりも前の天覧芝居を、大阪で聞いてゐた印象を忘れなかつたのである。其だけに、彼の空想は、大きかつた。天覧芝居三年後に興行した有洲成人の姿が、彼の一生に、そのまゝ張りついてしまつたものと言へる。かう言ふ彼だから、生活の上に、二時代三時代前の姿を固執してゐたのである。
卅八年、おなじ芝翫が、東京で、河合武雄の君江||乳姉妹||におしかぶせて、同じ役をした直後、大阪では延若延二郎の昭信、雀右衛門芝雀の房江を相手に、彼は君江をした。芝翫のは見なかつたが、当時東京側の評判では、河合よりも容色において、遥かに君江らしかつたと言はれてゐた。芸の上でも、時代遅れの感じられる所はなかつたらしい。大阪の君江(仁)は、私も見たが、どうも明治末期の華族の娘ではなかつた。極めて古風な芝雀の房江が、君江の旧式なのを目立たせなかつたにも繋らず||。どうも此は、時代に対する勘が、彼に乏しかつたといふよりも、彼の思ひが、明治二十年代初期に釘づけになつてゐた為であらう。
ともかく彼は、早く東京において檜舞台を去つて、中島座に立て籠つた。鼻の先に迫つて来る明治廿年代の時代感覚を満す様な芝居を、とあせつて居た。さうして、色んな新作に手を染めた。此なら、やつて行けさうだと、自分も信じ、人もさう言ふ彼を認め出した時分になつて、急に又大阪へ引き取つた。世は、明治十九年、年は三十に達してゐた。昔かたぎの人間だけに、三十歳といふ年齢の価値を深く考へたことであつたらう。大阪における彼の周囲にも、新しい芝居の機運は、動いてゐたのだが、離れて見る東京は、更に激しい時の潮流に乗つてゐるやうに見えた。翌年四月の天覧芝居も、天外の孤客のやうな侘しい感動を、彼に与へて過ぎた。其時「忠臣蔵年中行事」の内蔵助・三平の外、弁天小僧・保名などを、大阪・京都で打ち続けて居た彼は、定めてやるせない気がしたことであらう。
彼は、遠く咲く
だから、此に近いと思はれたものを二十年三十年代の彼は、始中終模索してゐる風に見える。さうして、其に当りさうなものは、新派役者等の演ずる演目の中にありさうな気がしたらしい。やつと逢著したのが、卅八年三月の「乳姉妹」である。異色ある女形を見せようと言ふ考へよりも、彼一人にとつては、もつと深い原因があつた。其を察し得た者はなく、皆その、妙に
野州無宿の富蔵や、盲兵助に、舞台の生きがひを覚え乍らも、心は常に明滅するものを忘れることの出来なかつた我当の白蘭の愁ひは、誰が、之を感じて居たであらう。