戦災死と言ふ語は、侘しい語である。積る思ひを遂げることなく過ぎ行く、といふ義が伴ふとすれば、此ほどやる瀬ないことはない。だが、国難に殉じたと言ふ、一部聯想の悲痛なものがあつて、その側からは、我が傷ましい
大阪に第一次戦災のある日までは、夢にも思はなんだ彼の最期である。それほど、役者の生涯といふものは、浮世の中にも、浮世と言ふに、最ふさはしいものであつた。而も、私如きが之を
大阪
それにしても
かつら巻をかけた優な面ざしでも、さすがに「勘当場」の延寿のつくりで仆れた梅幸は、一代濃艶の印象を、一挙に寂しくしたと惜しまれたものだのに、この女形の不運は、歌舞妓役者だけに、一しほ侘しい。引窓のお早も、河庄の小春も、鏡山のお初も、菊畑の皆鶴姫も、一等近くに見た道行の静御前も、皆遠く、雲煙に隔てられたやうになつて了うた。さうして樽屋伊助や、椀久の番頭や、「つゞら折り」の何とか言つた手代や、凡わびしい役の方が、彼を思ふにふさはしくなつて、長い美しい印象と入れかはつてしまつた。
その際、思ひの外に、死者の数へる程よりなかつたことは、大阪の町にとつて、何と喜んでよいか知れぬ位、不幸中のしあはせであつた。併し、その幸に洩れた僅かの不しあはせな人の中に、魁車のはひつて居たことは、忍び難いあはれである。
中村鴈治郎過ぎて後の
明治四十年頃に、一度廃業を思ひ立つたことがあり、事実また稍長く、彼の舞台を見ることが出来なかつた。其が、彼の芸に脂がのり出し、彼の芸に
容姿うるはしく、輪廓の整ふのは、歌舞妓役者には、通例既に深く頽齢に踏み入つた五十歳頃からのことである。此事は、舞台よりも現実の真を示す写真像の上にすら明らかに現れる事実なのである。殊に女形にとつては、頂上に達すると同時に、凋落が来るものである。桜の真盛りのやうな、なごり惜しさの深いものがある。六十歳に近づくと、どんなに美しく、豊満な輪廓を持つた女形でも、まづ

立役は六十に入つても、尚舞台顔に凋落の現れぬのが、普通である。女形ほど輪廓が、問題にならぬからであらう。たとへば、中車などは顴骨の高さが煩ひして、早く輪廓の衰へは兆して居たが、その彼の白粉の著きのわるい
源之助なども死ぬる直前まで、何年間か、本役はさせられなくなつて居ては、端役には惜しい||
魁車の容姿と、役柄との関係を、こんな辺りから考へて見たかつたのである。舞台顔の話に身が入り過ぎた気がする。が、物心ついてからの事をふりかへつて見ると、私は上方芝居に、真女形で、女武道を本役とする人を見た覚えがない。と言つてはわるいかも知れぬ。明治の璃寛などは、正に其人であり、先代梅玉も、橘三郎も、正に其に当る点が多かつたし、魁車の一足前を歩いて居た多見之助
魁車自身が其に当るものだが||、唯一番近い実川

おなじ女武道の範囲にあるものでも、萩の方や、
上方は、可なり前からさうだつたのではないかと思ふ。が、明治初年頃からの歌舞妓芝居の著しい傾向として、東京・大阪の芝居の世界に共通した事実のやうに思はれる。東京にしても、幕末以来、立役の女武道進出が、頗、目につくやうになつてゐる。併しかう言ふ真女形畠の役ばかりでなく、立役の領分として、敵役にも、和事にも著しく手を拡げて来てゐる。明治三十年代までは、真の意味の立女形を亡失した時期と謂ふ見方をして、さし支へないのでないかと思ふ。大阪で謂つても、嵐三右衛門等の立女形の後を受けたと見える実川正朝は、今謂つたやうな有様である。東京では、岩井・瀬川衰滅の後、大いに我慢を発揮して、東西の立て物を苦しめた田之助の突出も、此真女形消滅に瀕した時勢に対する反抗と見るべきであらう。彼の対抗力は、辛抱立役中の辛抱役春藤次郎右衛門を出すまでに、つゝぱつて来たのである。上方から女形と、女形芸の輸入を続けて来た江戸劇壇も、江戸末期には、其も飽和状態になつた。だが、発音や語気に到るまで、女形はわけて上方の言語表情を忘れまいと努めた。江戸式の演出が、すべてに完備して後までも、言語だけは、訛りを恐れたのである。併し江戸
当人が死んで、桂屋の
魁車は女形であり、真女形であり、疑ひなき師匠鴈治郎の女房役として世間一般が見てゐた。誰よりも、仕打ち白井氏以下がさう見て||此は役者にとつて大事な事実||ゐた。だが師匠鴈治郎は、必しもさう見てゐたとも極らぬ。第一、魁車自身、さう決意して居たとは思はれぬのである。我々が、役者の身分を立役・敵役・女形・道化などゝきめて来てゐるが、役者自身、其きめを何処まで、心に持つて居たかゞ問題である。なる程、帽子や、振り袖や、髪の形で、女形なることの自覚は、はつきりして居たであらうが、逆に立役の方になると、限界を何処において居たか、年がいつてこそ役柄ははつきりするが、過渡期の若役者||娘形・若衆形時代||を考へると、さう截然たる区劃が感ぜられた様にも、吾々には思はれぬ。其上、兼ねる風が行はれて来、然る後、更に、女武道併合が盛んになり、引き続いて、明治四年八月の断髪令となる。立役・女形の境までも、此が及した影響は考へられる。いやそんな外的な事だけでなく、もつと内的な原因もあつた。
かうした芸格破壊の気運の熟しきつた明治十四年、鴈治郎に入門してから、役者社会の道を見とほして来た。溝の側に近い鴈治郎

先代璃寛は、此宗・延両人よりも、十年近く生き延びた。彼にとつては、声変りの期間も過ぎ、芸に欲も出、最近お早を勤めようと言ふ頃まで居た人だから、同座した節だけも、目に留めて見ては居たであらう。唯質や品、第一体質から違ふ彼、幾ら成熟せぬ年頃でも、既に特殊なものを持つた筈の彼である。璃寛の影響が、彼の中核を作つたとは言へぬ。私にしても、芝居を見はじめたらしいのは、
大体芸質・芸格に通じる所が尠くて、こんなにまで芸目が一致するのは、芸境の近いことを意味してゐる。芸境は、体質や、容姿の、外的条件に関係するだらうが、此二人の場合は、そんな点では、可なり懸け離れてゐる。だから其外にも、芸境近接の理由はあるのである。つまり此人々は、女武道を可なり強く本領としてゐる。さうして、此と相応に関係の薄い方へ薄い方へと、役柄を選択した。つまりは、女形に見られる芸境に留りたくなかつたのである。だが女武道を中心として、
何しろ、思ふ存分に役を選ぶことの出来た璃寛である。彼の芸目を見ると、魁車のしたかつたらうと思ふ役が多い。此優れた後輩が演ずれば新しい境地を開いて行きさうな役がうんとある。元々、立役も立役、書き出しで通した璃寛だが、立女形の格も、芝居社会で認められ許されて居た。だから芸目でも、葛の葉を筆頭に、お初・岸姫松のおそよ・金比羅利生記のお辻・お三輪・玉手御前・毛谷村のお園・皿屋敷のお菊・三荘太夫の鶏娘・白石噺の信夫・紅皿欠皿の欠皿・月笠森のおきつ。ちよつと挙げて見ても、魁車の持ち役でもあり、彼にあてはめて想像して見るだけでも、どんなに適切だらうといふ感じのする芸目である。
而も同時に璃寛は、早瀬伊織・桜丸・梅王・神谷
璃寛には亦、覚寿その外の婆役があつた。此も、彼は完成せずじまひになつた。が、近年初演の伊勢物語の小よしが良かつたと言ふから、此方面も有望だつたのだ。恐らく今、最乏しい花車形の中、殊に品位を要する覚寿や微妙は、魁車のものになつて行くのではなかつたかと思ふ。小よしは難役だが、技巧栄えのする気のよいものである。気のわるい処のある、二十四孝の勘助母よりは、輝虎配膳の越路の方で、成功しさうな魁車である。あの気づよ過ぎる処は、
大阪役者の立て物の中では、最世間を知り、又最聡明だと噂せられてゐた魁車自身も、東京の先輩成駒屋・音羽屋に学んで、女形中心時代を作らうなど言ふ夢を描いたことなどは、なかつたに違ひない。又寧、彼の賢明からすれば、さうした考へ方は、空想に過ぎないものとしたことだらう。彼だとて持つた将来の夢の為には、立役畠に深くきりこむことも考へられた。これに関しては、外にもつと大きに考へねばならぬ。
立役方面でなくとも、定高や萩の方や、政岡や、重の井や、篠原、又、時姫・八重垣姫などが、始終恣に、自分の持ち役として実現させることの出来る位置にゐる彼だつたら、歌舞伎座・帝国劇場の技芸委員長の持つたやうな自覚に住し得たかも知れぬ。が、彼の門地は、相当に低く、又師匠の脇役・女房役以外に、出し物や立て物らしい役の選択が、自由に出来る訣がなかつた。立女形としての位置が強固でなかつた彼及び、彼よりも更に立女形らしかつた雀右衛門・梅玉すら、||彼もさうだつたが||延若と組んでこそ初めて立女形らしくふるまひ、出し物もした。
其に、競争者の問題があつた。徳三郎の璃寛は、先輩として、門地も、容貌も、優なるものであつたが、あまり無邪気な役者気質や、後立てが手をひいたり、又無力だつたりした為に、魁車の為には、目の上の瘤ともならず消えてしまつた。今の仁左衛門元の我童は、徳三郎璃寛と立ち場から、行き方まで似てゐる。親類とて、争へぬ気がする。東京へ去らねばならなんだ、先代我当仁左衛門の薄い影ばかりもたよつて居られなかつた。正義派であり、気持ちの自由自在に変化する我当仁左衛門は、実の甥だからと言つて、溺愛を続けることもなかつたし、又未鍛煉の技芸に目をつぶつて相手役ばかりをさせてくれる人柄でもなかつた。
我童は音楽家としての天分は相応にあつても演劇に不向きな芸術家であつた。不幸にして、舞台は、彼自身を興奮させなかつた。俳優としては、常に気のり薄い舞台であり、昔から相当な努力家であつたに繋らず、其効果は散文式なものしかあがらなかつた。謂はゞ九文払つて九文しか収めることが出来ない人であつた。本領の演劇にはまことに不幸な素質を持つて生れた人であつた。おなじ芸能でも、演劇に近いもの程彼の巧者な芸術境から遠のいて行く。声楽・音曲には、其方の技芸者に転向することの出来る腕を示して居乍ら、舞踊になると、其程ではない。だが、其なら、延若・梅玉が音曲・舞踊において、彼だけの伎倆があるかといふと、彼の得意とせぬ舞踊だけでも、延若・梅玉にはむつかしい。魁車が、皆より一日の長を持つてゐたばかりである。魁車は仕舞を修練したと言はれる点において、其舞踊に根柢がある訣である。富岡鉄斎翁に愛せられたのは、此方面の才能が認められたのだと聞いた。我童がかうして彼等の列から落伍したやうに見えた。ところが思ひがけなく、外国の航空機が著陸した様に、彼らの直前に姿を顕したのは、芝雀雀右衛門の返り咲きであつた。どうと言ふ原因もないのに、明治四十年頃における、雀右衛門の人気失墜は、ひどいものであつた。娘形以外には、もう伸びぬ役者として、甘く見られ出してゐた。尤、大抵の女形は、壮年期から初老期にかけて、此苦しみは通るのであつた。人気があればあるだけに、その人気のよつて来る役柄を突破して、新境地を開くことが出来るかどうかゞ問題とせられる。若衆形では、さう言ふ問題は自然に解消するが、若女形は常に、そこに苦しみがある。現に魁車の東京時代における先行者であつた市川米蔵の如きは、外に隠れた事情の為に退いたと言はれるが、当時は技芸の将来を悲観して、娘形ばかりの舞台を退いて、振付師になつたものと謂はれた。最近の松蔦なども、やつと娘形を突破出来さうだといふ処まで来て、不治の病ひで、起たなかつた。其雀右衛門が偶然東上して、謂はゞ最癖の多い、上方の特殊性を感じさせるやうなこうせきや顔・動作でおし通して一作は一作毎に隆々と評判をあげた。東京の当時の劇通の未知の領分にどし/\入り込んで、驚かしたといふ所に理由があるのだらう。さうして、「千鳥」の珍しさや、娘形本領を一挙に揚棄した「玉手御前」の成功、新開拓などの出来ぬと思はれてゐたのに、「お種」||堀川波の鼓||を而も内面的に描破した実力、瓢箪棚のお園で満悦させ、色々の赤姫で、品格や器量以上に、芸で開く領域を認めさせた。何と謂つても、珍しい出し物と、珍しい演出と、其に会うたり叶うたりの芸質・体質、かう言ふものが、鑑賞の熟しきつた東京の批評家に、一々発見せられて行つた為であつた。当時の批評家の腹を割つて言へば、彼の技巧力は、歌右衛門の気分、梅幸の新表現主義と対立すべきものと認めてゐた様である。歌舞妓芝居が、さうした技術を第一義とするものとすれば、雀右衛門が、女形技芸の古典における第一等と言ふに傾いてゐたと謂つてよい。
容色がうら枯れて益成熟を感じさせる宗十郎の娘方を、比較にとつてもわかる。正しい骨法を伝へてはゐるが、其は正しい輪廓描写で、白抜きの法帖である。だからきめの細やかさを得ることは出来ぬ。やつぱり雀右衛門の真女形ぶりのよさが、懐しく思ひ出される。
雀右衛門の前型としては、鴈治郎が、上京する毎に、大阪の団十郎と囃され、人気の嵐を背負つては還つて来る。一度は二度、二度は三度と、鴈治郎に対する郷土の尊敬は高まつた。彼の死ぬる日までの位置は、其できまつて行つたのである。雀右衛門は、其より小型であつたが、大阪人は愕然として、雀右衛門を見直した。近年思ひ棄てた此優人の技芸を、又その顔を、その声を······。中には正当な評価によつて棄てた欠点迄も、新しく玩味し出した。魁車や、梅玉のやうに、更に幾拍子か揃うた真女形も、芝雀の負うて帰つた此評判の為には、圧倒せられずには居られなくなつた。だから福助は、鴈治郎が女房役として引き立てなかつたら、此為に相当みじめな地位に立ち、出世ももつと遅れたことだらう。が、父梅玉との長い提携の手前もあり、又元々其間には、裕福な梅玉に深い義理を負ひ、その義理を忘れなかつた松竹会社双子の両仕打ち||此両人の後年の大きな成功も、此水商売の水商売たる興行師には、珍しいこの人情を体面としたところにあつた||のとりなしが与つて力もあらうし、鴈治郎にとつては、舞台上の最高顧問格に、先輩梅玉を持ち続ける為には、この高砂屋の息子をひき立てる必要はあつた。随つて、上方芝居には珍しい程、
其前には、まだ鴈治郎独り天下の形が、こんなにはつきりして居なかつた。其に魁車等も若かつた。鴈治郎の晩年には、雀右衛門先んじて亡せたが、二人の女形は健在である。其に、延若が居る。さうなると愈、三人の中、東京に居著いて、帝都の劇通に認められたものが勝利者となるのだといふことは、三人ながら訣つて居たに違ひない。見す/\さうした有様なのに、三人が三人とも、東上はしても一年と居著かずに下阪する。此は、鴈治郎の後の天下は、大阪に居残つてゐる者の手に落ちるといふ気が離れなかつたからでもあり、又ひいき連衆や、関係者が
明治三十二年九月、東上して、先代左団次一座に入つた彼は、明治座々附として、「後の
魁車の方は翌年六月には、本蔵左団次、小浪米蔵、戸無瀬升若、力弥小団次、由良助権十郎の九段目に、おいしを勤めてゐるが、二番目の「夏祭」には、琴浦を持ち役としてゐる。さう言ふ役割りに統一のないのを見ても、大体の待遇が察せられる。だがおいしを受けとつたのは、彼の役どころの、既に東京でも認められてゐたことが訣る。卅四年四月には、小団次の横山太郎に浅香をした。当時の彼には大役乍ら、恰好の役である。さのみ評判に上らなかつたのは、不思議な気がする。翌卅五年一月には、左団次の知盛に、碇担ぎに出る重忠を勤めてゐる。五月の「扇屋熊谷」には桂子である。小萩は米蔵。時々儲け役を受け取つてゐるが、其役きりで、他は端役であることが多かつた。だから、彼の身分は、何時までも定まらなかつた。その間に、真砂座・宮戸座にも出ることがあつたが、結局五年辛抱して、三十六年四月興行の大塩騒動に与力八田又兵衛を勤めて後、其年一ぱいに大阪へ還つたやうである。若し、明治座の座運が栄えて居り、座主左団次の事業と健康とが続いたら、彼も、もつと東京に踏み止つたらうし、従つて、彼の進みは想像以上だつたらう。
明治座は、六月養育院寄附興行に、川上一座の「江戸城明渡」「まあちやんと・おぶ・ぶゑにす」で開けた後、座主左団次は、東京座へ出勤して、年内、明治座は休業した。座主名義者との入りこんだ経済関係による。此為、成太郎も此まで掛け持ちして居た宮戸座・真砂座に出て、十一月に到つてゐる。五年の在京も、錦を着て故郷入りをするといふまでの成績をあげなかつたことは、魁車一代の運を定めたやうでもある。だが優人として、色々な経験を得たことは、座が、左団次の改革興行直前の明治座であり、又二代目左団次の旗揚げを鼻先に控へた時期だけに、後々の彼の内界に印象する所が深かつたことは察せられる。併し、何よりも、彼の得た所として、躊躇なく挙げることの出来るのは、新しい劇に対する理会と新戯曲・新演出の情熱であつた。
若い成太郎が帰意稍動いたと思はれる前後、大小二様の事件が、彼の心を衝撃した。一つは、五月に高砂屋福助父子上京の事があつた。福助||後、梅玉||主役の日蓮記、双蝶々のおせきに、廿四孝狐火の人形遣ひ、政治郎||現在梅玉||の日朗・八重垣姫で、市村座を開場した。興行成績は思はしくなかつたさうだが、当時殆水の出端と言ふべき盛りの政治郎の、八重垣姫の美しかつたことは、伝説のやうに言はれてゐる。六月の鏡山・伊勢物語などに、政治郎は色奴・井筒姫・信夫、福助はお初・文字摺り小よし等である。子役時代から肩を並べて来た政治郎の花やかな舞台に対して、成太郎の胸の中を想像すると、かきむしられる様なものがあつたに違ひない。この父子が此後何年か滞京するといふ、ふれこみであつた。彼は、どうしても還らねばならなかつた。
それに今一つ、大きな事件が来た。此年二月、菊五郎が亡くなり、九月には又団十郎が死んだ。独り舞台になつたと謂はれた左団次も、やがて死ぬべき影の薄さを見せはじめた頃である。十月の歌舞伎座興行は、新しい顔揃へで、芝翫・梅幸・羽左衛門・八百蔵等の上置きに、我当を迎へた。成太郎は此興行に、役名一つを列ねてゐる。表面ある事を唯あるまゝに送り迎へたやうに見える芝居の世界にも、去就に迷うてゐる一青年俳優の身とすれ/\に、驚くべき移り変りが過ぎた。前年来勢猛に東京の各座に進出して来た新派は、益旧派の本城に迫つて来たやうに見える。川上音二郎等と歌舞妓役者との接触が、色々な意味において、目立つて来た。成太郎は、かう言ふ東京の劇界の動揺を見て、大阪へ戻つたのである。
大阪は大阪で、角の芝居から移つて、朝日座を根城とした新派の「成美団」が、そろ/\日本中の壮士役者へ指令する様な勢を見せてゐた。斎入右団治が角芝居に、鴈治郎が中芝居にと謂つた風に、当時道頓堀の櫓々は、梵天幣を立て列ねて、盛つてゐた。が、新派の煽りを受けることが多かつた。前年鴈治郎・我当共に新派風の芝居を演じもしたし、此から後も其をくり返さねばならぬ時勢になつてゐた。不如帰の時代化した書き物や、新派の台本そのまゝの乳姉妹に、この近い二人の巨頭が、骨を折らねばならぬ時だつたのである。成太郎は、単身加入をして、初枝(月魄)に成功して、一挙に新しい役者の評判を得た。歌舞妓役者が新派芝居を演じることは、存外やさしいことだつたのである。今日になつて見れば、新派芝居も、歌舞妓の一分脈だつたと言ふことが知れたが、当時はなか/\其見とほしがつかず、別殊の演劇のやうで、旧俳優にとつては、手の出かねる所もあつたが、一度手をつけて見ると、明治初期のざんぎり芝居と、性根において大体かはらぬことが、はつきりして来たのである。大阪では延若、東京では稍遅れて勘弥、この二人が、とりわけ新派狂言では、新派役者以上の腕を示したこともあつた。女形では、成太郎一番、東京で之に次ぐもの、先代秀調。
魁車・梅玉、両人ながら後年に至るまで、娘形が得意でなかつたのは、不思議だが、これは事実である。娘形から女房形に出抜けるか出抜けぬかゞ、女形の運定めである。其を二人乍ら、初めから超越してゐた。娘形の中、
唯はたち未満にして町女房が完全につとまり、人を承服させた稟質は、まことに此には痛し痒しであつた。五十過ぎてから、寺家の悟りのやうに胸の蓮華が闊然と思ひ開けて、十五・二八の娘の性根を体得する事になつた。福助の与兵衛にお亀で卯月の紅葉を出した。此頃から魁車の聡明に、天稟の美質が誘ひ出されて来たのではないか。つまりあきらめと言へば其までだが、争はずして自ら至る境地である。勿論高砂屋の息子の持つて生れたよさが、彼にさう譲らせたのだらうが、福助の上へ出ようといふきほひは見せなくなつた。かう言ふ心に住しはじめた彼は、芝居の世界に曾てなかつた驚くべきおぼこ娘を表現することが出来るやうになつた。此きつかけは、ほんの偶然でないかと思ふ。此が彼の五十過ぎての創作である。年表が出来てないから確かなことは言へぬが、引き続いて、さうした嫁入り前の娘を表現し出した。新作の伊左衛門の妹、恋の湖の半兵衛いひなづけ娘など、どうかすると、あまりおぼこ過ぎはせぬかとまで思はれる娘を創造した。
芝居休みに手のすいて居た鴈治郎が、魁車・福助のお亀与兵衛の見物に来て、歎息した。「うちの成太郎も、今まで、なんでこの娘形になる気がつかなんだのやろ。もつと早う気がついてくれてたらなあ||。とにかくえらいことやりよつた」。あの所謂「八方」であり乍ら、又容易に人をゆるさぬ男が、弟子に対してはよく/\まことある此語を吐いた。思へば当時幼稚な三十代の我々見物も、こんな娘は、歌舞妓芝居では初めて見ると言ふ気がした。其ほど真実、娘形の創造であつた。巫子町の黒格子を出て来たお亀の姿が、三十年過ぎた今も目にちらつく。巫子屋敷で、世間馴れた箱登羅の巫子を相手に、十分世間知らずの娘を描いた直後である。むつかしくても、巫子の
其癖、世間で想定してゐた娘盛りは遥かにさう言ふ領域を飛び超えて若かつた。お半も、お七も十四か十五かの少・成女の年境が問題になる娘であつた。文学・非文学に現れる娘の標準年齢は二八であり、稍長じた所で、お十七お十八は、民謡の上の盛り年であつた。つゞやはたちと謂はれるのは、嫁盛りの年頃を表す語であつた。此等は、多少文学と民俗との間を行く娘の年齢であつて、実際はまだ十五や十六では、娘の花時ではなかつた。だが、民間文芸の畠を行く芝居の娘は、どうしても十五六七の娘の感覚を表現すべきであつた。だが文学の娘も、演劇の娘も、表現は、実際年齢より遥かに長けてゐた。さうして、唯数へ年を十五|十七といふばかりであつた。だから二十女、時としては三十女に近い、女臭い女が舞台上の娘であることが多かつた。此は、女形の扮する娘の特徴でもあつた。而も幾つになつても、未婚の娘形については、浄瑠璃では、いつも死ねば賽の磧で塔を積むとくどきにのつてかたつて居る。一口に芝居や人形の娘と謂つても、かう言ふ重ね写真で出来てゐる娘なのである。其に、男優人が演じる約束の上から、又いろ/\の条件が加つて来た。お半は、色気が彼女の悲劇の源なのだが、之を封じるが為に子どもになり勝ちだし、信夫||御所桜||は、色気ぬきなるが為に、大どころの女形の役にはならぬ。今一つの信夫||白石噺||は、肝腎のしどころは、悲劇の娘と言ふ種子が、道化の花に匿されてしまふ。余は推して知るべしといふのが、芝居道の娘である。色気が出すぎ而も売人の色気になるのが宿命的な歌舞妓の処女なのであつた。其点において町女房にして亦色町女のやうに、文五郎の人形に表現せられるのである。彼のお亀の色気は、確かに在来の歌舞妓の娘の媚態ではなかつた。ともかく娼婦の情感を全然ぬいてゐた。かう書くよりも、舞台を見せたい気がする。性格の発見と謂はうか、個性の創造と謂はうか、一つの類型を初めて立てたと言うてよい娘を「卯月の紅葉」のお亀において、彼は描いた。近松の原作で見ても、もつと女臭い、娘らしくないお亀に出来てゐる。その後、此種の幾つかの彼の娘形を見て、お半を魁車で見たいといふ気もした。彼ならば、梅暦の言ひなづけ娘お蝶も、立派に立て物の娘らしくしようし、又特殊な性根も発見したらう。「岸姫松」のおそよや、「伊勢物語」の信夫なども、もつと純な娘として新しい領域にとりあげて来ることが出来たらうと思ふ。
ともかく彼の顔、からだ、爪さきから爪さきに行きわたつてゐる敏感と
自然描写無視を本領とする様にすら見える型物の世界||当時鴈治郎一座は殊に古典に泥んでゐた||へ戻つて来た浦島の様な彼、東京演劇界の変動に呆として、静かな大阪芝居に来て耳鳴りがやまなかつた彼に対して、意地くねわるい芝居者の社会では、響きの応じる様に、成太郎の一挙一動を、新しがり、破壊者として伝へたであらう。其が、相応に長く、師匠の心までも衝撃した。新しい劇・新しい脚本、それに新しい性根を持つた役、見て還つたばかりの明治座の
京の顔見世で、日露戦争第一年は暮れた。此興行にも出た「召集令」と言ふ狂言は、その四月大阪中芝居へ書き卸したものである。際物や、新派芝居は、彼の芸道良心を幾分慰安してくれたでもあらう。元々高い教養を持つた彼でないから、表は其でよかつたらうが、内界では、さすがに芸術家である。まやかし物と、真物とを鋭く、識別したに違ひない。だから、新作へ新作へと、彼ほど渇望を露はに示したものは、当時なかつた訣である。其間に時がたつて、史劇・文学物の書き直し、さうした物が、見物の好みと知識を探り/\出て来た。「玩辞楼十二曲」選定前後から、鴈治郎の興味が、新作や、書き直し物に深く傾いて行つた。固定した倫理観を寓するによい戯曲を物色し初めた。根がこの弟子よりも、更に教養低く、殆道義感覚を欠いてゐるかに見えた師匠が、碧瑠璃園||渡辺霞亭||と提携して後、低いは低いながら、其処を立ち場として、人生の表現を深めて行つた。徳目に対する考へ方は浅くとも、実践すること、又其を芸術的に表現することは、如何やうにも深くなるものである。果ては其を意識して標榜するやうになつたが、舞台では、倫理観から自由に生活してゐた。かうして段々新作に手を染めるやうになり、古人の名作は名作として、其精神を為活す様になるし、今人の凡作にも、人物の性根を優人の敏感を以て、思ふまゝに解釈を加へ、又勝手ながら表現によつて深めて行く。さうした事の為には、妥協の望まれる作者が迎へられた。個性の強い優人ほど、此傾向が激しい。たとへば現在菊五郎の如き、概論的には誤つた態度だが、芸術や、人生から謂へば、畢竟演劇を活す道程は、戯曲きりに完了するものではないから、一等責任を負ふべき
師匠が、次第に二番目物・中幕物とも言ふべき短篇に書き物を欲するやうになつてからは、彼の久しい望みも稍達せられた形をとつたが、同時に、彼も年少気鋭の時期を、いつか経過して居た。もつと鋭い物を求めて居た筈だつたが、何と理論的にとり止めたものでもない。唯「勘」を以てした役者らしい新時代に対する渇望が夢の様に過ぎて、存外平凡な形におちついてしまふ事も、思へば、不思議はないのであつた。伝統の歌舞妓と橋渡しの杜絶した近代劇をつるべ打ちに興行した二代目左団次は、彼の手本と謂へば謂ふべき人である。彼は、左団次よりは、此頃既に芸格は進んでゐたし、其質も高かつたのだから、もつと違うたものを感じ望んでゐたかも知れぬが、其は、彼の認識に上つて来る筈のない境地であつた。左団次が松蔦を女房役とする事半に止めて、縁故ある魁車を迎へなかつたのは、事情はあつたかも知れぬが、左団次一座の芸の進歩の上に、大きな物を逸した気がする。鴎外準門下の人々の史劇並びに近代作物中に新主題を求めて書き直したと謂つた作物は、自然、
かう言ふ点から見れば、彼は解釈力も相当にあり、其に対する表現力も十分に備つてゐた事になる。唯彼の芸格から見て訣ることは、表現力が優れてゐる為に、解釈力が深まつて来たと言ふことである。
一体彼の女形は、どんな型物の女にも、必一種の新演出||と言ふより、新しい工夫を加へずばやまぬと言ふ気風を見せた。寧型を棄てようとする努力のやうにも見えた。此は明治座数年の経験と、新派特別加入の閲歴から来たものと言ふべきものかも知れぬ。おえん||梅川忠兵衛||や、お庄||河庄||のやうな、よく/\手の入れ方のない端役めいたものなら知らぬこと、其すら棄てぜりふや、思ひつきのこなしのやうな処に、何か変つた動きをつけて居ねば、気のすまぬと言ふ処が見える。批評家と言ふ目の上の瘤のない世なら、彼はきつと在来の幾種の型を無視して新演出ばかりで行つたに違ひない。其に、師匠鴈治郎のつきあひに註文の出ることがなかつたら、きつとある点まで、よい新建設もし、又驚くべき違算をもしたことゝ思ふ。彼は道頓堀復帰以来、すこし鼻につくほどの新しさを放つてゐたのである。其が、よくもあしくも、久しく後年の指標となつた。而も、其が著しく成功し、すべてから異存なく迎へられたのが、お亀以来の新娘形なのである。役に対する自在な理会と自由な演出とが、型のない役柄にはまりきつて、さうした表現に真に廻りあつた思ひをさせたのである。実に四十年近い舞台上の女性生活の機が、熟したのだと謂へる。
新演出といふよりも、彼の身を以て描いた自己の生活追跡の結果であつた。彼の久しく
恐らく魁車の身に近く、さう言ふ婦人の現れた時期のあつたことが思はれる。さうして、いつか精神を以て模倣するやうになつた。さう言ふ事になるのでないか。
ところが、お亀以後には、女房役にも、其女性が頻々として現れた。「あかね染」のお園の場合は既に述べた。七段目のお軽などには、平右衛門とのめぐり合ひに、誰よりよい
美しくて、気さくで、しつかり者と謂つた性根を持つた女が、彼の女形に対する通念になつてゐた。併し此は実は訂正せねばならなかつたのである。批評家は其を怠つてゐた。彼の発見した娘を、うつかり見過したのだつた。さうして、彼の女性を、常にその立ち場から見続けてゐた。私は終に見ることの出来なかつたのを悔むが、双蝶々の米屋の段、長吉姉おせきなら、歴史上の名優||手近い処に先代梅玉の名高いものがある||の繰り返したよい演出を重ねても、彼をうち
吾々の悔ゆることは、魁車の表現によつて、完全に発見具象せられたいそしい日本女性を、もつと考へ深めなかつたことである。「九つ梯子」から「あるぞえ、あるぞえ」の耳打ちの
唯、近年一力のお軽の後半は、極度の写実が、芸格に煩ひを見せた。癪持ちの女を写生したと見えて、まだ/\きれいに見える容貌殊にさうなつても、生きいきしたよさに徹した頸筋の動脈なども、美しさは美しい乍らに、写実のいやらしさを感じさせた。此写実精神は、元禄期の優人においては、さいさきのよい日本演劇表現史上の発見ではあつたが、其後如何に久しく、優人の芸の為の手足纏ひとなつたことか。精神病・吃音の写実に努めるのも、胃痙攣時の表情を模倣するのも、もつとよい理会の上にたてられた描写でなくてはならぬ筈である。彼が新しく生きようとする意図が、いつまでも啓蒙的な写実をふり棄てさせなかつた一例である。
彼の芸は、初中期には、悪質な非難者を却けるに十分であつた。此はよい事であつた。芸があるべきまゝの正しい姿に伸びて、良い素質が素質のまゝに発育するからである。だが伸びるに随つて、全然彼の進歩を唆る批評だけと言ふ訣にはいかなくなつた。彼の演劇の成績のあがるに連れて、点が辛くなつたのである。だが一半は、常に、彼の如き表現技巧の自由な優人にあり勝ちな此写実癖が、人をけぶたがらせるのである。おなじ写実主義の人でも、延若の場合は、うかめたり、をこついたり、踊つたりして、写実を空想化する中和手段を、適度に用ゐた。さういふ技術にかけては、彼の河内屋は実に能才である。此は、極端な写実技工に、必伴ふものであつて、殊に上方風の二枚目芸には、其が、特に発達して居た。立役の芸にも勿論其はあるのだが、ともすれば、役柄として、滑稽に見えるのを避けて、どうも写実一方に流れて行つた嫌ひがある。唯型が、多くの場合に救ひになつて居た。女形の場合にも、望むことの出来るのは、型の助力である。写実は実生活への復元であつて、演劇の純なる衝動への復帰にはなり難いことを考へねばならぬ。魁車の場合、あれほど正しい「演劇復帰」の軌道にのり乍ら、又あれほど
彼の発見した娘が、結局極めて個性的であつたと言ふことが出来る。写実の到達する境地は、著しく個性的なものである。此は一見普遍要素を欠くものゝ様に見える。が、芸の精髄は、発見者自身の方法により、その表現により、その身体発想によつて、はじめて表出せられるのであるから、個性的であるのが、当然なのである。だから場合によつては、之を普遍化するのに、著しく低級な飜作を行ふことがある。さうなると、其段階に到るまでに、新発見は再、影を没してしまふことすらあるのである。
今一面、彼に新しい平俗性へ逸脱しようとした方面がある。先に述べた三枚目風な役を演ずる時の彼である。謂はゞ樽屋久八型の愚直と、卑賤と、善良との並行する性根である。
此方面は、彼一己にとつては発見ではなかつた。あり来りの解釈で書かれたものを、あり来りに演出するばかりであつた。だが、彼においては、柄を殺し、表出を変へる必要が切実にあつた。併しおなじ類型と言ふでふ、かうした役には、彼は先輩の芸を思ふことが多かつた。卯三郎であり、璃

卯三郎や璃

樽屋伊助も、卯三郎が演じて、後魁車のものになつたと思ふが、卯三郎は立役よりも、少し脇役めいた||おせん役者に対して||心得を以て演じたやうである。立役で演ずる筈の魁車の伊助が、やはり脇役の腹と、悲喜劇らしい性根を以て演じたのは、後方は正しいが、前者は、先輩の芸を尊重し過ぎた為の誤算であらう。璃


椀久の幇間は、此等の影響から脱して、魁車独特のものを出し、批評家にも認めさせたものだが、さうした加役が認められる程、批評家から彼の芸才が呪はれ、何でも屋として、彼の将来を杞憂したことであつた。だが彼の既に成熟した人であつたことが忘れられてゐたのである。一つは、彼の女形が、真女形として専門を固めて居るらしく見えたからである。女形として認められ過ぎて居たことを意味するのである。
いつまでも
君の手の魁車を見給へ。まだ世に出ぬ青い鳥を、抱きすくめたまゝ、あの世へ行つてしまつたのである。